からまってほどけないよに


 今更。本当に今更。何もかもすべて今更。二階堂大和が和泉三月に酔ってキスして、それがこめかみから額に移って、頬に、鼻先に降ってきて口の端に触れた時、三月は予期していた。あ、次は唇にされるんだって。
 だから、実際にされた時には驚きもしなかった。ウソ。少しだけ驚いた。本当にしてくると思う気持ちが半分、本当にはしてこないだろうと思う気持ちが半分だったからだ。
 それが段々エスカレートして、頻度が増えて、一回の晩酌で四回も五回もするようになって、だから今更だった。
 熱っぽく三月を見下ろす大和が「ごめん」と寝惚けたみたいな目をして謝ったのは、そんな今更な話だった。
「ごめんミツ……舌、入れちゃった」
 とろっと口からはみ出した自分の舌を仕舞いもしないで、三月は今更そんなことをと思う。
「いまさら、言う……?」
 大和の常磐色の瞳が、白目の合間できょろりと惑った。今更。今更も今更だ。たかだか舌を入れたからってなんだと言うのだろう? 二人の間にある不確定な関係が、こんな粘膜の接触ではっきりするとでも言うのだろうか?
 三月は、はふっと息を吐いた。溜息のつもりだったが、そう見えていたかどうかは知れない。
――なんて手の早い奴。
たかだか、大和の舌が三月の口の中に入っただけだ。それよりもっといやらしい、擦ったり拭ったり、色々、ありとあらゆることをしているのに、今更舌を入れたくらいでと思っている内、三月の上唇を大和が吸った。そう、そういうことを散々……と思いながら、大和の胸を押す。
「重い……やだ……」
 アルコールの中に脳を浸したんじゃないかというくらい酔いが回っていて、敏感な舌先を吸われて痺れて、そんな浮遊感から眠気がしてくる。
「んー……」
 三月の抵抗に生返事を返し、大和は三月の体を抱き締めた。床と大和の間に挟まれ、圧迫されれば苦しい。三月はなんとか体を転がし、大和を押し退けた。
「つぶれ……つぶれるっ! ばか!」
 突き放したにも関わらず、ぐずぐずと伸びてくる大和の手が、三月の頬を擦って唇の先を指先でなぞる。
 つんとつつかれたものだから、三月は大和の人差し指に噛み付いた。
「いって!」
「自業自得っ」
 あぐあぐと大和の指を甘噛みしている内、人差し指だけではなく、親指が口の中に入り込んできた。その親指が三月の歯列をなぞったかと思うと、また舌先まで触れてくる。思わず、三月は大和の親指をちゅうと吸った。擽ったそうに目を細めた大和が眼鏡を外す。畳みもせずに絨毯の上に放って、そのまま。眼鏡を摘まんでいた手が、三月の後頭部に回った。
 ずりずりと這い寄ってきた大和に、三月はまたキスされるんだと察して目を伏せる。
「ん、あ」
 それまで大和の指をしゃぶっていた口を緩く開き、大和の唇に吸い付いた。
 そのままぎゅうっと抱き締められるのが、ただ気分が良く、適当に怠惰で都合が良かった。お互いの性欲という物も、この触れ合いで多少は解消されているだろう。メンバーの中で年長者である二人がこんな風に内緒で絡み合っていることがバレたらどうしようかなんて、そんな背徳感もまた見えない器官を刺激するのだと思うと、やめられなくなってしまった。
 ミツがやめようって言い出すだろ。大和さんがやめようって言い出すだろ。そんな風に、お互いがお互いになすりつけ合って――顔を離して、瞳を覗き込んだ――お互いに見ないふりをしていたんだと思う。
(オレと大和さんしか知らないんだから、このくらい……)
 見ないふり、したっていい。大体、キスしてたら近すぎて見えないし。
 そうして、本当は見えたはずのものを見ないふりして摺り合わせている間に、ある日、大和も三月も寮を飛び出すことになってしまった。
 偶然耳にした「千葉サロン」のことを、大和に尋ねてしまった。それを皮切りに、曖昧で不確定だった関係がほつれて離れてしまった時、三月は絶対に手の中の糸を離すもんかと思った。
 糸を握った拳で、大和の顔を殴ったことは反省している。反省しているが、殴らずにはいられなかったし、泣かずにもいられなかった。思い出すと、鼻の奥がつんとする。
 ぐす、と鼻を鳴らした三月の体を、大和が抱き締め直した。
「よっ」と小さく漏れた大和の声がする方を見上げる。目が合うと、大和がぱしりと瞬きをした。首を傾げたのか、枕と髪の擦れる音がする。
「どうした、ミツ……」
 三月は首を振る。
 曖昧で不明瞭な関係は、今もまだ呼び名が付くような物になっているとは言えない。三月は、大和の胸に額を当てて目を閉じた。
(多分)
 呼び名は無いが、ほつれてしまった糸をお互いに強く握っている。あとは引き寄せて伝えるだけなのに、それができないでいる。
「大和さん、痛い……?」
「何が」
「頬、顔」
「ああ、あれ……? 思いっきり殴ってきたやつ……?」
 大和の胸からとくとくと伝わる心臓の音が、僅かに早くなった。口調は砕けているのに彼は緊張をしている。それを肌に感じながら、三月は静かに息を吐いた。
 三月の溜息を聞いてか、大和は「もう痛くないよ」と落ち着いた口調で言った。
「……痛くないならさ」
「うん」
「してもいいかなぁ」
 生返事をする大和の、そんな彼の布団の中で、三月はもぞりと体を起こす。
