ひとさらいの夕べ -VANILLA edition-
【 Chapter 8 】
朝の記憶は、ひどくぼんやりとしていた。
三月がうっすら目を開けると、大和は既に着物に着替えて帯を締めている最中だった。また背中を見逃したと布団から寝惚け眼を覗かせていると、それに気付いた大和が肩口に振り返って微笑んだ。
ぼんやりとしていたから、本当は微笑んでいなかったかもしれない。もっと悪い顔をしていたかも。けれど、三月は気恥ずかしくなって、掛け布団の中に潜ってしまった。
そんな三月の頭を布団越しに撫でて、大和が静かに言った。
「起きた? 動ける……?」
「……んーん」
ふるりと頭を振る。腰がずんと重い。後頭部にまで鈍痛が走って、少し目眩がする。
「ははっ、だろうな。頑張らせちゃったから、昼過ぎまで寝てて良いよ」
大和は、サイドチェストに何やらメモを置いた。
「これ、いつも運転手してる奴の連絡先。起きたら呼びな。家まで送るよう言っておく」
「やまとさんは……?」
「俺はお仕事」
もそり、頭を出す。そんな三月の頭をくしゃくしゃと撫でた大和の手が離れていく。
それを見送りながら、三月は「いってらっしゃい」と呟いた。大和がくすっと笑って「いってきます」と言ったその声を最後に、三月の意識は再び眠りの中に落ちてしまった。
次に目を覚ました時、昼の一時を過ぎた頃だった。スマートフォンでホテルの位置と自分のアパートの位置を確認したが、流石に徒歩で帰るのは難しい気がして、仕方なく、大和の運転手に連絡をした。
程なくして到着した彼に迎えられ、部屋を出た。来た時は大和がいたから気にしないようにはしていたが、一人で出るには敷居の高いホテルだったので助かった。
(いや、やくざと出るのに、助かるも何もないんだけど……)
腰を庇いながら、車に乗り込む。予め聞いていた通り、そこに大和の姿はなかった。
「大和さんは……?」
「兄貴は、外せない用がある」
それ以外に、運転手が三月に向かって声を掛けることはなかった。
アパートまで無事に送り届けてもらい、「大和さんによろしく」と告げると、彼は頷いて少しだけ笑っていた。まともに正面から顔を見たのはこれが初めてだったが、今更ながら誠実そうな人だと思った。
重いままの腰を引き摺って倒れ込んだ自分のベッドは、ホテルの上等だったそれよりも随分と硬くて、体には手厳しかった。
持ち帰ってきたスマホは充電が残り僅かだった。ベッドの傍らの充電器に差す前に、大和に連絡するかどうか悩み、結局、三月はそのままスマホを充電器に差した。
この時はまだ、大和からまた連絡があるとどこかで思い込んでいたんだろう。大和から連絡が来ることは、もうなかった。
一日、二日、三日、一週間、それから十日、二週間、連絡のないスマホを見る頻度が減って、通話履歴からも、未登録の大和の番号が消えていって、そのまま。
最初は、「ヤり逃げだ」と憤っていた唇も、いつの間にか「仕方ないものだ」と結ばれた。合意の下とは言え、そもそもおかしかったんだ。やくざに車に連れ込まれるのだって、ホテルに連れ込まれるのだって、セックスするのだって、なんだっておかしかった。
五体満足で大学に安穏と通っている現在があるだけマシだと、三月は初夏の中で思っていた。
夏に海辺のイベントでライブすることが決まって、バンド仲間とつるんでる間も、時折、ほんの時折思い出す。
(あの人、生きてんのかな)
背中の刺青なんて見なくたって、忘れられるもんでもない。
ヤり逃げされた事実を蒸し返す度に、押し付けられたプラチナのネックレスを売っ払ってやろうかと思ったが、何故だか気乗りしなかった。
だから、それはまだ三月の手元にある。アルミラックに引っ掛けてぞんざいに扱うことくらいしか、腹いせを思い付かなかった。
ネックレスを贈る意味なんて、結局あの人は考えちゃいなかったんだと思う。もし知っていたんだとしたら、本当に根性の悪い、狡い奴だ。
「独占、なんてな……」
――されても良いって、思ったのに。
アルミラックにぶら下げたそれを見つめている時、スマホが着信を告げた。三月は慌てて画面を見た。そこには、環の名前が浮かんでいる。
今更がっかりなんてしない。三月は着信に応じた。
