糸に埋もる


 良い匂いがする。好きな人からはきっと、良い匂いがする。
 だけど、その日感じた良い匂いは少し違った。
「大和さんから良い匂いがする……」
 思わずそう呟くと、ボタンを外してジャケットを脱ぎかけていた大和が、ぽかんとした。
 突然何言い出すんだ?みたいな表情を提げたその顔が、自分の袖をくんくんと嗅いだりうなじを拭ったり、そわそわとしている。
 そのあまりの動じように、ジャケットを受け取った三月の方が首を傾げた。
「香水? 新しいやつ?」
「えっ、してないけど……」
「でも、なんだろう……甘い匂い……」
 甘いけどどこかスッとして、少しイタズラっぽいそんな香り。受け取ったジャケットをハンガーに掛けて、もう一度すんと鼻を鳴らしてみる。上着から匂いがしているわけじゃなさそうだ。
 そう思って振り返ると、これからの撮影で使う衣装を掴んでいた大和が、「ああ」と呟いた。
「九条だ」
「九条……?」
「そうそう。朝、同じ現場でさ……寒がってたらマフラー巻いてくれたんだよ。あいつも世話焼きだよなぁ。俺の方が歳上だっつーのに」
「いや、オレだって……」
 ——あんたより歳下だけど。そう言いかけて、三月は口を閉じた。
「確かに良い匂いしたわ。流石、天使の天にぃ」
 陸の口癖を真似ながら、大和が眉を下げて笑った。
「で? そんな可愛い匂いがお兄さんからするわけないって話? 三月クンったら、気になっちゃった?」
 おどけて続ける大和に、三月はきゅっと唇を結んだまま、左右の口角を上げる。
「あ、あー……いや?」
「なんだよ、図星?」
「えっと、そうだ、九条のファンが聞いたら羨ましがるだろうなぁって思って、なぁ?」
 そう、九条天のファンならば、彼にマフラーを巻いてもらえばそりゃあ——泣いて喜ぶかもしれない。
 振り返れば、三月の背後にいた陸が口を尖らせて「いいないいな」と呟いていた。
「大和さん、いいなぁ……天にぃと何か話しましたか? 天にぃ、元気かなぁ」
 マフラー巻いてくれるなんて、天にぃ優しい……オレも会いたいなぁ……云々カンヌン。
 そんな陸を一織が一瞥して、溜め息を吐いている。
「ラビチャすれば良いじゃないですか……」
「そうしよう! これから来週のミューステ放送分の撮影だから見てねって言ったら、天にぃ見てくれるかなぁ〜」
 九条天が絡んだお決まりのパターンと、お決まりのジェラシーの渦に、三月は苦笑いをした。
 相手はあの九条天、しかも陸の最愛の実兄だ。なかなかに手強いよなぁとは思いつつ、三月はそっと肩を落とす。
(天使が相手じゃ、そりゃあ強敵だ)
 陸と一織のやりとりを眺めている三月がふと顔を上げれば、発端となった大和は不思議そうに三月を見ていた。三月の気持ちなど、露ほども知らなそうな表情で。
 

