三月が女を知ってるのが嫌だ。小さいことを言っていると思われるだろう。醜悪なことを言っているとも思われるだろう。それでも嫌だ。
頬杖を突いて、呆っとしているふりをする。そんなふりをしながら、俺はスタジオで歓談しているミツと、アナウンサーの女の子を見ていた。
デビュー当時は色事の話を振れば顔を赤くしていたミツも、いつの間にか然程の反応も見せなくなって、彼女ができるくらいの余裕を持つようになって、俺が知っているだけで二人……アナウンサーのあの子がその二人目なんだけど、他にもいるのかもしれない。今はもう一緒に住んでもいないから、気配がしたってわからない時くらいある。
そんなことを振り返ると嫌になる。そもそも、ミツが女を知っているのが嫌だ。自分のことを棚に上げたエゴもエゴ、いつかあの日に帰れたらななんて時々夢に見る。
男女の間にある欲の形を知らないミツに、俺だけ教えて閉じ込めておけば良かったのに、俺はそうはしなかった。
ファンが恋人、ファンがいるから、そう言うミツを信じてやまなかったからかな。それとも——臆病だっただけかもしれない。メンバーの中でも特別なミツとの関係を壊すのが、怖かったのかもしれない。
本番を終えた後で「彼女」と話しているミツはどこか普段より朗らかで、ねぇ、バレちゃうよ、そんな顔をしたら、なんて一昔前の俺なら茶化している。茶化していないかも。だってずっと片想いしてるんだから。
ただ、こんな時もミツの肩を抱いて、引き寄せて「そろそろ着替え行こうぜ」なんて見せつけたりはしたかもしれない。メンバー同士の絡みなんて、男女の秘め事に対抗しようがないことを——俺は顔を伏せて眼鏡をずらす。眉間を揉んだ——よく知っている。
息子は「男」に敵いっこないし、家族みたいなメンバーだって、友人だとしたって「女」には敵いっこない。それを、俺は生まれた時から知っていると言うのに。
(喉、渇いた……)
スタジオのライトが眩しい。揉んだばかりの眉間に指を当てて、目を開けないままでいる。
「万理さん、俺、最悪かもしんないです」
俺たちのことをよく知っている事務員のお兄さんに、そんな風に声を掛ける。出世するだけのキャリアがあるのに、この人はいつも俺たちに近い場所で、いまだに時には広報まで……いつ寝てるんだろう。
事務所のソファに項垂れて、残業している彼にそう伝えれば、万理さんはパソコンから顔を上げて少しだけ微笑んだ。
「どうしたの、急に」
「……とあるアイドルのスキャンダル、バラしちまおうかなって、ちょっとだけ」
「お、切羽詰まってるねぇ。俺もいっぱい持ってるよ。まぁ、今となってはみたいなネタばっかりだけど」
そんな風に冗談に付き合ってくれる万理さんに「千さんですか」と聞くと、万理さんはニッと笑って頷いた。
「大和くんは? 誰のやつ?」
「俺は……そうですね」
今やMCとして引っ張りだこで、バラエティで顔を見ない日はない。ベビーフェイスの下にぎらりと光る色気を隠したうちの可愛いメンバー、ではなく……
「今期一番の視聴率を頂戴してるドラマで主役を演じさせてもらってる奴、ですかねぇ」
「あはは! その子か! 昔、そんなジリジリする話あったよね」
「本当に……もう昔話になるんだなって驚いてます。正直」
思えば、その頃からずっと片想いだ。片想いをひた隠しにして、ミツが誰かと付き合うのを他人事みたいに眺めてた。眺めてることしかできなかった。ミツが好きなのはその相手で、女の子で、俺はそうはなり得ないんだから。
「で? 大和くんはどんなスキャンダルを抱えてるのかな? もしかして、今誰かと付き合ってる……? 例のドラマのヒロインとか……」
