事あれかしと君を待つ



「一緒に暮らそっか」
 あれはまだ、寮を出る前だったと思う。いい加減長い間一緒に暮らしたオレたちも、そろそろ別々に暮らそうと踏ん切りを付け掛けていた頃、「大和さんはどうすんの」と問い掛けたオレに、大和さんはあっけらかんと笑って言った。
「ミツ、一緒に暮らそっか」
 だから、寮を出る話をしてるんだよと言い直す。すると大和さんの方も首を振る。
「そうだよ。だから一緒に出ないかって話」
「でも、それじゃあ寮出る意味ってさぁ」
「俺、ミツから離れられそうにないからさ」
 一緒についてきてよ。ビールの缶を揺らして回しながら、大和さんはそう言った。
 オレはなんとなく、本当になんとなく「それなら仕方ないか」って、深く考えることもせずにすとんと思った。

  (簡単に決めなきゃ良かった、そんなこと)
 ——そんな、大事なことを。
 意識に針が落ちたように、すっと目が覚める。三月は枕を吹っ飛ばして、ベッドに直に着いている頭を横に振った。さりさりと髪が音を立てた。
「ん……おも、い」
 寝返りを打とうとして、腹部に乗っている重石の存在に気付く。掛け布団を巻き込んで三月の腹元で丸まっている大和の頭を見下ろし、そっと撫でた。
(……寝相って、似てくるのかな……)
 すうすうと寝息を立てている大和をそっと腹の上から降ろそうとして背中を撫でて、やはり重くてやめた。最近は、大和の方が余程寝相が悪い。
 乱れた自分のパジャマの襟を覚醒しきっていない手でうろうろと直しつつ、それもかったるくてやめた。
 一緒に暮らすようになって、大和は時々三月の部屋で寝るようになった。二、三度、来ればいいよと大和の部屋にも招かれたが、クイーンサイズのベッドが怖くて、自分から出向いたことはない。
(怖いっていうか……なんでなんだよ、って……)
 女の子を連れてくることはある。三月がいる時に限りだ。週刊誌対策に、タクシーまで二人で見送る羽目になる。
 大和と二人きりになれることを期待して付いてくる女の子たちが、夕飯の支度をしている三月を見るなり、言葉にならない顔をする。それを正面から迎えるのは、流石に気まずかった。
 お見送りする時には彼女たちはすっかり自信を無くしているのだから、尚更気の毒でならない。大和が気付いているかどうかは知れないが、三月にはそう見える。一応、悪いことをしたなと思わされる。
 それを大和に打ち明けたことはないが、それでも、相手は彼に並々ならぬ好意を寄せているだろうに、その思いを無邪気にへし折られて苦しいだろうにとも思う。
「あんたって、残酷なところあるよな」
 見送ったタクシーのテールランプを眺めながら、そんなことをぼやいてみたこともあった。
 大和はへらへらしながら「え〜?」と曖昧な返事をしていたが、その真意は、三月にはやはり知れなかった。
 ——残酷なところがある。無邪気を装って、計算づくで、残酷なところが。
 年齢を増したら、それが次第に顕著になった。本当に無邪気なのかもしれない。気持ちに余裕ができたのかもしれない、そう思うと、三月でも、三月でさえも、大和のその無邪気さに本当に裏が無いのか判断に困る始末だった。
(わかんねー……)
 寝惚けていた意識はとっくにはっきりしているのに、三月は敢えてうつらうつらの微睡に戻ろうとする。戻ろうとするあまり眉間に皺を寄せれば、尚更意識ははっきりとしてしまう。
 三月の上でもぞもぞと身を捩るこの人が、綺麗な女優を三月と共に敢えて見送って「諦めて」と突き付けるこの人が、どうして三月に縋って眠っているのか、三月にはどうしたってわからなかった。
 大和の部屋に行ったらその答えがわかってしまうような気がして、怖くて、ドアを開けられないでいる。
(シングルベッドで大人が二人って……)
 丸まって寝るには、少し狭くて切ない。
 
「みっきーってさぁ」
 通話の向こうの環が、間延びした声を上げている。それを聞きながら、三月はぼんやりと時計を見上げた。
「ヤマさんに甘いよなぁ」
「そうかぁ……?」
