浸透圧
脳の神経細胞は、約八六〇億個。信号を出しては巡り、駆け抜け、人体を管理している。指先一つ動かすのだって、逐一信号が干渉している。
おびただしい数の神経が、信号がこれだと言う風に求めるんだから、体の相性が良いっていうのはまるで奇跡のようじゃないか。
大和は緩めたタイをシャツの襟から抜かないまま、そっとボタンを外した。第一、第二、第三まで外して、壁に追いやっている三月を見下ろす。
「何……」
衣装を着たまま、うっすらと汗をかいている三月が、不満そうに声を上げた。その疑問を吐き出した唇をやんわり塞ぐ。ん、と短く声を漏らした三月の唇に口の輪郭の凹凸を合わせて啄むようにした後、角度を変えてもう一度触れ合わせた。
ライブを終えて、ただでさえ高揚していて、その上相性抜群の相手と唇を合わせている。頭の芯が痺れて、数多の神経の中を幸福物質が巡っていくだろう。
カツン、と、三月のヒールが音を立てた。うっすらと目を開けて、そのままもう一度閉じる。誰かに見られたらどうしよう。でも、時たまあることじゃないか? 高揚からメンバー同士でキスしたり、なんて。
大和が瞬くことをやめて目を閉じたままでいると、三月はもう一度踵を鳴らした。カツン、そう鳴ったかと思えば、三月の手が大和の胸を押す。
「やめろよ」
衣装の袖で唇を拭った三月の口元、グロスが少し無様に滲んだ。
「オレだって男なんだから……変な気持ち、なる……」
そう言って顔を逸らした三月を壁に追いやったまま、大和はひとつ溜息を漏らした。開いた胸元に、三月のふわっとした髪が触れる。
「男も女もなくないか……?」
「そうじゃなくて……そうじゃないんだ。大和さんにはわからないよ」
結ばれたままの三月の首元のリボン。よくあることだ、衣装の装飾の一部が違うことは。
大和はタイで、三月は愛嬌あるリボンで、今回はそれだけだったということがどこか切なくて、大和は汗が乾き始めてきた衣装を開く。
いつもの、やっちまおうかな。そう思った。
三月に自分の衣装を着せて、着られてる感を楽しむ。最近気付いた。自分の衣装だから良いのだということには、適当に蓋をしたままでいる。
「着替えよっか。ついでに着てよ」
「い、いつもの……?」
「そう、いつもの。ここ更衣室だし、文句ないだろ」
更衣室で二人きりなのを良いことに壁に追い詰めてキスしてた。本来の目的で部屋を使うなら文句ないだろうと、大和は外し途中のボタンをするすると緩めていく。
本当はもっと唇を触れ合わせていたい。
「文句あるよ。今日、時間ねぇし」
そう、この後の仕事がなければいくらだって——三月は夕方のラジオのゲスト、大和は続編の決まったドラマ関係のインタビュー。本来なら早くシャワーを浴びて着替えて、それぞれの現場に向かわなければならないところだ。
ついでに、ナギだってこの後——バーンと更衣室の扉が開く。
「二人ともまだお着替えですか?」
シャワーを浴びたばかりで髪を湿らせているナギが、マフラータオルを首から下げて現れた。何故か環と陸のメンカラーの物を下げている。二枚はいらないだろうに。
大和はお遊戯の終わりを感じて、肩をすくめた。
「さっさとシャワー浴びてくるか……」
「そうですよ、紡が待ってます」
移動のために車を出してくれるマネージャーのことを思い出し、大和は襟をひらひらとさせながらシャワーブースへ向かう。
「ナギも試写会、だっけ?」
「はい! アニメ映画のリバイバル公開記念でお呼ばれしています!」
そんな遣り取りを背中に聞きつつ、大和はついと唇を尖らせた。
(忙しいって)
残酷だ。
初めの頃は流されていて、何が楽しくて触ってくるのかわからないままでいた。
