不健全症候群 サンプル



人の、ぬるい体温が好きだ。
「お前さんはシャワー浴びてきな。その間にシーツ替えておくからさ」
汗で湿った朱鷺色の髪をくしゃりと撫でて、大和がそう言った。ベッドに横たわってぼんやり天井を見ていた三月はと言えば――ただ頷くことしかできずにいる。
(余裕、あるよなぁ……)
体を起こして目を伏せた。汗やら何やらで湿ったシーツを指で掻く。
ここに体を伏せられて、彼に体の隅から隅まで曝け出している三月の方は、今すぐにでも泥のように眠ってしまいたくて、それでいてちらりと振り返った先、洗濯しておいたシーツを掴んで首を傾げている大和に、少しくっついていたいような気もしていて……
(だってさ、ちょっとくらい)
そうは思いながら、相手がセックスの後は素っ気ない性質であることはよく知っている。
三月とそういう仲になってから露骨に態度には出さないが、性交後の脱力が重い……らしい。それでも、やんわり微笑みながら行為後の片付けを進んでやってくれる大和に、三月は申し訳なさとは別の複雑な気持ちを抱いていた。
(賢者タイム起こすほど、満足してないんじゃねぇの……)
一緒に飲んでいる時、冗談のように「素っ気なさ過ぎてフられたこともあったわ」なんて言っていた大和のことを思い出す。
「男なんて、みんなそんなもんだろ?」

そう尋ねてきた大和に、三月は素直には頷けなかった。
人の、特に好きな人の、ぬるい体温が好きだ。
(オレは結構……触っていたいかも)
名残惜しく大和のことを見つめている。その視線に、大和はやはり不思議そうな顔をするだけだった。
「どうした? 動けない? このまま自分の部屋戻るか?」
「ううん……シャワー浴びたら、ここにまた戻ってきて良い……?」
「良いけど……俺のこと待ってなくて良いから、お前さんは寝ちまいな。今日も無理させたろ」
三月をやけに労う大和はきっと、「本当」を晒してくれてはいないんだろう。
三月はベッドから下りて着替えを掴むと、大和の部屋を出た。静かに浴室へと向かいながら、静まり返った寮の中でぽつんと溜息を吐く。
(手加減されてんだ、オレ)
前々から、そんな気はしていた。世話を焼いてくれるし、三月が望めば一緒に眠ってくれる。賢者タイムが重いなんて言いつつ、嫌な顔ひとつ見せないでいてくれる。
けれど、大和とする行為そのものはやけにあっさりとしていた。
(オレがイったら終わっちゃうし……)
それが、三月の身を案じてくれている結果なのはわかっている。わかってるから、今日はこれでおしまいの幕引きに何も言い返せずにいる。
(別に、今日だって無理なんか……)
大和に掛けられた「今日も無理させたろ」の言葉を思い返す。
最初の頃は振り回されて翻弄されるばかりで動けなくなるようなこともあったが、流石に、一回出したくらいでハイ終わりと声を掛けられれば、三月だって物足りないもので……それも、それもだ。
「大和さん、イってねぇじゃん……」
ぼそっと呟いていた言葉に、三月は慌てて口を覆った。けれど、その指先でむーっと唇を摘まむ。
(折角、好きな人とえっちしてんのに……)
どちらも不完全燃焼なんて、やるせない。
大和さんがイくまでしようよと誘ってみたこともある。何回もある。が、その都度、「お兄さん体力ないから」だの「眠くなっちゃった」だの、「明日の内にやっておきたいことあるんだよね」だの……そう言いながら片付けを買って出るものだから、三月にはそれが手加減の一環だと伝わっているし、体力無いだなんて笑わせてくれる。
(持久力あるのも、証明されてっから!)
普段も振りをしているばかりだし、運動会前の体力測定でだって、見事に証明されてしまった。
そんな風に思いたくはないが、次はどんな言い訳が出てくるんだろう。ムカムカとしてきた喉元を擦り、三月は今から部屋まで戻って、大和に無理矢理馬乗りになってやろうかとさえ思った。
けれど、けれどだ、それが大和の優しさであることもわかっている三月には、ここから階段を駆け上がる気力までは湧かなかった。それでも、切ないものでもある。
(オレには、あの人が冷静さ欠くほどの魅力、ねぇのかもな……)
ぺたんとした男の胸板に、腹筋が浮く腹部、骨格が現れる背中も肩も、とてもではないが劣情を覚えるもんでもないだろう――なんとなく、なんとなく必要だからしてる。それだけだったらどうしようと思わなくもない。
(うわー……落ち込む)
案外、自分は大和とのセックスを楽しみにしているのかもしれなかった。
(オレの独りよがりかもしれないなんて)
――そりゃあ、落ち込むんだよなぁ。
浴室の戸をぱたんと閉めて、三月はその場にしゃがみ込んで俯いた。
本当は、一緒にシャワーを浴びたり、風呂に浸かったりするのだって憧れる。けれど、大和のことを思えば、強く誘ったりなんてできなかった。
(愛し方って)
なんて難しいんだろう。

