Lollipop DeadEND - 01


水の中で手を掴まれたような感覚だった。
それまで自分がもがく泡に阻まれ、取り巻く水の圧に怯え、諦めてきつく目を閉じた藍色の暗闇の中、呼吸の仕方もわからないまま「不可能」を突き付けられる。その苦しみの最中、手を掴まれたような感覚だった。
「俺は、とんでもない沼に足を取られたもんだと思ったよ」
 そんな風に呟いて煙草をふかす。最近は、そうして煙草を吸う姿があまり好きではないなと三月は思う。まるで、その煙の中、言いたくないことを隠しているように見えてならないからだ。
「……あんた、本気で言ってる? オレみたいな奴が転がりこんだ上に、ナギまで連れて来たの、悪かったとは思ってるよ」
三月がそう吐き出せば、大和は少し笑って首を振った。ふらりと渦巻く副流煙がくゆりと揺れる。
薄く消えていくそれを睨みながら、三月はふっと息を吐いた。そんな煙、さっさと換気扇に飲まれてしまえば良いのに。そういえば、換気扇を回していない。三月が立ち上がって、台所の換気扇に向かおうとしたところを、大和が――三月の腰を引き寄せる。
「おい」
誤魔化すな。そう言おうとした口に、煙草のフィルターを差し込まれ、三月は思わず噎せた。けほ、と煙草を吐き出す。床に落ちたそれを、慌てて踵で踏み付けた。
しゅっと消えてしまった橙の火に、三月はほっと息を吐き出そうとした。その口を、すかさず塞がれて、目を閉じる。
 大和のシャツをきゅっと握って、ただその口付けを受け入れていると、舌先がメンソールの煙草の味を伝えてきてうんざりとした。
(どっちが、沼だよ……)
この街も、二階堂大和という人も。
くちゃりと絡まる唾液の隙間、メンソールの味はさっさと消えてしまった。瞳を上げる。
(吸った気にもならない煙草、やめちまえば良いのに)
相手のシャツを握ったまま、今も三月は離れられずにいる。

 -Tricolor-

 男が二人、錆びた階段の下で何かをつついている。それはまるで、死体に群がるカラスのようだった。
 男らは横たわっている人間のワイシャツを出鱈目に開いて、次にはスラックスのベルトを外そうと、がむしゃらに手を動かしている。
たった一人を取り囲んで、リンチか? それとも物盗りかだろうか?
「そこにいるのは……ちびっこおまわりさん?」
普段だったらさして相手にしない。けれど、その真ん中で丸まっている獲物に、大和は見覚えがあった。
「ああ……おまわりさんじゃなくて、刑事さんだったっけ」
 そう言えば、大和の声に手を止めて呆然としていた男たちが慌てて立ち上がった。外されかけていたベルトが、「死体」の上で間抜けに捲れ上がっている。
「あんな奴らに負けるなんて、らしくないな、和泉刑事……確か、お前がお兄ちゃんの方だよな?」
 カンカンと金属の音を鳴らしながら階段を降りていくと、男たちはさっさと逃げ出した。
男たちの慌てふためく足音にも、そして、大和が呼び掛ける声にも、例の刑事は返事をしない――本当に死んでしまっているのだろうか?
まさかなと思い、大和は、横たわっている彼のその表情を覗き込む。
 顔色が酷い。今が夜であることを差し引いてもその顔は青く、体はガタガタと震えている。痙攣しているのか、瞬きさえもびくりびくりと不自然で、ままならないようだった。
「和泉……?」
大和が触れようと手を伸ばすと、その刑事は怯えるように身を縮こまらせた。けれど逃れることはできず、ずるりと衣擦れの音が鳴るに過ぎない。
「……おい、どうしたんだよ」
普段大和が見ていた彼の溌剌さは影も形もない。今目の前にある彼は、芋虫のように体をくねらせ、惨めに丸まっている。
出鱈目に開かれているワイシャツのすぐ傍ら、落ちている警察手帳を拾って、大和はそれを開いてみる。
「和泉……さんがつ……? みつきか……なんだ、名前も可愛いかったんだ?」
大和の冗談さえも、まるで聞こえていないらしい。
「三月刑事……?」
三月の警察手帳を自身のスラックスのポケットに差し込んで、蹲っている彼に手を伸ばした。けれど、その手を取ろうとする様子もなく、その上、焦点さえ大和には合わせない。
何を見ているのか、頭を抱えて蹲っては苦しんでいるだけだ。
「参ったな、もう一人の和泉に連絡……」
そう言った瞬間、がしりと革靴を掴まれる。見下ろせば、三月がようやく睨むように大和を見上げていた。
「弟は呼ばれちゃまずいんだ?」
「あ――」
三月の喉から、言葉にならない呻きが上がる。
かは、と吐き出されたのは、さして色のない――涎? 胃液?
