月守 -つきのもり-
嫉妬は人を鬼に変える。復讐心もまた然り。
「復讐なんて口にした時から、俺は戻れないのかもな」
そんな言葉を口にした大和を、三月が見上げた。瞳に宿った常磐色の灯がぐつりと揺れた。
そんなに綺麗な灯を宿して、よりによってなんて悲しいことを言うんだろうと、そう思った。
「何これ、ちょーこえー……」
コンサートホールの近くにある美術館の掲示ポスターを見て、環が鈍い声を上げる。ポスターに写っていたのは、鬼のような形相の女と刀を携えた武人の姿だった。
ふるりと体を震わせた環の背中をそっと撫でて、壮五もそのポスターを見上げる。
「これは……平家物語かな。鬼と戦う一場面だと思う」
「へいけ、物語……? なんか、どっかで聞いたかも。授業?」
「うん、授業で出てくるかもしれないね」
ふーん……と視線の色を変えて再びポスターを眺める環の横に、大和が音も無く、すーっと近付いた。
「嫉妬に狂った女が本物の鬼になっちまうっていう、おっかなーい話だよ」
「や、やっぱこえー話なんじゃん!」
「環くん、大丈夫だよ。この人が戦ってくれるから……」
それでもこえー話じゃん! と喚きながら離れていく環に代わって、ナギと三月が大和の横からずずいと顔を覗かせた。
「ヘイケ・モノガタリ、ですか?」
「祇園精舎の鐘の声~ってやつか」
「そう、その一編。嫉妬に駆られたお姫さんが本当の鬼になって、妬んだ相手は勿論、無関係な男も女も、なんでもかんでも襲うようになっちまうところを」
相対する武人、藤原綱を指さし、大和が続ける。
「こいつが刀で鬼の腕をすぱーっとやっちまうって話。それで、刀についた名前は鬼切丸ってな」
ふんふんと頷いていたナギが、目を瞬かせる。
「素晴らしい武勇伝ですね。このイラストも、大変迫力があります」
「確か、ちょっと油断して腕は取り戻されちまうはずだけど」
陸を抱えて遠くから様子を窺っている環を見やって、大和は笑い声を上げる。
「タマ、戻って来いよ。絵から鬼は出て来ねぇからさ」
「うっせー! 怖い話するヤマさんヤダ!」
抱えられている陸までケラケラと笑っている始末である。一織がスマホ片手にそんな二人を撮りたそうにしているが、そこは見て見ぬふりをしてやった。
その合間に、壮五が大和の顔を覗き込む。
「大和さん、詳しいんですね」
「ああ、うち、そんな本ばっかりだったんだよ。古典とか、御伽噺っつーの? テレビもないし、暇潰しに読み漁ってただけ」
「ふーん……」
二階堂家にテレビが無い話に、三月がほんの一瞬、神妙な顔をした。いつまでも気にするもんだと思いながら、大和はそっと三月の頬を摘まむ。
「いて」
「まぁ、昔から、女の嫉妬は鬼ほど怖いって話な」
摘まんできた大和の手を叩き落とし、三月がムッとぶすくれた。ナギはと言えば、そそくさと三月に駆け寄って、僅かに怒っている三月の肩を撫でる。
「女性に限らずではありませんか?」
大和を見てにこっと笑うナギに向かって、大和ははたと瞬きをして「そうかもな」と呟いた。
平家物語・剣巻に登場するこの鬼女めは、相手が男であれば女に、女が相手であれば男にと姿を変えたそうだから、結局のところは男の嫉妬も女の嫉妬も大概なものである。
嫉妬は人を鬼に変える――特に、芸能業界では、然程珍しくもないことだろう。
「皆さん、ここにいらしたんですね!」
声がする方を見れば、IDOLiSH7のマネージャーである小鳥遊紡がスタッフTシャツ姿で手を振っていた。環は、まだ陸を抱き締めて唸っている。
「今は入場規制を掛けていますが、そろそろお客様がいらっしゃいます。ホールの控え室に戻りましょう」
それを聞いて、一織がふらりとメンバー全員に視線を向ける。「行きますよ」と言いたげな仕草に、全員が足を踏み出した。
「なぁ、ヤマさん」
その中で、ようやく陸から手を離した環が、大和に囁いた。
「さっきのやつ、鬼になっちゃったらさ、好きだった人に会うのも難しくね? いいんかな、それで。それで、なんつーか、満足できんのかな?」
環がふらりと振り返る。環の疑問を聞いていたのかいないのか、壮五がきょとんと首を傾げたのを見て、大和は肩を竦めて笑った。
「さぁな」
うーん? と声を上げる環に続ける。
「……恨んでる最中はさ、そんなことも気に留まらなかったのかもな」
そう言えば、環がはっと息を飲んで、小さく「そうかも」とだけ呟いた。
入場規制の掛かっている広場を離れ、コンサートホールまで戻る。控え室に向かう途中、三月がスマートフォンを操作しているのが見えて、大和はそっと三月に顔を寄せた。
「お、おっさん、何?」
「ミツこそ」
大和がついとスマホの画面を見れば、そこには、昼のワイドショーで三月と共に出演している女性アイドルからのメッセージが映っていた。
「ふーん」
大和は三月のスマホをひょいと引っ張り上げ、そのまま高い位置に持ち上げる。見上げるような形になりながら文面を拝読する。
「えーっと……今日楽しみにしてます、にっこりマーク」
「お、おい、読むなよ!」
そんな大和の袖を引っ張り、なんとかスマホを取り戻そうとする三月をいなしながら、大和は持ち上げたままのスマホをひょひょいのひょいと操作する。
「来てくれてありがと! 次の撮影もよろしくな! ……ってミツっぽいでしょ? メンバーのお兄さんより。はい、送信」
「あー!」
たしっと送信ボタンを押した大和の鎖骨が、Tシャツの襟刳りからずるりと露わになる。
「だぁ! おい、引っ張り過ぎ! 破れるだろ!」
「あ、あんた、なんてことしてんだよ! 勝手に返事すんな!」
「いいじゃん、当たり障りない内容にしただろ? ほら、これミツっぽくない?」
大和がへらりと笑って画面を指さす。すると、三月は大和を怒鳴りつけるために、すーっと息を吸った。
「そういう問題じゃねぇよ!」
その勢いのまま、三月はようやく大和の手からスマホを取り返した。
一方、大和はと言えば、三月に引っ張られて伸びてしまったシャツの襟を直しつつ、むーっと口を尖らせる。
「……なんだよ。もしかして、気になってる子だった? そいつは邪魔したな」
「そ、そんなんじゃねぇって! 勝手に人のスマホいじんなって言ってんだよ!」
「ミツ、女の子は可愛い系が好みだもんなー」
「っるせぇ! そういうのじゃないって言ってんだろ!」
通路でぎゃいのぎゃいのと言い合いを始めた大和と三月の間に、無表情の一織が割って入る。パンパンと手を叩かれ、二人は渋々と一織の方を向いた。
「今日の宿ですが、兄さんと二階堂さんは同じ部屋に決まりました」
「は?」
――今、言い合いしてる真っ最中なのに? そんな二人の唖然とした表情に向かって、一織の肩の上から顔を出した環が「じごーじとくだよ」と言う。
「二人が騒いでいる間に、今夜の部屋割りの相談が終了しましたので。兄さんと二階堂さんが二人になるのは、私としては非常に不本意ではありますが、大人は大人同士仲良く、そして品行方正に過ごしてください」
それだけ言うと、控え室の方へと入っていく高校生二人組。
「仲良く」
「品行方正に……」
高校生組だけでなく、メンバーに置いていかれた大和と三月は、その場でかっくりと肩を落としたのだった。
ライブは大いに盛り上がり、先程三月に連絡をしてきていた例の女の子も控え室を訪れ、挨拶をして行ってくれている。
三月と紡が応じているのを見つめながら、大和は「ふーん」と声を上げた。
「キュートガールですね」
「女性アイドルグループの新星なんて呼ばれるだけのことはあるよな。他のメンバーも結構可愛いし」
こっそり話し掛けてくるナギに返事をしながら、大和は届いている祝花の並びに目をやる。陸がTRIGGERからの花を写真に収めているのが可愛らしくて、つい表情が綻んだ。
「あの子のグループの事務所からも、花来てるみたいだな」
「大和の父君からも、立派なお花が届いていますよ」
「本当、ご苦労なことだよ……」
他を圧倒するような立派な胡蝶蘭に、ナギと大和が笑い合う。
そうして、例のアイドルの事務所から贈られた花を、上から下まで眺めた。
「随分とミツに好意的なんだな」
「ミツキに、ですか?」
再び、視線を三月の方へ戻す。お互いマネージャーと共にいるが、それにしても女性アイドルの子からは三月に対する「一生懸命」が溢れ出していた――だろうね、うちで一番の男前だから。
そんなことを考えていると、ナギが、ぽんと大和の肩を叩いた。
「な、なんだよ」
大和が咄嗟にナギの方を見れば、ナギはぱちんとウインクをひとつ。
「……ハーイ、ガール! 今日は楽しんで頂けましたか?」
そのまま溌剌とした声を上げるナギに、呼ばれた女性ははっとナギの方を見上げた。大和とも視線が合う。
大和はといえば、ひらりと手を上げて、持ち前の柔軟さを披露する気分を作る。
「今日はありがとう。さっきのお兄さんのラビチャ、読んでくれた?」
そう言えば、彼女はほんのりと顔を赤くして、「はい! ありがとうございました!」と声を張って返事をした。あらら、初心……なんて思いながら、ついにやりと笑う。
さて、割り込まれた三月の方はと言えば、大和を振り返って睨んでいた。睨まれたって怖くはない。何せ顔が可愛いから。
「今度は、お兄さんにも挨拶ちょうだい」
「ワタシにもお願いします」
すっとスマホを出す二人に向かって、女性は困ったように肩を縮こまらせた。
見かねた三月が、すぐに助け船を出す。
「あーあ、こいつらに目ぇ付けられると厄介だからさ。また会った時に感想聞かせてくれよ。撮影の時にでもさ」
「は、はい……!」
自身のマネージャーと共に控え室を出て行く彼女を、三月と紡は一緒に見送る。紡が複雑そうな表情で笑った。
「三月さんと、もう少しお話ししたかったのかもしれませんね」
「そいつは邪魔したな。なぁ、ナギ」
「ワタシとも連絡先を交換して頂ければ、楽しい時間を提供できましたのに……」
白々しい態度の大和とナギを見上げ、三月が顔を顰めて呟いた。
「お前らなぁ……あと、大和さんはいい加減しつこい」
「えー、お兄さん、馬に蹴られちゃう?」
「だから、そういうわけじゃないって!」
もー! と怒る三月の隣で、ナギがぐるりと首を傾げた。
「ウマ? 蹴られる……? ヤマトがですか?」
三月は大和に対する怒りを右ストレートに込めてぶつけることを諦め、ナギの方へと向き直る。
「昔から、人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえって言葉があるんだよ」
「都々逸だな。犬に食われて死ぬ場合もあるらしいぜ」
大和の茶化すような補足に、ナギは大層神妙な顔をして、「それは、大変にバイオレンスですね……」と呟いた。あまりに深刻な表情をするものだから、三月と大和はぷっと吹き出してしまった。
ともかく、どうやら大和は馬に蹴られなくて済むらしい。犬に食われることもないだろう。
(さて、どうだろうな?)
けれど、当の大和は心の中でそんな風に呟いて、冷めた表情で控え室の扉を見つめていたのだった。
● ○ ●
やけに大和が絡んでくる。しかも、このタイミングで部屋割りが同じと来た。
「兄さん、大丈夫ですか? もし本当に気まずいようであれば、私が代わりますが……」
そう言う一織は、今日はナギと環と同じ部屋だそうだ。何故そんなことになったのかと言えば……高校生組は、来週英語の実力テストがあるらしい。
「兄さんが見ていてくだされば、四葉さんも勉強をサボるということはないと思いますし……」
恐らく……と表情を曇らせる一織に、三月は笑い声を上げた。
「大丈夫だよ。今日、やけにおっさんがしつこいから、それが引っ掛かるだけ。あとはいつも通りだからさ。それより、ナギにちゃんと見てもらえよ? オレからも頼んどくから」
「ありがとうございます」
それでも不安そうな一織に、つい三月は苦笑する。
ほら、大和が変な絡み方をすると、子供達の方が気を遣うではないか。
(にしても、何、そんなにその気があるように見えんの……?)