「まさか。俺、その辺りガード固いんで」
「そうだよねぇ。一時期から全く撮られなくなったし……」
「そうですよ」
ソファに倒れて事務所の天井を見上げながら、俺はぼんやりと口を開き直す。
「だって俺、好きな奴いるんで」
万理さんは、聞いて聞かないふりをしてくれた。そういう空気だった。
部屋に帰ってきたところで、誰も迎えがいないこと、そんなことにも慣れきっている。正直寂しいのは、進歩だと思ってる。
パチンと部屋の明かりを付けて、それから散々事務所で横たえていた体を床に落とした。
「他の子にすればいいのに」
万理さんは、俺とは正反対の性格をしてる。頬杖を突いて苦笑いしながら言っていた彼の言葉を思い出して、俺は床に横たえた体を仰向けに返す。
「できたら、とっくにやってますよ」
多分、俺の片想いは誰の目から見たってわかりやすくて、ただそれが本気かどうか理解し難いかどうか、それだけだろう。
天井のライトがやっぱりちょっと眩しくて、俺は目を閉じる。せめて顔を洗った方がいいし、シャワーくらいは……そう思うのに、体は動かない。
(今日、碌に話せなかった)
俺は昔よりずっと臆病になってることだろう。
「三月ぃ……」
呼んだって何も返らない名前を読んで、顔を覆う。三月がどこにいるのかもわからない今の状況が、すごく、すごく嫌だ。いい大人になって今更何を——それでも、嫌だと言う気持ちくらいは持っていてもいいだろう。本人には口が裂けたって言えやしないのだから。
「三月」
俺はいつの間にか、人前ではミツを名前で呼ぶようになっていた。ミツって、呼べば良いだけなのに、今まで通りに。
——呼べなくなった。喉が詰まって。
「そろそろ打ち合わせするってさ」
呼び始めた頃は不思議そうな顔をしてたミツも、メンバーしかいない時はミツって呼ぶことに気付いたのか、勝手に納得したようだった。ああ、外ではそう呼ぶようにしたんだって顔に書いてあるのを見た時、俺も勝手に納得をした。こんなの反抗でも当て付けでも、ましてやマウントにもならなかったんだって。
他のスタッフさんといる時、インタビューの時、そうだったものが段々と日常に侵食して、俺は結局ミツのことをミツって呼ぶのは心の中だけになった。
「大和さん、待ってて。今行く」
呼び付けるだけ呼び付けて足を踏み出した俺をミツが呼ぶ。待ってて、と言われて足を止めてやった。
話していたスタッフさんに軽く手を振って、俺の背中まで駆け寄って、腕に手を回される。珍しいなって思いながら歩き出す。
「お待たせダーリン、なんつってな」
「なんだよ、Re:vale先輩の枠狙ってる? 狙ってみる?」
顔を寄せて耳元でそう囁けば、ミツは顔を引いてゲラゲラと笑った。
「いいね、やってみっか! 今ならうまいことやれそう」
そうだね、境界線を間違うこともねぇもんな。俺はまだ、間違いそうだ。
「……オレ、得意なんだろうな。カメラかわすの」
「ああ、確かにお前さん、撮られないよなぁ。俺なんて本当は関係なくても撮られんのに」
彼女いても全然だもんな、そう言えば、ミツは俺の腕をぎゅっと握る。
「気付いてる?」
「まぁ、二、三人くらいは」
少しサバを読む。そっかぁという声に、嗚呼三人目も、やっぱりいたんだと落胆する。二人も三人も変わらないのに、俺は三月が女を知っているのがどうにも、どうしたって嫌らしい。
「大和さんは暫く……って言うか、多分ずっといないよな。わかるようになったよ、そういうの」
「大人になったねぇ」
茶化すなよ。静かにつついてくるミツが、そっと俺の腕から手を離した。その手を捕まえて結んでおきたい衝動を飲み込んで、俺は手持ち無沙汰な拳で背中を叩くふりをする。
