海より深い没頭


没頭と云う経験があるかと先生は仰った。
先生は、よく海に潜られるそうだ。生憎わたしはカナヅチであり、水に体を浸そうものならば芯から固まって動けなくなってしまうものだから、先生の気分は少しもわかりはしなかった。
先生は、よく海に行かれ、足を浸して、時には腰の辺りまで入るらしい。夏場は服を脱いで素潜りを楽しむのだと云う。
先生は男ながら華奢でらっしゃるのに、存外、豪傑なことをなさるのだと口に手を当てて笑っていた。先生は少し恥ずかしいのか、僅かに蒸気した頬を上げてはにかんだ。
「いや、しかし没頭ですが」
「はい」
先生は咳払いをなさって、姿勢を改めた。
「きみはどのような時に没頭なさる」
「わたくしは、趣味の陶芸をしている際に」
「陶芸をなさるのか」
「ええ、勤めるようになってから少し嗜むようになりました。時たま、週末に勉強しておりますよ。まだまだ未熟なもんです」
「ははあ、立派な趣味でらっしゃる」
「先生も立派な趣味が沢山おありになるではありませんか」
「いいや、自分のは趣味とも呼び難いのです」
先生はハンカチで額を拭い、そして着物のあわせを改めた。
「活動写真も良いがね、ぼくはやはり、活字に没頭するようにできているようで」
「海に潜られている時は没頭なさらないので?」
「それに近いかも知れませんが。いや、しかし本で窒息することはありますまい。海で没頭するのは些か不安がある。ほら、あそこは本当に窒息してしまいますからね」
「先生ほどの方になれば、本で窒息することもおありかと」
「たしかにそうかもしれませんな」
先生はご自分の手のひらを喉仏に当てられて、それから何度か低く唸っては首を回した。
どこか動物のような動きにも見える。細身な先生は、まるで活動写真で見た狐面のあやかしのようである。
「文字を読むことに没頭すると、呼吸を忘れる。成程、確かに、時にはあるような気もします」
「わたくしも、目の前の粘土に吸い込まれたかのように、時折呼吸を忘れることが御座います」
そう申し上げると、先生は低い笑い声を上げて「おそろいだ」と笑った。
「文字の海に溺れている時、それを、我々は没頭と呼ぶのでしょう。ここのところは、怪奇小説に凝っておりますよ」
「先生、暑いからと言って、脅かすのは勘弁してやってくださいまし」
「怖がりたいという気持ちで読むのでは無いのです。作中にね、迷い込むために、没頭するために読むと、そういう作品が一番なのですよ」
「わたくしは、冒険譚に興味が御座います」
「きみは、勇敢でらっしゃるから」
「本当のところは、子供っぽいと仰りたいのでしょう?」
「いや、まあ」
ふふ、と笑った先生の表情に、わたしも些か恥ずかしくなった。少年少女の心を潤す冒険譚を、いい大人が嗜むのを暴露するのはやはり恥だったのかもしれない。そんなことを思って俯くと、先生がわたしの膝の前に一冊の本を置いた。
「しかしね、冒険譚に心躍らすのは子供かもしれませんが、書いているのはいい大人でありますからして」
「先生!」
わたしはたまらず、目の前にある本を持ち上げ、胸に抱いた。
「新作ですか!」
「お恥ずかしながら、短編の寄せ集めですが」
「わぁ!」
わたしは、先生の差し出した本をうっとりと見つめ、それからまた胸に抱く。
短編集となれば、そいつはまるでありとあらゆる素敵なものを掻き集めた宝箱のようなものではないか! そんな気持ちをそのまま表情に出してはしゃいでいると、先生が満足そうに何度か頷かれた。
「没頭、してくださいますか」
「わたくし、先生のように海に潜ることはできませんので、水の底にある宝を見つけることは叶いませんが、文字の海には多少の心得があります」
「ああ良かった。カナヅチなのでと断られたら、どうしようかと」
「もしも言葉を忘れたとしたってすぐに訓練を致しますから、安心なさってくださいまし」
ああ、よかった。ああよかった。そう繰り返し頷かれた先生が背中を向けて、またお仕事の方に集中される。
わたしは先生の背中に一度お礼を申し上げて、それから畳を立った。胸に抱いた本はそのまま、早足でお暇する。
「ああ、胸が躍る」
躍るあまり、息が絶え絶えになっていることに気付いて、自身の胸をトトンと叩いた。
やれ、読み始める前から呼吸を忘れてしまっては、没頭の先が思いやられるものである。