確かに、今日来てくれた彼女、『ラビュリミのれいなちゃん』は可愛いとは思う。一生懸命だし、何かと三月にアドバイスを求めてくる姿を気に掛けていないとは言わないが、それでもだ。別に付き合いたいだとか、特別な関係になりたいわけではない。
(大体、特別な関係匂わせてくるの、自分の方のクセして)
大和だって、共演者との噂はちらほらあるし、何故か三月に対してほのめかして見せることまである。
(オレが、うまくかわせてないだけかもしれないけど……自分は本当のところどうなのか、いつも教えてくれないじゃん……)
結局、のらりくらりとかわされてしまうので、大和の口からは噂される相手への本音は聞けないのだが……。
「あーもう、やめだやめ……モヤモヤするし……」
なんとなくの気怠さを感じて、三月は部屋のベッドに倒れ込んだ。
そのまま幾らか時間が経った後、ふと顔を上げると、まだ日の光が入って明るかったはずの部屋が濃紺に染まっていた。
「……あれ?」
目を擦りながら顔を上げる。
「オレ、寝てた……?」
衣装から着替える時にシャワーを浴びたが、今は僅かに寝汗の匂いがする。三月はすんと鼻を鳴らして、自分のTシャツの匂いを嗅いだ。
「……うー……シャワーも飯もどうしよ……」
スマホを手繰り寄せると、大和から何度か着信があったようだ。通知が残っている。どうやら、気付かないまますっかりと眠りこけていたらしい。
「ご、め、ん……っと」
遅くなってしまったが、一応返事を返そうとする。けれど、電波状況のせいか、送信が中断されてしまった。
「あれ……?」
おかしいなと思いながら、三月は部屋の中にある簡易冷蔵庫を開き、中からミネラルウォーターのペットボトルを出した。きゅっとキャップを開けて、一口飲む。ぱさぱさに渇いていた口内に、水気がさっと染み込んだ。
電気を点けようと、部屋の入り口のパネルを押す。けれど、反応はない。幾度かパチパチと鳴らしたが、反応は無かった。
「そうだ、カードキー必要か? 大和さんが持って出てるのかな……」
部屋のカードキーの差し込み口には、何も入っていない。部屋に入る時にも必要になるから、大和が持って出てるのかもしれなかった。
「なんだよ、出掛けるなら起こしてくれれば良かったのに」
どこにいるのか尋ねようとしても、やはり電波状況が悪いのか、送信できないでいる。
「あれ……電波、入ってない?」
終いには、表示が圏外に変わってしまった。部屋が暗いままでは、無線通信サービスの案内も見えない。
三月は首を傾げながら、せめて顔を洗おうと浴室のドアを開ける。仕方ないので、暗がりの中でぼんやり浮かぶ蛇口のコックを捻った。流れ出てくる水を手に掬った時、三月は、なんとなくの違和感を感じた。
――なんか、黒くないか、水……?
結局、その水で顔は洗わないまま、指を開いて水を流した。コックを締める。
部屋に戻ると、濃紺よりも更に暗くなった視界の中で、ドアの方から、ゴトン、と音が鳴った。
三月は思わず身を竦め、さっとドアの方を見る。がちゃん、キィ、と音がして――現れたのは大和だった。
「お、ミツ、起きてる?」
通路の明かりで逆行になっている大和を見て、三月はほっと息を吐く。
「……び、びっくりした」
大和がカードキーを指定位置に差し込むと、たちまち部屋の電気が点いた。三月は、そこでようやく胸を撫で下ろす。
「大和さん、ごめん。なんか電波悪くてさ、返事送れなくて……」
「俺の方もごめんな。ミツ、爆睡してたからさ、起こすの悪いかなと思って……ほら、飯買ってきたぞ。食う?」
「おう、食う食う! ありがと!」
三月は大和からビニール袋を受け取ると、もう片方の手で改めてスマホを見た。そこには送信不可のエラーと圏外のマークが、あるはずだった――が。
「あれ……? 圏外じゃない……」
「ん? ああ、本当だ」
大和も自分のスマホを取り出し、頷く。どうやら電波は良好のようだ。
さっき、なんで送れなかったんだろう? 三月が首を傾げていると、荷物を降ろした大和が「場所によっては、そういうこともあるよな」と呟いた。
「なんか、ごめんな……」
「いいっていいって。それより、お前さん、飯食っちまえよ。俺、その間にシャワー浴びてくるわ」
「うん」
服を脱ぎながら浴室に向かう大和に、三月は先程見た黒い水のことを思い出し、弁当を頬張りながら言った。
「あ、大和さん、水道、なんか詰まってたみたいだから、暫く流してからの方がいいかも……! さっき変な水出てて」
「えー?」
さぁさぁと鳴るシャワーの音の合間に、大和が顔を出す。
「何?」
「あ、いや、変なとこが無ければいいんだけど……」
「変なとこ? 何? お兄さん、なんか変な所ある?」
うっすら濡れたまま、浴室から全裸で出てこようとする大和を、三月はしっしと払う。
首を傾げながら戻っていく大和に、三月は先程自分が見たものが幻だったのだろうかと思い始めた。
――いや、暗がりの中でもわかるほどに淀んだ水が出ていたと思うが……しかし、大和にそれを見たような気配はない。
(オレの見間違いだったのかな……)
弁当の中身は牛すき丼。それを頬張る一方、片手に持ったスマホでSNSを見ている限り、今日のライブも好評だったようで良かった。三月はほっとする。
先程まで迫り上がってきていた不安は、その評価と満腹感でさっと身を潜めた。三月は平らげた弁当のゴミを袋に詰めて、ふぅと安堵の息を吐いた。
暫くして開いた浴室から、パンツ一丁に首からタオルだけをぶら下げた大和が出てくる。それを見て、三月の緊張感は更に緩んだ。この姿を一織が見ると、とても可哀想な反応をするので、やはり今日は三月がこの男と相部屋で良かったのだと思う。
「はい、ビール!」
三月の弁当を渡して、大和が冷蔵庫周りでごそごそしていた理由が判明した。駆け付け一杯、缶ビールのプルタブを開けた大和が、多めの一口を口に含むと、景気よく声を上げる。
「はーーーっ! うっめー!」
「あーあ……やっぱり、相部屋オレで良かったよ……」
未成年と同じ部屋の場合は多少遠慮するだろうが、それにしても……三月の脳裏に、眉をしかめた一織の表情が浮かんだ。
「オレもさっさとシャワー浴びてこようかな……」
黒い水のことが頭を過ぎるが、大和の時は何もなかったのだ。やはり、あれは三月の見間違いだったんだろう。
ゴミを備え付けのゴミ箱に捨てて、のそのそとバッグを開いた。入浴グッズを取り出すと、ビールの缶を片手にベッドに座っている半裸の眼鏡男を素通りして、三月は浴室のドアを開けた。
今は電気も点いている。試しに出してみた水は、無色透明である。三月は、安堵の息を溢した。
洗面台の前でシャツを脱いで下着姿になった三月が、安穏とした表情で鏡を見た、その時だった。
「え」
肩口に、黒い痣がある。
「こんな所、ぶつけたっけ……?」
鏡に近付いて、その痣を凝視した。それは、まるで、人の指の形をしていた。思わず、鏡から顔を引く。肩を抱くような手の形の痣に、三月はそっと手で触れ――痛くは、ない。内出血じゃないのか……?
「なんだこれ……」
きん、と耳鳴りがした。大和が部屋に戻ってくるまでに感じた薄ら寒い感覚が、三月の背筋を這う。何故か目を離すことが恐ろしくなって、鏡から目を逸らせなかった。
――なんだろう、これ。
――待てよ。やっぱりさ、何かあるんじゃないか……?
――だ、大丈夫、ドア挟んで向こうには大和さんが――
ブツン。
「うわ!」
突如として、浴室の電気が消えた。三月は思わず悲鳴を上げて、その場にしゃがみ込んだ。
「どうしたミツ!」
浴室のドアをがっと開けて、大和が顔を覗かせる。差し込んだ部屋の明かりに三月は顔を上げた。
「な、なんか、電気、勝手に消えて……」
大和が、浴室のスイッチをパチパチと操作した。何度か試す内、浴室の中はふらりとまた明るくなる。
「……点いたな? 接触不良かなんかか? フロントに連絡……」
「そ、そうだな……」
三月はゆっくりと立ち上がる。ああ、怖かったと小さく呟いたその声に、大和がそっと三月の顔を覗き込んだ。
「なぁ、ミツ……? その肩……」
「え、あ、ああ……これ?」
三月は先程見つけたばかりの自身の痣らしきものを思い出し、それを指さして首を傾げて見せる。
「こんなとこ、ぶつけてないのにさ。どうしよう、結構目立つよな……大丈夫かな……?」
大和が、急に神妙な顔をする。
「……いつから?」
「え、今だよ。今気付いた。だからライブ中……? でも全然心当たりなくてさ」
そう言うと、大和がおもむろにその痣の通り、三月を抱き寄せた。半裸の男同士で近寄るにはあまりに近すぎる距離感に、三月の方は、思わず体を仰け反らせる。
「ちょ、ちょ、ちょっと、大和さん!」
「……ミツ、他に変なことないか」
「変……?」
――変なこと。そう尋ねられ、言うべきか否か迷った。が、しかし、それでも三月は「水が」と呟く。
「水が……さっき、大和さんが戻って来る前、蛇口から出た水が黒かったように見えたんだ。まぁ、部屋の電気点けられなかったから、さだかじゃ無いんだけど……」
そう言えば、大和は三月の肩から手を離し、くしゃくしゃと三月の頭を撫でた。大人しく撫でられていると、大和が眼鏡のブリッジを上げてレンズ越しに三月を見つめる。
「怖かったら、一緒に浴びる? シャワー」
「えっ」
三月は思わず、ぴょんと飛び上がった。
「い、いや、いいよ! ガキじゃあるまいし!」
「えー、お兄さん、ミツとシャワー浴びてもいいけど」
「えーじゃねぇよ! いいから、大丈夫だから!」
三月は大和を浴室から追い出し、そうして無理矢理閉めたドアに背中を当てると、ふーっと長い息を吐いた。
大和なりに緊張を解してくれようとしたのだろうが、それにしても……ちらりと狭い浴室を一瞥する。
寮の広い浴室ならまだしも、こんな狭い所で、大の男が二人、シャワーを浴びるなんて。何か緊張する。
(緊張するっつーか……)
三月は自分の胸に手を当てた。……ドキドキする。
「いやいやいや、ないない! 何考えてんだオレ!」
ばばばっと自分の頭を両手で掻き混ぜる。ドキドキとそわそわの狭間で、三月はさっさとシャワーのコックを捻った。
得体の知れない現象を恐れる気持ちは、先程よりずっと薄まっていた。
「ミツ、大丈夫か」
三月がシャワーを終えて部屋に戻ると、それまで半裸だった大和が既にパジャマに着替えていた。急に肩を抱かれたことを思い出すと、服を着ていてくれた方が助かる。
三月は寝間着代わりのTシャツをひらひらとはためかせて風を送りながら、「おー」と間の抜けた調子で答えた。
ちょっと疲れていたのかもしれない。一連の違和感は、そう思って一旦忘れることにした。
大和はといえば、三月が何でもない風を装っているのを横目に、ベッドの上で何やらスマホの動画を見ているらしい。
三月は二つある内の空いているベッドに乗り上がり、膝立ちでのしのしと歩いた。適当に見定めた場所に転がる。ベッドのスプリングが、耳の下でぎしと鳴った。
「あのさ、ミツ」
「なに」
衣擦れの音がして、またもベッドが軋む。
「もう寝る?」
振り返らないままで「寝るけど」と返事した三月の背後が、突然ずしりと沈んだ。
「え」
慌てて振り返ると、そこには三月の背後、同じベッドに寝転がろうとしている大和がいた。
大和は有線のイヤホンを半分耳から抜き取りながら、スマホを持って三月を抱き込もうとしている。
「え、ちょ、いや、何?」
なに、なになに! と動揺して見せる。慌てて起き上がろうとした三月を、大和の手がぐっと押さえ付け、それから無理矢理自身の腕枕に落ち着けさせた。
「いいからいいから」
「よ、良くねぇよ!」
仰向けになると、視界の端に大和が映る。顔が近い。ちょっと、これは、だいぶ、恋人同士っぽい。そう思うと、三月の体温がぽぽぽぽと上がった。
「や、これ変だろ……っ! 何企んでんだ、おっさん!」
苦し紛れにそう呼べば、大和は三月の横に配置した自分のスマホを見るように顎でしゃくった。
「俺じゃなくて、あっち見て、あっち」
はぁ? と思って、顔を大和の腕枕の先、手の中にあるスマホの方に向ける、と……。
「ぶっ」
三月は、つい吹き出してしまった。口を手で覆う。ついでに、自分の目の前も覆う。
