Nobody Knows


 触れようとして、触れて、離れる。
 離れようとすれば吸い付くような肌は、見ているだけではわからないような厚みがあって、柔肌なんてものとは程遠い。けれど、立場上気を遣っているに違いない肌が、ほんのりと湿り気を帯びている感触は、なんて離れ難いもんだろうか。
 その上、こんな湿度を自分しか知らないのだとすれば尚更だ。
「ミツ」
 呼び掛ければ、相手がうっすらと目を開けた。長い睫毛は暗がりでもよく見えたし、膜の張った眼球は程よく閃いて青かった。
 金色に見える月だって、時間によっては顔色を変えるんだから、そのくらいの色調が変わったって、ちっとも驚きやしなかった——和泉三月は、こういう顔だってできる。
 しかし、それでも青白いってのは少しばかり心配にもなるもんだ。決して他の感情なんてありはしないけど、それでも、くしゃりと三月の前髪を撫でた。
 何度か瞬いた後、青白い光を退けた三月の瞳は、影が刺して黄土に見えた。普段はもう少し鮮やかなものだが、多分疲れているんだろう。
 眉を寄せて睨まれて、大和は渋々、三月の頭を撫でる手を引き戻す。
「めちゃくちゃ寝てた……」
 その言葉の合間にくあっと欠伸を噛み殺した三月が、「今、何時?」と尋ねる。
 大和は放っていたスマートフォンを拾って、その画面を見た。眼鏡がないから、ぎゅっと目を細めてようやく見えた。
「三時前」
「やっべ……部屋戻って寝直すかぁ」
 ふあっともう一度欠伸をしながら言う三月の、湿り気を帯びた肌の感触が離れてもなお恋しい。そうやって恋しくなったものに手を伸ばして、人差し指と中指の先で首筋を撫でた。
「……なに」
「お名残惜しいわぁーって、やつ」
「名残なんて」
 体の中の熱が引かない。これが名残だとすれば、一度眠ってしまった三月には最早、その熱は残っていないのだろうか。
 大和はずっと三月のことを眺めていた。時折触れて、したたかに吸い付いてくる肌にその名残を感じていたのに。
「明日仕事だし、一織は普通に登校日だろ? 大和さんの部屋から出てったら気にするだろうし……」
「付き合ってたら、そういうこともあるってわかるだろ」
「わかりたくないこともあるだろ……特にあいつの場合は」
 自身に対する一織の幻想と期待を、苦虫を噛み潰すような顔をしながら振り返っているんだろう。三月は眉間を撫でた。
「だから、駄目なんだよ」
「……ああ、そう」
 青く光ることもあるだろう。月ってのはそういうもんで——それを、少し狡く思うし、羨ましくも思う。
(イチも、きっとこういう気持ちなんだろうな)
 時々、勝ち誇ったように大和を見る一織の表情を振り返り、やはり少し悔しくなる。可愛げがあるとも思うが、真反対の感想を抱くこともある。人間ってのは勝手だ。
「それじゃ、お兄さんはこれ以上引き止めませんよ。風邪ひかないようにしておけよ。お前さんまだ、ちょっと」
 ひたりとする。
 この湿度は自分しか知らない。
「ちょっと何……」
「ベタベタしてるから。汗拭いてから寝なさい」
 立ち上がって首の裏を掻いた。湿り気を帯びているのは三月だけじゃない。けれど、自分の肌はあんなに甘やかに吸い付きはしないだろう。
「……オレさぁ」
 そんな大和の背中に声を掛けて、三月が続きを躊躇う。振り返って何だよと問えば、彼は少しだけはにかんだ。
「……今なら、恋愛物のドラマでもこなせそう。オーディション受けてみよっかな」
「高校生の青春ドラマ?」
「ちげぇよ! 大人の恋愛系!」
 そんなもん、見果てぬ夢だねなんてことは、大和からは言えなかった。
 ニヤニヤとする三月が何を思って言っているか、誰のことを思って言っているか、痛いほどよく——そのニヤニヤとした視線が突き刺さるばかりに——わかってしまうからだ。
「俺の前で、そういうこと言う……? お前さんの……その、彼氏ですけど……」
「彼氏の前に、あんたが演技派だからこそ言ってんの」
 何も取り繕えていないだろう今の大和に向かって、とんでもない皮肉をぶつけてくれる。
 大和は思わず、三月がまだ座っているベッドに腕を突いた。身を乗り出す。
 薄く開いていた三月の口許を塞ぐ。唇に三月の呼気が当たってくすぐったい。笑いそうになるのを堪えて、そのまま三月の体を押し倒した。
 ベッドにぼすっと倒れた三月に体を押される。渋々顔を上げれば、三月の口がへの字になっていた。
 笑ってくれると思っていた。それなのに、目の前の三月は大和のことを牽制するような、叱る寸前のような顔をしているではないか。
