ペテン師とハーフムーンブルース


 瞼の裏に思い描く。戸惑って困惑して、混乱して逃げようとする体を囲って、簡単には折れないだろう手首を握ると、骨の節が浮く感触が手の平に伝わる。
 相手は怖がっていて、だけど、それよりもっと色濃いのは「なんで」という疑問の色で、普段爛々と光る瞳は、今は不安で濁っていて、俺はその様子に少しだけ胸を痛める。
 その一方で、どうしようもなく昂って、そして疼くんだ。だから、手首を離さないでいる。
 


 ペテン師とハーフムーンブルース
 


 困惑したままの表情を覆って隠すみたいに唇を合わせて、身悶える声を吸い上げて、塞いで、暴れようとする意思諸共抱き込んで、狡賢い俺は穏やかに、大丈夫だよなんて嘯くわけだ。何が大丈夫なもんか。怖がらせているに違いないのに、それでも相手は——ミツは、少しだけ笑って言った。
「オレも、ずっとあんたにこうして欲しいと思ってた……」
 夢みたいだ。
「あんただったら、いいよ」
 掴んでいた手首から力が抜けて、受け入れるように手招きをして、その内、絡み合ってる間にひとつに溶けてしまえたら……そんな夢みたいなことが起きるなら——俺は自分の手を虚しく汚していることもないだろうに。
 いつの間にか、映像も音も見ても聞いてもいなかった動画を止める。
 頭の中で思って描いてたのは、スマホの中で身悶えるお姉さんなんかじゃなくて、もっと身近で手を伸ばせば届きそうなメンバーの男のことだった。
 顔だって喘ぎの声だって、似ても似つきやしない。喘ぐ声なんて聞いたことないから、それが真実かは知らないけど、案外……案外低い声を出したりするのかも。それでも、成人の男にしたら高くて鈴みたいな声がどうやって呻いて鳴くのか、眉間の合間で考える。
 手に付いた欲の欠片をティッシュで拭って、手を洗いに部屋を出た。
 あんただったらいいよ、なんて、そんな都合の良いこと、いくらだって言われたい。
(ミツだって、俺のこと)
 好きかもしれないじゃん。
 共有スペースを横切って洗面所に行く。暗がりで手を洗いながら見た自分の表情の酷いこと。今なら、どんな殺人鬼の役だって演じてやれそうな気がした。
 それだけこの無益で虚しい妄想の自慰は俺を呆れさせてくれるし、消耗させてくれるわけだ。
 わかってるのにやめられない。別のことを考えようとしたって、最後にはミツを無茶苦茶に押さえ付けて、欲を吐き出して許してもらう。あくまで想像の中のミツに慰められて、俺はなんとか正気を保ってる。
「……正気じゃねぇだろ」
 正気じゃないな。俺はミツを好きで、こんな風に汚しているのに、ミツもまた俺を好きで、だから許してくれるだろうという幻覚を追ってる時点で、俺はなかなかに参っているらしい。
 少し湿った目尻を擦りながら部屋に戻ろうとする。その最中、上の階から物音がするのを聞いた。
 みんな寝静まった真夜中だ。ぎょっとしながらも、俺はゆっくりと足を踏み出す。
 思わず、ぐっと唾を飲み込んだ。まさか——不法侵入?
 そんな不安を抱きながらも、屋上のライトがひとつ点灯しているのを見て、安堵する。不法侵入者が明かりを点けるとは思わない。
「誰だ、こんな時間に……」
 不安と焦燥を拭うために、わざとそんな風に独り言を呟いた。それでも恐る恐る覗き込めば、屋上でぼんやりとしているミツがいた。
 下弦の月に照らされたミツが朧に見えて、僅かに妙な怖さを覚えて、気持ち早足で駆け寄る。刺激しないようにできるだけ静かに。
 こんな光景を見れば、誰だって少しくらい焦るだろう。だから俺も焦っただけだ。
