シーラカンスの欲動 - 1


花が咲いていた。温室地の畑の中、ぽつんとそれは咲いていた。本来なら作物の成長を妨げる物の存在を、ウィストはどうしてかすぐに取り除くことができなかった。
手を伸ばして、可憐なそれを指先で撫でる。
「芋の、花……?」
――芋に、こんな色の花が咲くんだろうか? ウィストの意識にやけに引っ掛かるその色は、もしかしたら何かの突然変異で生まれたものなのかもしれない。それとも、精霊の支配の影響か……?
そんなことを考えながら、ふわりふらりと揺れる花を撫でている。ウィストの視線は、その可憐な花一輪に注がれていた。
だからだ。背後から覗き込まれるまで、他人が近付いていることに気付きもしなかった。
「オレンジ色だ……!」
すぐ傍で聞こえた無邪気な声に、ウィストは思わず、びくりと肩を震わせる。
なんだと声を上げて振り返れば、そこにはヴェイルが屈んでいた。ウィストの手元を覗いて、小さな花に微笑みかける。
「芋にこんな色の花が咲くことがあるのか? 見たことがないな……」
「ぼ、僕もだ。もしかしたら突然変異かもしれない」
「突然変異?」
ちかりとヴェイルの瞳が煌めく。ひたすらに好奇心旺盛なこの男に、ウィストは僅かに眉を寄せた。
「芋の品種は、周囲の物と同じはずだろ」
「そうだな。だけど、オレンジ色はこの一輪だけか……」
ふむと唸ったヴェイルが、少しだけ口角を上げて、とても穏やかな声で言った。
「なんだか、マナに似てるな」
「えっ……」
ウィストの口からは、自分で思うよりもずっと鈍い声が漏れていた。
「ほら、あいつ、髪色も明るいしさ。似てるだろ」
「取っちまうの惜しいな」と溢したヴェイルから目を逸らし、彼がマナに似ているという花を見つめた。だから、だろうか。自分もこうして取り除くことを躊躇しているのは。
そういえば、シャニが度々、「ヴェイルはマナを気に入っていたね」と話していたことを思い出す。
(そうだ、僕が不在の間、マナはヴェイルから作物のことを学んでいたんだっけ……)
途端に、マナが褒めてくれた自作のノートが、然程価値のないような物に思えた。何を勘違いしているのだろう。そんなのは、初めから変わらないじゃないか……
ウィストは、ふらりと揺れたオレンジの花を根元から摘まみ、引き抜いた。隣のヴェイルが僅かに肩を落とした気がした。
いくら可憐でも、いくら愛らしくても、ここに咲いている花は作物の生育を妨げる。それを排除して何が悪いのだろう。
ウィストは、引き抜いた花を研究ノートの上に乗せて、すくりと立ち上がった。
「これは、僕が持ち帰る。本当に異常があっては困るからな」
「茎を切っちまったら、長くは保たないんじゃないか?」
「そうかもしれない」
衝動で引き抜いてしまうものではなかった。なんとなくの罪悪感が、ウィストの胸を襲う。
けれど、穏やかにマナの名前を出したヴェイルの前で、手持ち無沙汰なウィストにできるのはこのくらいのものだった。
ウィストは研究のために借りている部屋に戻ると、小さな小瓶に水を汲んだ。引き抜いてきたばかりの花を生けて、小さく溜息を吐く。
本当に分析するためなら、種芋から掘り起こして隔離して、観察を行うべきだった。わかっている。わかっているのに、つい衝動的になってしまった自分の右手を見つめる。
「……マナ」
元気にしているだろうか。
ほんの僅かな期間を共に過ごしただけだったが、ウィストの代わりにニーゼを訪れたシンヨーの少年は、まるで花のような少年だったと思う。
ヴェイルの言う通りだ。小柄で可憐で、明るくて……頭の中でマナという少年のことを思い出す。
ふと息を吐いた。栄養源と離別して生命力を僅かに落としているオレンジ色の花が、ウィストの方を見上げていた。
(こんな粗雑に扱わなくても良かったはずだよな……)
ウィストは、オレンジの花のその花弁に触れる。ただでさえ弱りゆくものだというのに、人の手などで触っては傷を付けてしまうだろう。きっと、これ以上は触れない方が良いに決まっている。
そっと手を離し、上着を脱いだ。焚いていた暖炉を見やって、一休みをしようと考えていた時だった。
突然、部屋の中の景色がぐらりと二重になった。
「え……?」
ウィストは、眼鏡をずらして目を擦る。今度は、頭の中が揺れる。すかさず続いた耳鳴りに、ウィストはきつく目を閉じた。しかし、瞼を下ろしたところで目眩は止まない。つい、そのまま床に膝を突いてしまった。
「……なん、だ、これ……目眩……?」
キーンと耳に響く金属音と、止まない目眩。瞼の裏で眼球がぐるぐると巡っている――酷く気分が悪い。思わず口元を手で覆った。
ウィストはやっとのことで机に縋り付いた。人を呼んだ方が良いかもしれないが、今の自分にそれができるだろうか。頭をなるべく揺らさないようにゆっくりと顔を上げると、先程生けたばかりの花が、静かに、そして冷ややかにウィストを見つめていた。
「め、まい、に、耳鳴り……?」
ここのところ休暇を取っていなかったから、疲労が出たのだろうか? 