「大和さん……」
「んー?」
片付けを終えても、三月がシャワーを浴び終えるまで大和は浴室に姿を見せない。いつものことだ。
シャワーを浴びた後も気が重いまま、三月は大和の部屋までとぼとぼと戻った。
「風呂空いた?」
部屋の扉を開けた三月を見て、大和が立ち上がる。もうすっかり服を着ていた。
「うん……」
空いたも何も、寮の風呂は一度に何人も入れるくらいに広いのに。
(終わった後、オレの体見たくないのかもな)
今の三月にはそんな風に思えてしまった。ただでさえ気が重いのに、更に重くどんよりとする。
行為が終わると我に返るのかもしれない。射精の後の気怠さ、三月にもそういう気分の落ち込みや冷静さに覚えがある。大和はそれが顕著なのかもしれない。
シャワーを浴びたばかりなのに、さっと体が冷え込んだ感覚がした。頭の中は、かもしれないの気持ちばかりだ。
「……あのさ、オレ、やっぱり自分の部屋戻った方がいいかな?」
「さっきからどうしたんだよ。こっち戻ってきても良いし、ミツの部屋戻ったって良いし……お前さんの好きにすればいいだろ」
「……大和さん、そうして欲しいかなって……」
大和の瞬きが、少し速くなった。
「え? いや、別に、明日仕事でもないし……こっちで寝ても良いけど。ていうか、そのつもりだったけど……」
三月は居たたまれなくなって、手に持っていたスポーツタオルを頭から被った。俯く。
「お、オレは、さ」
「うん……?」
「大和さんだけに片付けしてもらわなくたって良いし、それより一緒にシャワー浴びたり、くっついていたい時もあるし……」
そう言った三月の手を、大和が引いた。
「う、わわ……」
開けたままになっていた部屋の扉を閉めて、大和がそっとその扉に背中を当てた。一方、部屋の中に引き込まれて百八十度向きが変わった三月は、キョトンと目を丸くする。
「なに……?」
自身の正面に迎えた三月の手を掴んだまま、大和は、はぁと息を吐いた。
なんて溜息を吐くんだろうと思った。三月がびくりと肩を震わせる。そんな風に漏れ出した三月の不安に、大和が表情を翳らせた。気まずそうに眼鏡を押し上げる。
「……ミツ、満足しなかった?」
「そうじゃなくて……! いや、そうなんだけど……違うっつーか……」
「あー……すまん。気に掛けてるつもりだったけど、あんま良くなかったか……気付かなくてごめんな」
「違うって言ってんだろ……!」
三月が強めにそう言えば、大和の表情には僅かに苦悶が見えた。大和がぱっと三月の手を離す。
「あー……ヌいたばっかで頭重くて……ダメだわ、頭回ってねぇ……ちゃんと考えるからさ。ちゃんと、ミツが満足するように。とりあえずシャワーしてくる」
頭を押さえて部屋を出ていこうとした大和のシャツの背中を、三月は慌てて掴む。
「そ、それだって変じゃん……! なんで一人でヌいてんだよ……オレ、ここにいるのに!」
「タイミング合わないことだってあるだろ?」
「それでも……!」
渋々振り返った大和が面倒そうな顔をしているのを見て、三月は落胆した。もうタオルの影などでは隠せていないかもしれない。どう伝えたらいいかわからないまま、泣きそうだった。
三月はただ、「手加減すんな」と言いたいだけだったのに。
(頭痛いんだよな。気が重いんだよな。わかってんだよ、わかってるって……わかってるっつーの……でもさ……!)
わかってる。しかし、「あのさ」と切り出した口先は、三月の意図に反してそのままの勢いで呟いた。
「あんたってもしかして、オレと嫌々してんじゃないの……?」



