星掛けて花咲く夜


 一年後に気付いた。同じ花火を見上げながら、あの時聞き取れなかった言葉がなんだったのかを。
 一年後にしか気付けなかった。「何か言った?」って聞いた時に、振り返って曖昧に笑った、その意味を。
 

星掛けて花咲く夜
 

「棗ちゃん、好きなんだってさ」
「は?」
 ざり、とサンダルがコンクリートを擦る音が至る所で鳴っている。数多の人がそんな足音を鳴らす中、ぽつんと言われて顔を上げた。
「りんご飴、好きなんだってさ」
 似合うよなぁと同意を求められる。今掛けられた何の気のないような言葉を一度反芻し、三月は静かに前を向いた。屋台に掛かる「りんごあめ」の文字と、照明に照らされて煌めく飴に、ぱしりと瞬く。
「色白だから、赤いの似合うじゃん。風情もあるし」
「ああ、そういう……そうだなぁ」
 それなら、きっと似合うだろうよ。何なら、浴衣も似合うだろう、色気だってあるだろうよ。
行き交う人々の浴衣姿を眺めて、三月は思う。そして、自分が引っ掛けてきた甚兵衛の裾をちょいと持ち上げると、三月はぺっと舌を出した。
 ——どうせオレは似合いませんとも。
 言い出そうとしてブレーキを踏み、改めて顔を向けた時、相手の男は首を横に振った。
「言うなよ」
 心を読まれたみたいで悔しかった。
 だから三月は、前後の脈絡が無くも見えるその大和の言葉に、しらばっくれた返事をすることにした。
「何が?」
 それはそれで、くくくと笑った大和の表情が気に食わなかった。
 大和の言い草では似合わなかろうりんご飴の一つを買って、大和はついと三月に差し出す。
「ん」
「……いらねぇよ。食べきれないし」
 そもそも、これは好意のある相手と食べるには少し、はしたない食べ方になる。まあるい丸ごとりんごでは尚のこと、齧り付いて飴をがりがりする様は、とてもではないが上品ではないだろう。
「舌赤くしたミツのこと、見たくなっちゃってさぁ」
「オレはいいから、あんたが舐めてろよ……」
「残念」
 それよりも、今年はなんとなくブルーハワイのかき氷が食べたい。レモンでも良い。今リクエストのあった赤はなんとなく避けたくなって、三月はブルーハワイのかき氷を買った。
 しゃくしゃくとストローで氷を砕いていると、それを見ていた大和がつんと口を尖らせた。
「どうせなら可愛い色にしときなさいよ」
「色がどうこうじゃないだろ。今年のオレはブルーハワイの気分なの」
「残念」
 包みを開いて、がちとりんご飴の飴を剥がした大和が空を見る。
 濃紺に続く空の中には、先ほど終わった花火の余韻、白く漂う煙のもやだけがあった。
 どうして、こんな挙動不審に頑なに、隣を歩く男の提案の悉くを避けているかと言えば、理由はその花火に隠れていた。
「綺麗だな」
 三月は、花火を見ていた。
 大和は、三月を見ていた。
 ああ、と頷いて振り返った時、そういえば去年もこんな風に目の合うことがあった気がした。その時、相手が何と言ったか三月にはわからなかったが、それが今、今年になってようやくわかってしまったのだ。
「……何か言った?」
「いや、別に」
 曖昧に笑って誤魔化された。そんなこと、ちゃんと返事をすれば良いだけなのに、それなのにだ。大和は、誤魔化した。
 花火が綺麗だとそう言えば済むことを、大和は誤魔化した。
(どこが)
 甚兵衛に袖を通して、暑さにかまけて髪もピンで適当に止めてるだけで、その上、かき氷のシロップで舌を青く染めているような自分を、まさか綺麗だとは言わないだろう。
 しかし、去年も大和は三月を見ていた。何か言ったような気がして、けれど気にも留めずにはしゃいだ記憶を手繰り寄せて、三月は目を伏せる。
(いつからだよ……)
 いつから、そんな風に見てたんだろう?