あまりにも突然の不調だ。とにかく、少し水を飲むべきだとなんとか体を起こそうとした時、生けていたはずの花が消えていることに気付いた。
「ど、どこへ……?」
よろめいている内に落としてしまった? いや、そんなはずはない。ウィストはふらりと視線を泳がせた。けれど、その先で、信じがたいものを見た。
探していたはずのオレンジの花が、ウィストの右手に絡み付いていたのだ。
茎は、そんなに長くなかったはずだ。先刻千切り取ったはずの茎が、瞬く間にするすると伸びて、ウィストの腕、果ては、胴体に絡み付いてきた。
「な、なんだ、これは……!」
信じがたい光景に目を見張っている間に、その植物はウィストを飲み込み、そうして――

――そうして、
「ウィスト? 一体、何を騒いでいるんですか?」
ウィストの部屋の扉を開けたツェルが見たのは、小瓶の中に生けてある小さなオレンジ色の花と、それから、もぬけの殻になった研究部屋だけだった。



マナ、急に本読むようになったよね。そう言って、眼鏡の向こうで笑ったアサツキのことを思い出す。
「確かにそうだけどさぁ」
それには、マナ自身も驚いていた。自分の中にこんな知的好奇心があったとは思わなかった。
誰も住むことのなくなったイシの家を片付けるついで、蓄えられていたありとあらゆる蔵書に目を通す。神殿にも図書室はあるが、イシが所持していた本は、それとはまた別の分野の物が多かった。
「……写真集なんかもあるんだ」
図鑑のような物も多くある。植物図鑑、鉱石図鑑……動物図鑑などは図室室にもあったが、それとは若干年代が違う物なのかもしれない。書かれている内容が、少し異なっている気がする。
クラブの話では、イシは未来の世界からやってきた人間だという話だし、マナの知らないことを沢山知っていたに違いない。
マナは、ふと手に取った大判の本を開く。そこにはシンヨーに似た淡い景色が描かれていた。
「わぁ……これ、なんの本だろう? 写真……じゃないか。絵?」
〈極楽絵図〉と書かれたそれを眺めながら、マナはそこに記されている内容をなんとか読み取る。
「……全部は読めないけど……えーっと、人が、死後……向かうとされる……? 人は死んだらシンヨーみたいな場所に行くってこと?」
生前に善い行いをした者は極楽へ、悪い行いをした者は地獄へ、それぞれ裁きを受けるのだそうだ。マナは「へぇー」と声を上げて、その絵を隅々まで眺めた。
(それなら……過去の人達が死んじゃったら、シンヨーに来てくれるかもしれない、なんてね)
現実にそんなことが起こるとは、とてもではないが思えない。死後の世界のことなんて誰も知らないし、伝える術もないだろう。マナは、遠い親戚が亡くなった時のことを思い出す。
死者からの信託など、生まれてこの方見たことがない。けれど、残された者は死者を弔う。その儀式をぼんやりと思い出しながら、もう一度思った。
「会えるとしても死んじゃってたら意味ないし……大体、この絵はゴクラクって場所で、シンヨーじゃないんだから……」
改めて、ぶんぶんと首を振る。けれど、見れば見るほど似ている。ヨイノにも蓮の池はあったと思う。
(ああ、でも……もし、もしも一目会えるなら)
大判の本を胸に抱き締めて、マナは吐息を漏らした。
「会いたいな、ウィストに……」
吐息と共に溢れた本音に、つい唇を結ぶ。抱き締めていた本を下ろして、それからゆっくりと立ち上がった。
(結局、お別れも言えなかったもんな……)
クラブに急かされるまま、急にシンヨーに戻ってきた日のことを思い起こす。
あの後、何度かクラブには会った。散れ散れに分かれた皆がどうしているのか、それをクラブは掻い摘まんで教えてくれたが、それでも、どうしたって燻る後悔は残っている。
「……後悔、なのかな」
挨拶をきちんとできなかったこと。それが、果たして後悔という形をしているものなのか、今のマナにはわからなかった。
