※本文8章分の内、4章までをweb公開しています。
今後、本編再版かweb掲載かあるかもしれませんが、現在は未定です。
【 Chapter 1 】
「あっぶね……!」
跳ね上がった水しぶきは、あっという間に濡れたコンクリートと同化して消えた。
振り返れば、三月が踏んだ水溜まりには繁華街のネオンが映っている。様々なネオンの色が、まるでパレットの上に垂れ流された絵の具のように歪んで同化して、本来の形を失っていた。
白い息が漏れた。冬の繁華街。雨上がりは尚更に冷える。
難しい街だと思う。決して、この街自体を嫌ってのことではない。けれど、住んでいる場所よりは僅かに治安が危ぶまれていて、それでいて独特の匂いがある。その匂いを、三月はうまく言葉にすることができなかった。
(ここって、そういうとこだよな)
歩いていると無意識の内にセンサーが敏感になるような、そういう場所だ。
今日は、仲間の狗丸トウマが安価でスタジオを借りられたと言っていた。三月は初めて行くスタジオだが、この繁華街を抜けると近道になると、そうナビされている。手元のスマートフォンを見ると――道を間違ってるかもしれない。
「あっれぇ……」
おかしいなと頭を掻いた。途中までは合っていたはずだ。
雨上がりの湿度は、更にこの街の匂いを強くさせる。思わず、鼻と口を手の平で覆った。
(あ……)
そんな三月の目の前を、ふらふらと横断する男がいる。三月は早めていた足を止めて、それから道を譲った。こんな場所で揉め事を起こしたくはない。その一心だった。
それが、どうしたことか。男が通った後には、チケットらしき紙きれが落ちていた。
三月はそれをゆっくりと拾い上げる。少し濡れてしまっている。どうやら、どこかのクラブのチケットらしかった。
「あ、あの!」
三月の目の前を横切った男の背中に声を掛けてみるが、男は三月の方を振り返りもしない。
「あのぉ! 落としましたよ、これ!」
三月はボディバッグを背負い直して、男の後を追う。古着屋の隣、ビルに入る階段を下りていく男を見下ろしながら、三月はちっと舌を打った。
「無いと困るんじゃねぇのかよ……」
高さのある階段を軽快に下りていくと、少し開けたフロアに出た。
男はどこだろうかとキョロキョロしていると、手に持っていたチケットを突然引っこ抜かれる。
「あい、入って入って〜」
「え、オ、オレ? 違います、そのっ」
そのチケットは別人の物ですと言い切る前に、ガラス扉の向こうに押し込まれた。チケットの半券をシャツのポケットに無理矢理入れられる。
中に入ると、三月の鼻先を煙草の匂いが刺激した。
「うーわ……」
思わず、口の形を歪めた。
色々な煙草の香りが混ざった臭いと、おそらくは香水の匂い。ついでに、テーブルを横切れば酸味のあるビールの匂いまでしてくる。スピーカーから爆音で流れている洋楽のリズムも、この時ばかりは毒の一部としか思えなかった。
三月はなんとか逃れて落ち着こうと、壁際に寄る。
うえ、と不満を溢しながら壁に寄り掛かっていた時だった。人の合間を縫って、此方に近付いてくる者がいる。者、ではない。者たちだ。彼らは、いつの間にか三月の目の前を囲んでいた。右から順に数えると三人。
「あ、あの、なんですか?」
「兄ちゃん、今入ってきたチケットなぁ、半券見してみ」
絶対やばい奴らだ。そういう直感が過ぎる。三月は抵抗を早々に諦め、胸ポケットの半券を素直に且つ従順に見せることにした。
男の一人が眉間に皺を寄せ、わざとらしく三月をジロジロと眺める。そうして、にたりと笑みを浮かべた。
「兄貴、こいつですわ」
男たちの後ろから、羽織に袖を通した眼鏡の男が現れる。見るからに堅気でない姿に、三月はその場で頭を抱えたい気持ちになった。
なんて運が悪いんだか――相手はやくざじゃねぇか。
「ふーん、百さんって、こういうのが好みなんだ?」
「おいガキ、オメェ、百って奴の運び屋やってんだろ? 知ってること全部吐きな」
「も、百……?」
聞き馴染みのない名前、それに心当たりのない疑いを掛けられ、三月は思わず首を傾げる。しかし、そんな態度を見せれば、ドンと壁を殴り付けられた。
「おい、兄貴は暇じゃねぇんだ。はようせぇや!」
クラブの中に、男たちのドス声が響く。周囲の客はチラチラと振り返りはするものの、関わりたくないのだろう、目を逸らしていくばかりだ。
「あ、あの、オレ、このチケット拾っただけで、何も……何も知りません……」
「オメェの番号のチケットがクセェって調べは付いてんだよ。なぁ」
「兄貴、どうします」
「……一先ず、連れてくか」
「へい」
連れていくって、どこへ? どうしよう、どうなるんだろう、オレ……三月は、体の底から湧き上がる震えを感じた。心で意識するより先に、体が危険を察知して怯えていた。それに気付く。
その時、三月のジーンズのポケットに入れていたスマホがバイブした。スタジオでの練習の予定をようやく思い出し、三月は「それどころじゃない」と口の中で呟く。
それどころじゃない。この場所から無事に出れるかもわからないのに。
「おら、行くぞガキ」
「ちょっ、待って……オレ、本当に何も……っ!」
せめて何も知らないことを訴えようと声を上げると、そんな三月の声を掻き消すように、クラブのステージからはSEが流れ始めた。どうやら、これからライブが始まるらしい。その喧しい音に、男たちが顔を顰める。
「おい、そのガキ黙らせな」
眼鏡の男が呟くと、男達の纏う空気が変わった。三月は、あまりの恐怖に自分の喉が引き攣ったのを感じる。呼吸さえもままならない。
ステージにブラスバンドが現れた。いよいよ、この騒ぎは演奏で消されるのだと覚悟した時だった。
入口のガラス扉の向こうで暴れている男が目に入った。
「あ、あの人……」
