死とは魅力的なのだと言う。
僕には足の元に伸びる影があった。それがいつしかいなくなってしまったある時、彼はそうっと戻ってやってきた。
家出した影が何故に足元に戻ってきたのか問うてみたところ、彼はこんなことを言い出したのだ。
「死とは大変に魅力的で、わたしはその魔力に勝てなかったのさ」
「なんだって?」
曰く、彼は僕の足元から逃げ出して這いずり回る内、僕のように人の形を手にしたという。それまで僕の足元で生きてきた彼にとって、人を模すことは容易く、それはそれは新鮮な日々だったと眩しそうに言った。
けれど、新鮮な日々はそう続かず、まずは喉が渇き、腹が減り、次第に体が重くなってきたらしい。それもその筈だ、我々は日々、その生命活動に囚われているのだから。
しかし、それまでの生活(影の君にそう言い表すのが適当かどうか、僕は一呼吸だけ悩んだが、深くは考えないこととする)において、彼はそのような飢えを体験したことがなかったと言う。
そりゃそうだ、君の代わりに僕が喉を渇かし、腹を空かせていたのだから。
しかし、そのうち、飲み物を得るのも食べ物を得るのも、寝心地の良い場所を得るためにも、対価が必要なことを彼も学習し出したのだそうだ。
「こんなことなら、あなたが猫や犬であったなら、私はもっと容易く食物を得ていたであろうになぁ」
「馬鹿を言うな」
猫や犬となれば、弱肉強食の世に違いない。人間の関係だって時に弱肉強食に違いないというのに。
「君が犬や猫であったなら、僕の所に戻ることも叶わなかったろうな」
「そうとも、それだ」
「戻ってきた理由が?」
「戻ってきたのだよ」
さて、影の彼の話は続いた。
飢えと疲労に苛まれた彼を、人間たちは次第に気色悪がった。道を歩けば避けられ、仕方なく公共の建物で眠れば人を呼ばれ追い出され、影は次第に人間の形さえも失い掛けた。——自身は何を思いここにいるのか、自身は何を望んで人となったのか、自身は本来何であるのか。
僕は、ははあと思う。そこで、彼は出会ったのだ。
「丸まった背中を、もしと叩かれ、振り返ればそこにおったのさ」
「何者に会ったんだ」
「くろいものだ」
「くろいもの、か」
僕の目の前で僕に話している影の君も十分に黒い者、であるが、そんな彼が出会ったくろいものについて詳しく聞こうと、余計な口は挟まないまま、僕は彼の言葉を待つ。
「ああ、黒いとは言いにくいのだが、触れられるとぞわとする感覚がした。しかしあれは、優しく笑ったのだ。その時のわたしときたら、腹は減っているし喉も渇いて、疲れて眠りたかったものだから、その笑顔がとてもではないが嬉しく優しく感じたね」
「それで? その彼か……彼女かな……、それはなんと言ったんだい」
「もし、少しそこまで歩かないかと」
「そこに座って休めとは言わなかった?」
「言わなかったね。それで、わたしはついて少し歩いたのだよ。大変に穏やかな道のりだったさ」
喉が渇いて腹が空いているというのに、彼はとにかく穏やかで落ち着いていたと言う。
僕からすれば、それは落ち着いてるとは言わないのだが、彼の出会った相手のことが気に掛かるので、そのまま彼の言葉を待った。
「ああ、続きかね」
「そうだね」
彼はそれなら、とそわそわした様子で続ける。
「次第に、彼女が手を引いて歩いてくれたものだから、わたしはそれに引かれるまま、ここに来た経緯なんかを彼女に知らせた」
——彼女、である。ここでくろいものは姿を変えたことを知る。
「我ながら突拍子のない話だと言うのに、彼女は手を引きながらにこにこと聞いてくれた、幸福だった。ようやく受け入れられたのだと思った」
「ほーして……?」
「気付いたら、人気のない所におった」
影の色が、ざっと青ざめたような気がした。いや、影は元より黒いのだが、それにしても随分と色気を失った声になったものだと思った。
「気付いたら人気のない場所で、彼女がガードレールの向こうを指差すのだ。覗き込んでご覧、と、そこに大切なものがあったのだと言う」
僕は、足首をつかまれるような感覚を覚え、ひゅと黙った。
「どうしたと思う」
声は出ない。まるで喉に饅頭を詰め込まれたかのような感覚だった。声は出ない。
「私は、覗いてしまったのだよ」
胸を押す。饅頭が抜けない。もっと強く押した。
僕は、影を冷たく見下ろすことしかできぬまま、その話を聞いている。
ひゅ、喉が音を立てる。
「とん、と、背を押された。わたしは、落ちた」
冷たく冷たく見下ろす。影は無念そうに僕の足首を掴んで絡め取った。ははあ、やはりお前もくろいものだ。ははあ。
僕は口角を上げるだけ上げて笑ってやった。
「どうだ、死は魅力的だろう?」
ずだん、と僕が踵を鳴らす。
足首に絡み付いていた影は怯んで手を離した。
「ああひどい。ああひどいな、お前たちはいつもそうだ」
「死んで僕の影に戻ってきた君にはわかるまい。人間は死んだらそこで終わるんだよ」
ずだん、もう一度踏みつけて、ぐしゃぐしゃと捻り切る。影にわずかな隙間が生まれて、すっと落ち着いた姿勢に戻った。
「いつもいつも踏み付けて」
「嫌ならまた人の世に生まれればいい」
「やだぁな、死の魅力を知るに過ぎないもの」
「ああ、魅力は大いにわかるがね」
見ているものの望む姿で手を引くような化け物を、僕はまだ気色が悪いと、確かにそう思うのだ。
「僕にはまだその淵、覗けそうにない」