 三月の他に素敵なものは沢山ある中、いつからそれを差し置いて三月を見るような真似をしていたんだろう。もっと早く気付いていれば、ぐっと顔を背けさせることだってできたろうに。三月は気付いていなかった。気付けていなかった。
「なぁ、ミツ。やっぱり半分いらない? これ……」
「欲張ってでかいりんご買った奴が悪いだろ。大体、途中まで齧ったもん寄越すなっつーの……」
「ちぇ……ミツなら食ってくれると思ったのに……」
「甘えんな」
「はいはい……」
 飴を剥がしつつ、しゃくしゃくとりんごを頬張る大和の横顔をちらりと見る。上手く食べているらしく、飴で口元が汚れたような様子もない。
三月は、思わずぺっと舌を出した。
「青い?」
「青い青い……」
 りんごを咀嚼し、飲み込んで、大和はべっと舌を出した。
「赤い?」
 少し、ぎょっとする。りんごを赤く甘そうに見せるがための赤い飴。その色の移りが、思いの外、その舌を赤くしていたから。
「お兄さんが舌赤くても、あんまり面白味ないかぁ。可愛い子ならまだしも」
「別に、舌が赤いからってどうこうでもないだろ……」
「ミツにはわかんないかなぁ。なんつーか、エロいじゃん?」
「はいはい、棗みたいな色白だったらなー」
「あ、棗ちゃんには言うなよ? 変な目で見られるから!」
 変な目で見てるのどっちだよと思う。けれど、そう言われれば似合うような気持ちもよくわかる。
「言わねぇよ……自分ちのリーダーが変態おっさんだなんて、恥ずかしくて言えねぇっつーの」
「変態とか言うな!」
「はいはい、スケベおっさんなー」
「スケベも余計だよ! あと、おっさん付けんな!」
「注文の多いおっさんだなぁ……」
 かき氷のカップから、ずずと中のシロップを啜る。しんと甘いブルーハワイに、三月はどうしてか、ほっとした。
 相手は、舌を赤くした自分の姿を見たいと言った。それを忘れたわけじゃない。棗巳波の名前を出して誤魔化しただけだった。
(あんな風に見えるなら、食べなくて良かった……)
「……ミツ、ゴミ捨ててくる?」
「あ、ああ。カップ? そうしようかな……」
大和は、りんご飴に残った芯を軽く噛んで口を離す。どうやら、そちらの戦いも、ようやく終わったらしい。
「ゴミ捨て場探してくるから、お前さんはここで待ってな。いいか、絶対に動くなよ」
「え、いいよ、オレが行くから」
「いーや、こんな中ではぐれるなんて御免だからな。振りじゃないから、絶対ここにいろよ!」
重ね重ねにそう言われ、三月はちぇと溢した。振り返りつつ離れていく大和に思う。そんなに心配なら、一緒に行けばいいのに、と。
「確かに、はぐれたらもう会えなさそう……」
花火が終わったとは言え、屋台の並ぶ場所はまだ人が行き交っている。ぽつんと残された三月が、髪を留めていたピンを外して、前髪を梳いて撫でた。
クセが抜けて馴染んできた頃にようやく戻ってきた大和は、嬉しそうに両手を挙げる。
「ミーツ」
「遅かったじゃん」
「甘いもん食ったから、つい飲みたくなっちゃってさ」
そう言って、三月に一本、ビールの缶を渡した。
「おー、サンキュー!」
三月が言い終える前にプルタブを上げた大和が、ごっと缶に口を付けたのを見て、そんなにりんご飴ひとつがつらかったのかと思う。
それなら、半分くらいはもらってやれば良かったかもしれないなと三月は少しだけ後悔した。
「っはー! 生き返る~!」
まだ三月はプルタブも上げていないというのに、大和は満足そうにそう言った。
「おいおい、まさか一気飲みしたんじゃねぇだろうな……」
「流石にそんな危ないことしないって……あ、乾杯忘れた。しとく?」
「いいよ、別に」
「あ、そう?」
大和が缶を横に振ると、中でちゃぷんと音がした。言っても、然程残っていないような音だった。
「急にそんなに飲んで、酔いが回っても知らねぇぞ……」
ち、と缶の端に口を付ける。甚兵衛を着て外でこんなものに口を付けていると、一歩間違えば補導されそうだ。自虐的にそんなことを思いながら、三月は「うめ」と溢す。かき氷のシロップの後には、この渋みが良く効いた。
「ミツが連れ帰ってくれるでしょ」