「あ、あのなぁ~~~!」
そこには、下着をずらされた女性の裸体が映っているではないか。所謂、アダルト向けの動画だった。
目の前を覆った三月は、その視覚情報から逃れるため、大和の方を向く。
「ほ、本当っ、何のつもりなんだよ、大和さんさぁ!」
半ば泣き出しそうな気持ちになった。三月を動揺させて楽しんでいるのかどうかは知らないが、出先でこんな物を見て、盛り上がれる心境ではない。
なのに、目の前の大和はなんでもない顔で言った。
「ほら、幽霊ってさ、エロい話すると逃げるって言うじゃん? いっそAV見てたら大丈夫なんじゃねぇかなと思ったわけですよ、お兄さんは」
だからと言って……三月は、指の隙間から大和のスマホを見る。
スマホに挿されたイヤホンの片側は大和の耳に入ったまま、もう片側は、三月の目の前に垂らされていた。
「ミツ、片方使っていいよ」
「……いや、だから……聞けよ」
「いいじゃんいいじゃん。大人しかいねぇんだし?」
な? と押し切られ、三月はすごすごとイヤホンを耳に入れた。ここまでくれば自棄もある。溜息交じりに大和の腕枕に収まった。
三月は大和に背中を向けて、そのまま抱き込まれながらAVを見る羽目になっている。片耳からは、女優の喘ぎ声が流れてきていた。
(この人、よく喘ぎ声聞きながら平然としてられるよな……)
余裕綽々って感じ……そんなことを思いながら、目の前にある大和のスマホをちろりと見た。
(こういうの、好みなのかな……)
長い黒髪を揺らす清楚系の女優が、よく見る男優と絡んでいる。ずらされていた下着は、いつの間にか完全に剥ぎ取られていた。
外から見たら友達同士、あるいは恋人同士だろう。抱えられてイヤホンを半分こずつしながら動画を見ている。でも、内容がAVなんだよなぁ……と、三月は少し残念な気持ちになった。
(……いや、残念ではねぇけど)
残念なのは、幽霊を避けるためにAV鑑賞を持ち出してきた大和だ。
三月は、耳に入ってくる喘ぎ声に気をやる。瞼は段々と落ちてきて、映像がいまいち頭に入ってこなくなったからだ。
「なぁ、これ、勃っちゃったらどうすんだよ……」
大和が、三月の背後ではははと笑った。体の振動が伝わる。
「抜いてやろっか?」
「冗談やめろよ……」
声に集中するのも、もうやめた。
背後でシーツが擦れる音がする。ぴたりとくっついた大和の胸板を背中で感じて、三月は思わず息を飲んだ。
(……つーか、もう頭に入ってこねぇしさ)
大和に腕枕されて、背中から抱き込まれて、どうでも良い喘ぎ声で耳が塞がっているから、尚更に浮遊感がある。
(あったかい……気持ち良い……)
大和の匂いがする。いつからこんなに他人の匂いが心地よく感じるようになったんだろう。そう思って鼻を鳴らすと、大和からは少しだけアルコールの匂いがした。
三月が騒いだから、缶ビール一本で止めてくれたんだろうと思う。くすぐったくて少し笑える。
「……どうした?」
「んー? オレが騒いだから、大和さん、一本しか飲めてねぇなと思ってさ」
「帰ったらお返ししてよ。つまみ二品で」
「いいよー。ったく、こういう時だけ安上がりなんだから」
「……安上がりに感じるの、ミツだけだと思うけど」
「そうかな?」
曖昧に返事をすると、大和がふわりと三月の髪に鼻を差し入れた。
「そうそう」
くすぐってぇなと思いながら、振り返る気にも抵抗する気にもならず、今はもう流れてるだけのAVにも目を閉じる。流れてきていた喘ぎ声も、大和の心音を聞いていたらどうにも遠く離れていってしまった。
先程、妙な現象に巻き込まれたこと、そして肩口の痣のことも、全て一度ベッドの下に放り投げた。
翌朝、帰りのバスの中で、大和は台本を片手に舟を漕いでいた。後ろの方では、環とナギと陸がお菓子を交換しているし、一織はそこに巻き込まれている。壮五は耳にイヤホンをして音楽を聞いていた。三月の他には、誰も気付いていない。
結局、大和は朝まで三月を抱えたままだった。
三月が目を覚ますと、AVはとっくに再生終了していた。大和の腕の中でぐるぐる動いた三月にイヤホンを引っこ抜かれ、何とも渋い顔をしたまま眠っている大和の顔に驚いた。有り余る三月の寝相を、なんとか丸め込みながら抱き締めて眠ってくれたのだろう。
三月は「ありがとうな、ごめんな……」と思いながら、いや、おかしくねぇか? とも思ってしまう。いや、おかしいだろ?
何事も無かったかのようにお互い顔を洗って、そうして帰りの車に乗り込んでいる。おかしい。
けれど、大和がドラマの台本に目を通しながら眠っているところを見ると、やはり少しくらいは申し訳ない気持ちにもなった。
大和の手から、台本が落ちる。三月は座席の後ろから、とんとんと大和の肩を叩く。
「おっさん、落ちた。本」
「んー……ああ」
眠そうに眼鏡の下の目を擦る大和が、前屈して台本を拾う。がたんとバスが揺れる。
流石に、朝になってからは昨晩の珍妙な現象は鳴りをひそめている。三月はそれに安心しつつ、それでもやはり背筋がざわつくのを気にせずにはいられなかった。
「そういえばさ」
三月は、何の気なしに陸の方を振り返る。怖い話が苦手な環がいるので、怯えさせたら悪いとは思いつつも続ける。
「陸、昨日オレらの部屋で変なことばっかりあったんだけど、なんつーか……変なのついて来てたりしねぇよな? 大丈夫……?」
そんな三月の声に、陸がきょとんと顔を上げた。
「変なことって?」
「急にスマホの電波が切れたり、電気が消えたりさ……」
おばけ……? と体を竦める環を振り返って、一織がそっと顎に手を当てた。
「故障でしょうか……ホテルのフロントには連絡しましたか?」
「すぐに戻ったからしてないよ」
ふああと欠伸をした大和が、台本に付いた埃を払いながら三月の代わりに返事した。
「そうそう、だから、オレか大和さんが変なもん連れてねぇかなって」
「変なもん……?」
眉を寄せて首を傾げた陸が、ぐるりと首を巡らせ、暫く唸っていた。けれど、ううんと首を横に振る。
「特に誰かはいないけど」
陸がそう返事すると、バスのシートに張り付いて縮こまっていた環が、「良かったぁ」と、泣き声にも似た声を捻り出した。
陸の言葉を聞いて、三月もまたそっと胸を撫で下ろす。
「やっぱり、ホテルの不具合だったのかな?」
「そうかもな。もしくは」
にやりと笑った大和が、三月をちらりと振り返る。
「エッチな動画見てたから、逃げちゃったのかも」
車内に「うーわ……」という呆れ果てた空気が流れた。
「なっ……二階堂さん、兄さんと同じ部屋でなんてものを……!」
「ミツも一緒に見たもん。なー?」
「はぁ、まぁ、そうな……」
今更否定するのもなと思い、額を押さえながら言う。余計なことを言ったもんだと思いつつも、それ以上に余計なことがあるので言及は避けたい。
しかし、大和の発言を受けて、一織がこの世の終わりのような顔をしていた。
「……兄さんも、見たんですか」
「う、まぁ……見せられた、って感じかな。ほら、このスケベなおっさんが、幽霊はエロに弱いとかなんとか……な?」
「そ、そうですよね! 不可抗力で見せられたんですよね!」
一織の言葉が、三月の頭にすとんすとんと突き刺さる。悲しいかな弟よ。兄ちゃんは一応男なので、アダルトビデオに大いに興味はありますし、見ています……と思いつつ、黙っていることにした。
「わー、お兄さんだけ悪者だ……」
「実際、勝手に流し始めたのあんただろ……」
「それはそうだけどさぁ……」
落ち着いて寝付けたんだから、良かったじゃん? そう言って、大和が目を細めた。しっかりと三月に向いている視線に、三月は急にドギマギする。
あれは、アダルトビデオのおかげではなく、大和が三月を抱えて眠ってくれたからで……と思い当たり、つい居た堪れなくて前髪を引っ張った。
(いや、余計悪いわ……)
誰もいないよと教えてくれた陸を見れば、エッチな話題にぴしりと固まっている。
「り、陸~?」
一織の大和に対する視線が、更に鋭い物になる。恐らく、「七瀬さんになんて話を聞かせるんですか」だろう。
「あはは……悪かったって」
台本をひらひらとさせてからまた開き直した大和に、その場の空気を変えようとしたナギが尋ねた。
「……ヤマト、次のドラマの台本ですか?」
「ああ、そう。深夜枠のドラマだから……まぁ、ちょっと大人向けのやつ?」
「お、大人向けのやつぅ?」
なんだよそれ、聞いてない、と三月が声を上げると、大和はしてやったりと嫌な笑みを浮かべた。
「まぁ、ドロドロ系よ。ベッドシーンもあるようなさ」
「や、大和さん、ベッドシーンやるんですか?」
わぁっと身を乗り出した陸を見て、一織が再び大和を睨む。
三月はいよいよ、この話題で一織の心を乱すのをやめさせなければならないと拳を握った。鉄拳制裁の準備である。
いつの間にか隣合っている環と壮五は、顔を見合わせてぐんにゃりと首を傾げ合っていた。
「俺はない。けど、俺の義理の兄貴役の人と、俺の母親役の人との間である……かな?」
その内、殆ど全員が相関図を頭の中で描けず、ん?ん?ん? という顔をしている。それを振り返って、大和が笑った。
「だよな。えーと、掻い摘まんで説明するとだ。俺の役に腹違い……母親の違う義理の兄がいて、その兄貴は母親もろとも父親から捨てられちまってる。だから、俺の実の母親と、それから自分の父親を恨んでるってわけ。それで、俺の母親を寝取って家庭を崩壊させるつもり……みたいなストーリーなんだよ」
大和の話を元にようやく人物相関を落ち着けた三月と陸が、「うわぁ」という顔をした。早々に諦めた環は壮五の説明を待っていたが、壮五の方も「これは……」と神妙な顔をしている。
その中で、三月が「随分尖ってんなぁ……」と呟いた。
「それで、最終的には、俺も義理の兄貴の手に掛かるかもな、ってのがあらすじ」
車内の天井にひらりと手の平を向けた大和が、嘲るように笑った。
「大和さん、また死んじゃうかもしれない役ってことですか……」
壮五が苦笑い気味に言う。隣の環が「うわー」と唸っていた。そういえば、ついこの間の映画でも、大和の役は死んでしまった。
「ヤマさんの役、屋上から落ちてた……」
「どうだろうな? 今回のオチは俺も知らない。台本来てないしな」
一同が、ふーんと声を上げる中、紡がそっと声を掛ける。
「皆さん、あと少しで寮に着きますからね」
各々適度に返事をして、荷物の整理を始めた。台本を自分のバッグの中に片付ける大和を見ながら、三月が呟く。
「……父親と、その相手はともかくさ。子供のことまで……義理とは言え、自分の弟だぜ? そいつのことまで憎くなるもんなのかな?」
一織と視線を合わせて、なんとなく首を傾げ合う。そんな最中、大和が振り返らないままで言った。
「さぁな。俺だって向こうの……千葉の家に子供がいたら、どう思ってたかわかんねぇよ」
空気が、少しだけ硬くなった。つい全員が固唾を飲んだその気配を感じてか、大和がへらと笑って一同を振り返る。
「それより、俺らもいつかベッドシーンやんのかね? やっぱり、抱かれたい男にランクインしてるタマとかさ」
ハンドルを握っている紡が、苦笑いと共に「うーん」と声を上げた。
空気は緩んで和んだが、壮五と一織が別の意味でピリ付いた。「突然何の話をするんですか、それも環くんに……」の動揺と、「まだその手の話をしやがりますか。いい加減にしてください」という憤怒であろうか。
話題に出された環は、チョコ味のスナック菓子を咀嚼しながら「べっどしーん?」と首を傾げていただけだった。
複雑そうな一部のメンバーの気持ちを代弁し、三月は大和の頭をすぱんと引っ叩いておくことにした。
車内で急に静かになったかと思えば、シートに凭れて寝ていた。そんなナギが、一番奥の席に埋まっている。
三月はナギの肩を揺すり、起こそうとしている。が、耳栓までしているので伝わり難いらしい。ご丁寧なことだ。
「ナギー、着いたぞー……」
他のメンバーが降りてしまった中、大和だけが戻ってきて、三月と一緒にナギの顔を覗き込む。
「こんな図体のでかい子供、抱き上げて運ぶわけにもいかないしな」
「できなくはねぇけど……」