そのまま、げほげほと噎せて、また蹲ってしまった三月の腕を引き摺り上げる。異常に重い。
自分で歩かせることは早々に諦め、大和は三月の背中を抱いた。縮こまる彼の膝の裏に腕を差し込み、多少の踏ん張りを利かせて、人の形をした塊を持ち上げる。
「刑事さん、ちょっとごめんね」
がくんと首を項垂れた三月が、朧気に大和を睨む。三月のこめかみに貼り付いた前髪からは異臭がした。
「おいおい、とんだ野良猫拾ったなぁ……いや、犬か……?」
うるせぇよ、そう三月の瞳が言っている。どうやら意識は戻りつつあるらしい。それを確かめ、大和はゆるりと目を細めた。
「そういう顔ができるなら、大丈夫か?」

「そういう顔ができるなら、大丈夫か?」
古くなって廃棄されているらしいダストボックスに隠れていたナギが、そっと顔を上げる。そこには、ふわふわとしたくせっ毛を揺らす小柄な男の顔があった。
「逃げてるの見掛けてさ、追い掛けてたんだけど」
――大丈夫そう? 男を見上げ、その外界の明るさにナギは顔を顰めた。決して睨みたかったわけではない。結果的にそうなってしまっただけだ。
目を擦って、もう一度男を見る。相手の童顔に向かって、ナギは「〈君の方こそ〉」と言葉を掛ける。男は、聞き馴染みのない言葉に首を傾げていた。
「失敬……あなたの方こそ、彼らに危害を加えられませんでしたか?」
ナギは日本語に切り替え、改めて尋ねる。すると、ナギを見下ろしていた男が、ほっと安心したように息を吐いた。
「オレの方は大丈夫。それより、堅気じゃないのに追われてたみたいだな……そこから出られるか?」
ナギは男に誘導されるまま、ダストボックスから抜け出す。生憎と体は柔らかいので、多少狭いところに隠れていても……とはいえ、限度がある。ふらふらと無様に這いずり出て、改めて童顔の男を見た。
「……彼らはどこへ?」
「ああ、ちょっとさ」
男が顎で示す方を見れば、地面に崩れている黒服が二人ほど。
「ちょっと怪しかったから、寝ててもらってんだけど……もしかして、まずかった?」
 涼しい顔でそう言ってのけた男に、ナギは僅かに首を竦める。一体、何者なのだろう?
「……どなたかは存じませんが、助かりました。随分と強いのですね?」
「あー、まぁ、元刑事だからさ。多少は覚えがあるっつーか」
「ケイジ? 日本のポリスですか?」
「元、だけどな」
眉根を寄せて笑う男に、ナギも釣られて微笑んだ。
「お名前を伺っても?」
「ああ、オレ? 三月。ミツキ・イズミ。そっちは?」
「ナギ・ロクヤ。六弥ナギと申します」
ナギはシャツの胸元のレースを整えて、そっと胸に手を添えお辞儀する。抱えていたクマのぬいぐるみの埃も払った。ついでに、ナギは腰にもいくつかマスコットを下げている。
「こちらは、クマのハルキ。それから、こっちはここなで……」
マスコットに一つずつ挨拶させようとすると、途中で三月がナギの言葉を遮った。
「なぁ、オレが言うのもなんだけどさ、こんな所で悠長にしてて良いのかよ。お前、何で隠れてたんだ?」
「それは」
ナギが隠れていたのは他でもない。三月が先程のした輩に追われていたからだ。それを、三月も察していたのだろう。彼の表情からは少しだけ焦りの色が見える。
ナギはここなのマスコットを胸のポケットに入れて、それから率直に「ワタシは追われています」と言った。
「そいつはまた物騒な話だな」
「はい、とある研究施設から逃げている最中です……」
ナギは、クマのハルキを抱く手に力を込める。
「組織の人間は、ワタシのことを連れ戻そうとしています」
「組織……? お前、綺麗な格好してるけど、何かヤバい奴?」
「ヤバくはないと思いますよ」
ヤバいかヤバくないかを、ヤバいと思しき人間に聞く物ではありませんよ、ミツキ……と思いながら、ナギはそっと三月の肩に手を置いた。
「それよりミツキ、もう一人追っ手がいたはずですが、彼の行方をご存知ですか?」
