〝美しい笛の音が聞こえたら、目を閉じ、耳を塞いで、黙っておいで。
そうでないと、まるで操り人形のようにされて、おっかない所へ連れていかれてしまうから。
一体誰が、そんなひどいことをするのかって?
そりゃあ、詐欺師か魔術師か、あるいは死神の類に決まっているじゃないか。〟
この街の子供達は皆、そのように言い聞かせられて育つのだと言う。けれど、その不思議な笛の音を、実際に聞いたと記憶している者は、誰一人いない。では、何故そのような言い聞かせが生まれたのだろうか。
その話は、ずっと昔の童話のようだと思った。
手摺りから身を乗り出し、そうして街を見下ろす。天候は良好。鼻歌のひとつでも歌ってやろうかという気持ちになる。
「美しい笛の音、か……」
耳に届くのは、風車が回る時に鳴るゴトゴトという音だけ。
この街には、大きな風車を備えた風車小屋があった。ヴァッシュが顔を出していたのは、街の中でも一際背の高い、その風車小屋からであった。
風車を作るからには、この街には良い風が吹き込む。石畳の橋を、煉瓦調の建物の合間を、そして、この風車の前を吹き抜ける風は、ヒュウと良い音を鳴らしていた。笛の音という奴は、もしかしたら、これのことなのかもしれない。そんな風に思って笑った。
「おう、こんな所におったんかー」
螺旋の階段を上って、ヴァッシュの背後から声を掛けてくる男がいる。頬杖をついていた手の指先で、自分の頬をトントンと二回叩いた後、ヴァッシュは、くるりと振り返った。
「どうだった?」
「でっかい風車が回って、真ん中の軸を回してんねんな。ああ、その間に、またでっかい歯車がいくつか付いとってな。外にあった他の風車と連携して、街に供給できるだけの電気を作ってるらしいで」
「ただ回してるだけじゃないんだ」
「そらな。今日は、まだ風が弱い方らしいわ。もっと強い風なん吹いたら、おどれ大変やろな」
ウルフウッドの言葉に、ヴァッシュは、ふと首を傾げる。
「なんで?」
「そないなコート着てたら、前に進めへんどころか、飛ばされてまうわ」
風車小屋に吹き込んでくる風が、ぶわりとヴァッシュのコートを巻き上げた。それと同時に上がった、素っ頓狂なヴァッシュの声に、ウルフウッドは口を抑えて、くくくと笑う。
「言ってる側からこれや」
捲り上げられたからと言って、見られて困るものでもないが、それでも何となく気恥ずかしくなり、ヴァッシュはコートの裾を抑えながら「なんだよ、もう!」と喚いた。風車の近く、手摺りから離れ、そうして、上機嫌に口笛を吹く風に睨みを利かせる。それでも、その音は、決して耳触りではない。
「キミ、聞いた?笛の音の話」
建物の中であるのに、仄かに漂う風圧によって、煙草に火を点けるのは困難なようで、ちっちっと、一生懸命にライターを鳴らしていたウルフウッドが顔を上げる。ヴァッシュは、彼が今し方登ってきた階段に向かいながら、ちらりとその姿を振り返った。
「いや、知らん」
「美しい笛の音が聞こえたら、目を閉じ、耳を塞いで、黙っておいで。そうでないと、まるで操り人形のようにされて、おっかない所へ連れていかれてしまうから」
おとぎ話のような語り口で話し始めたヴァッシュの背中を、訝しげに眺め、ウルフウッドは尋ねた。
「誰がそんなことすんねん」
「そりゃあ、詐欺師か魔術師か、あるいは……」
この言葉を口にしていいものか、少し迷う。けれど、ヴァッシュは、階段を降りながら言った。ウルフウッドの方は、振り返らなかった。
「死神の類に決まっているじゃないか、ってさ」
死神という言葉は、少しだけ聞き慣れた言葉で、数多の人間の中には、人間台風をそう称する者もいる。決して気分のいいものではない。だから、少しだけ言葉にするのが躊躇われた。
「子供達が言い聞かせられるんだって。でも、そんな笛の音に心当たりがある人は、誰もいない。不思議な話だよね」
