雨水が屋根を叩く音がする。ことんことんと建物の外壁を叩いてくぐもる音がして、だから——音が遠くなる。
飲み交わした酒のせいで感覚が鈍ってるせいだろうか。それとも、今目の前に起こっている事象のせいか?
響く雨音より、余程水っぽい音がすぐ近くで弾けた。くちゃと乱れたそれを親指の腹で拭って、覆うように塞ぐ。隠してしまえばバレやしないし、バレたところで、今はどうでも良いと思っていた。どうせ、とうの昔に大和が彼を好いていることは割れているのだから。
問題は、彼、三月だ。
ずっと拒んできたのは三月の方だった。それなのに、今日に限っては様子が違う。
大和が拭って覆うのに使った手を剥がし、三月は自身の口を大和のそれに押し付ける。ちゅ、と吸い付いた音が大和の鼓膜を擽った。力任せに押し付けられる三月の唇から逃れようと首を捻る。唇の凹凸が埋まって、思わず目を閉じた。
唇が熱い。はむと甘噛みをされて、大和は静かに目を開ける。
「み……」
甘噛みはあっという間に終わって、そのまままた唇を押し付けるだけのそれに変わった。
まにまに漂っている。漂っているふりをしている。
はぁと呼吸を漏らすと、それさえ飲み込もうとする三月が、今度は彼の方から凹凸を埋めて合わせてきた。滑った舌が大和の唇を開いて、そのまま滑り込んで前歯に触れた。
「み、ミツ、これ以上は駄目」
ようやく顔を離して、それから仰け反りながら言った。
三月は知ったことかと言わんばかりに、大和の胸に自分の胸を合わせ乗り上がろうとしてくる。大層積極的な三月の腰を撫でて、そっと自分の腹の上に座らせた。大人しく座るものだから可愛げがある。
「ミツ……」
呼び掛ければ、それでも大和の唇を塞ぎたいのだろう、首を伸ばして三月が目を閉じてくる。
「だーめ」
「どうして」
どうしてと尋ねてくる三月の、少し汗ばんだ額に唇を寄せる。無理矢理塞がれていた口は少し痺れていて、けれど感覚は確かに——少し敏感なくらい。
すぐさま、自身の額に触れる大和の口を捕まえようと顔を上げた三月の目が、ゆらり蕩けていた。
「……だって」
——お前がしたいのって、本当に俺?
ずっと拒まれてきた。
「冗談でやっていいことと、悪いこととあるだろ」
「後悔するだけだからやめとけって」
「どうせするなら、口を開いてもイケメンな奴が良い」
「だから、大和さんはダメ」
大和さんは駄目なんじゃなかったのかよと、そんな言葉が頭を過ぎる。
理由があるなら教えてくれないかと粘って得たのは、「好きな人がいるから」という残酷な答えだった。
どうしてそんな嘘を、と思った。軽率に口にするにはあまりにも鋭利なその言葉を反芻する内、三月が顔を赤く染めて口を押さえている顔を見ている内、この男はそんな嘘なんて吐かない。そう思い出した。
「好きな人って、誰……」
「それは……」
「いや、待て。いい……言わなくていい」
両手で視界を遮って、三月から目を逸らす。
「悪い。軽率だった」
秘めておきたい恋だってあるだろう。アイドル稼業じゃ尚更だ。大和のように、近しい人間にだって明かしたくない懸想くらいあるだろう。
「大丈夫、黙ってるよ。酔っ払って迫るのもやめる! 本当、悪かったと思ってる……」
「……反省した?」
うんと頷くことで、許してもらうことで、嘘だよバーカと返してくれることをほんの少しだけ期待した。
けれど、三月の返事は決してそんな都合の良いものではなく、ただ「わかった」という承諾、それだけだった。
頭の奥に鈍痛がする。大和の好意がふざけているものではないことを少なからず知っていて、それなのにこんなことを言った三月の言葉が本音に違いないこと、それを、大和は三月以上に知っていた。
ちくりちくりと何かが胸に刺さるような錯覚。まるで、針千本飲まされたような気になる。大和は、嘘なんてついていないのにも関わらずだ。
(お前がしたいのって、本当に)
もしかして、恋が終わって自棄になっていたりもするのかもしれない。大和が知らない間に始まって、触れない間に終わっていた三月の恋があったのかもしれない。
(……それなら、いいかぁ)
それでも、いいか。
当て付けでも自棄でも、役得かもしれない。
ことんことんと鳴り続けている雨音を遠くに聞きながら、大和は息を吐いた。
役得かもしれない。三月の相談を受けるような立場にいられて、気軽に触れられるような立場にいられて、だからやり場の無い気持ちをぶつけられることさえも、それは大和にとって得なのかもしれなかった。
たとえ、それが他の誰かのために用意されたものであったとしても。
(じゃあ、さ)
ことん、ことん、と頭の中に刺さってくる雨音。ぼんやりと沁みてくる痛みを感じないふりをしている。感じていないような表情をして、前髪の隙間から、ずれた眼鏡のレンズの隙間から、三月を見た。
(じゃあ、ミツに駄目だって言われた俺の恋だって、仕返しにぶつけていいものなのかな……?)
