シーラカンスの欲動 - 2


籠一杯に桃を乗せたチシャの手から桃を受け取り、ウィストはぼんやりとしていた。今は服を着替え、薄手の装いをしている。
シンヨーは、常日頃から穏やかな気候をしている。数日居座るだけで、この穏やかさに身も心も溶けてしまいそうになる。住まう人間の殆どが朗らかなのも、そんな気候のせいかもしれない。
貰った桃を囓ると、以前よりも僅かに甘い気がした。思わず、目を見開いた。
「前より甘いだろ?」
そう言って笑ったチシャに、ウィストは無言で頷く。
「甘い。何か変えたのか?」
「マナがさ、もっと桃の樹のこと調べたら、良い桃ができるんじゃないかって言ってたんだよな。それで、勿体ないけど、間引き?っていうの? してみたり、桃に傷が付かないようにしてみたんだ」
「そうか、マナがそんなことを……」
誇らしげに胸を張るチシャが、「最初は、何言ってんだって思ってたけど……」と言い掛けて、深く頷いた。
「今は、やってみて良かったって思ってんだよね」
自分が変わることで、周囲の意識も変えていこうとしているのか――いや、違う。マナ自身にそういう力があるんだ。
ウィストは、手元の桃を見ながら思った。
「あの子は、良い子だな」
「ニーゼから帰ってきてから、ちょっと変わったよな。アイツ、あんなに前向きじゃなかった気がする」
「そうなのか?」
「そうだよ」
不思議そうに首を傾げて、自分もまた桃を囓りだしたチシャの言葉に「そうか」と返事をしながら、ウィストもまた一口桃を囓った。
自分もそうかもしれない。ニーゼにいた時は卑屈で閉塞的で、自分が何かしたところで周囲からの意識は変わらないと思っていた。マナも、そうだったんだろうか?
「ウィストに会ったせいなの?」
「は?」
「マナが変わったのってさ」
突然そんなことを聞かれ、わ、と口を開く。けれど、冷静に落ち着いて考えてみれば、恐らくそんなことはない。
「いや、僕がマナと会った時には、既にああいう感じだったと思う……」
「じゃあ、ニーゼの他の人のお陰なのかな?」
「そ、それは」
そりゃあ、集落の首長であるシャニの人柄は良いし、ヴェイルだって、当時ニーゼにいたラジだって皆、優しく真面目だ。クラブだって落ち着いていて、よく人の話に耳を傾けてくれるし……などと考えている内、ウィストは無意識に眉間に皺を寄せていた。
「ぷはっ! なんだよ、そのしかめっツラ!」
そんなウィストの表情を見て、チシャが吹き出した。籠の中の桃が揺れる。それを「わ、わっ!」と支えながら、それでもチシャは笑いを堪えきれないようだった。
「そ、そんなに笑うことないだろ……」
「だってさぁ、急にそんな顔してたら笑っちゃうって」
困ったように笑ったチシャが、ウィストにつんつんと肘を当てる。
「良いこと教えてやろっか」
「なんだよ……」
「あーもう、拗ねんなって」
ウィストより幾分か年下だろうに、チシャはまるでウィストを宥めるみたいに愛想よく微笑んだ。子供かと思っていると、チシャやアサツキは時折りやけに大人びた表情をする。
「マナ、ウィストにすげぇ会いたがってたんだよ」
「……どうして?」
「どうして……って、そりゃあ」
暫しの沈黙の後、今度口を尖らせて顰めっ面をしたのはチシャの方だった。
「それ、オレに言わせる? 直接聞けよなぁ」
「なっ、そこまで言っておいてか?」
「そこまで言ってやっただろ? 頑張れよ、オニーサン」
そう言い残して、チシャはニヤニヤと笑いながら橋の上を離れて行った。
桃の最後の一欠片を口の中へと放り込んで、ウィストは「はぁ」と溜息を吐く。
「会いたい内の一人が僕だっただけ、だろ」
自分で呟いて落ち込む。落ち込む理由なんて、とっくのとうにわかっていて、オレンジの花を独り占めしたかったのだって、とっくに……驚いていたヴェイルの顔を思い出して頭を抱えた。それまで桃を持っていたことを思い出し、額に指先が触れてしまったことに後悔する。
「ああ、洗わなきゃ……」
芳しい桃の香り、そよ風の優しさ。涼しく、あるいは寒くなることも増えたとは聞くが、それでも元より寒さの厳しいニーゼよりは余程過ごしやすい環境にいるから、だろうか。