(ノートだけでも貰ってくれば良かった……)
そんなことを考えていると、イシの家の扉の向こうから「おーい!」と声が聞こえた。何者かが外から扉を叩いている。
マナは立ち上がって、「はーい!」と声を上げた。
「ああ、マナ! やっぱり、ここにいたんだね!」
扉を叩いていたのは、うっすらと汗を掻いたチシャとアサツキだった。僅かに息が弾んでいる。どうやら走ってきたらしい。
「ど、どうしたの、二人とも! そんなに慌てて……」
「慌てるっつーの! お前のこと探してたんだぞ! 早く神殿に向かえって!」
「え? オレ? オレが神殿に呼ばれてるの……?」
はぁと深呼吸をしたチシャが、改めてマナに向き直った。そして言う。
「そう! カイドウ様とリョウブ様が探してるんだ」
「お、オレ、何もしてないよ!」
「あはは……怒られるわけじゃ……ないみたい、だよ……」
ずれた眼鏡の向こうで、アサツキが笑って言った。胸を押さえているところを見ると、チシャと二人で一生懸命にマナを探してくれていたようだ。
「マナに、お客さん」
それを聞いて、マナはきょとんと首を傾げた。けれど、ふと、自分の客人に思い当たる人物がいることに気付き、息を飲んだ。
「行っておいでよ」
「ほら、早く早く!」
二人に背中を押されて、マナはしどろもどろになりながらも「ありがとう」と叫ぶと、イシの家から飛び出した。地面を蹴って、懸命に走る。もしかしたら、もしかしたらと胸は早鐘を打っていた。
「し、失礼します!」
神殿の入り口に向かうと、そこには丁度リョウブがいた。
「花係のマナだね。探していたんだよ」
「は、はい……! アサツキとチシャに聞いて……」
「中へ入りなさい。オウレン様が客人と待っておいでだ。私は、君が見つかったことをカイドウに伝えてくるから」
リョウブに通されるまま、神殿の中に入る。
誰に咎められるでもないが、なるべく静かに、けれど早足で神官長の間へと向かった。
笑顔でマナを送り出したチシャとアサツキの顔を思い出す。あの二人があんなに好意的な相手、それも神官長を通しての客人だなんて、該当する人物をマナは一人しか知らない。
「クラブ!」
マナは、座に腰掛けるオウレンの、その目の前に立っている金髪の青年の名を呼んだ。
彼はマナの声を振り返って、にこりと微笑む。
「マナ、久し振りだね」
「来てたんだ! オウレン様に用事?」
「それもあるんだけど……」
マナはオウレンに会釈をして、クラブに駆け寄った。しかし、マナより随分背の高い彼の、その向こうの人影に気付き、思わず足を止める。
「……え?」
比較的温暖なこの地には似つかわしくない厚手の装い。それを小脇に抱えた青年が、ゆっくりと振り返る。
マナは、彼の顔を知っていたし、彼もまた、マナのことを知っていた。眼鏡の向こうの常磐色の瞳が、マナを捉えた瞬間に爛と閃いた。
「久し振りだな、マナ……」
「……ウィスト?」
つい先刻、会いたいと溢したばかりの相手。けれど、もう二度と会うことはないと、そう思っていた相手に、マナはゆっくりと覚束ない足取りで近付く。ウィストのふわふわした袖元を握って、顔を上げた。
「どう、して……?」
ウィストが、僅かに眉を寄せる、困ったように笑った彼に、マナはなんと声を掛けていいかわからなかった。
「クラブ、どういうこと……? どうして、ここにウィストが……」
「それについて、今相談を受けていたところだよ」
動揺するマナに声を掛けたのは、ゆっくりと姿勢を正したオウレンだった。
「相談? オウレン様に、ですか?」
「そう。クラブ、もう一度聞かせてもらえるかな?」
「はい、そのつもりです」
クラブはオウレンに向かって深く頷くと、理解の及んでいないマナの肩をそっと撫でた。
「マナ、落ち着いて聞いて欲しい。ウィストは、精霊の気の干渉を受けたのかもしれない」
「……精霊の気……ってことは、精霊病に罹ったってこと?」