「あと一人……? え、マジ? そういうことはもっと早く言って欲しかったぜ……」
「失敬……」
ナギはキョロキョロと視線を巡らせた。周辺には、既に追っ手はいないように見える。
「ミツキは、この街に詳しいですか?」
「まぁ、それなりにはな」
「どこか、ワタシのような人間が紛れ込める場所をご存知でしたら、是非教えて頂きたいのですが……」
「紛れ込める場所、ねぇ……」
頭を掻いて言い淀む三月に、ナギが僅かに首を傾げる。すると、目の前の三月は困ったように笑った。
「どうだろう、良いって言うかなぁ……」
もしかしたら、三月にはナギの不安が伝わってしまったのかもしれない。ナギはそんな風に思った。
「安心できるかどうかわかんねぇけど、ついてこいよ」
幼い表情を持った三月のその姿が、今のナギにはまるで天使のように見えた。
それは、がむしゃらに泳いでいた水の中で手を掴まれたような、そんな感覚。安心するには早いが、それでも確かに安らぎへと繋がるものであった。
三月は小柄な体型ながら、大人っぽいスラックスを穿いていて、足下にはキャメルの革靴というスマートな佇まいだった。それが、三月の幼い顔付きとアンバランスに見えながらも、決して釣り合わないわけではない。
腕に抱えているスーツのジャケットが汚れているところを見ると、もしかしたらナギを助けるために台無しにさせてしまったのかもしれなかった。
元刑事と言うからには、本人の言う通り腕に覚えがあるのだろう。それにしても、組織の人間を二人ものしてしまうとは思えない外見をしている。どこにそんな力が隠されているのだろう。
「ミツキ……ジャケットは無事ですか?」
「ああ、これ? 元々裏地が裂けてたし、ナギのせいじゃないよ」
「それなら良いのですが……生憎と、今のワタシにはお返しできるものがありません。台無しにさせてしまっていたら申し訳がない」
ナギが不安そうに声を掛けると、三月はやはりニッと笑ってナギを見上げる。
「……律儀な奴で安心した」
こんな天使がエスコートしてくれるのだから、行き先は穏やかな場所に違いない。そんな油断が身を滅ぼすことを知っていながら、ナギは三月を信じてみることに決めた。
ここまで、一人で逃げて隠れてを繰り返していたことに疲弊していたせいもある。少なくとも三月はナギの敵ではない。もし彼が敵だったとするならば、あそこで追っ手二人を殴り倒す必要はないのだ。
組織からは、ナギに危害を加えるなという条件は出ていないだろう。何がなんでも検体として連れ戻したい。死ななければ良い。注文は、それだけに違いない。
(組織以外の人間が、私に接触する可能性は極めて低い)
そう、だからこんな天使に唆されるのも悪くはないはずだ。ナギはそう思っていた。
三月はとても愛らしい顔立ちをしている。あとは天使の羽でも生えていれば完璧だろうに。
そんなナギの安穏とした油断は、別の意味で砕かれた。
「〈なんてことだ。悪魔みたいな男が出てきた……〉」
「誰が悪魔だよ」
思わず口を突いて出た英語に、何の躊躇もなく返事をする悪魔。もとい悪魔のような男が、目元の眼鏡ぎらつかせてナギを睨んだ。
「おい、ミツ。この失礼なガキ、どこで拾ってきたんだ? 初対面で悪魔って、どういう神経してんだっつーの……」
「ああ、なんちゃらデビルってそういうこと? まぁ、間違ってねぇよな。大和さん、目つき悪いもん」
だははと大口開けて笑う三月と、その向かいの机で頬杖を突いている男。その二人を交互に見やって、ナギは溜息を吐いた。
天使に連れられてきた先は、古いマンションの一室だった。
どうやら、ワンフロア丸々この眼鏡の男の物らしい。エレベーターで移動する途中、三月が「事務所兼自宅」と言っていたことを思い出した。
「ナギ、このおっさんさ。ああ、この悪魔? オレの雇い主。大和さん」
「だから、誰が悪魔だ! 怒るぞミツ!」
「まぁ、顔は悪人面だけど、悪い人じゃないよ。いや、悪いか……? 悪いことしてないって言えば嘘になるか?」
