水の中で手を掴まれたような感覚だった。
それまで自分がもがく泡に阻まれ、取り巻く水の圧に怯え、諦めてきつく目を閉じた藍色の暗闇の中、呼吸の仕方もわからないまま「不可能」を突き付けられる。その苦しみの最中、手を掴まれたような感覚だった。
「俺は、とんでもない沼に足を取られたもんだと思ったよ」
そんな風に呟いて煙草をふかす。最近は、そうして煙草を吸う姿があまり好きではないなと三月は思う。まるで、その煙の中、言いたくないことを隠しているように見えてならないからだ。
「……あんた、本気で言ってる? オレみたいな奴が転がりこんだ上に、ナギまで連れて来たの、悪かったとは思ってるよ」
三月がそう吐き出せば、大和は少し笑って首を振った。ふらりと渦巻く副流煙がくゆりと揺れる。
薄く消えていくそれを睨みながら、三月はふっと息を吐いた。そんな煙、さっさと換気扇に飲まれてしまえば良いのに。そういえば、換気扇を回していない。三月が立ち上がって、台所の換気扇に向かおうとしたところを、大和が――三月の腰を引き寄せる。
「おい」
誤魔化すな。そう言おうとした口に、煙草のフィルターを差し込まれ、三月は思わず噎せた。けほ、と煙草を吐き出す。床に落ちたそれを、慌てて踵で踏み付けた。
しゅっと消えてしまった橙の火に、三月はほっと息を吐き出そうとした。その口を、すかさず塞がれて、目を閉じる。
大和のシャツをきゅっと握って、ただその口付けを受け入れていると、舌先がメンソールの煙草の味を伝えてきてうんざりとした。
(どっちが、沼だよ……)
この街も、二階堂大和という人も。
くちゃりと絡まる唾液の隙間、メンソールの味はさっさと消えてしまった。瞳を上げる。
(吸った気にもならない煙草、やめちまえば良いのに)
相手のシャツを握ったまま、今も三月は離れられずにいる。
-Tricolor-
男が二人、錆びた階段の下で何かをつついている。それはまるで、死体に群がるカラスのようだった。
男らは横たわっている人間のワイシャツを出鱈目に開いて、次にはスラックスのベルトを外そうと、がむしゃらに手を動かしている。
たった一人を取り囲んで、リンチか? それとも物盗りかだろうか?
「そこにいるのは……ちびっこおまわりさん?」
普段だったらさして相手にしない。けれど、その真ん中で丸まっている獲物に、大和は見覚えがあった。
「ああ……おまわりさんじゃなくて、刑事さんだったっけ」
そう言えば、大和の声に手を止めて呆然としていた男たちが慌てて立ち上がった。外されかけていたベルトが、「死体」の上で間抜けに捲れ上がっている。
「あんな奴らに負けるなんて、らしくないな、和泉刑事……確か、お前がお兄ちゃんの方だよな?」
カンカンと金属の音を鳴らしながら階段を降りていくと、男たちはさっさと逃げ出した。
男たちの慌てふためく足音にも、そして、大和が呼び掛ける声にも、例の刑事は返事をしない――本当に死んでしまっているのだろうか?
まさかなと思い、大和は、横たわっている彼のその表情を覗き込む。
顔色が酷い。今が夜であることを差し引いてもその顔は青く、体はガタガタと震えている。痙攣しているのか、瞬きさえもびくりびくりと不自然で、ままならないようだった。
「和泉……?」
大和が触れようと手を伸ばすと、その刑事は怯えるように身を縮こまらせた。けれど逃れることはできず、ずるりと衣擦れの音が鳴るに過ぎない。
「……おい、どうしたんだよ」
普段大和が見ていた彼の溌剌さは影も形もない。今目の前にある彼は、芋虫のように体をくねらせ、惨めに丸まっている。
出鱈目に開かれているワイシャツのすぐ傍ら、落ちている警察手帳を拾って、大和はそれを開いてみる。
「和泉……さんがつ……? みつきか……なんだ、名前も可愛いかったんだ?」
大和の冗談さえも、まるで聞こえていないらしい。
「三月刑事……?」
三月の警察手帳を自身のスラックスのポケットに差し込んで、蹲っている彼に手を伸ばした。けれど、その手を取ろうとする様子もなく、その上、焦点さえ大和には合わせない。
何を見ているのか、頭を抱えて蹲っては苦しんでいるだけだ。
「参ったな、もう一人の和泉に連絡……」
そう言った瞬間、がしりと革靴を掴まれる。見下ろせば、三月がようやく睨むように大和を見上げていた。
「弟は呼ばれちゃまずいんだ?」
「あ――」
三月の喉から、言葉にならない呻きが上がる。
かは、と吐き出されたのは、さして色のない――涎? 胃液?
