あんたが×××て×ぬ夢を見たよ。正夢になると嫌だから、あんたには絶対に言わないけどさ。
「……そういう夢は、吉夢とされていますよ」
そう言った男は、伊達の眼鏡を外して、それから「ですが、そうですねぇ」とのんびりした口調で言った。
葉巻の先をちっと切り落とし、男は静かに火を点ける。ゆっくりと吸い上げて止めた息をふらりと吐き出した。男の唇からは人魂のように煙が上がる。
「吉夢で済めば良いのですが」
「棗の占いは当たるって聞いてたんだけどな」
三月がそう言えば、男——棗巳波は、ゆるりと目を細めて笑った。くすくすという言の葉が似合う美しい笑顔と所作に、三月はそっと肩をすくめる。
このくらい美しい男だったら、まだ気の持ちようもあったのかもしれない。
「占いのできるカウンセラーだなんて、胡散臭いじゃありませんか。副業のこと、外で言わないでくださいね」
「占いもカウンセリングも、似たようなもんだろ」
「あら……元刑事さんに言われると、なんだか背筋が凍りますね……一応、私、臨床心理士の資格持ってるんですよ」
「知ってるよ。もし棗が詐欺師だったら、あの人が薦めてこないだろ」
「どうでしょうね。必死な様子でしたから、私みたいな藁でも縋りたかったのかも?」
「自分のこと藁だなんて、心にもないこと言うなよ」
三月がカウチに腰掛けながらそう言えば、巳波はまたくすりと笑った。
「私、三月さんのそういうところ好きですよ」
「おだてても何も出ねぇって……」
カウチの隣に置かれたチェストに、巳波はそっとアロマポッドを置いた。香ってくるラベンダーの匂いに、三月はきゅっと眉を寄せる。
「レモンのとかねぇの?」
「レモングラスですか? そうですねぇ、今日は生憎、切らしてるな……ラベンダーはお嫌いですか?」
「そういうわけじゃないけど、なんか」
ミシリ、頭蓋骨の右側が痛む。偏頭痛だろうか。三月はそっと自分の頭を撫でた。
「焦るっていうか」
巳波の吸っている葉巻の紫煙の香りのせいもあってか、やけに感覚に障る。
「ラベンダーにはリラックス効果がありますが……お気に召さなければ、別のオイルを取ってきます。待っていてください」
そう言って巳波が出て行った部屋の中にポツンと残され、三月はぼんやりと天井を見上げた。一人になると、部屋がやけに広いように思えた。
ここは、三月の雇い主が懇意にしているカウンセリングルームだ。腕の良いカウンセラーがいるから通うようにと言われている。
「棗、確かに話しやすいけどな……」
カウチにごろりと転がって、天井の模様を辿る。
特にさして意味のない儀式。背もたれに掛けた背広は新調したばかりの物で、まだなんとなく袖を通しても落ち着かず、肩に掛けて羽織っているばかりだった。
ラベンダーの香りが鼻につく。本来なら、巳波の言う通りリラックス効果があるものだろうに、何故か三月の頭がその匂いを疎ましいものと判別する。
「……前は、こんなことなかったよな」
うーんと目を閉じた。ぼうっとしていると、部屋のドアを誰かが開ける。
「棗?」
「何言ってんの、ミツ」
白けた白昼夢。これは夢だ。夢だと思う。
腕で下から上へと視界を覆って、そのままゆっくりと口角を上げた。
「ミツ? 何笑ってんだよ」
「ふふ……」
ワイシャツの襟のボタンを外されて、肌に触れるか触れないか、じりじりとシャツの合わせを開かれていく。
「くっ、ふは、あははっ、またあんたの夢かよー」
「笑うなっつーの……」
「くすぐってぇんだもん」
「じゃあ自分で脱いで。おねだりしてみな」
「しねぇよ」
そう言えば、鳩尾をトンと指で押された。
そのまま拳で圧迫される。押されたことで、は、と息が漏れた。
「そんなことよりキスしてよ」
「……珍しいじゃん」
「好きなんだ、あんたにキスされるの」
——多分。
うつらと揺れる思考の中で、そう付け足す。
自分で自分の唇を指で撫でて、そのまま顎を辿り、首を撫でた。喉仏に触れると自然と上下した。相手の喉仏も、ことんと上下した気がする。
驚いたような顔をした相手が、そっと触れ合わせるだけのキスをする。受け入れて、緩く口を開いた。啄むように、もう一度口付けられる。ちゅ、と漏れた音を辿って、相手の頬に触れた。唇の端を少しだけ押し返す。