「……それで?」
首を傾げて振り返った。何も言わずにいると、ウルフウッドがやっと煙草に火を点け、それでもって、口角を上げて笑った。
「何か思う所があるんやろ。せやから、話振ってきたんやろ」
ちゃうか?そう言う男に、ヴァッシュは、少しだけ意地悪だと思う。けれど、口を尖らせるだけにとどめ、文句は言わなかった。間違ってはいない。
「大昔の童話に、似たような話があったなと思って、それを思い出した」
「流石、年寄りは知識が豊富やな」
「お前なぁ……」
自分が長い間生きていることを知っているこの男は、冗談のようにその現実を突き付けてくる。あまりの軽口っぷりに、「人をおもちゃにするな」と怒鳴ってやりたくなる時もある。それでも、受け入れられているという薄っぺらな錯覚でもって誤魔化されてしまうのだ。
「で、どんな話なん?」
一定のリズムで階段を降りていく。そう長い話ではない。話してみるのも悪くはないかと思い、ヴァッシュはぼんやりと口を開いた。
「ある街に、ネズミが大量発生してね。そのネズミの所業に困り果てていた人々の前に、一人の笛吹きが現れて、人々から報酬を得る代わりに、笛吹きは自慢の笛を吹き、街中のネズミを余所に誘い出した。けれど、人々は、笛吹きに約束の報酬を払おうとはしなかった。それに腹を立てた笛吹きは、今度はその笛で、街中の子供達を攫って、どこかへ姿を消してしまった……っていう話」
「へぇ……」
「この童話は、実際に起きた誘拐事件を元に作られたって背景があってさ」
背後のウルフウッドが、口を噤んだのがわかった。ヴァッシュは、口元だけで笑い、そうして「ここは、どうなんだろうと思って」と呟いた。
「煙だけが立つことなんて、あるわけないじゃない?」
そう言って振り返った表情は、どこか寂しげだった。
「ほぇー……せんぱーい。綺麗ですねぇー」
石畳の橋の上でしゃがみ込んだミリィが、逐一声を上げるのを聞きながら、メリルは街の隅から隅まで視線を走らせていた。保険屋の二人は、例の如く、人間台風のお目付け役の任務を続行中である。
「すごいなぁ。ガラスって、こんな綺麗な色もあるんですねぇ……笛吹きさんの絵かなぁ……」
「ミリィ、その台詞はもう3回目ですのよ!」
「すいませぇーん」
ぺしりと自分の頭をはたいたミリィを振り返り、メリルは長い長い溜息を吐く。
ミリィが先程から心奪われているのは、橋の塀に一定の距離毎にはめ込まれているステンドグラスであった。太陽の光を受けてきらきらと輝くそれに、ミリィはすっかり夢中な様子であった。メリルは、そんなミリィの様子に呆れながらも、一緒にステンドグラスを覗き込んでやる。自分も興味を持つことでミリィが喜ぶのはわかっているのだ。
「笛吹き……というより、ピエロのような服装ですのね」
「こんな格好してたら、目立ちますよねぇ」
ステンドグラスに描かれているのは、斑模様の奇抜な服を着て長い笛を口に当てた道化師のような人間の姿であった。確かに、こんな格好をしていたら、さぞ目立つことだろう。メリルは、〝目立つ〟という言葉から連想する能天気な笑顔を思い出し、顔をしかめた。
「アレもある意味、ピエロのようですわ……」
「ヴァッシュさんに振り回されてる私達の方も、十分ピエロみたいですぅ」
さらっと笑顔で核心を突かれ、メリルは自分の頭をぐしゃぐしゃに搔き乱した。ぐぅぅぅと唸る彼女の隣で、ミリィは楽しそうに身体を揺らす。
「どこにいるのかなぁ、ヴァッシュさんと牧師さん」
まさか二人の探し人が、街のどこからでも目に入る風車小屋にいるなんてわかった暁には、メリルは更に苛立ってしまうのであろうが。
そんな二人に、橋を渡っていた小太りの女性が話し掛ける。
「お姉さん達は、余所の人達なのかい?」
