光彩奪目を去なす -「膳」-


「それって、オレが悪いんかなぁ……」
ぼやいた重に、その隣に座っていた円がぐるんと首を傾げた。
「……何、急に。今の、独り言ってことでいい?」
 こっそりを装い、鎌鼬に話し掛ける円。鎌鼬の方はと言えば、チャーシューを切りながら首を振る。
「円に言ってんじゃねぇの?」
「えー……それなら、せめて俺の方を向いて言ってよ。こっちは別に食べたくもないラーメンに付き合わされてんだから」
「お前……言い方ってもんがあるだろうが」
 鎌鼬が、かしゃんと中華包丁を置く。口を尖らせている円は、特に悪びれる様子もなく、ぶーぶーと続けた。
「大体さぁ! 自分がここに来にくいからって俺のこと巻き込んで……重って、本当に俺のことなんだと思ってるわけ?」
「なぁ、オレが悪いん……?」
「聞いてよ……」
 カウンターに頬杖を突いてぼんやりと首を巡らせた重は、鎌鼬と円の方を見つめながらもう一度尋ねる。鎌鼬と円は顔を見合わせ、それからお互いに首を傾げてしまった。
(鎌鼬が、エロビデオ見たがったなん、オレのせいと違うやん……なんで雲外鏡に邪険にされなあかんかなぁ……)
 ついでに、楓にまで冷めた目で見られる始末である。
 重は、もう一度溜息を吐いて、それから頭を掻いた。
(人間同士のセックスが気になるねぇ……)
 へぇ、かわええとこあるやん? くらいには思う。思うが、あんなに泣いていた鎌鼬は、今やそんなことなかったかのように重に接してくる。
 今だってそうだ。円を連れてきたからと言っても、以前となんら変わらない態度でラーメンを振る舞って――ひどぉく振られたんやで、自分……。
 重は、円とじゃれ合いながらスープを掻き混ぜている鎌鼬を見やる。ふらんふらんと、ふさふさの尻尾が揺れていた。楽しそうだ。
 楽しそうだ。円と話しているのが。重には何の声も掛けないのに?
「なぁ、鎌鼬」
 だから、爪を立てたくなって名前を呼ぶ。
 鎌鼬がふらりと重を見た。
「なんだよ?」
「……チャーシュー、多めで」
「はいよ」
 ほら、話せば話したで普通の態度なものだから、拍子抜けする。あんなに、あんなに泣かせたのに。あんなに嫌な自分を演じて、手ひどく罵って振ったのに。
 詠に言われたことが頭を過ぎる。
 ――自分の中で自分の存在が悍ましくて気色悪いから、だから本当にそうなってやろうって思うんだろ。
 まったくあの調子の良いのは、気楽にわかったような口を利いてくれるものだ。
「鎌鼬ぃ」
「今度はなんだよ……」
 誰の大事なものをもらったとて、重が重であることを認めなければ何も変わらない、だなんて、本当に余計なお世話だった。けれど、悔しいことに省みる部分はある。
「自分、オレのどこが好きなん?」
 そう言えば、隣の円は真顔になるわ、店の隅にいた九尾の狐は吹き出すわ、鎌鼬は真っ赤になるわ、それはそれは大変だった。
「オレ、お前に好かれるとこ、ないやん……?」
 けれど、そう呟かずにはいられなかった。
 だって本当に、一個だってそんな部分はないのだ。なのに、真っ赤になった鎌鼬は――何、こいつ、ほんまにオレのこと好きなんや――呆れるくらい困惑したような顔をしていて、重にはとても理解ができなかった。
(円と話してた方が楽しそうで、どこがオレのこと好きなん……それに、お前に好かれるようなとこ、あらへんのに)
 もしそんなものがあるとしたら、本当の重など見えていないのだろう。
「何、寝惚けたこと言ってんだよ……」
 鎌鼬が、持っていたおたまを鍋に掛ける。
「……バカ!」
 そう言ってスープに蓋をして、カウンターからさっと飛び出した鎌鼬に、円は「ラーメンは……?」と呟いた。
「なんや、結局食うつもりやったん?」
「来たからにはね……余計なことしてくれるよなぁ。本当に、重って何考えてんの?」
 元上司に向かってなんて言葉を掛けるのかと思う。けれど、それは重自身にも今はわからない。
「あいつ、あの鼬はん。オレのこと好きなんやて。笑えるやん?」
 ぼんやりとそう言えば、円は口を尖らせて、それから目一杯呆れたような溜息を吐いた。
「妖怪なんて、簡単に心変わりするもんなんじゃないの? ……大した自信だね」
「それならそれで、はよう変わった方がええわ」
 間髪入れずにそう返す。今度こそ、円は隠すことなく言った。