三月がそう溢すと、大和は渇いた笑いを浮かべて「お前さんはね」と頷いた。
「あ、こいつ、これ耳栓じゃなくてワイヤレスイヤホンだ」
それに気付いた三月は、ナギの耳からイヤホンを取る。それから改めてナギの肩を揺すった。三月お得意のでかい声で、思いっきりナギの名前を叫ぶ。
「ナギー! ここなちゃん始まるぞー!」
「ウワォ!」
イヤホンを取り上げられ、三月にでかい声で名前を呼ばれ、ナギがシートに肩をぶつけた。
「アウチ!」
「おーおー、悪ぃなナギ。お前がいつまでも起きないから」
「うう……痛いです……」
「ミツ、ずっと優しく起こそうとしてたんだぞ」
「ミツゥキ……」
涙目になりながら、ぶつけてしまった肩と腕を撫でるナギが、ようやく車を降りていく。
それに続こうとした三月の肩を、大和がそっと掴んだ。
「な、なんだよおっさん」
「あのさ、俺、新しいドラマ、ちょっと複雑だったじゃん」
「え? あ、うん……?」
突然の話題の再来に、三月は肩口に大和を振り返る。その最中、三月の頭の上に、ぽすんと大和が顔を乗せた。
「わっ」
「実は、ちょっと引っ張られてんだよね。兄役の方に」
勿論、支障ないくらいの、ちょっとのズレなんだけど……と頭の上で続けられる言葉に、三月は咄嗟に先程聞いたドラマの人物相関図を思い浮かべた。
「俺の中に元々あるものと真逆の物を演じるって、頭ではわかってるし……できるんだけど」
「だけど……?」
「なんつーか……良い方のお兄ちゃん、吸わせて欲しいっつーか」
言葉にして伝えることの諦め、疲弊、そういうものを大和の言葉の間の中に感じて、三月は背後から捕まったまま肩を落とした。
「……吸うだけでいいの?」
「他に何してもいいの?」
「なんか、抱き締める、とか」
相手が一織だったら、よしよし頑張ってるぞ、と撫でてやるし、抱き締めてやるところだが、今目の前にいるのは大和だ。求められれば応じるが、三月から頭を撫でてやったりはしない。精々ハグはする。
「……する」
向けていた背中を翻し、三月は軽く腕を広げた。三月の肩に、大和の頭が降ってくる。三月が大和の背中を撫でようとする前に、大和の方が先に三月をぎゅうと抱き寄せた。思わず、「うわ」と声が漏れる。
「復讐なんて口にした時から、俺は戻れないのかもな……」
肩口で呟かれた言葉に、三月はきゅっと眉を寄せた。
「何言ってんだよ」
動揺した気持ちを仕切り直して、そっと大和の背中を撫でる。
「大丈夫だよ。立ち戻ったりしねぇから……思い出して感傷に浸ることくらい誰だってあるよ。普段、そんなこと気にしなくたってさ……」
「うん……」
昨晩自分を抱えてくれていた大和が、今は自分の腕の中で小さく縮こまっている。その事実に、三月は少しだけ、ほんの少しだけ泣きたくなった。
寮に戻って遠征の片付けをして、明日からはまたそれぞれの仕事が待っている。夕食を終えて部屋で落ち着いて、昨日今日とあったことを反芻した。
(陸もああ言ってたし、今日はもう大丈夫だよな……)
あの宿泊施設からも離れているし、謎の痣も薄まっている――あれは、結局なんだったんだろう。大和も見えていたものだから、痣に関しては三月の見間違いではない。
おっかなびっくりではあるが部屋の照明を消して、自分のベッドに転がる。タオルケットを気持ち程度に掛けて……大概吹っ飛ばしてしまうものだが、三月はそっと目を閉じた。
やっぱり自分の部屋は落ち着くよな……そう思って、薄く目を開けた時だった。
ぐにゃりと視界が歪んでいる。
慌てて飛び起きると、そこは撮影スタジオだった。
「あ、れ……?」
三月は、ファーの付いた大きめのシアリングコートを身に纏っていた。三月が着ているとなんとなく可愛い印象になってしまうそのコートの袖を眺めて、つい苦笑いする。時期的に、冬物の撮影時期ではある。
いつの間にか立っていたカメラマンとメイクさんに囲まれ、三月は冬物衣料品の撮影に精を出していた。
(なんだこれ、夢?)
夢の中でも照明は熱くて、つい目を細める。眩しい。
撮影を終えた三月の元に、似たような衣装を着た女性モデルが駆け寄ってくる。
ストレートの長い黒髪が似合うスタイルの良い女性だった。年齢は、三月よりも少し年下だろうか。高校生モデルかもしれない。
「三月くん、初めまして。近付いても良い?」
「あ、どうも」
三月は彼女の物言いに僅かな疑問を覚えながら、何の気なしに「いいですよ」と返事した。
「私、三月くんのファンなの。いつも元気貰ってます」
そんな彼女は名前も名乗らず、いきなりファーの袖口から出ている三月の手を取った。
「ねぇ、三月くんは? 私のこと、知ってる?」
「あ、ごめんなさい。知らなくって……」
「そう、そうよね。だって、邪魔する人がいるもんね」
――邪魔する人……?
三月の手を握ったまま動かない彼女に、三月は僅かに眉を顰める。けれど、失礼があってはいけない。すぐに眉を下げて、笑顔を作った。
「ねぇ、三月くん、このスタジオさ、裏手にアネモネが咲いてるの」
「アネモネ?」
「ちょっと見に行かない?」
でも撮影が……とスタッフを振り返ったが、今は誰もいなかった。
三月は彼女に手を引かれるまま、人気の無いスタジオの裏に向かう。
「わぁ」
すると、彼女の言った通り、大きな花びらを持った花が一面に咲いている空間があった。
――空間? こんなスタジオ、あったっけ……――三月は、ゆっくりと足を進める。
「これがアネモネ? どうしてこんなに沢山……」
「ね、どうしてかな。なんでこんなに咲いちゃったんだろう」
色とりどりの「アネモネ」が咲いている中、くしゃりと三月が何かを踏み付けてしまった。慌てて足を上げると、そこにはオレンジ色の花弁を持ったアネモネの花が潰れていた。
「あ、やっちまった……」
「どうしたの?」
モデルの彼女はゆっくりと三月に近付いてきて、それから、足下にしゃがみ込む。
「あーあ、三月くん、潰れちゃったね」
「ああ、潰しちゃったな……」
「可哀想」
ふらりと顔を上げた彼女が、前髪の合間から三月を見上げる。
(なんだろう……この子……ちょっと)
三月が後退ろうとすると、いつの間にか、足の踏み場がないほどに花に取り囲まれていた。それまであったスタジオの景色がさっと消えて、漆黒の中に落とされた。まるで、バックスクリーンが急に降りたみたいに。
ただ、足下だけは色とりどりの「アネモネ」の花。鮮やか過ぎて浮かび上がるようなそれに、三月はぞっとした。
「な、なんだこれ……」
「三月くんは、どうして潰れないの?」
「え……?」
一面のアネモネを、踏み付けながら――そう、あえて踏み付けるようにして、彼女はヒールのあるブーツで歩み寄ってくる。
三月は思わず体を引く、けれど、少しでも下がればまた花を踏んでしまう。
「ねぇ、三月くん、どうして?」
「ちょ、っと待って、君……! その、オレ、今、少し……少しだけ怖くて」
「いいんだよ、言っても。怖いんでしょ? 怖くて邪魔なんだ。私も君のことが邪魔」
ぎょろんとした瞳が、三月を見る――オレのことが邪魔って? どういうこと? ファンだって言わなかったか……?
錯乱する思考の中、アネモネの花が三月の足下を埋めて、うずめていく。何故? どうして? そんな思考の迫り上がりと共に、彼女、得体の知れない女が歩み寄ってくる。三月の目の前で、彼女の顔がばりばりと崩れた。
――嫉妬に狂った女が、本物の鬼になっちまうっておっかなーい話……そんな大和の声が、三月の頭を過ぎる。
「鬼……?」
呟いた刹那、がくりと三月の足下が融解した。アネモネの花畑の中に女は取り残され、三月は音速の落下を感じる。
「えっ、え……、え……?」
どん、と体が弾むのを感じて、その衝撃で目を閉じた――痛い!
次に目を開けた時、すぐ目の前には、眼鏡のずれた大和の顔があった。
「ミツ」
弾む呼吸、乱れる鼓動。焦点が定まらない。気は動転して、体がぶるりと震える。ひゅっと喉が鳴った。呼吸を繰り返しているのに、頭がぼうと白く霞む――過呼吸だ。気付いた瞬間、ガツンと頭が痛んだ。
大和のすぐ後ろにいた陸が、慌てて部屋を出て行く。一方で、ナギは心配そうに三月を見ていた。
「ミツ、大丈夫か」
「三月、これ使って!」
早足で戻ってきた陸が、三月に紙袋を渡す。それで口を覆いながら、三月は深呼吸を繰り返した。
三月のベッドに膝を乗せた陸が三月の背中をさすった。口に当てた紙袋が、がさりがさりノイズ音を立てている。その音と共に、ぼやけていた思考が段々と輪郭を取り戻していった。
視線を揺らしていたナギと、ようやく目を合わせることができた。
三月は紙袋で口を押さえながら、何度か頷いて見せる。大丈夫、大丈夫だと伝われば良い。意識は完全に三月の手の内に戻っている。
それを見ていた大和が、そっと部屋の入り口を指さした。
「ナギ、白湯入れてきてくれないか。そろそろ水分取れると思う」
「……わかりました」
「三月、大丈夫? 落ち着いてきたかな……」
「……だい、じょ……」
「ミツ、まだ喋らなくていい」
三月の肩を強く握っている大和の手から力が抜けて、代わりに優しく撫で付けるように動いた。
(不安に、させたかな)
強く掴まれていた手の強さが頭を掠める。大和だって、決して冷静でいたわけじゃない。
三月は口からようやく紙袋を離して、まだ乱れている呼吸を落ち着ける。
「だい、じょうぶ……もう大丈夫……」
背中を撫でる陸の手から、そろりと力が抜けた。
三月の額は、背中は、首まで、汗でぐっしょりと濡れていた。陸は部屋の窓を開けると、スポーツタオルで三月の頬を拭ってくれた。
「落ち着いたかな……? 良かった……」
「ミツキ、お湯をお持ちしましたよ」
丁度、マグカップに白湯を入れてナギが戻ってきた。ミツキは両手でそれを受け取ると、湯気の上る水面にふっと息を吹き掛ける。
「ありがとな、ナギ」
大和が、汗で濡れている三月の髪をくしゃくしゃと掻き上げた。三月は思わず目を瞑る。
「あとは俺が見ておくから、ナギとリクは部屋戻りな。他の奴らも起きてきちまうかもしれない」
「ですが、ミツキが……」
ぼんやりと時計を見ると、時間は既に二時前を指していた。
ミツキは手に持っていたマグカップから白湯を啜り、そうしてナギに「大丈夫だよ」と笑って見せる。
「白湯、ありがとうな、ナギ」
「……気にしないでください、ミツキ。無事で良かった」
三月の部屋の両隣の二人が駆け付けていたということは……と、大和を見上げる。陸の置いていったタオルで三月の髪を拭いながら、大和は少しだけ目を細めた。
「魘されてたんだよ」
「え……?」
「まだ憑いてきてるみたいだな……」
「付いてる? 何が……?」
三月はマグカップを片手に持ち替えて、自分の腕やら背中やら、ぐるぐると視線を巡らせる。
「……何も付いてねぇけど」
そんな三月の頬を、大和がぺちぺちと叩いた。
「忘れたのか?」
首を傾げる三月に、大和が溜息を一つ。眼鏡のブリッジを上げて、それから三月の部屋の窓を閉めるために立ち上がった。
「なぁ、もう少し開けといてよ」
「いいけど、移動するぞ」
「え?」
「お兄さんの部屋。連行します」
陸のスポーツタオルを握ったまま、三月は大和に腕を引かれ、大和の部屋に連れ込まれた。
「え、な、なんで?」
「また何かあったら、リクとナギが心配するだろ?」
「それは、そうかもしれないけど」
大和は自分の部屋の窓をからりと開けると、静かに溜息を吐いた。手持ち無沙汰になった三月は、持っていたタオルで首を拭う。
「仕方ねぇ。今日もエロい何かで乗り切るか……」
「あ、憑いてるってそういうこと?」
「ミツって、変なところで鈍いよなぁ……」
ストレートにそう言われ、三月はむっと口を尖らせる。どうせ、大和のように察しは良くない。
「うるせぇな。何の話かと思うじゃん……」
――憑かれている。思い出されるのは、アネモネの花畑の中、追い掛けてきた少女だった。がらがらと崩れ落ちた彼女の顔の下、その表情が思い出せず、頭がきんと痛む。
三月がそっと額を撫でると、大和は僅かに首を傾げ、そうして静かに「ミツ?」と呟いた。
「どうした?」
「なんでもない。ちょっと怖かっただけ」
