キャンディードロップ・バイオレンス


 意識して低く喋るって男なら場合によって時々あると思うんだけど、ミツはいつもそう。やっぱりかわいいのがコンプレックスなんだろうな、と思う。
「大和さぁん」
 それがどうした、最近時折猫撫で声みたいな声を出す。ソファの後ろから声を掛けられて、動揺しないように耐えた。
「なぁ〜、買い物付き合って」
「お兄さん、今日は昼から飲むって決めてるんで」
「バカ野郎、まーたマネージャーに怒られるぞ」
 猫撫で声解除。俺は、ほっと安堵の息を漏らした。心の中で。
「んだよ、そんなにオレと買い物行きたくないのかよ!」
「違うよ。車出せって脅迫に乗りたくないだけ」
「脅迫してねぇじゃん! お願いしてんじゃん?」
 首の横からひょこんと覗き込んでくるミツを見る。眼鏡のフレーム外で見てもかわいい顔立ちが、きゅるんとした目で見てくる……これでギュッとされた日には、落ちない男も女もいないだろう。別にギュッとされたいわけではないです。
「ミツって、声かわいくなった?」
 とりあえず話逸らしておこう。車の運転するということはつまり酒が飲めないということ。酒が飲みたい時には車の運転はできないということ。それをミツに理解してもらわなけりゃあならない。
 なので、一旦話を逸らしておこう。
「……元々、高い方だとは思うけど」
「なんつーか、更にかわいくなったよな。あれかな、ここなちゃんのアニメで声優やり出してからかな」
「……指導してもらってるからかもな」
 喉を撫でながら、あーあー言っているミツを見て、話を逸らすことに成功した確信を得る。
「お兄さん」
 と、思っていたら、ここなちゃんみたいな甲高い声でべらぼうに甘ったるく「お兄さん」なんて呼ばれて、俺は思わず固まった。
「買い物行こ? 車出して?」
 ん〜〜〜、もう一声……! と言い掛けて、口を真一文字に結ぶ。
 相手がソウなら、ここで「もっと上手におねだりしてごらん」なんて言うところだが、ミツには言わない。何故ならミツは恥じらうことなく本当におねだりしてくるからだ。おねだりというか、強請りだ。ミツの場合は。キャンディーのハンマーをバットよろしくぶん回して、それで頭を容赦なく殴打してくる。ミツのかわいさは時折そういう暴力性と愛くるしさを抱えた突進をしてくるわけで……いや、なんだそりゃ。
 つまりは、お前はかわいいってこと。
「ダメ?」
「ダメじゃないけど」
「ダメじゃないけど?」
 多分、後ろから顔覗くの疲れたんだろうな。ついに肩に腕が乗って、バックハグ気味に改めて様子を窺われてる。声高いままなのやめてくんねぇかな。変な気起きそう。こんな、一歩間違えば羽交い締めされそうな時に起きません。
「ミツ、それ誰にでもやってんの? コロッケ屋のおじさんにもやってる……?」
「まけて欲しい時はやってる」
 きゅるん、だ。きゅるんとした声でそんなこと言うもんだから、やっぱりそれは脅迫なんだわ。おじさんも気の毒に。
 わかるよおじさん、こんな風に脅迫されたら、コロッケの一つや二つ、おまけしてしまうかもしれない。あわよくば、おじさんにちょっと良いことしてくれないカナくらい思っちゃうかもしれない。うちの子は、おじさんとは何もしません。
「やめなさい、かわいいで横暴するの……」
「横暴じゃねぇじゃん。そんなに行きたくないならいいよもう」
 するっと腕が抜かれて、ミツが諦めて離れていく。俺はどっどっどっと鳴る心臓を抑えながら、溜息を吐いた。
 乗り切った乗り切った。マジで本当、かわいいの暴力。
 共用財布の入ったカバンをぶら下げて、キャップを被ってマスクを探してるミツが、チラチラとこっちを見る。まだ俺が折れるのを期待してる顔だ。
「大和さん」
「行かないってば」
「オレと買い物行くの嫌?」
「い、嫌とは言ってないでしょうが……」
 のしのし、今度はソファの横に乗り上がって、そこで半分正座してる。
 今日は諦めが悪いなぁと思っていると、部屋着の袖を、ちまっとつままれた。
「それならいいけどさ……?」
 いつものミツの声で、潜めるように言われるのが実は一番クる。
 う〜ん、どうしようかな、負けてやろうかな、かわいいもんな。
 そのかわいいが俺に向けられてるなら、それってやっぱり役得で、あーあしょうがないなぁなんて芝居掛かった態度を引き出しちまうもんで……。
「行ってもいいけど、後でつまみ作ってくれる?」
「いいよ? 折角一緒に見れるし、好きなもん作ってやるよ?」
「じゃあ行こうか」
 なって言い切る前に、横からタックルされた。待て待て待て、お前は幼児じゃないんだから、そんなタックルされたらお兄さんの背骨が折れる!
 ソファに転がされて「いってぇ……」と呻いていたら、首をぎゅうってしつつ「面倒くせぇけど、大好き!」なんて言われて。言われてら、面倒くせぇって……。
 俺を押し倒して満足したのか、のしのしと離れていくミツ。俺は体を起こして眼鏡のブリッジを上げて、リセットの溜息ひとつ。
(大好きって言われたな)
 子供みたいな声で大好きなんて言われたら、俺もお前さんのこと好きになっちゃうんですよね。
(大好き……)
 仕方なくのっそり立ち上がって、もうただ握ってただけの雑誌をテーブルに放った。身支度の続きをしてるミツを見る。
「ミツ?」
 ん、と振り返った頬がまだちょっと興奮で赤くなってて、本当に子供みたいだと思った。
「大好き?」
「だいすき」
 たった四文字、それを丁寧に一文字ずつ口にして、ミツはふはっと笑った。
「大和さんのこと大好きだぜ!」
 ああ、鶴の一声。完敗だ。
 結局、ミツの声だったらどの声だって、おおよその言うことは聞いちゃうんだなぁ。だってかわいいから。お兄さんはかわいい子に弱いんです。
 はぁ仕方ない、とばかりに部屋に戻って着替えを済ませて、玄関で待ってるミツに「おまたせ」なんて言う。
 車借りにとりあえずは事務所まで行かなくちゃだなぁとぼんやり思っていると、だぼっとした袖から覗いてるミツの指に、ちょいと小指と薬指を掴まれた。
「ん?」
「事務所まで手つなご」
 深く被られたキャップのつばから、ミツの目が覗いてる。ちょっと逸らされて戻ってきた瞳に、俺は目を丸くして、それから、今にも解けそうなミツの指を握り直した。
 ミツの本気のおねだりって、こういうやつ。
(断られるかもしれないけどでも聞いて欲しくて、聞いて欲しいけど、でも駄目に違いないみたいな恐怖混じりの)
 そんな顔されたら、俺が断るわけないのにな。
「いいよ」
 ふわっと浮き足だったミツが片手で玄関を開けた。俺は手を引かれるまま、ミツの背中を見つめて、まーた(かわいいな)って思ってた。