光彩奪目を去なす -秘密-


がらんがらん、ばらんばらん、風が吹く度に鳴る鬱陶しい音に、重は苛立つ。ぎゃあぎゃあと鳴いては翼の音を立てて飛び去っていくその烏にさえも、神経が逆立って止まらない。
「ああ、最悪や」
眼鏡を外して目を閉じて、その瞼の裏でぐちゃぐちゃに歪む苛立ちを掻き混ぜる。まるで、臓腑を掻き混ぜているような心象風景に、諦めのような溜息が漏れた。
灯影街の幻みたいな夜の光、提灯の色彩を恋しく思うことがあるのだな。そう思うと、馬鹿らしくて笑えた。
「鎌鼬のもん食うてばっかいるからやろか、なぁ」
所用で灯影街を抜け出したのは三日ほど前、その時は、まさか灯影街を恋しく思うだなんて露ほどにも思っていなかった。

「やっほー、重! ラーメン食べに行かない?」
庵の戸をからりと開けて顔を覗かせた詠に、重は広げていた書物に視線を向けたまま応じる。
「……そっちの方、調べ物は終わったん?」
「まぁね……サボったらとサボったで、三倍くらいになって戻ってくるし……」
「詠は働き者やんなぁ……」
「強制労働だよ! 僕だってゆっくり涼みたい!」
庵の窓に頬杖を突いてゆったりと書物の頁を捲る重に、詠はきょとんと首を傾げる。
「ねぇねぇ、やけに絵になってるとこ悪いんだけどさ、何読んでんの?」
「御伽草子の御本や。大したもんとちゃいます」
ブーツを脱いで庵に上がってきた詠が、畳の上に膝を擦りつつ、重に近寄ってくる。
この庵は、元は烏天狗が暇潰しに作った茶室だったらしい。けれど、さっさと茶を嗜むことに飽きた烏天狗が放置していたものを詠に寄越したと聞いた。
「暇潰しで作ったもんだから、要らない物の物置にしてるんだよね、あのひねくれ者」なんてぼやいていた詠の言う通り、今はもう使わないらしい祭具やら人間界の書物が置いてある。
重は、その中に子供向けの御伽草子を見つけ、読み耽っていた。どうやら、この世界で言うところの獣憑きのことが描かれたものらしい。
「そういえば、烏天狗から重に伝言預かってたんだった」
思い出したように言った詠が、きょろりと瞳を動かした重に向かって呟く。
「研究に進展はあったか、だって」
普段一緒に引き回されているだけあって、どことなく表情が似てくるもので、まるで烏天狗が人を小馬鹿にしたかのように目を細める表情と詠のその表情がよく似ていた。
重は詠に向けていた流し目をさらりと戻し、そうしてそっと口を開く。
「お得意の千里眼でも使えばええんとちゃいますかー……」
そう嫌みを言えば、この嫌みさえもあの烏天狗の耳に入っていそうなものである。隣の詠が「それもそうだよねぇ」と、じとり目を伏せて呟いた。
あの悪趣味な烏天狗のことだから、きっと言わなくたって見ているし、見ているのにそういうことを言伝させる。繰り返し、悪趣味なことだと思う。
手元の本を、ぱたんと閉める。御伽草子の本を読んだところで、獣憑きがそうなるまでの過程がフィクションとして描かれているだけに過ぎない。烏天狗に言わせたところの、重の「研究」には役に立たない本であった。
「よーし、息抜きにラーメン食べに行こー!」
「詠は元気やなぁ……尊敬しますわ」
「ありがとう!」
褒めてへんわと言い掛けて、これ以上騒がしくなるのが嫌でやめた。
そうして葛ノ葉に行けば行ったで、鬱陶しい喧噪に巻き込まれることになるのだが。

はーあ、と溜息を吐いた重の目の前には、うっすいスープの素ラーメン丼が置かれている。
隣の詠の丼にはまともな色のスープが満ちているというのにだ。重のそれは、まるでお湯で薄めたかのような……
「このラーメン屋は、客にこないなうっすいスープ提供してはるん? はー、塩分控えめにってことかいな。客思いの店やんねぇ」
声を張ってそう言えば、隣の詠が「あはは」と笑っていた。笑い事ではない。
「トッピングはセルフサービスだよ」
九尾の狐が、自分はラーメンも作らずに尻尾を揺らしている。
「いや、せやからスープが薄いって言うてるやん?」
「うるさい男だねぇ。鎌鼬、スープ足してやったらどうだい」
鍋の前に立っていた鎌鼬が肩口に振り返り、そうして「けっ」と悪態を吐く。重も流石にカチンと来て、口角を釣り上げた。
「泥水じゃないだけ感謝しろ」
「この店は水増しスープだけじゃ飽き足らんと、泥水スープまで出しとるんかい。ええお仕事やわ」
「うっさいなぁ! そんなにスープが飲みたいなら、頭からぶっかけてやろうか?」
「おーおー、ちっさい鼬ちゃんにその寸胴重くないん? 力持ちでえらいわなぁ!」
「誰がちっさい鼬だ! あんまり文句言うと、またどつくぞ!」
段々と大きくなる言い合いの真ん中で、九尾の狐が両の手を叩いて鳴らした。
「喧しいよ、おまえたち。喧嘩するなら店の外でやんな」
ラーメンそっちのけで言い合いをしていた鎌鼬と重がカウンターに視線を落とすと、素ラーメンはすっかりスープを吸って伸びていた。大変な哀愁のある光景に、二人は思わず黙り込んだのだった。

