月暈からの逃避行 side3



 (きっと、そう)
 長い間一緒に仕事をしているから、良い所も悪い所も強い部分も弱い部分も、ありとあらゆる箇所を知っている。
 体を動かす時にひとつひとつ動く筋肉の連なり、それを事細かに知らなくても人は体を動かせるけど、知っていた方が効率が良い。七人がうまく噛み合って、うまくパフォーマンスするっていうのはそういうことだ——オレ、もしかして一織みたいなこと言ってる?
 それは置いといて……だから、オレは二階堂大和って人をよく知ってる。
「オレじゃなきゃダメだって言ったのに」
 ぷうと年甲斐もなく頬を膨らませた。液晶テレビに映っている大和さんの主演ドラマを見ながら、ソファの上で膝を抱える。
 視聴率は今シーズン一位で、マスコミは大和さんと主演女優さんの間柄を嗅ぎ回ってる。
 オレは当然、そんなところに煙が立つことはないって知っているけど——けど、今映ってるキスシーンが濃厚で、ちょっと唇が尖った。
 あの人が理解しているかどうかは知らないけど、オレは今、大和さんに猛アタックしてる。いろんな女の子と付き合ってみても大和さんに呼び出されたらホイホイあの人を優先して、その度に酔って絡まれて泣き付かれて、それを引き摺ってる間に女の子にはフられてさ……その果てに、ようやくオレも気付いたんだ。
(オレも、大和さんが一番なのかもって)
 テーブルに置いてたカップを引き寄せる。中に入っている珈琲が、ちゃぷと音を立てた。ずずずと中の珈琲を飲んで、それからつい溜息が漏れた。
 そりゃあ、待たせて悪かったとは思ってる。思っているからこそ、オレは真剣にアプローチを掛けて……今日だって、大和さんの家に押しかけて、あの人の好きな物作って、飯してきたわけで。
(……一番効くと思ったんだけどな)
 今は離れてるから、おはようとおやすみのラビチャだってしてるし、今日の飯だって喜ばせたとは思う。Re:vale先輩の真似事みたいに時々腕絡ませたり、手繋いだり、大和さん好みの服だって選んでるけど——(一歩引いてるんだよな、あの人)
 オレは、流しっぱなしになっていたドラマの録画に視線を戻す。キスシーンはとっくに終わって、主人公がキッチンで朝食の用意をしてる。
あの人、普通に料理できるから、こういうシーンで好感度上がっちゃうんだろうな……なんて思いながら、カップの縁に唇を当てたままでいた。
「おはよう」
 少し遅れて目を覚ましたヒロインに朝食を出して、二人ははにかんだ。
「……キュンキュンする」
 カップを置いて、ソファに横になる。
「……キュンとさせたかったのになぁ」
 飯を済ませて早々に「タクシー呼んでやるから」なんて言われて、オレは拍子抜けした。今までは泊まっていく? とか、お兄さんが送ってやるよ、とかさ、あったわけだよ。それがタクシーって……
「……もう、オレの飯に何も感じないってことかよ……」
 一歩、引いてる。
 オレは二階堂大和という人をよく知ってる。だから、その理由に少しだけ思うところはある。
(……そうしてきたんだみたいな顔、してる)
 ——他の子と一緒にされたくないって顔を。
(きっと、そう、なんだよな……)
 オレは、溜息を吐きながら頭を掻いた。待たせてしまったのはオレだけど、拗らせるようなことをさせたのもオレのせいだけど、それでももう少し……もう少しだけでもさ。
「あーあ……」
 オレは、手近なクッションを掴んで抱き締める。テレビに映ってる大和さんの顔を睨んだ。
(今のオレの方を見てくれたって、良いのに)

「大和さん、ドラマ、良かったよ」
「マジ? 見てくれたんだ?」
 三日後くらいに冠番組の収録で会った時、大和さんの「一歩」は三歩くらいになっていた。
「うん、飯作りに行ったじゃん? あの後見た」
 それでもオレは踏み込んで、メイク中の大和さんの隣に座る。