珍しそうにステンドグラスを眺める様が目に付いたのだろう。ミリィは、その女性を振り返ると、「はい!」と大きく頷いた。
「この人、有名な人なんですか?」
「これはね、子供を攫っちまう、おっかない魔法使いの絵なんだよ」
「魔法使い?」
メリルとミリィは顔を見合わせ、そうしてもう一度女性の方へ向き直る。
「この男の笛を聞くと、子供は皆、楽しそうに騒ぎ出してね。そのまま、この男に付いていっちまうのさ。この街じゃあ、皆そう言い聞かせられて育つんだよ」
「えー!不思議ですぅ!どんな音なんだろう、楽しい音なのかな?」
「どんな音なんですかぁ」と、興味津々のミリィを見て、女性は困ったように笑った。そうして答える。
「それが、残念なことに、こんな笛の男が現れたことなんて、過去に一度もないんだよ」
「えぇー!」
そんなぁ、つまんなーいと声を上げるミリィ。メリルは、女性に軽く会釈をして、「すみません……」と呟いた。
「どの音を指して、笛の音なんて言うのかもわかりやしない。でも、小さい時は皆その話を信じてしまってねぇ」
「私も信じちゃいました」
えへへ、と頭を掻いたミリィの腕を引いて、メリルが女性に向き直る。
「私達、赤いコートと黒いスーツの二人組を探しているのですけれど、御存知ありませんか?」
女性はぽんと手を叩き、それから「赤いコートの男の子なら、さっき風車小屋から顔を出していたよ」と頷いた。それを聞いて、メリルは思わず目を見開く。
「風車小屋って……あの、バカでかいアレ……ですわよね?」
ミリィが、そのバカでかい風車を振り返り、ありゃと呟くのと同時、女性が頷く。
「も……盲点でしたわ……」
がっくりと肩を落としたかと思うと、次の瞬間には拳を握り直しているメリルを見て、女性は満面の笑みを浮かべた。それに釣られて、ミリィもにっこりと笑う。
「この笛吹きさんみたいに、どこに行っても子供達に人気者なんですよぉー」
「あらやだ、あの見てくれなら、おばさん達にも大人気よぉ」
カラカラと笑いながら、世間話のようなノリで話し続ける二人に困り果て、メリルは左右に首を振った。確かにあの男、このステンドグラスに映る魔法使いとやらに似ている気がしないでもない。けれど、
(子供を、攫う……なんてこと)
あるわけがないのだ。だから、違う。
気付けば、ミリィに顔を覗きこまれていた。メリルは、はっと我に返り、そうして、不思議そうな顔をしていた女性に、一言お礼を告げて、石畳を歩いて行く。
橋の終わりでは、子供達が取っ組み合いをして戯れていた。その中に赤いコートの大人が混じっていないことを確認して、そして、女性の話にあった風車小屋へと向かう。
「笛吹きさん、会ってみたいなぁ」
「まだそんな話をしているんですの?」
顎に人差し指を当ててむすくれるミリィに、メリルはやれやれと肩を落とす。子供のように純粋なミリィに、余計なおとぎ話を吹き込んでくれるなと思いながら、それでも、その純粋さを羨ましくも思う。
「だってぇ、笛吹いただけで子供達が皆付いて行っちゃうんですよ?きっと、良い人なんですよぉ!」
「架空の人物とは言え、誘拐犯ですのよ?良い人なわけがないでしょうが……」
「でも、なんでそんなことしたんだろう……子供だけの国でも作りたかったんですかね?」
「そんなの、わかるわけ……」
メリルが、はっと息を飲んだ。その後、嘲笑気味に息を吐いたのを見て、ミリィは「センパイ、今日は溜息がたくさんですねぇ」と笑った。その原因となる男は、風車小屋の前で、見事に子供達に捕まっていたのであった。
「よぉ、保健屋の姉ちゃん達、元気しとったか?」
「牧師さんこそー」
ミリィとウルフウッドが、景気良くハイタッチをして、再会を喜んでいるその脇で、ヴァッシュは腰を押さえながら蹲っていた。どうやら、子供の関節技が妙な具合に掛かってしまったようだ。