打ち合わせする会議室まで来て、それからミツが小さく呟いた「わかるようになったんだ、そういうの」という言葉が、俺には何を指しているのか理解できなかった。
「三月呼んできました」
そう言って扉を開けた俺を、何とも言えない顔でミツが見ていた。
どこにいたって見つけられる。どこにいたって呼んでこられる。そう自負していた。
「三月、三月……」
例えば事務所の隅に隠れていたって、トイレの角で泣いていたって見つけられる。ミツって呼べるタイミングが減って、その呼び方を口が忘れてしまったとしても、俺なら見つけられると思っていたんだ。
ミツの腕を掴んで連れ戻す時の、少し不貞腐れたような顔がいつだって俺の優越感を満たしてくれる。そのはずだった。
「ミツ」
「やっと呼んだ」
そう言って微笑んだミツのタンクトップからはだけた肩口が眩しくて、俺は瞬きを忘れた。
「大丈夫?」
「え……? 三月、なんで」
きゅ、とミツの眉間に皺が寄る。
なんでここに、と体を起こした。戻される。
「呼んだじゃん」
馴染みのバーの、裏の部屋。千さんに教えてもらった隠れ家的な場所だった。その時にミツはいなかったからミツが何故この店を知っているのかは知らない。しかし、どうやら俺は——ミツを呼んだらしい。
頭を寝かされているミツの膝の上で、スマホを探るために身を捩る。ポケットの中にないそれに気付き、慌ててまた体を起こそうとして、けれど再び寝かされた。弥次郎兵衛かよ。
画面の割れたスマホの画面を見せられて、ほら……と低い声で言ったミツに、俺はほっと息を漏らす。
どうやら本当に呼んでたらしい。飲みすぎた頭を少し撫でる。
「ここ、知ってたんだ」
「うん、百さんが教えてくれた。何回か来たことあったし」
「百さんと?」
言い淀んだミツが顔を逸らす。わかるようになったんだ、そういうこと。違う、俺は元々そういうのに鋭い。
阿呆らしくなって今度は本当に——ミツの力が及ばないくらいの加減で体を起こした。
黒いソファ、ミツの隣に腰を下ろし直す。くわんと揺れた頭の中で鐘の音が鳴った。本当に飲み過ぎたんだと思う。
「裏の部屋、借りられるのも知ってたんだ」
そう零せば、ミツは「何回か休んだから」と返事する。そう、と俺は肩を落とした。
「ありがとさん、帰るか……目も覚めたし」
「うん」
「悪かったな。迷惑掛けた」
「迷惑なんて思わねぇよ」
「なんで」
「こんなの今更じゃん」
寮にいた時は、散々飲んで、散々……「そういうこと、わかるようになったんだ」ミツが言った。少し汗ばんだシャツの背中を引かれる。
「酒飲むと大和さんが甘えるの、なんでかずっとわからなくて……あんただから、普段の空気抜きかと思ってた。けど、わかったんだオレ」
「何が」
「オレも、しちゃうから」
咄嗟に、聞きたくないと思って耳たぶを撫でた。耳を塞ぐまではしない。けれど、顔を顰めてはいたと思う。咄嗟のことに芝居が打てなかった。酔ってもいたからだと思う。
「オレも、あんたと同じことするんだ、その……気があるとさ」
「何、三月、突然。何言ってるかわかんねぇよ」
へら、と笑って振り返る。目を逸らしたままのミツが俺のシャツから手を離してくれない。振り返りにくくて顔を戻す。
「……聞きたくない。わかんだろ、そこまで俺のことわかるようになった三月くんならさ。そっかー、女連れ込んだりするようになったんだ、あのミツがね〜、なんて思いたくねぇし、考えたくもねぇの」
回り始めた口の語尾が強まる。思わず自分の口を塞ぐ——考えたくなんてない、女の子に甘えて手を伸ばして、触れ合って、そんなミツのことなんて。眼鏡の隅が曇る。
「それとも、当て付け……? 近付くなって、オレは女が好きだからっていう牽制か?」
