大人の都合と沙汰の音
「帰りたくないって言ったら……どうする?」
誘えば断らない男は、サングラスの向こうで目を丸くした。案外瞳の大きい彼が瞬きを再開させるのに然程時間は掛からなくて、ただ——少し困らせたかもしれない。アキラはそう思う。
だけれども、実のところ、アキラは彼が困惑する様を見るのは嫌いではなかった。
(むしろ、好きまである……かもしれない)
かあと頬が熱くなる。まだ、このくらいの時間ならば夕暮れのせいにできるが、肌が白い自身の顔色の変化を察されると分が悪い。何の分だって言うんだ? アキラは心の中で自問自答する。とにかく、今、顔に出ては敵わない。
(かもしれないなんて、自分に言い訳しなくても良いだろう……)
さて、アキラの突然の申し出に、相手は何も返してこないままだ。
もしかしたら聞こえなかったのかもしれない。頬の熱も疎らに散って、言葉が相手に届いていない予感さえしてきた頃、アキラはもう一度声を掛けた。
「えっと、ライトさん……?」
アキラの目の前で、ライトは二、三度ばかり瞳を惑わせた。それから、かちっとサングラスを上げる。
(うーん……)
アキラの思惑の通り、目の前のイケメンはどうやらまんまと困っているようだ。
「……片割れが、心配するんじゃないか?」
「……僕にだって、そういう夜もあるよ」
連絡の一本でも入れてやれば、リンは安心することだろう。アキラが街を駆けずり回っていれば帰らない日くらいあるし、彼女もそれを把握している。
かと言って、その帰りたくない夜のことを事細かに説明するのは……ムードが無くはないだろうか?
「……帰りたくない夜に世話になるような相手がいるのか?」
おや、とアキラは思った。
仕事の内容や雑務を伝えることを怠ったが故に選んだ曖昧な言葉ではあったが、それがどういうわけか、少し妙な伝わり方をしたらしい。
(これは……しくじったかな?)
そのまま、探るようにライトの瞳を覗き込んだ。
(それとも……)
アキラよりも歳上と思しき目の前の彼は、なかなかどうしてからかい甲斐もあるから心が躍る。
「生憎、僕のはそんなに色っぽい理由じゃないんだ。ライトさんには、そういう相手がいそうなものだけど……」
アキラの言葉からふいと視線を逸らし、背中を向けた男のマフラーが、藍の中ではためく。
「……ブレイズウッドに妹と借りてる小屋があっただろ。送ろうか」
その布切れをつまんで引っ張ってやれば、アキラの言葉に対する答えを得ることができただろうか。
「一緒に過ごしてはくれないんだね」
それに、答えも教えてはくれないんだ。
ライトのマフラーの代わりに、そうして呟き溢しそうになった自身の唇を摘んで、アキラはふーむと唸った。
知りたかったのかもしれないし、知りたくなかったのかもしれない。
(僕は素直に、違うと答えたのにな)
些か意地の悪い言葉を選び過ぎただろうか。
前の通り、アキラはライトが困惑する様を見るのが嫌いではない。だから、あえて擽ぐるような言葉を選んでしまう。そんなことは頻繁にあって、且つ、その時のライトと言ったら、大抵は照れ隠しを挟んで許してくれる。
それに、相手が困惑するような返しをするのは、ライトだって似たようなものじゃないか。アキラだってカウンターをよく食らう。お互い様だ。
それでも、選択を間違ったのかもしれない。
バイクに跨ったライトが、アキラを振り返る。
「気温が下がる前に戻ろう。店長に風邪を引かれちゃ、いろんな方面に申し訳が立たんからな」
「大丈夫。案外、僕の体は丈夫なんだ」
不思議そうな顔をしたライトが、とぼとぼと歩み寄ったアキラの頬を撫でる。
革のグローブの感触に、思わずびくりとした。
「どうした?」
「どうしたって……? 何もないけれど……」
ライトの手の下には、何か、アキラからは見えないものがあるのだろうか。不思議に思って首を僅かに傾げる。
「子供が拗ねたみたいな顔をしているぞ、プロキシ」
