夏の影


 夏は白いものだと思っていた。照り返す光は閃光のように目に刺さり、熱は網膜を焼く。殺意を向けてくる夏という季節から、朧な視力を守るために瞬きをする。瞳に張った涙はあっという間に気化してしまい、またも熱が眼球に這い出すのにそうそう時間は掛からなかった。
 怪奇は時折夢を見る。人となる夢だ。人となった怪奇は幼子の形をしており、自身の親たる存在に手を引かれて歩いている。
 人の世に当たり前のように蔓延るコンクリートに足を付けて歩いていると、ぐにゃりと歪む土が恋しくなる。
 蝉が鳴く。随分と騒々しいが、寝床のそれほどではない。
 夏は白いものだと思っていた。
 怪奇は夏の間だけ、夢を見るように人の形となる。虫や獣が冬眠をするように、怪奇の本当の姿は夏の間眠りに就いて、そして、怪奇の魂だけがこの児に宿る。人の目に映る夏は、とても白く眩しく暴力的であった。
 怪奇の目も殊更強く丈夫なわけではないが、それにしても幼子の眼球とは脆いものだ。眼球だけではない。体を覆う皮膚とて脆く弱い。陽の日差しを受けて赤くやけている手を見て、怪奇は辟易とした。――痛む。痛むと言って訴えれば、この児の親は薬を塗るなり、氷嚢を当てて冷ましはしてくれたものの、結局この痛みは時間が癒す他なかった。
 怪奇は頭に被った麦わら帽の隙間から、夏の白とコンクリートの黒の境目を睨む。汗が流れて顎を伝い、白いシャツに吸われていく。大層気分の悪い感触を手の甲で拭えば、今度はやけた手の甲が痛むものだから、怪奇にはきつく目を瞑ることくらいしかできなかった。
 親は、片手に怪奇の手を取り、片手に荷物を下げている。何処へ向かうのかは知らない。ただ、ここで電車を待っている。電車に乗れば、多少は涼めるに違いない。怪奇は電車を心待ちにしている。
「***ちゃん、ジュースを飲む?」
 暑いねぇと言われ頷けば、児の親はそのように言った。怪奇は静かに頷く。
 眼球のみならず、口内の粘膜とて熱でからからだったのだ。本当なら冷や水に飛び込みたいくらいである。今は、兎角体内に水分が欲しい。
 怪奇が視線でそのように訴えると、親は怪奇の手を離し、そして電車のホームの隅にある販売機に小走りで寄って行った。
 怪奇は大人しく動かないでいる。
 動かないでおれば望む物が手に入るのだから、子供というのは弱いながら楽なものだ。
 ふぅと一息吐いて、麦わら帽を被り直そうと顎の下の紐を外した時だった。
 怪奇に触れるものの影がある。——とん――とぶつかったそれは、大人の男であった。怪奇の頭から麦わら帽がふらりと電車のホームに落ちた。
 怪奇は麦わら帽と男を見やって、何かの音を口から溢しそうになったが、結局は小さな「あ」という声しか出なかった。
「やぁ、ボク、ごめんくださいよ」
 そう言って通り過ぎた男の背中を見つめ、麦わら帽を拾おうと屈んだ時だった。怪奇の身につけている白いシャツが色を変えている。
 白い光と黒いコンクリートの合間に、深くて濃い赤色が滲んでいく。はて。怪奇は首を傾げた。――きれえだなぁ。
 しかし、たまらずどしゃりと尻餅を付いていた。麦わら帽は拾えたかわからない。
 怪奇は、場所を越え、夏眠している自身の本体に急速に吸い上げられた。
 児の体はどうなったろうか——怪奇がそう思った時には、既に怪奇の身の内に魂が戻っていたのだ。再び眠りに就こうにも、怪奇の身の内には、どっどっどという血脈の音が鳴り止まない。怪奇には人の体の組織のように心臓などなく、血脈とて不明瞭な存在であるというのに、何故か耳障りに響くのは心臓の音ばかりであった。
 赤く染まっていく白いシャツが脳裏に焼き付き、懐を見下ろして確認をしてしまうほどだった。怪奇に、人の武器は効くものではない。だから決して傷付けられやしないのに、まるで胸から生が滲んで漏れていくようだった。
 こふと咳き込む。夏眠の前に食った鹿の脚の肉が飛び出した。それは確かに赤かった。不思議と、今度は綺麗だなどと思わなかった。体の内側をぞろぞろと不穏なものが這う。出てゆけと威嚇すれば、その蠢く感触は逃げるように散っていった。