そのまま、げほげほと噎せて、また蹲ってしまった三月の腕を引き摺り上げる。異常に重い。
自分で歩かせることは早々に諦め、大和は三月の背中を抱いた。縮こまる彼の膝の裏に腕を差し込み、多少の踏ん張りを利かせて、人の形をした塊を持ち上げる。
「刑事さん、ちょっとごめんね」
がくんと首を項垂れた三月が、朧気に大和を睨む。三月のこめかみに貼り付いた前髪からは異臭がした。
「おいおい、とんだ野良猫拾ったなぁ……いや、犬か……?」
うるせぇよ、そう三月の瞳が言っている。どうやら意識は戻りつつあるらしい。それを確かめ、大和はゆるりと目を細めた。
「そういう顔ができるなら、大丈夫か?」
「そういう顔ができるなら、大丈夫か?」
古くなって廃棄されているらしいダストボックスに隠れていたナギが、そっと顔を上げる。そこには、ふわふわとしたくせっ毛を揺らす小柄な男の顔があった。
「逃げてるの見掛けてさ、追い掛けてたんだけど」
――大丈夫そう? 男を見上げ、その外界の明るさにナギは顔を顰めた。決して睨みたかったわけではない。結果的にそうなってしまっただけだ。
目を擦って、もう一度男を見る。相手の童顔に向かって、ナギは「〈君の方こそ〉」と言葉を掛ける。男は、聞き馴染みのない言葉に首を傾げていた。
「失敬……あなたの方こそ、彼らに危害を加えられませんでしたか?」
ナギは日本語に切り替え、改めて尋ねる。すると、ナギを見下ろしていた男が、ほっと安心したように息を吐いた。
「オレの方は大丈夫。それより、堅気じゃないのに追われてたみたいだな……そこから出られるか?」
ナギは男に誘導されるまま、ダストボックスから抜け出す。生憎と体は柔らかいので、多少狭いところに隠れていても……とはいえ、限度がある。ふらふらと無様に這いずり出て、改めて童顔の男を見た。
「……彼らはどこへ?」
「ああ、ちょっとさ」
男が顎で示す方を見れば、地面に崩れている黒服が二人ほど。
「ちょっと怪しかったから、寝ててもらってんだけど……もしかして、まずかった?」
涼しい顔でそう言ってのけた男に、ナギは僅かに首を竦める。一体、何者なのだろう?
「……どなたかは存じませんが、助かりました。随分と強いのですね?」
「あー、まぁ、元刑事だからさ。多少は覚えがあるっつーか」
「ケイジ? 日本のポリスですか?」
「元、だけどな」
眉根を寄せて笑う男に、ナギも釣られて微笑んだ。
「お名前を伺っても?」
「ああ、オレ? 三月。ミツキ・イズミ。そっちは?」
「ナギ・ロクヤ。六弥ナギと申します」
ナギはシャツの胸元のレースを整えて、そっと胸に手を添えお辞儀する。抱えていたクマのぬいぐるみの埃も払った。ついでに、ナギは腰にもいくつかマスコットを下げている。
「こちらは、クマのハルキ。それから、こっちはここなで……」
マスコットに一つずつ挨拶させようとすると、途中で三月がナギの言葉を遮った。
「なぁ、オレが言うのもなんだけどさ、こんな所で悠長にしてて良いのかよ。お前、何で隠れてたんだ?」
「それは」
ナギが隠れていたのは他でもない。三月が先程のした輩に追われていたからだ。それを、三月も察していたのだろう。彼の表情からは少しだけ焦りの色が見える。
ナギはここなのマスコットを胸のポケットに入れて、それから率直に「ワタシは追われています」と言った。
「そいつはまた物騒な話だな」
「はい、とある研究施設から逃げている最中です……」
ナギは、クマのハルキを抱く手に力を込める。
「組織の人間は、ワタシのことを連れ戻そうとしています」
「組織……? お前、綺麗な格好してるけど、何かヤバい奴?」
「ヤバくはないと思いますよ」
ヤバいかヤバくないかを、ヤバいと思しき人間に聞く物ではありませんよ、ミツキ……と思いながら、ナギはそっと三月の肩に手を置いた。
「それよりミツキ、もう一人追っ手がいたはずですが、彼の行方をご存知ですか?」
「あと一人……? え、マジ? そういうことはもっと早く言って欲しかったぜ……」
「失敬……」
ナギはキョロキョロと視線を巡らせた。周辺には、既に追っ手はいないように見える。
「ミツキは、この街に詳しいですか?」
「まぁ、それなりにはな」
「どこか、ワタシのような人間が紛れ込める場所をご存知でしたら、是非教えて頂きたいのですが……」
「紛れ込める場所、ねぇ……」
頭を掻いて言い淀む三月に、ナギが僅かに首を傾げる。すると、目の前の三月は困ったように笑った。
「どうだろう、良いって言うかなぁ……」