確か、三月の目の前でチケットを落とした男だ。
三月は、塞がりそうな喉を懸命に開いて、なんとか声を上げた。
「あの人……! あの男の人がこれ、持ってて……! オレは拾っただけなんです! しっ、信じてください……!」
ああん?と暴れている男を見やった一部の男たちに、眼鏡の男は「おい」と声を掛ける。
彼のすぐ傍に立っていた男がひとつ頷き、手元のスマホを操作した。その男が「似てるな」と呟く。それまで三月を囲んでいた男たちが、ガラス扉へとゆっくりと歩み寄って行く。
咄嗟に、「逃げなければ」と思った。けれど、三月の腕を眼鏡の男の側近が捻り上げた。
「いった……っ!」
三月は自分の背後を振り返り、ぎりりと奥歯を噛み締める。甘かった。
その間も、男達は出入り口に向かって進んでいく。暴れていた男はその様子に気付いたのか、突然背中を向けて逃げ出した。
「追いな」
「はい! オメェら、逃すな!」
バタバタと走って出て行く男たちのBGMに、バンドの演奏が絡んだ。そのあまりに非現実的な景色に、三月は腕を捻られながらも、ぽかんと眺めることしかできなかった。背中は、冷や汗でびしょ濡れだ。
「なぁ、お前」
三月を捻りながらも、もう片方の腕ではスマホで連絡を取っている厳つい男の横から、眼鏡の羽織姿の男が裾を払って三月に歩み寄った。
「悪いことをしたな」
そこまで聞いて、側近の男は三月から手を離す。解放された腕を撫でて、三月は「え……」と言葉を漏らした。腕は少し痺れている。
「どうやら、お前の言っていたことが本当のようだ。詫びをしたいんだけど……いくらがいい?」
スマホを操作していた男が懐から書類を取り出して、眼鏡の男の指示を待っている。
困惑しながらも、次に何が出てくるのか辛うじて予測した三月は、ぶんぶんぶんと首を横に振った。
「い、いりません……!」
「そうは言ってもな。なら、飯でも食わせてやるか……おい」
「はい、兄貴。手配します」
ま、待って待って! ……なんて気軽には言葉にできず、気付けば三月は黒塗りの車に乗せられていた。
スマホには、環からの着信履歴が何件かあった。後部座席に招かれた三月のすぐ隣には、眼鏡の男がゆるい笑みを浮かべて座っている。
「何? 連絡?」
「あ、あの……友達と会う予定だったんで……」
「予定があったんだ?」
「す、すみません……連絡だけでもさせてもらっていいですか……?」
本当は、今すぐ降ろして欲しいと言いたいところだったが、乗せられた車は今、高架橋の上を走り抜けている。ここで橋の下に投げ落とされようものなら……三月はごくんと唾を飲んだ。
「好きにしな」と言われた通り、三月はスマホのラビチャを開く。そのまま、今日の練習行けなくて悪かったという旨を伝えた。理由は、「喧嘩に巻き込まれた」くらいが丁度良いだろう。
未だカタカタと震える手でスマホを握っていると、眼鏡の男が三月の端末に手を伸ばす。するりと奪われ、三月は言葉を失った。
「事情、伝えようか?」
「だ、大丈夫です!」
ふーん、と言いながら三月のスマホを一通り改めている。男はまだ、百なる男と三月の繋がりを疑っているんだろう。
(知らない……知らないよ、そんな人……!)
確か、運び屋とか言っていた。三月には、当然ながらまったくの心当たりがない。スマホの情報を見られるくらい安い物だ。
天秤に掛かっている自分の命とスマホの個人情報、どちらが大事かと言えば、今は間違いなく前者の方なのだから。
「兄貴、そろそろです」
「……だそうだ」
そう言って、眼鏡の男は三月にスマホを返してくれた。
恐る恐るそれを受け取りながら、三月はほっと息を漏らす。
「あの、オレ……」
「さっき言っただろ? 飯食わせてやるよ。そうしたら家に帰してあげる。安心しな、和泉三月クン」
「は、はい……」
良かったぁ……と呟いてから、ばっと振り返った。
何故、名前を……そう言う前に、眼鏡の男はにっこりと笑って、自分のスマホをひけらかした。
「大丈夫、連絡先を控えさせてもらっただけだよ」
「あ、あの……」
「念のためだよ。職業柄、つい……な? 情報は残しておくことにしてるんだ。いつ価値が上がるかわからないからさ」
肩を抱かれ、ぽんぽんと叩かれる。着物の装いのせいか、見た目からはわからなかったが、大分がっしりとしている男の腕に抱かれて、三月はぎくりと体を強張らせた。
そのままホテルの一室に通され、テーブルの上に出される洋食に目をしぱしぱさせていると、目の前に座っている眼鏡の男に「食べないの?」と言われる。
「ガキはハンバーグとかが好きかと思ってた」
「ガキ……って、一応成人してます……どっちかって言ったら和食の方が……肉じゃがとか」
「ははっ、俺も。和食好きだよ」
丁寧な所作で食事をする男。随分、育ちが良さそうに見える。やくざというのは荒っぽいものだと思っていた。
三月は、改めて並んでいる食事に視線を落とした。
「心配しなくても毒は入ってないって。素直に詫びたいだけ」
そう言った男が、三月の様子を窺っている。
ここまで来たら、毒も何も関係ない。毒を食らわば皿までだ……三月はフォークとナイフを持って、ようやくステーキに手を付けた。味は、正直まったくわからなかった。
「三月くんは、スタジオ使えなかったんだろ?」
「……ど、どうして知ってるんですか……」
「さっきのチャット、見せてもらった。友達の環クンにも悪いことしたな」
連絡先を抜かれるくらいだから、直近の他人との遣り取りだって確認されていてもおかしくはない。巻き込んでしまった環には申し訳ないことをした。
食事を終えた男が、三月の傍らに立つ。
「それで、レンタルの代金……このくらいあれば足りるもんか?」
そう言って手渡された万札の枚数を数え、三月は「こ」と声をあげる。
「こんなにはいりませんよ!」