じわ、と目尻が湿り気を帯びた気がした。
「お前がこうしたいのって、俺じゃないじゃん」
思っていたより、強い口調になっていたことを自覚する。
奥歯を噛み締め、三月の言葉を待った。しかし、返ってくるものはなく、雨音が鈍く、鈍く響くだけだ。
しようのない気持ちを堪えきれないまま、大和は改めて口を開く。開きたくなかった。
「……どうして俺なんだよ。知ってるだろ、俺がミツのこと好きなの。当て付け……?」
言ったら終わってしまうと思ったから、口なんて開きたくなかったのに。
「正直、今更こんなことされても、困る」
大和の上に体重を掛けていた三月の体が、ぴくりと固まった。溶けていた瞳がゆっくりと輪郭を取り戻していって、そのまま俯く。
「大体……俺もだけどさ、ミツは酔うと何かしても忘れちまうし……そろそろ、そういうのもいい加減にしねぇとなって思ってて」
「……うん」
「いや、俺も悪いんだけど……記憶なくすまで飲むのはお互い……」
「うん……」
大和のカーディガンの上に、ぱたんと三月の涙が落ちる。繊維に吸い込まれるのに時間が掛かった大粒のそれを見て、大和は思わず天井を見上げた——雨漏りかもしれない。そんなことはない。だから間違いなく三月の目から落ちた雫に違いない。
「み、ミツ?」
こんなタイミングで、やめて欲しかった。今泣きたいのは大和の方だ。
「ごめん……オレ、オレ……」
びたびたと落ちてくる「雨漏り」の雫を、大和は慌てて袖で拭った。三月の下瞼をぐりりと拭って、染みてくる涙に呆れてしまう。
(……なんのために拭ってんだか)
なんのために、この雨漏りを塞ごうとしてるんだか。意地が汚くて情けない自分のことが嫌になる。
突き放そうと口を開いたなら、最後まで突き放せばいいのに、保身のためにそれをしない。できるわけがなかった。
(だって、好きなんだもん)
誰かのために涙を流すにしたって、その一滴一雫も逃したくない。ありとあらゆる時、俺の前で泣けばいい。
最初からこうしてくれれば良かったんだ。有耶無耶になるみたいなキスをしなくたって、それで良かった。それなら、許せた。
「やめろよ、泣きたいのはこっちだって……」
湿って重くなった袖を掴み直して、手のひらで三月の頬を覆う。鼻を赤くした三月が、むいと唇を尖らせた。顔を引く。
「それは駄目だよ」
びしょ濡れの袖で三月唇を覆った。三月がそっとその手に顔を擦り付けて、しくしくと泣く。綺麗に泣くもんだと思っていると、大和の頬につうっと一筋、涙が流れた。
(……ああ、雨漏り)
ついに、大和の天井はもたなくなったらしい。自分が泣くことに一生懸命の三月は気付いていない。
大和は、もう片方の袖を持ち上げ、それからそっと下ろした。たかが一筋、拭う必要もなかった。多分、もう乾いていると思う。残っているのは、皮膚が引き攣る感覚だけだった。
「困らせてごめん」
掠れた声でそう言った三月を自分の上から下ろし、大和は結局三月の涙でぐしょぐしょに濡れた袖を振る。重い。
「今日のことは忘れちまおう、お互いさ」
三月が、自分の唇を人差し指と中指で撫でて、もう一度尖らせた。
「ノーカンにしとけよ。ミツだって嫌がってたじゃん」
「そうだけど」
掠れて可哀想なくらいの声に、大和はきゅっと眉を寄せる。早く部屋に戻した方が良いだろう。
雨音も、随分と鳴りを潜めている。このまま上がって静かになってくれればとも思うし、気を紛らわすために、大和が眠るまで降っていて欲しいとも思った。
「じゃあ、お互いノーカンな。お開きにしてさ」
「やっぱり好きかもって」
腰を上げようとした大和が、中腰のまま固まる。「は」と声を上げた。
「わかりたくなくて、オレ……」
「なにが」
「好きかもって気付きたくなかったから、大和さんとは絶対にしちゃダメだって思っててさ、オレ……」
中腰になっていた腰を、改めてすとんと落ち着ける。
「……今更されても困るって、言われると思ってなかったんだ。バカだよな。いつまでもあんたの気が変わらないって思い込んで」
ぽろ、と、三月の目から名残が溢れた。拾わないとと思ったのに、手が間に合わなかった。
「す、好きな人って」
動揺から、口の中に溜まった唾液を飲み干す。ごくんと鳴った喉を、前のめりになりそうな体ごと押さえた。
「好きな人、いるって言ったじゃん……! お前が……!」
「今更聞かれても、困るし」
「困るかよ! バカ、お前が思わせぶりな言い方するから……!」
三月に責任転嫁する。それが卑怯だ卑屈だと思いながら、三月の次の句を待っている。心臓がばくばくと喚いてうるさい。
三月の方はといえば、少し尖らせた口を薄く開いて、ちろりと大和を上目遣いに見た。
一拍の後、言葉を漏らす。
「思わせぶりに、したんだろうがよ」
「だって、小細工するには、お前さんは正直すぎるっつーか、真っ直ぐ過ぎるっつーか……」
「好きな人がいる……まだ本当にそうかわかんないけど」
意味伝わったかなと、そう尋ねる三月に、大和はなんと返していいかわからず、口を閉じて黙っている。
その内、三月が再び口を開いた。
「何回も何回も、応えられなくてごめんな」
伝わってはいたんだと、大和は眼鏡を外して手で眉間を揉んだ。何度か瞬きをして、そうか、そうかと噛み締める内、額にぶわりと汗が滲む。
「あの、だからさ……」
おずおずと顔を寄せてきた三月が、ゆっくりと瞬きをした。泣き腫らした目の縁が赤い。
「……まだ、間に合う……?」
間に合うも何も、大和のために溢れた雨漏りなら全力で塞ぐに決まっていて、わかりたくないなら、わからせてやることだって幾らでも厭わない。
「間に合う……」
捻り出した答えに、三月が目を細めて笑った。
外壁を叩く雨音はもう聞こえない。きっと雨は上がっている。