秘密の波間をたゆたうように



天井や壁にはダクトが張り巡らされていて、子供の頃はそれを目で追っている内、いつの間にか眠りに就いていることがほとんどだった。
飛行船で大陸を行き来する日常だもんだから、空で眠ることに慣れきっていたオレの体は、新人が来る度にカタギはその揺れに酔うというのだということを思い出す。
奇術芸団で育ったオレにとっては、飛行船の揺れも機材の騒音も、ゆりかごであり、子守唄でしかなかった。


「あんたは酔わないんだな」
飛行船は自動操縦〈フルオート〉に入っている。大気も安定してるし、見張りだって仮眠を取る時間。三月は、ガラス窓越しに外を眺めていたフード姿の背中に声を掛けた。
「何してるんだ?」
今日の見張りは彼でなかったと思う。だから何を見ているのかと問えば、男は口元だけで笑って、窓の外を指差した。
「赤い、月が」
遠く光り輝く月が赤い。三月が振り返って男を見れば、彼は肩を竦めて笑っている。
「……そろそろ、休みます」
そう言って会釈をした男を、なんとなく引き留めたくなった。だからだろうか、三月は小さく口を開く。
「地上だと、珍しいもんなのかな?」
「え……?」
青い月、赤い月、金色の月、ありとあらゆる月が空にいれば見えて、そうそう珍しいとも思わない。暗雲に遮られさえしなければ、月はいつだって飛行船と併走しているものだった。
三月はぼうっと外を見やって、人形使いの男に問い掛ける。
「オレは小さい頃からここに……空にいるから、月は珍しくもなんともないけど、地上からすれば珍しい?」
ごんごんと船内に騒音が鳴る。昔よりずっと静かになったけれど、それでもここは無音ではない。三月が知るよりもっと外の世界の夜は静かで、先が見えなかった。
「俺、は」
人形使いの男が、眼鏡の向こうで目を丸くしている。ゆっくりと開いた口を一度閉じて、また開いた。
「俺は、夜の月が出る頃には、小屋に閉じ込められていたので、月は昼の月しか……知りませんね」
また、こうも言った。
「知っていたのかもしれない。今となっては、知らない期間の方が、長かったと、思う」
彼は、詩を読むみたいに言った。話すのが苦手なのだと言う。人形を通せばずっと流暢な口調になる不思議な男だ。なのに、今この瞬間はそうしない。
三月は、そっと男に歩み寄った。
「ごめん、思い出させたな……」
男は首を横に振る。笑っていた。
夜は星月の光が届かない場所に閉じ込められ、昼は無茶な労働を強いられる。そういう身分の人物だったのだそうだ。
三月が、団長である弟からそれを聞かされたのは、ほんの数ヶ月前のことだった。
「実際には、地主を刺して逃げ回ってたらしいですがね」
あっけらかんと言った団長に、その時の三月は唖然としたものだった。
(この物静かそうな男が? 人を?)
切羽詰まった人間は何をするかわかったもんじゃない。団長の話が本当なら、目の前のこいつは人形使いなんて可愛らしいもんではなく、ただの犯罪者になってしまう。それでも、奇術芸団の責任者である団長が採用を決めたのなら――恐らく、悪い人間ではないのだろう。
(それに)
休みますよと言った男は、黙って瞬きをしながら三月を眺めている。フードの影になっている眼鏡のレンズの向こうで、常磐色の目がすっと細められた。
「もしかして、まだ何か、聞きたいことが?」
「……あのさ、前に見せてくれたっていうか、オレが勝手に見ちゃっただけだけど、あんたの……肩の印さ」
——奴隷の印だ。熱した焼きごてで付けられる焼き印のことくらい、三月だって知っている。それが耐え難い痛みを伴うことだって。
三月は、ぎゅっと自分の背中を抓った。
「オレにもあるんだ、なんつーか……似たようなもんが」
そう言えば、人形使いが目を丸くした。何故、とでも言いたそうなそれに、三月は短く声を上げて笑う。
「あんたが見せてくれたから、見せてみたくなっちゃった……」
おいでよと手を泳がせる。この男を個室に招き入れるのは、今に始まったことじゃない。そして、この男だけ特別ということでもない。
三月は寝台に腰掛けて、上着のボタンを外す。男に背中を向けて、肩からシャツをするりと下ろした。三つ編みに結っている髪を前側に引いて、それから——背後で男が息を飲んだのがわかった。
「これが、オレの秘密」
そう言って振り返ろうとした。
けれど、それは叶わなかった。後ろから男のローブを掛けられた。頭から背中まですっぽりと覆われ、三月は思わず息を飲んだ。
「これは、どうして……」
「だから、あんたが秘密見せてくれたからさ」
「そうじゃない」
男が、ローブの上からぎゅっと三月の肩を掴む。けれど、男の手からはすぐに力が抜けて、柔く撫でられる感触に変わった。まるで、今の飛行船の揺れのような穏やかさを感じて、三月はそっと目を伏せる。