(それが、なんとなく好きってわかって、嬉しかったから)
嬉しかったから、多分オレも好きなんだと、三月はそう思っていた。
好きってことは、仕返してやるんだとも思っていたのだ。何度か、そういうモーションを、アプローチも掛けたことがある。三月からキスしたり、体に触れたり、乗り上がったりしたことだってある。
——けれど。
キョトンとしてから、受け入れるように三月の手を引いて、触れさせてくれる大和と体を絡めている内に気付いてしまった。
案外自分は、求められる方が好きだった。
女子に対しては、わりと頑張ることが多かったと思う。空回りにも思えたそんな記憶を掻き分けてみた。成功したためしがなかったからかもしれないが、がっつくよりもがっつかれる方が、求められる方が響く。
(……大和さんにはわからないよ)
ラジオブースの中で、そっと唇に触れた。
熱烈に合わせていた唇の上からリップグロスを塗り直して整えたそこを結び、三月は俯く。
放送は終わったから、こんな感傷に浸っていたって大丈夫だろう。
(……渇いてる)
喉が渇いてるみたいな、飢餓感。
触られれば触られた分、もっと欲しくなる。自分から触れたって満たされないものができて、その時、三月は今までの憧憬や恋愛感情のありとあらゆるそれが役に立たないことを知ってしまった。
(でも、男だから)
触って欲しい、欲しがって欲しいなんて、おかしな話。そう思ってしまうのは、自分の中の固定観念のせいか、それとも意地か——意地かもな、とも思う。
ブースのガラスを見ると、揺れた自分の瞳が反射して写っていた。
「浮かない顔だね、三月くん」
パーソナリティに声を掛けられる。
「あ、いや……」
「昼、ライブしてきたんだって言ってたもんなぁ。今日はこれで終わり?」
「はい、そうなんです」
「忙しそうだもんね、アイナナ……ゲスト来てくれて嬉しいよ」
三月はにかりと笑って「またいつでも呼んでくださいよ」と返した。求められれば嬉しい。
嬉しいが、受け身の方が合ってるなんて、自分の中じゃ意外も意外だったんだ。
(……みっともないだろ。もっともっとなんて)
鳩尾を撫でる。そのまま臍のあたりを緩く指先で撫でて、欲しいと思ってしまう自分のことが嫌になる。
やっぱり意地だ、これは。抵抗する間もなく嵐みたいに奪ってくれたら自分の意地で突っぱねることもないのに、大和の愛撫はいつもしつこいくらいに緩慢だ。
(変な気持ちになる……)
欲しいのに、そうして欲しくない。
疲れているだろうけど、と誘われた飲みを快く承諾した。三月は自分の中に蟠るもやもやを振り払いたい一心だったが、結果は、然程変わらなかった。その上、アルコールで緩んだ頭のネジのせいで、「変な気持ち」に拍車が掛かっていた。
夜中に帰宅して、静まり返っていた寮の中で、一人、水を飲む。
すっと染み込んだ水分が僅かに気持ちを冷静にさせるが、まだ昼頃の蟠りが腹にあるのが悔しくて、胃の中のものを全て吐き出したくなった。別に、酔って気分が悪いわけではない。
蟠っていたって、三月から触れても何も解消されないんだ。大和から触れて欲しがってくれなければ——そんな形になってしまった自分の手のひらを見て、三月は溜息を吐いた。
「躾けられた犬みたい……」
調教されたみたい。そう思うと、急に頭が熱くなった。
三月が苛まれているものが、三月の元々持っていたものではない可能性が頭を掠める。植え付けられたものだからこそ、やり場がないのかもしれない。そう思うと、更に疎ましく厄介に思えた。
三月はコップを流しに出して、そのままふらふらと階段へと向かう。足を引き摺りながら廊下を歩み、そうして大和の部屋のドアの前で止まった。ノックしようとした手を止めて、黙ってノブを回す。