「相変わらず、探すのに苦労しませんわね!」
「センパーイ、一応苦労はしましたー!センパイさっきまで、怒ってました!」
「おだまりミリィ!」
元気良く声を上げたミリィを一言で黙らせる。ウルフウッドは、しゅんとしてしまったミリィの頭に手を置いてメリルに抗議する。
「そういう言い方は無いやろー」
「おだまり、エセ牧師」
「ハイ……」
並んで沈黙した二人を後目に、ヴァッシュはようやく起き上がる。そうしてメリルの顔を見上げて、たははと情けなく笑った。
「また見つかってしまった……」
「追い掛けっこに付き合わされる、こっちの身にもなってくださいます?」
そう言うと、ヴァッシュは頭をぽりぽりと掻いて、そうして一度頭を下げた。殊勝な態度に、メリルは、やれやれと本日何度目かになるかもわからない溜息を吐いた。見上げれば、彼らの頭の上では、ぎこちない音を立てて風車が回っていた。
「この風車に、用事でもあったんですの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
メリルと同じように、それを見上げたヴァッシュの瞳が、優しく笑った。
「プラントは必要とされてるけど、でも、依存しなくてもこうしてやっていけるんだなぁって思ったら、ちょっと、思う所があってさ」
「へぇ……」
不思議そうに声を上げるメリルの向こうで、ウルフウッドがふと無表情になったのを、ミリィは密かに見つめていた。そんな彼と目が合う。少し笑った。
「中入ってみぃ。立派なもんやで」
「中入れるんですか!」
立ち上がって、風車小屋の中を覗き込む二人を見て、ヴァッシュが腰を上げる。そうして、コートの裾に付いた砂埃を払った。風が強いために、石畳みの敷かれた道も、どことなく埃っぽい。
払ったばかりのそれを笑うように、強い風がぶわりと吹き込んできた。小屋を覗いていたウルフウッドとミリィの二人は、すかさず扉の内側に入り、そして、防ぐものがないヴァッシュとメリルは、思わずきつく目を閉じる。
その刹那、息を吸い込むような、呼吸の音が聞こえた。
その呼吸にヴァッシュは驚愕し、対象を確認しようと思わず目を開けてしまった。
「う、わっ!」
その目に、ささやかながらも砂の粒子が触れた。再びきつく目を閉じたヴァッシュに、ウルフウッドが「バカ」とぼやきながら駆け寄る。風は、僅かながら弱くなっていた。
「何してんねん……ほら、こっち向き!」
指先で目を拭おうとするヴァッシュの顔を覗き込み、ウルフウッドはその額を固定して上を向かせた。何度か瞬きを繰り返すヴァッシュの瞳を見る。瞬きのせいか、それとも埃のせいか、目尻に溜まった涙がぼろりと零れた。それを親指で拭って、舌を打つ。
はらはらと泣き出したヴァッシュに、後から駆け寄ってきたメリルがハンカチを差し出す。淡い桃色の布地を受け取り、ヴァッシュは目を閉じたまま笑った。
「ありがと……」
そうして目元を軽く拭う。
――不思議だ、涙が止まらない。
そんな三人を横目に、ミリィは一人、辺りをきょろきょろと見回している。そして不思議そうに「あれぇ」と声を上げた。
先程、ヴァッシュを取り巻いて騒いでいた子供達の様子がおかしい。彼らだけではない。路地に出ていた他の子供達の様子も、どことなく挙動不審であった。彼らが、小さな声で囁いた。
「……聞こえた」
「お前も、聞こえた?」
「あたしも、あたしも聞こえた!」
何事だろうとメリルとウルフウッドも顔を見合わせ、それからミリィと同様に、辺りの様子に気を巡らせる。
ただ一人、ヴァッシュだけは肩をすくめて笑っていた。涙を流している人間が笑っているというのも、どこか奇妙な話だ。
「何笑ってんねん……」
いち早く、その奇妙な態度に気付いたのは、ウルフウッドであった。
