その古い鏡は、ありとあらゆる鏡と繋がっているという――雲外鏡という妖怪だ。雲外鏡に取り憑かれたが故に人外の寿命に振り回されている男が一人、その男もまた他の妖怪から雲外鏡と呼ばれている。
「雲外鏡!」
そんなわけで、その雲外鏡なる男は今日も大紅葉の樹の上でカップラーメンを啜っているのであるが。
「雲外鏡ってば!」
「なんだよー!」
ずるずると麺を啜り終えて、ようやく雲外鏡は顔を覗かせた。羽衣のような頬被りを纏っている雲外鏡に、鎌鼬はほっと息を吐く。
「楓がもう帰ったから、ゆっくりカップラーメン食えるのと思ったのに……」
樹の上でぼやいている雲外鏡を見やって、鎌鼬はするりと樹に登る。相手に降りてくる気がないなら行くまでだった。
「わっ!」
「わ、じゃねぇよ。なぁ、雲外鏡に聞きたいことがあって」
「なら、雲外鏡に聞けよ……」
「お前も雲外鏡だろー」
違うけど、違くない……と小さく呟いた雲外鏡が、カップラーメンの容器を傾けながら中のスープを飲んでいる。
その背後で樹の枝に座り込むと、鎌鼬は咳払いをしてから尋ねた。
「雲外鏡って、人間界にいたんだろ?」
「まぁ、そう……でも、もうずっと前のことだけど……」
「人間界をよく覗いてるって聞いた。ていうか、そのカップラーメンも持ってきてるもんだよな?」
「……そうだけど、やんねーぞ!」
「いらねぇよ……」
ラーメン食いたかったら葛ノ葉で作ればいいし……と呟いた鎌鼬に向かって、雲外鏡は「これにはこれの良さがあんだよ!」と声を張った。まぁ、確かにその気持ちもわからんでもないが。
鎌鼬は話を戻すために、もう一度うんうんと咳払いをする。
「で、聞きたいことがあんだけどさ」
「何……」
「人間って、誰にでも……その、ちゅーってしたりとか、体触ったりすんの?」
そう尋ねると、雲外鏡がこの世の終わりを目の前にしたかのような顔をしたので、鎌鼬も流石に「答えは違うらしい」と気付いた。
「なんだその、ふ、不埒な話! そんなわけねーだろ!」
「ふらち……」
「そういうのは、大事な奴にだけすんの! ちゃんと約束してからするもんなの! ……女狙った賊か何かの話? だったら別だけど……」
賊かと言えば、賊かもしれない。重の悪い表情を思い浮かべながら、鎌鼬はぼんやりと頷いた。
「誰、その人間っ!」
「誰って……」
そんな風に喚いている雲外鏡の背後で、大きな鏡がひらりと光った。
雲外鏡の本体であるその鏡には、重と見知らぬ女の姿が映っている。それに気付いた雲外鏡は、ぱちくりと瞬きをして、深と澄んだ瞳で鎌鼬の方を見た。
「……こいつ、刀衆の奴じゃん。なんで?」
「なんでも何も、そいつがその「賊」だからだよ」
いや、賊ではねぇんだけど……と言い掛けたが、雲外鏡はもう一度鏡の方を見て「ふうん」と声を上げた。
「それより、ここ何処……?」
鎌鼬が鏡に映っている場所について尋ねる。雲外鏡はポリポリと首の裏を掻いて、首を傾げた。
「さぁ? 人間の女がいるから向こうなんじゃねぇの? こいつって、こっちから出ていいんだっけ?」
「知らない。オレたちが通り抜けられるくらいだから、あいつらも大門から行けるんじゃねぇの……?」
それよりも、女と個室に一緒にいる。その事実に鎌鼬は僅かに口を尖らせる。
「誰なんだろう……」
「うーん、遠目だとよく見えないけど、高そうな着物……母親かなんかじゃねぇの」
「母親……?」
顎に手を当てて首を傾げた雲外鏡につられて、鎌鼬も首を傾げる。
「刀衆って、お家柄が良い奴らばっかりじゃん。楓もそうだし……?」
「家柄……生まれが贅沢ってこと?」
「贅沢かどうかはその家によるけど……なんて言えばいいんだろうな。由緒が正しいとか、古くから血縁が続いてるだとか……古くから続いてるってことは、それだけ戦いにも勝ち続けてるってことだし」
「強いってこと?」
「まぁ、妖怪で言ったらそういうことかも……」
ふらりと重を映すことをやめた鏡を抱え、雲外鏡が首を傾げる。
「こいつ、嫡男なのかな? そうしたら許嫁とかいてもおかしくないのか……」
許嫁? と首を傾げた鎌鼬に、雲外鏡は「家に決められた結婚相手」と付け加えた。案外なんでも説明をしてくれる雲外鏡に、鎌鼬はふんふんと頷きながら、けれど、首を横に振る。
「いや、それくらいは知ってるよ」