「……浮かれてるからだ。こんな風に落ち込むのは」
胸の奥から、とくとくという音が聞こえる。
浮かれてるから。マナの近くにいるのが、触れるのが嬉しいから。だから、大多数の内の一人にされたら苦しい。虚しいとも思う。
「そうだな、チシャの言う通りだ……」
――直接聞こう。こういうことは。
そうは思っても、中々踏ん切りはつかないものである。
橋の上で項垂れていると、偶然通り掛かったリョウブに、しれっとした表情で言われた。
「何してるの、君は。そんな所で蹲ってないで……まさか、体調でも悪いの?」
神官にそう言われては、ウィストも気恥ずかしい。見下ろした水面に浮かぶ蓮の葉を見て、「ああ、いや……大丈夫です」ともう一度頭を抱えた。
そうして、また指先がべとついていたことを思い出し、後悔するのだった。



滅多にそんなことをする者はいないが、身投げと勘違いされて騒ぎになるといけません。そうリョウブに窘められ、ウィストは肩を落としながら帰宅した。
帰宅と言っても仮の住まいでしかないが……そう思いながら、イシの家の扉を開ける。
「……あれ、マナ」
平積みされた本の間に座り込んでいたマナが、びくりと顔を上げた。
「ご、ごめんなさい。まだ読みかけの本があって……」
マナはウィストに気付くと、持っていた大判の本を本棚に無理矢理片付けた。
「ああ、別に構わないよ。今は僕が借りているだけで、元々マナが片付けをしていたんだろう? 以前、図書室も使わせてもらったけど、この家には神殿の図書室にない本も沢山あるようだしな」
「そう……そうなんだよ」
「マナは何を見ていたんだ?」
ウィストが、マナが慌てて片付けた本に手を伸ばす。その手を、ぱしりと掴まれた。
華奢に見えるが、それでも人並みの男の力があるマナの手に驚いて、思わず固まる。
「あ、ご、ごめん……!」
咄嗟に手を出してしまったんだろう。マナ自身も驚いたように手を引っ込めた。自身の手を胸に抱いて、さっと俯いてしまった。
そんなマナを見て、唖然としていたウィストは、何か言わなければと慌てて口を開いた。けれど、何と言っていいかわからないまま、ただ眼鏡を上げる。
「その……そうだ、寝室の方にも本棚があったんだ。少し待っていてくれ。もしかしたら、そちらにもマナのためになる本があるかもしれない」
精々思い付いたのは、今この場を離れることを正当化する理由くらいのものだった。
「ウィスト、時間も遅いし……オレ、もう行くよ」
「いいから、待ってて」
別に、離れたいわけではないのにな。
視線を彷徨わせたウィストは、せめてマナの片付けた本の背表紙だけでもと、タイトルを盗み見た――地獄極楽絵図。古ぼけた字でそう書かれていた。
(……古い本なんだろうか)
ここは、世界が滅ぶことを想定して、他の地を渡り歩いていたイシの家だ。どんな本があってもおかしくはない。ウィストも、一度この家の本棚を改めるべきなのかもしれなかった。
そのままマナを客間に残し、寝室へと向かう。寝具は昼の間に片付けておいたから、自分の着てきた服を隅に纏め……それから、どの本棚を改めるべきか把握しておこうかと部屋に視線を巡らせる。
そこで、昨日の内は壁の装飾と思っていた扉に気付いた。
「もしかして、これも棚なのか……?」
重厚な造りのノブを回す。
「開きそうだな……いたっ」
けれど、ノブが錆びていたのだろう。くすんだ金の金具が、ウィストの指の関節を傷付けた。
ウィストは、そこからぷつりと現れる赤い血を睨む。かすり傷程度、気にする程でもないかと、改めてノブを回した。
艶の所々剥がれた木製の扉はとても重かったが、それでも、力を込めれば開かないことはなかった。
開いた先には、なんともう一つ部屋があったのだ。倉庫代わりに使われていたのだろうか、少し埃っぽい。
しかし、何よりもウィストの目を引いたのは、その小部屋の壁にあった、ある物の存在だった。
「……マナ!」
切ったばかりの指の痛みも忘れ、ウィストは思わずマナの名前を呼ぶ。
