光彩奪目を去なす -祟り夜月は-
重と喧嘩した。
「いってぇ……」
重が、ササツ?に来た人間の女と歩いてた。だから化かしてやろうって張り切ったら、尻尾の先を斬り付けられて、「ええ子にしとき」なんて言う。
(なんだよ、良い子振りやがって……)
女の隣でそつなく涼しい顔してる重に腹が立って、悔しくなって、もう一回……旋風でも起こしてやろうかってしたら、今度は刀で肩口をやられた。
「テッメェ……!」
今はこんな血を見てるけど、オレたち実は一緒に寝る仲で、お前が斬った尻尾の先だって一昨日の夜にはふわふわ撫でてた物だったのにな。
不本意そうな顔して口尖らせながらオレのことを斬った重は、女を連れてさっさと詰所に戻って行った。
「中央の人間の手前、そうするしかなかったんだろうね」
おまえもちょっかいを出さなければ良かったのに。そう笑って言った九尾の狐に、オレは頬を膨らませる。
「だって」
——人間の女といたんだもん。そう言ったら何かに負けた気がして言えなかった。言わなくたって九尾の狐にはどうせバレバレだ。
葛ノ葉のカウンターの下に潜って着物をはだけて、肩に自分の傷薬を塗りながら、オレはスープの仕込みのことを考えようとしていた。もう仕込んであるけど。
(妖怪は斬るもの)
向こうからすれば、管理するもので、閉じ込めるもので、協定が破られたら斬るもの。
(そうだよなぁ……)
きっとそうなんだろう。中央だの帝都だのの決まり事なんて、オレは考えちゃいなかったけど。
(あいつも一応、ちゃんと人間なんだな……)
自分で尻尾の毛先を整えながら、これを撫でてうっとりしてる重の顔が頭に浮かんで、オレはがりっと唇を噛んだ。
光彩奪目を去なす —祟り夜月は—
「はー……円ぁ……」
「はーいはい、お疲れ様。それじゃ」
さっさと外套を翻して逃げようとする円を、重はぐわしと捕まえた。
「ちょっとは付き合ってくれてもええやん?」
「やだよ! そういう嫌がらせ、もうやめなよ!」
「嫌がらせやないて……ほんま、あの女……監査の一環とか言うて面倒な説明させるし、オレがハイハイ言うからて色目つこてくるし……ご苦労なことやわぁ」
「あっれ〜、重ったらモテモテ。良かったねー」
「良うないわ……」
だらだら絡む重の腕から逃げようと暴れていた円が、そろり動きを止める。円にへばりついていた重が、恐らくは円の予想以上にどんよりとしていたからだろう。その上、円は何故かニヤァと口角を上げている。端正な顔立ちをしているから、そういう顔をするとやけにコミカルに見えてしまう。そんな円に、重の方もつられて半笑いになった。
「さては、鎌鼬に見られたね?」
黙る重に円は尚更ニヤニヤとして、重の顔を覗き込んでくる。
「なになに、修羅場? 修羅場になった? 噛み付かれた? 引っ掻かれた?」
「なんで修羅場になるん……まぁ、妖怪が悪戯仕掛けてきよったから、ちょっとばかし遊んだりましたけど」
「……まさか」
それまでヘラヘラとしていた円の顔色が変わった。
「斬ったの……?」
「ほんのちょびっとやて……」
重の顔色も、きっと変わっていると思う。
だからだろうか。尚更に円の顔付きが神妙なものになった。
「こんな所で俺に絡んでないで、早く謝りに行きなよ……事情が事情だし、きっとあの子なら許してくれるって……」
なにより、あの子は重のこと好きなんだから、きっと今頃傷付いてる……珍しく真面目なことを真面目な顔して言う円に肩を撫でられて、重は冗談を言う間も無く口を閉じた。
「まぁ、確かにオレは鎌鼬に好かれてんけど」
「重のそういうところ良くないと思うな」
「なんでや……確かにオレは鎌鼬に好かれてんけど、その……さっきので、きっ」
「嫌われてるかもせぇへんし?」
重の口調を流暢に真似した円が、自分の目の前で黙り込んでしまった重を見て溜息を吐いた。
「大丈夫だって……一昨日だって、お熱いことお熱いこと……」
「わからへんやん、妖怪の心変わりなん……」
「お、珍しい。弱気になっちゃって」
ひゅうと口笛を鳴らした円は、詰所の天井をぐるりと見回して、それから重の肩を掴むと半回転させた。そうして、どんとその背中を押す。
「嫌われてるなら嫌われてるで、とびきり見苦しく挽回しておいでよ」
円から詰所の外まで追いやられ、重は呻き声を上げる。
「あ、お、円っ、おま……!」
確かに、何を弱気になっているやら。以前はそんなこと気にも留めなかったのに。
「許してもらうまで戻って来ないでよね」
笑顔の円に辛辣に追い出され、重は静かに肩を落とすのだった。
さて、円に言われるまま灯影街まで出てきたは良いが、葛ノ葉に行っても鎌鼬はいないし、低級妖怪も言葉を交わせるレベルの妖怪も、何故か重を避けて逃げて行く。
(な、何……人間臭いとかか……?)
