体の上をひそりと這ってゆくものがある。
ひそりひたりと鳩尾から這い上がって胸の間を通り、鎖骨を舐めて喉仏の上を伝う。顎の先まで来たかと思えば、不意にそいつは動きを止めた。トウマの値踏みでもしているのだろうかと思う。
生き物のようだと感じていたそれは、じきにじわりと形を失って、その雫が首筋を伝った。逸れた水の道筋が、頬骨の上を流れる。耳にぴたりと水音が触れた。
——そこでようやく目が覚めた。
「うわ……」
トウマの喉から、擦れた声が漏れる。発声と同時に瞼を上げれば、そこには小首を傾げた巳波の不思議そうな表情があった。
「な、何、いま……」
「氷を」
氷をね、と巳波が呟いた。トウマは体を起こして、軽く頭を振る。頭蓋の中身が揺れるような錯覚に、僅かな吐き気を覚えた。
「氷を、当てていました」
「氷……?」
「はい」
渡された氷嚢を反射的に額に当てる。体が異常な熱を発してることを思い出し、吐き気の理由に合点がいった。
ダンスの練習中に「ちょっと寝てくる」と休憩を申し出たのだった。体力には自信があるのに、だ。どうやら少し疲れているらしい。
氷嚢のひんやりとした感触に目を閉じながら、それでも先ほど受けていた——まるで生き物のような——感触とは違うことを不思議に思う。
「これ当ててたのか?」
「いいえ、氷です」
巳波の持ち上げたステンレスのコップの中身が、カランと音を立てた。中に入っているらしい氷を鳴らしながら、巳波は微笑む。
「知ってます? 昔の映画に、目隠しをしている女性の体を氷で愛撫するシーンがあるんです」
「へ、へぇ……」
「狗丸さん、体温が高いからすぐに溶けてしまいましたけどね」
あっけらかんとそんな話をする巳波をじとりと見つめ、トウマは口を尖らせた。
「それってもしかして、エロい映画……?」
「ご想像にお任せします」
「誰かと見たとか……? 彼女、とか」
「さぁ……それもご想像にお任せします」
ああ、そう……と控え目な返事をすることしかできず、トウマは再びソファの上に体を横たえた。頬に当てた氷嚢は相変わらず気持ちが良いまま、なかなか体の熱は引かない。
トウマの体の横に腰掛けていた巳波が、今度はペットボトルを持ち上げる。
「スポーツドリンク、飲みます?」
「ああ……うん」
「珍しいですね。狗丸さんがダンスの練習中に体調崩すなんて」
「そうかもな……」
最近、ノリやリアクションが良いのがウケているらしく、一人でバラエティ番組に出る機会も増えた。張り切りすぎているのかもしれない。しかし力の抜きどころもわからないまま、トウマはきゅっと眉間に皺を寄せた。
「飲むなら起きてください。それとも、飲ませて欲しいんですか?」
くるくるとペットボトルのキャップを外した巳波が、その先をトウマの口元にずいと近付ける。
「どうやって飲ませてくれんだよ」
「そうですね。このままペットボトルを逆さまにします」
「やめような……」
水ならまだしも、ほんのり甘いスポーツドリンクを顔面に食らうのはまずい。
トウマは、渋々体を起こした。先ほど横たえたばかりだったから、頭の中で、ごんと鐘の音が鳴った気がした。
トウマの手から、氷嚢が落ちる。腹の上に乗ったそれを巳波が見つめて、それからペットボトルをトウマに寄越した。
トウマが受け取ろうとするのに、巳波も手を離さないでいる。
「ミナ……?」
「隠されると、腹が立つんですよ」
「え?」
「無理して、そのせいでバテて、貴方はみっともないとでも思ってるんでしょうけど……隠して誤魔化されるのは嫌だって、そう言ってるんです」
わかりますかと呟いた巳波に、トウマは唖然として、けれど静かに頷いた。
「悪かったよ……ごめん」
巳波の手が、ペットボトルからゆっくり離れていく。トウマはその白い指先を視線で追いながら、スポーツドリンクに口を付けた。
「そろそろ亥清さんが様子を見に来る番かもしれませんね」
「なんで一人ずつなんだよ……三人で来ればいいのに」
「心配してるの、見られたくないじゃないですか」
ああ、と巳波が口に手を当てた。
「言っちゃったな……まぁ、いいか。聞こえましたか? 心配してたんですからね、私」
本当にうっかり溢してしまったんだろう素直な言葉に、トウマは妙な緊張感のことを忘れて、ふはっと笑ってしまった。巳波の表情に少しだけ朱が差した。
「心配してくれてありがとうな、ミナ」
「どういたしまして。狗丸さんがお休みの間に悪戯もできましたしね」
「あー……」
「ちなみに、映画は一人で見ましたので安心してください。女性と見るには、少し刺激的な内容でしたし」
「だから彼女とかと見るんじゃねぇの……?」
「狗丸さんはそういうタイプですか? それなら、今度一緒に見ましょうね。反応楽しみにしてます」
「あ、いや……それはちょっと、ハズい……」
ハズいけど、と額を押さえながら、ステンレスのコップを手に取る。中に入っていた氷をひとつ齧って、口に含んでそのまま。じりじりと口の中に伝わる冷たさを十分に感じた後、コップをテーブルに戻して、代わりに巳波の腕を引いた。
不思議そうな顔をしている巳波の口に自分の口を当てて、無理矢理開かせた。溶けかけている氷をそっと舌先で押して渡す。当然口移しになったそれを、巳波がぼうっと銜えていた。
溶けてしまった氷は水となって、巳波の唇から顎を伝う。巳波の細い指先がそれを拭った。
そうして、少しだけ不服そうに、トウマから視線を逸らす。
「よっぽど恥ずかしくありません……?」
「そうだな……」
巳波の大人な悪戯に仕返ししてやりたくて思いついた戯れは、官能的な映画を見るより余程恥ずかしかったかもしれない。
トウマは落ちていた氷嚢で顔を覆って隠してみたが、更に熱は引かなくなってしまった。思いつきでこんなことするもんじゃない。
「唇、いつもより熱いですから、もう少し休んでください。わかりましたね」
「わ、わかりました……」
そう言ってソファに項垂れるトウマの襟足をちょいと指先で遊び、巳波が立ち上がる。
静かに離れていく足音の方へと視線をやれば、ドアの前で振り返った巳波が溜息混じりに笑っていた。
「本当に、仕方のない人」
お前もなと言ってやりたくなったが、トウマは口を氷嚢で覆ったまま巳波を見送った。巳波が、安心したように笑っていたせいだ。
目は口ほどに物を言うとは正にこのこと。このままでは、どんな氷をもってしても籠った熱が冷めそうにない。