もしかしたら、三月にはナギの不安が伝わってしまったのかもしれない。ナギはそんな風に思った。
「安心できるかどうかわかんねぇけど、ついてこいよ」
幼い表情を持った三月のその姿が、今のナギにはまるで天使のように見えた。
それは、がむしゃらに泳いでいた水の中で手を掴まれたような、そんな感覚。安心するには早いが、それでも確かに安らぎへと繋がるものであった。
三月は小柄な体型ながら、大人っぽいスラックスを穿いていて、足下にはキャメルの革靴というスマートな佇まいだった。それが、三月の幼い顔付きとアンバランスに見えながらも、決して釣り合わないわけではない。
腕に抱えているスーツのジャケットが汚れているところを見ると、もしかしたらナギを助けるために台無しにさせてしまったのかもしれなかった。
元刑事と言うからには、本人の言う通り腕に覚えがあるのだろう。それにしても、組織の人間を二人ものしてしまうとは思えない外見をしている。どこにそんな力が隠されているのだろう。
「ミツキ……ジャケットは無事ですか?」
「ああ、これ? 元々裏地が裂けてたし、ナギのせいじゃないよ」
「それなら良いのですが……生憎と、今のワタシにはお返しできるものがありません。台無しにさせてしまっていたら申し訳がない」
ナギが不安そうに声を掛けると、三月はやはりニッと笑ってナギを見上げる。
「……律儀な奴で安心した」
こんな天使がエスコートしてくれるのだから、行き先は穏やかな場所に違いない。そんな油断が身を滅ぼすことを知っていながら、ナギは三月を信じてみることに決めた。
ここまで、一人で逃げて隠れてを繰り返していたことに疲弊していたせいもある。少なくとも三月はナギの敵ではない。もし彼が敵だったとするならば、あそこで追っ手二人を殴り倒す必要はないのだ。
組織からは、ナギに危害を加えるなという条件は出ていないだろう。何がなんでも検体として連れ戻したい。死ななければ良い。注文は、それだけに違いない。
(組織以外の人間が、私に接触する可能性は極めて低い)
そう、だからこんな天使に唆されるのも悪くはないはずだ。ナギはそう思っていた。
三月はとても愛らしい顔立ちをしている。あとは天使の羽でも生えていれば完璧だろうに。
そんなナギの安穏とした油断は、別の意味で砕かれた。
「〈なんてことだ。悪魔みたいな男が出てきた……〉」
「誰が悪魔だよ」
思わず口を突いて出た英語に、何の躊躇もなく返事をする悪魔。もとい悪魔のような男が、目元の眼鏡ぎらつかせてナギを睨んだ。
「おい、ミツ。この失礼なガキ、どこで拾ってきたんだ? 初対面で悪魔って、どういう神経してんだっつーの……」
「ああ、なんちゃらデビルってそういうこと? まぁ、間違ってねぇよな。大和さん、目つき悪いもん」
だははと大口開けて笑う三月と、その向かいの机で頬杖を突いている男。その二人を交互に見やって、ナギは溜息を吐いた。
天使に連れられてきた先は、古いマンションの一室だった。
どうやら、ワンフロア丸々この眼鏡の男の物らしい。エレベーターで移動する途中、三月が「事務所兼自宅」と言っていたことを思い出した。
「ナギ、このおっさんさ。ああ、この悪魔? オレの雇い主。大和さん」
「だから、誰が悪魔だ! 怒るぞミツ!」
「まぁ、顔は悪人面だけど、悪い人じゃないよ。いや、悪いか……? 悪いことしてないって言えば嘘になるか?」
三月が、大和本人の方を向いて尋ねる。悪魔だの悪人面だのと言われた大和は、三月を睨み付けて口を尖らせていた。
そんな大和を見て、ナギはぐるりと首を巡らせた。部屋の中は物が少なくすっきりとしているが、それでもここが古い建物であることは否めない。広い空間にはベッドとソファと、奥にはキッチンが見える。二人分の食器が適当に積まれていた。
「〈ああ、天使についてきたはずなのに……まさか、行き先が地獄とは〉」
「〈地獄とはなんだ、地獄とは。本当に失礼なガキだな……〉」
返事をしてくる大和の隣でぽかんとしている三月。どうやら、三月にはうまく通じていないらしい。
「それよりさ、大和さん。こいつ、何かヘンな組織に追われてるらしくて、ちょっとの間匿ってやってよ」
「はぁ? 何お人好しかましてんだ、お前さんは……大体、お前が勝手に連れてきたってことは報酬の話もしてないんだろ? こっちはビジネスやってんだぞ。ボランティアじゃねぇんだよ」
そう言う大和に、三月は両の手をぱんと合わせて「お願い!」と言った。
