LOVE%DISPENSER



 一番好きだ。そう思った。
 一番好きだ。ステージの上で走り回って、飛び跳ねて、歌って煌めいているミツが一番好きだ。
 月の光に照らされて、一人で黙々と練習してるその合間に俺を見るミツのことが一番好きだと思っていたあの頃とは違って、ファンのみんなの前で堂々とパフォーマンスするミツが一番好きだと気付いた時、少しだけ寂しくなった。
「大和さん、中庭で飲もうぜ」
 手元のビール缶のプルタブ。その飲み口の闇をぼんやりと眺めていた。ちゃぷんと、中の液体が揺れる音がした。
「……え?」
 我に返って、ゆっくりと顔を上げる。
 子供達は既に共用スペースにはおらず、大和の目の前には、まだ開けていないビールの缶を持って立っている三月がいた。
「年明けてから、まだ飲めてないだろ?」
「いや、飲んだよ。挨拶の時にさ」
「違う違う」
 首を横に振った三月が、手元の少しだけお高いビールのラベルを見て微笑む。
「二人でさ、飲んでないじゃん?」
「そう、だったっけ」
 事務所への挨拶、知り合いへの挨拶、そもそも年末年始の仕事量で半ば忙殺されていたからだろうか。共有スペースのソファに座ったまま、ぼうっとしていた。
 そんな大和の肩を、歩み寄った三月がとんと叩く。
「ちょっと寒いけど、付き合ってよ」
「いやー……ここでいいんじゃない?」
「なんだよ、付き合ってくんねぇの?」
 だって、外は寒い。こんな真冬にわざわざ外でだなんて。
 大和は、床に放ってあった半纏を持ち上げて袖を通した。
 そもそも、三月だっていつもの部屋着でくるぶしを出して、そのまま外に出たら寒いに違いないのに、それなのに中庭に行こうだなんて。
 大和には、その意図がわからなかった。
 ずんぐりむっくりして首を縮こめた大和を振り返り、三月が笑う。三月は上着を着ないようだった。
 中庭のベンチまで来て、外気でひんやりとしたビールをちびりと飲む。こんな寒い場所なら、熱燗か、もしくは甘酒が良い。
 ビールの缶をぷしりと開けて、三月はそっと大和の手元の缶にぶつけた。
「かんぱーい」
「はい、乾杯……」
 僅かに悴む指先で缶を揺らす。大和の方はもう少しでなくなりそうだ。なくなれば、解放されるだろうか。ベンチに座っていると、触れた場所からひんやりとした。そりゃそうだ、真冬の中、年中無休で佇んでいるベンチなのだから。
 大和の隣に座った三月が、ぶるりと肩を震わせる。大和はなんとなく気まずくなって、自分が着ていた半纏の片側の袖を抜いた。
「ミツ」
 その片側を開いて、三月を招く。大和の隣にぴったりとくっついた三月の肩に、半纏を掛けてやった。
「お前さん、せめてなんか羽織ってきなさいよ」
「んー、へへ……」
 鼻の頭を赤くした三月が、大和のすぐそばでにかりと笑った。
「もしかして、わざと?」
 なーんて、と言い掛けた大和の肩に、三月がとんと頭を乗せた。
「……うん」
「そ、そう……」
 自分で仕掛けておいて動揺するのを止めたい。仕掛けた大和に平然と愛を傾けられるようになってしまった三月を、じとりと見やる。
「前は動揺してたくせに、ミツも大人になったってことかなー」
 軽口の延長を続けて叩けば、三月が大和の脇腹をつついた。
「おっさんだって、前は受け流せてたくせに」
「……まぁ、さ」
 ちゃぷんと揺れる液体の闇を見つめる。何も見えなくて闇雲に選んだ答えを、目を閉じたまま呟いた。
「嬉しくて」
 中庭の中に沈黙が落ちる。
雲の切れ間から月が覗いて、その場がふらりと明るくなった。三月の表情が白く明るく照らされて、爛とした瞳が大和を見る。見られたくなくて顔を逸らした。諦めない三月が、ぐっと首を伸ばして覗き込んでくる。