「ん……聞こえたんだなぁって」
「聞こえた……って、まさか……」
子供達が口々に〝聞こえた〟と言っている。そして、この男も、それをほのめかすようなことを言っている。はっと、顔を上げた。
「笛の音か!」
ウルフウッドの声に、ミリィがぱぁっと顔を明るくした。
「笛吹きさんですか?」
「なんや、姉ちゃんも知っとったんか」
「さっき、そこでお話聞いたんです!」
「子供を攫ってしまう笛吹きの話ですわ。お二人も、御存知ですの?」
おう、と頷くウルフウッドの神妙な顔付きとは正反対に、ヴァッシュは柔らかく笑っていた。そんなヴァッシュの様子に、ウルフウッドとメリルは顔を見合わせ、腑に落ちないとばかりに首を傾げた。
やがて、子供達のざわめきも治まった頃、ヴァッシュがようやく足を踏み出した。何かに向かい、確実な意思を持った足取り。ウルフウッドも、その後を追う。
「あ、ちょ、ちょっと!」
メリルも、そしてミリィも、やはりその背中を追う。
何も言わない。けれど、ヴァッシュは確かに何かを感じ取っているようだった。
「おい、トンガリ。聞こえたって、どういうことや」
「そのまんまの意味さ。聞こえたんだ」
わけがわからないと眉をしかめるウルフウッドに、ヴァッシュはふっと笑い掛ける。その表情が、あまりに穏やかで、ウルフウッドは「まぁ、ええか」と口を噤んだ。この様子である。黙っていても、後で何かしら言ってくるだろう。そんな風に自分に言い聞かせ、無理に聞き出すことを諦める。
ヴァッシュがざくざくと歩くその先、風車小屋と同等の大きさの整備施設があった。
「これは……」
そうだ、この世界では珍しいものじゃない。そこには、プラントが保護されていた。保護、と言っても、誰もが近付けるような状態で提げられている。この街とプラントが如何にフランクな関係を保っているか、それを物語るような体制。それを見上げて、ヴァッシュの表情が、尚一層柔らかく凪いだような気がした。ウルフウッドの背後で、ミリィが「ひゃあ」と声を上げる。
「笛だ!」
ミリィの声に、そっと目を閉じ意識を集中させる。笛の音というよりも、耳鳴りに近い何かの音が聞こえた。なるほど、と思った。
「これのことか……」
ヴァッシュが、そして子供達が聞いた笛の音とは、これのことだったのだ。大きなプラントと向き合って、ただ黙ったままでいるヴァッシュに、ウルフウッドはメリルとミリィを振り返る。
「ちょお、街で話聞いてみよか。なんでこんな音がすんねやろな」
わざとそんな疑問を投げ掛ける。ここから離れさせようと思った。二人きりにしてやろうと思ったのだ。
そんなウルフウッドの背中を目で追って、ヴァッシュは小さく「ありがとう」と呟いた。そうして、〝笛吹き〟である彼女を見上げる。奥に潜む天使の姿に、目を細めた。
「……キミが笛を吹いて集めた人達は、賢明で、それから、良い人達ばっかりみたいだ」
笛を吹いていると言うよりも、歌を歌っているのに近いのかもしれない。ヴァッシュや、他の子供達が聞いた一際大きな声は、きっとヴァッシュのことを呼んだのだろう。手を伸ばす。触れることこそできないものの、少しでも繋がれたらと思った。
「パイドパイパー……か」
その夜、街には、溢れんばかりの〝声〟が聞こえた。子供達は歓喜に湧き、そして、動物は遠く吠え立てる。そんな様子に困惑するのは大人ばかりで、その一晩だけはお祭り騒ぎのように街中がどよめいていた。
それは他ならない、彼女が彼の来訪を喜んで、一生懸命に歌っていたからであろう。
「こら騒がしいわな」
「ああ……ごめん」
プラントの整備施設の中、座り込んでいたヴァッシュが、手の甲で目を擦る。夜も更けてきた頃である。施設を訪れたウルフウッドが、ヴァッシュの隣に腰を下ろした。
「あ……あんまり近付かれちゃうと、困るかも……」