- 不健全症候群 -



「ふんふんふー……」
 無意識の内に鼻歌を歌っていることに気付き、三月はそっと口を押さえる。いくらなんでも浮かれすぎているかもしれない。三月は、手に持っていた体操着をばっと頭から被った。
 けれど、きっと浮かれているのは大和の方も同じだろう。そうだと嬉しい。
丸々三年は使ったらしい緑のジャージに袖を通し、胸の刺繍を撫でる。余った袖を折ろうとして、手を止めた。
「折らない方が好みか……?」
 袖だけでなく、当然ながら裾も長いジャージのファスナーを閉めないまま、三月は部屋に戻った。ベッドに腰掛けていた大和に向かって、ぱっと両腕を広げて見せる。
「どうこれ」
少し緊張した面持ちの大和が、膝の上で握っていた拳を更にぎゅっと握り込んだ。
「何緊張してんだよ。どうって聞いてんの。どう?」
「き、緊張なんかしてねぇよ……良いんじゃない?」
「えー……もっとねぇの? これ、あんたの高校の時のジャージなんだろ?」
三月の着ているジャージの胸には二階堂の刺繍文字が入っている。くるりと回って見せると、目の前の大和がきゅっと唇を結んだ。
「……か、かわいい」
ようやく出てきた褒め言葉に、三月はふふんと鼻を鳴らす。今日に限っては、「かわいい」がベストだった。普段なら何かしら言い返すところを、三月はニカリと笑うだけに留めた。
今日はなんとか二人で休みを合わせて、ラブホテルの一室にしけ込んでいる。
大和の方はと言えば、体操着のシャツは三月と変わらずだが、そこに緑のジャージズボンを穿いていた。
ベッドの上に放られていたハチマキを持ち上げて、三月はそっと大和の頭に手を回す。前髪の上に押し当てて、後頭部で丁寧に結んでやる。今回は、大和が白組、三月は赤組のハチマキだ。
「大和さんもかわいいぜ」
勝負勝負と、ハチマキをぺちり叩く。笑いながら言えば、大和の切れ長の目がすうっと尚更尖った。
「何言ってんだよ。はたくなっつーの……」
(良かった……いつもの調子だ)
大和が嫌々ではないとわかっただけでも、三月の気持ちは軽かった。
「大体、お前の方がかわいいに決まってんだろ」