「重のせいで、オレまで九尾の狐に怒られたじゃん……」
「元はと言えば、自分がうっすいスープ出してきたのが悪いんやろ? 詠のと比べたら、一目瞭然にオレの丼が酷かったわ」
「出してやっただけ有り難く思え」
「いや、いらんわ。あんな不味そうなスープ……」
それも、結果的に伸びてぶよぶよなラーメンまでついてきてしまった。粗末にしたら許されそうになかったので無理矢理口に突っ込んできたが、それにしても後味が悪い。
葛ノ葉を追い出された鎌鼬と歩きながら、重は心なしか重たい胃を撫でた。
「はぁ、ひどいわぁ……心外や……」
「被害者面してもダメだからな……オレ、まだお前のこと許してないし」
「許す? 何を?」
「何をって……お、お前なぁ!」
あっけらかんと聞き返した重に、鎌鼬が鎌を持ち上げ食って掛かる。
けれど、それをそうっといなして、重はにっこりと笑った。
「ああ、鎌鼬のおくち汚したことかぁ。堪忍なぁ? おいたしてもうて」
「よご……、汚したけどっ! うう……」
思い出して気まずくなったのか、鎌鼬はさっさと鎌を下ろしてしまった。
鼬の耳が垂れて、しょんぼりとした姿が愛らしい。身長差のせいで見下ろす形になるから尚更である。
重は鎌鼬の耳を指先でくにくにと弄り、そうして「反省してんで」と呟いた。
「鎌鼬も気持ち良かったやろ? それで許したって?」
「きもちよくない……きもちわるかった……」
「あはっ、傷付いてまうわぁ……」
羞恥と後悔で表情を歪めた鎌鼬が、唇を噛んでいる。ぽかぽかと赤くなっていく頬をつつきながら、重はやはり、にやと笑うことしかできなかった。
「絶対傷付いてない! 絶対オレで遊んでる!」
「遊んでへん、遊んでへん。ホンマに鎌鼬とスケベなことしたくなっただけやから」
そう言えば、鎌鼬は眉尻を下げて、上目遣いに重を見上げる。僅かに涙目になっている瞳がとろんと緩んでいた。
「あれってスケベなことなの……?」
「まぁ、そこそこスケベやろなぁ。せやから人に言うたらアカンで。オレと鎌鼬の秘密や」
「そんな秘密欲しくねぇし……」
ぶつくさと文句を言う鎌鼬の頬を軽く摘まんで、重は「ふーん」と声を上げる。
「なら、どないな秘密が欲しいん? スケベな秘密の代わりに、鎌鼬に一個、オレの秘密くれたるよ?」
「秘密……? 急には思いつかねぇよ……」
困惑したような様子の鎌鼬。
秘密をくれてやるなんて、いくらでも嘘が吐ける。甘言に弱そうな化け物を誑かすのも、いくらかは悪くない。
「思い付いたら言うて? 善処するし」
「じゃあさ」
「うん」
鎌鼬が、重を見上げる表情を変えないまま、ぽつりと言った。
「本当は、オレをどうしたいの?」
えらく核心を突く。もっと遊びのあることを聞いてくれれば良いものを。重は薄ら笑いを浮かべたまま、なんでもないことのように返事をした。
「自分、かわいらしから、頭から食うてしまいたいかもな」
譫言のような調子で言った。鎌鼬は、案外不思議そうな顔をしていた。
それが、血肉としてと言ったら、この動物はどういう反応を見せるんだろう? 想像すると、ほんの少しだけ心が躍った。