「大人は自分の足で帰ってくださいねー、おっさん」
「そうでちゅねー、お前さんはおまわりさんに声掛けられそう。一応聞いておくけど、年齢わかるもん持ってるか……?」
「持ってる持ってる、財布に入ってるよ……」
やっぱり、心を読まれたみたいだと思う。
(だよな、子供が飲んでるみたい……特に、こういう日は……)
途端に、手元のビールが不釣り合いに不味く思えた。
あまり積極的に飲まない三月を見かねてか、大和がその顔を覗き込む。
「どうした? ……俺、余計なことした?」
「何が……?」
「ビール。いらなかった?」
「……ううん。シロップ甘かったから、丁度良かったけど」
大和が、眼鏡のレンズの向こうで探るように瞬きをする。それを見て、三月は気付くのだ。人間は心を完全に読めるわけでもない。当然のことだった。他人も他人なのだから。
「ぐいぐい飲むと水っ腹になりそうだと思って。チャプチャプしてんだよなぁ、既に」
「ああ、シロップも飲んでたもんな」
「……あんたはオレのこと見過ぎ」
からりと笑ってそう言った。
「花火の時も、オレのこと見てたろ? ちゃんと花火見ろよ。すぐ消えちまうんだからさ」
サンダルを引き摺って、歩き出す。そろそろ帰路についた方が良いだろう。大和が急に酔わないとも限らないし、地元とは言え、面倒になる前に寮に戻りたい。
そんな三月の背中を追ってくる大和の足音が聞こえる。
「なんだよ、お前さん気付いてたんだ? 一応言っておきますけど、花火も見てたよ」
「もってなんだよ、花火を見ろって言ってんの。大体……」
無意識の内に、歩く速度を速めていたのかもしれない。タブを上げた飲み口から、ビールの液体が缶の上に溢れた。慌てて唇を寄せて吸う。
じゅわっと既に温くなりだした液体が舌先を刺激した。
「そっちの方が、綺麗なんだから」
背後で大和の足音が止まった気がした。
屋台の明かりが離れた頃、静かさの片鱗に足を踏み入れた頃、三月はゆっくりと振り返る。もしかしたら、まだ大和は賑やかさの中にいて、いつの間にか自分は彼を置いてきてしまっているのかもしれないと思ったからだった。
「わ」
それが、すぐ真後ろにいて驚いた。飛び退こうとしたらビールがついに缶から溢れて三月の手を汚した。
慌てて指から手の平に伝ったそれを舐める。
「あーあ、何やってんの……」
「大和さんが急に後ろにいるからさぁ!」
「やけに、こだわるなぁと思って」
大和が、濡れた三月の手を引く。殆ど空になった自分のビールの缶を三月に持たせて、代わりに三月が握っていたビール缶を奪った。
「なに」
なんとなく大和から缶を受け取り、なんとなく手を掴まれたままの三月が尋ねれば、その最中に大和が三月の人差し指を口に含んだ。
「は」
――あ? と疑問系にする前に、手の平をべっと舐められ、手を引っ込めようとするのに、大和が許してくれない。
「お、い! きたない……って!」
赤く色付いた舌先に手首の内側まで舐められて、甘噛みされて、三月は思わずきつく目を閉じた。手首の節を、じゅっと吸われる。ぞくりとした。
「……汚くないよ」
 なんとか目を開ければ、三月の手はようやく解放された。
大和はハンカチで三月の缶を拭いて、そのままハンカチを三月の濡れた手に握らせる。
「も、持ってるなら、最初からそれで拭けよ!」
「そこ文句言う?」
「言うよ! 言うだろ……な、舐めなくたって、わざわざ、さぁ……」
「アルコール分が勿体ねぇだろ」
「この……っ!」
ハンカチを握った手で殴ろうとして、なんとか手を止めた。大体、人に見られたらどうするのかと今更周囲を眺めてみる。然程人気はなかったので、三月はほっと胸を撫で下ろした。
「あんた、やっぱり大分酔ってるよ……もう帰ろう」
「言われなくてもそのつもりだけど」
「来年は、ちゃんと花火見られる人と来いよ……心配しなくても良い相手とさ」
する、と大和の目尻が細くなった。
「……なんでそういうこと言うの」
「だって、オレがいるとオレのこと見てばっかだし……オレに気、回してばっかだし……!」
「俺が何見ようと、誰見てようと、俺の勝手だろ」
ち、と短く舌を打つのが聞こえた。相手がそういうものを表に出す時点で、かなり酔いが回っているのだと思う。