それを聞き付けて恐る恐る寝室に入ってきたマナが、「どうしたの、ウィスト」と返事をした。
「マナ、見てくれ! 奥の部屋にこんなスペースがあったんだ!」
マナが不思議そうな顔をして歩み寄ってくるのを見計らって、ウィストは奥の部屋に足を踏み入れる。
そこには、色とりどりのガラスが絵を象っている特殊な窓があった。丁度、月の光が差し込んでいて、その色ガラスの色彩がよく見て取れた。
「わぁ……」
それを見たマナも、感嘆の声を上げる。
「ヨイノでは、こういう装飾を作ってるのか?」
「ううん、家の中にあるのは見たことない……神殿でも見せてもらったことないよ……」
きらきらとするガラス窓を眺めている内、マナがふらりと歩み寄った。
「ガラス、なのかな? こんな、いろんな色……」
「気を付けた方が良い。長い間、人が入っていなかったみたいだから、どうやら金具が錆びていて……さっき、僕も指を切ってしまった」
ウィストがそう言えば、ガラス窓に近付こうとしていたマナが慌てて振り返った。
「ウィスト、ケガしたの!」
「いや、ケガと言うほどじゃ……」
切ってしまった指を持ち上げて見やると、やはりそこには血の玉が浮かび上がっていた。
「少し血が出ただけ」と言い掛けたウィストの手を、マナが取る。その瞬間、切なそうに眉を寄せたマナが、ウィストの指にそっと口を付けた。
「え」
マナの柔らかな唇が、ウィストの指の節をふにと挟んで咥えている。血を舐められたのだと気付く間もなく、びりりとした痛みが節に走った。
「ま、マナ……?」
何故か背徳的に感じる光景に動揺しながらもウィストが呼び掛けると、マナは我に返ったのか、ウィストの指からぱっと顔を離した。頬が、ほんのりと色付いている。
「あっ! あ、あの、ごめん! つい」
しどろもどろに「子供の時、ケガするとこうしてたから……」と顔を覆ったマナが、不意に背中を向けて、そうして「それより」とガラス窓を見上げる。
「すっごく綺麗だね」
窓の縁にそっと手を置いて、ガラスの向こう側を見つめた。
「……そう、だな」
いまだ動揺して心音の速まっている胸を押さえつつ、ウィストもマナの背後に歩み寄る。
「家の中でも、ここの窓だけ特別みたいだな」
「そうだよね。こんなに細かいんだから、沢山作るのは大変そう……」
作物は自然と出来るシンヨーといえど、建造物や道具はそう簡単にいかないらしい。すごいな、すごいなとガラスを撫でたり眺めたりしているマナの背中を見て、ウィストは静かに微笑んだ。
「マナ、さっき見ていた本のような物は、こちらにはなかったようだ」
「えっ……と、あれは、あの本は……いいんだ。偶然見ていただけ、だから」
背中を向けたまま俯いて言うマナに、ウィストは「どうして?」と尋ねる。
「深刻そうな顔をしていた」
「そう? そんなことないよ!」
「……マナ」
触ってしまってはいけないものかもしれない。そう思いながら、マナの肩に手を置く。そっと引いて振り返らせた。
「今日、あまり楽しそうじゃないな……」
「そ、そんなことないよ! ウィストがいて嬉しいし……! ほら、オレ、昼間花の世話をしてたから、ちょっと疲れてるのかも……!」
ふらりと泳ぐマナの視線を絡め取るように、橙の瞳を見つめる。そのまま黙っていると、いつの間にか気を張っていたのだろうか、竦んでいたマナの肩がすとんと落ちた。
「違うんだ。本当に……」
「もしかして……マナは、僕に会いたくなかったのか?」
もしかしたら――試すような言い方をしたかもしれない。その意識はあった。そんなウィストの目の前で、ばっと顔を上げたマナが首を振る。さらさらの前髪が左右に揺れた。
「会いたかったよ……ウィスト、本当に死んじゃったわけじゃないんだよね?」
「クラブはそう言ってる……」
「もし、ウィストが死んじゃってたらどうしよう、どうしようって思って……オレ、だから、会いたくなかったわけじゃないんだって……」
「実体はあるし、ほら、マナにもこうして触れているし……生死が関わっているものではないと思うんだが」