軽く渡された十万円に、三月はその束を男の胸元に突き返した。触れた布地はさらっとしていて、きっと良い物を着ているのだと思う。
「す、すみません……でも、こんな……」
やくざに借りを作るものではない。
三月の頭に、そんな言葉が過ぎる。
相手の男はくすくすと笑って、三月に突き返された金をすんなりと受け取った。
「多過ぎた? 悪いな。見当がつかなかった」
「お、多過ぎ、ます……」
「じゃあ、仲間と相談して請求書ちょうだい。その分を埋め合わせてやりたい」
どこまで信じて良いものか。三月が驚いていると、男はするっと三月の肩を撫でた。
「最後に三月くんに確認したいことあるんだけど、良い?」
「は、はい……」
それで解放してくれるならと三月が頷くと、男はそっと三月の腕を引いた。
大人しく引かれていけば、ぼすんとソファの上に投げやられる。男の手首に掛かっていた数珠が、しゃらと音を立てた。
「え……」
三月が呆気に取られていると、男はソファに膝を突いて、三月のシャツの襟元、ボタンを外す。上から一つ一つ外されている内、ようやく事の次第に気付いた三月は、慌てて体を捩った。
「ちょっ、えっ? あ、あの……!」
「身体検査ってやつ。黙って」
身体検査……って――ガチャガチャとベルトを緩められ、ジーパンも下ろされた。ポケットの中身を確認されて、シャツも脱がされ、下に着ていたTシャツも「バンザイして」の一言で、あっと言う間に剥がされる。
「い、ん……っ」
人に衣類を脱がされる擽ったさに、三月は唇の端から吐息を漏らす。
「……使った気配はなし、か」
「え……? な、なに……」
腕を表に裏に返されて、じろじろと見つめられる。気がつけば下着一枚に剥かれていた三月は、ぼんやりと男を見上げていた。
「ん? 綺麗な体だなって言ったんだよ」
うそつき、違う。そんなわけない。
三月が薬を使った痕跡がないか調べているんだ。自分にどんな疑いが掛かっているか、即座に理解した。愕然とした。
けれど、男は構うことなく三月のうなじに顔を寄せて、すんと鼻を鳴らす。そのまま静かに、三月の顎の下に唇を当てた。
「……え?」
ぴくん、と体が震える。どうして、そんなことを。
「……香水、付けてる?」
「は、はい……」
「道理で、良い匂いがすると思った」
くすくすと笑った男に、三月は息を飲む。それまで緊張していてまるで気付かなかった。部屋には、立派なシャンデリアがぶら下がっていた。
(なんだ、これ……)
まるで、夢を見ているみたいだ。とんでもなく性質の悪い夢を。
腰骨の辺りまで晒されて眺められて、最早どこまで羞恥を感じたものかわからなくなる。
三月からは逆光している男の表情が、ゆるりと穏やかなものに変わった。それでようやく追い付いてきた羞恥を感じて、三月は内腿を擦り合わせる。乗り上がっている男の袴に触れた膝先が、更にもどかしさを感じさせた。
「……いいね」
「は……っ?」
「感度いいなぁ、お前さん」
顔を上げた男が、ぺろっと自分の唇を撫でた。
髪を掻き上げたその姿が、やけに色っぽかった。
――請求書渡せって言われたって、どうやって渡せばいいんだよ。
そんなことを思いながら、エナジードリンクの缶に口を付ける。
三月は、錘のように重い足を引き摺りながら、筆記用具だけが入ったトートバッグを肩から提げて大学への道を歩いていた。
結局、昨日は謎の男にホテルで飯を食わされ、好き勝手に脱がされ触られ、最後の最後には、「確認終わったから服着な」と頬を抓られた。
それだけ三月が蕩けた顔をしていたんだろうと思うが、それにしても――三月は缶の残りを飲み上げる。
「うえ……」
消化不良気味の胃に、エナジードリンクの甘ったるい味は堪えた。けれど、今日は特別眠れなかったので、服用は致し方ない。
急に堅気じゃない人間に取り囲まれて詰め寄られて、恐怖を感じなかったわけはないし、無事に無傷で帰れて良かったとも思う。
男は当初言っていた通り、本当に三月を自宅アパートまで送り届けてくれた。スマホも、何やら中を見られていたようだが、手元には戻してもらっている。
「……無事、かな」
どうだろ……唇を当てられた顎の下を撫でて、三月は溜息を吐いた。
(色っぽかったなぁ……)
全身脱がされた自分は情けなかったのに、一ミリだって脱いじゃいないあの人は、随分な色気だった。
三月だって成人しているのに、未だに中学生に間違われる。自分が童顔なのはわかっているが、それにしても男としての劣等感と、不覚にもドキドキとしてしまったことが悔やまれる。
三月がぐるぐると唸っていると、肩からずるりとトートバッグの紐が落ちた。
スタジオのレンタル代を弁償するとは言っていたが、三月は男がどこの何者なのかも知らない。名前だってわからないのに、どうやって請求しろって言うんだか……いや、もう会いたくもないけど……と、そう思っていた矢先だった。
チノパンの尻ポケットに入れていたスマホがバイブする。
「……電話?」
ラビチャの通話じゃなくて……? と思いながらその通知を見る。番号しか表示されない。登録外の番号だ。
けれど、三月はなんとなく嫌な予感がして、暫しの沈黙の後に通話に応じた。
「も、もしもし……」
「ああ、三月クン?」
軽々しい声色に、三月は思わず喉が引き攣るのを感じる。これは……昨晩聞いたばかりの声だ。
「俺、大和です」
「や、ヤマト、さん……?」
「ああ、名刺渡してなかったっけ? 二階堂大和。昨日の、ほら。うちのが失礼したじゃないですか?」
声を聞いた瞬間に、相手が誰かはわかっている。三月は、歩道の隅でつい足を止めて固まってしまった。
「……覚えてる?」
「お、覚えてます……」
「良かった。なんだったっけ、スタジオ代だっけ? 請求、この番号に連絡して。待ってるから」