「オレも、こいつの追っ手? 二人のしちまってさぁ……で、もう一人仲間がいるらしいんだよな。なぁ、これってヤバいよな?」
大和は、「なんだって?」と素っ頓狂な声を上げた。
「どうしてそういうことを早く言わないんだ、お前は……」
「ごめん」
三月の話を聞いていた大和が、ぎりぎりとぎこちなくナギの方を振り返る。
「お前……ナギって言ったっけ。何者? なんで追われてるんだ? 組織ってどういうことだよ」
「あなた方の方こそ、先程ビジネスと言っていました。一体、何のお仕事をなさっているのです?」
ナギが逆に聞き返すと、大和の隣にいた三月がすたすたとナギに歩み寄った。それから、ナギの持っているクマのハルキの顔を覗き込み、にこりと笑う。
「オレたち、殺し以外の依頼ならなんでも受ける事務所やってんだ。探偵みたいなもん? 二階堂事務所って言うんだけどさ。オレはボディガード兼所長補佐。で、大和さんが所長」
「ついでに、自分は居候ですって付けとけよ、ミツ」
「……ああ、そうそう。訳あって居候させてもらってる」
渋々とそう言った三月が、余計なことをとばかりに大和を振り返った。そんな大和が、嫌みっぽく溢す。
「その居候が、勝手に面倒そうなの連れてきたわけだ?」
「まぁ、そう……そういうことです」
ナギの目の前で小さくなる三月。そんな三月を眺めつつ溜息を吐いた大和が、そっとデスクから立ち上がった。つかつかと歩み寄り、それからナギのぬいぐるみをやはり覗き込む。
そして、今度はナギの瞳をすいと覗き込んだ。目付きは悪いが、どこか愛嬌のある顔をしているこの眼鏡の男は、ナギの瞳をじいと見つめたままで笑った。
「随分とまぁ、綺麗な顔してるんだな? それに、見たところ服も上等。なんでミツがのしちまうような奴らに追われる羽目になってるんだ? この辺、物取りもあると言えばあるけど、そういう感じじゃなさそうだし……話の内容によっては匿ってやっても良い。まぁ、うちの従業員にも軽率なところがあったしな」
そう言われ、三月が大和の隣でぽりぽりと頬を掻いていた。
仕事の内容に不明瞭な点が多いが、一概に悪い人間だとは思えない。ナギは、そっとクマのハルキを抱き直す。
「ハルキ……話しても、大丈夫でしょうか……?」
「ハルキ……?」
「って、確か、そのクマだよな……」
ナギと出会した時の記憶を手繰り寄せてそう尋ねた三月を、大和が振り返る。三月と大和は顔を見合わせ、それから首を傾げた。
「そのぬいぐるみが、何だって?」
「……ワタシを追っているのは、ある研究組織の人間たちです。ワタシは、そこで長らく被検体にされていました……その中で、研究員の一人、ハルキがワタシを逃がしたのです」
「その人、このクマと何か関係あんのか?」
三月は、ナギの手元の「ハルキ」を指さして尋ねる。
「Yes……これは、ハルキからワタシへのプレゼントです」
ナギが、改めてクマのハルキを抱く腕に力を込めた。
「ハルキは、母国より連れ出されたワタシに日本のことを沢山教えてくれました。そして、この街まで逃がしてくれた……まるで映画のように思えるでしょう? けれど、嘘ではありませんよ」
冗談のように言ったナギに、三月と大和は再び顔を見合わせ、それからぼそりと呟く。
「自分のことを被検体だって言ったな」
「はい。その通りです」
「ナギ、お前は、具体的にはどんな実験を受けてたんだ? 知ってる範囲で良い。教えてくれないか」
「それであなた方の警戒が解かれるのであれば、お安いご用ですよ。そうですね……ワタシが受けていた実験は、前頭葉の活性化……脳の改造です」
ふらりと、三月が視線を落とす。その一方で、大和は表情を変えないまま、「それは」と続けたが、大和の言葉は部屋の隅から鳴ったビープ音に掻き消された。
「おい、ミツ……詰めが甘かったツケが今、このタイミングで回ってきたんじゃないのか?」
「えー……尾行されてたかな? おかしいなぁ……誰もいなかったよな?」
それまで少し表情を曇らせていた三月が、わざとらしく驚いたような表情をした。話を振られ、ナギはうんうんと頷く。
「見える範囲では」
「見える範囲では、だろ」
そんな三月の態度を見かねて、大和はさっさとデスクに戻った。開いたままにされていたパソコンを覗いて、さっと眼鏡のブリッジを上げる。
「あっちゃー……」
横からそのモニタを覗いた三月が、半笑いで言った。どこまで本気なのか、さっぱりわからない態度だった。
「ミツ、さっきの喧嘩、お前さんの稼働時間は……?」