それにしても、どうしてマナがこんなにもウィストの生死にこだわっているのか。自分のことながら、つい嬉しくなる。
(いや、実際に死んでいるとしたら、そんな悠長なことを言っている場合ではないんだが)
ウィストは横に首を振って、それからマナに尋ねた。
「何故、そんなに気遣ってくれるんだ?」
そう問えば、うろうろと揺れていたマナの瞳が濡れた。
「人は、死んじゃったら、極楽ってところに行くんだって……」
「極楽? さっきの本か?」
「そう……そこがね、すごくシンヨーに似てて……」
ぽつりぽつりと言葉を溢すマナが、段々と俯いていく。それを見下ろしながら、ウィストは僅かに首を傾げた。
マナが続ける。
「だから、オレ、もし昔の……過去の世界の人達が死んじゃったら、シンヨーに来てくれないかななんて」
遂には顔を覆ってしまったマナの声がくぐもった。
「そんなこと……そこまでして会いたいなんて……思っちゃいけない、のに」
そこまで聞き終えて、ウィストはマナの肩に置いていた手に、つい力を込めた。
「……マナ」
「オレのせいかもしれない。オレが変なお願いしたから、精霊が聞いちゃったのかもしれない……! もしかしたら、ウィストが死んじゃ……」
「……マナは少し、突っ走るところがあるよな」
「だって!」
ウィストの声にばっと顔を上げたマナの目から、ぼろっと涙が零れた。
ガラス窓を通して入ってくる月の光を受けているそれが、とても綺麗だと思った。
「会いたいって、思ってくれてたんだ」
極めて穏やかに努める。穏やかな声で、感情を抑えて問い掛ける。そんなウィストの声に、マナは深く頷いて、涙声で言った。
「会いたいよ……! 会いたいに決まってる!」
「良かった。僕も、マナに会いたかったから」
「本当……?」
「……うん。初めて精霊隠しに遭った時、すれ違った時からずっと」
え、と声を漏らしたマナの口に、そっと唇を当てる。すぐに離して、目を逸らした。
「へ……?」
「マ、マナは……他にもっと会いたい人がいるんだろうが、その……ぼ、僕は、だな……っ」
ぽかーと赤くなっていくマナの表情が、ガラス窓を通ったカラフルな光越しにもわかる。
マナの肩にやっていた手を引っ込めるタイミングを失ってしまったウィストは、そのまま固唾を飲んだ。
「僕は、マナに会いたかったんだ。会えて嬉しかった……とても嬉しかったんだ」
月の光の中、空気中の埃がその光を反射して、きらきらと煌めいていた。その中心にマナがいる。ウィストのことを正面から見つめているマナがいる。
「実は、チシャから聞いてたんだ」
「え?」
「僕に会いたがってくれてた……って」
それを聞いたマナが「チシャの奴……!」と溢して、口を押さえる。
「だから、すまない」
「なんでウィストが謝るの?」
「……浮かれたから」
額に手を当て、それから僅かに頭を下げた。そのウィストの頭を、マナの手がそっと撫でる。やんわりとした感触が、ひどく心地よかった。
「浮かれたんだ。笑ってくれて良い……」
「大丈夫だよ、笑わないよ」
ガラス窓の縁に体重を掛けていたマナが、そうっと腰を浮かせた。僅かに背伸びをして、ウィストの頬にマナが唇を当てる。離して、それから――二人の視線が交わった。どちらともなく、もう一度唇を会わせる。
「浮かれたから、キスしちゃった……?」
「そう、かもしれない……」
そっか。そう言って笑ったマナの瞳が、月の光を反射する。淡い揺らめきに、ウィストはつい、マナを抱き寄せてしまったのだった。



「お二人さん」
トントン、と寝室の扉をノックされる。まどろんでいる意識をゆっくりと持ち上げ、ウィストは外していた眼鏡を探った。枕を撫でて辿っている内に、ふわふわとした感触に辿り付き、そのまま、そのふわふわに顔を埋めた。
「……ん、んー……」
良い匂いがする。甘くて、美味しそうな良い匂いが――そこで、自分が眼鏡を探していたことを思い出し、薄く目を開けた。
ふわふわの正体、マナの前髪の向こうに長い睫が透けているのを見て、ウィストは自分の目を擦る。
昨晩、マナとキスをして、それから……それから?
