Lollipop DeadEND-前日章



 スーツを新調した。悪趣味だけどセンスは悪くない雇い主は、他人である三月のことを泥沼から湖に突き飛ばした。
 体中に纏わりついていた罪悪感ややるせなさは次第に薄れていって、それでも忘れやしないけど、錘にはならなくなったように思う。
 それも、この新しいジャケットのお陰かもしれない。
 最低限のトレーニングはしていても、刑事だった頃より気を張らなくなり、ついでに規律も守らなくなった三月の体は、以前よりずっと負荷が減っていた。暴走することも、フラッシュバックに苦しむことも、刑事だった時よりは少なくなったように思う。
 三月は、ぼんやりと上げた自分の手の平を眺めながら思った。背景の空の色は果てなく青い。雲はあっても天気が良い。
(いつまで置いてもらえるんだろう)
 刑事を辞めて、今は二階堂大和という男に雇われている。殺し以外ならなんでもする探偵のような仕事、らしい。あくまで表向きは。
 本当は、表社会で取引のできない物品を売買している仲介業者だ。大和が持っているどこの倉庫にも、いわく付きの物が几帳面に片付けられている。
 しかし、今の三月はそれを元同僚にリークしようとは思わない。そもそも、そんなことは三月が刑事課に所属している時からわかっていたことだ。しかし、ここには手を出せない「理由」がある。
(警察ってのも、中々汚れてるよなぁ)
 大和のバックには、警察組織上層部にとって都合の悪い人物が何人かいるらしい。ついでに、今は、刑事課の一課長・和泉一織の兄である三月までここにいる。
 大和が三月を助けて雇用しているが故に、更に大和は守られてしまっているわけだ。時たま行われていたガサ入れだって、遂には行われなくなってしまった。
 初めは、罪悪感が三月の胸を詰まらせた。けれど——ごろり、住んでいる事務所兼住居のマンションの、その屋上で寝返りを打つ。
 今は、それもどうでも良くなってしまった。
 短く切られた自分の指の爪を眺めながら、その爪で傷付けた大和の背中を思う。
 三月が刑事を辞めたのは他でもない。ある日、繁華街の裏で張り込みをしていた際、拉致された先で妙な薬を盛られた。意識ははっきりとはせず、他に何をされたか、どのように体を拘束されたかの記憶は至極ぼんやりとしている。
 思い出そうとすると、頭の中が真っ黒に塗り潰されてパニックが起こる。酷い場合には自分が何者なのか、目の前にいる相手が何者なのかもわからなくなる。一通り暴れた後は急速な脱力に陥って、終いには意識が保てなくなってしまう。
 こんな状態では、刑事など続けられるわけもない。弟には入院を強く勧められたが、なけなしの三月のプライドがそれを承諾させなかった。
「滅茶苦茶だよな……プライドもクソもねぇよ」
 一度汚れた背広は、もう元通りにはならない。だから、大和言う通りに新調した。
 ここのところ、意識を取り戻すと、雇い主に滅茶苦茶に抱かれている。青痣だって爪の跡だって絶えない。……相手の方がだが。
 ぼんやり眺めていた手の平を握る。三月は小柄な体躯ながら、握力も成人男性の平均よりずっと高い。そりゃそうだ。これまで体を鍛えてきたのだから。その上、妙なことに、興奮すると更に力が強くなってしまう。誤って人の骨を折ってしまえるほどに。
(いつまで置いてもらえるのかな……こんな、迷惑しか掛けないのに……)
 大和の仕事を、今の自分の仕事を、一織にリークしようとは思わない。三月が、大和と離れることができないからだ。
 他に抑える方法がないわけではない。一織が渡してくれる抑制剤を使えば、ぼんやりとした抑鬱を覚える代わりに力は抑えられる。
 けれど、そんなことをして自分で自分を追い詰めるより、目が覚めたら蕩けそうな快楽に振り回される方がマシだと気付いてしまった。
(体の相性、良いんだもんなぁ……)
 相手が貧乏くじを引いていようが、どうせと言ってはなんだが、どうせ「二階堂大和」だ。警察の身内ではない。なんだかんだ相手も具合が悦さそうだし。
 屋上の床に軽く爪を立てて、それからチッと舌を打つ。
(なんだかんだ気持ち良いし……?)
 快楽に振り回されたって良いだろう。錘にはならないんだし。ただ、実の弟にそれがバレるのは嫌かも……なんて思いながら、三月はよっと体を起こした。
 のそのそと階段を降りて、遅い昼食にしようかと思いながら事務所の階のリビングの、そのドアを開けた時だった。
「あんっ」
 ぎょっとして顔を上げた。
 どこで貰ってきたのか知れないアンティークのベッドの上で、髪を振り乱した女と睦み合っている大和を見て、三月はあんぐり口を開ける。
「あれー、ミツ」
 帰ってきてたの、と呑気に言う大和の下で、動物のように四つん這いにされた女が顔を上げた。向こうも少し驚いている。
「なんだよ」
 商売してるネェちゃんでも、こんな風に驚くことあるんだな、なんて突飛な言葉が頭を過った瞬間、なんとなく笑えた。
 笑ってる場合ではないが、三月はリビングのテーブルに放置されていた食パンの袋を持ち上げると、それを持って部屋を出る。
「なんだよ。ネェちゃん呼ぶなら言っとけよな。腹減ったから飯しようと思ったのに」
 そう言って、ドアを閉めた。
 そのまま、軽くドアに背中を預ける。
 ドア越しに、行為を続ける様子が窺えて、なんとなく俯いた。
 食パンを持っていない方の手で、自分の喉を撫でる。商売女のわざとらしく快がる声と、自分の少し甲高い声が、何故か似ているような気がした。
「わざとじゃないのに」
 わざとじゃないのに、大和からすれば同じことで、同じものなのかもしれない。
 三月がまだ刑事で、ここにガサ入れしていた時だって、女が飛び出してくるなんてよくあることだった。部下であるトウマが真っ赤な顔をしていたのを思い出す。笑える。大和は女が好きだから。
 ドアから背中を離して、のそのそ歩きながら六枚切りの食パンを一枚取り出した。パンの耳を齧ってみても、いまいち味はしなかった。
 プライドもクソもない。汚れた背広は元に戻らないから捨てるしかないし、いつまでここに置いてもらえるかもわからない。
 それでも、纏わりついていた泥は湖で洗い流されたような気がした。
 汚れちまったものが綺麗になるわけないと嘲た時、苦笑いして首を横に振った大和のことを、三月はずっと忘れられないでいる。
 あんな安堵は、誰にだって知られたくない。
 