 ひらりと近付いて、ミツの顔を覗き込む。ミツが俺の名前を呼び切らない内に肩を抱き寄せて、俺はようやく安堵した。
「こんな夜中に、何してんの」
「大和さん、こそ」
 ぐっと肩を引き寄せる。ミツは反発もせずに頭をそっと倒してきた。
 確か、今日は番組の打ち上げで遅くなるって言ってたはずだ。確かに今は遅い時間だ——それでも、俺が起きてるくらいだから、まだ……
「オレ、帰ってきちゃった」
「うん、おかえり」
 焦りから、言い忘れていた迎えの言葉を思い出す。伝えれば、仄かにアルコールの匂いをさせたミツが、ふっと息を吐いた。
 心の中でミツを汚した手で触れてることに一抹の嫌悪を抱きながら、それでも手を剥がさないでいると、珍しくミツの方から体を寄せてくる。
「あったけぇ」
「お前さん、いつから此処にいたの……夜はまだ冷えるだろ。中に入りなさい」
「あのさぁ」
 うん、と反射的に返事をする。
「アシスタントの子に、この後、二人きりになれる場所行きませんかって誘われて」
 そんなこと、大和さんならいくらでもあるだろうけど……とごにょごにょ言葉を濁すミツを、静かに見下ろす。
 優しくしようとする気持ちが少し、少しだけ湧く。それと同時に、触れていた手に対する嫌悪も強くなる。
「オレは、良い友達になれると思って接してたけど、って冷める気持ちがあってさ」
「……うん」
 少し酔って、ふわふわとした話し方をするミツの横顔が、その瞳が、屋上から階下を見る。
 高くて不安定な場所を苦手とするこいつが、今この場所を選んでいることを、だから不安だと思うことを、その感情を信用して、俺はミツを更に強く引き寄せる。
 ぎゅっと抱けば、ミツは僅かにくすくすと笑う。やっぱり鈴が転がるような声だと思うんだ。
「明日、高校生の子供たちの弁当作らないとだからって帰ってきちゃった」
「お前さんね……明日の弁当当番、俺じゃん……」
「ははっ……オレ、ずるい?」
「……狡くないよ、大丈夫」
 俺の腕の中からすっと抜け出して、ミツはもう大丈夫とばかりに屋上の端から離れて行く。
「切り替えができねぇよな。男女の友情って、やっぱり無いと思う?」
「さぁね。歳食うと尚更わからなくなるよな」
 歳食えば、わかるものとわからなくなるものと、両方ある。なんでもわかるようになるなんてのは幻想だった。経験値から想像力の隙間が変に逞しくなる。だからこそ、怯えて冷める部分も、ある。
「オレがいつまで経ってもガキなだけかもしれないけどさ」
 そんなことないよとそうかもなと、どちらを言おうか迷っている最中、寮の内部に戻る時、ミツはふらっと振り返った。
「大和さんは、そのままでいてよ」
 なんら他意無い言葉だと思う。
 思いたいのに、俺は自分の内側を、汚れを、全て見透かされたみたいで、思わず言葉を失った。
 振り返り際、月に照らされて半分の顔しか見えないミツが、その半分の中で笑う。
「なんてね」
 パタンと閉まった屋上の扉。俺は思わず、ずり落ちてる眼鏡を持ち上げて溜め息を吐く。そして、どうしたって妄想の中のミツを汚してしまう俺をひとつまみする。
(許してなんて、もらえるわけない)
 この感情を、抱く劣情を、現実でなんて受け入れてもらえるわけがなく、きっとあいつは俺にだって「弁当作らないとだから」と言って退けるだろう。
(俺なら特別だなんて、あるわけが)
 俺は、ひとつまみした俺自身の影を屋上の塀の下へと突き落とした。
 あいつを守れない俺なんて、俺を苦しめる俺なんて、とっとと消えてしまえばいい。