あの世界に愛を込めて


「ようこそ」
目の前に、ぼんやりとした不安が現れる。それが何か、知らないのに感じている。だから識っていると錯覚する。
「ようこそ」
そいつは、もう一度同じ言葉を繰り返した。そして、暗闇の中でお辞儀をした。身体を起こす。身体の節々が少し痛んだ。
「ここは」
ゴトンゴトンと物音がする。すごい音だった。けれど、その中でもそいつの声だけは聞こえた。
「識っているはずですよ」
そいつは、確かにそう言った。なるほど、確かにこのゴトンゴトンという音には聞き覚えがあるし、この薄暗さも記憶にある。意識の表面には現れてはいないが、識っている。
(これは、水車の音だ……)
「その通り」
そいつは、まるで心を読んだかのように、勝手に返事をした。思わず身体を縮こまらせ、震える。何者だ、そう言おうとしたところで、そいつはニィと笑った。
正確には、笑ったように見えた。
「水車の回っている音と認識したのならば、ここから出たら何が広がっているか、わかるはずです。そうですね」
淡々と物を言うそいつに、思わず頷いていた。何故なら、記憶が段々と晴れて行くからだ。
【俺】はこの世界を知っている。段々と明らかになってきた木の扉を開けた先、そこに絶望的な景色があることも、何故か知っている。大きな扉だ。それを一人で開けられる気はしなかった。
「大丈夫、あなたならできるはずです」
そいつが言った。暗闇に目が慣れてきているはずなのに、そいつの姿だけはいつまで経っても朧だった。存在自体が曖昧なのかもしれない。それは、【俺】の記憶の中に、そいつの姿がないからだ。
そうだ、ここは恐らく俺の記憶の中に位置する幻の中だ。そう思わないとやっていられなかった。目の前にいるはずのそいつが、またも笑った気がした。
ゴトン、ゴトン、ゴトン、水車は回り続ける。時間は流れている。しかし、ここだけはまるで外の時間と隔離されているようだった。そう、この世界には、外がある。【俺】は、そいつの横を恐る恐るすり抜け、そして、木の扉に手を掛けた。思ったよりも軽かったそれを開ける瞬間に、【俺】はようやく【俺】に語りかけていた存在を確認した。
(お面……だ)
そいつは、お面を付けた手足の細長い生き物だった。
明るい光が視界を支配する。そして、次に届いた刺激は、耳に入り込んだゴーンという鐘の音だった。
識っていた世界が、あっという間に知っている世界になった。【俺】は自分の足元から空の青さまでを一瞥し、そして、思っていた通りだと溜息を吐く。能天気に走り抜けていく犬を見て蹴り殺してやろうかとさえ思ったが、そんなことできないのは百も承知だった。
では、この思っていた通りの世界が【俺】に何を求めているのか、再び顔を上げる。そこにあるのは祭りやぐらだった。
けれど、識っているやぐらとは少し違う。【俺】の知っているやぐらと違う点、それは提灯の明かりだ。まるでこれは、【俺】のいた国のものではないか。
「そうか、オマージュなんだ」
配置は似ている。けれど、造りが違う。造形としての形が違う。完全に俺の識っている世界ではなく、別の世界であることは間違いなかった。けれど、同じ点がひとつ。
底抜けに青い空の頂点に、大きな岩が見えた。
【俺】は、思わず口をあんぐりと開ける。なるほど、そういうことかと把握したのも束の間、じりじりとした威圧感に汗が噴き出た。
「なんて、不気味な」
リアルな知覚に、身体が震えた。
大きな岩、それを仮に【月】としよう。【俺】は、この【月】がどうなるか、識っている。そして、それと同様に今ここにいる【俺】の未来も知った。数日の内に、この【月】は落ちる。言葉の通り、全てを飲み込もうと落ちて来るのだ。