「えーっと、七分くらい……?」
「本気で動けるのは、精々あと二〇分ってとこか……」
モニターを睨みながら、何かの数を数えている大和。三月と大和の二人は、ほとんど同時に顔を上げて、ナギに向かって手招きをした。
ナギは招かれるまま素直に近付き、そして、促されるままモニターを見つめる。そこには、組織の人間と思しき者たちが四人ほどだろうか、映っていた。コンクリート張りの駐車場、そんな場所でコソコソと動いているのが見える。
「ここは……?」
「このマンションの一階だな。駐車場になってるよ」
冷静に言う三月。
その隣で、肩を落としている大和が、デスクの引き出しをがらりと開ける。
「相手が悪そうだ。ミツ、一応携帯しとけ」
「えー、重たいからいらねぇよ」
なんのことかと思い、ナギも視線を落とせば、そこには拳銃が収まっていた。些かぎょっとする。
「……あなた方は、本当に一般人ですか?」
「はい、善良市民です」
「模範的市民でーす」
本当に、どこまで本気かわからない態度だった。
三月から拳銃の所持を拒否された大和は、さっとその引き出しを閉め直し、鍵を掛ける。
「って、悠長に言ってる場合じゃないぜ。オレ、ちょっと行ってくるよ、大和さん」
「ちょっとで済むか?」
「済まなかったら連絡する!」
そう言い残してさっさと走り出した三月が、派手に部屋のドアを開ける。
「了解……って、ちょっと待てミツ!」
大和は慌てて、そんな三月の名前を呼んだ。振り返った三月が、持っていたジャケットを部屋の中に放り投げる。
その代わりに、大和が「何か」を三月に投げ渡した。三月はくるりと体を翻しながらそれを受け取ると、「サンキュー!」と言って走って出て行った。
「ミツキ一人で大丈夫なのですか……? せめて、警察に連絡を……」
「あー、それもするけど、大丈夫大丈夫。今、保険も渡したし?」
宙を舞って三月の手の中に滑り込んだもの。銃の所持は先程拒否されたというのに、大和は三月に何を渡したというのだろう。
「あれは一体何なのです?」
「あれ? あれは」
マンションの廊下を走り、そうしてエレベーターを待つことなく非常口の階段を滑り降りていく三月の手には、銀色に光る金属の塊が二つ。
風のように走り抜けていく三月が、それを両の手に嵌める。
映ってすぐに消えてしまったが、そんな三月の様子を別のカメラで確認しながら、大和がニヤと笑った。
「指輪だよ、指輪」
さて、と大和が眼鏡のブリッジを上げた。そして、改めてナギに向き直る。
「お前さん、前頭葉の改造を受けたって言ってたな。具体的には、それで何ができるようになったんだ?」
ほんの僅かだが、大和の顔付きが変わったように感じて、ナギは固唾を飲む。
「……信じるかどうかはヤマト次第ですが、ワタシには人の死の予測ができます。あくまで予測の範囲……ですが、人間の脳は九割が使われないままで存在している。その一部が活性化した結果、ワタシは、目の前の状況において、常に最悪のパターンを予測することができるのです。例え、ワタシの意識が気に留めていないようなことでさえも……」
「なんだそりゃ……殆ど第六感ってことかよ」
聞き慣れない言葉に、ナギはつい聞き返してしまう。
「ダイロッカン?」
「あー……シックスセンス?」
天井に視線を巡らせ、「第六感」と言った大和に、ナギは何度か頷いた。
「ヤマト、ワタシからも質問があります。よろしいですか?」
「ああ、どうぞ。俺が答えられる範囲ならな」
ひらりと手を上げた大和に、ナギはふっと小さく息を吐いて、それから階下に降りていった三月の幻影を視線で辿る。
「ワタシの能力が、ミツキの死期の早さを算出しました……大丈夫かと尋ねた時、彼は大丈夫だと言いました。けれど、ワタシには、ミツキを見ていると何故こんなにも不安になるのかがわかりません……彼が元々刑事だったということを考慮しても……何か、心当たりはありますか?」
そう尋ねると、大和は些か不機嫌そうに眉を顰めた。けれど、すぐに溜息を吐いて頭を横に振った。
「あーあ、何かが見えてるってのは本当らしいな」
「〈……もしや……彼は、病気なのか……?〉」
「いいや、そうじゃない。そうじゃないが……俺が今お前に色々聞いてるのも、ミツの……和泉三月のためなんだよ」
「Why……?」
「何故だって?」
どういう顔をしていいかわからない。けれど、頭のどこかが勝手にぎゅるりと歯車を回した――まさか。
「あいつもお前と同じ……改造を受けた人間だからさ」
たんっ!