「大和さんは?」
ラベンダーの香りに、そっと流し目を送った。
押し返していたはずの感触が、指先から抜けていく。
巳波が吸っていた葉巻の煙のようだった。指先から幻の白い靄が立ち上るのが見える。
「返事、聞き逃した……」
掠れた声を聞いて、カウチと距離を置いた椅子に掛けていた巳波が静かに振り返った。
「今度はどんな夢を見たんです?」
「あー……」
朗らかに言った彼に、三月は気怠い腕を上げて、唇の前で人差し指を立てた。
僅かに昂ってささくれた心を慰めるために、ポケットの中からキャンディを取り出した。包みを剥がして、そっと口に銜える。歯に当たったキャンディが、カランと音を立てた。
「……しょっぱい」
味覚が狂っている。ほのかに甘いはずのキャンディを、甘く感じない。
三月の味覚に違和感が現れたのは、ほんの数ヶ月前のことだった。それまでも、恐らく味の薄い味噌汁が続いていたと思う。突発的なものだったのかどうか、既に三月にはわからなくなっていた。
はっきりとわかったのは、砂糖を入れて甘くした卵焼きがちっとも甘くなかった、そんなある日のことだった。
甘い、甘過ぎだと騒ぐナギと大和を尻目に、三月は平気な顔をして「こんなにしょっぱいのに」と呟いてしまった。ギョッとした二人の顔がいまだに忘れられない。
その後、様々なものを口に入れられることで、三月の身に起きている味覚障害に全員が気付いた。
「イチは、そんな副作用はないはずって言ってる」
三月が日頃服用している安定剤。その影響ではないらしい。
三月は、コントロールの効くようになってきた自分の力を右手越しに眺める。
「……もっと、精神的なものかもしれませんね」
ナギは、大和に買ってもらったタブレットをするすると操作しながら、静かに呟いた。
それを聞いた時、大和の表情が陰ったのを三月は見逃さなかった。
そこで急に勧められたのが、棗巳波のクリニックへの通院だった。
「金は俺が出すから、頼むから行って欲しい」と、やけに切羽詰まった様子で言われた時、三月は首を横に振ることができなかった。
ぼんやりと他人事のように「自分が狂っている」ということを知覚する。
(飯、どうしよう……)
何を口に入れても塩辛い。料理は得意だったはずだ。舌にも自信があった。それだけは、口の中が切れていたって——
じわ、と滲んだ唾液を飲み下す。それさえ塩辛い。喉が渇くような焦燥。
三月は自分の口を抑える。煙草の一本でも吸ったら、正しい味がわかるのだろうか。
遠のいたはずの煙草が恋しくなる。デスクに仕舞い込んでいた湿気った煙草を取り出して、大和はそっと唇に銜えた。ライターで火を灯してそのまま、すっと吸い込む。
チカチカと橙の火が点滅するのを眺めながら、フィルターを唇から離した。
「げほっ」
ごほごほと咽せる。口の隙間から漏れた白い煙を睨んだ。
——まずい。
気付いてる。だから必要なくなった。だからこそ、今、必要だ。
ざらざらと雨が降り、滝のように窓を伝う。そのせいで外が見えない。
「迎え……行くか……」
その日は、三月の通院日だった。クマのぬいぐるみを抱えてソファで寝ているナギを横目に、デスクの上の車の鍵を拾い上げる。
三月の味覚がおかしい。もしかしたら、味覚だけではないのかもしれない。目に見えない、耳に聞こえない何か別のものもイカれてしまってるのかもしれない。
「ナギ、ミツ迎えに行ってくるわ」
「はぁい」
目を擦って一声返事する。そのまま、また眠りこけてしまったナギの頭をくしゃりと撫でて、大和は事務所のドアを開けた。
その時だった。チャイムが鳴る。
雨音が強過ぎて、客人が来ていることに気付かなかった。マンションの入り口にはずぶ濡れのトウマが立っていて、それから——逮捕状。自分には無縁な物だと思っていた。そうならないようにやれていたと思う。それが慢心だったこと、たった一枚の紙がそれを物語る。
突き出された書類に、大和はつい口角を上げていた。トウマが何か言っていたが、雨音のせいで何も聞こえなかった。