中央の人間の気配でも残っているんだろうか。いや、そうだとしても、普段の彼らなら然程気にはしないだろうに。こんなに避けられるのは、蛟を怒らせた直後くらいのものだ。
「……怒らせたんやろか」
そりゃあそうだ、言っても聞かないからと刀を抜いて、ふさふさの尻尾を斬りつけたのだから。艶のある肩口だって引き裂いたのだから。
円に言われた通り、つい一昨日この手でふさふさと手遊んだ尻尾の、その感触に思いを馳せる。それを、この手で——つい口元が緩む。
「……傷」
——傷、残ってへんかな。傷、残って、残って……?
腹の底が煮えるような感覚を感じて、重ははっと我に返った。途端に、周囲にいた妖怪たちがみな散ってしまった。
「あちゃあ……」
殺意が漏れているかもしれない。正確には「殺意」ではなく、もっとぐずぐずでどろどろとした欲求が。
(抑えられてるんだけどな、普段は)
自分の手の元で乱れて曝け出されている鎌鼬を見ていると、この衝動はすっとなりを潜めてくれるのに、それが今、重には堪え難いものになっている。
「……嫌われてたらどないしよ」
また無理矢理手解きするのも悪くないかもしれない。そんな衝動を押さえ込んで、咳払いをする。
最悪だ。今自分は彼に謝ろうとしているというのに。
暫く駆け回って宵を迎えた頃、葛ノ葉に戻れば、店を回している鎌鼬がいた。
会えたことには安堵して、何の気なしにカウンターに座る。
鎌鼬は無言だった。
「あー……鎌鼬?」
「何、オレ、今忙しいんだけど」
「その、堪忍。斬りつけてもうて……あれは見張りがおってん」
「そっか」
それ以上何も言わない鎌鼬が、ぷいと重から目を逸らした。そのまま、丼にラーメンをよそって重の目の前に出す。すぐに別のテーブルに行ってしまった鎌鼬を横目に、トッピングのない素ラーメンを啜った。味がわからなかった。
「尻尾」
店の隅にいた九尾の狐が、楽しそうにクククと笑う。
「斬りつけたんだって?」
「店長はお見通しかいな」
「まあね。泣きながら飛び込んできたから」
「なっ……」
クスクスと笑う九尾の狐の方を、慌てて振り返る。
「妖怪泣かすのも大概にしないと、祟られるよ」
「……祟ってくれてええわ。そっちの方がよっぽど楽や」
「本当に物好きな男だねぇ」
不貞腐れたようにラーメンの続きを啜っている重の首に、何を思ったか九尾の狐はするっと腕を回した。引き寄せて、頭を撫でる。
「おお、よしよし。この私が慰めてやるんだから、有り難く思いな」
「て、店っ長ぉ?」
素っ頓狂な声を上げた重の首を爪の先で撫でて、それから九尾の狐は尻尾を揺らしながら離れていった。とても良い匂いがした。
暫く呆然としていた重だったが、ふと思い立ち、振り返る。どうやら、呆然としていたのは重だけではなかった。
団栗目をぱちくりとさせて、鎌鼬が重を見ていた。
「あ、いや、これは」
今のは不可抗力で、と弁明しようとしたが……鎌鼬は口を結んでかぁっと顔を赤くする。泣き出しそうな顔をしていて、なんとまぁ、かあいらしい……なんて思っている間に、鎌鼬は葛ノ葉を飛び出して行ってしまった。
「て、店長……!」
取り繕う間も無く情けのない声を上げた重に、九尾の狐はやはりクスクスと笑う。
「祟られたいなんて言うもんだから」
祟られ「たい」とは言ってない。
こいつはいよいよ本当に祟られるかもしれないと、ラーメンを啜り終えて河川敷まで走ってくれば、暗がりの中、ぽつんと座り込んでいる鼬の姿を見つけた。あまりの縮こまりっぷりに、思わず鼬ちゃんや……と呼び掛けて、改めて「鎌鼬」と呼べば、耳を垂らした鎌鼬が振り返った。ぷいとすぐ向き直る。
「鎌鼬、堪忍やて……傷見せてみい」