ウィストの兄・レイスも精霊の気に当てられ「精霊病」と呼ばれる症状に苛まれていたこと。それを思い出したマナは、掴んでいたウィストの袖を更に強く握る。
「ウィスト、苦しんでるの……? まさか、死んじゃったからここにいるなんてこと、ないよな……?」
――過去の人達が死んじゃったら、シンヨーに来てくれるかもしれない。
先程、自分が抱いた淡い期待のことを咄嗟に思い出す。それ故に溢れ出た発言に、ウィストとクラブは顔を見合わせ、それから僅かに頭を抱えた。
「勿論、死んではいないはずなんだ」
「そう……だな」
マナは「じゃあ、なんで」と言い掛けた。オロオロとしているマナに向かって、クラブがそっと口の前に人差し指を立てた。
「落ち着いて、マナ。今説明するよ」
マナはありとあらゆる動揺を吐き出したい気持ちを抑え、きゅっと唇を結ぶ。ウィストを見上げ、それから、改めてクラブに向き直ると、ゆっくりと頷いた。これは、自分自身を落ち着かせるためでもあった。
「うん、聞かせて」
「オウレン様には既に話したんだが……先日、ニーゼでウィストが激しい目眩に襲われたらしいんだ。この時、集落周辺で精霊の気が急激に強まった。僕はそれを察知して、ウィストの元へ向かったんだけど」
「ああ、温室地に突然変異と思しき花が咲いたから、その……僕は、それを観察していたんだ。その最中だった。急に激しい目眩と耳鳴りが起きて、多分意識を失ったんだと思う」
ウィストがそこまで話すと、ふらりとクラブへ視線を投げ掛けた。
「その後、気が付いた時には、クラブに支えられていた」
「そう……僕が見つけた時、ウィストは……なんというか」
言い難そうにするクラブに向かって、ウィストが「言えよ」と呟く。何か不穏な空気に、マナは少しだけ眉をひそめた。
「……人の形を失っていたんだ」
「人の、形を……?」
「ああ……人間には認識できない形になってしまっていた。だから、元の自分の形を思い出すように、ウィストの意識に呼び掛けたんだ。一か八かだったけど……それで、なんとか今の形を保っている」
クラブの言葉に、マナは慌ててウィストに向き直った。袖を掴んでいた手を緩め、袖口から出ているウィストの手をそっと握る。形を確かめるように輪郭を辿って、それから両手で包み込んだ。
「……体温もわかるし、触ってる感じもするのに」
「クラブのお陰だ。意識を取り戻した時には、体の方も元に戻っていた」
マナの手を握り返して、ウィストがふっと目を細めた。
あまりに突飛な話だ。マナは安堵などできず、ウィストの手を胸に抱きながらクラブに尋ねる。
「どうして、ウィストがそんな目に……」
「それが、僕にもまだわからなくてね。その上、ウィストは僕のように、精霊の間を通って時代と世界の行き来ができるようになってしまっていて……」
「もしかして、精霊の誰かがウィストの体をクラブみたいにしちゃったってこと……?」
「そうとも取れるし、これは僕の仮説だけど……もしかしたらレイス同様、ウィストも精霊の気に当てられやすいのかな。彼らは兄弟だしね。そして、これも仮説ではあるんだが……精霊病と精霊隠しには、僕らが思っているよりも密な関係性があるのかもしれない。昔、イシとそんな議論をしたことがあるんだ」
「説明ありがとう、クラブ」
それまで黙って聞いていたオウレンが、ぱんぱんと手を叩いた。
「それで、ウィストをシンヨーで預かって欲しい、という話だったよね」
「はい」
クラブが、オウレンの方を見て静かに頷く。
「ニーゼで変異が起きた以上、またいつ精霊の気が強まるかわからない。勿論、それはシンヨーも同じだけれど……ここには、僕が信頼できる仲間がいるからね」
そう言ったクラブが、マナに向かってぱちんとウインクをした。
「それって、オレのこと……?」
「勿論。ウィストもマナがいれば安心するだろうし……何より、彼は以前にも此処で過ごしているしね。馴染みがあるだろう?」