 余程、他のメンバーに対しての方が甘い気がする。それでも、成人して幾年か経った環から見てそうなら、多分そうなんだろうとも思う。
 環はよく「人」を見ているから、その環が言うのならばと、三月は反論せず、口を尖らせるに留めた。
「なんつーかさぁ、ちゃんとしろよとは言うけど、それ以外のとこ……そういうの許しちゃう? みたいなやつ」
「そういうの……?」
「なんだっけ……ぱーそなるすぺーす? 人との距離感みたいなやつ? 俺も近い〜って言われっけど」
 ぼそぼそと言う環に、三月は首を傾げた。
「え、オレ、近い?」
「みっきーが近いっつーか……ヤマさんが」
 それは確かに一理あるかも……だから朗らかにしてると色んな人が寄ってきてしまって、という話をしていたんだった。それにしたって、三月を巻き込むのはお門違いではなかろうか。
「みっきーに対して近い」
「はぁ? おっさん、誰に対しても近いだろ?」
「いーや、そんなことねぇ……」
「そりゃあ、相手見て弁えてたりはするけど……オレには弁える必要がないってだけじゃねーかなぁ……」
 電灯が照らす天井をぼんやり見上げながら三月がそう言えば、環は「んー」となんとも言えない声を上げた。
「言った方がいいんかなぁ」
「何が?」
「でもなぁ、俺だったら自分で言いたいもんな……」
「何、何、なに……なんの話?」
「ヤマさんに、もっとガンバレって言っといて」
「はぁ? なんで?」
「みんな、素直になれば良いのになぁ」
 それじゃ、おやすみみっきーと電話を切った環の名前が表示されているスマホの画面を見つめて、三月は肩をすくめた。
「な、なんだ?」
 ゆるく飲んでいたビールの缶を揺らし、時計を見上げる。
 そういや、帰ってくるの遅いかも。そんなことを思えば、少しもやもやとする。
 三月はビールの缶を呷って空けると、二本目のビールのプルタブを上げた。
(……いっそ)
 缶の口に、尖らせた唇を当てる。
(ベッドに連れ込んでくれれば、わかりやすいのに)
 
 
 
 とんでもない殺し文句を思い付いたもんだと、その当時は思っていた。
「俺、ミツから離れられそうにないからさ」
 だから一緒になりませんかなんて、自分らしい言葉を思い付いたもんだって。
 しかも三月は「それなら仕方ないか」なんてはにかんでいたのに、実際には大和の思惑は少しだって伝わっていやしなかった。
 先日、環に言われたことを思い出しながら眉間を揉む。
「はっきり言わねーと伝わんねーから」
 まさか、環にそんな風に言われるとは思わなかった。しかしなるほど、長年壮五みたいな子といると、押す時に押さなければ魚を逃すと学習するのかもしれない。大和だって、それが例え自分の手に余るくらい大きな魚であったとしても逃したくはない。
 なあなあに過ごしている同棲部屋の鍵をくるくる回しながら、大和はエレベーターに乗った。
(同棲とか、本人の前じゃ言えないけど)
 恥ずかしげもなく言う先輩たちが、少し羨ましい。
(同居人……同居人かぁ……)
 なんか、寂しいかも……とエレベーターの壁にもたれた。
 寮にいた時はなんて呼んでたっけ——メンバーか。
 じゃあ今、家にいる人を呼ぶ時——やっぱり同居人って呼ばれるのかも。
 それって少し寂しい。一人しかいないのに。
「……いや、同居人以外に何があるよ……」
 三月が一緒に住んでいることに浮かれて、よく人を連れて帰るようになった。「うちのミツ」を自慢したいんだと思う。実際、自慢話をしたりする。三月は嫌な顔一つせず迎えて、一緒に見送ってくれる。
 けれど、ただ一回「あんたって残酷なとこあるよな」って言われたことがあった。少し酒を飲んでいたからふわりとした記憶になっているが、あれはどういう意味だったんだろう。
 そんなことを考えている最中、スマホが着信を告げる。大和はエレベーターの壁にもたれたまま、もぞもぞとスマホを取り出した。
 ——あ、倉持ちゃんだ。
 前に家に連れてきた子……噂をすれば、と呑気に着信に応じる。