「……小さい時に、ある国の貴族の子供たちがオレの演奏をすごく気に入って、とても良くしてくれたんだ。オレも小さかったから、身分の差なんて気に掛けやしなかった」
三月は、まるで物語の一節を語るかのように話し始めた。
「ある日のことだった。街の広場でオレが演奏の練習をしていたら、子供たちが集まって喜び騒ぎ出したんだ。オレは気分が良くなって、土地勘もないのに街の外まで子供の行列連れて出て行っちまった。そこで……」
震え上がる間もない、その感覚を思い出す。
「子供が騒ぎ散らかしてパレードなんかしたもんだから、獣たちが群がってきた。オレはなんとか出鱈目に演奏をして、獣たちの気を引いては子供達を逃した。そうやって、なんとか死者こそ出なかったけど」
——命からがら街に戻ってみれば、三月は誘拐犯として認識されていた。
「その国の法では、罪人には印が付けられる。郷に入っては郷に従う……それが、当時の奇術芸団の決まりでもあった。怖い思いしたって貴族の子供が口々に言うんだ……そりゃあ、悪者はオレってことになるよなぁ……」
それで施されたのが——と、三月は人形使いに隠された首元を撫でる。
「罪人の刺青ってわけ」
まぁ、その国ではってことなんだけどと振り返ると、人形使いはなんとも言葉にし難い顔をして、三月の目の前に膝を突いていた。
「もう服を着るから、返すよ」
三月は、ローブを下ろして人形使いを見下ろす。
「一織の奴はずっと賢くて、小さい時からオレみたいな迂闊なことはしなかった。あいつの方が団長で良かったんだ」
三月の言葉に、人形使いが神妙な顔をして返す。
「……団長だって、クラウンとして警備団に見つかれば罪人でしょう。ただでさえ、酒場で酔った警備団の者から、お前らなんて空賊と変わらんと言われましたし」
「……見つかれば、だろ? 見つからないんだよ、オレたちのクラウンは。なんてったって、仕事の出来がパーフェクトだからさ」
床板に跪いていた人形使いが少し俯いて、それから首を振った。
「ミツだって、演奏の仕事は、完璧です」
「……ありがとう」
愛用の人形がなくても人形使いがよく喋る日だなと思う。少し笑った。
「人を惹きつける力があるから、子供達だってついて歩いたに、違いないし」
いい加減立ち上がって、目の前に跪くのを止めて欲しくて、三月はそっと寝台の上を撫でた。
「いつまでもそうしてないで、ここにおいで」
眠れないらしい人形使いを、何度か寝台に誘ったことがある。子守唄を歌ってあげる、なんて嘯いて、気持ちを落ち着けてやった時、この男があどけない顔で眠るのを三月は知っていた。
飛行船の夜は慣れない体には堪えるからと、新人が来るとやっていたことだった。仲間のナイフ投げには何度か怒られたものだった。
「眠れなくて月を見てるくらいなら、子守唄を歌ってあげる」
人形使いのローブを椅子に掛けて、三月はそのまま寝台に横になった。
諦めずに寝台を撫でていると、人形使いはようやく腰を上げて、シャツの襟元を緩めると三月の隣に横たわった。
最初からそうして素直でいてくれれば、変な動揺をすることもなかったのに……そう思いながら、三月は人形使いの眼鏡を外した。寝台のボードの上に置いて——寝相で落とさないようにしなくちゃならない——おやすみと告げる。
これから始まるは、何人たりとも逃れられない眠りへと誘う演目。三月様の子守唄に御座います。そんな風に心の中で唱え、息を吸った時だった。
人形使いが口を開く。
「キスをしても良いですか」
「え」
半開きになっていた三月の口に、人形使いがぎゅっと唇を当てた。
突然何をするんだろうと三月が目を白黒させていると、仕掛けた人形使いがすぐ近くでニッと笑った。
「外の世界じゃ、人を慰めるのにキスをすると、読みましたので」
人形使いは、自分を寝かし付けようとしていた三月の襟元を整え、ボタンを止めて、そっと三つ編みの結び目を解く。人形使いの手で緩められた三月の三つ編みが解されて、さっと首を隠していく。
「それって」
三月の唇が、少し震える。
「オレを、慰めたいってこと……?」
やっと捻り出した言葉に、人形使いは相変わらず微笑んだまま、小さく頷いて返事をした。
「役不足で、なければ」
三月の髪を梳いていた人形使いの手が、そのまま三月の頭を抱え、肩口に引き寄せる。いつもと逆の立場に、三月はつい目を細めた。
「……たまには悪くないかもな」
――でも、キスするのはせめて頬にして欲しい。そう言い掛けた口を閉じて目を上げれば、人形使いがしたり顔で笑って、口の前に人差し指を立てていた。
「Good night」
それが本当におやすみの合図だったのか、それとも「これは秘密」の合図だったのか、三月には到底わからなかった。
今更、些細なことだろうか。飛行船は何事もなかったかのように、静かに夜を揺蕩っていた。