メイクさんがにこやかに笑っている。相変わらず仲良しですねーみたいな顔に、にっこり笑って頷いた。
「泊まりたかったんだけど、オレ」
「……珍しいじゃん。いつも帰る帰る言うのに」
 だからタクシー呼んでやったろ、なんて言う大和さんに、オレはむすっとして見せる。
「大和さんだって、いつも泊まっていけば良いのにって言ってたじゃん」
「それはさ、ほら」
 大和さんの瞳が、ちらりと鏡の中のオレを見る。隣にいるのに、どうしてそっちのオレを見たんだろう。
「……お兄さん寂しかったから」
「なんで? 今は? 違うのかよ」
「泊まってった方が寂しいだろ。ね、そういう時ってありますよね?」
 そんな風にメイクさんに話を振る大和さんに、オレは正直に狡いと思った。
 大和さんに急に話を振られて愛想笑いをしてるメイクさんが「そうですねぇ、一人になる時のこと考えるとね」なんて言う。だから泊まるって言ってんじゃん。
「……なぁ、おっさん。こっち向いて」
「なんで」
「写真撮る。あんた、今の顔自分で見た方が良いよ」
「見えてるよ。鏡なんだからさ、目の前」
「……今の、オレのこと見る顔だよ」
 そう言ったら、ようやく大和さんの瞳がこっちを見た。オレは向けていたスマホのカメラのシャッターを押す。
 メイクが終わってようやく、大和さんが正面からオレを見た。
「……自分の顔見た方が良いのは、ミツの方だよ」
「は? なんでだよ」
 そう尋ねれば、メイクさんが離れたタイミングで、大和さんの眉間にきゅっと皺が寄った。少しだけ痛そうなその表情に、オレは瞬きを忘れる。
「そういう顔して、そうやってきたんだなって見えるから」
 ははあなんて声が出そうになった。やっぱりオレはこの人のことをよく知っていて、けれどどう返して良いかはわからなくて、ただ「そっか」とだけ思った。
 オレが思っていたことは正しかったんだ。
 立ち上がった大和さんが、椅子に座ったままのオレの肩を撫でる。今、痛がりながら溢した言葉のトゲを微塵も感じさせないくらい優しく撫でていくその手を視線で追ったオレに向かって、あらゆる賞を取ってきた男の顔が笑った。少し困ったように。
「無理しなくて良いよ。俺、ミツがいてくれるだけで十分だから」
 歯が浮きそうな台詞を残して去って行く背中に、オレはちっともキュンとなんかしなかった。
「バカ野郎」
 そうさせてしまったのはオレだけど、女に敵わない存在だと思わせてしまったのもオレで。
 今の大和さんに何をしたら届くのかなんて、そんなオレには見当も付かない。
「……やっぱり、酒かなぁ」
 尖った口から漏れた言葉が、ちょっとだけ震えた。
(子供っぽいけど、もうそれしか思い付かないや……)
 でも、酒で酔って触れたって、そこにオレたちの心ってあるのかな。いつもオレを呼び出して甘えては忘れてしまっていた大和さんに、同じ事をして触れたって。
 楽屋の鏡の中には、泣きそうな顔をしたオレ以外映っていやしなかった。

「思い付かなかった」
 あんたがオレに触れたくなる方法。
 あんたがオレに触れさせてくれる方法。
 何も思い付かなくて、それでもオレは触れるのをやめられずいて、だから——同じだったんだ。だから大和さんは、オレの名前を呼べなくなったんだと思い知った。
 三月って呼ばれるのは胸が痛かった。慣れ親しんだ呼び名が、どれだけオレを安心させていたんだろう。だから呼べよって無理矢理大和さんの鎖を解いて、呼ばせて、勝手にオレの中でもあんたが一番だって納得して擦り寄って、本当に狡かったのはオレなんじゃないかって気付いた。
(呼べなくなるのと同じように、触れられなくなったんじゃないかって)
 オレは焦っている。大和さんの中でのオレの価値、それが変わっていくことに。
「思い付かなかったんだ。あんたのこと、引き止める方法……」
「……それじゃあ、また今度リベンジしてよ」