「そんな顔して言う? 冗談でしょ。呆れた……」
 そんな二人の様子を眺めていた九尾の狐が、重そうな腰をゆったりと上げて、そうして先程まで尻尾を揺らしていた鎌鼬の代わりにカウンターに立つ。
 おっ、珍しい……と、いつぞやの詠のようなことを思えるようになった自分に、重は思わず目を伏せた。ついでに、溜息を吐いてやる。
「なんだい、重。しけた溜息だね……」
「……そこそこ通い詰めてるもんなぁ……店長がそこに立つ時、同情されてる時やてわかってきたわ……」
「おや、同情なんてしないよ」
 九尾の狐は、指先でそっと自身の着物の袖を摘まむ。色気のある仕草でそれを括ると、丼を並べて妖しげに笑った。
「わたしは妖怪だからね。おまえたち人間の気持ちになんて、同情できやしないさ」
 それはご尤も。円と重はおもむろに置かれたラーメン丼を目の前に、ぱきっと割り箸を割ったのだった。


 腹ごしらえを済ませて葛ノ葉を出る。
「ていうか、重、聞いてる? 英隊長が、重と公開稽古するって」
「はぁ? 知らんわー……ばっくれよ……」 「なんか、人事査定の一環とかなんとかって……」  これは、勝手に大門を抜けたのが上の癇に障ったのかもしれない。これまでなら然程お叱りを受けなかったものだが、蛟の一件以来、そうはいかないようだ。
 あまりこちらから出ない詠のことを頭の隅で考えながら、重はうんざりと顔を顰めた。もしかしたら、詠も同じように睨まれているのかもしれない。
「……重」
 そんなことを考えている最中だった。少し行った所で、円が何かに気付いたように足を止める。
 そして、高い上背を少しだけ丸めて、そっと重に耳打ちをした。
「俺、遠回りして詰所戻るから」
「何?」
 重は、そんな円の顔を眼鏡のフレームの上から睨んだ。
「お膳立てだよ、お膳立て!」
 見やれば、煉瓦造りの塀の向こう、しゃがんでいるらしい生き物の尻尾が見えた。
「お膳立ても何もないやろ……」
「うるさいなぁ、タラタラしてると気付かれちゃうよ? 早く捕まえて」
 円がつんと口を尖らせる。丸めていた背中をすっと伸ばし、僅かに高い身長のままに重を見下ろした。
「なぁ、円」
「何……」
 お膳立てなどではなく、最早、重に付き合っているのが面倒になってきているのだろう。重は柄にもなく動じている自分を誤魔化し、偽りながら、前髪の隙間から円を見た。
「遊んでた女に本気になったら、自分、どないする?」
「何、不潔な話……? 俺、そういうのパス。面倒になる前にやめる」
「……せやろなぁ。オレもそう。そのはずなんやけど……今、自分が面倒くっさい人間やと気付きつつあるわ……」
 円曰く、「お膳立て」、それをされるまま、重は一人、ふらふらと揺れる尻尾に近付いて行く。無意識の内に足を引き摺っていたのか、足下でざりりと音がした。
「……あ」
 その音を聞き付け、尻尾が振り返る。ふさふさの尻尾の持ち主は鎌鼬だ。
「重だけ? 円は……?」
「逃げた丁稚はんこそ、こないなとこで奇遇ですやん」
 茶化すようにそう言えば、鎌鼬はむすっと口を尖らせてしまった。気に留めず流せばいいだけなのに、重にはやけに引っ掛かる表情で、だからはぁと息を吐く。
「……円と話すの、そんなに楽しいかよ?」
「はぁ? なんだよ突然……」
 体ごと振り返った鎌鼬が、正面から重を見上げる。
 往来から少し離れた場所だ。人気はなし、妖気も感じない。それならええか、と重は静かに目を閉じた。
「別に」
「別にって顔じゃねぇだろ……」
「お前に、オレの顔の何がわかるんだよ」
「わかるよ。あと言葉遣い……何、ムカついてんの……? ラーメン出さなかったから?」
 そんなことで腹は立てない。空腹時ならともかくだ。そんな幼稚なことで……そう言い掛けて、重はへらと笑った。
「鎌鼬が、なんでオレのこと好きなんか教えてくれへんからやろ」
「性格悪……」
 吐き捨てるように言われ、更に口角が上がる。そんなの、今にわかったことじゃないだろうに。
「あはっ、知らんかったん? せやから聞いてやってるやん?」
 そう言えば、鎌鼬がおずと俯いた。
 重の外套の合わせを、鎌鼬の小柄な手が掴む。なに、と言い掛けて口を閉じた。
「……言ったって、オレ、失恋じゃん」
 ――しつれん……失恋?