「研究」は、といえば、灯影街にある資料や伝承では何をも掴めずにいた。重はいつの間にか、暇潰しで始めた「研究」に僅かに熱心になっていたのである。
(大門抜けて、あっちにでも戻ってみよか……)
そんな軽い気持ちでの帰省であった。
別に家族の顔を見たいわけではないが、それでもだ、この男を甘やかして育てた「母親」は重の顔を見たがる。
灯影街で感じる妖気に慣れた体には、人間の世界の空気はあまりに薄い。薄い、というと語弊があるやもしれないが、人間界においても未だ神気や妖気の漂う霊山や聖地の類は、空気からして人間の侵入を拒絶している。神気や妖気が人間の臓腑に触れれば、体が「これ以上進んではならない」と警告を鳴らす。これは神話の時代より人間が持つ本能によるものである。
灯影街には、その淀みが僅かに存在している。当然だ。あそこは本来、妖怪の住処なのだから。
妖怪を追放した人間界は、平時、その淀みが限りなく薄くなっている。
本来人間である重からすれば、それが普通で、それが故郷である。
しかしだ。
(ざわざわする……)
首の裏が泡立つ。
蛟の本物の妖気で体がすくんだ時、これに近いものを味わった。その時は流石に恐怖が勝り、冷静に分析することなどできなかったが、それでもこの感覚は――ある種の防衛本能だ。
こそこそと中央を抜けて資料を漁り、伝承に纏わる神社の存在を知る。
(少し離れた場所になるか……さくっと行って戻るのは難しそうだ)
一応は、職務を放棄して抜け出して来ている。これがまた上の人間に知れたら面倒である。先日降格の処罰を食らったばかりであるから、重にとってそれはうまくない。
うまくない――そう、だから重は渋々と母に会うのだった。
「〈重〉さん、こちらへ」
「母さん、ご無沙汰をしております。先日の失態、家にも知らせが届いていることでしょう……出来心とは言え、家の評判に障ることを致しました。申し訳ありません」
高官が密会に使うような料亭に招かれる。
通された座敷で、重はさっと膝を折って座ると、すぐに頭を下げた。
心にもない言葉が、よくも口からするすると出てくるものであると我ながら思う。
「そんなことは良いのです。貴方のことだから、名を上げようとしてのことでしょう? それより、その件がきっかけで、向こうで酷い目に遭ってはいませんか? 体は大丈夫?」
「はい、お陰様で」
頭を上げて、「母親」を見る。視線の動かし方、喋り方から全ての所作、何から何まで演技でできている自分を面白おかしく感じ、また呆れてしまう。
(……妖怪の奴らは、こんな気持ちなったことあらへんのやろな)
そもそも親はいるのか、どうやって生まれるのか、それもこれもバラバラの輩なのだから、悩み苦しむこともあるまい。
(鎌鼬は、どないして妖怪になったんやろか……)
そういえば聞いてみたことがなかった。あのように、それほど強くない妖怪に興味を持ったことがない。
羊羹と兎の形を模した和菓子を「おあがりなさい」と出された。つい、ぴこんと動く鎌鼬の耳を思い出す。
(兎さんやのうて、あれは鼬さんや……)
くすりと笑うと、「母親」は不思議そうに目を瞬かせた。
「いや、少女に出してやるような菓子だと思いまして」
「薦められたのでね。気に障ったらごめんなさい」
「いえ」
それより、と切り出す「母親」に、重は視線を上げる。
「〈英〉殿とはうまくやっているでしょうね」
「……英はん……いや、〈英〉さんは、そうですね……良くしてくださいます」
振られるとは思っていた。けれど、実際に話題が出れば気も塞ぐ。否、癇に障る。
「古い学友として助けてくださっているのです。〈英〉殿には失礼のないように……今回のことも、〈英〉殿の報告があって降格で済んでいるのでしょうから、感謝なさいね」
「はい。それはもう」
重は黒文字を和菓子の兎の脳天に突き刺し、そうしてぱかり切って割った。それを口に運び奥歯で咀嚼する。
英の家には、世話になっている。
――お前と私の間に家柄は関係ない――士官学校時代に、よく英に言われた言葉である。
(それは、あんたの家からすればだろう。いや、あんた個人からしたら……か)
重の方はと言えば、そうはいかない。学生時代より、英の機嫌を損ねるな、それは直接家の損失に繋がるからと散々言われてきたのだ。
なのに、英は重に本気で接しろ、本気で勝負をしろとあまりにも快活で愚かなことを言う。その鬱憤が……英の目を潰した試合に繋がるのだが。
(秘密、か)
こんなのは秘密でもなんでもない。元を正せば子供の癇癪だった。しかし、それを誰もが咎めようとしなかった――英が、試合中の不運な事故、己の力不足だと貫き通したからだ。
(オレは、そんなこと望んじゃいなかった……)
卑怯者と罵れば良かったのに、そうして、重の家を存分に詰れば良かったのに。
(滅んじまえ、こんな家は)
兎の頭を飲み込んだ喉元が、もやもやと気分を害する。この料亭に入ってから、いや、帝都に入ってからあまり気分が優れない。灯影街の空気に慣れてしまったとでも言うのだろうか。
「母親」との挨拶を済ませ、さっさと大門を潜ろうとはやる重の耳に、風を受けてばらばらと音を鳴らす木札の群れの音が届く。それが、酷く耳障りだった。
ぎゃあぎゃあと鳴いては翼の音を立てて飛び去っていく烏たちが、まるで烏天狗のあざ笑っているかのように聞こえて、重は静かに舌を打つ。
「ああ、最悪や」
今まで一度も思ったことがないかもしれない。さっさと、あのおままごとみたいな世界に戻りたいだなんて。
「鎌鼬のもん食うてばっかいるからやろか、なぁ」
飲み下した兎の頭を思い出す。ほんの僅かに漏れ出した罪悪感に、たかが和菓子だと思うのに、それでも喉元がもやついて仕方が無い。
食ってしまえばなくなるものを、どうしても今は口に入れたいと思った。