「……なんか、すっきりしないな」
 次からもう呼ばないかも、なんて直接言いはしなかったが、金を渡した時に手切れのおまけくらいは付けといた。
 呼んだデリバリーヘルスとセックスしてる時に三月が部屋に入ってきた時、熱に浮かれていた頭は、このまま三月に手を伸ばすのも悪くないのかもと勘違いした。勘違いで済んで良かったし、何事もなく出ていかれたのも、なんというか——いや、気にしろよ。動揺しろよ、七五三のくせに。
 時間経過と共にムカムカとしてくる。無茶苦茶に犯したい。
 けれど、シラフの三月にそうするには……大和は、口に咥えた煙草を上下させる。くゆりと揺れた煙を視線で追って、溜息を吐いた。
(そんなの、好きだって言ってるようなもんじゃん……)
 そりゃあすっきりしないんだ。だって、好きなんだから。好きだから置いておきたい、好きだから庇いたい、匿いたい。囲いたい。警察になんて戻したくない。弟の所にだって——だから、三月が大和を利用せざるを得ない状況は、大和にとって都合も、具合も良かった。
 まだ三月が刑事だった頃、突如訪れた警察にデリヘルの女が半裸で驚いていたのを見ても、三月は顔色ひとつ変えなかった。それと同じだ。同じだけど……同じだけどさ? 今は違うじゃん?
(情とか、ないのかな……)
 三月にとったら、意識を戻されたとて、大和に抱かれるのは屈辱でしかないのかもしれない。手っ取り早いので止める気はないが。
 いつの間にか鼻先まで近付いていた煙草の火に気付き、それを灰皿に捩じ込む。指先が少し熱い。
 今まで、付き合い以外で煙草なんて吸ったことがなかったのに、それがここ最近急に恋しくなった。特に、セックスした後吸いたくなるのはなんだろう。
 メンソールですっとした口の中で言葉にし難いものを燻らせながら、大和はもう一度溜息を吐いた。
 すっきりしないなら金の無駄。
 刑事の装いを捨てさせて、大和がしつらえたスーツに身を包んでいる三月がマンションの往来を歩いていく。それを窓から見下ろしながら、虚しい独占欲が疼くのを感じた。
 こんな焦燥は、誰にだって知られたくはない。
     




【 本編に続く 】