「ミツ、肩、落ちてるから」
 折角掛けてやった半纏が、三月の肩を滑り落ちて脱げてしまう。それを改めて掛けてやろうとしながら顔を逸らし続けていると、結局正面から見据えられた。
 三月の肩まで届かない半纏を自分の肩に掛け直し、言うことを聞かないでニヤニヤしている三月に溜息を吐いた。眼鏡を上げる。
「照れてやんの」
「照れるよ……一番好きだったんだから」
「え……?」
 月の光に照らされて、この中庭で汗をかきながら踊る三月のことが一番好きだった。
 そんな過去の相手に見つめられたら、照れるに決まっている。自分は、随分と素直で初心になったものだ。
「……好きだったって、何だよ」
「そのままの意味だよ」
 誤魔化すために、残っていたビールを飲み干す。三月は碌に飲んでない自分のそれを見て、少し眉をひそめた。
「一番好きだった。ここで練習してるミツのことさ。今だから思うよ。見たかったから見てたんだ、俺。ずっと見ていたかった」
「今は、一番じゃないってこと……?」
「そう。最近気付いたんだけど……」
 アルミの缶が、かしゃっと音を立てた。ベンチを離れて大和の目の前に一歩を置いて立つ三月が、ぱしりと瞬きをした。
「ミツ、飲まないの?」
 空になってしまった缶を揺らして尋ねれば、三月が僅かに首を振る。
「飲むけど」
「ああ、わかった。やっぱり冷えてきたんだろ? 中戻ろうぜ」
 半纏に袖を通し直して、それからのそりと立ち上がる。
 鼻を啜って三月の隣を通り過ぎようとした時、月の光はぼやりとまた雲に隠れてしまった。
 一刻も早く、暖房の付いた寮の中に戻りたい。大和は早足で入り口に向かいながら、けれど三月がついて来ないことに気付いた。
「ミツ?」
「……一番、って誰?」
「え……?」
 大和が聞き返す。三月の表情は、月明かりが隠れてしまってよく見えなかった。けれど、はっと顔を向けた三月は、何かを隠すみたいに笑って、笑っていた。
「なん……なんでもない」
「……ミツ、ごめん、もしかして間違った?」
「何が……」
「その、俺の一番はミツなんだけど」
 時間差で、はぁ? と言った三月に、大和は慌てて眼鏡を上げる。
「一番の中の一番が変わっただけで……!」
「なんだよそれ。どういうこと……」
 とて、とて、と歩み寄ってくる三月のくるぶしが寒そうで寒そうで、だから早く部屋に入れて温めてやりたいのに、自分がその入り口を塞いでいる。
「……でも、やっぱり中庭の三月さんも最高というか……」
 ——だって、こんな顔するなんて思わなかったから。
「何言ってんだよ、おっさん……」
「でも、俺からしたら、ステージでアイドルやってる和泉三月さんが一番、っていうか……」
 どうしよう、どの三月を選んだら良いのかわからない。結局どれも三月には違いないのに、今ここにいる三月にどう声を掛けていいのかわからないまま、大和は半纏の袖で額を拭った。
「大和さん、それ、全部オレじゃん……」
「ああ、バレちゃった?」
 バレちゃったも何も最初からそうなのに、それでもおどけて見せてしまった自分に辟易とする。
 聞き取れないくらい小さな声で、掠れたその声で「動揺した」と呟いた三月に、大和は思わず眉を寄せる。
「あー……なんていうか、すまん」
「ううん。まだ動揺することあったなー……」
 とと、と歩み寄って、半纏の袖を摘む。三月が、静かに大和の肩に頭を当てた。
「ああ、でもさ、大和さん。一番はファンのみんなじゃねぇの?」
「う……ここでそういうこと言う?」
「オレは言うかも」
「そうだよな、お前さんはそういう奴だけど……」
 たかだか大和の一番がすり替わったことに動揺した三月の一番は、どうしたってファンに違いなく、それを大和は寂しく思う。