 取らなきゃよかった、こんな気軽になんて。

「いやいやいや、今俺そういうのは考えてないから……お試しとかじゃなくって、本当、誰かと付き合うとかは」
 部屋に入った瞬間、それまで小声でいた言葉のボリュームを上げる。大和はうんざりとしながら、スピーカーの向こうの新人女優の話を聞いていた。
 不安な中、二階堂さんに良くしてもらって、好きになってしまって、試しでも良いから付き合って欲しくて、そんな言葉の数々に、申し訳ないながらうんざりする。うんざりすると同時に、いつの間にか鈍感になっていた自分にも辟易としていた。
(ミツといて、浮かれてた……完全に……)
 あんなにラブラブなRe:valeだって言い寄られることがあるんだから、外でどんなに愛妻家ぶってても、本気にしない奴っている。
 そもそも愛妻とは言ってないです、同居人止まりです俺なんて……という自虐まで頭を過ぎる。実際、デレついていても煮え切ってはいないのが自分の悪いところで——「二階堂さんは、私のこと嫌いですか……」思考が逸れていたところにそんな言葉が飛び込んできて、大和は思わず頭をガリガリと掻いた。
 玄関に上がって、リビングに入るかどうか躊躇する。けれど、ドアノブを引くことにした。
「あのさ、同居人に聞こえるから、この話一旦やめようか」
 そう切り出せば、また嫌いなのかと聞かれた。
(しつこい女は嫌いだよ、正直な)
 そんな本音は口にしない。それがまた自分の煮え切らない部分だと自覚して、少し嫌になる。
「何、大和さん電話してんの……」
 ソファにだれていた三月が頭を上げて、帰ってきた大和の方を見た。とろんとしているそれに、飲んでたのか……と思えば、ガラステーブルの上には五、六本のビールの缶がある。
「はぁ? ミツ、一人で飲み過ぎだろ!」
「……大和さぁん」
 思わず口から出た文句に、三月がへらっと笑った。
「あの、二階堂さん……」
「あー悪い、倉持ちゃん……ちょっとツレが飲んだくれてて、片付けないと……」
「お願いします……聞いてください」
 涙声になる相手に更に苛立ちを覚えて、大和はソファにどかりと座る。
「大和さん、電話、誰ぇ」
「この間連れてきた子……倉持ちゃん」
 へら〜っとしている隣の三月に、ぶっきらぼうに言った。すると、三月はぷっくりした唇を、ムと尖らせる。顔が赤くて唇も赤い。ぽかぽかして温かそうだ。
「お願いされても、さっきも言ったでしょ。俺、今そういう相手は作らないつもりなんだ」
「他に誰か付き合ってる方、いるんですか……」
 ——いないですね。眼鏡を上げる。
 付き合いたい子はいますと口の中でもごつかせてから、「それもいないけど、決めてるから」と返事する。
「本当はいるんですよね……別の先輩も、二階堂さんにはそうやって断られたって」
「あのさ、そういう詮索するなら」
 そろそろ辛辣な言葉が出てしまうかもしれない、そんな時だった。電話している大和の頬にむにっと熱いものが触れる。
「んあ?」
 思わず、変な声が出た。言葉を切って振り返ると、眉間にぎゅっと皺を寄せて怒ったような顔をしている三月の顔がある。
「え、ちょっ……」
「やまとさんの、ばかぁ」
 動揺のあまり、あたふたしていると、半開きの大和の唇に三月が「んぎゅ」と唇を当てる。体重を掛けられて、ソファに倒れた。
「あだぁ! あ、オイ! ミツ、ま、待った、ちょっ、はあ?」
「ばかばかばかばか」
「えええ」
 大和の手からスマホが落ちる。ソファからも落ちたそれを慌てて回収しようと半身になると、その上からしがみつかれた。顎の下に吸いつかれて変な声が出る。変な声はさっきから出ているが。
「ちょっと待った、ミツ! あ、倉持ちゃん? なんかヤバいことになってるから! 本当、この話終わりな! ごめん!」
 事の次第がわかっていない相手のことを完全に無視して、大和は通話を切る。そのままスマホを床に置いて、出鱈目にキスしてくる三月を引き剥がした。
「み、ミツ! 三月さん!」
「う……」
「何! 吐く? 吐くの?」