大和は自分のベッドに腰掛けると、不安そうな三月に手招きをした。素直に歩み寄れば、両の手首をぐっと掴まれた。
「どうする……?」
「今日もAV見るかって話? まぁ、確かに効き目あったみたいだけど……」
「そうじゃなくて」
え、と三月がたじろぐ。
「いつになるかわかんないベッドシーン、二人でやっとく?」
眼鏡のレンズ越しに見上げられ、三月はぱちくりと瞬きをした。その内、大和の言葉の意味がわかって、途端に胸から首までどっと汗が噴き出す。
「えっ、お、オレ……? 大和さんと……?」
「……はは、顔色ちょっと良くなった」
ふらりと揺らされた手首を見下ろす。三月は口を尖らせて、大和を少しだけ睨んだ。
「なんだよ、性質の悪い冗談やめろよ……」
「冗談じゃないけど……あれか。ミツは気になる子いるもんな? 好きな女の子の顔思い浮かべてても、お兄さんとじゃガタイが釣り合わないだろうしなぁ」
三月の手首から、大和が手を離す。
またその話かよと、三月が大和の額をぺしり叩いた。
「いてっ」
「あのなぁ、だっから、あの子は違うって……」
「付き合いたいーとか、ないの?」
「ねぇよ……」
大和のパジャマの襟を軽く掴んで揺らす。チャラけた顔をした大和が素直に揺さぶられながら、カラカラと笑った。
「なんだよー」
「大和さんが変な勘違いばっかすっから……しつこいし……!」
「だぁって、お兄さん、ミツのことが心配なんだもん」
「それだけかよ」
眉をひそめて大和を見下ろす。ベッドの上、大和の脚の間にそっと膝を突いて、三月は深呼吸した。
「それにしてはしつこ過ぎねぇ? 何? 大和さんも、あの子のこと気になってるとか?」
「……違うよ」
三月は大和の襟刳りを掴んだままだった手を解く。皺になってしまったパジャマの襟を指で撫でて、そのまま指先に触れた大和の髪を摘まんだ。その手に、大和が頬を擦り寄せてくる。まるで動物みたいな仕草に、三月はきょとんと首を傾げた。
「言ったじゃん。ベッドシーンやっとくか? ってさ」
「冗談……」
十分に間を置いて、三月は顔を赤くする。頬を擦り寄せられた手が急にくすぐったく感じて、大和からさっと手を離した。
「冗談、だよな?」
「ミツがいいなら、お兄さんいつだって名演してあげるけど」
「……部屋戻る」
「それはダメ。来るぞ」
踵を返したところを、大和にシャツの裾を捕まえられた。そのまま抱き込まれて、ベッドに引き摺り込まれる。
「く、来るもんよりも、今身の危険感じるんだよ!」
「バカ。流石にあんな魘され方見たら、放っておけないっつーの」
大和の腕の中でじたじたしていると、その内、三月だけがブランケットに包まれて、何も掛けていない大和がその隣に腕を突いて転がった。ブランケット巻きに調理された三月は、その布地を摘まんで溜息を吐く。
「……そんなに魘されてた?」
「酷かったよ。目、醒まさないし。ありゃあ、ナギもリクも真っ青になるわ」
大和はブランケットの隙間から三月の前髪を払って、その額を撫でる。おもむろに立ち上がって部屋の電気を消してくれた。窓も閉められる。
「大丈夫。次もし魘されても、すぐ起こしてやるから……安心して寝なさい」
宥めるような大和の口調と、ブランケットの上からとんとんと一定のリズムで叩かれるその手のぬくもりに、三月はきゅっと目を閉じる。
「大和さん、変なことしない?」
「しない。ミツが良いって言ったらするから」
「い、言わねぇよ……」
「じゃあしない……冗談はここまで」
――冗談だった。三月はほっと安堵の息を漏らす。
ブランケット巻きの三月は、その夜ようやく安穏とした睡眠に落ちることができた。闇に飲まれた自分の部屋より、ずっと落ち着いた夜、平和そのものであった。
……翌朝、大和がベッドから蹴り落とされていた事件を除いては。
ベッドから蹴り落とされていた大和は、三月が覚醒すると、寝惚けた声で呪詛を吐いていた。
その日の朝食当番は大和だったが、随分と世話になってしまった上に、ベッドから蹴り落とすという悲劇を起こしてしまったため、三月は大和に朝寝をさせてやることにした。
つまりは朝食当番を代わってやる、ということだ。それを床で寝ている大和に耳打ちすると、浮かんでいた苦悶の表情が途端ににんまりと甘い顔になる。
「やりぃ……へへっ、朝寝ゲットー……」
「今日だけ特別だからな……?」
しゃがんでいる三月の顔を見上げた大和の寝惚け眼が、とろんとまどろむ。
(うっ……かわいい……)
いつも鋭い大和の双眸が、今は蕩けた状態で三月を見ているのだから、なかなか堪らないものがある。
「ミツの特別もゲット~」
「バーカ……それは元々だよ」
へへへだの、はははだのとニヤけながら目を閉じている大和をそのままに、三月はすくりと立ち上がる。大和の部屋のドアを開けた。
「あー……ミツ」
「ん?」
ひらひらと手を振る大和を振り返り、三月は首を傾げる。
「何」
「あのさ、俺、今日遅くなるから……心配だったら、夜、ほら、俺の部屋で待ってな。魘されてたら起こしてやるよ……」
ぱちくりと瞬きをした。それって、また今日も一緒に寝ようってことだ。
(……それ、なんか)
つい想像してしまう。大和のベッドで寝ている自分の元に、遅く帰ってきた大和が「起こしちゃった?」と口の前に人差し指を立てながら囁く。そういうシチュエーション……。
(こ、これ、ファン向け企画でよくあるVTRみたいな……)
自分の顔を覆い、三月は「あっちゃー……」と心の中で呟く。
想像しただけで顔から火が出そう。そういうキザっぽいシチュエーション、おっさん似合い過ぎ……と三月は口を真一文字に結びつつ、思い出したように「おう」とだけ返事して部屋を出た。
共用スペースに降りると、程なくして陸が目覚めて降りてくる。
「あ、三月! 昨日、あの後さ、眠れた……?」
「おお、陸。ごめん……心配掛けたよな。あの後はぐっすり寝れたよ。陸とナギのお陰だ……ありがとうな」
心配そうな顔をしてた陸が僅かに表情を明るくして、それから首を横に振る。
「ううん。気にしないで! その……実はオレさ」
トントントンと階段を降りてくる次の足音を聞き付け、三月が慌ててエプロンをする。
「そうだ、おっさんにも迷惑掛けちまったからさ。今日の当番代わったんだよ! 陸も顔洗ってちょっと待っててな。飯しちまうからさ」
共用スペースに新たに入ってきたのは、壮五と、それからぼんやりと目を開けているナギだった。
「ナギ? 珍しく早いな……」
「そうなんです、ナギくんが廊下をふらふらしていて……」
ナギの背後から、壮五がそっと手を添えている。
三月の声を聞き付けるなり、ナギはふらふらと三月に近付き、そのまま大きく振り被ったハグをした。
「ミツゥキ……心配しましたよぅ……」
「ああ、悪い悪い! オレはもう大丈夫だから、ちょっとソファ行こうな! まだ寝惚けてるだろ……」
「イエース……もう少し、スヤりまぁす……」
ナギをのそのそとソファまで運ぶ三月を見つめて、壮五が陸に尋ねた。
「三月さん、体調でも悪かったの……?」
「あ、違うんです……昨日の夜、魘されてて……」
「そうだったんだ……何か心労が溜まっているのかな……」
壮五もキッチンに入ると、そこから三月に「僕も手伝います」と言っていた。返事をし逃した陸が少し俯き、けれど首を振る。
「心配し過ぎも良くないって、大和さんも言ってたもんね」
ライブ翌々日、見事にばらけている仕事内容を予定ボードで確認しながら、三月は口を尖らせていた。
今日は夕方までバラエティのロケに出ていた。あとは寮で過ごすだけ……だが、さて。
大和にああ言われたけれど、どうしたものか。
誰かと寝るのであれば、別に大和でなくても良いだろう。けれど、自分よりも年下のメンバーに迷惑を掛けるのも気が引ける。三月は寝相が悪い。その三月の寝相に、大和を数日付き合わせているのも申し訳なかった。
「……とりあえず、部屋で待たせてもらうか」
駄目なら駄目で、謝罪をして自室に戻れば良い。
三月はとりあえず枕を抱え、大和の部屋にお邪魔した。誰もいない大和の部屋は、物が少なくてやけに広く感じる。最初は絨毯の上で寝転がっていたが、少し肌寒くなって、そっとベッドに乗った。
「良いって言ってたし……」
自分の枕を敷いて、大和のベッドの隅に転がった。見上げた天井は同じ形をしてはいたものの、それでも三月が毎晩見上げているものとは別物のように感じられた。
まだ眠るつもりはなかったが、結局ここ数日うまく入眠できていない反動か、三月はうつらうつらと意識が揺らぐのを感じていた。
そうして、寮の部屋ではない、別の、もっと大きな建物にあるドア。それが閉じるような音を聞き、三月はふっと意識を手放してしまったのだった。
三月がうすらと目を開けると、そこには――またアネモネの花が広がっていた。昨晩の記憶が、咄嗟にフラッシュバックする。
三月は「ひっ」と悲鳴を上げ、起き上がった。
「三月さん、落ち着いて。その花、絵ですよ」
「……え?」
セミショートに髪を揃えた女性が、慌てる三月の顔を覗き込む。
「紅茶を淹れたので、飲んで……落ち着いてください、三月さん」
「あ、ありがとう……」
三月はのそりと床から立ち上がり、ティーセットの配置されたテーブルに着座した。周囲を見れば、どことなく厳かな屋敷にいるようだった。
(……あれ……また、夢かな)
きん、と頭の中が痛む。その痛みが、まるで「夢」のことを考えるなと言っているようだった。三月はふるりと首を横に振る。
「三月さん、落ち着かれましたか?」
フリルの施されたワンピースに身を包む目の前の彼女は、この屋敷の雰囲気とやけにマッチしていて、まるでおとぎ話のお姫様のようだった。
ティーカップを持っている自分の手を見ると、三月の袖口にも可愛らしいフリルがある。ようやく自分の姿を眺めてみれば、三月は今、タータンチェック柄の洋装をしていた。厚手の生地のアンサンブルは、自分で言うのもなんだが三月に合っている衣装だと思う。
三月は、ようやくティーカップの中身を口に含んだ。甘い香りがする。キャラメル風味の紅茶だ。少しだけはちみつが入っているような気がする。
「あ、ああ、大分落ち着いたよ」
三月は目の前の席に座る彼女にそう告げると、静かにソーサーを置いた。
「ここは……?」
「ここは」
目の前の彼女は、にっこりと甘く笑う。まるで、この紅茶から感じるキャラメルの香りのように。
「私と三月さんが暮らすお城、なんてどうでしょう?」
愛らしく笑った彼女が、冗談のように言った。それを聞いて三月は首を傾げる。
「私、三月さんに王子様になってもらいたくて……」
「王子様?」
「はい。夢見がち、でしょうか……?」
そんな風に言う彼女に、三月は笑って「そんなことないよ」と言った。
「かわいい夢じゃん。良いよ、オレ、君の王子様になってあげる」
自分にも多少はキザな……いや、夢のようなセリフが言えるだろうか? そう思って口にした言葉だった。
すると、それを聞いた目の前の彼女は、花が綻ぶように笑う。正直、とても愛らしい顔をしている。
「ありがとうございます! それじゃあ、それじゃあ……ね、三月さん」
彼女が続ける。
「アイドルを辞めてください」
額縁の中にあるアネモネの花が、すっと花びらを開かせた。見間違いかと思い、三月は目を擦る。
けれど、それは決して見間違いなどではなく、毒々しいまでに花弁が広がり、枯れていく様、それが、額縁の中に幾度となく再現される。成長しては花開き、そうしてそのまま枯れていく。一種の気色の悪さを覚えて、三月は額縁から目を逸らし、目の前の彼女に視線を戻した。
「な、何言ってんだよ。辞めるわけにはいかないよ」
「だって、私の王子様になってくれると言ったわ」
「言ったけど……それとこれとは別だろ?」
「別じゃない」
べつじゃないともう一度言った彼女が、すくりと椅子から立ち上がる。
「三月さんがアイドルのままじゃ、私の王子様になれないの」
「え……?」
どういうこと、と口を開こうとしたが、唇が震えてうまく話せない。三月は慌てて、両の手で口を覆う――紅茶に、何か入っていた……? 指先はカクカクと震えている。
「三月さんがアイドルのままじゃ、大和が」
(や、大和さん……?)