それじゃ、と軽く切られた通話。スマホを耳から離すと、脱力してしまった三月の腕がスマホを握ったまま、だらんと垂れ下がった。
「待ってる、って……」
背中が、冷や汗で急に冷たくなった。
【 Chapter 2 】
どうしよう、どうしよう。考えてみれば、アパートの場所もバレてしまっている。三月がふわふわしている間に送り届けられていたことを考えると、既に三月の個人情報は相手に悉く調べられていたのかもしれない。となれば、連絡を取っていた環だって、果てはトウマも悠も、もしかしたら危険な目に遭う可能性があるのかもしれない。
ぐるぐると巡る不安から、講義室で頭を抱えていた。そんな三月の肩を、環がぽんと叩いた。
「うわ……!」
あからさまに驚いた三月に、環が目を丸くする。
「みっきー、どしたん……寝てない? 目の下まっくろ……昨日の喧嘩? だっけ。そんなに大変だった……?」
「あー、いや……その」
三月は、自分の目の下を指で擦って、そのまま軽く首を振った。
「悪かったな。急にすっぽかしちまって……」
「ううん。みっきーが迷子以外で来ないの初めてだったから驚いたけど、あの辺、喧嘩とか絡まれたりとか多いもんな。ケガしてない……?」
「ああ、ケガはない……助けてくれた人っつーか、なんていうか……」
いや、巻き込んできた張本人だけど……そう思いながらも、立て替えの話をどう切り出したものかと思案する。環から視線を逸らした三月は、うんとひとつ頷いた。
「そう、その人に、巻き込んじまったからスタジオ代立て替えたいって言われてるんだけどさ……環、領収書持ってたりするか?」
「いや、それならまるっちが持ってた気がする。俺、講義被ってっからさ、後で説明しとくよ。みっきー、なんか顔色悪いから、そのまま寝てな」
「おう、ありがとな……」
ごそごそと鞄の中を漁っていた環が「なんか薬いる? 頭痛のとか、吐き止めとか」と言っていたが、三月はゆっくりと頭を振りながら、そのまままた机に顔を伏せたのだった。
これは、薬でどうにかなる頭の重さではない。
(結局、環に言えなかった……)
もしも、オレのせいで面倒事に巻き込まれたらごめんと、そう言い出すことができなかった。
三月は、ぐわんぐわんと揺れる頭を抱えながら、自分のスマートフォンを見る。通話履歴の、登録されていない番号の表示を睨みつつ、溜息を吐いた。
――本人に「環や、他の友達には手を出さないで欲しい」と伝えるのも手なのかもしれない。話が通じないタイプではなさそうだった。
「いや、何言ってんだ……」
三月は休息を貪っていた講義室から出て、キャンパスの外へ向かう。
(相手は堅気じゃないんだから、そんな軽く考えちゃ駄目だ……スタジオの金だって、きっと受け取らない方が良いに決まって……)
決まっているんだが。
キャンパスを出て、呆然とする。昨日三月を乗せて連れ去った車が、大学の入り口に駐車されていた。それを見るなり、ざっと血の気が下がる音が聞こえた気がした。
「……な、なんで」
すーっと開いた窓から覗いた眼鏡に羽織姿の男が、笑顔でひらひらと手を振る。
今ならまだ他人のふりをして逃げられる。逃げられると思うが、周囲にいた疎らな学生たちは皆、三月の方をしっかりと振り返っていた。
「……ち、違います……」
何も全然、違うくない……
三月は結局、愛想良く手を振られるまま、またも男の隣に座る破目になったのだった。
大和は、今日も運転手を付けていた。昨晩も大和に付き添っていた男だ。
「ど、どうして……」
後部座席に座った三月は、恐る恐る大和に尋ねた。
「今日は、隣の駅のファミレスで打ち合わせがあるんだって? タマから聞いたよ」
「タマ……って、環に何かしたんですか!」
「違う違う、三月くんのお父さんの従兄弟の嫁さんの弟の息子で、三月くんに会いたいんだけどって聞いたら「今は講義室で倒れてっけど、一応これから打ち合わせっすね」って教えてくれたよ。良い子だねー」
「従兄弟の嫁の……な、なんですって?」
出鱈目な親戚関係を途中から辿れなくなり、三月は「え、え?」と聞き返す。けれど、大和は窓の外に視線をやったまま、ただ笑っていた。
「……りょ、領収書、まだ受け取ってなくて……」
「それも回収しようと思って。折角だから送ってやるよ」
そう言われて、三月は「はぁ」と返事をした。
「あの、用があるなら、オレだけにしてもらえませんか……あいつらには」
いざ口にすると、緊張が走る。目を合わせてくれない大和の横顔をちらりと見ながら、三月はぐっと唾を飲み込んだ。
「友達には、関わらないでください……オレ、本当に百さんって人のこと知らないですし、友達だって無関係ですし……」
「そうだな」
大和の返事に、三月は薄らと息を吐いた。
「ミツのお友達にも、ミツの家族にも、こちらが何かをする予定はないよ。安心しろって」
「ほ、本当ですか……?」
今度こそ本当に安堵の息を吐こうとした時、大和がゆっくりと振り返る。
「疑いも晴れてる。昨日の、逃げた奴がいたろ? 散々吐かせたけど、お前さんのことは知らないみたいだったしな」
午後の日差しが車内に差し込んで、シートの上に黒と白のコントラストを作る。影の中から差し伸ばされた大和の手が、三月の手を掴んで引いた。
「じゃ、じゃあ……なん、で」
そのまま肩を抱き寄せられ、大和の袴の布地に三月の腿が乗る。すみませんと短く謝ったが、大和はお構いなしのようだ。そのまま、三月を膝に乗せて抱え込んだ。
「りょ、領収書! 渡します、すぐ……着いたら狗丸が、仲間が持ってるんで……っ」
だらしなく羽織っていた三月のパーカーの襟ぐりに、大和の鼻先が触れる。鎖骨に大和の唇の凹凸が当たっているのを感じて、三月ははっと目を見開いた。
「や……ッ」
「いいよ、ゆっくりでも」