三月は最後の階段を下りきって、はっと息を吐く。
このマンションは元々、外敵からの襲撃に対して些か手強いように作られていた。
まず、非常階段は二つ存在している。ターゲットの連中が進行をしている階段、あれは表向きの物だ。それに対して、今三月が駆け下りてきた階段には少し細工があった。
三月は、防火扉の、そのまた更に内側にカモフラージュされていた非常階段の出口をそっと開く。
大和に言われたタイムリミットは二〇分。階段を駆け下りてきたことを考えれば、あと十五分ほどで片を付ければ十分だろう。
(さてと……)
メリケンサックを嵌めた両の手を、ぎりりと握り直す。防火扉の隙間から、非常階段の周囲を警戒している相手を睨んだ。駐車場に残ったのは二人、つまり、階段を登り始めたのは別の二人ということになる。三月は片手で携帯電話を操作して、大和に伝える――上ったのは二人。多分。
そして防火扉の隙間から抜け出し、身を低くする。駐めてある車の影に体を忍ばせ、相手の二人分の得物を確認。
三月の瞳孔が、きゅるると音を立てて広がった。
(スタート)
後ろ足でコンクリートの地面を蹴る。
相手の得物は拳銃。あれは両方ともオートマチック――自動式拳銃は連射に長けるが、発射の反動が大きい。相手は、発砲にそれなりに慣れているということになる。
いくら三月が身軽に足音を殺そうとも、近付けば気配は悟られる。二人の内、一人が三月の存在に気付き、声を上げようとした。上の人間にバレるのは上手くない。が、両者共に耳にはインカムがある、報告を防ぎきるのは難しそうだ。
ならば、できるだけ早く、速やかに片付けるべきだ。
三月は体勢を低くしたまま大男の懐に飛び込むと、そのまま左の足裏に力を込める。地面を蹴り上げ、全体重を乗せたアッパーを顎にお見舞いしてやったそのままに、男の襟刳りを掴む。ぶんと回して、もう一人に向けた盾にさせてもらう。
流石に、味方を盾にされれば多少の動揺も生まれるものだ――それも、三月のような小柄な人間にされれば尚のことだろう。たじろいだ一人が後退る、その動きを、三月は大男越しに見逃さなかった。
大男の襟からさっと手を離す。ゆっくりと崩れていく巨体にタックルをして、吹っ飛ばした。いくら全体重を掛けようとも、体格差を考えれば容易いものではない。が、今の三月は、それを「可能」にしている。
――一時的な身体能力の増強だ。
吹っ飛んだ大男の直撃を食らったもう一人が、その重さに泡を吹いて気を失った。それを確認して、三月は男の手元の自動式拳銃を、計二丁を回収する。
「……弾は使ってないか」
安全装置が掛かったままになっている一丁、それをベルトに挟んで、三月は立ち上がる。もう一丁だけ握って、安全装置を確認した。こちらは、今さっき三月に向けられた物だ。外れている。
上部から、僅かな足音が聞こえる――異変に気付いて戻ってきているのかもしれない。
耳を澄ませば、その足音は段々と早くなる。三月は開けたままだった防火扉にそっと体を滑り込ませ、しゃがんで身を潜める。
ここを上って、逆に階上から狙ってやってもいいが、間に合うかは微妙なところだ。更に仲間を呼ばれては……流石に、三月に許された時間の方がタイムアップしてしまう可能性が高い。
薄目に開けた防火扉から非常階段を見れば、身を潜めながら降りてきたのは一人だけだった。恐らく、もう一人は上の階に残っているのだろう。
三月は、撃たれることなく弾が装填されたままの銃をちらりと見下ろす。
周囲を警戒しながら仲間の身体を探っている男に向けて、標準を合わせた。三月がトリガーを引けば、発砲音が駐車場に響く。続いて、男の体がびくりと震え、崩れた――たかだか、肩に一発くれてやっただけだが、意表を突いた効果はあったらしい。
三月はさっと歩み寄って、倒れ込んでいる男の――先程弾を撃ち込んだ場所を、革靴の底で踏み付けた。
「ぐあああ……っ!」
「静かにしろ。お前らの目的を言え!」
「な、なんだお前っ、う、ぐう」
呻き声を上げながら三月を睨み付ける男の肩を、更に強く踏む。
「早くしろ。こいつらは気絶してるだけだけど、お前はどうだろうな? 今なら医者を呼んでやってもいいぜ」
「〈この、クソ野郎!〉」
「あーあ、まーた英語かよ……」
三月は、仰向けになっている男の鳩尾に踵を落とす。本人からすれば極めて軽くであったが、果たして受けた人間は……どうだったのだろうか?