少し前まで、逮捕されることなんて一ミリだって怖くなかったのに。
あんたが×××て×ぬ夢を見たよ。
目を覚ました時、三月はカウチに横になっていた。体を起こすと、急にそれまで見ていた夢の内容を忘れてしまった。
「大和さん、捕まった……」
口にしてから、急に胸がどっと塞がった。
呼吸が詰まる。突然、周囲の空気が薄くなった気がした。
「三月さん」
三月の焦りを察知して、巳波がそっと背中を撫でる。
漂っているレモングラスの香りに、三月は見開いていた目をきゅっと細めた。
「はぁ……っ、はぁ……は」
いくら息を吸っても足りない酸素。頭の中がぐらりとする。酸欠で白目を剥きそうだった。体勢を崩した三月を抱き締めるようにして、巳波がとんとんと背中を叩く。
「大丈夫です、大丈夫ですよ、三月さん」
「やまとさ、やまとさんっ、捕まっ、はっ、げほっ、オレの、おれのせ、い」
「大丈夫です、三月さん。困ったな……錯乱症状が酷くなってる……」
巳波はジャケットのポケットからスマホを取り出して、三月の背中を撫でながらするすると操作する。
「もしもし、二階堂さんですか? どうしましょう、あなたの可愛い王子様、パニック起こしてるみたい……医者なんだからどうにかしろって? 無茶言いますね……過呼吸起こして苦しそう……キスして塞いで差し上げましょうか」
それはダメ、ですか。ふふ、と笑った巳波は、ゼェゼェと呼吸を乱して唾液を垂れ流している三月の耳に自分のスマホを近付ける。
「汚れちゃうかな……スピーカーにすれば良いですか?」
巳波はぺしりと画面を叩くと、三月の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「いやだ、いや、ごめ、やまとさ……」
「三月さん、二階堂さんです。大丈夫ですよ」
『ミツ、どうした! 大丈夫だろ……って、ハウってんじゃん……何これ』
「スピーカーです。声張ってくださいね、二階堂さん」
『えー……』
「ほら、三月さんに届きませんよ」
『棗ちゃんが茶々入れるからだろうが……! ミツ、今迎えに行くから!』
「や、だ……逃げて、やまとさ……」
ぐちゃぐちゃと髪を掴んで掻き混ぜて、カウチの上で蹲る三月に、巳波が少し眉を上げた。
「三月さん、二階堂さんが死ぬ夢を見たそうですが」
『は? なんつった?』
スマホを通話状態にしたまま支度をしているのが、ガタガタという音がスピーカーから漏れ出る。
それに構わず、巳波は続けた。
「次は捕まる夢を見てるみたいですよ。二階堂さん、三月さんの夢に出演し過ぎでは?」
『……オファー多過ぎ。ミツってば、俺のことそんなに好きなのかなー』
「にやけないでください。気色悪いですよ」
『に、にやけてねぇよ……』
そんな二人の会話を聞いている内、ようやく呼吸が落ち着いてきたのか、涙と涎でぐしゃぐしゃの顔を持ち上げた三月が、はっと息を吐いた。
「……落ち着かれましたか?」
「はぁ……」
巳波はティッシュの箱を取り上げて、三月に向ける。三月はそこから何枚か引き抜いて顔を拭った後、じんと鼻をかんだ。
「……大和さん」
『何? 今向かってるから良い子に待っ』
「キスしてよ」
あら、と巳波が呟く。大和の声が止まる。
『……み、ミツ』
「味がわからなくなっても、キスして欲しい」
掠れて、スピーカーに入っているかもわからない。三月の言葉に、大和が黙り込んでいる。そんな巳波のスマホを横目で見て、三月はゆるりと目を細めた。
「好きって言ってよ……」
茶化すこともせずただ微笑んでいた巳波が、そうっと自分のスマホを持ち上げる。スピーカーモードを終わらせて、大和に向かって言った、
「道中お気を付けて。浮かれて事故に遭わないでくださいね」
通話を切った巳波が、カウチの背もたれに項垂れる三月の肩を叩いた。
「お戻りですか?」
「……オレ、何か言ってた……?」
「そうですね……また夢を見てらしたようですよ」
三月は顔を上げる。
そんな三月に、巳波は給水機から水を汲むと、紙コップを渡してくれた。