大和が喋ると、その吐息が三月の肌を掠める。くすぐったくて身を捩った。大和の袴から、ずるりと三月の体が滑る。
三月が縮こまっているのを良いことに、大和の腕ががっしりと三月の体を押さえている。耳を食まれた感触を感じて、かっと頬が熱くなった。
「な、なにす……」
抵抗しようと顔を背けた時だった。三月の耳の縁に、刺したような痛みが走る。
「いっ……!」
嫌だ嫌だと体を捩っているのに、それでも大和は三月を離さない。顎の下に手をやって、無理矢理顔を固定された。痛みの走った耳の縁を、濡れた舌が撫でる。
「あーあ、切れちゃったな……」
切れちゃったんじゃない、あんたが――ぞくっとする。刺されたように痛んだそこに肉厚の舌を当てられて、びりびりと痛みが響いた。じゅっと血を吸われて、頭の奥が痺れたような気がした。
「や、だ……にかいど……さ」
やめてと顔を背けたいのに、抑えられていて敵わない。その上、大和のもう一方の手は、三月のパーカーのそのまた下のタンクトップから潜り込んで、腹筋を撫でていた。
「……うん?」
「やめて、くださ……いや、だ……」
呼吸を乱しながらも、なんとか吐き出そうとする。切れてしまった耳元がどくどくと音を立てていた。まるで、心臓がそこにもあるみたいだ。
三月の腹筋を撫ぜていた大和の手が、そのまま臍に触れて、正中線を辿り、上ってきた。胸の中心まで来たかと思えば、爪の先で肌を擽られる。
「ン……っ」
三月が薄く息を漏らすと、その出所、口先に、大和のもう一方の手が触れた。
「ミツくん、本当に敏感だな。お兄さん、心配になっちゃいますよ」
耳はじくじくと痛んでいるし、爪を立てられている胸元はそわそわと泡立つ。最悪だ。最悪なのに、三月は大和に誘われるまま、彼の方へと顔を向けていた。
「口も、さぞ敏感なんだろうな」
ぼんやりと開いていた唇を閉じようとして、けれど力が入らなくて、三月はきゅっと目を閉じた。うなじを擽られて、怖いのに、なのに気持ちが良くて、大和の眼鏡のフレームが三月の鼻先に当たりそうになった時だった。
車が止まって、その反動で三月がバランスを崩す。
「……う、わっ!」
運転手の男が、ミラー越しに大和を見る。
「兄貴、お楽しみのところすみませんが」
「……着いたみたいだな」
バランスを崩して大和の膝の上で寝そべっている三月を見下ろし、大和が目を細めた。眼鏡が少し下がっている。
三月が呼吸を整え、体を起こそうとすると、こめかみにキスされた。慌てて振り返れば、大和がぺろっと舌を出していた。
「領収書、いつでも良いよ」
「い、いや、渡します! 今! ちょっと待ってて……」
「命令するなんて威勢が良いなぁ、ミツは」
「そ、そういうつもりじゃ……!」
血が上って充血している顔を覆いながら三月が車のドアを開けようとしていると、運転手の男が外から開いてくれた。
三月はぺこりと頭を下げてシートから立ち上がると、もう一度運転手に頭を下げた。
車の中では、大和がひらりと手を振っている。
「なっ、二階堂さん!」
「兄貴は、これから会議なんでな」
「え……」
そう言って、運転手はさっさと車を出してしまった。
少し待っていろと言っただけなのに、それをいともすんなり棄却された三月は、降りた歩道の上で地団駄を踏んだ。
ふと大和に噛まれた耳を撫でたが、血は既に固まって止まっていた。
(なん、で……オレがこんな目に……)
予想に反して血が付かなかった指先を見つめる。悔しさと拭いきれない恐怖感に立ち尽くしていると、ファミレスの方からトウマが走ってきた。
「三月さん! 良かった! 迷子になってるかと思った!」
「あ、わ、悪い……」
八重歯を覗かせて笑ったトウマが、三月の顔を見るなり、不思議そうに首を傾げる。
「……なんか、熱でもあります? 顔真っ赤っすよ……」
「え……?」
トウマに言われて、自分の頬に手の甲を当てた。じんわりとした熱さに、三月は顔を顰めた。手で扇いで熱を飛ばす。
「ううん、悪い……なんでも」
おもちゃにされて、誰が頬を染めようものか。「遅れてごめんな」と笑いながら、三月はトウマに歩み寄る。すんと鼻を鳴らしたトウマが「あ」と呟いた。
「三月さん、香水変えたんですか? すげぇ良い匂いする!」
三月は、思わず口の中の肉を噛んだ。自分は香水を変えてなどいないし、もしも匂いが変わっているとしたら――変わっているとしたらだ。それは、あの薄ら笑いを浮かべた男のせいで、三月はそれが無性に気に食わなかった。
トウマの言葉にまともな返事を返せないまま、三月は「あはは」と笑って誤魔化すことしかできなかった。
【 Chapter 3 】
泣きっ面に蜂とは、正にこのことであった。
三月はベッドに仰向けになり、冷却シートを貼った額を撫でる。このくらいではちっとも楽にはならない。しかし、無いよりはマシだろう。
ベッドの隅で充電器に差したまま放ってあったスマートフォンを持ち上げ、ラビチャを開いた。
「みっきー、ノート取っといてもらった」という環のメッセージに、ありがとうのスタンプを返す。それ以外の連絡は特に無し。ニュースサイトの見出しに適当に目を通し、そのままベッドの上にスマホを戻す。
体を起こして、枕元に置いていたスポーツドリンクのペットボトルに口を付けた。
「……飯、食わないと」
三月が発熱してから三日目の昼だった。ファミレスで打ち合わせをして翌朝、急な高熱に見舞われた。ようやく体を起こせたところである。これまで、殆ど食事も摂れていない。
おかゆくらいは作った方が良いかもしれないと、ベッドから降りようとした時だった。
アパートの部屋のインターホンが鳴った。
「誰だろ」
友人の誰かだろうか? しかし、それにしては連絡が来ていないし、病人にサプライズを仕掛ける奴もいないだろう。何かの勧誘?