「あ、みっきー? あのさ、機材運ぶのなんだけど、友達が手伝ってくれることになってさ」
「ああ、うん。助かるよ」
ちゃり、とプラチナの鎖を指で遊んだ。
「その辺は心配しなくていーから、あとは新曲の練習してー」
「そうだな、万全で臨もうぜ」
「うす!」
嬉しそうに返事をして通話を切った環の顔を思い浮かべる。
万全で臨む、か――ずっとぐるぐると同じことを考えている自分に嫌気が差して、三月はアルミラックからネックレスを外した。
気乗りはしないけど、お守り代わりに……そんな気持ちで、本番ではそいつを着けた。
心の中で見せてやりたいと思った相手は、当然会場にはいなかった。当然だ。連絡も寄越さないのに、三月のライブになんて顔を出すはずがないのに。
それでも、ドラムを叩いている時、夜の浜沿いを歩いた時、あるいは、キャンパスを出る時、街の中でだって、気が付けば探してる。
だけど、軽々しくこんな高価な物を寄越せる人間が、三月の首でそれが煌めいてる程度じゃ、数多の星の中から見つけてなんてくれやしない。半年ほど経って、ようやくそれに気付いた。
それでも、やはり売り払うことなんてできなかった。例え持ち主に会って返すことができなくとも、自分にはこの鎖を自由にする権限は存在しないと、そう思う。
売り払って口座に入れてしまえば、それと引き換えに得た紙幣の特別さもさっさと消え去ってくれるだろうに、それでも三月は罪悪感を感じずにはいられなかった。
(見せたくなかったのは、忘れて欲しかったからだ)
それなら最初から触らないでいてくれれば良かったのにと、何度か紺色の夜の中で思った。
掻き乱さないでいてくれれば、心を攫われることもなかったろうに。
「また雨かぁ……」
三月は、巻き込まれた夜のことを思い出していた。同じような天気の中にいるのだから、それは致し方ないことだった。
場所は違うが、まるで、本当にあの日みたいだ。三月はそんな風に思った。
「みっきー傘持ってねーよな! 今、まるっちが迎えに行くって! どこ?」
スマホを片手に、三月は溜息を吐く。ライブハウスの軒先で、急な雨に塗り替えられていく街を眺めていた。
あの日も雨が降って、それから暫しの間に止んだ。残されていたのは、汚い水たまりだけだったと思う。
「おー……今? チェルシーホテルのさぁ……」
「えー? 何?」
ゲリラ豪雨というやつかもしれない。轟々と鳴る雨音の中、三月は声を張る。
「だからぁ!」
水たまりにはばしゃばしゃと雨水が落ちて、ネオンの色はぐちゃぐちゃに掻き回され、何も描かれない。このライブハウスの看板が放つ賑やかな色さえ霞んで見える。そんな汚い景色を睨んだ。
その先に、何色にも染まらない黒塗りの車を見つけ、三月は言葉を失う。
雨音が止んだ。雨が止んだのではない。音が止んだように感じただけだった。
「……あ」
車のドアから下りて差した傘の元に案内された男が、運転手からそれを受け取る。
濃い色の羽織を着た着物姿の男だ。電話の向こうの声も、音も聞こえない。足は金縛りに遭ったかのように動かない。
声を出したら気付くだろうか。この、ばたばたと雨雫が降りしきる中で? この、夜に向かって増えていく人間の中で?
(それなら、きっと、もっと、早く気付いていただろ)
――あんたは気付いてただろうか。
――オレは、気付かないふりをしていたよ。
三月は、そっと環との通話を切った。屋根では防ぎきれなかった雫が、三月のこめかみを伝う。軽く拭って視線を上げた。
路地に入っていこうとする今は遠くなった男を見つめて、三月は呟く。
「好き、だったよ」
それは決して、嫌いじゃない、じゃなくて。
遠くなった背中が、少し振り返った。目が合った気がして、驚いたような顔をした気がして、けれど、恐らくその全てが「気がした」だけだったように思う。
この場で蹲ったら、舎弟を置いて駆け寄ってくれるんじゃないかなんて幻想を振り切って、三月は鼻を啜って手の甲で頬を拭う。本来の自分は、そんなに弱くはないはずだ。
(こんな雨なんて、すぐに止んじまえばいいのに)
びしょ濡れになることも構わず、三月は駅の方へと走り出した。
男も自分も、もう互いを振り返ることはないだろう。
【 VANILLA edition 終 】