三月が、大和本人の方を向いて尋ねる。悪魔だの悪人面だのと言われた大和は、三月を睨み付けて口を尖らせていた。
そんな大和を見て、ナギはぐるりと首を巡らせた。部屋の中は物が少なくすっきりとしているが、それでもここが古い建物であることは否めない。広い空間にはベッドとソファと、奥にはキッチンが見える。二人分の食器が適当に積まれていた。
「〈ああ、天使についてきたはずなのに……まさか、行き先が地獄とは〉」
「〈地獄とはなんだ、地獄とは。本当に失礼なガキだな……〉」
返事をしてくる大和の隣でぽかんとしている三月。どうやら、三月にはうまく通じていないらしい。
「それよりさ、大和さん。こいつ、何かヘンな組織に追われてるらしくて、ちょっとの間匿ってやってよ」
「はぁ? 何お人好しかましてんだ、お前さんは……大体、お前が勝手に連れてきたってことは報酬の話もしてないんだろ? こっちはビジネスやってんだぞ。ボランティアじゃねぇんだよ」
そう言う大和に、三月は両の手をぱんと合わせて「お願い!」と言った。
「オレも、こいつの追っ手? 二人のしちまってさぁ……で、もう一人仲間がいるらしいんだよな。なぁ、これってヤバいよな?」
 大和は、「なんだって?」と素っ頓狂な声を上げた。
「どうしてそういうことを早く言わないんだ、お前は……」
「ごめん」
三月の話を聞いていた大和が、ぎりぎりとぎこちなくナギの方を振り返る。
「お前……ナギって言ったっけ。何者? なんで追われてるんだ? 組織ってどういうことだよ」
「あなた方の方こそ、先程ビジネスと言っていました。一体、何のお仕事をなさっているのです?」
ナギが逆に聞き返すと、大和の隣にいた三月がすたすたとナギに歩み寄った。それから、ナギの持っているクマのハルキの顔を覗き込み、にこりと笑う。
「オレたち、殺し以外の依頼ならなんでも受ける事務所やってんだ。探偵みたいなもん? 二階堂事務所って言うんだけどさ。オレはボディガード兼所長補佐。で、大和さんが所長」
「ついでに、自分は居候ですって付けとけよ、ミツ」
「……ああ、そうそう。訳あって居候させてもらってる」
 渋々とそう言った三月が、余計なことをとばかりに大和を振り返った。そんな大和が、嫌みっぽく溢す。
「その居候が、勝手に面倒そうなの連れてきたわけだ?」
「まぁ、そう……そういうことです」
ナギの目の前で小さくなる三月。そんな三月を眺めつつ溜息を吐いた大和が、そっとデスクから立ち上がった。つかつかと歩み寄り、それからナギのぬいぐるみをやはり覗き込む。
そして、今度はナギの瞳をすいと覗き込んだ。目付きは悪いが、どこか愛嬌のある顔をしているこの眼鏡の男は、ナギの瞳をじいと見つめたままで笑った。
「随分とまぁ、綺麗な顔してるんだな? それに、見たところ服も上等。なんでミツがのしちまうような奴らに追われる羽目になってるんだ? この辺、物取りもあると言えばあるけど、そういう感じじゃなさそうだし……話の内容によっては匿ってやっても良い。まぁ、うちの従業員にも軽率なところがあったしな」
そう言われ、三月が大和の隣でぽりぽりと頬を掻いていた。
仕事の内容に不明瞭な点が多いが、一概に悪い人間だとは思えない。ナギは、そっとクマのハルキを抱き直す。
「ハルキ……話しても、大丈夫でしょうか……?」
「ハルキ……?」
「って、確か、そのクマだよな……」
ナギと出会した時の記憶を手繰り寄せてそう尋ねた三月を、大和が振り返る。三月と大和は顔を見合わせ、それから首を傾げた。
「そのぬいぐるみが、何だって?」
「……ワタシを追っているのは、ある研究組織の人間たちです。ワタシは、そこで長らく被検体にされていました……その中で、研究員の一人、ハルキがワタシを逃がしたのです」
「その人、このクマと何か関係あんのか?」
三月は、ナギの手元の「ハルキ」を指さして尋ねる。