くたりと気絶した男からも銃を取り上げ、スーツジャケットの中を探る。情報源になりそうなものは入っていない。
「……あと一人に懸けるかぁ」
三月はがりがりと頭を掻いた。手元にある自動式拳銃をすべてベルトの間とポケットに突っ込み、安全装置が外されたままの一丁だけを握り直す。
風のように非常階段を駆け上り……体を慌てて翻す。頭の上から降りてきた銃弾を、壁に隠れて避けた。
「ちっ……」
もう一発撃たれようものなら相手のおおよその位置がわかるが、それだけのために囮になるにはリスクが大きい。見晴らしの悪い階下では、情報が少な過ぎる。
三月は暫し逡巡する。携帯電話を取り出し、大和に電話を掛けた。
「やーまとさん!」
「な~あに?」
「……なぁ、オレちょっと立場悪いんだけど、そっち元気?」
電話のスピーカーを通さずとも、声が反響してくる。非常階段の上からだ。
三月はにやりと口角を上げて、それから階段の上を見上げた。
「まぁ、こっちはそれなりに?」
そこには、両手を挙げて固まっている男と、その男に背後から銃口を向けて立っている大和の姿があった。
三月はそれを見て、飛び上がるようにして階段を駆け上る。
「よっしゃー! 助かったー!」
「時間ギリギリ過ぎだよ。何タラタラやってんだ。だから持っていけって言っただろ」
自分の手元の銃を一瞥する大和に、三月はくるりと回って自身の腰周りに挟んでいる拳銃を見せ付ける。
「だって手に入ったしさ?」
そのまま、手に持っていた拳銃を一発、壁に向けて撃ち放す。手を挙げたまま微動だにせずにいた男が、びくりと体を震わせた。
三月は、弾倉が空になった状態で安全装置を掛けると、それをベルトの腰骨の辺りに挟んだ。
「持って行ってたら、重量オーバーになるところだったって」
大和に近付きながら、ふらりと手を上げる。そのまま――動けずにいる男の脇腹に向かって、拳をねじ込んだ。
一瞬の静寂、ばきりと鳴る音――何の音だったろう。恐らく、肋の骨が折れる音だったと思われる。
吹き飛ばされた男が階段の手すりにぶつかり、そのまま沈み込んだ。
「おいミツ、手すり歪んだし、まだ話も聞けてねぇのに……」
「悪い」
大和が銃を下ろし、そして、ハァハァと僅かに息を乱している三月の頬を掴んだ。ずいと瞳の中を覗き込み、そして眉間に皺を寄せる。
「ミツ、興奮してる……?」
「ちょっと……いや、かなりかも。久し振りに激しく動いたからかな……?」
マンションの廊下で不安そうに二人の様子を見ていたナギと、大和の視線が合った。
「ミツがのしたからには、どいつもこいつも暫く動けないだろ。とりあえず安心しろよ」
「Thanks……ミツキも、無事で何よりです」
「おおー」
ふらんと腕を上げた三月は、大和に首根っこを掴まれたまま部屋に戻される。ベッドの上に放り投げられ、そのままきつく目を閉じてしまった。
「クールダウンしろ。今すぐ」
「はぁ……はいよ」
その傍らに大和は腰掛けて、三月の頬を指先で撫でる。
その頬は火照っているのか、真っ赤に上気していた。三月はそんな大和の手首を掴んで、再び目を閉じた。
「……ったく」
大和はと言えば、もう片方の手でさっさと携帯電話を操作する。
「あー、都内×××、×―××、二階堂事務所です。不法侵入が四人、うちの敷地内で倒れてるんで、至急……刑事課の狗丸サンがいいな。回してくれ。よろしく」
それだけ言うと、電話を切った。
ナギはゆっくりとベッドに歩み寄る。苦悶の表情を浮かべている三月の体は震えているし――クールダウンとはどういうことだろう?