 怪奇は人の世を思う。自販機より戻った親は、きっと金切り声を上げ、そうして児を慌てて医者に診せるであろうが、果たしてあの体はまだ生きているのだろうか。人の児が暴力を受けたとあっては、恐らくあの場に喧騒が生まれるだろうが、あの白と黒の合間に逃げ込んだ男の足取りは掴めるのであろうか。
 追って祟り殺すことなど怪奇には容易かったが、しかし夏の間の依代如きのためにそのような業を背負うことが吉かどうか、怪奇にはわからなかった。そもそも、夏眠の合間に夢なんて見なければ良いものを。それも、暑さの暴力にわざわざ曝される夢を、である。
 なれば、怪奇にとって依代がなくなることは望ましいことなのかもしれない。
 ごろりと転がり、怪奇は再び意識を閉ざす。心臓の音はもう聞こえなくなっていたし、その感覚を忘れることに然程時間は掛からなかった。
「ああ、久しぶりだなぁ」
 夏は白いものだと思っていた。
 目を開ければ、陽の光を一杯に溜め込んだような視界と、白い壁と白い天井。ここはまだ白い夏のままなのだ。
 怪奇は溜息を吐いた。
 あの日失った依代の代わりは生まれることはなく、怪奇は数年の間穏やかな夏の眠りに浸ることができた。
 それが途端に引き戻されたことに溜息を吐いたのだ。
「この感じは久しぶりだ」
 怪奇の頭に声が届く。誰か余所に人がいるわけでもなければ、怪奇が口を動かしているわけでもない。
「おまえは何者なんだ」
「おまえこそ何者か」
「ぼくは、あの日、駅のホームで刺されたんだよ」
「ああ、おまえ」
 左手を上げる。夏の日に繰り返し赤くやけていた皮膚は、今は魚の腹のように白く薄く細く、骨張っていた。拳を握ることもうまく叶わない。
「生きていたのか」
 ふうと息を吐く。呼吸器の中に篭る音を感じて、怪奇はそれを外そうとしたが、やはり手は思うように動かないままだった。
 動かせば、ほんの少しだけ血脈が流れて肌に赤みが湧くような気がした。気のせいかも知れない。青い血管が薄く見える。動いては、いる。
「生きていると言えたものか」
「生きているから、おれがここにおるのだ」
「さっきまで寝てた。ずうっと、長い間」
 なるほど、と怪奇は頷く。納得したふりをした。死の状態に近い依代に戻ることは叶わなかったのか、それとも、依代そのものが眠りに就いていたからなのか、そこまでは怪奇にもわかりえなかった。
「夏にそういうことはよくあったが、こんなに長いのは初めてだった」
「夏には、おれがおまえになっておったから」
「はあ、そういうことだったんだ」
「しかし、おまえがおるのなら、おれは出て行った方がよかろうか」
「淋しいことを言わないで」
 はて、と怪奇は思う。——おれは、おまえからすれば怪しげな存在であり、いわばおまえに寄生していたに違いないのだが、それをさみしいなどと言う。人間の神経が怪奇にはわからなかった。
「どうせ動けない」
「動けばよかろうに」
「難しいのはおまえもわかっているはずだ」
 そうだ、なるほど、腕を上げて下げたのがやっとだった。
「ぼくのおしゃべりの相手になって」
 随分と涼しい。夏のはずであるのに、白い建物の中はずっと涼やかだった。
「しようのない」
 夏は白いものだと思っていた。たしかに、今目の前は真っ白で、依代の体も白く生気がなかった。
「おまえが、動けるようになるまで、少しだけ」
 けれど、短い手脚でも動けたあの暑い夏の日を、眩しさを恋しく思う。
 これは怪奇の感傷なのか、それとも依代の感傷なのか、混ざり合っている今はどちらのものとも知れない。
「少しで足りるだろうか」
「なに、人の世の数月数年など、おれにとっては一瞬だ。一瞬くらい居てやってもよい」
 寄生している立場がよく言えたものである。しかし、怪奇とて、このようにつまらぬ場所にいたいわけではない。依代が離さないのだから、しようのないことだった。
「外に出たいな」
 外に出れば、きっとまた夏の暴力に遭うに違いない。怪奇はそれが億劫で仕方ないが、それでも眼球に焼き付けられた景色が恋しいこともあろう。
「そうだな」
 だから、曖昧に頷いた。