「大和が、見てくれない」
え、と思う。慌てて立ち上がろうと脚をもつれさせた三月の肩に、目の前の彼女が手を伸ばす――肩、じゃない。それは首。首に彼女の指が掛かる。
「三月がアイドルのままじゃ、大和が」
ぞろりと三月の首を撫でた彼女の手……それが、途端に遠くなった。
何者かが、三月の体を羽交い締めにして引き寄せたからだった。
(え……っ)
三月は、うまく動かない体をなんとか操り、自分の首に回された腕の先を見上げる。
そこには、犬のような顔から角を生やしたお面を付けた男の姿があった。
「だ、れ?」
二本ある男の角は、片側が折れている。彼は三月を羽交い締めにしたまま、たんたんたんと後方に下がった。お姫様のような格好をした彼女は、影に染まった脚をスカートの下から生やし、そうして、のそのそとたどたどしく歩み寄ってくる。
髪の間から覗いた彼女の形相は、いつの間にか鬼気迫るものに変わっており、三月は恐怖に固唾を飲んだ。
のろのろと追い掛けてくる彼女の影から遠く離れ、鬼のお面の男は、ようやく三月のことを地べたに降ろした。けれど、羽交い締めは外さないままだ。
「あ、ありが……と」
一応のお礼を言おうとしたその瞬間、羽交い締めにしていた腕が三月の首をきゅっと絞める。
「う……? が、は……ぁ」
緩められない、尚更増していく腕の力に、三月は呻き声を上げることしかできなかった。体格差では相手に負けているのだから、背後から首を絞められれば抵抗など虚しいものである。
「かはっ……く、そ……っ」
何者かは知れない。何者かは知れないが、三月を殺そうとしている? 先の、彼女らと同じように?
白んでいく視界の中、三月は無理矢理に男の腕を引っ掻き、そうしてなんとかその面を拝んでやろうと思った。しかし、そこで三月の意識はぷつんと切れてしまった。
――ミツ。
落ちる感覚。体の中に戻るその感覚は、「落ちる」で事足りる。三月は、どっと鳴った心臓を押さえ、自分が戻ってきたことに気付いた。
目を開ければ、そこには影になった大和の顔があった。
「ミツ、何、今返事してたの……?」
「え……?」
大和が、ベッドに仰向けになっている三月に覆い被さっている。その事実に、三月の頭が混乱を起こす。
「何に、いいよって言ったの……今」
「えっと……なんだっけ? なんか、夢の、女の子、に……?」
肯定の印、それを結んだ。
「それより、何、この体勢……」
三月がおどおどとそう尋ねると、どことなく迫力を宿したままの大和の三白眼が、すらりと形を変えた。甘やかす時みたいな、笑った猫みたいな顔だ。
「ミツが魘されて起きないから、エロいことしてみようかと思って」
「な、んで……なんであんたそんなに」
こだわるんだ。そう問えば、大和はやはり薄く笑ったまま――三月がアイドルのままじゃ、大和が見てくれない――彼女の言っていた言葉が、ふいに三月の頭を掠める。
「ミツが魘されてたら心配だし」
「そうじゃなくて……」
大和に組み敷かれながら問答していた、その時だった。
枕と一緒に持ってきたスマホに、通知があることに気付く。
三月は大和の体の下から自身の体を逃し、そうしてスマホの画面に飛び付いた。話を逸らせれば何でも良かった。
画面には、先日ライブを見に来てくれたアイドルの女性・ラビュリミのれいなから連絡があった。
明日はワイドショーの撮影、よろしくお願いしますというシンプルな挨拶に、三月は思わず目を細める。
「またあの子?」
三月を逃してぼんやりしている大和が、ベッドに突いていた手を離した。そのまま膝を折って座ると、三月の方を訝しげに見る。
「ああ、明日……ほら、現場で会うからさ」
複雑そうな顔をした大和に、三月は首を傾げた。
「おっさんも、れいなちゃんのこと可愛いって言ってたじゃん」
「それとこれとは話が別だよ」
「別って、どういうこと……?」
「嫉妬はおっかねぇって話」
またその話かよ……と思って、三月は眉を顰めた。
ベッドに座ったまま、スマホで返事を送る。するすると操作していると、背後から大和にべっとシャツを捲られた。
「んなぁっ?」
「そう言えば、あの痣消えたなぁ」
「だぁぁもう! 全てが急なんだよあんた! あれ、何、肩のやつ……?」
そういえばと思い、シャツの襟の中を覗き込む。肩を捲ってみても、確かに完全に消えていた。
大和が、爪の先で三月の素肌の肩甲骨をなぞる。
「な、なにっ!」
その感触に、三月はびくっと体を震わせた。反った背中を見て、大和が笑う。
「へへへへ」
「変な笑い方すんな!」
「感じた?」
「うるせぇ、スケベ! スケベおっさん!」
動揺した三月の程度の低い悪口に、大和は目を細めて笑う。
しかしスマホを手放さない三月を見かねて、ベッドにごろりと転がった。
「返事終わったら早く来なさい。遅いからさ」
大和が自分の腕の中をぽんぽんと叩いている。それを肩口に眺めていた三月は、なんとなく素直に応じたくなくて口を尖らせた。
「なんで抱いて寝る前提なんだよ……行かねぇよ……」
「抱き締めて寝ないと、お兄さんベッドの下で寝る羽目になるんだけど……」
「うっ、そ、それは……それは悪いと思ってるけどさ……」
思ってはいる三月だが……
(そ、そういうのって)
そういうのってさ……と、頭を過ぎる。
(そういうのって、普通、しないじゃん)
羽交い締めにされた首を撫でて、三月はそっと固唾を飲み下した。
普通しない。テンションが上がって肩を抱いたりはする。飛び付くのだって、ライブやイベントなら日常茶飯事で特別に感じたことはない。けれど、背後からでも抱き締めて眠るのは、それは特別じゃなかろうか。
(……大和さん、だよな……)
特別だから、特別な場所に残る。残っているから、理解できる。悟れる。
三月を絞め落としたのは、大和の腕だ。
アネモネの花だった。
スタジオに飾られていたアネモネの花、その色とりどりを見つけて、三月はことんと息を呑んだ。
アネモネの花。まるでここが夢の中のように感じられるが、今は現実で、週替わりメンバーの一人をしているワイドショーの撮影現場だ。
三月は、頭の中で繰り返し唱える。
「三月さん!」
例の彼女が三月の元に駆け寄ってくる。三月はアネモネの花を視界の隅に追いやって、それからふらりと手を上げた。
「おう、れいなちゃん、おはよー! この間はありがとうな」
「こちらこそ……!」
ぺこと頭を下げる彼女は、三月のことを上目遣いに見やると、スタジオの外へと続くドアの方を一瞥する。
「あの、本番前でなんですけど……ちょっとお時間もらえませんか?」
そのやけに慎ましやかな雰囲気に、三月は少しの予感を感じ、けれど断ることもできないまま「いいよ」と頷いた。
迂闊だったなぁと思う。三月は迷いに迷って、百に「今度飲みに行きませんか」とチャットを送った。
普段なら大和に聞いてもらう話だが、今回に関して言えば、大和とは些かノリが合わない。過剰に反応してくるし、どことなく不機嫌を感じる。
大和は、不機嫌な時にどうにも性質が悪い。よせばいいのに妙な形で絡んでは、勝手に傷付いたような顔をする時がある。
この話題は、確実に大和の逆鱗ないし、神経に触れる気がした。
「はぁ……」
先程、れいなから「付き合って欲しい」と告白された。向こうだってファンがいるだろうに、こちらにだってファンがいるのに、先方の事務所だって、もしかしたら恋愛禁止と掲げているかもしれないのに。
三月は即座に「ごめん」と返した。きっぱり断るにしたって――気は重くなるもんだ。だって、それなりの勇気が必要なのだから。そして、本番前に告白してきた彼女に、少し狡猾さを感じてしまった。本番前なら保留にされるかも、あるいは勢いでOKを出してしまうかも……三月でさえ思いつくことだ。それを、彼女、やってのけたのだ。
(……信じらんないって顔だったな……けどさぁ……)
アイドル新星、それも幾分か年下、そういう目では見れないし、あまりにもリスクがありすぎる。
花火みたいなものだ。遠くから見て「まぁ綺麗!」「ちょっといいかも」と言っているくらいが丁度良い。以前、百が言っていた似たような言葉に頷く。
(伝えちゃうくらい、気持ちが強かったのかもしれないけど……)
ごめんなぁと頭の中で何度か唱えていると、スマホに通知が届いた。百からの快諾を確認して、そのまま胸に抱き締めた。
「頼りになるなぁ、百さん……」
そう呟いて、リュックを持ち上げる。移動の連絡が百からの通知に重なっていたので、駐車場に向かおうとしてのことであった。
重い足を引き摺りながら局の廊下を歩き、エレベーターに乗り込んでふと顔を上げた時だった。正面の鏡、三月の背後に、鬼のお面が映っていた。
ばっと振り返ってそのお面を見上げると、エレベーターのドアがゆっくりと閉まった。
「え、おまえ……」
鬼のお面を付けた男の姿は、三月に近付くことはなく、ただ、じいと見つめてくる。お面のせいで視線の行方はわからないが、けれど、真正面にある姿はただただじいと三月を見下ろしていた。和装に草履を合わせたその姿に、三月はどっと鼓動が速まるのを感じる。
――確かに、大和さんの背格好だけど……
ここに大和がいるわけがないのだ。ドッキリにしたって、仕掛けの意図がわからない。一応キョロキョロしてみるが、エレベーターのカメラと目が合っただけだった。
駐車場に向かって降りていくエレベーター、三月はその落下に掛かる重力を感じながら、ただ鬼のお面を睨んでいる。
「……お前、なんなんだよ」
つい、首を押さえた。
「なんで急に」
何故、三月の首を絞めたのだろう。お陰で夢から覚めたとも言えたが、それでも呼吸が苦しくなった。身の危険を感じた。三月が警戒するには、十分過ぎる。
鬼のお面が、少し首を傾げる。本当に、ほんの少し。
嘲笑したのか、小さく肩を竦めた鬼に、三月は僅かにカチンとする。けれど、その後、すぐに下りた肩口を見て、なんとなく、本当になんとなくだが、「悲しそうだ」と感じた。
「……そんな態度してもダメだろ」
そう呟けば、鬼のお面は黙ったまま俯いた。
(犬みてぇ)
鬼のお面とは言ったものの、鼻先は狛犬や何かの動物的な形をしている。恐怖を感じるというよりは、日本の文化の上でよく見るコミカルさも孕んだその面は、昨晩見た通りに左の角を失っていた。
エレベーターが、静かに止まる。地下の駐車場に辿り着いたことに気付く。
ゆっくりと開いたエレベーターのドアを見つめ、三月は鬼のお面とすれ違う覚悟を決めた。さっと走り出し、それから振り返った。
「ついてくんなよ!」
だのに、のそりと振り返った鬼のお面は、ゆっくりと草履を引き摺りながら三月を追ってくる。
(おいおい……!)