一言一句、バカ丁寧にそう言われて、アキラは思わず息を飲んだ。
「そんなことはない……」
否定を返したことを、少し後悔する。これではまるで、図星を指されたみたいだ。こんな子供っぽい面になど気付いて欲しくなかった。触れて欲しくもなかった。
それが相手に伝わってしまったのか、ライトがきょとんとしている。その顔は普段とギャップがあって愛らしいが、アキラは何となく居たたまれなかった。
暫くして、ライトが口を開く。
「その、なんだ……俺も、感傷に付き合わせるような相手はいない。特に、俺みたいなのを相手にするのは、面倒だろ」
咄嗟に「そんなことない」と言いかけたアキラの口の前に、ぴっと人差し指が立てられた。
あまりに突然のジェスチャーに、アキラはつい寄り目になってしまった。慌てて瞬き、その指の向こうのライトを見る。
「だが、あえて付き合わせたいと思うなら……あんただな」
「ライトさん……」
「今日は、何も準備出来ちゃいないんだ。自分の住処も人を上げられるような状態じゃないしな……俺も、帰らない夜なんていくらでもあるんでね……ああ、勘違いするなよ。あんたみたいに誘い上手じゃないから、もっぱら一人で彷徨いてるだけだ」
随分と流暢にぺらぺらと話し出したライトの後ろに跨り、アキラは彼の腰に腕を回した。
「決まった相手は今のところ」
来た時と同じようにぎゅっとしがみ付くと、ライトが口を止めた。
「……今のところ、いない」
「……ずるい人だな、貴方は」
砂塵の匂いと、熱を吸った革の匂い。それから——急に流れ込んでくる冷えた風に、アキラはぶるりと身を震わせる。
荒野の夜は、恐ろしいほど早足で近付いてくるものだ。
「何がずるいもんか」
「ずるいだろ。あんなやって指名しておきながら、これから僕を一人ぼっちにしようとするんだから」
「どっちが。そういう誘い方は、あまり行儀が良いとは言えないな」
そんな風に肩をすくめたライトに、アキラは静かに息を吐く。もう少し密着した方が良いかもしれない。本当に冷えてきた。
「ライトさんがずるいから、僕も少し試したくなってしまうんだ。だから、僕がずるいのは貴方のせいだと思う。行儀だって多少は悪くなるさ。ここは郊外だしね」
バイクにエンジンの火が点る。暗がりを走るために灯されたヘッドライトの先をちらりと見て、アキラはもう一度ライトの背中にしがみついた。
「それとも、行儀の悪い僕は嫌いかい?」
「あー……プロキシよ。俺を試すようなことをするの、あんたくらいだぞ……」
お得意ののらくらとした口調のままでそう言われて、思わず笑みが溢れる。
「そうかな? ライトさんが気付いてないだけじゃないのか? 貴方は、色んなタイプから放っておかれなさそうだ……」
「まぁ、しかしだな……」
「誤魔化した……」
走り出すのだと思い、反動に備えて更にぎゅっと力を込める。けたたましいエンジン音の隙間に、アキラは聞き捨てならない言葉を聞いた。
「やっぱり、夜に二人きりってのは暫くダメだ。遠慮する」
「まだそういうことを!」
風の中で声が届くように声を張る。そんなアキラの文句が届いているのかいないのか、ライトは「ははっ」と声を上げて笑った。
「じゃないと、あんたの全部、根こそぎ強請っちまいそうだ」
え、と言葉に詰まる。見えている背中からはその言葉の真意の欠片も窺えず、アキラはただきゅっと手を握った。
赤いマフラーが風に靡いて、まるでそんなアキラの姿を笑っているようだった。
(ライトさん相手ならそれでも構わない……なんて返したら、どんな反応するんだろう)
こんな、声が伝わるかどうかも怪しい状況で言葉にすることは躊躇われて、アキラはとんとライトの背中に頬を当てるに留めた。
最適のタイミングで最高の効果を発揮するためには――そのためにはまず、自分の顔に集中している熱を散らさなければならない。
熱が少しでも相手の男に移るようにと、アキラは彼の背中に頭を擦り付けた。子供っぽくても、どうか勘弁して欲しい。