ばっと起き上がり、今度こそヘッドボードの上にあった眼鏡を掛けた。
「わ……っ」
掛け布団をすっぽり被って、身を縮こまらせ眠っているマナを見下ろす。
「か、かわいい」
可愛い、そうだ。マナはとても可愛い。寝起きでも可愛い。
しかし、今はそうして心ときめかせている場合ではない。
「起きてるかい?」
ウィストは、扉の向こうから聞こえている男の声を振り返る。
「ク、クラブ?」
身じろぎをしたマナが、既に体を起こしているウィストの腰に擦り寄ってきた。それを、申し訳なく思いながらも、そして勿体なく思いながらも引き剥がす。
「んえ?」
寝惚け眼を持ち上げたマナが、ぱしぱしと瞬きをした。そんなマナを猫にするように抱き上げながら、ウィストはなんとかこの状況を誤魔化そうとしている。
まだ寝惚けているらしいマナが、ウィストに持ち上げられながら「どしたの……」と呟いた。
「マナ、クラブが来ている……」
ウィストは動揺を押し殺して、なんとか小声で囁いた。
「え、クラブ!」
けれど、マナの方はと言えば、途端にぱあっと表情を明るくした。……してしまった。
ベッドから飛び降りて寝室の扉をぱっと開けたマナが、客間の椅子に腰掛けていたクラブに駆け寄る。
「おはよう、クラブ! ウィストのことはわかった?」
「おはよう、マナ」
人懐っこく駆け寄っていったマナに、ウィストは思わず、あー……と頭を抱える。
一方で、クラブはにこやかに微笑んだまま言った。
「マナ、服が乱れてる。外に出る前に少し直した方が良い」
そう、微笑んだままで、さらっと言ってのけた。
「え?」
マナは乱れていたシャツの襟刳りを撫でて、それから――慌ててボタンを閉めた。
最早今更だ。遅れてのろのろと寝室を出たウィストは、マナの襟を背後から直しながら呟く。
「クラブ、何も見てないよな?」
「そういうことにしておくよ」
クラブの返事を聞いて溜息を吐いたウィストを振り返り、マナが口を開いた。けれど、結局何も言わないままクラブの正面の椅子に座る。
「それで……その、僕はどうなってるんだ?」
「ウィストの状態、というよりも……精霊病の反応について、新たな事実が発覚したんだ」
「何だって?」
ウィストは自分の袖のボタンを止めると、クラブに向き直る。
「精霊病を小児期に罹った者の殆どは、成人する前に息絶えてしまう。けれど、成長してから精霊病に罹った者の中に、忽然と姿を消した症例があるらしい」
「忽然と……? そんなことがあり得るのか?」
「おや、君は、数日前の自分のことを早速忘れてしまったのか?」
そう言われ、ウィストははっと自分の胸に手を当てた。クラブに呼び掛けられなければ、人の形を失っていたままだったという自身のことを思い出す。
「……僕は、本当に精霊病に罹った……?」
「レイスが患ったことを考えれば、弟である君も罹りやすい体質である可能性が高い。温室地に現れた突然変異の花、それが精霊の気の噴出によるものであれば、もしかしたら君はその花の影響を浴びたのかもしれないね」
クラブの言葉に、ウィストは僅かに表情を翳らせる。
「同じ場所に、ヴェイルもいたんだ……彼に異変はないか?」
「ああ、念のために、ツェルに精霊病のような症状を訴える者がいないか確認してきたよ。今のところ、その気配はないようだ」
「現状、考えられる可能性と言えば、兄さんと僕の免疫力の類似のせい、ということか……」
ひとまずはほっと安堵しているウィストに、マナが尋ねる。
「ウィスト、変な症状は出てない……? 大丈夫なの?」
「ああ、ヨイノに来てから症状は全く……」
二人の遣り取りを見ていたクラブは、再び口を開いた。
「そして、ここからは僕とイシと……それから精霊たちの仮説になるんだが、ウィストは元の形を取り戻せたから良かったものの、成長してから精霊病に罹った者はより多くの精霊の気を取り込んだ存在になって、人としての体ではいられなくなるのかもしれないな……」
「どういうことだ……?」