嫌な恐怖は感じないが、それでもあのような容姿の存在に追われていると焦るもので……三月は事務所の車を見つけると、運転席にいた万理と視線を交わし、さっさと乗り込んだ。
「お、みっきー、おつかれ~」
「お疲れ様です!」
「環、壮五も! お疲れ!」
現場が近かったこともあり、環と壮五と一緒に送迎してもらえることになっていたのを、動転していた意識が思い出す。
「それじゃあ、車出すよ」
シートベルトを締め直した万理が、ゆっくりと車を発進させた。三月は早足になって乱れていた呼吸を整えながら、ほっと胸を押さえた。
窓の外で、呆然とこちらを見ている鬼のお面と目が合った。
「なぁ壮五」
「はい?」
誰も、気付いている様子はない。けれど、聞かずにはいられなかった。
「あそこさ……誰かいる?」
「え? いえ、特にどなたもいらっしゃらないようですが……」
戸惑いがちにふらふら視線を彷徨わせる壮五に、三月は肩を落とす。
「そう、だよなぁ」
そんな遣り取りを見ていた環がびゅんと首を回し、そうして「もしかしてまたおばけの話……?」とシートの上で縮こまった。
万理のお迎えによって振り切ったと思っていた鬼のお面は、いとも簡単に、あまりにも素直すぎる状態で三月の部屋の隅に立っていた。
「やっぱ、ドッキリじゃねぇんだ……」
ついに現実の世界でも見えるようになってしまった存在と距離を取りつつ、三月はリュックを降ろす。
百とのスケジュール合わせのラビチャを眺め、もう一つ、れいなから届いた謝罪文に目を通した。
「気にしないで……来週もよろしくな、と……」
気は重いが、簡潔に返事を済ませる。嫌でも来週確実に顔を合わせるのだから、蟠りは無い方が良い。
そんな三月を、今度は正面から鬼の面が見ていた。
「……なんだよ。断ったよ。悪いかよ」
先程後ろ姿を見た時、顔は見えずとも確信した。理由はわからないが、これは大和だ。大和の形をしている何かだ。
お面の向こうの表情も顔付きもわかりはしない。けれど、何かの圧を感じて、三月はラビチャの画面を鬼のお面に見せつける。
「ほら! だから、そんな目で見んなよ……」
ただ、じいっと見つめてくる。その姿を、僅かに忌々しく思う。
「大体、本当……その気になるとか、付き合いたいとか、なかったし……なんであんなにしつこく言ってきたんだろう、大和さん……オレ、全然だったのにさ」
そう思っていたのに、れいなの方は随分と盛り上がってしまっていたらしい。大和は察しが良いところがあるから、もしかしたら一目見た時点で気付いていたのかもしれない。
「……くそ、どうせオレは鈍感だよ……」
実際に呼び出されるまで、もしかしてなんて微塵にも思わなかった。だから、尚更ショックが大きい。良い関係に戻れれば良いが、それは告白された側の勝手な願望だ。
どうしようと頭を抱えた。けれど、目の前の鬼のお面は微動だにしないまま、本当にただ三月を見つめているだけだった。
「オレが何したって言うんだよ……」
居た堪れなくなり、じろりと鬼のお面を見上げる。
通知を知らせるバイブを感じて、三月はそっとスマホを持ち上げた。百からの返事かもしれない。
画面を見れば、それは大和からの連絡だった。
「遅くなる。今日は飲み会でーす……って」
――羨ましい!
思わず、早く百から連絡が来ないかなぁと、涙声を上げた。
鬼のお面は、部屋の隅でただ突っ立っているだけだった。
結局、百とは翌週に飲み会の約束を取り付けた。共に帰ってきたMEZZO"と、それから一織、陸……ナギだけは撮影の打ち合わせで遅くなったものの、ギリギリ食卓に間に合っている。
三月はエプロンを解きながら、大凡人数分の食事を運ぶメンバーに目配せをした。
「大和さん以外全員集合か~」
「ヤマトに写真を送りましょう」
「イエーイ!」
ハンバーグとサラダと、背景に環と一織。そんな写真をナギが撮っていた。一織も隣の環に釣られてか、ささやかにピースをしている。可愛い光景を見て、三月は「ほらほら」と声を上げた。
「冷めちまう前に食べるぞ」
「はーい!」
さっさと椅子に座り、いただきますを決めた彼らを一人一人眺めた。その一方で、玄関口にぽつんと一人立っている鬼のお面に、三月は少し口を尖らせる。
ナギから送られてきた写真に今頃悔しがっているのか、それとも肴として楽しんでいるか……そのどちらかはわからないが、「そんな寂しそうな態度してても、帰ってこない方が悪いんだからな」と鬼のお面を見た。
顔こそ見えないが、仕草で何となく感情が読める。
(感情があるのかどうか、わかんねぇけど)
そもそも、あいつなんなんだろう。三月は壮五に焼いてもらったハンバーグを口に運びながら、もごもごと口を動かす。
トマトソースをベースにして、少し辛みを加えた。壮五の口に合っていると良いが……と思って見やると、ゆるりと目を細めている壮五の表情が見えた。お気に召したようだ。よかったよかった。
賑やかだった夕食を終えて、片付けを済ませる。壮五と一織が手伝ってくれたのですぐに終わった。人数がいると、この辺りの手際が良くて助かる。
そんなことを思いながら、三月は冷蔵庫の中の缶ビールに手を伸ばした。
(大和さんも飲みに行ってるし、一本くらい……良いかな)
パタンと冷蔵庫を閉めた。
「壮五ー、お前もちょっと飲む?」
「お付き合いしたいんですが、明日のラジオで紹介する曲を環くんが気に入ってくれて……それで、他のも聞きたいって言ってくれていて、ですね……」
「そっか! じゃあ、環のこと優先してやんな」
「近い内にお相手させてください」
「おう、楽しみにしてっから」
テレビラックの中からCDを何枚か取り出した壮五が、それを持って二階に上がっていく。
暫くして風呂から飛び出してきた環が、タオルを頭に乗せたまま冷蔵庫を開けた。取り出した王様プリンを片手に、三月に「そーちゃんは?」と尋ねる。
「CD持って上に上がってったぞ」
「りょーかーい」
むぐむぐとプリンを飲み込みながら、環は頭を拭いていた。器用なことである。
後から出てきたナギが、ソファでぼんやりとテレビを見ている陸の肩を抱いた。
「リク、先程からぼんやりしていますね」
「あ、うーん……」
陸が、ちらりと三月の方を見た。それから玄関口を見つめ、口を尖らせる。
(……もしかして、見えてんのかな)
そのまま独り言のように「でもなぁ」と言った陸が、のっそり立ち上がり、そうしてナギを振り返った。
「大丈夫。ちょっと考え事してただけだよ」
「それなら良いのですが……?」
「心配掛けちゃってごめんね。でも本当、オレは大丈夫だから」
不思議そうな顔をするナギの視線を受けながら、陸がとととと三月の元に駆け寄ってきた。
「三月、何か大変なことがあったら、オレの部屋来ていいからね」
「もしかして、大和さんから何か聞いた……?」
「うーん、そうなんだけど、そうじゃないっていうか……」
あ、こりゃあ何か口止めされてるな……と、そのくらいのことは察する。けれど、陸を問い詰めたところで何も良いことはない。三月は、陸に「わかった」とだけ頷いた。
「おっさんの差し金だな……大和さんめ、問い詰めてやる」
「あー……でも大和さんも三月のことが心配っていうか、その……」
ちら、とやはり陸が玄関に視線を送ったのを見て、三月は確信した。――見えてるなぁ……。
「オレも大和さんに相談したら、ちゃんと全部話す、と思う……とにかく、怖いことがあったらオレの部屋に来てもいいからね!」
「ああ、ありがとう、陸。本っ当にどうしようもなくなったらドアノックするかも。でも、お前もちゃんと寝ろよ?」
「うん。大丈夫だよ」
にっこりと笑って頷いた陸の頭を、三月が撫でる。それを見ていたナギが、自分もそそそと寄ってきた。ナギの意図を察して、三月はナギの両側の頬をうりうりと撫でた。
「ふふふ~」
満足そうに上に上っていく二人を見送って、三月はふーっと溜息を吐いた。スマホを取り出し、大和にラビチャする。
――陸に何を口止めしてんだ。正直に話せ。
酒飲みながらでもいい。これを見て、多少青ざめればいいんだという気持ちで、少し厳しい口調のチャットを送った。
玄関口の鬼のお面は、それでもやっぱり三月を見ているだけだった。悔しくて、缶ビールを一気に半分ほど呷った。
一番最後になってしまった入浴を済ませ、三月は階段を上がる。その最中も、鬼のお面はじっと見つめているだけだった。
「なぁ、お前さ……」
スマホを見る。返事を寄越さない大和に苛立って、溜息を吐く。鬼のお面も、一向に反応を返さない。肝心な時に限ってこうだ。
「お前も、大和さんも……」
どうでもいいことには絡んできて、肝心なことは教えてくれない。所謂、大和の「そういう部分」。それが、途端に許せなくなる。僅かに酔いが回ってるせいもあるかもしれない。
「わかっただろ? あの子のことは、お前にも大和さんにも関係ないんだよ。ちょっかいばっかり出してきやがって……」
踵を返して階段を上る。その手を、ぱしりと掴まれた。
「うわっ!」
振り返れば、三月の二段下で鬼のお面が三月を見つめている。けれど、だんまりのままだ。掴まれている手首、触れている手のその冷たさに、ぞっとした。
「な、なんだよ……! ついてくんな!」
三月はその手を振り払う。また首を絞められてはかなわないと、自分の部屋に逃げ込んだ。それでも、あれが入って来られる存在であることを知りながら、ベッドに倒れる。
「……もう、なんなんだよ……」
――自分の方だって、オレの知らないところでモテてるくせに。
そんな言葉を飲み込んで、ぎゅっと目を閉じた。
ふらりふらりとコーヒーカップが回っている。また随分とメルヘンな世界だなと、三月もいよいよ自分が熟れてきていることを感じていた。
「……今度は、なんだよ」
次に現れたのは、ふわりとゆるく髪を巻いた茶髪の女性だった。
――この子は見たことあるかも。たしか、オレの女装した姿が激似なんて一時期騒がれた子だ……。
(今まで現れた子たちも、現実にいる子だったのかな……)
以前現れた彼女たちの顔を思い出そうとすると、きんと頭が痛む。金属音が鳴る。痛みに思わず頭を手で覆うと、目の前の彼女が小首を傾げた。
「和泉くん、どうしたの?」
「あ、いや……頭がさ、痛んで……」
ゆるゆると回るコーヒーカップ。遊園地の一角の穏やかなスペースを、三月はきょろきょろと見た。どうやら鬼のお面はいないらしい。
「和泉くん」
「……え? あ、うん」
三月はじいっと見つめてくる彼女に向き直り、はらはらと瞬きをした。
仕組みはわかってきている。彼女も、いつ三月の目の前で仮面が剥がれるかわかったものではない。ばらばらと散っていく女たちの仮面のその存在だけを思い出し、背筋に力が籠もった。
(なんとかしなくちゃ、自分で、何とか……)
三月は、膝の上できゅっと拳を握った。
「ねぇ、彼女、ほら、れいなっていう子」
「え……?」
彼女の口から出てきた名前に、驚く。
「和泉くんと付き合いたかったんだって。私、言ったのよね、告白してみればって」
「君が……?」
だから、あんな切羽詰まったタイミングで……三月は、すっと視線を落とす。
「で、どうするの?」
「え?」
「可愛いでしょ、あの子。結構、言うこと聞いてくれるのよね……和泉くんにとっても得だと思うけど」
「何? 話が、見えないんだけど……それにオレ、もう断ったし」
「断ったって、彼女のことフったってこと?」
コーヒーカップから彼女が立ち上がる。ぐらりと揺れたコーヒーカップに、三月は体を強張らせた。
「そ、そう、だよ。いや、だって、あの子にもオレにもファンがいるだろ? それに、特別好きってわけでもないのに、付き合えないよ」
「何言ってるの? カワイイ子じゃん。好きにしちゃえばいいじゃない」
うろ、と視線を迷わせる。
「可愛いからって、それだけじゃ付き合えねぇだろ……?」
「どうして! そうしたら、大和だって諦めるでしょ?」
――あ、まただ。また大和さんの名前を出した。
三月はゆっくりと視線を上げる。彼女はまだ人の顔をしていた。だから、できるだけ落ち着いて、ゆっくりと一語一句言葉を発する。
「相手のこともよく知らないのに、そういうのは相手にだって失礼だろ。オレは、相手が誰であってもそういうことしたくない」
きっぱりと言えば、目の前の女が目を丸くした。
「君も、君たちもさ、なんで大和さんのことでオレに食って掛かってくるんだよ。本人に言えばいいだろ……」
低い声でそう言えば、彼女はヒステリックに声を上げた。
「言ったわよ! 何度も何度もナンドも……ッ」
――あ、やばい。
流石にこの流れ、三度目ともなれば三月にも感覚がわかってくる。
三月の運動神経は伊達ではない。回転するコーヒーカップから、慌てて降りた。カップの戸をバンと閉めると、その中心にいた女の顔がばりりと剥がれた。
「うっわ、やっぱり……!」
「何度も言ったのに、だって、大和が……っ!」
逃げ出そうと足を引いた。しかし、コーヒーカップの土台がぐにゃりぐにゃりとアンバランスに動くため、足を取られて逃げ切れない。
(どうしよ……! これ、一番やばいかも!)
のろのろと近付いてくる顔の無い女が、土台の回転を物ともせず、三月に這い寄った。
結局、土台に倒れてもみくちゃにされている三月のその首に、女の手が伸びる。ぎゅっと、手に力を込められた。気道が塞がる空虚感に、三月ははっと口を開く。
「なん……っ、なんなんだよ、お前ら……! かはっ」
顎の下を指で押され、いよいよ本当に息ができなくなる。
「俺、大事な奴がいるからさ、そいつがアイドルしてる限り、誰かと付き合うとかできないんだよね」
薄ら靄掛かる視界の中、顔のない女を見上げた。
「まぁ、メンバーのことなんだけど、だって」
薄まった意識の中、その言葉だけが頭に残る。
(あんた、そんなこと、言ったの……?)
