墨を吐く


目眩がすることがないだろうか。
字という字で埋め尽くされた書物を開けた時、なんてことだと目眩がすることがないだろうか。
おれには言葉が読めない。そこに何か書いてあることはわかったとしても、意味がわからないのだ。意味がわからない言葉は、何某かの文様でしかない。文様が密集すれば脳はそれを解析しようと縮み上がる。
わかるか? 脳が絡まるのだ。目眩がしないわけがない。
そうしておれは吐き出した。地べたに墨が飛ぶ。
「あれあれ、君が吐いたのは墨じゃあないか。さては君は蛸か、それとも烏賊かい?」
「わたしは今、ぐげという言葉を吐いたのです。それが墨文字となって地べたに貼り付いた。これのどこが蛸か烏賊なのですか」
先生はカラカラと笑って言いなさった。
「どこがって君、人間は言葉を墨文字に吐いたりはしない。吐くのは反吐だ。言葉は書かねば墨文字にはなりやせんよ。書だってそうだ」
つまり先生は、おれを蛸や烏賊だと言うのだ。なんということだ、なるほどそれならおれに人の読む言葉が理解できぬわけだった。
「しかし、君は墨を磨らんでも書を認めることができるというわけかい」
「何故です、先生……」
そう尋ねれば、先生は神妙な顔をしながらおれに紙を向けた。
「ほれ、ここにひとつ吐いてご覧なさい」
先生の言うことがわからぬまま、おれは立て続けにけろけろと吐いてみせる。——確かに、先生に言われて気付いたことではあるが、おれはこの人生において一度たりとも黄土色、あるいは透明な反吐を吐いたことがない。
出てきた墨はぞろぞろと並んで蠢き、形を変えて、そうして一束の書になろうとしている。
「はて、赤い墨塗りがある」
「赤い墨塗りだなんて。吐いた自覚はありませんがね」
訝しんで先生を見れば、先生の方こそ訝しげなお顔をしてらっしゃった。
おれはこのような先生の顔を見たことがない。
「君、話したくないことがあるのだね」
「はあ、それくらいは」
一度に吐き出しすぎたらしい。喉の奥が痛んで、ゼイゼイとした気がする。
「喉を切ってやいないか?」
「このくらいは、ええ、初めてのことではありますが」
「君、僕はね、書を認めるというのはだよ。その身を切ることもあるものだと錯覚している。だからどうだい。臓腑から直接物を書いた君にはね、きっと」
先生が、お手元の書とおれをちらちらと見比べて、それから合点がいったとばかりに頷いたのだ。
「ああほら」
先生はおれの口を長い指先で拭って、その指に——べっとりと——纏わりついた赤い墨を睨んだ。
「君、腹にあるもの、隠したいものやら言いたくないことは、安売りしてはならないね」
「はあ」
かといって、はて、赤を吐かぬように書くにはどうしたものか。
「表現を変えたらよい。あるいは、自分のことのように書かねばよい」
「先生、蛸にはどうやってそのようにしたものかがわかりません」
「なぁに、己れを蛸と思って書けばいいじゃあないか。蛸が書く、或る人間の話かね。面白そうじゃあないか」
「それで先生、わたしに蛸と仰られたのですか」
「はて、どうだろう」
おれは己れの唇を拭う。先生がしたののように優しくはない。
はあ、こいつは墨などではない。血ではないか。
「成程、先生の仰る通りしてみましょう」
「うん、それなら安心して続きを待てるというものだ」
楽しみにしよう。そう言って笑った先生のお手元、ご自身の原稿用紙の上に、おれは確かに「赤の墨」を見た。