目を見開いたウィストが、自分の腕を撫でる。人の肌となんら変わらないその内側に、精霊の気が宿っている……? クラブの言っている言葉の意味はわかるが、それが自分に降り掛かっているという状況に、ウィストの思考はとてもではないが追い付かなかった。
「やはり、僕は、クラブのようになったということか……?」
「いや、精霊たちはそうは言わなかった。今後も経過を見ていく必要があると、イシも危惧してるよ。精霊たちの方は……なんというか、面白がっていたけどね」
「精霊たちからしたら、他人事だもんね……」
唇を尖らせたマナが言った。クラブは僅かに微笑んで「その通りなんだよね」と言葉を漏らした。
「彼らもふざけているわけではないんだけど……困った部分があるのも否めないな」
精霊に寄り添っている身であるクラブのちょっとした小言に、マナは尖らせた唇を指で押し戻す。
「……ウィストは、どうなっちゃうの?」
「今の内ならば、精霊の間を通ってニーゼに戻ることはできる。ウィストの不安定な状態がいつまで続くかはわからないから、なるべくなら……」
そう言われ、ウィストはついマナの方を見た。
少し俯いたマナが、手の甲で目を擦る。決して寝惚け眼を擦ったわけではないことにウィストも勘付いたし、当然、クラブも表情を曇らせた。
二人に見つめられたマナが、小さく溢した。
「……早く、帰った方がいいよね」
「そうだね……」
クラブがはっきりと肯定すれば、鼻を鳴らしたマナがゆっくりと顔を上げた。はらはらと溢れた涙が、テーブルに落ちた。
「おかしいな……ウィストが戻れるってわかって、オレ、良かったなって、思って」
思ってるはずなのに……そう言い掛けて、マナは椅子から立ち上がった。
薄着のまま、客間を離れる。
「……クラブ、ウィストをよろしく」
すーはーと息を吐いて吸ったマナが、涙を拭って笑った。
「ウィスト、今度はお別れ言えて、よかった」
どう見たって痛々しい笑顔からまた涙が零れたのに、ウィストはそれを拭ってやることもできなかった。突き付けられる言葉がわかりきっていたからだ。
「さよなら」
残されたたった四文字の言葉に、ウィストは呆然とした。
マナはと言えば、逃げるようにウィストに背中を向けて、そのままイシの家から飛び出した。
「待て! マナ!」
気後れしたことを悔やみながら、弾けたようにウィストがマナを追う。
「ウィスト!」
そんなウィストの背中を、クラブが呼び止めた。
「止めるなクラブ!」
律儀に足を止めたウィストにそう怒鳴られ、クラブは肩を竦めて言った。
「そんな野暮なことはしないけど、上着。上着を持っていきなよ。あの子、あんな格好じゃ、肌寒そうだ」
ウィストを送り出そうとするクラブが微笑んだ。その表情を見るや否や、ウィストは急に気恥ずかしくなって、自分の上着を慌ててひったくった。
「ああ、クソ! 紳士な気遣いありがとうな!」
一言一句丁寧に発音してクラブに言ってやれば、ひらりと手を振ったクラブが「頑張って」と笑った。



寝起きで跳ねたままの髪を撫で付けもせずに、マナの背中がちょこんと座り込んでいるのを見つけた。高い吊り橋の上にいるから、少しだけぞっとする。
ウィストは、僅かに弾んでいる呼吸を落ち着けようと胸を撫でた――大丈夫。
「マナ」
呼び掛ければ、マナの背中がびくりと跳ねた。普段よりももっと小さく見える背中に持ってきた上着を掛けてやって、ウィストはほっと息を吐いた。
「リョウブにさ」
「……うん」
「そんな所にぼんやり立っていると、身投げをするみたいだからやめてくれって心配されたんだが」
「ウィストが……?」
勿論、そんなつもりはなかったんだ。そう付け足す。
「だけど」
マナの隣に座って、上着を掛けてやった肩を抱き寄せた。
「今、マナの背中を見たら、僕もそう思ってしまった」
「……しないよ、身投げなんて」
ウィストの肩にもたれながら、マナが朝靄の隙間を睨む。少し口を尖らせているように見えるし、少し目元が赤くなっているようにも見えた。
「それに、この高さから飛び込んだことはないけど、オレ、泳ぎは得意なんだ」