 オレの部屋で酒を飲んでいた。さして遅くもない時間に、きりのいいところで……なんて言いながら、大和さんはタクシーを呼んでいたらしい。
 迎えを知らせる連絡が鳴った時、オレはタクシーの運転手さんをそのまま門前払いにした。
 酔ったふりをしたんだ。当然大和さんは気付いているし、少し怒ってる。
 だから、素直に「思い付かなかった」って言った。その答えがさっきの「また今度リベンジしてよ」だ。
「脈、無いってこと」
「何が?」
「オレ、大和さんと付き合うの、脈、無いってこと? オレじゃなきゃダメって言ったのに」
「なんだ、そんなこと」
 そんなことじゃねぇんだよ。
 その程度の価値にさせてしまったのは、紛れもなくオレかもしれない。諦めさせて、溢れるだけに留めてしまったのはオレかもしれない。
 だけど、不意に目を逸らされる。そんな逃げを望んじゃいない。
「いいじゃん、付き合わなくてもさ。そんなことで俺たちの関係、今更落ち着いたり離れたりするもんでもないんだし……」
「なのに、オレが誰かと付き合う度に自棄酒して、呼び出して、ぐずって……あんた、自分が矛盾してることわかってんのかよ……」
「……もう、しないよ」
 え、と思う。大和さんの手が優しくオレの肩に触れて、撫でた。そのまま大和さんが言う。
「ミツに一度でも選んでもらえた。それだけで俺、生きていけるから」
 キュンとした。これがドラマだったら、どんなにときめいたことだろう。
 けど、ここは現実だ。現実のオレは、それが人の遺言みたいに重くて冷たくて、それから諦めていることを知っている。鳩尾が、しんと冷たくなった。
「なんで、目の前であんたのこと好きだよってしてるオレにそんなこと言えんだよ……!」
 大和さんの手が離れていく。眼鏡の向こうで目を伏せてる大和さんの首根っこを無理矢理引き寄せて、唇に唇を当てた。皮膚越しに歯がぶつかった気がした。
 こんなのキスでもなんでもない。ただぶつけただけだった。口を開かせようとしたのに微動だにしない相手は、そっとオレの肩を押す。口が離れたかと思えば、くしゃりと頭を撫でられた。
「長続きしない三月とは付き合えない」
 ——そうさせたのはあんただろ。
 ピシャリと閉められた心のドアを目の前に、オレは大和さんの横顔をただ見上げている。左目からぽろんと涙が出て、俺は手の甲で頬を拭った。子供みたいに。
「泣くなよ、ミツ。別の子探しな。こんな面倒な俺よりさ」
 お兄さんぶって、オレの家の冷蔵庫から水出して汲んで、コップをオレに寄越す。酔いを覚ませとでも言いたいんだろう。
「大和さんが呼ぶから」
「……うん」
 ぼろっと涙が溢れる。声が濁る。
「オレ、大和さんが呼んで、オレのこと抱き締めるから」
「だからそれは悪かったって……」
 髪をくしゃっとして笑う。役者の顔をして。
 ムカつく。
「だからオレ、大和さんのことでいっぱいになって」
「……ミツ」
「ムカつく、ムカつくムカつく……! なんだよそれ、人が女の子と付き合ってるのメチャクチャにしといて……! なんだよ、それぇ」
「め、メチャクチャにはしてないだろ……」
「してんの! 全部あんたのせいなんだよ! バカ!」
 わぁわぁと泣き出したオレに、大和さんがようやく困ったような顔をした。
 もうこっちくんなって大和さんの肩だの胸だの叩く腕を一纏めにされて、そのままぐちゃぐちゃの体勢で抱き締められた。
 それでもわぁわぁ声を上げるオレの背中を、大和さんの手が叩く。
「何、酔っておかしくなってんの? 落ち着けって……」
「あんたのまね」
「は?」
「オレは、ここだよ」
 呆然としてる大和さんにぎゅって抱き付いて、背中を握る。縋り付くみたいにして小さく呟いた。
「だれのものにもならないで、ここにいて」
 呆然とした大和さんの体から力が抜ける。ゆっくりとその顔を見上げた。
 瞬きをしない大和さんの瞳が、白目の中で揺れていた。