 糸を離したくないから、だから、酔っていなくても、いやらしいことをしたい気持ちにならなくても、どちらともなく、本当になんとなく、一緒に寝るようになった。
 最初の頃は、なんでこうなったんだろうかと天井を見上げて思うこともあった。シーツの影を睨んで悩んでみたりもした。
 結局、手を握って繋いで眠ったたった一晩で、その理由は三月の腑に落ちてしまった。
(一緒にいたくなったんだ)
 きっと、元々そうだったんだろうと思う。本当はかなり早い段階で「一緒にいたかった」。だから、年長者の小狡いやり方でなんとかして体だけでも結んで、絡ませておきたかったんだろう。そんな答えに行き着いた。少なくとも、三月の方はそれが腑に落ちている。
「何を」
 十分に間を置いて、大和が三月に尋ねる。三月は肘を突いて起こしていた体をそのままに、口を開いた。
「キス」
 手の中の糸を引く。暗闇の中で大和がほんの僅かに体を起こして、三月の唇に唇を触れさせた。触れるだけで終わった。くすぐったくて、三月は笑う。
「ふふ、はは……っ」
「……何」
 どこか不服そうな大和の声に更に可笑しくなって、三月はシーツの上に突っ伏した。
「オレからしてもいいかなって聞いたのに」
「したじゃん」
「大和さんの方がしたんじゃん」
「そうだよ、同じだろ」
 呆れたように言って上体を起こす大和。ベッドの上に座った彼を見上げて、三月は首を振った。
「同じじゃないよ」
 瞬きをする大和と目の高さに合わせようと、三月も体を起こす。そうして、もう一度言った。
「同じじゃないんだよ……」
 腕を伸ばして大和の首を抱く。柔く引き寄せてもう一度唇を合わせた。角度を変えるとちゅと音が鳴って、それから――大和が三月の唇を甘噛みする。
「なぁ……」
「んー……?」
 気怠げに返事をしながら三月の頬に唇を当ててくる大和の肩を、そっと手の平で撫でる。自分より広い肩幅、厚みのある筋肉が熱っぽくて、ずっと撫でていたくなる。
「もうほどけたくないんだ、オレ」
「は……? 何……なんの話……」
「大和さんとさ」
 三月の頬から顔を離した大和が、不思議そうに三月を見た。
「何して絡まっても良いよ、あんたとなら。でも……もうほどけたくないから……」
 結び目を隠さないで欲しい。それが結び目だってわからないくらいくちゃくちゃに絡めば、手放すことだってできないだろう。だから、三月はそれになりたい。
 座っている大和にしがみつく。駄々っ子みたいに抱き付いてみて、それから少し違うような気がして体を離した。見上げた大和の顔は、やはり不思議そうなそれのままだった。
「ミツが回りくどい言い方するの珍し……」
「そういう気分の時だってあんだよ……」
 口を尖らせてそう答えれば、大和はくしゃりと髪を掻き上げた。
「あー……まぁ、意味はわかったっつーか、察した、けど」
 いつまでも撫でていたくなる肩口から手を離して、三月は大和のパジャマの裾を握った。そのまま、ゆっくりと横になる。
「オレらしくないって言われると、確かにな……ただ一緒にいたいだけなんだけど」
 口にすれば案外簡単だった。さらりと滑り落ちた言葉に、大和がきょとんとする。
「俺、と?」
「おう……そうじゃねーの? だから、なんかくっつきたいんだろ。多分」
 多分、ずっとそうだったんだよ。酒飲むとベタベタしたくなるのも、キスするのも、舌入れちゃうのだってそうだろ……と、横になって眠る姿勢を作った瞬間、三月の口からはするすると言葉が零れ出てきた。きっと、脳が早く眠ろうと誘導しているに違いない。
 三月の方は横になって目を閉じて眠ろうとしているのに、大和はちっとも、起こしている体を元に戻してはくれなかった。掛け布団の合間に空気が入り込んでスースーする。三月は思わず眉を顰めた。
「もうキスもしねぇんだから寝ろよ。スースーする……」
 三月がばふばふと大和のベッドを叩く。
 そんな奔放な手をおずおずと掬い上げ、大和がことんと息を飲んだような気がした。三月は片目を開ける。
「……一緒にいたい、より、もっと短い言葉で表せるんだけど、さ。えっと、なんでそういうことしたいか……」
「んー……?」
 掬い上げた三月の手を緩く握って、大和がゆっくりと体を倒してくる。
 心なしか、手にじとりとした湿気を感じた。汗。手汗だこれ、と思いながら、三月は大和の顔を見る。
「ミツが気付いてるかどうか、俺はわかんないんだけど」
「なんだよ、早く言えよ……」
 本当に、回りくどかったり変にストレートだったり、使い分けの上手いことだ。その上、手が早くてテクニックもあって……
「ごめん、ミツ」
 またディープキスでもされるのかと思って、三月は無理矢理目を開ける。すぐ間近にあった大和の顔は少し困ったような、それでいて、真剣な表情をしていた。なんだその顔……と、吹き出しそうになったその時だった。
 表情以上に真剣な大和の声が、紛れもなく三月に向かって言ったのだ。
「ずっと前から好きだった」
 ああ、なるほど。「好き」だから、絡まりたい。ほつれないで離れないで、そう思ってやまない。なるほどなるほど……三月は心の中で膝を打つ。
 途端に、繋がれたままの手からはどっと汗が吹き出した。