 妖怪から聞くには些か違和感のある言葉に、重は思わず首を傾げた。そのまま、俯いている鎌鼬の顔を覗き込む。
「は? なんて?」
 そう問えば、鎌鼬はつついと重の合わせを握る手を揺らした。
「わかんねぇもん……わかんねぇけど、好きって言ったって、お前、オレのことさ」
 鎌鼬の団栗目が、ぐずぐずと潤み始めた。橙の瞳がふらりと揺れたかと思うと、ぽろんと目の縁から雫が零れる。
 ――あ、泣いた。
 鎌鼬の空いている方の手が、ぐしぐしと頬を拭った。少し赤くなって、けれど雫はすぐに散ってしまった。
「オレのこと、バカだって……」
 だから、それは利用されてるのに気付かないで、まんまと――まんまとではないが、重のことを好きだなんて認めるから。
 重の外套を握ったままの鎌鼬が、ぐすと鼻を鳴らす。
「……鎌鼬、キスしよか」
 九尾の狐は言った。妖怪だから人間の同情はしない。
はて、では重はどうだろうか。人間だから妖怪の同情は、しない?
(よっぽど、妖怪の方がわかる気がすんねんけど)
 鎌鼬のこと、だからかもしれない――だから、それは衝動だった。
「きす……?」
 ほとんど衝動で現れた言葉を重が引っ込める間もなく、鎌鼬が顔を上げる。
「……ちゅーってするやつ。この前、したやん?」
「お前、あの時噛んだじゃん……がぶじゃん……」
「今度は噛まへんから」
 な、と答えを聞く前に、鎌鼬の唇に自分の口を押し付ける。ん、と漏れた高い声に、唇がつい弧を描いた。そのまま、お互いの凹凸を埋めるために角度を変える。体を強張らせた鎌鼬が口をうすらと開いたので、重はほんの僅か顔を離した。
 眼鏡のレンズ越しに鎌鼬の瞼を見る。するりと、ゆっくりとその瞼が開いた。戸惑っている琥珀の瞳が、潤んで重を見上げていた。困惑、動揺、そういうものが揺れて煌めいていた。
 だから、もう一度同じ場所に口を付ける。すぼめられた唇の上にリップ音を落とし、そうして、指先で鎌鼬の小さな顎を掴んだ。少し力を込めれば、容易く口を開けてくれた。
 ちろりと舌を差し込んでみると、それをすんなりと受け入れてくれる。鎌鼬が、重の舌を甘ったるく噛む。
「……牙、痛いて」
「じゃあ入れなきゃいいじゃん……」
 憎まれ口を叩く口の中にもう一度舌を滑り込ませて、口の中から鎌鼬の上顎を舌先で擽った。
「あ……ふ」
「入れた方が、エエやん……?」
 そう言えば、潤んだ瞳が重を睨み上げる。可愛らしいあまり、ちっとも怖くなかった。
 は、と呼吸を乱す鎌鼬の腰に腕を回す。手に力を込めて引き寄せた。
 小柄な体は素直に重に身を寄せたが、気持ちばかり、とんと胸を押される。けれど、重の外套の合わせを掴んだままの鎌鼬の手元では、押し返すなんて到底——その気もないに違いない。
 鼻筋を擦り合わせた時、眼鏡の縁が当たって、お互い僅かに顔を引いた。
「……気色、悪くねぇの……」
 ぞくりとする。決して畏れているわけではない。畏れることなど微塵もない。
 可哀想で愛らしい。
「なんや、気にしてはるん?」
「気にするだろ……!」
 そんな素振りも見せない普通の態度だったのに。
「あれなぁ……」
 重は、不安気に窄められた鎌鼬の口に、再びちゅっと触れた。
「誤魔化されてる……」
「誤魔化してへんよ。汚して穢してんのに、なんで好かれてんねやろって、それがわからへんから……わからへんことって、気色悪いやん?」
「……何、どういうこと?」
 そのまま、鎌鼬の細い首筋に唇を寄せた。すんすんと嗅いでいると、擽ったいのか肩を押された。
「……お前じゃなくて、オレが気色悪い生き物かもしれない、ってこと」
「え……?」
 鎌鼬から、とても良い匂いがした。九尾の狐に似た匂い。雅だが鼻につかない香りだ。これが妖気の欠片なのか、それとも灯影街の香りなのか、どちらとも知れないが、もう一度息を吸う。
 重が鎌鼬の首に顔を埋めていると、そろりと鎌鼬の指が重の髪を梳いて、戸惑いがちに頭を撫でた。
「……食べていいよ」
「ああ……?」
「オレ、今……気分良い。だから、気分良いから」
 鎌鼬が、自身の襟のホックを外した。和装ごと襟ぐりを開いて、鎖骨を露わにする。首から下げている装飾品が、しゃらしゃらと音を立てた。
まるで、何かの儀式みたいだ。清らかで、けれど――
「オレのこと、食べていいよ」
 鎌鼬の瞳の中で揺れた焔を見た時、それがひどく背徳的だと、そう思った。