三月は、もう一度スマホを確認しようと充電器を抜いた。ぱっと明るくなった画面に、電話の着信を告げる画面が浮かび上がる。
「うえっ」
そこには、未登録の番号からの着信を知らせるメッセージ。そして、未登録ではあるが見覚えのある番号が映っていた。
(こ、こんな時に……!)
ピンポンと、もう一度インターホンが鳴る。
もしかしなくても、相手は……三月は逃避の為に、もう一度ベッドに横になった。丁寧に毛布を掛けて、着信を知らせているスマホを床を滑らせ、遠くにやる。耳を塞いで、もそもそと毛布に潜り込んだ。
(このまま居留守決め込んで、逃げるぞ、今日こそは……!)
トウマから受け取っている領収書を渡して、さっさとおさらばしたい気持ちはあるが、それは弱っている今ではない。
収まった着信音に、三月は僅かに顔を上げる。インターホンがもう一度鳴った。
「……おかしーな」
(ほら、やっぱり)
三月は毛布の中で口を尖らせる。思っていた相手の声と来訪に、今度はそっと耳を欹てた。様子を窺ってみる。
ドアの向こうから聞こえた男の声は、心なしか先程より大きくなった。
「あー……タマぁ?」
「たま……」
環や友人たちとは接触しないで欲しいと頼んだばかりなのに? 思わず、がばりと体を起こす。
「確か、家で寝てるって言ってたよなぁ~、ミツの奴、いないみたいなんだけ……」
「……おいっ!」
ばっとドアを開けると、目の前に立っていた大和はスマホを耳に当てながら舌を出した。
「……どお? お兄さんの演技力」
大和の手の中にあるスマホの画面は真っ暗なまま。スピーカーからは誰の声も漏れていない。イヤホンマイクをしているでもなさそうだった。
今日は着物ではなく黒い開襟シャツとスラックスというラフな格好をしている大和が、眼鏡の向こうでにやぁと笑う。
「ミーツ、部屋入れてくれるよな?」
治まってきたはずの目眩と頭痛が、再び三月の視界を襲った気がした。
看病をしにきたと言うその男は、三月の部屋のコンロの前に立って、何やら雑炊を作っていた。
「タマに聞いたら、熱出して家で寝てるって言うからさぁ。心配で心配で」
「何もしないって言ったじゃないですか……」
「何もしてないって。ちょっとラビチャしただけ」
「やくざとラビチャ交換させんなっつってんだよ……!」
募った苛立ちのあまりに口から出た些か乱暴な言葉に驚き、三月は慌てて口を塞いだ。振り返った大和が、三月を見ている。
「あ、す……すみませ……」
一歩間違えば殺される。三月はその場で土下座しかけたが、大和は肩を竦めて笑うだけだった。
「ごめん」
(ごめん、って言った……)
――ごめんとか言えるんだ。
三月は、部屋の真ん中に無造作に置いてあるテーブルに頭を乗せて、大和の後ろ姿を見つめる。着物姿しか見たことがなかったから、所謂普通の格好だと別人のようだった。
(アクセ、ごつ……)
手首にはいつもの数珠と、それから金の指輪、そういえば首にも何かぶら下がってたかもしれない。突然の来訪者に面食らって、まともに見ちゃいなかった。
(かっこいい……)
クセがあるけど、顔も良いしスタイルも良い。ぐつぐつと煮えている三月の頭の中に、そんな言葉が過ぎる。ぐつぐつと煮えてるせいということにできる、今だけなら。
「なんで……来たんですか……」
「何が?」
「やまとさ……二階堂さん」
カチンとガスコンロの火を止めた大和が振り返る。
「大和にしとけば?」
そう言われて、三月はむっと口を尖らせた。
「……答えないんですか」
「まぁ、なんと言いますか」
大和は雑炊を炊いていた小鍋を三月の前に置く。仕方ないので、テーブルから頭を起こした。
「ミツが熱出したの、俺のせいかもしれなくてさ」
「……は?」
三月が座っている横に座って、大和がずいと顔を近付けた。
「な、ちょっと……感染る……」
「そうそう、感染ったかもしれないんだよな。俺、あの日、かったるかったんだけど、無理矢理ミツに会いに行っちゃって」
三月は、大和の目の前でゆっくりと瞬きをした。
「……何……?」
「そのまま絡まってたから、風邪が感染ったかもしれなくてさ」
頭が重い。瞼も重い。頬も熱くて、なんだか重い。顔も体も何もかもを重く感じていたから、反応が遅れた。三月は、じんわりと熱くなる頬をスウェットの袖で擦る。
「ミツには借り作ってばっかりだな」
そんな風に呟いた大和が、ぽってりと赤くなった三月の頬に口を当てた。
「あっつい。ごめん。つらい?」
そう言って触れた大和の目の前で、三月はぐにゃっと崩れ落ちた。
「おーい、三月サーン」
テーブルに頬杖を突いた大和が、自分が作ったばかりの雑炊をレンゲで掬って口に運ぶと「我ながら美味い」と笑っていた。
三月は部屋に仰向けに倒れたまま、大和の首元にプラチナのチェーンのネックレスがぶら下がっているのを見る。顔をまともに見られない時は、人の顎辺りを見てしまうものだ。首も逞しくて、狡い。
「何、食わない?」
