明るい夜に残酷な夢を


信じていたかった。『こっち』の人間なんだと。こっちにいてくれる人間なんだと。
(もう、そんなのどうだっていいや)
何を根拠に、あっちだとかこっちだとか、『人間』の彼はきっと、どちらにしたって迷惑をしているに違いない。けれど、僕はそれに気付かないふりをして、そして彼の案内に乗っている。
見上げた夜空は明るかった。
(もう、そんなのどうだって)
手を伸ばせば届きそうだった。けれど、今じゃもう届かない。だから、ヴァッシュは何もしなかった。自然と胸の中は凪いでいた。何もない。今までの葛藤だとか、自分を呼んでいる主に会ったら何をしようだとか、そんなものは全て空っぽで、空いていた。
ヴァッシュから見える明るい景色には、ふらりともよろけない黒い背中だけが映っていた。
(飲んでたくせに)
自分も、酔ったふりをしていたのだと思う。
(本当、強いな。キミは)
クスリとだけ笑った。
「なぁ、少しさ、話をしないか」
聞こえているだろうに、ウルフウッドは振り返ってもくれなかった。
「なぁ、ウルフウッド」
相変わらず振り返らない背中が、ようやく返事をする。
「罵るなり何なりすればええ。全部聞き流したる」
ヴァッシュは、その声をじっと聞く。つれないなぁと思う反面、聞き流してくれるならそれも悪くない。寧ろ好都合ってものだ。ヴァッシュは高い高い空の天井を見上げて言った。
「俺さぁ」
すぅと息を吸って、そして止める。腹に力が入った。
(あ、今なら言えそう)
そう思った時だった。ウルフウッドがやっと振り返った。
(あ、やっぱり無理)
そんな言葉が頭を過ぎった。けれど、時既に遅し。ヴァッシュの口は既に声を発してしまっていた。その声が、二人しかいないその場所に響く。反響する対象を持たない声は空に飲み込まれて、やがて消えた。
「は……?」
ウルフウッドが辺りを見回してから、僅かな焦りと共にヴァッシュを見つめる。その言葉の意図をヴァッシュに問う。
珍しく精一杯に狼狽えるウルフウッドに、ヴァッシュはクスリと笑って、そして頭を下げた。
「ありがとう」
繰り返すつもりなどない。たったひとつ、一度だけの気持ち。それを無理矢理にでも聞いてくれてありがとう。そんな気持ちを込めて、ぺこりと下げた頭だった。
ふっと顔を上げる。ウルフウッドは茫然としたままで動かない。
……一方的過ぎただろうか?
(ていうか、引いたかな)
少なくとも、ヴァッシュにとっては、この気持ちにこれと言って理由はなくて、いつ何時も厳しい彼に何故とさえ思う。
けれど、きっと厳しいからこそなのだろう。そして、いつ何時も隣にいてくれる。そのせいで錯覚したのだと思う。幸せな錯覚を。
危険の中で心臓が高鳴るのをそれと勘違いし、それと思い込むことがあるのだと言う。
随分古い文献に載っていたけれど、きっと自分の場合それのせいなどではなく、逆に落ち着くことだってあったくらいだ。
いてくれる。独りじゃないのだと安心してしまうこともあったくらいで、だからきっと勘違いなんかではない。それは、尚更厄介な気持ちだった。
「おい、何勝手に自己完結してんねん……!」
ざくざくと砂を踏み鳴らして寄ってきたウルフウッドに、ヴァッシュははっと我に返る。反射的に身を引いた。
「なに……」
「ちうか、もういっぺん言ってみい!」
「嫌だ」
もう言わない。首を横に振る。その頭をがっと掴まれ、ヴァッシュは頬を膨らませた。
「決めたんだもん。一回しか言わない!」
「聞いてへんかったから、もっかいや、もっかい!」
「聞いてたろー! 絶対に言わん!」