「意中の相手が捕まる夢は、前向きになれないことを悔やんでいる暗示ともされます。ですが、三月さんはとても情熱的な方なので、本気になったらお相手だってタダじゃ済まないと思いますよ」
三月は、ぽやっと熱くなった頬を拭って、汲んでもらった水を一気に飲み干す。
「水、の味……」
ほっと胸を撫で下ろた。まだ胸の中がどくどくと暴れている。
「塩辛いのは直られたようですね?」
巳波の言葉に頷いた時だった。三月の携帯がバイブした。
「……なんだろ、ナギ?」
ぱかりと開いたらそれを耳に当てて、三月は「もしもし……」と言った。
『ミツキ、ミツキ、落ち着いて聞いてください。ワタシが……ワタシが眠っていたばかりに、ヤマトを止めなかったから……』
「え……? 大和さんなら、今、迎えに」
『ヤマトが、拉致されました……』
三月の手から携帯が落ちる。慌てて、床に膝をついた。すぐに携帯を耳にあて直す。
『現場には、大和の車と、激しい運転のせいで付いたタイヤ痕、それから血痕……血は、雨で失われつつありますが』
冷静なナギの声色が、段々と震えていく。
「お、オレ、何してんだ……」
それを聞いていると居ても立っても居られず、三月は慌てて体を起こした。
「何が、所長補佐兼ボディガードだよ……何もできてないじゃんか……!」
『ミツキ……』
立ち上がろうとした三月を、巳波がそっと留める。
「落ち着いてください、三月さん! 一体何が……」
「悪い棗……! オレ、急いで行かなきゃ……!」
ジャケットをひったくり、三月はカウンセリングルームを出た。クリニックから走り出て、そのまま、雨の降りしきる中を走る。
夢の中で浴びた雨水の非にならないくらい、酷く冷たい雨が降っていた。
(しくじった)
半グレ集団のリーダー格を殺った銃の出所、それが二階堂事務所だったことを嗅ぎつけられた、その逆恨み。なんとも簡単な理由だ。なんて、情けのない理由。
(あんだよな、こういうこと……)
三月がいればまだしも、その三月を外にやっていた。しかもだ、今の三月の状況を思えば、絶対に三月を戦わせたくはなかった。
(それにしても、最近は……詰めが甘いわ)
ぼう、と揺れた視界で視線を泳がせながら、大和は溜息を吐いた。
巳波の言う通りだ。浮かれていたせい、かもしれない。
そんな大和の腹に、革靴の先が捩じ込まれる。
「ぐっ……!」
突如見舞われた蹴りに、ごほごほと咳き込む。そのまま脇腹をぐしゃりと踏みつけられ、大和は咳さえも困難になった。呻いている大和の顔から、汚れた眼鏡が引き抜かれて投げ捨てられる。
連中の仲間に踏みつけられ、眼鏡はばきんと呆気なく割れてしまった。
(あー……また作り直し……)
眼鏡のご臨終を目の当たりにして呆けた大和の顔を、男が蹴る。どこが顔面か横っ面か、最早どこが痛むのかもわからない。ただ激痛が纏わり付いている。鼻からも鼻汁が垂れている気がする。
(鼻血……かも)
自分で言うのもなんだが、腕っ節は強くない。肉弾戦は特に駄目だ。
縛って転がされているコンクリートの上に、ぺっと唾を吐き出した。鉄の味がした。
眼鏡を掛けていなくても、そのくらいは見える。コンクリートの上には黒いシミが残った。
(好き、って)
——言っておけばよかった。
三月が見たろう夢よりも、ナギが予測したろう未来よりも、ずっとチープで情けない終わり。安っぽい終幕。それが、何故か今、何の特殊な力もない大和には見えている。
(人生、呆気な……)
スマートフォンは既に大和の手元にはなく、あの場から大和の行方を追う手がかりもない。雨も激しかった。あの中では目撃者もないだろう。
見つかったとしても、自分はもう変わり果てた姿になっているに違いなくて、だから尚更、「好き」って言えば良かった。
(どこにも行かないでって、俺のところにいてって)
ちゃんと、言えば良かったのに。
背中から、腹から、滅茶苦茶に蹴られ踏まれた。その朦朧とした意識の中で、頭から麻袋を被せられる。
「いい男が台無しだろぉがよ……」
言葉になっていたかわからない。それでも吐き出した言葉は、袋の中の酸素を無駄に奪っていくだけだった。
銃口が麻袋の方へと向いている。大和は、それに気付いていただろうか。