「どうせ、覚えてないだろ」
「呼び出すことは、ギリギリ……だけど、そんな……そんなこと、俺……?」
 口を押さえて、大和さんの顔が急に真っ赤になった。
「酒癖って、歳取るにつれて悪くなるんだなって思ってた、最初は」
 真っ赤な顔の中で、眼鏡のレンズの向こうで、大和さんが泣きそうな顔をしてる。
 泣けばいいんだ、いっそのこと。今のオレみたいに、みっともなく泣いたらいい。
「最初はただ寂しいだけなんだって思ってた。でも、それ、聞いていく内にさ……オレの中に積もって」
 大和さんの胸を押す。
 ごめんな、大和さん。オレは今から狡い言い方をするよ。だって、これで落とせなかったら、オレはもう本当にあんたのことをどうしてやったらいいかわからない。
「ここに、いなきゃって思ったんだ」
 ここにいたいのはオレの勝手。繰り返し懇願したのはあんたの勝手。その中で責任取れよって言い放つオレは、やっぱりちょっと狡いと思う。
「そうしてきたんだって言ったけど、本気だから全部そうして……あらゆる手段使ってんじゃん。そんなの、あんただって同じだろ……」
 なんなら、オレより経験人数多いくせに。
「あんたの方こそ、オレのこと待ってる暇あったんなら、他の子にすれば良かったんだ! そうしたら、オレだってこんな……っ」
 ……ちょっと吐きそうかも。本当にムカついてきた。何がって、胃。胃が。
「……駄目かも」
「……は?」
 悪い、そう言い残して、オレはトイレに駆け込んだ。多分、大和さんはポカーンとしていたと思う。
 
 おえおえと呻くオレが吐き終えるまで、大和さんは時々トイレのドアノックしたり、「ミツ〜」って呼んだりして待っていた。
 オレは、嘔吐のせいで出てくる涙をトイレットペーパーで逐一拭いながら、その合間に本気で泣いて、このまま閉じこもっていたら、大和さんは帰らないでいてくれるんだなんてバカなことを考えていた。
 一通り吐いて、一通り泣いた後、どうにもゲロ臭い自分の口をやっぱりトイレットペーパーで拭って、ようやく一息つく。
(ここで帰さなくたって、何が変わるわけでもないのに)
 うちに、閉じ込めちゃいたい。昔、百さんが千さんに言ってたことを思い出す。好きって、こんなにも勝手だ。
 オレはゆっくり立ち上がって、ドアのノブを捻った。少し重かったから、大和さんが寄りかかってたのかも。すぐに軽くなって、改めてトイレの外に出る。
「落ち着いたか?」
「うん……」
「ほら、口ゆすいで。シャワーは、やめとくか……? どうする?」
「ううん、浴びる」
 水で口をゆすぎながら、スマホの画面に映った時間を見る。もう真夜中も真夜中。これから帰るなら、やっぱり深夜のタクシーを呼ばないとならないだろう。
「……大和さん、帰る……?」
 ぐす、と鼻を鳴らしてそう尋ねると、大和さんが少し考えるようにしてから首を横に振った。
「ミツがゲロゲロ吐いてる間、さ。考えてたんだ、俺」
「ゲロゲロ言われると、流石に申し訳ねぇな……悪かったな、ゲロゲロ吐いてて……」
「まぁ、昔よくやったし、良いんだけどそれは……」
 だから、その、と言い淀んだ大和さんが前髪を引っ張った。
「他の子にすればって本人に言われるの、傷付くなって思って……えっと、つまり、悪かった。軽率に言った」
 べーってうがいしながら水を吐く。シンクにばたばたと落ちる水を見ながら、また涙が出そうになってくるのを感じている。
「ミツを手放せなかった俺が悪かったっていうのもよくわかった……流石に、信じらんねぇくらいぐずぐずしてたな……それを踏まえて、なんだけど」
 なんだけど? と振り返る。大和さんはやっぱり言いにくそうに口をもごつかせていて、もしかしてこの人も吐くんじゃないか? 顔が真っ青だ。
「やっぱり、ミツは……他の子にした方が良いと思う」
「はぁぁぁ?」
「だって! だってだぞ?」