ヴァッシュの制止の声も聞かず、ウルフウッドは、静かに息を吐いて話を切り出した。
「街ん中はざわめいとる。それから、この耳鳴りみたいな音。何が起こっとるんや」
「えっと……」
離れようとしないウルフウッドにヴァッシュは肩を落とし、そして右腕を上げた。ふよふよと漂う異形の羽に、ウルフウッドは思わず目を見開く。
「おま……」
「だから戻れなかったんだけど……」
ふぅ、と控え目に吐かれた溜息。ヴァッシュは、困ったように笑っていた。
「でも、随分と幸せそうな子だから、少しの間、話し相手になろうかと思って、好きにさせておいた」
天井に向かって人差し指を立てる。そうして、目を細めて笑う姿に、ウルフウッドは、やれやれと頭を掻く。口に銜えていた煙草を地面に擦り付け、火を消した。
「保険屋のお姉ちゃん達と、話し聞いて回ってみたんや」
「それで?」
「どうやら、この街の大半は移民らしくてな。別の所から流れて来たもんが住み着いて構成されとる。そんな場所らしいで」
なんか、引っ掛からんか。そう言ったウルフウッドの横顔に、ヴァッシュは口を開き、けれど、その口は、何も紡がないまま閉じられた。ゆうるりと弧を描いた口元が意味深で、ウルフウッドは口を尖らせ「なんや」と呟く。
「だから、この街の人間は、教えられなくとも、共存を知ってるのか」
限りなく感度の強い人間が自然と集まっている。その人々のアンテナに、この〝パイドパイパー〟の声が届き、ここに留まらせていたのだ。どうりで幸せそうな声で歌うものだと思う。共鳴をしている自分だからこそ、わかる。
「呼び寄せてるんは、このプラントっちゅうこと。それで合ってるんか」
「ん、そうかもね」
笛の音としての、はっきりした記憶は残らずとも、きっかけは伝承として残った。それが、彼方昔の記憶にあったあの童話とリンクし、再び笛吹きの男が生まれた。簡単に立てた仮設に、軽く頷く。ウルフウッドが引っ掛かていたのも、この仮説に似た部分なのだろう。
「つまり、この街の笛吹きは、死神の類やなかったっちゅうことやな」
「え?」
「そうやろ」
顔を見合わせる。ヴァッシュはきょとんと目を丸くして、それから脱力したようにへにゃりと笑った。
「キミって奴は……」
ウルフウッドの肩に肘を乗せて、ヴァッシュは、やれやれと頭を振る。どうにも、唐突な男であり、面倒な男だ。
「あのお話には、続きがあるんだ……聞く?」
「話したいんなら、ドーゾ」
そんな所がまた、憎めないのだけれど。ヴァッシュは、ふっと息を吐いてから、もう一度口を開く。
「笛吹きは、攫ったたくさんの子供を売り飛ばしたって説……それから、彼らを連れて、違う地に街を開拓したんじゃないかって説」
「へぇ」
「キミは、どっちだと思う?」
ヴァッシュの問い掛けに、ウルフウッドは口角を上げて笑うと、ひらひらと手を振って、「そんなもん、知らんわ」と言った。
「ただ、ガキ共は、そいつの笛が好きで付いて行ったんやろ。そんな笛鳴らせる奴が、悪い奴だとは思わへん」
「……ナルホド」
「ま、ワイは胡散臭いと思うけどな」
ミリィの言っていたステンドグラスに描かれていた笛吹きの絵は、どうにも道化染みていて、胡散臭い以外の何物でもなかった。目立つ服装に、奇妙な笛を携えて、良いにしても、悪いにしても、人々の興味をひかないわけがないのだ。
「それに比べたら、このプラントは、まだ大人しい外見しとるわ」
大きさはともかく、ピエロのような男の絵とはかけ離れていた。胡散臭さがないだけまだ信用があると言うものだ。外見だけで善悪の見分けなど付くわけがないのであるが。
「ステンドグラスの絵か……後で見に行ってみようかな」
「おお、見てこいや。まるで、おどれみたいやで」
「はぁ?」
