箱船のカーニバル



 目映い程の琥珀色の煌めき、賑わう街、さんざめく人々の声、架け橋の向こうから上げられる花火の美しいこと。
 カーニバルの真っ只中、三月はそこにいた。手元には姫林檎のキャンディー。街の賑わいを反射する飴の艶が、今は宝石のように思えた。
「やあ、お嬢ちゃん……いや、ボクちゃんかな?」
 商売品を提げた男が三月に声を掛ける。心の底からそう勘違いをしているのだろうことを窺いながら、三月は顔を上げた。
「ボクちゃんには早いかもしれないな? ブランデーミルクだよ。一杯どうだい」
「もらうよ、おっちゃん。こちとら成人してるんでね」
 三月がそう言えば、商売人の男はこいつは失敬とばかりに頭を掻いた。
「お詫びに、多少まけよう」
「ありがとう」
 受け取った陶器に入っているホットミルクからは、仄かにブランデーの香りがする。程好く酔えそうな往来の景色と手元のブランデーミルクに、三月はするりと目を細めた。
 奇術芸団の飛行船は、橋の向こうに停泊している。今宵はカーニバル。人が集まっているものだから、昼間の公演も大変な盛況であった。
 とは言え、煌びやかに賑わう街の中にあっては、ここにちょこんと座っている三月が、かの奇術芸団の一員だなんて誰も気付きはしない。それで良い。人々は今あるカーニバルを楽しむべきだ。
 三月は、そっと陶器のカップに口を寄せる。
「美味しい……」
 琥珀色の明かりとミルクの味わいは、自然と心を躍らせてくれる。
 そんな三月の肩を、何者かがとんと叩いた。
「ミツ」
 遠い夜空の色のローブを羽織った男が、三月の目の前にパペットを突き出して喋らせる。
「やっとミツけた……!」
「……これはこれは」
 奇術芸団の人形使い殿、そんな風におどけて見せれば、ローブの中の男はついと眉を寄せる。不思議そうな、あるいは訝かしむような表情で三月を見ると、「酔ってるの?」と尋ねた。
「そうだな、人に酔ったかも……」
「タシカにコチラガワは、スゴいヒトだ」
「大和さんは?」
 人形使い、大和のパペットであるひつじが、もごもごと何か言いたそうにしている。人形を使っているのだからすんなり喋ればいいのにと三月が思っていると、ひつじが三月の耳元の髪を掻き上げる。
「団長が、そろそろ……」
 大和は、この街の陸を繋ぐ架け橋を一瞥した。
「そろそろ橋が上がるからと……」
 零時を迎えると橋は上がり、街は分断される。それを思い出し、三月は立ち上がった。
「そうだった……」
「飛行船に戻ろう」
 人形使いがそう言った瞬間、一際大きな花火が空へと上がった。七つ色のそれを二人で見上げて、それから感嘆の息を漏らす。ぱらぱらと散って消える花火の名残まで、瞬きもせず見届けた。三月は大和と顔を見合わせて、少し微笑む。
(今、少し……)
――恋人のようだったかもしれない。
 そうしている合間に、架け橋がゆっくりと上がり始めた。声は聞こえなかったが、大和が「ああ……」と口を動かした。
「零時、だ」
「帰れなくなっちゃったな」
 三月は、手元のブランデーミルクを口に含む。少し覚めてしまったそれからは、温かかった時とは別の苦みがした。


「部屋、取れて良かったな」
「うん」
 大和の代わりにひつじが応える。今は二人しか、そう二人でしかいないのだから、パペットを通して話すことはないのにと、三月は上着を脱いだ。
「カーニバルの間は、夜通し遊ぶ人が多いから、案外部屋は空いてるんだって。店主のおばさんが言ってた」
「そう、か」
 部屋の窓から賑わう街を見下ろしている大和の後ろ姿に、三月はとととと歩み寄った。
「一織に連絡もしてきたよ」
「……オコって、なかった?」
 しつこくひつじを喋らせる大和の手からひつじを抜き取り、三月はそれを胸に抱く。
「怒ってなかった。朝一で戻るようにって……それから、祭りの間は泥棒やスリが多いから気を付けてってさ。クラウンが言ってると思うと、なんか笑えるな」
「……俺、は」
 大陸の共通言語を話すのが少し苦手らしい大和が、窓の外を眺めながら言う。ひつじを取られたことは、さして気にしていないようだった。
「団長からお前を盗んだ、その泥棒みたいな気持ちでいるよ」
 大和の言葉に、三月は首を傾げた。
「カーニバル、きっと団長は、兄貴と過ごしたかっただろうから」
 な、と目配せをされ、三月は思わずひつじをぎゅっと抱き締めた。
 深夜だと言うのに、賑わいは少しも落ち着かない。本当に彼らは朝までこの祭りを楽しむつもりなのかもしれない。
 三月は、ぼんやりとしている大和の顔を見上げて静かに——ひつじの口をぱくぱくとさせた。
「気が利かない兄貴だったかな……」
 大和が首を横に振る。帽子を外した三月の頭を撫でて、それから三つ編みを指先で摘まんだ。
「気が利かないのは、きっと、俺の方」
 窓から差し込んでくる琥珀色の明かりが、大和の顔を照らしている。申し訳なさそうに笑っているその男の表情から、三月はそっと目を逸らした。
「団長が、ミツを探しに来れるように……弁えれば良かったな」
「……そんなこと」
 三月はひつじをチェストの上に下ろし、そしてそっと窓を閉めた。
 大和が三月の方を見つめる。なぜ、とでも言いたそうな彼のフードを下ろして、カーニバルの光を遮断された部屋の中で三月は微笑んだ。
「二人きりなの、嫌?」
 そう尋ねれば、大和は仄かに首を振った。