(開いてる)
静かな所作のまま中に入ると、ベッドに寝ている大和の横に立った。部屋の中は暗い。
壁の方を向いている大和の、その背中に触れる。
——試してみたい。
オーバーサイズのパーカーを開いて、チノパンに通していたベルトをがちゃがちゃ外す。
その音で、大和が振り返った。
「あれ……帰ってきた……?」
そのままチノパンを床に落として、下着姿で布団を上げる。パーカーの袖を抜ききらず、下に着ていたタンクトップが肩から落ちた。それでも構わないで、大和の胴体に乗り上がった。
ぱし、と瞬きをした大和が、三月を見上げて緩く笑う。
「おかえり……何、夜這い?」
「……ただいま」
なんの動きも返さず、抵抗もしない大和に腹が立って、三月はむっと顔を顰める。
「そうだって言ったら、どうすんの」
「珍しいなぁって思うけど」
肩から落ちてるタンクトップを、持ち上げられて鎖骨の上に戻される。
肩に敏感な神経があるわけでもないのに、それだけで三月はぴくんと震えた。
(渇いてる……)
水を飲んだばかりなのに、喉がまた渇いてる。そんな錯覚。
もっと触って良いよって時に限って触らないから、三月はまた「変な気持ち」になる。その加速が止められない。やっぱり、躾けられてるのかもしれない。そう仕向けられてるのかも。
「好きに触って、寝ればいいよ……」
眠いらしい大和がそんなことを言うので、三月は泣きたくなった。躾けた相手はわかっているだろうに、ひどく意地悪だ。
「今ならいいのに」
「何が?」
「やっぱり、大和さんにはわからないよ……」
仕掛けたって三月は満たされないし、カウンターも返されないんじゃ、手立てがない。
それでも意地ってものはあるから、口で求めて訴えてなんてしたくはなくて、これが今唯一の我儘かもしれなかった。
「オレだって、男だから」
「……だから、好きにすればいいって」
「して欲しいなんて、簡単に言えないよ」
そう言えば、大和は三月のタンクトップの下に手を滑り込ませて、ボクサーパンツを僅かに下ろすと腰骨を撫でた。そのまま自分の方へ引き寄せて、降りてくる三月の体をぎゅっと抱く。
背骨の節を下から順につつつと撫でられて、三月は体の内にぞくぞくと這い上がるものを感じる。それが、喉の蟠りを溶かして、渇きを奪っていった。吐息が漏れる。ずり上げられたパーカーが苦しくなって、袖を抜いてベッドの下に下ろした。
抱き締めている三月の肩に布団を掛けながら、大和は笑った。
「やっぱり、男も女も関係なくて、それってさ、ミツだからじゃないの」
「……え?」
「良いんだよ、嫌な時もあれば欲しい時もあって」
まぁ、お前さん、意地っ張りで真面目だから、一度突っぱねたら言えないかもしれないけど。
そう言われて、三月はぱちぱちと瞬きをした。
「キスから始めて良い?」
「うん……」
「良かった。なんか」
大和が、ごろごろと手のひらで自分の喉を撫でて唸った。
「ずっと飢えてたからさ」
喉の渇き、なんとなくの飢餓。
同じだったと思うと、目の前がふやけた。
三月はゆるっと笑って体をずらす。大和の唇の端に、ちゅっと唇を当てて尖らせた。
(これで、少し……)
大和さんも渇かなくなったかな。
砂場に水を垂らしたように、飢餓感に染み込むと良い。
三月からのキスに、大和は一瞬驚いたような顔をして、それから目を細めた。やり返されたキスがじわじわと染みて、滲んで、触れられる度に体が跳ねる。
(やっぱり、触られる方が)
男も女も関係なく、大和が求めて触れてくるのが好き、らしい。
変な気持ちがいずれ変な気持ちでなくなるようにと思いながら、三月はぎゅっと大和の首を抱き寄せた。