「ミツキが改造を受けているかもしれないというのは、カメラを見て納得しました。しかし……これは?」
「言ったろ。ミツの場合は、多分……不完全なんだ。激しく運動した後は、その反動で力加減ができなくなる。ついでに、運が悪けりゃフラッシュバックが起こる。〈多分、相当酷い目に遭わされたんだろうな?〉」
「〈……なるほどね〉」
「〈しこたま妙な薬を打たれたって言ってた。そいつの後遺症のせいで、ミツは刑事を辞めちまった〉」
ナギが表情を曇らせる。三月に握り締められている大和の手首は、鬱血して赤く、否、既に赤紫になっていた。
「力の、加減……」
ナギは抱いていたクマのハルキを強く抱き直し、三月に近付こうとしたが――が、突然、三月の体がびくりと跳ねた。
彼の寝かされているベッドが、ぎしりと音を立てる。
「う、あ……っ、あ、や、だ……ヤっ……」
がくがくと震え出す三月に、ナギは驚き、つい大和を見やる。こんな異常な様子も見慣れているのか、大和は嫌に冷めた表情をしていた。
「〈ヤマト、これは……これがフラッシュバック?〉」
「あーあ……どうすんだよ、もうサツ呼んでんのに……」
大和が、三月の首元のネクタイを指で引いて緩める。
「え……?」
「……ナギ、これから俺たち、とーっても見苦しいことするからさ。部屋から出てな。耳障りだったら、向かいの部屋に閉じこもってたらいい」
「見苦、しい……? 何を、するのです……?」
「見ない方がいいコト」
そう言って、大和は解いたネクタイを三月の手首に結んだ。自分の手首を掴んでいる三月の手を無理矢理剥がして、もう片側の手首と同様にネクタイを巻き、ベッドのヘッドボードに括り付ける。
「〈ヤマト! 何故ミツキにこのような乱暴なことを……!〉」
「こうしないと、抑えきれないからに決まってんだろ」
ガチンガチンとヘッドボードに頭をぶつけながらのたうち回る三月。そんな三月のスラックスのベルトを外しながら、大和はナギをしっしと手で払う。手首は相変わらず鬱血していて、見るからに痛そうだった。
なのに、その手が三月のスラックスを下着ごと下ろした。
「は……?」
ナギは、咄嗟に後退る。
露わになった三月の性器は勃起して、自身の精液で濡れそぼっていた。三月の衣服をベッドの下に放って、大和が肩口に振り返る。三月のポケットに入っていたメリケンサックが床に当たって、ゴトンと鈍い音を立てた。
「だから、見ない方がいいって言ったろ?」
「表に出てろ」と無表情のまま言われ、ナギは逃げるように部屋の外に飛び出した。
壁を挟んだって聞こえる。苦しみ呻いていた三月の声が、次第に嬌声に変わっていく。その最中、ぎしぎしとベッドが、床が軋む音が、肌のぶつかる音がした。
ナギは、その中、呆然と部屋の外で蹲っている――同性がそういうことをする。知ってはいるし、偏見はない。けれど、
「〈天使は、悪魔に食べられちゃってたな……〉」
腰の、ここなという名前のマスコットを取り外して、そんな風に呟く。
ただ漠然とそう思った。まるで、羽を毟られているみたいに乱暴に見えた。
(なんで)
やはり、ぬいぐるみは良いものだ。死期も見えないし、生々しさだってないんだから。
「だから、だぁれが悪魔だよ……」
暫くして静かになった部屋から、ワイシャツを着崩した大和が現れた。
相手を縛ったとは言え随分と手を焼いたのか、汗だくでぐっしょりと髪を濡らしている。
「〈わぁ、不潔な悪魔だ……〉」
「仕方ないだろ。てっとり早く戻す方法、他に思い付かねぇんだからさ……」
大和は口に煙草を銜えて、その先端にライターで火を灯した。吸い込み、ふっと煙を吐く。だらりと垂れ下がった大和の右手首には、三月が先程握っていた痕が紫色に残っている。
ナギは、そっと大和のシャツの中を盗み見た――殴打の痕。凶暴化している三月の体の相手をするのは、一筋縄ではいかなそうだ。
「〈……戻す方法? この行為に愛はないってこと?〉」
「愛だって……?」
「〈だって、セックスだろ。君たちがしていたのは〉」
煙草を中指と薬指の間に挟んだ大和が、ふらりと口の前に人差し指を立てた。そうして、少しだけ微笑んで言う。
「〈秘密。どっちかって言えば、無い〉」
「《……嘘ばっかり》」
今度は、英語で返事をしなかった。本来のナギの母国語、それで大和の嘘を指摘した。
「ん? 何だって? お前、今なんて言った?」
「〈なんでもない。ただれた大人だなぁって思っただけだよ〉」
そんなに体を痛めつける方法を選んでいる時点で、そこに愛情がないわけがないのにと、ナギはクマのハルキに唇を当てる。
(なぁ、ハルキもそう思うだろう?)