マナは、チシャとアサツキが嬉しそうにしていた姿を思い出す。そうだ、彼らはウィストのことを世話していたのだった。
「け、けど……またウィストが消えそうになっちゃったら……オレ、どうすれば……」
マナは、震えている自分の声を隠すように、そっと口を手で覆った。
そんなマナの様子に、中心人物であるウィストがはっと口を開く。けれど、代わりにクラブが言った。
「大丈夫。マナも精霊の干渉を少なからず受けた人間だ。ウィストがまた万が一消えてしまっても、呼び掛ければきっと届くさ。それに、誰でもないマナが相手なんだから」
「ク、クラブ!」
それまで大人しくしていたのに、突然クラブの名を呼んだウィストがこほんと咳払いをした。そんなウィストを見て、クラブは何やらぺろっと舌を出す。クラブには珍しく、悪戯に成功した子供みたいな表情だった。
「ふふ……三人とも、それぞれ別の世界の人間なのに、まるで昔から友人だったみたい。仲が良いね」
オウレンが、口元に袖を当ててクスクスと笑う。そうして、紫色の大きな丸眼鏡の向こうで、ゆうるりと目を細めた。
「イシの家が空いているな……ひとまず、ウィストはあそこを自由に使うと良い。寝具が古くなっているだろうから、後で神官に清潔な物を届けさせよう」
「そんな、そこまで面倒を見て頂くわけには……」
「何を言っているんだい。ニーゼの国王……総長だったかな? そのご子息に息苦しい思いをさせるわけにはいかないからね。確か、マナもイシの家に出入りしていたよね」
流石、フジさんとしてヨイノに出向いているオウレンだ。隠していたわけではないが、どうやら筒抜けだったようである。
マナは小さく「はい……」と返事をした。
「今は誰も住んでいないとは言え、他人の家に勝手に出入りするのは良くないことだけれど……片付けに励んでいると聞いている。本当かな?」
「はい、ごめんなさい……イシの資料を勉強させてもらいたくて……でも、片付けをしているのも本当です」
「よろしい。では、ウィストを案内してくれ。彼が暫し生活する上で、不便があれば手助けして欲しい」
オウレンにそう言われ、マナは顔を上げて、何度も頷いた。
「勿論! です!」
お叱りを受けると思っていたが、どうやら今回は免れたらしい。その上、ウィストに付き添っても良いという許しも得たのだから、マナにとっては万々歳だ。
「それじゃあ、僕は少し別の世界に出向いて、事の次第を調査してくるよ。オウレン様、マナ……ウィストのことをよろしくお願いします」
「うん! 気を付けてね」
「すまないな、クラブ……」
いいよいいよと軽く返事をしたクラブは、すっと半透明になって、やがて空間に消えてしまった。その不思議な現象を見ていた二人は、ついウィストの体を眺める。
「……僕も、ああなっていたってことか」
「本人が気を失ってたんじゃ、わからないよね」
うーんと顎に手を当てて思いに耽る二人に、オウレンがカラカラと笑い声を上げた。
「大変な時でもマイペースなのは、決して悪いことではないよ」
何を隠そう、俺もそうだしね。
そんな風に言っていたオウレンの言い付け通り、マナはウィストをイシの家まで送り届けた。
どうやら、資料や薬草を片付けてあった客間の向こうに、寝室をはじめとした生活空間があったらしい。マナは普段そこまで入ることはなかったが、奥にも沢山の本棚があった。
「オレも、読ませてもらっても良い?」
大量の資料を目の前に本に囓り付いていたウィストに向かってそう尋ねれば、ウィストは「勿論」と朗らかに笑った。
「マナは相変わらず熱心だな。好奇心が旺盛というか……」
「うん! ヴェイルやシャニが色々教えてくれたから、オレ、こっちでも頑張れてるよ」
ニーゼで過ごした期間は、マナの中で大切な記憶となっている。それを素直に口にすれば、ウィストは本を片手に、少し視線を逸らしてしまった。
「……ヴェイルも、マナに会いたがっていたよ」
「本当?」