ゴン、とウルフウッドの額がヴァッシュの額に直撃した。すぐに持ち前の石頭を使うのは、こいつの悪いところだと思う。今に人一人くらい頭突きで殺すのではなかろうか。まさかなぁとヴァッシュは頭を振った。
一向に放してもらえない手に、思うように頭は動かない。
「言えや……」
掠れた低音の声に、「弱いんだよなぁ」とヴァッシュは固唾を飲んだ。そして乾いた唇を舐めて湿らせる。長い長い息を吐いた。
「キミのこと嫌いじゃないよ」
「ちゃう。さっきの言え、さっきの」
ぐっと寄ったウルフウッドに、「やっぱり聞こえてんじゃないか」とヴァッシュは眉を寄せた。物好きだなぁと思う。
「好き」
「何が」
「さぁ」
誤魔化そうとしたその時、ぎりぎりと肋骨を絞められ、ヴァッシュは声にならない悲鳴を上げた。
黒髪が視界にちらついて、抱き締められたのだと気付く。抱き締め、なんてもんじゃない。抱き潰されそうだ。
「なんで、言うねん」
「えぇ……」
言えって、言ったじゃん。
弱々しく呟いたヴァッシュの肩口に、頭をずるりと擦り付けられた。頬に直毛の髪が刺さった気がした。
「叫んだやんか」
それは、言っておきたいと思ったから。違う、言ってみようと思ったから。少なくとも、近くにいる間に、離れる前に。
もしかしたら向こう側に付くかもしれない相手を繋ぎ止める気なんてさらさらなくて、でも遠くに行って叫ぶこともままならなくなる前に。そんな気持ちで吐いた叫びだった。
「……仕事しなよ、案内人サン」
こんな所で足を止めていないで、自分の任を果たせばいいのに。ばくばくと音を立てる心臓を抑え付けて言う。
「ああ……せやった」
誰か、誰かこれに、この夜に理由をくれないか。頭の隅はこんなに冴えているのに、芯が痺れて仕方がない。理由がないなら、早く放して欲しかった。
一度で良かった。すぐ風に持っていかれるも良し。本人の耳に入らないでも、冗談として取られるも良し。引かれるのも、別に構わなかった。だから今叫んだのに。
(頼むよ……)
いつものように甘さなど微塵も見せず、厳しい態度で俺の背を叩いてくれないか。痛い程わかってる。こいつは厳しいだけの人間じゃない。情けを掛けられているのなら、もう十分。
広い、少し曲がった背中に手を回し、一度だけ力を込めた。そして、ふっと力を抜く。
(もう十分)
だらりと下がった腕が重かった。こんな手で銃が握れるだろうか。
だから、駄目なんだ。
「弱くなってる場合じゃないんだ。わかるだろ、ウルフウッド……」
もう、キミと出会って随分と僕は、弱くなってしまった。
そんな思いを込めて突き放した胸を見つめて、ヴァッシュは目を伏せた。身体に残ったウルフウッドの体温が、空気中に散った気がした。
「今は、弱くなっていられないから」
砂の上に投げられたパニッシャーを見る。ウルフウッドは不服そうにそれを拾い上げる。
「……堪忍な」
「ううん」
再び向けられた背中。ヴァッシュはふっと目を細めた。これでいつも通り。きっとそれは変わっていない。
「もし、万が一にも戻って来たら、抱き締めた理由をくれよ」
キミが僕を抱きしめた理由。キミがそうして口に出さずに守りたがっているものを、仏頂面でも構わないから教えて欲しい。
ウルフウッドが、空いている方の手をひらりと上げた。
「おどれが、やることやったらな」
「ま……それまで、よろしく」
ヴァッシュはそう言い終えると、そっとウルフウッドの後ろに回る。
目を閉じれば瞼の裏で星が瞬いた。
(夢みたいだったな……)
まるで、ただひとときの夢のような一瞬が、今はもう掌から零れ落ちていた。