「そんなの、もう治った……」
膝を抱えたまま縮こまる鎌鼬の尻尾が揺れる。ふらんふらんとするそれを捕まえようとすれば、重の手を避けて逃げてしまう。
「気まぐれな尻尾さんや」
「お前に触られたくないだけだろ」
普段なら、「嫌よ嫌よも、好きの内」だとか「躾甲斐がありますわなぁ」くらいの軽口を叩けたであろうが、今の重にはそんな気持ちとんと湧かなかった。
「そらそうや」
鎌鼬の隣に座って、俯いているその横顔を見る。
「薄皮一枚斬っただけのつもりやけど、斬りつけたんは斬りつけたもんやし」
ごめん、堪忍なぁ、もう一度謝った。
「機嫌直してなん言われへんけど……」
直してほしなぁ……そんな風に呟く。
傷付けたいのは、自分の印をその身に残したいからで、その後の傷は当然癒されるべきであって——けれど、傷付けた本人が癒せるなんて微塵も思ってはいない。
「オレがおったら、直るもんも直らんわな」
そう言って立ち上がろうとした重の袖を、鎌鼬がついと引いた。
「……尻尾も肩も治ったけど、胸が」
鎌鼬がことんと息を飲み込んで、それから口を開いた。
「胸が、痛いんだ」
ぐちゃり、再度座り込んだ重が、恐る恐る鎌鼬の胸を撫でる。装飾品がちゃらと音を立てた。
「避けた時に捻ったん……? それとも、どっかぶつけたんかなぁ」
「ううん」
鎌鼬の傷薬でもどうにもならない痛みがあったとして、それに自分が不用意に触れて良いものだろうか。重はそれに気付いて、慌てて手を離す。
「今更やけど、妖怪の中に医者っておるん? 誰かに診てもろたらええんとちゃうかなぁ」
「重、見る?」
なんで、と言いかけて、ゆっくりと瞬きをした。
暗がりで胸を見せられたら、ちょっと堪えられないかもしれない。それもこんな外で。
「いや、オレは医者やないし」
「いつも見てるじゃん。吸ったり抓ったりするし……」
「いや、せやから……痛いんやったら、そういうことしたらあかんて」
なのにするすると着物を下ろしていく鎌鼬に、重は慌てて手を伸ばす。合わせをぎゅっと閉め直して、そのまま鎌鼬を引き寄せた。腕の中に抱いて、とんとんと背中を撫でる。鎌鼬がほっと息を吐いた気がした。
「重は、綺麗ですらっとしたのが好き……?」
急に何を言い出すのかと思って、首を傾げる。
「九尾の狐も、昼の女も、ちんちくりんじゃないもんなぁ……」
ぴこぴこと震える鼬の耳が、重の頬を擽った。けれど、少しも笑う気になれず、ただその耳を摘んで撫でて、重は呟いた。
「それは、好きやけど」
例えば、鎌鼬が自分をちんちくりんと評しているのだとしたら、
「お前さんが好きなのとは、別」
ちんちくりんも、かなり、好きだが。
斬りつけたことを怒っているんだと思っていたら、恐らくそうでなかったこと。全ての合点が入って、重は静かに息を呑んだ。
(胸が痛いって……)
腕の中に収まっている鎌鼬をぎゅうっと抱き締めると、その尻尾がふらふらと揺れた。
嬉しそうな尻尾の姿に安堵して、少し欠けている毛先に、なんてことをしたのかと頭を抱えたくなった。
だからせめて——そう思い、河川敷に潜んでる妖怪らに聞こえてももう仕方ない。ここで言わねば何かが廃る。
鎌鼬が聞き逃さないようにと、重は覚悟を決めた。
「お前さんのこと愛してるのとは、別なんだよ」
嗚呼、顔を上げられてもちっとも顔が見られない。その上、鎌鼬が重にどんと飛び付いてきたから尚更だ。
仰向けに倒れた重の視界、端に映る赤みがかった月を隠してのしのしと乗り上がった鎌鼬は、ゆうるりと目を細めた。
あまりの妖艶さだ。ちんちくりんなどと、とんでもない。
このまま祟られるのも悪くはないかと、重は笑った。