「知ってんのかよ……そういえば、楓も嫡男かぁ」
暫しの沈黙の後、鎌鼬と雲外鏡は、ばっと顔を見合わせた。
「いや、重にいるわけねぇって! いたとしても、あんなやらしい奴ダメだろ!」
「楓にもいないよな! あんなおっかない奴の許嫁なんて、並の女じゃ務まんないだろーしっ!」
そうして、お互い俯いた。
――暫しの沈黙。
「人間界に、恋仲の奴がいたりすんのかな……」
「どーだろ……聞いたことねぇし、見たこともねぇけど……」
カップラーメンの容器をぱきぱきと潰して、雲外鏡は鏡の中に放り投げる。それから鏡をじぃっと見つめて、首を振った。
「見たことないってことはさ、雲外鏡は離れてても見えるんだ? 相手のこと」
「ああ? うーん、まぁ……」
曖昧な返事をする雲外鏡に、鎌鼬はずいと身を乗り出す。
最早、うまく隠すことは諦めている。尻尾を振りながら、雲外鏡越しに彼の鏡を覗き込んだ。
「人間の男と女って、どうやって番になんの?」
きょろりと大きな瞳で鏡に問い掛ける。次第に、鏡の中にぼんやりと何かが映り出した。鎌鼬の横でそれを見ていた雲外鏡が、さっと顔を青くする。
「ま、まさか……! おい、悪趣味ジジイ、ふっざけんな!」
がなる雲外鏡の手からふらりと逃れた鏡が変わらず何かを映そうとしてるが、雲外鏡が必死にそれを隠そうとしていた。鎌鼬には、何故雲外鏡が慌てるのかわからないまま、ぼうっとその遣り取りを見ている。
その内、鏡の方から鎌鼬の手元に飛び込んできた。
「あーもう! 他人のそんなの見たくねー!」
雲外鏡はそう言って樹の下に飛び降りると、頬被りの上から耳を塞ぎ、そうして小さく丸くなっている。
「どうしたんだ、あいつ……」
鎌鼬と言えば、飛び込んできた鏡が映した人間同士の絡み合う様を見て最初の内はぽかんとしていたが、次第にそれから艶めかしさを感じ取り、最後には雲外鏡と共に樹の下で丸まって黙り込む羽目になるのであった。
「重って、オレと番になりたいのかなぁ……」
そんなわけねぇだろ! と雲外鏡に一蹴りにされ、鎌鼬は自分の帽子を撫でながら住処へと戻っていく。
客観的に見たわけではないが、鎌鼬が重の部屋でされたこと、それは、雲外鏡の鏡が見せてきたものに近い……と思う。
鎌鼬の性器に口を寄せて咥えた重が、長い前髪を払って鎌鼬を見た、その表情も少し艶めかしかったことが思い出された。
(オレもあんな顔してたのかな……必死だったから覚えてないけど……)
睦み合っている男も女も蕩けたような顔をして、だらしない声を上げて鳴いていた。動物みたいだった。人間でも、あんな動物みたいなことをするんだと思った。
鎌鼬は、自分の前髪を払って、ぱんと頬を叩く。
「重が戻ってきたら、話聞いてみよ!」
――いや、オレと番になりたい? って聞くの? 絶対絶対バカにされるんじゃ……。
そう、バカにされている可能性だって十分にある。鎌鼬は帽子を外して、くしゃくしゃと髪を掻き混ぜた。
「もう、なんだよ……! こんなになってるのオレばっかりかよ!」
鎌鼬の苛立ちと焦燥は一向に収まらないまま、重には数日出会すことがなかった。葛ノ葉に来る詠も、どうやら重の行方は知らないらしい。ついでに、烏天狗に連れ去られたので詳しいことは聞けなかった。
悶々とスープの鍋を掻き混ぜている鎌鼬を見て、鬼火がむーっと口を尖らせる。
痺れを切らし、葛ノ葉のカウンターで鬼火がちょいと九尾の狐の袖を引いた。
「……鎌鼬さぁ、ここのところ変じゃない?」
困ったような顔をしている鬼火に、九尾の狐はそっと耳を寄せる。
「鬼火も理由を聞いてないのかい?」
「うん……何かあった? って聞いても、ちっとも教えてくれないし、大丈夫だーって言うんだけど……ボク、心配なんだ……」
「そうかい」
ふらりと尾を揺らした九尾の狐が、鬼火の言う通りに様子のおかしな鎌鼬を見つめる。
「これは……あいつに話を聞くとするか」
「あいつ?」
「ああ、心配はいらないよ。おまえたちも知ってる情報通に、ほんの少しばかり話を聞くだけだから」
九尾の狐の言葉に、鬼火はぱぁっと顔を輝かせ「うん!」と頷いた。
「やっぱり九尾の狐は頼りになるなぁ!」
鬼火の穏やかな声に、九尾の狐は妖しくも美しく微笑む。
そんな二人の遣り取りにようやく気付いた鎌鼬は、不思議そうに首を傾げるのだった。