じゃあ、膝を貸すなんてことしないでほしい。背中を掴んで離さない手だって、今すぐにどけてほしい。
「なら言えよ。それこそ今更だろ。今までだって、俺はうまく」——誤魔化して、ミツの恋路だって笑って見守れてきたはず、触れないできたはずだ。
「ミツって呼べよ」
「……なんで」
「うまくやれてたと思うなら、呼んでよ。ミツって」
喉が詰まる。苦しくて押さえた喉元を、ミツの手が撫でた。指先が肩を撫でてそのままぐっと引き寄せられて、膝の上に戻される。
「この部屋で休んでるからってマスターに案内された時、あんた部屋の隅で丸まってたの、覚えてる? 覚えてないよな。覚えてたらそんな口叩けないよな」
何が、うまくやれてただよ。吐き捨てるようにそう言ったミツが、膝に横にした俺の耳を抓った。
「いだだだだ」
「オレが誰と付き合っても長続きしないの、あんたわかってる? わかってないよなぁ、こっち見もしないんだから。最初の時だけだよな、慰めてくれたのだって」
耳を抓られて痛がっていた俺の頭を撫で直して、それから手を止めたミツが溜息を吐いた。
「……丸まってるあんたが腕だけ伸ばして三月、三月、どこにいんの、俺はここだよって呼ぶのが気分良かった。今日もそう……だからオレ、わかってきたんだ、そういうこと」
そんなことしてたっけと驚いてる俺の手を、ミツが掬い上げる。汗ばんでいるだろうそれを自分の頬に、口に当てて、少しだけ顔を顰めた。
「二人きりだよ。呼べよ、ミツって。ここにいるよ……どうしようもなくなって呼び出した時くらい、好きなように呼べば良いのに」
「だって」
喉が詰まるんだ。喉が詰まって、ミツって声が出ない。ただの一音違うだけなのに。俺が呼び始めたのに。
「呼ばないならキスしちまうぞ」
「……浮気だ」
浮気相手には絶対なりたくないのに、心の深いところではそれでも俺を見てくれるなら、なんて思う。その回路に驚きながらも、嫌悪する。難儀なことだと思う。人間の心ってままならない。
「浮気相手にはならない、絶対。だから駄目」
「わかってるよ」
くしゃくしゃと前髪を撫でられて、眼鏡を外されて目を閉じる。眩しくて苦しい。
「あんたのことだから、ちゃんとわかってる……」
目を開ける——長続きしないって言ったろ。と苦虫噛み潰したみたいな顔して言ったミツの顔を見て、思わず笑った。
「自分の慰めに人の恋心使うんじゃねぇよ!」
「うるせぇな! そうじゃねぇって……! だからあんたなんて……」
引き続き渋い顔してるミツが、顔を覆って呻くように言った。
「誰のせいで長続きしないと思ってんだよ……」
なぁ、ミツ、大人ってままならないよな。必要なものに必要だよって気軽に言えなくなって、誤魔化して、代替できると思ってるんだ——他の子にすれば良いのに。そう言った万理さんの声が頭の中に過った。きっと万理さんはできる大人で、俺はまだできない。
できないから、こいつがいい。
「困ったなぁ……ミツは、お兄さんがいいなってようやく気付いちゃったわけだ?」
腕を突いて体を起こして、不貞腐れたみたいな、子供みたいな顔をしているミツの頭を肩に当てた。そのまま黒いソファに転がって、ふって薄く息を吐いたミツが頭を擦り付ける。
「ああそうそう! もうそれで良いよ……オレ、大和さんにしと……」
「俺は、お前じゃなきゃ駄目だよ」
え、と声を漏らしたミツが顔を上げる。上げさせない。上げられたところで、さっき眼鏡を外されたから何も見えやしないし。
「ミツじゃなきゃ、駄目なんだよ」
もう少しだけ休んでいこう。ミツの気が変わらない内に。俺の気が、また迷わない内に。
【 side3に続く 】