 口を押さえて俯いた三月を抱え上げようとオロオロすれば、瞳をぐずぐずにした三月が「電話終わったぁ?」と呟いた。
「終わったよ……」
「まーた共演者キラぁ? してる……」
「してねぇって……」
「家に連れてきたら、かんちがい、するんだよ」
「ミツがいるのに……?」
「んー」
 大和の肩に三月が頭を乗せる。ぐりぐりと擦り付けられて、その後大きな溜息が大和の耳に届いた。
「オレは、そういう相手になれねぇから」
 三月が吸い付いていた唇から頬から首の裏がむず痒い。唇に指を触れさせて、撫でる。三月の頭を見下ろした。
「俺は、そういう相手に」
 はっきり言わないと伝わらない。自分では、はっきりと伝えてるつもりなんだけど。
「そういう相手になってもらうつもりで、離れられないから……一緒にならないかって言ったんだけど」
 三月が頭を傾ける。溶けそうな薄い色素の瞳が、片目で大和を見た。
「……環が」
「えっ、この話の流れでタマ……?」
「環がさぁ」
 はい、どうぞ、タマの話続けてください……大和はソファに体重を掛けて、それから三月の肩を抱く。
「ヤマさん、もっとガンバレって言ってた……」
「あー……直接言われたかも、それ」
「オレもさぁ」
 ぐずぐず、と三月が額を大和の首に擦り付ける。
「がんばろっかな、って思って……」
「え……?」
 オーバーサイズのスウェットに包まれている三月の腕が大和の体に巻き付いて、やんわりと力が籠る。
「大和さんのこと好きな子、連れてこないで……やだ、から」
 余裕、ねぇから。
 ぽつんと言われた言葉に、大和は瞬きをする。
「……え」
「オレの方が好きだぞって、マウント取っちゃうの、やだ、から」
 心臓が止まった気がした。実際止まったかもしれない。
 一瞬の沈黙の後に、三月がぬるぬると大和から離れていく。三月の肩を抱いていた手に力を込めて引き戻して、顔を覗き込んだ時、三月のありとあらゆるものがピンク色に染まっていて、とても目に毒だった。
「ミツ」
「や、ちがう……そういう、じゃ」
「俺のこと好きなの」
「えっ、わかんねぇ」
 近過ぎてわかんなかった。辿々しくそう言う三月の目の前で眼鏡を外す。このくらい近かったら外しても大丈夫だと思う。少しぼやけたので、目を細めた。
「キス、うれしい」
 縮こまっている三月の唇に唇を押し付けて、ぺろっと舐めた。あれは、と言い掛けた口を吸い上げて、うっとりとした目尻を拭う。
「あれは……電話切りにくそうだったから……」
「妬いた?」
「妬い……て、ねぇ」
 テーブルの上に眼鏡を置くと、カタンと音がした。それだけだった。
 縮むついでにソファに倒れていく三月の耳の裏を吸って、逃れてうつ伏せになろうとする首に鼻筋を寄せる。
「また、なあなあ……」
「だから、お兄さん何度も言ってるじゃん……返事くれないのはミツだよ」
「酔ってるから、今ダメ」
「一緒になって」
「ダメだって……」
「俺とずっと一緒にいて」
 覆い被さる大和の肩を両手で押しながら、三月はばつが悪そうに見上げる。ぽかりと赤くなった顔の中で、瞳がくるりと惑っていた。
「一緒には、いるけど……」
 三月のスウェットの裾に手を差し込んで、ふっくらとした腹筋の筋を撫でて、脇の下を通って肩甲骨に触れる。逸らされた顔の、こめかみにキスを落として溜め息を吐いた。
「ミツは、いつ俺のベッドに来てくれんのかな……」
 そう言えば、三月はのそりと自分の顔を手で覆って「まだいかない……」と呟いた。
 肩甲骨と肩甲骨の間に爪を立てようとして、自分たちの職業のことを思い出し、止める。
「お前さん、本っ当、小悪魔だよな」
 そう言えば、顔を覆っていた手で大和の首を引き寄せて、そのまま唇を触れさせてきた。口の中に溜まった唾液がくちゅと音を立てて、邪魔だったので吸った。
 相手の背中に羽があったら、毟り取ってたと思う。
(明日から、同棲って言っちまおう)
 一緒になるためにわざわざ買ったクイーンサイズのベッドに無理矢理連れ込まない分、三月を待っている分、たくさん褒めて欲しい。