 人形を扱う無骨な手に手を重ねて、恐る恐る指を絡ませる。
 一織とカーニバルを過ごすのもきっと楽しかっただろう。それでも、今この瞬間、三月は「この人と、もう少し外を歩けば良かった」と、そう思ってしまっていた。
「……大和さんは、林檎飴は嫌い?」
「ううん、沢山はいらないけど……嫌いじゃないよ」
「良かった……」
 姫林檎のキャンディーを嗜んできたばかりの唇を、大和の口に寄せる。逃げも避けもしない男の様子を窺いながらそっと唇を触れさせた。ブランデーミルクで落ちたと思っていた飴のべとつきが、大和の唇にも付いた気がした。
 だから、離さないでいる。離せないでいる。さんざ触れさせていて、それでも名残惜しくて、ようやく離してふっと息を漏らした。
「甘い」
 三月は大和の体にもたれる。大和の呟きに少しだけ口角を上げて、それから大和の袖を引いた。
「しない?」
「……明日、朝一なんだろ」
「恋人みたいなこと、したいって思っちゃダメかな……」
 大和の肩が、ぴくりと震えたのがわかる。
「……恋人って思っちゃ、ダメかなぁ……」
 何度もキスをも交わして、体も重ねて、明らかな好意があって、それを言葉としても渡し渡されているというのに、それでもきっと三月たちは恋人ではない。だから、すぐ足元にあるカーニバルで二人きり手を繋いで歩くなんてことは、きっと今日も、これからも、起こらないのだろう。
 そう思うと、三月の胸は切なく痛んだ。
 寄り掛かっている三月の体を、大和が抱き締める。
「……大和さんのお人形してるのも、悪くないけどさ」
「……人形に向ける好きとは違うって……」
「わかってるよ? わかってるけど」
 大和の腕の中でもぞもぞと動きながら、三月はチェストに置いたばかりのひつじを見た。パペットやドールのように優しく意のままに扱われ、手入れされるのも悪くはない。
 大和のローブの紐を解く。シャツのボタンを緩めて、三月はその手で大和の頬を撫でた。
「二人きりで、誰も聞いてやしないのに、リップサービスも無しかよ? 嘘でも良いから、ちょっとくらい甘やかしてくれたって良いじゃん」
 ふらりと視線を落とした大和の顔が少し赤い。いじめているような気分になって、仕方なく、三月は大和の首に腕を回した。
 ——この一晩だけでも、カーニバルの間だけでも、人の騒ぎで声が掻き消える間だけでも。そう思う自分は我儘なのだろうか。
「嘘でも良いなんて」
 猫のように背中を伸ばして、のんびりと大和に絡んでいる。そんな三月の顎を、大和がそっと掬い上げた。
「……嘘でも良いなんて言われたら、余計に……」
 林檎飴よろしく顔を真っ赤にしている大和が、眼鏡のレンズの向こうで悔しそうに目を伏せていた。三月はつい、ふふっと声を上げる。
「お前さんに……許されるなら、俺は」
「うん……」
「こんな情けない俺、でも……良いの、なら」
「それなら、なあに」
「ミツの恋人に、してほしい」
 三月は堪らなくなって、消え入りそうな声で言う人形使いの頭を胸に抱き締める。そのまま、窓際のベッドに大和もろとも倒れ込んだ。
「ああ、親愛なる人形使いさん!」
「そ、そんな、大きい声出したら……!」
 大和は三月の腕の中で体を捩る。けれど、当の三月はけたけたと笑い声を上げながら、ベッドの上を右に左に転がっていた。
「大丈夫だよ! みんなカーニバルに夢中だからさ!」
 男二人がこんな場所で絡まっていたって、誰も知りようがない。それに、今は正真正銘の二人きりで、隣の部屋にはナギも他の団員もいないのだ。こんな機会は滅多にない。
 だから、三月は大和の頬に無理矢理キスをする。ブランデーミルクのせいで、まだ少し酔っているのかもしれない。
「ミツ!」
 三月をなんとか振り払い、そのままベッドに縫い止めた大和が、溜息交じりに肩を落とした。
「情けないなんて今更だろ。散々オレの体の中をいじくり回して。覚悟をできないなんて情けない奴だ」
「そ、それは、そのう……」
「でも、オレ、あんたがいい」
 恋人。本音を言えば、楽しい街の中を並んで歩きたかったけれど、しかし、カーニバルの裏側でこっそり絡み合ってるのも、多分恋人らしいのかもしれない。
 三月をシーツに縫い止めて、そのまま呆然としていた大和が小さく口を開いた。
「……親愛なる、音楽家さん」
「はい、なーに?」
 大和は三月の三つ編みの紐をすいと解く。ベッドのシーツに散らばる三月の髪を愛おしそうに梳いて撫でて、ようやく笑った。
「愛しています、心から」
 チャラけて笑っていた三月の表情筋が、つい固まった。首の方からじわじわと熱くなって、その内頭の芯が痺れたかと思えば、すぐに頭全体が沸騰しそうになってしまった。
「そ、その……ギャップ、反則……」
 以前、別の人に告白を受けた時とは比べものにならない。いてもたってもいられなくて、三月は大和にぎゅうっとしがみつく。
「そういう俺が良いんだろ?」
 先程までのもじもじとした姿はどこへやら……三月から得てしまった自信でそんなことを言う人形使いが、三月の腰をするりと撫でた。
 皆、街のカーニバルに夢中なのだから、夜の帳が下りているこの部屋の中でどんなに三月が声を上げたところで、親愛なるこの人の耳を擽るだけに違いない。
 これより始まりますは、人形使いと音楽家による箱庭のカーニバル。演者の影が今、ゆっくりとひとつに重なった。