瞳が、上に上っていくそんな動作を自力では止められないまま、三月の頭がかくんと仰け反った。首が、絞まる。
――やばい、死んだ。
絶対に死んだ。苦しいままの呼吸を追い掛け、そのあまりの苦痛にぎゅうと目を閉じる。
「ん……っ、ふ、う……うぇ」
咳き込みそうになった。けれど、出口がなくて、それができない。
――出口が、ない?
なんで? と思い、うっすらと目を開けた。
「ふ、へ?」
声を上げると、切れ長の目がするりと開く。至近距離で目が合って、そのまま。堪えきれずに、三月はまたぎゅうと目を閉じた。
(な、なんで)
人相が良いとは決して言えない、そんな三白眼が三月を見下ろしていた。眼鏡の無い顔立ちはどこか鋭く尖った刃物を彷彿とさせて、それでいて、優しく笑ったりすることもあるわけで……三月は、普段本人に言ったりしないが、大和の顔は整っていると思っている。思ってはいるが、そんな顔がいきなり至近距離にあるとは思わない。急すぎる。
(なん、で、キス、してんだよ!)
唇を解放されて、三月はぷはっと息を吸う。つうと引いた唾液の糸を、三月に馬乗りになっていた大和が手の甲で拭った。
「なっ……は、なに、おい……っ!」
けほけほと噎せながらそう問えば、ばつが悪そうな顔をした大和が眼鏡を掛ける。
「ミツが起きないから……起きた?」
「お、起きたけど……っ」
「一番ヤバかったからさ。白目剥いてた」
「え、うそっ」
ばっと顔を隠す。今となっては時既に遅いのだが、そんな三月を見て、大和が口に手を当てて笑った。
「……はは、笑い事じゃないよな。ごめん」
「確かに、一番やばかったけどさ……死んだかと思った」
顔を覆った手をゆっくりと剥がし、自分の唇を撫でる。
「……いや、それとこれ関係なくねぇ?」
「気付いちゃったかぁ」
「気付いちゃうだろ、そりゃあ……」
何が「気付いちゃったかぁ」だ。三月は、どきどきと鳴る胸に手を当てる。
そんな三月を見て、大和が言った。
「なぁ、付き合うの?」
「え……?」
「付き合うの? ほら、ラビュリミのれいなちゃん? 告白されたんだろ」
大和が、ずいと三月に顔を寄せた。仄かに香るアルコールの匂いに、三月は眉を顰める。
「……誰に聞いた……?」
「知り合いの女」
「言い方……」
「この間ドラマで共演してた****って子」
きん、と頭が痛む。顔が剥がれる前に見た女の顔は確かにその名前の女そのものだった。薄れ掛けている記憶の手綱を握りながら、三月は首を振る。
これまで三月を追い掛けて来ていたのは、死んだ者の霊などではない。恐らく、実在している人間の念のようなものだ。
じゃあなんでそれが、名前を出される大和ではなく、三月の方に? そう思って、上目遣いに大和を見た。
「……付き合わないよ。その場で断った」
「そっか」
大和は三月のベッドに腕を突いたまま、ぐっと首を伸ばす。動転している三月の頬、目のすぐ下に唇を寄せて、ちゅ、と触れた。
「……何、酔ってんの……?」
「酔ってないよ」
大和の唇に、はむと頬を食まれる。くすぐったくて三月は身を捩った。
「な、もう……何すんだよ……」
「マーキング」
「はぁ……?」
「見てみろよ、鏡……ああ、これでいっか……」
大和は三月から名残惜しそうに離れると、ジーパンのポケットからスマホを取り出し、三月にカメラを向けた。きょとんとしている内に撮られ、そうして画面を見せられる。
「うっわ……」
そこに映っている自分の姿に、三月は思わず声を上げた。
首に、手の痕が浮かんでいる。恐る恐る両手で拭った。
「首、絞められた……?」
「う、うん……」
深く頷く。ここまで見られていたら、誤魔化すものは何もなかった。
「大和さんがさっき言ってた女の子の顔した何かがさ、俺の首絞めてくんの……オレがその子の言うこと聞けば……れいなちゃんと付き合えば、大和さんが諦めるからって……なぁ、どういう意味だと思う?」
尋ねる三月の後頭部に手を添えて、大和がそっと抱き締める。ぎゅっと力を込められ、大和の心臓の音を聞いている内、気持ちが落ち着いてきて、ほっと深呼吸をした。
「どういう意味だろうなー」
「誤魔化すなよ……オレ、正直に話したぞ……」
「まぁ、なんつーかさ」
とんとん、と背中を撫でられた。三月の肩甲骨の形を確かめるように、大和の指先がするりと撫でてくる。
「ん……っ」
「ミツが取り憑かれてるの、多分俺のせい」
「え?」
「リクに口止めしてたのもそういう理由。元々、俺が憑かれてたんだよ」
三月は、大和に抱き締められながら、ぱちくりと瞬きをする。
「……いや、これ、マジでそういう話?」
「マジでそういう話。ちょっと前に足首痣だらけで、リクに相談した」
「えっ……何、なんでそんな落ち着いてんの……?」
ふと思い返せば、陸が幽霊がどうたらこうたら言っても騒ぐのは環ばかり、小さくなっているのもナギだけで、あとは殆ど皆、慣れているような素振りを見せる。
そういうもんかと、三月も騒がずにいたが――それにしても落ち着きすぎじゃね?
「ガキの頃からいたんだよな。家の中にさ」
「何が……?」
大和の言葉に、三月は思わず首を傾げた。
大和は三月のベッドの上に胡座をかいて座ると、改めて三月を抱え直す。まるで丸め込まれそうな体勢に、三月が少し大和の胸を叩いた。
「おいっ」
「……二階堂の家の中に、おっかない女のツラした鬼がいたの。何されるわけでもないけどさ、ただおっかねぇおばさんがいる~って思ってた。でもな」
三月は、大和の話の続きが知りたくて、そっと抵抗をやめる。
「それが何なのか、ある日突然わかっちまったわけ」
「……それって」
「女の嫉妬は鬼ほど怖い。俺がガキの頃見たのは、親父の正妻の顔した鬼だった」
三月は、大和の腕の中ですっと肩を落とした。何故だか鼻の奥がつんとして、だからそっと腕を伸ばして、大和の腰を撫でた。
「本当、何をされたわけでもねぇんだけどさ。ただ、こっちをずっと睨んでた。言ったじゃん? 向こうの家に子供がいたら、俺だってどうだったかわかんねぇよ~って。俺もその鬼になってたかもしれない」
大和の言葉に、三月は腰を撫でていた手で大和の服の裾をきゅっと握った。無言のまま、大和の背中をごしごしと撫でる。
「あはは、やめろよミツ。くすぐったい……」
「やめない」
「ああ、もう……いいから」
ふふ、と笑いながら、大和がまた三月の頭を撫でた。髪をくしゃりとされ、擽ったくて目を閉じる。
「だからさ、復讐なんて口にした時から、俺もいつか鬼になるんじゃないかってぼんやり思ってた。結局、今もどうだか知らないけどな。親父は見たのかな、俺の姿」
三月のことをじっと見ていた無言の鬼のお面を、部屋の中に探す。今はいない――さっき、追い払ってごめんな。心の中でそう呟いた。
代わりに、大和の背中をぎゅっと抱き締める。
「大和さんが鬼になってても、きっと怖くないやつだよ。優しいやつ……」
「そう? でも復讐鬼だぜ?」
「でも。多分優しいよ」
ぐいぐいと大和の肩に額を押し付ける。すぐそばで大和が笑ったのがわかった。ほっと安堵する。
(だって、大和さんの鬼の角、もう折れてたもん)
とっくに復讐「鬼」でなくなってる。そのはずだ。三月を絞め落としたのは、やはり現実に戻すためだったのか。ぶっきらぼうなやり方だけど――目覚めてキスしてるよりはよっぽどいいか。
そこまで考えて、三月は顔を上げた。
「……で、なんでキスしたの?」
「えー、そこに戻っちゃうか~」
「しらばっくれようとすんな。誤魔化すのも禁止。おら、言え」
三月は大和の背中に回していた手で、今度は襟刳りを掴み上げる。凄めば、大和が眼鏡越しに「あはは……」と情けなく笑った。
「だから、なんつーか……俺がミツのこと好きだから、ミツが狙われた、っていうか……?」
しどろもどろになる大和に、三月が固まった。
「あれでしょ……ミツが誰かと付き合えば、ミツに好きな人ができれば、つまりは俺が失恋するってこと……で」
……さ? と眉根を寄せて笑う大和に、三月は思わず、襟刳りを掴む手を緩めてしまった。
「あ、取れた……」
ぱたんと落ちる三月の腕を掬って、大和が首を傾げる。
大和の胡座の中に座っている三月は、途端に自分の居心地が悪いような気がして、むずりと尻を浮かせた。
「あ、おい! 素直に言ったんだから、お前も逃げんなよ!」
「に、にににに逃げ、逃げないけどさぁ?」
「いや、逃げる。こういう時のお前さんは逃げるわ」
はい、捕獲ーと、大和が三月の両手を握って纏めた。
「告白してきた子をすぱっと男らしくフった三月くん、お兄さんにもお返事ちょうだい」
「や、大和さん相手で? 即答できっかよ……!」
「覚悟できてるから大丈夫だよ。お兄さんのことナメてる?」
じいと見つめてくる視線に、鬼のお面を思い出す。
ぐるりと視線を巡らせた。顔を覆いたいのに、その手は今大和に捕まっている。変な汗が出てきそうだった。というか出ている。
「あ、のさ……えっと、その前にひとつ聞きたいんだけど……」
「なに」
「大和さんとオレが、もし好き合ってたとして、さ? 今度こそ……取り殺されない……?」
だいじょうぶ……? と、思っていたよりかなり不安な声を上げる。すると、目の前の大和がきょとんと目を丸くした。そのまま――ああ、待って! 見てみろよ、この嬉しそうな顔! 晩飯に筍と山菜の炊き込みご飯出した時よりもヤバい顔してる……っ!
三月は、うわぁあと言葉にならない声を上げた。
(あんたのその、嬉しそうな顔、オレ、可愛いと思っちゃうんだもん……!)
三月の両手を拘束している大和の手が、ゆるりと力を抜いた。そのまま、もう抵抗をしない三月の指と自分の指を絡めてきゅっと握る。
「まぁ、毎日エロいことすれば大丈夫じゃないか?」
「バカ!」
バカだー! と声を上げたら、「バカだよ」と返事をされた。正面から押し倒されてキスされて、指が絡んでいて抵抗できない。ベッドに縫い止められた両手を恨めしく思いつつ、三月は真っ赤に熱くなっている頬を膨らませた。
「この、スケベおっさん……」
「それで助かったら一石二鳥でしょ」
「それも……」
そうかぁ……と呟く。こうやって絆されてしまう自分がいけないんだと思いながら、ちろりと見上げた大和の嬉しそうな顔に、三月はきゅうと目を閉じた。
(この顔に弱いんだよ、オレは……!)
「あ、大和さん! 三月のことなんですけど、昨日やっぱり元気なくて……玄関にも誰かついてきちゃったみたいなんです。だからオレ、三月には話そうと思うんですけど……」
大和に何かが取り憑いていたこと、そして、そのせいで三月に迷惑を掛けている可能性があること、それらを三月に知られるのは今はまずいと思い、陸には霊の類いの一切を口止めしていた。
数日前まで付いていた大和の足首の痣も、今は綺麗に消えている。誰も彼も、大和の元にはいない。それと同時に起こった三月の周りの異変に、大和は思う部分がないわけではなかった。
「リク、ありがとうな。オレからミツに話しておいたよ」
「あ、本当ですか……? じゃあ、何か解決できる方法見つかったんだ……」
「……それより、ついてきちゃった人って?」
大和は陸に尋ねる。安心からか、ぱあっと表情を明るくしていた陸が首を傾げた。
「えっと、鬼のお面被った男の人でした。大和さんと同じくらいの身長かな? あんまり怖くなかったから、心配ないかなって思ったんですけど……」
そういえば、あの人どこ行っちゃったんだろう? 不思議そうに言った陸に、大和はにやりと口角を上げる。
「へぇ、そっか。ありがとな、リク。俺たちのことで、気、遣わせた」
「ううん、解決しそうなら良かったです!」
大和はそっと手で顔を覆って、眼鏡のブリッジを上げた。
「……人の大事なもの傷付ける奴には、そいつ、ちょっとだけ怖いかもなぁ」
「え?」
きょとんとした陸に、大和は笑って「なんでもないよ」と首を振った。
【 終 】