 けれど、そういう三月が好きな自分もいるのだから仕方ない。
「大和さん、寒い」
「あ、ああ、中入るか」
「おう」
 寮の中に入って、はあと息を吐く。空き缶を台所に出して、大和は誰もいない間に僅かにひやりとした共有スペースを振り返った。
 隣で、三月が残っているビールを呷る。
「ぷはぁ!」
「三月クン、良い飲みっぷり〜」
「ビール、めちゃくちゃ冷たい」
「だろうな。だから上着着ろって言ったのに……部屋行って温まりなさいなさい。風邪引くんじゃないぞ」
 ひくっとしゃっくりをした三月が、空き缶を流しに放って、それから大和を振り返った。カランカランと音を立てる空き缶を眺めていた大和の視界に、三月が割り込んでくる。
「えっち、しよっか」
「は……?」
「本当は、もっと上手く誘おうと思ってたんだ。忙しくてタイミングなかったから……」
 目を逸らして、もじと足を擦る三月が、大和の半纏の合間に手を入れる。するすると抱き付いて、そのまま大和の肩に額を当てた。
「……大和さんと寝てる時のオレは、大和さんの中で何番目……?」
 ぴしりと固まった体と思考回路が、途端に沸騰する。抱き締め返そうとする腕がうまく動かなくて、大和は半纏の袖をぎゅっと握った。
「お、おと……」
「おと……?」
「大人に、なりすぎ……」
 惑いに惑った大和の腕が、ようやく三月をささやかにぎゅっと抱き締める。まるで壊さないようにでもしているかのような仕草に、三月は肩を震わせて笑った。
「元々大人だっつーの!」
 そう笑った三月を、大和は無理矢理抱え上げる。急な動きに腰が吃驚したようで、びしりと鳴る寸前で一度止まる。
「何? 腰やった?」
「やっ、てない……!」
 そのまま根性で三月の脚を押さえて抱き上げた。ぎゃははと子供みたいな高い声で笑った三月の声を聞きながら階段を上る。止まってしまったら、もう動けそうになかったからだ。
 やっとのことで階段を上り終えた。三月は、ぷくくと笑ってしまう自分の口を押さえている。
 大和はといえば、自分の部屋のドアノブをなんとか捻って部屋に飛び込む。背後でドアが閉まる音が鳴る前に、三月をどさりとベッドに落とした。
「ひっく、ぎゃははは!」
 しゃっくりを交えてケタケタと笑う三月に乗り上がって、大和はうすら汗をかいた額と首を拭った。
 心なしか半纏が重い。脱いでしまいたいが、その前に大和は三月の額に唇を落とした。
「ひぇ……へへ……」
 ちゅ、ちゅ、と瞼に、頬に唇を触れさせて、首をぺろんと舐めてやると、三月は大和のベッドに放ってあった毛布を手繰り寄せた。
「ふふ、はー……もう、やだなぁ」
「何が? キス? 嫌……?」
「ううん……嫌じゃないよ。こういう風に触られるとさ、どうでもよくなっちまうの、順位とかさ?」
「ああ……ていうか、ミツが一番なのに変わりないから、俺が言うのもなんだけど、そんなこだわるもんでもなくないか……?」
 三月が大和の髪に指を差し入れて「つめたい」と囁いた。そのままくしゃりと撫でられる。
「……ここからオフレコな」
「はいよ」
「大和さんが、一番好き」
 好きだよ、と微笑んだ三月の、弧を描いた唇を塞ぐ。口を閉じたまま「ふふっ」と笑った三月がご機嫌な内に、さっさと服を剥いで毛布に包まって、今はひやりと冷たい手の指先、足の爪先まで温めてやりたい。
 唇を離して視線を合わせた。今度触れてきたのは、三月の方だった。ちゅぱと音を立てて離された唇を塞ぎ返す。
「大和さんも、オレのこと……好き?」
「うん……そう。だからさ」
 平等に愛をばら撒く和泉三月という男の、ささやかな特別を噛み締める。
 ベンチから見つめた時も、ステージの上、すぐそばで見つめる時も、病める時も健やかなる時も——
「愛してるって言わせてよ」