「Yes……これは、ハルキからワタシへのプレゼントです」
ナギが、改めてクマのハルキを抱く腕に力を込めた。
「ハルキは、母国より連れ出されたワタシに日本のことを沢山教えてくれました。そして、この街まで逃がしてくれた……まるで映画のように思えるでしょう? けれど、嘘ではありませんよ」
冗談のように言ったナギに、三月と大和は再び顔を見合わせ、それからぼそりと呟く。
「自分のことを被検体だって言ったな」
「はい。その通りです」
「ナギ、お前は、具体的にはどんな実験を受けてたんだ? 知ってる範囲で良い。教えてくれないか」
「それであなた方の警戒が解かれるのであれば、お安いご用ですよ。そうですね……ワタシが受けていた実験は、前頭葉の活性化……脳の改造です」
ふらりと、三月が視線を落とす。その一方で、大和は表情を変えないまま、「それは」と続けたが、大和の言葉は部屋の隅から鳴ったビープ音に掻き消された。
「おい、ミツ……詰めが甘かったツケが今、このタイミングで回ってきたんじゃないのか?」
「えー……尾行されてたかな? おかしいなぁ……誰もいなかったよな?」
それまで少し表情を曇らせていた三月が、わざとらしく驚いたような表情をした。話を振られ、ナギはうんうんと頷く。
「見える範囲では」
「見える範囲では、だろ」
そんな三月の態度を見かねて、大和はさっさとデスクに戻った。開いたままにされていたパソコンを覗いて、さっと眼鏡のブリッジを上げる。
「あっちゃー……」
横からそのモニタを覗いた三月が、半笑いで言った。どこまで本気なのか、さっぱりわからない態度だった。
「ミツ、さっきの喧嘩、お前さんの稼働時間は……?」
「えーっと、七分くらい……?」
「本気で動けるのは、精々あと二〇分ってとこか……」
モニターを睨みながら、何かの数を数えている大和。三月と大和の二人は、ほとんど同時に顔を上げて、ナギに向かって手招きをした。
ナギは招かれるまま素直に近付き、そして、促されるままモニターを見つめる。そこには、組織の人間と思しき者たちが四人ほどだろうか、映っていた。コンクリート張りの駐車場、そんな場所でコソコソと動いているのが見える。
「ここは……?」
「このマンションの一階だな。駐車場になってるよ」
冷静に言う三月。
その隣で、肩を落としている大和が、デスクの引き出しをがらりと開ける。
「相手が悪そうだ。ミツ、一応携帯しとけ」
「えー、重たいからいらねぇよ」
なんのことかと思い、ナギも視線を落とせば、そこには拳銃が収まっていた。些かぎょっとする。
「……あなた方は、本当に一般人ですか?」
「はい、善良市民です」
「模範的市民でーす」
本当に、どこまで本気かわからない態度だった。
三月から拳銃の所持を拒否された大和は、さっとその引き出しを閉め直し、鍵を掛ける。
「って、悠長に言ってる場合じゃないぜ。オレ、ちょっと行ってくるよ、大和さん」
「ちょっとで済むか?」
「済まなかったら連絡する!」
そう言い残してさっさと走り出した三月が、派手に部屋のドアを開ける。
「了解……って、ちょっと待てミツ!」
大和は慌てて、そんな三月の名前を呼んだ。振り返った三月が、持っていたジャケットを部屋の中に放り投げる。
その代わりに、大和が「何か」を三月に投げ渡した。三月はくるりと体を翻しながらそれを受け取ると、「サンキュー!」と言って走って出て行った。
「ミツキ一人で大丈夫なのですか……? せめて、警察に連絡を……」
「あー、それもするけど、大丈夫大丈夫。今、保険も渡したし?」
宙を舞って三月の手の中に滑り込んだもの。銃の所持は先程拒否されたというのに、大和は三月に何を渡したというのだろう。
「あれは一体何なのです?」
「あれ? あれは」
マンションの廊下を走り、そうしてエレベーターを待つことなく非常口の階段を滑り降りていく三月の手には、銀色に光る金属の塊が二つ。
