行燈が、ゆらりゆらゆら。嗚呼、外は風があるのだろう。下のお座敷では、てんてけと鳴る唄の合間に男達が酒を食らって騒いでおられる声がする。嗚呼、彼らはきっと儲かったのだ。今日は儲かったのだろう。確かあれは、呉服屋の雇われ旦那だったかなぁ――
行燈が、ゆらりゆらゆら。壁に映る影がゆるりと起き上がった。
「今日は」
引き留めよう、そう思ったんだろう。つい声を上げていたことを、彼は少しだけ後悔する。口元を撫でた指で乱れ髪をそっと掻き上げて耳に挟んだ。べとつく湿度と汗ばんだ体の不愉快なこと。けれど、いやにすっきりとした心持ちだった。彼は、その気分の良さを少し好かない。気分が良いのに、すぐに寂しい気持ちになるからだ。
ん、と振り返った狛犬のような男を肩口に見やって、巳波はそっと微笑んだ。
「よかったですよ」
「本当かよ……お世辞じゃなくて?」
「私がお世辞を言うタイプに見えますか?」
「今日大勝ちしてた、あの……呉服屋の旦那かな。言ってただろ? 星に愛されてだのなんだのって」
ふふ、と笑う。
「やきもちですか? 自分が勝たせてもらえないからって」
「運だってば。今日はたまたま運が悪かったんだ!」
「今日も、でしょう……」
ミナのせいで俺が勝てないわけじゃないだろ。そう言って着物の襟を直す背中を見つめて、巳波は体を起こした。そうして袖を抜いている腕を伸ばして、狛犬の首をするりと撫でる。
「んなぁ……!」
「あら、私、その気になれば、狗丸さんに賽の目を恵んであげることくらい造作もないんですよ。そっちもして欲しいですか? お手伝い」
私、優秀な壺振りなので。そう言って、下帯を着けていない着物の裾をそっと合わせて隠すと、脚を揃えて座り直した。床の上でしなを作った巳波を振り返った狗丸トウマという男は、八重歯を覗かせて唖然とすると、次第に顰めっ面になってしまった。
「そういうので勝っても面白くねぇだろ! 賭場ってそういう場所じゃねぇじゃん!」
「ボロボロに負けた殿方を慰める所でもないんですけどね」
「そ、それはそうだろうけど!」
てんてけてん、お唄が終わる。そろそろ下のお座敷はお開きかもと巳波が障子を薄く開けた。その背中から、トウマがそっと自身の着流しを巳波の肩に掛ける。
「まだ夜更けは冷えるだろ。風邪引くぞ」
「ありがとうございます」
巳波は湿った髪をそっと上げて、着流しの肩に頬を寄せた。少し鉄の匂いがする。
鍛冶屋の正直過ぎる倅が、賭場であまりにも弱い。毎度大負けに負けて俯きながら出て行くのを、胴元と笑って見ていたのがつい二月ほど前。お床に上がって、「慰めついでに、手ほどきしてあげましょうか」と申し出たのが一月ほど前……最初は奥ゆかしくて生温かったトウマが、巳波の欲の壺を満足させそうなのがようやく今夜と来ている。
「な、なぁ……」
「はい?」
下の宴会の片付ける音を聞きながら、巳波はふんふんと鼻歌を歌っていた。そんな巳波の襟足を、トウマがそうっと摘まんだ。
「ミナは、他にもこういうことする相手、いんのかなって思ってさ……」
「なんです、突然」
「俺、聞いちまったんだ……ミナが胴元とデキ」
どかっと、気付けば巳波の脚がトウマを蹴り倒していた。
そうっと着物の中に脚を戻して、巳波はトウマの着流しを肩から下ろす。
「この私が、色事に慣れてらっしゃらない鍛冶屋の倅さんに恥じらいながら手ほどきして差し上げてる最中に、そんな失礼でデリカシィのないことを言いますか? しかも、誰が誰となんですって? よりにもよってですね……」
「だ、だって!」
がばりと体を起こしたトウマが、少し躊躇ってから口を開く。
「確かに、胴元とミナはよく話してるし!」
「仕事の話です。雇い主なんだから当然でしょ?」
「ミナが住んでるここだって、胴元の店だって聞いた!」
「いろんな商売に手を出してるんですよね、あの人……」
「ホラ、なんか知った顔だし!」
「だから、雇い主だからですって」
ああもうと巳波が息を吐く。ゆらりゆらゆら行燈の火が揺れて、それから、トウマの瞳もゆらゆらと揺れている。
「それに、手ほどきしてくれるくらいだから、慣れてそうだし……男も女もさ……」
「……狗丸さん。博打打つのやめた方がいいですよ。向いてないかも……」
「な、なんでそんなこと言うんだよ……もう会いに来んなってことかよ」
「……賭場でなくたって会ってあげるのに」
巳波はそうっと障子を閉める。行燈の火を受けてゆらゆら揺れるトウマの目を真っ直ぐ覗き込んで呟いた。
「だって貴方、正々堂々負けるから……」
すい、と巳波がトウマの顔を覗き込む。薄く開いた唇に吸い寄せられるように揺らいだ瞳が近付いて、行燈が映し出す影が重なった。重なった影が、ぺたんと床に這うように倒れて、そのまま。トウマの胸に耳を当てた巳波が、鳴き声のような溜息を漏らす。
「別に、負けてる人を誰彼構わず慰めてあげてるわけじゃないんですよ、私……そんなに安くないですし」
「……そ、そう」
胸の上の巳波を一瞥して、それから天井を見上げて固まっているトウマを、体を起こして見下ろしてみる。
「なぁ、機嫌直せって」
「嫌です。損ねた責任、狗丸さんが取ってください」
くしゃりと困ったように笑ったトウマが、巳波の細い首を抱き寄せた。
「悪かったって。確かにお前は安くはないわ……」
ここまでに俺がどれだけ大枚叩いて負けてるか……そんなことを呟くトウマに、巳波はついと口を尖らせた。
「だから、負けてる人を慰めてあげてるわけでは」
「ちょっとクセになるんだよな……賽の目外した時、ミナがちらって俺のこと見るじゃん。心配してんだろうなってやつ?」
――そんなことしてたかな。していたかも……無意識に?
巳波は気付いて、少し目を見開く。すぐに戻して、はたと瞬きをした。
「安くないミナに心配されてるの、クセになる……」
へらと笑ったどうしようもない貧弱博打打ちに、巳波は少しだけ、ほんの少しだけ、悔しい気持ちになる。
(……この人、本当は)
顔を上げた巳波に「ん?」と裏も表もない顔で首を傾げたトウマに、巳波は僅かに疑念が湧いた――まさか、わざと負けているなんてことはないだろうか? 巳波さえも手玉に取って?
(そんなわけない、か……)
自分に触れるためだけにわざと負けに来てるだなんて、そんな浪漫のある夢を見せてくる――まさかね、まさか。善良そうな狛犬の、あっけらかんとした表情に、巳波は自分の疑念を障子の外へと放り投げたのだった。