「……食います……」
ゆっくりと体を起こしてそれから、やはり顔を見れないので、首に下がっているチェーンを見る。
「どうした? これ欲しい?」
自分の首に下がっているネックレスを指で遊んで、大和が言った。頬杖を突いて気怠そうにしているその人に、三月は首を横に振って見せる。
「それなら、早く食っちゃいな」
三月は、これ以上の問答に嫌気が差して、黙って大和の雑炊を食べ始めたのだった。
片付けまでそつ無く行った大和は、冷蔵庫にスポーツ飲料を入れると「帰るわ」と三月に声を掛けた。
「ん、はい……」
テーブルの上で半ば寝ていた三月が、ぼんやり答える。お腹が満たされて、丁度良い眠気に襲われていた最中だった。
「ゆっくり寝な」
くしゃりと三月の頭を撫でた大和は、自分の首からネックレスを外してテーブルに置く。突然なんだろうと思って見ていると、あろうことか、大和はそのまま三月の部屋の玄関へと向かった。
「ちょ、やまとさん……?」
「それ、やるよ」
ばいばいと手を振って玄関を出て行く大和。一度閉まってしまったドアを見て、三月は思わず立ち上がった。
「大和さん!」
ネックレスを無造作に持ち上げて、そのまま閉められたドアを見つめる。
「……領収書、渡すの忘れてた……」
そう溢した時、扉がもう一度開いた。その向こうで、大和がにやっと笑って「鍵掛けろよ」と言った。
再びひょいと閉められたドアに向かって、三月は怒鳴る。
「わ、わかってるよ!」
じゃないと、あんたみたいな奴が入ってくるからな。そんな言葉を、懸命に飲み込んだ。
(今日は)
三月は、そっとスウェットの下に手を差し入れる。恐る恐る自分の手で、指先で腹に触れた。
(今日、触られなかった……)
どきどきと、少しだけ速まる胸の内の音を指に感じて、そのままきゅっと目を閉じた。
「どうすんだよ、これ……」
手の中にあるネックレスは、ずしりと重い。
【 Chapter 4 】
プラチナの塊をどうやって返したものか。三月は頭を抱えている。アパートに置いておくにしても、万が一盗まれたらと思うと気が気で無く、ハンカチに包んでチノパンのポケットに入れていた。右ポケットが重い。
「こういう時に限って会わないんだよな……」
どうでも良い時は大学の前にいるのに、返したい物がある時、領収書を持っている時、そういう時はどうして――三月がそんなことを考えながらとぼとぼと歩いていると、三月の脇を、ゆっくりと走り去っていく黒塗りの車が……そう、黒塗りの車がいた。
車窓がゆっくりと開いて、後部座席に乗っている男がふらりと手を振る。
「よう、ミツ」
「や、大和さん……!」
会いたいと思ってたら会えた。その安堵から、三月はふにゃっと口元を緩めてしまった。その顔を見て、大和が驚いたような顔をする。
キュッと止まったタイヤを見下ろして、三月は「あ」と声を上げた。
「ち、違うから……丁度、あんたに会いたいとこだっただけ」
「……会いたかったんだ?」
「そ、そうじゃなくって……! ほら、この間置いてったやつと、領収書……!」
ごそごそとトートバッグから財布を出す三月を見ながら、大和が運転手に声を掛けた。
「ドライブする時間あるか?」
「今日は集会の予定です。例の件が出るでしょうから、頭領だけにすると些か不味いかと」
「あー、そうか……仕方ねぇな。ミツ、ごめんな。お兄さん、お仕事だから行くわ」
「い、いいよ! ドライブなんか行かないし! ……行かないですし。これ渡したいだけですから」
三月はようやく領収書を出すと、大和に渡した。それを受け取り眉を下げた大和が、そっと運転手に差し出す。
「大した額じゃねぇじゃん」
「学生には大した金額なんだよ……それと、これ」
ハンカチに包んでいたプラチナのネックレスも突き返すと、大和はハンカチを開いて中を確認するなり、声を上げて笑った。
「何、あげるって言ったじゃん」
「い、いらない! そんな高価なもん貰えません……!」
「聞き分けのない子だな……」
のそりと、大和が車のドアを開けた。運転手が「兄貴」と声を掛けたが、大和は黙っている。
急に目の前に立たれて、三月は一歩後退った。先日とは違って、紋の入った羽織姿の大和はやはり圧があって、正直恐い。威圧されている気になる。
大和がそっと手を伸ばして、三月の肩を押した。くるり、一八〇度回転させられ、三月は首を傾げる。
「へ?」
「一つくらい上等なもん持ってろよ。要らなくなったら、売れば良いんだし」
三月の鎖骨に、ずしりとした重みが伝わる。プラチナのネックレスを背後から付けられ、三月は思わず固まった。周りの誰かに見られていないだろうか。きょろりと視線を動かそうとすると、背後から「動かない」と窘められた。
「う、売れば良いって……こんな、高い物?」
「高いからだよ。お守り」
すっと首の筋を撫でられて、飛び上がりそうになった。そんな三月の首を、大和がきゅっと抱く。
「ひっ……」