 糸に埋もる
 

 糸を規則的に絡ませて、絡ませて解けないように編み込んで、その合間に考え事を埋め込んでいく。例えば「外でも甘える相手がいるんだ」とか、「九条は確かに面倒見が良いし」だとか……「色白で可愛い子が好みだもんな」なんて思い始めたところで、三月は編み棒を持つ手を止める。
 思考の糸と毛糸は相性が良い。
「編み過ぎた……」
 黙々と、淡々と編むのにマフラーは都合が良過ぎる。それにしたって三月は自分の膝の上に重なっているマフラーの長さを見て、呆然とした。たくさんあった毛糸も、忽然と姿を消している。
「に、二メートルは超えたか……?」
 自分の身長に当ててみようとして、少し悔しくなってやめた。
 解くのも勿体なく、けれど失敗したからとは言え、自分で巻くには……あまりに長い。
「編みが汚いわけでもないし、いいか、これでも……」
 天が面倒見が良いからと言って、他のグループメンバーにあまり甘えても格好が付かない。人には体調気を付けなさいとかなんとか言うくせ、変なところで無頓着なリーダーに、今年はマフラー一本くらい編んでやろうかと始めたものの、思考の坩堝に嵌って編み過ぎてしまったようだ。
「オレが編んだもん、いつの間にかどっかやっちまうんだけどな……あのおっさん……」
 一応、手製だということを考えてほしい。
 大和のことを考えて、大和のためだけに作っている三月の時間と手間のことくらい、少しくらいは……そうは思うのに、今毛糸の始末を終えて手元にあるマフラーは、ちょっと訳が違うようにも思えた。
(別に、九条に嫉妬したわけじゃない……)
 あえてそういうことにしておかないと居た堪れないほどに、大和が天の香水の匂いをさせていたことが……堪えている。
「九条は何も悪くねぇんだけどなぁ……」
 むしろ、うちの大和さんがすみませんくらいの気持ちはあるが、それはそれ、これはこれだ。
 三月はこんなことで思考を巡らせてしまう自分にうんざりとして、絨毯に伏せって重い溜息を吐いた。
「はぁ……」
 九条は何も悪くない。しかし、天使のマフラーはハードルが高過ぎる。
「まぁいいや、どうせまたどっかやっちまうだろうし」
 重い頭を持ち上げて、三月は長い長いマフラーを片手に部屋を出る。
 大和の部屋のドアをノックして……それから、声が返ってきたことにほっとした。
「大和さん、今さ」
「んー」
 リクライニングチェアから半身で振り返っている大和に歩み寄る。その膝に編み上がったばかりマフラーを落として、三月はこてんと頭を傾けた。
「できたから。あげる」
「何、マフラー?」
「一応言っておくけど、なくすなよ。名前は入れてねぇけど」
 そう言えば、大和は長いマフラーの端と端を探して広げようとした。自分の左右の手を眺めて、それから三月を見やる。
「やたら長くない……?」
「考え事してて、編み過ぎた……何周も巻けよ。あったかいぜ、多分……」
 女子高生がふっくら何重にも巻いている姿のイメージが浮かぶ。マネージャーなんかが同じ巻き方をしたら、きっと可愛いことだろう。
 まぁ、でも大和さんも寒がりだし……と、なんとか合理化して、部屋を出て行こうと背を向けた三月に、大和が言った。
「ミツ」
「ん」
 なに、と振り返り掛けた時、三月の首にふわっと編み上がったばかりのマフラーが巻かれた。
「おい、これあんたのだって、ば」
 照れくさいことをさらっとするが、それにしたって——振り返った先で自分の首にもマフラーを巻いた大和が、目を細めて笑っている。
 思わず、ぎくりとした。
「あんまり長いから、こうやって使うのかと思った」
 三月の編んだばかりのマフラーを、三月と一緒に巻いている。呆然と見上げていると、大和がその毛糸の編み目の上で少し首を傾げた。
「あれ、違った? 相合マフラー、なんちゃって……」
「やっ……!」
 三月は、自分に絡まっているマフラーを慌てて引き抜いて、大和に投げ付けた。ぽふんと大和の顔に当たって落ちたマフラーの端を見届けることもなく「やめろよ、こういうの!」と怒鳴って、大和の部屋を飛び出した。
 時々、こういう脈絡のないことをする。時々、相手が誰でも、こういうことを、きっと——
 だから、九条は何も悪くない。悪くないが……大和が悪いこともあるだろう。
(耳あっつ……)
 マフラーを、高校生カップルみたいな巻き方されたくらいで、三月は頭から耳から真っ赤になってしまって、だから気が気ではない。
「オレにするくらいだから……」
 誰にだってするよ、そういうことを。
 
「あーあ、怒られた……」
 ぺろんと床まで落ちてしまったマフラーの端を優しく拾い上げて、大和は三月が出て行ったばかりのドアをぼうっと見つめた。
(なんて顔してんだか)
 本気で怒ったのか、本気で照れたのか。三月がああいう態度を出す時、それは自分の気持ちが軽んじられてると思っている時だ。
(マフラー……)
 大事にしたいな、今度こそ。そう思えば思うほど実際には使いにくくて、つい仕舞い込みがちになる。そうなりそうな未来を予想して、大和はふっと息を吐いた。
 マフラーの端に顔を埋める。
「……ミツの匂いがする」
 良い匂いがする。好きな人からは、良い匂いがする。