 思わず、大和は口を開いた。
「……なんだよ」
「それはこっちのセリフだよ……部屋に戻るって言ったろ」
 また持ち込もうとしてると思われたんだろうか。
 大和は、すっと眉を寄せた。
「わかってるよ」
 そんなつもりない。大和は三月の上から退こうと、そっとベッドを押した。スプリングが軋む。
 三月から視線を逸らす。見えない場所ではーっと吐き出された溜め息の音を聞いて、大和は口を尖らせた。唇は、まだ湿っていた。
「あのさ、あんたの方こそ、高校生の青春ドラマくらい真っ直ぐなセリフ、言ってみればいいんじゃねぇの?」
「ドラマじゃないんだから、言えるわけないだろ……」
「ホントに? オレ相手でも?」
「お前相手なら尚更!」
 わっと開いた口を、咄嗟に手で塞ぐ。待っていれば、その内朝になってしまうような時間だ。
「どうして? 気軽に言えんだろ」
「だから、お前とのことはドラマじゃないから言えねぇって……」
「歯の浮くようなセリフ、聞いてみたい時だってあるぜ? 特に、好きな人の口からだったら、さっ」
 つんと背中を小突かれ、大和は思わず背筋を伸ばした。振り返れば、三月がニヤニヤと笑っている。
「さっきはむくれてたくせに……」
「あんたが急に押してくるからだろー……つーか、むくれてたのはどっちだよ? 朝までのたかが二、三時間くらい我慢しろっつーの!」
「……俺は」
 ベットの上、おもむろに置かれている三月の手の指先を摘む。きゅっとだけ握ると、鳩尾の辺りがちくと痛んだ気がした。
「俺は、ミツのこと……我慢したくねぇの」
 そんな大和の言葉に、三月も流石にきょとんと目を丸くした。
「お前さんのことだけは、嫌なんだよ。我慢……」
 三月がもごと何か言おうとした。それを遮って「けど、そんなの無理だろ。わかってるから」と小声で捲し立てる。
 そんなこと、三月や大和だけに限ったことではなく、生きている人間を相手にすれば誰しもが当然のことで——もっと言えば、誰も彼もに愛されるアイドルが相手であれば尚の事。我儘を振り翳すだけの関係なんて成立しない。そんなことはわかってる。
 だからこそ、大和は三月を引き留めないようにしたわけで……それをどうしてか、三月に笑われた。こっちは、ちゃんと考えて、そういう風に振る舞っているってのに。
「……おっさん、できんじゃん。青春ドラマ」
「……は?」
「今のは、結構ぐっときたかも」
 ぺちぺちと頭を撫でられる。叩かれているのかもしれない。
 その内、三月がぐっと大和の顔を覗き込んだ。
「前に言ったじゃん? イチみたいにって。庇って……だっけ? なんか、一織にするみたいにして〜って言ってただろ? ああいうの」
「い、言ったっけ、そんなこと……」
「言った言った! まぁ、一織と同じように扱うのは当然無理だけどさ。けど、そういうの……譲りたくないっつーの? 見せられるのは、正直嬉しい」
 上目遣いに大和を見た三月の視線に負けて、大和はぐっと目を閉じた。
 そんな恥ずかしいことを主張したつもりは……記憶の上ではなかったのに、余程動転していたんだと思う。
 そんな大和の口に、三月がちゅっと触れるだけのキスをした。
「どうしても譲れないなら、ちゃんと言えよ。本当はさ、たった二、三時間のことだっていいんだよ……ドラマ一本分の撮影だって余所見すんなって言うなら……まぁ、それは仕事なら仕方ねぇけど!」
 つーか、そういう仕事はあんたの方が多くないか? そう言ってジト目になった三月に、大和はただゆっくり瞬く事しかできなかった。
「……ミツ」
「ん?」
 誰もが知ってる三月の輝きと、大和しか知らない湿り気の、その両方を当てられた。
「一緒に、いて」
「おうよ」
 もう、三時間もないかもしれない。そんな時間でも譲らなくて良いって言ってくれるなら、もう暫く当てられていたい。
 けれど、このままかっこいいところばかり持っていかれるのは不本意だ。少し情けない気までしてくるから……だから大和は三月の腰を撫でて、引き寄せた。こういうのは得意分野。
「その間に、俺としかラブシーンできないようにしてやりたい……」
 大和のセリフを聞いた三月は、ふはっと吹き出した。
「急に笑かすなよなぁ」
 どうしてだろう、得意分野のはずなのになぁ。
 三月には敵わないと、ベッドに仰向けに倒れた。そんな大和に戸惑いがちに張り付いた三月のことは、きっと大和しか知らない。他に誰も知らないままがいい。