 今度は顔を赤くした大和さんが、ぐしゃっと髪を掻き上げた。眼鏡がズレてる。
「そんな、酔っ払った俺の言葉でメチャクチャにしちまうんだから、先が思いやられんじゃん! 俺、付き合ってからも面倒だろうし、それこそ長続きなんてしねぇって……耐えらんねぇんだよ、ミツと別れたら! それなら、ミツが一時でも俺を選んでくれたことだけ、さぁ!」
 わっと言い終えた大和さんが、顔を覆って、そのまま蹲る。
 オレは、見慣れた大和さんの甘え方に、ちょっと安心して、少しだけ幸せを感じた。こういうの、暫く見てなかったな。弁えてたんだろう、多分な。
「大和さんの中で、オレってかなり軽い男に見られてるわけだ……?」
「そんなことねぇけど……でも、俺まで別れてきた女の子たちと並ぶの、嫌じゃん……」
「あのさぁ」
 しゃがんでる大和さんと視線を合わせようとして、ゆっくり床に座った。オレは胡座をかいて、大和さんを見上げる。
「あんたの言葉に左右されるの、今に始まったことじゃない。ずっとそうだよ。オレの中で、大和さんの言葉って特別なんだよ。あんたに貰ったもんは特別で、あんたに呼ばれる名前は特別なの。わかる?」
 わかってるのかわかってないのか、大和さんが顔を覆ったまま頷く。
「誰の言葉でも同じように悩むわけじゃない。あんたが……大和さんがここにいてって言ったから悩んだんだ。それでも、他の子にしとけなんて言う? 言える……?」
 売り言葉に買い言葉で投げつけた自分のセリフは棚に上げて、オレは大和さんに追い討ちを掛ける。
「タクシー呼んで、今傷付いてるオレのこと、ここに一人にする? どうする?」
 酔いはすっかり覚めている。だから、これはオレの、オレによる、心底狡い駆け引きだ。
「……一人にできなかったとして、どうしたら良い?」
 そんな駆け引きをするオレの目を、大和さんが覗き込んでくる。するっとした切れ長の目が、不安そうにオレの答えを待っている。
「お兄さん、小狡い慰め方しか知らないけど……」
 ようやく、掛かった。
 縄の輪の中に足を踏み入れた大和さんに、オレはぐっと手元の罠を引く。
「ゲロった後で悪いし、オレもおっさんに片足踏み入れてるけど……そうだな、それでも良い……?」
 瞳を上げて上目遣いに、前髪の隙間から大和さんの顔を見る。この顔に弱いことを知っている。
 さっき、歯がごちっと当たった唇の裏が疼いた。痛い。すぐに慰めて欲しい。吐いた後で悪いけど。
「……今更だろ」
 小さい声で呟いた大和さんの、やるせなそうな言葉に安堵して、オレはさっと立ち上がった。
 シャワー浴びよって言ったら、大和さんが床に倒れ込んでいて驚いた。
「どうした、おっさん」
「いや、遠回りしたなぁって思って……」
「おい、まだ何も始まってねーだろ。油断すんなバカ」
「でも、さぁ」
 大和さんが寝転がったまま、近寄っていくオレの手をおずおずと掴む。きゅって握って、少しだけ目尻を下げた。ようやく笑ったなって思っていた矢先、形の良い唇からぽそりと、けれどはっきり間違いようもなく言われた言葉。
「もう離さない」
 ぞくっとして、どきっとして、ようやく長続きしない恋が終わるのを知覚する。
 オレの気持ちが長続きするしないに関係なく、きっとこの人は、金輪際オレのことを手放したりしないだろうから。
「ホント、調子いいんだからよー……このおっさんは」
「悪いよりは良いでしょ」
「たしかに」
 軽口を叩きながら、離れない手を眺めながら、オレはその調子の良さに安心している。手放されないという約束に、心地良さを覚えている。
「……待たせてごめん」
 床に膝をついて、手をついて、キスしようかと思ってやめた。だって、うがいはしたけど、オレ今すごくゲロ臭い。
 なのに、厄介で面倒な大和さんは、オレの遠慮なんて構わずに、躊躇もせずオレの頭を引き寄せた。
 


【 終 】