耳元に吐息を感じて、体を強張らせた。
「指輪よりも重くなくて良いだろ?」
「重い! 重いんだよ、物理的に……!」
ぱっと解放され、三月が慌てて振り返れば、大和はさっさと車に乗り込んでいた。運転手は見て見ぬふりをしてくれている。
「そういえばさぁ、俺ってバレンタインデー生まれのロマンチックな男なんだけど」
「は、はぁ?」
「気にしてるなら、プレゼント楽しみにしてるから」
運転手から差し出された五千円をぼんやりしたまま受け取って、三月はついぽかんとする。
またなーと呑気に笑った大和の声を聞いて、運転手がアクセルを踏んだ。ゆっくりと走り出した車を数歩追い掛けて、三月は「はぁ?」ともう一度声を上げた。
「な、何……バレンタインデーって……」
スマホを取り出して日付を見れば、あと一週間ほどしかない。肩を落とすと、首にぶら下がっている白金のネックレスのひやりとした冷たさと重さが、体の芯にのし掛かるようだった。
「こんなもんに、何返せばいいってんだよ……」
「ネックレス? 有り得なくない?」
そう言った悠の声に、三月はびくりと肩を震わせる。
「え、ありえねぇの? いやほら、そんな高いやつじゃなくてさ、ちょっと可愛いなって思って、お揃いで~とかさ」
何の話をしているんだろうと思いながら、手元のコーラに差してあるストローを銜える。キャンバスのカフェで打ち合わせをしている中、ついぼーっとしてしまっていた。
「みっきー、そのネックレス厳つくね?」
そんな風に言ってくる環に「ちょっとなー」と軽く返事しながら、三月はトウマと悠の会話に耳を欹てている。
「男からネックレス贈るのって、束縛~とか、独占~って意味じゃなかったっけ? ……重くない?」
「は? ハル、なんでそんなこと知ってんだよ……」
またまた~と言いながらスマホで何やら調べているトウマが「あ、ホントだ……」と呟いたのを聞いて、三月は銜えていたストローについ息を送ってしまった。コーラの中で、ぶくっと破裂音がした。
「げほっ、ごほ」
逆流してきたコーラが、喉の奥の妙な場所に入る。ストローから口を離して噎せている三月の背中を、環がよしよしと撫でた。
「みっきー、マジでどーしたん……? まだ体調悪い?」
噎せている三月に気付いたトウマも顔を上げる。
「そうっすよ……まだ体調戻ってないんじゃないっすか?」
「えー! 和泉、無理すんなよ……」
眉をハの字に下げて、悠が鞄の中からのど飴を出す。何故そんな物を持っているのかと思えば、隣の環は市販の風邪薬を取り出していた。あまりの手際の良さに、三月はぷはっと笑い声を上げる。
「だ、大丈夫だよ! 大丈夫!」
――でも、全然大丈夫じゃないかもしれない。
三月はテーブルの下でこっそりスマホを操作しながら、自分の首に付けられているネックレスの意味を探す。まるで首輪みたいに重たいそれが、どうしよう、大和の独占の証だとしたら。
(そんなの)
そんなの、恐ろしいに決まってるのに――画面に出た検索結果を見て、三月はぽかっと頬が熱くなるのを感じた。
体をまさぐられて、抱き締められて、たったそれだけだ。きっと相手は三月の反応を見て面白がっているに違いなくて、そんなの遊びの一環でしかないというのに。
三月は、学内の洗面所で顔を洗って、プラチナのネックレスを包んできたハンカチで顔を拭いた。ふぅと息を漏らす。
(冷静になろう……)
相手が、そんな意味を気にしているわけない。
そもそも三月は男だし、大和だって、妙に手慣れてる雰囲気がある。あの手の人間なのだから、女に馴染みくらいあるだろうし……そこまで考えて、シャツの下の自分の平たい胸を撫でた。水滴が付いたんだろう、少し濡れている。
「……なんで、オレ」
ぴたりと前髪を伝った水滴が、落ちて跳ねた。木っ端微塵になった水滴の行方なんて、もうわからない。
ぎゅっとシャツの胸元を握った。やっぱり、三月にこんなネックレスは重いだけの代物だった。
(バレンタインデー……受け取りに来るのかな、プレゼント……)
すっと近付いてきて、すっと声掛けて、背筋がそわりと泡立つ。もしも、もしも渡せる物を何も用意していなかったとしたら、報復されるんだろうか。ただがっかりさせるだけで済むのかな。
ぴたんと、また三月の前髪を滑って水滴が落ちた。
残る物を渡すなんて御免だ。ただの大学生に、プラチナなどに返せるものなんて用意できない。本当なら、このネックレスだって突き返したいが、しかし手が覚束なくて、外せない。
(……手が、震える)
付けられた首輪を外すことが、恐ろしいのだろうか――多分、違う。
昼下がりの車の中、暗いコントラストの中で目を細めて微笑んだ大和の顔が浮かぶ。
(うれしい、なんて……馬鹿げてる)
吊り橋効果ってやつじゃないかな。あまりにも恐ろしくて、そんな怖いことが続いたから、脳が勘違いして「恋」だなんて思っているだけで。
「恋……?」
水滴が、ぱたりと落ちた。
【 掲載版 終 】