Baby you can


「この星中、歩き潰したと思ってたんだけど、案外そんなことないよね」
溜め息混じりに言うヴァッシュに、ウルフウッドは呆れたような調子で返した。
「何言うてんねん。ワイはそないに長生きしとらんわ」
「いや、そりゃあそうなんだけど……」
だから、これは僕の話で……と言い掛けてやめた。
首からぶら下げたラジオが、ごちゃごちゃと何かを喋っている。砂塵の舞う道すがらでもこうしてサテライトの放送を聞けることには感謝をしていたが、今のヴァッシュとウルフウッドにとって、そのノイズは実にどうでもよいものだった。辺りの風景と似たようなものだ。
「何百年もあると、そらぁ星も一周二周できるのかもせぇへんけど」
「何百年も歩いてねえよ。仙人か俺は……」
「それでも、ワイらからしたらアホみたいな年月やろ。似たようなもんや。そんなん、何百も何千もおんなじや」
相変わらず呆れたような声色で言うウルフウッドをじとりと振り返り、ヴァッシュは口を尖らせた。
「何千までいくか、何千なんて」
ラジオがガミガミとした内容に変わった。確か、この番組は最近できたやつで、新しいロックバンドの曲を流し続けるやつだ。
ヴァッシュが、ころころとチャンネルを回す。静かなクラシックに耳を傾けながら呟いた。
「例えばね。何度行ってもわからないこともあるし、何度か行く内にわかることもある。それが何十年も経った後だったりするけど、俺は嬉しく思う時もあるし、悲しく思うこともある。でも、結果的には良いことなんじゃないかって思うわけよ」
「ふうん」
「なんだよ、興味なさげだなあ」
ふーっと煙草の煙を空に向かって吐き出し、ウルフウッドは言う。
「ジジイの昔話なんて、そんラジオとおんなじやて」
「さっきから失礼だな、キミは……。大体、これは昔話じゃなくて、僕の経験と実体験から来るさぁ……」
「ほんで?」
「ええ?」
どうでもよさそうなくせをして、結局聞き出そうとしてくるウルフウッドとのやりとりに、ヴァッシュは、ぺっと唾を吐く。背後でウルフウッドが「きったな」と呟いた気がしたが、今は無視した。たまには悪態だって吐きたくなる。
「で、なんだっけ……そうそう。その体験とか経験がさ、記憶を更新していくんだ。この星に知らないことがなくなる日がくるんだろうかと、僕はその度に思う。だから、案外歩いても歩いても終わらないなぁと……」
「はあ、くっだらな」
心底くだらなそうに言ってくれるウルフウッドに、ヴァッシュは今度は本人に唾を吐きかけてやろうかと思った。しかし、それは流石に下品なので、荷物を投げつける用意をする。
「そんなもん、ぜーんぶ知ったら、本当に神様にでもなってまうわ」
振り返って、荷物を振りかぶったところでウルフウッドがそんなことを言い出したものだから、ヴァッシュは、きょとんと目を丸くした。
振りかぶっていた荷物が遠心力を失い、自分の背中に戻ってくる。ぼすんと鈍い音がした。
「何をしてんねや……」
「いや、これを君に投げつけようと思って」
性根の悪いことをしようとすると、自分にもバチが当たるらしい。ヴァッシュはめそめそと自分の背中を撫でながら、改めて荷物を背負い直す。
「ははあ、バチが当たったんやなぁ」
「うっさいよ! わかってんだよ、自分でも!」
ケラケラと軽く笑いながら言うウルフウッドを怒鳴り付けながら、ヴァッシュはそそくさと足を踏み出した。
「おどれは、知りつくしたいと思うんか?」
「はい?」
「だから、この星中の全て、知り尽くして、驚くことも悲しむことも、喜ぶこともなくなって、それを望んどるんか?」
「そんなわけないじゃないか」
「せやろ」
この話は、全知を求めるものではない。その必要性を問うものでもない。
実際にそんなことは無理だと、ヴァッシュだって知っている。伊達に長生きしているわけではないのだ。
「おどれ、じいさんやけど、心は少年やもんなあ」
「褒めてる? ねぇ、褒めてる?」
「ガキやっちゅうことや」
あ、やっばり。がっくしと肩を落とす。
そして、ヴァッシュは呟いた。
「……これは、そうなりたいって話じゃないんだよ。そうじゃないことが嬉しいって話なんだって」
長い間一人でいると、一番恐ろしいものが明らかになってくる。それは飽きと飽和だ。
その点、この星は恵まれている。災難ではあっても、飽きとは無縁で、尚且つ物は足りないくらい。いつだって飢えと隣合わせだから。生きることには退屈をしない。
「求めるものはたくさんあるけど、ここで果報だと思うことはないからね」
子供の一時の方が果報者だと思えたのも、珍妙な人生であったもんだ。
ヴァッシュは、黒髪の彼女と兄との一時を思い出し、そんな風に思った。
「贅沢なことやなあ」
「その辺り、割りきって過ごさないと」
はっはっはと開き直って笑うヴァッシュは、いつの間にか自分の機嫌が上向きになっていたことに気付く。退屈と飽和は、この男といると退散してしまう。
ラジオの番組はいつの間にか変わっていた。のっそりとしたバンドの演奏に耳を傾けながら、最近は明るい曲が増えたのだなと思う。チャンネルは変えなかった。
「この星を何十周もしてるじいさんは、次はどこに向かっとるんや」
「何十周もしてないってば!」
いや、さて、どうだろう。忘れてしまった。忘れてしまったついでに、そんな数を数えたことはないかもしれない。
「まぁ、行けるとこまで」
「ええな、それ」
その口ぶりから察するに、まだついてくるつもりらしい。
まぁいいかとも思う。飽きない。お陰様で。
「ねえ、君は何周目までついてくる気?」
「さあて」
ついてくることは決まっているらしいのに、ぼんやりした返事だ。
ウルフウッドの口からぽかーと吐き出された煙が空に上っていくのを目で追いながら、ヴァッシュは口を尖らせた。
「ほんなら、こっから月の距離くらいまでなら」
それ、測ったことあるの? だとか、このノーマンズランドからだとどの月かわかんねえよ、だとか。ヴァッシュの中にどうでもいい疑問の数々が浮かぶ。しかし、どれもこれも飲み込んで、ヴァッシュは笑った。にっかりと、それは嬉しそうに笑った。
「ははは!」
「なんやねん」
「へへ……」
首から掛けたラジオを見下ろした。ガミガミと、ザワザワと、ノイズが続く。休止することはあっても、別のチャンネルは番組を流し、そしてそれが繰り返される毎日。娯楽に満たされている日々の象徴。もう、この星に自分は必要ないのではないかという錯覚。
ならば、とヴァッシュは顔を上げる。
「じゃあ、行ってみるかい、月まで」
「はぁ?」
「手始めに、まずはフィフス・ムーンに」
「おんどれが穴開けた月やないか……」
「そ、謝りにさ!」
まだ、月は見えない。日は高い。太陽の光で、月たちは掻き消されてしまっているけれど、もう少しの時間が経てば自然と浮かんでくるだろう。
つらい記憶をジョークにできるようになった。それもまた、この何周目かの旅の結果ならと思う。無駄なことはない。
「行こうか、ウルフウッド」
「へいへい」
当たり前のように返ってくる言葉。同意の相槌。
それが、どんなにテキトーなものだって、投げやりなものだって構わない。意味は変わらないのだから。
それがあるから、この旅は続く。