油絵で描かれた夜のこと



 好きになっちゃいけないって、いつから思っていたんだろう。
 ベッドやソファでもつれて絡むのが日常で、その後は柔くて温い時間だって過ごすのに、それでも好きになっちゃいけないと思い込んでいたのは、いつから——
「ミツ」
 目が覚める。どくどくと体の中で出血していたみたいな鼓動と頭痛と悲しみが急に晴れていく。どろどろに溢れていた涙を拭われれば、大抵オレの「悪夢」は終わって、あとは体の内側に突き立てられている大和さんの熱に集中すればいいだけ。
「うっ、あ……れ?」
 体が、ようやく知覚する。オレを振り回してるのはこの人のもので、他の嫌なものたちじゃないことを思い知らされる。それで良い。そうして、ようやくオレの現実が始まるんだから。
「ミツ、大丈夫、こわいの終わった……? 終わった、だろ?」
 誰にも聞かせないような優しい声がオレの耳だけに流し込まれて、大丈夫、大丈夫って体の外側から内側から撫で付けられてる間に、オレはきっとこの人のことを好きになっちゃうんだろう。涙が溢れる。
「うっ……ア、や、だ……」
 大和さんに抱き締められて焦れったく腰を動かされて、体の中に埋もってる大和さんのものがオレの中をとんとんってする度に、これって、この行為って、こんなに気持ち良いことだったんだと塗り替えられていく。
 オレは、これでしか戻れなくなる。
「嫌だよな……嫌だろうなぁ……」
「やまと、さ……」
 嫌じゃないけど、口からは悪夢の名残で「嫌」って漏れるから、オレは大和さんの名前を呼んだ。
 戻ってきてるよ、もう終わってるよと伝えようとするのに、大和さんはオレの頭の横に顔を押し付けて首を振る。その動きが、敏感な腹に届いて、オレはピクって体を震わせた。
「やま……さん、やま、と、さ……ッ」
 オレ、あんたのことが好きなんだ。
 こういうことをするようになったからじゃなくて、こういうことをせざるを得なくさせてしまったからじゃなくて、ここが一番安心するから。
 滅茶苦茶に体を揺さぶられて意識を悪夢というトリップから引き剥がした後の、溶けるくらい優しいセックスの中、あんたが「申し訳ないことをしてる」って顔をするのが好きだ。それで、オレは大切にされてるって知ることができるから。
 でも、だからこそ思い知る。
(この人にとって、この時間が)
 何より悪夢なのかもしれない。
 好きになっちゃいけない。大和さんが悪夢から逃げられなくなってしまうから。
 
 
「好きでごめんって、いつから思ってた?」
「ああ……?」
 汗だくのセックスをした後のだるさとか、大和さんのしつこさとか、擦り傷が痛むこととか、それを加味して返事をすると、少し悲しそうな顔をした大和さんが見下ろしてくる。
 いや、だりぃだろ。かったるいって態度くらい取らせろよ……
「何それ……」
「寝言」
「たかが寝言だろ。思ってないよ、別にそんなこと」
「……なら良い」
 そう言って立ち上がって、デスクの引き出しの中の煙草を引っ張り出して唇に銜えて、そのシルエットを見てる内、オレは少し苦しくなった。
 平然と嘘を吐いたからだ。オレは、ずっとそう思っていたはずだ。
「……好きになっちゃいけない人だとは、思ってたけど」
 そう言えば、大和さんの影がこちらを向いた。
「俺も」
 ちかちかとライターの石が鳴って、大和さんの口元だけ火で照らされて、煙草の先端が赤く光ったかと思えば、あの人の呼吸で色を変える。
「俺も、好きになっちゃ駄目なんだろうなって思ってた」
 お互い、少し前までは、そっちの方が都合が良かった。知っている。
「煙草、煙いからこっち来いよ」
 オレは血反吐と一緒にようやく吐き出せたし、体が滅茶苦茶にならなかったら、きっと——きっと伝えてなんかいなかった。それで良かったから。
「……火つけたばっかりで勿体無いだろ」
「いいから、来て」
 そんなものにくれてやるくらいなら、あんたの寂しさ、ここにぶつけたら良い。
 上がる煙を睨んでいると、振り返った大和さんの影がへらって笑った。
「駄目じゃないから、おいでよ。嫌じゃないから……」
 そんな薄い笑いで昇華しないで。
 そんな薄い煙に溶かしてしまわないで。
「あんたが寂しいなら、オレ、どんな時でも嫌がらないから」
「なんだよ、それ」
 ようやく煙草の火を消してのろのろ歩み寄ってくる大和さんが、窓からの夜光で照らされる。
「その寂しさ、全部オレにくれよ」
 部屋に漂う煙の匂い。大和さんの寂しさの匂い。この人が——オレにそれをぶつけることを遠慮する匂い。
 髭の生えてきちゃうような時間。煙草で荒れた肌の頬を引き寄せて、無理矢理唇を合わせて、(さっきまで散々貪ってたのに)
 不思議そうな顔をした大和さんが、そのまま不思議そうに言う。
「急にどうしたんだよ、ミツ」
 あんたは、オレが嫌がってたと思ってるかもしれない。仕方ないからと思っていたかもしれない。
 でも、もうそんなことも気にしていないかもしれない。
(だけど、オレは)
 嫌だ嫌だと言葉にしてしまったこと、ずっと後悔をしている。
 あんたが無理矢理だと思っていた最中を、自分のことをひとでなしだと信じてやまなかっただろう時を、そう思わせてしまったことを後悔している。
 その後悔を隠すように、オレは塗り重ねていくんだろう。
「もっと早く、好きって言えば良かった」
 そうすれば、その寂しさも全部オレが掻っ攫ってしまえたのに。
 気怠い体と態度で言ったってなんの説得力もない。なのに、大和さんは嬉しそうに幸せそうに目を細めた。
 オレはまだ、悪夢の中の言葉であんたを傷付けたことを後悔している。