「そうなのか? マナはなんでも出来るんだな……」
「ウィストも、きっと慣れれば泳げるようになるよ。ニーゼでは、泳ぎはしない?」
「ああ、寒中水泳なんてやろうものなら、凍死してしまうだろうな」
「そうだよね……」
ふふ、と笑ったマナに、ウィストもふっと笑みを溢した。ようやく笑ってくれた。それがいとおしくて、改めてマナの肩を強く抱き直す。
「……ウィスト、待って」
「す、すまない。苦しかったか……?」
「ううん……苦しくはないけど、寂しい」
どうしてとウィストが問う前に、マナが溜息を吐いた。ウィストはただ瞬きをするに留める。そして、マナの言葉を待っている。
「こんなことしてないで、早く戻れよって思っちゃうから、だから……寂しい」
「マナ……」
今はまだすぐ傍にあるマナの髪に、頬を擦り寄せる。ふわりと春風の匂いがした。心地よくて離れたくなくて、そのままを口にする。
「……このままでいたい」
「でも、ダメなんだよね……ダメなんだよ……」
寂しい。同じ気持ちが、多分ここにあるのだと思う。二つ並んでいるその境目を、マナの手がそっと押して引き離した。
「ウィストがオレに会いたかったって言ってくれて、嬉しかったよ」
「……僕もだ。マナの言葉が嬉しかった」
「だけど、お別れだね」
マナの声が掠れている。けれど、ウィストはしっかりと頷いて見せてやる。
「この世界のずっと過去に、僕のいたニーゼがあるなら……いつか、辿り着くよ。この世界に」
「……極楽の話……?」
ああ、と思う。あの大きい本の絵を思い出しながら、ウィストは目を細めて首を振った。
「そうじゃなくて。何度か違う生き物を辿るかもしれないが、この未来まで絶対に会いに来る」
確証はない。生まれ変わりなんて、これまで信じたこともなかった。けれど、なんとなく、今は信じなければならないような気がした。
ウィストの言葉に、マナが恐る恐る返事をする。
「その頃、オレ、おじいちゃんになってるかもしれないよ……?」
「おじいちゃんでも、マナのことならわかるよ。自信がある」
「でも、見た目だってよぼよぼかも……」
「それでも好きだと思う」
ウィストが真っ直ぐにはっきりと言い切ると、マナの両側の頬がぽわっと赤くなった。
肩を抱いていた手でマナの頬に触れる。仄かに熱い。マナが顔を背けて、それから唇を噛んだ。
「マナ、こちらを見てくれないか……」
俯いて伏せ目がちになったマナのその表情に、ウィストはそっと顔を寄せた。マナの額にキスをして、顔を覗き込む。
「嫌……?」
「嫌じゃないけど……」
「じゃあ、お願いだ、マナ。こちらを向いて」
そう懇願すると、マナは戸惑いながらも僅かに背筋を伸ばした。マナの唇がウィストのそれに重なって、名残惜しそうに離れていく。
「……約束」
「え……?」
「好きなままで、いてくれる……?」
眉を寄せて、その表情に不安を浮かべたマナが、ウィストに向かってそう尋ねる。ふらりと揺れたマナの瞳が、朝の光を受けてきらきらと輝いた。
――なんて、綺麗なんだろう。
生涯、この光を忘れたくない。生涯も、あるかどうかもわからないその先でだって、忘れることはないだろうと思う。
「ああ……約束だ」
それは、叶うか叶わないかもわからない、遠い未来と遠い過去での約束だった。



これは、マーレという地でとある吟遊詩人が聞いた話である。

太古の昔より、深い深い海の底に住んでいた魚がいた。
多くの仲間が滅びる中、その魚は生きた化石として何億もの時を殆ど変わらぬ生態のまま過ごしたと言う。
何故、そんなことが可能だったのであろうか。
一説に、その種は、他の海洋生物とは異なり、住処を変えることを望まなかったのではないか。進化しないがために、ただそこに在り続けることができたのではないかと言われている。
「では、その魚が自ら変わりたいと願ったら、彼らはもっと早くに滅んでいたのかもしれないね」
吟遊詩人は、残酷にも聞こえる変質の歌を歌うのだった。



【 シーラカンスの欲動 終 】