作物のことに関しては、特にヴェイルに世話になった。マナにとっては師のような存在だ。彼もマナに会いたがってくれていたなんて――そう思うと、くすぐったいような気持ちになる。
「嬉しいな……オレも会いたい……」
「……僕が姿を失う前、芋の畑にオレンジ色の花が咲いたんだ」
「オレンジ……? 芋の花は白い物が主流、だよね」
マナがそう返事をすると、ウィストは暫く黙ってから、そっと咳払いをした。
「そうなんだが、ヴェイルの奴、それを見て……その、マナみたいだって……」
「え? 芋の花が?」
小さくて可愛らしいそれが、自分に似合うかどうかはわからない。けれど、マナは思わず声を上げて笑った。
「あはは! ヴェイルはロマンチストだなー!」
「で、でも……」
またも咳払いをして、本棚の角を見つめるウィスト。
なんだか落ち着かない彼に、マナは一歩近付いた。そうした方が、話しやすいと思ったから。
「でも、僕も、そう、思って」
眼鏡のブリッジを上げたウィストの耳が、赤くなっていた。近付いたことで、それがありありとわかってしまったマナは、思わずぽかんと口を開けた。
「すまない。芋の花とマナを一緒にするなんて、失礼だよな……気に障ったら謝る……」
「そ、そんなことないよ!」
手元の本を閉じて、本棚に慌てて仕舞おうとするウィストのその腕に触れる。すっぽりと体を覆う衣服を纏っているから見ているだけではわからないが、案外逞しい体付きをしている。触れた場所からそれがわかって、マナは思わず「わ」と声を上げた。細っこい自分の手足とは大違いだ。
「えっと、そんなことない。オレのこと思い出してくれて……嬉しい。すごく。オレも、ウィストのこと……」
「僕の、こと……?」
――会いたいと思っていたんだ。いつか、遠い過去から来てくれないかなって、思ってしまっていたんだ。
(死んじゃってたら意味ないけど、それでも)
この家の中に存在している絵図の本を思い出す。
ウィストがいつか人の形を失って、その果てで極楽のようなこのシンヨーに来てくれないかなんて少しでも思ってしまった自分の浅はかさに、マナは唇を噛んだ。
(オレ、願っちゃいけないことを考えたのかもしれない……)
本当になってしまった。ウィストが一度は体の形を失って、そんな状態でまたシンヨーに来てしまった。
精霊に、人一人の願いを見透かして聞き届けるような気まぐれがあるだろうか。わからない。あったとしても、そんなことを他の精霊が許すわけないだろう。けれど、現実に、ウィストはマナの願ったようにヨイノに戻ってきてしまった。
「……ウィストにも、ヴェイルにも、シャニにもラジにもさ。会いたかった」
急速に喉が渇くのを感じた。けれど、回り出した口は止まらない。咄嗟に、ニーゼで出会った人々の名前を連ね、蓋をして誤魔化した。
――好きな人を不幸にしてまで会いたいだなんて、そんなこと願ってしまっていいはずがなかったのに。
苦笑いをしているウィストに簡単に挨拶をして、マナは逃げるようにイシの家を出た。途中、自分が片付け逃していた例の絵図の本が目に入ってしまって、視界がぼやけた。
「ごめんなさい」
ぱたぱたと石畳の道を歩きながら、目の縁から溢れた涙を拭う。ぐすと鼻が鳴った。
(ごめんなさい、オレが、変なこと……)
変なこと考えなければ良かった。そうすれば、もっと素直にウィストとの再会を喜べたかもしれないのに。
ごしごしと顔を拭う。
(……ウィストを、ニーゼに返さなきゃ……)
ここにいて良い人間ではない。
歪みが生じるから? そんな理由ではなくて――ウィストの腕に触れた手を見つめる。さっきまで温かかったそれが、急にひどく冷たく感じた。
気付いてしまった。自分が彼にどんな感情を抱いているか。
(どんなに、ウィストの隣が居心地良くたってさ……)
気付いてしまった。彼とどうしていたいのか。
(オレが一緒にいて良い人じゃ、ないんだ……)
そして、気付いてしまったのだ。それが、とても一筋縄ではいかない感情だということに。