――あんたってもしかして、オレと嫌々してんじゃないの……? そんな三月の言葉を聞いた大和は、途端に顔色を変えた。食い気味に肩を掴まれ、あまりにも必死な顔をされて、正直三月も驚いた。
「……ミツがそう思うようなこと俺がしてたなら謝りたいし、嫌々とかじゃない! 絶対ない!」
「お、オレもそうだって信じたいけど……でも、大和さんいつも、なんつーか……不完全燃焼って感じだし、オレがそうさせてるのかなって……ちょっと、思って……」
尻すぼみになっていく三月の言葉に、大和が更に顔を青くした。目を伏せて、眉間を揉む。
「こればっかりはさ、手加減されたら容赦無く負かすって問題でもないし……あんたも、何か思うところあるだろうしさ……」
「あー……いや、ほら、それは……」
「いや、わかるよ? わかってるよ……前から、元々素っ気ないって話も聞いてたし……大和さんがベタベタしたいタイプじゃないのはわかってたつもりだけど」
「ベタベタはしたいです……」
「だよな……だから、オレだって無理強いは良くないっておも……」
は? と顔を上げる。聞き間違いかと思い、大和が逸らした瞳を凝視した。
「はぁぁ?」
もう一度、疑問符を浮かべる。今度は少し声を低くした。
「そのー……ベタベタは、したい。一緒に入る風呂も嫌いじゃないし……俺も、ミツに触りたいです、すごく……」
気まずいのか、またも眼鏡を上げる仕草をした大和が、そのまま手の平で顔を隠してしまった。
「おい」
少し、声にドスが利いてしまったかもしれない。けれど、三月はぱっと大和の手を取り上げて、今度は何も言わずに表情だけで圧を掛ける。
目の前の大和は唾を飲むだけで何も言わない。
「じゃあ、なんでだよ……?」
沈黙に耐えかねてそう問えば、それまで青かった大和の顔が今度は赤くなった。そうして、とても言い難そうに呟いた。
「が、我慢、できなくなりそうで……」
大和が、三月の顔をちらりと覗き込む。
「あの、な……俺も、こんな、なんつーの……? がっつきそうになるの初めてで……不安しかなくてさ……」
「今更、何を不安に思う必要があんだよ……」
「いや、その……き、嫌われるかもって……引かれるかも、とか……」
三月が取り上げたままでいる大和の手に、じわと汗が滲んで湿る。
よくよく考えればとても恥ずかしいことを言われている気がして、三月の手の平もじわじわと熱くなってきた。
思わず口を尖らせて黙る三月に、大和がおずおずと問う。
「……ミツも、不安になってた?」
そんな大和の問い掛けに、三月は躊躇しながらもこくんと頷く。
「はーあ……」
すると、大和が特大の溜息を吐いた。がっくりと項垂れる大和に、三月は思わずぎょっとした。
「な、なんだよ!」
「いや、悪い……なんつーか、ミツに無理させたくないっつーか……絶対下の方がきついだろ。それなのに俺ばっかりがっつくのもって思ってたら……段々引き際が早まっちまって……」
「なんだよ、それ……言えよ」
「言えるかよ。そんなこと言ったら、お前さん、絶対しんどいの隠すだろ……」
「そ、それであんたが我慢してたら意味ないだろ!」
大和の手から、ばっと手を離す。今度はその手で大和の頬を両手で挟んだ。ぱちんと短い音がした。
「わっ」
短く声を上げた大和の眼鏡がずれる。きょとんとした常磐の瞳が、レンズの向こうで閃いた。
「お、おい。顔はやめなさい、顔は……」
「大和さん……」
「はい……」
三月は、そんな大和の顔を上目遣いに見て、それから少し背伸びをする。唇が触れそうで触れない、その狭間でぽそりと言った。
「大和さんのして欲しいこと、叶えてやるからさ」
「は、あ?」
それ以上の声を出したら、口先が触れてしまう。だから、大和がきゅっと黙ったのがわかる。
「……見せてよ、あんたの本気」
反抗できない大和に、三月はニヤリと笑って見せた。本当に彼が我慢をしているのだとしたら、こんな三月の誘いを断れるわけがないのだ。
(なんせ、大和さんはオレに弱い……)
三月は、それをよく知っている。
そんな取引の結果が、「ジャージ姿でしたい」というおねだりだった。それも、高校時代の自分のジャージを持ってくる辺り、本当に徹底している。感服を通り超してドン引きそうだった。けれど、ここで引いたら……今回ばかりは、恐らく相手が本気で凹む。
「こんな格好させるなんてな。何? 運動会の時も興奮してたってことか?」
「いや、あれは素直にかわいいなぁと……」
「かわいいはかわいいなのかよ……」
「え? かわいいはかわいいだろ……?」
心底不思議そうに首を傾げた大和のハチマキを、三月が引っ張る。ぐぎっと妙な声を上げた大和の膝に乗り、「ぎ」の形で固まっている口に唇を当てた。ちゅと音を立てて、触れるだけで離した。
「えーっと……」
唇を尖らせたままの大和が部屋の照明を見上げて、静かに息を吐いた。



【 本に続く 】