ひらひらと手で払われ、意味がわからんとそちらを向く。頬杖をついて、ウルフウッドは笑っていた。
「目立つ格好して、騒ぎ起こして、良い奴なんか、悪い奴なんかもわからん」
上げられた項目に、ヴァッシュは思わずぐっと押し黙る。嗚呼、言われてしまえばその通り。まったくもってその通り。当てはまってしまったものだから、否定のしようがない。
「あ」
ちりちりと、肩の辺りがざわめいた気がした。また声が聞こえた。その声は楽しそうで、そういえば、頭の上には自分達とは別に、もう一人いたのだと気付く。
ヴァッシュは、唐突に恥ずかしくなり立ち上がった。そうして、施設を出て行こうとする。その後ろ姿にウルフウッドは「おい」と声を掛ける。
「羽しまえて。あとな、ちゃんと宿戻っとれよ!」
遠くから、「わかってるよ!」と、怒声が飛んできた。
「あーあ、ガキみたいなやっちゃで、ホンマ……どうにかならへんのかいな……あの性格は反則やで」
そう言って、ぶら下がったプラントに笑い掛けた。
「けど、悪い奴やない。……せやろ?」
ぼんやりとした耳鳴りが、鼓膜をくすぐる。耳鳴りのようなものとは言え、嫌悪感はなかった。その〝声〟に、この街へ集められた人間は、彼女に呼ばれたという説も、あながち間違いではないのかもしれないと思ってしまった。
朝方、宿を出た所で、保険屋の二人に詰め寄られる。どうにも根気強い方達だと、ヴァッシュは肩をすくめた。
「おっはよーございまーす!」
「今度こそ逃がしませんことよ!」
声色は元気な二人の目の下には、若干の疲れが見える。昨晩の共鳴は、こんな所にも届いていたのだ。ヴァッシュは少し申し訳なくなって、たははと頭を掻いた。暫くは、大人しく付き合ってやろうかとも思った。
「元気やなぁ……」
ヴァッシュの後ろで、ふわぁと大口を開けて欠伸をする男に、ヴァッシュは肩口に軽く振り返る。
「眠そうだね」
「おお、うっかり大層な美人を引っ掛けてもうてな……音が止まんで、眠らせてもらえへんかってん……」
「大層な美人……?」
へらりと笑ったウルフウッドに、ヴァッシュは首を傾げ、暫く考える。ようやく合点が行ったようで、思わず吹き出した。
「何、話し掛けたわけ?やるじゃん。なんだったら、ここに住んじゃえば?」
「あー、それは却下」
快適そうな場所ではあるが、それでも自分には付いて行くと決めた〝笛吹き〟がいる。その音を無下にはできまい。
「ワイは、もうちょいロックなんが好みやねん。ほな、行くで」
「ロック……?」
こてんと首を傾げたヴァッシュの背中を、メリルがとんと叩く。
「ほら、行きますわよ」
「素敵な街だから、あんまり長居すると出たくなくなっちゃいますぅ」
ぷぅと頬を膨らませるミリィに、ヴァッシュは思わずへらりと笑った。それなら残ればいいのにと、もう一度口にするのは煩わしかった。だって、何を言ったって、この二人もあの男もついてきてしまうのだ。
この街の歌姫に別れを告げ、そして一歩足を踏み出す。随分と先を歩いていた男の背中に向かって、小走りになった。その後ろを、たたたと二つの足音が付いてくる。
ああ、それと、あといくつかの足音。
「じゃあなーヴァッシュ!」
「またなー」
「なー!」
少し絡んだだけなのに、それでも声を掛けてくれる子供達の声をとても愛しいと思った。
「おう、またな!」
振り返り、笑って手を振った。
ハーメルンの笛吹き、パイドパイパー。彼が子供達を攫って行った気持ちが、少しわかるような気がした。子供達を連れて、新世界を目指した彼を、自分も、悪い人間ではなかったのだと思いたい。
力一杯の声を上げて、人々を引き連れるこの街のあのお嬢さんのように、きっと彼の笛の音にも、確かな魅力があったに違いない。
ヴァッシュの踵が、トンと音を立てる。
気付かぬ内、自らもそんな音を紡いでいる男が、顔を上げて歩き出した。