「すまん、言い方悪かった……けど、お兄さんも傷付くんですけど、流石に」
三月は、ぐしぐしとハンカチで手を拭う。拭いながらそれを聞く。
「寮に子供ら置いてわざわざ毎年花火に誘ってるのに、それが誰相手でも良いって思ってんのかよ。お前は」
「誰相手でも良いなんて思ってないよ。もっとさ、釣り合うような、大和さんの注文聞けるようなさ、そういう人にすればって」
「ミツ以上に俺の注文応えられる奴、この世界にいねぇけど」
三月が顔を上げると、大和は咄嗟に口に手を当てて顔を逸らしていた。
「いや、世界は言い過ぎた……世界規模は流石に……余所のグループにいらん影響受けたみたい、ハズい……」
「そんなの、言われたオレの方が恥ずかしいわ……」
「とにかく! 別の奴と来いってのは撤回しろ。来年も……いや、仕事で来れないかもしれねぇけど! 来れる限りミツが来んの! わかった?」
「やだよ……なんでもう来年を予約しようとしてんだ……花火見ろよ」
「見ない!」
「やっぱり見てねぇんじゃねぇかよ……」
「違うもん、見てるもん!」
駄々っ子モードに入りつつある大和が、ほとんど空になってる缶をぎゅっと握る。アルミの缶がぐぎゃっと変な音を立てた。
「わーかった……わかったから、大和さんは花火も見てんのな。とりあえず、オレの返事は保留。ハンカチは洗って返す……」
「慰めモード入ったついでに逃げようとすんな……ていうか、慰めるなら最後まで責任取れよ……」
「うるせぇな……来年のスケジュールなんてまだわかんねーじゃん!」
「わかんの! 俺と花火に行くの!」
「行かねぇよ……じゃない、間違えた。えーっと、マネージャー通してください」
「お前、その言葉覚えてろよ。通してやるからな、マネージャー」
立ち止まってそんな話をしている内に、ばらばらと帰路についている人々の視線を感じるようになってきた。三月は思わず、ハンカチをポケットに押し込んで、空いた手で大和の手を引く。
「おら、駄々こねてないで帰るぞ、おっさん……」
「駄々こねてんのはテメェだろ!」
「こねてないもん、普通だもん♪」
駄々っ子モードの真似をして返事をすれば、大和が、三月の手をぎゅうっと握り込んだ。
「いったぁ!」
「俺が何を綺麗だと思おうが、誰を連れて歩きたいと思おうが……そんなの、俺の好きじゃん」
甚兵衛の襟元が、かっと熱くなった。
「俺が好きなもん、選んじゃいけないのかよ……」
三月よりも半歩先に踏み出た大和の悔しそうな横顔を見る。取り繕えない程のその表情を見て、何も返せなくなってしまった。釣り合わないなんて繰り返し言ったら、その手を手加減容赦なく握り潰されそうだった。歪に歪んだアルミ缶を見て、そう思う。
「だって」
口を余計に開いたら、綺麗とは言えない青い舌先を晒すことになる。それを思い出して、三月は思わずビールの缶を口に当てる。
「来年はちゃんと好きな人と来いよなんて言ってみろ。相手がミツでも、殴り返されたら勝てないとしても、流石に手が出るからな……」
絶対に、手なんて上げないくせに。そう思いながら、三月は息を飲んだ。溜息に変えて吐く。甚兵衛の襟元は、まだ熱くて、苦しい。
「……ここで、ちゃんと好きな人選んで来いなんて言うのはさ……無神経過ぎるわ。オレにだってわかるよ、そのくらい」
そうか、好きなんだ。そう思うと、ちりちりと胸元が焼けるような気がした。瞬きをすると瞼の裏に先程見たばかりの花火が散るようで、長く目を伏せることは憚られた。眩しい。痛い。目に刺さる。
「そうか……好き、なんだ」
呟けば、大和が足を止めた。三月も、自ずと足を止めることになる。
肩口に振り返った大和が呟いた。三月の手は掴んだままだった。
「うん、好き」
目を開けていても、閉じてみても花火が散る。眩しくて鮮烈で、だから目を逸らそうとしたのに、弧を描いた大和の唇から覗いた舌がこれまた鮮烈で、三月は目を逸らせなくなった。
「お前、顔真っ赤」
綺麗で、可愛いよ――そんな風に言われてしまえば、それが確かに聞こえてしまえば、最後。体の中で、火の花が咲いて落ちる、ぱちぱちという音がした気がした。