風のように走り抜けていく三月が、それを両の手に嵌める。
映ってすぐに消えてしまったが、そんな三月の様子を別のカメラで確認しながら、大和がニヤと笑った。
「指輪だよ、指輪」
 さて、と大和が眼鏡のブリッジを上げた。そして、改めてナギに向き直る。
「お前さん、前頭葉の改造を受けたって言ってたな。具体的には、それで何ができるようになったんだ?」
 ほんの僅かだが、大和の顔付きが変わったように感じて、ナギは固唾を飲む。
「……信じるかどうかはヤマト次第ですが、ワタシには人の死の予測ができます。あくまで予測の範囲……ですが、人間の脳は九割が使われないままで存在している。その一部が活性化した結果、ワタシは、目の前の状況において、常に最悪のパターンを予測することができるのです。例え、ワタシの意識が気に留めていないようなことでさえも……」
「なんだそりゃ……殆ど第六感ってことかよ」
聞き慣れない言葉に、ナギはつい聞き返してしまう。
「ダイロッカン?」
「あー……シックスセンス?」
天井に視線を巡らせ、「第六感」と言った大和に、ナギは何度か頷いた。
「ヤマト、ワタシからも質問があります。よろしいですか?」
「ああ、どうぞ。俺が答えられる範囲ならな」
ひらりと手を上げた大和に、ナギはふっと小さく息を吐いて、それから階下に降りていった三月の幻影を視線で辿る。
「ワタシの能力が、ミツキの死期の早さを算出しました……大丈夫かと尋ねた時、彼は大丈夫だと言いました。けれど、ワタシには、ミツキを見ていると何故こんなにも不安になるのかがわかりません……彼が元々刑事だったということを考慮しても……何か、心当たりはありますか?」
そう尋ねると、大和は些か不機嫌そうに眉を顰めた。けれど、すぐに溜息を吐いて頭を横に振った。
「あーあ、何かが見えてるってのは本当らしいな」
「〈……もしや……彼は、病気なのか……?〉」
「いいや、そうじゃない。そうじゃないが……俺が今お前に色々聞いてるのも、ミツの……和泉三月のためなんだよ」
「Why……?」
「何故だって?」
 どういう顔をしていいかわからない。けれど、頭のどこかが勝手にぎゅるりと歯車を回した――まさか。
「あいつもお前と同じ……改造を受けた人間だからさ」

たんっ!
三月は最後の階段を下りきって、はっと息を吐く。
このマンションは元々、外敵からの襲撃に対して些か手強いように作られていた。
まず、非常階段は二つ存在している。ターゲットの連中が進行をしている階段、あれは表向きの物だ。それに対して、今三月が駆け下りてきた階段には少し細工があった。
三月は、防火扉の、そのまた更に内側にカモフラージュされていた非常階段の出口をそっと開く。
大和に言われたタイムリミットは二〇分。階段を駆け下りてきたことを考えれば、あと十五分ほどで片を付ければ十分だろう。
(さてと……)
メリケンサックを嵌めた両の手を、ぎりりと握り直す。防火扉の隙間から、非常階段の周囲を警戒している相手を睨んだ。駐車場に残ったのは二人、つまり、階段を登り始めたのは別の二人ということになる。三月は片手で携帯電話を操作して、大和に伝える――上ったのは二人。多分。
そして防火扉の隙間から抜け出し、身を低くする。駐めてある車の影に体を忍ばせ、相手の二人分の得物を確認。
三月の瞳孔が、きゅるると音を立てて広がった。
(スタート)
後ろ足でコンクリートの地面を蹴る。
相手の得物は拳銃。あれは両方ともオートマチック――自動式拳銃は連射に長けるが、発射の反動が大きい。相手は、発砲にそれなりに慣れているということになる。
いくら三月が身軽に足音を殺そうとも、近付けば気配は悟られる。二人の内、一人が三月の存在に気付き、声を上げようとした。上の人間にバレるのは上手くない。が、両者共に耳にはインカムがある、報告を防ぎきるのは難しそうだ。
ならば、できるだけ早く、速やかに片付けるべきだ。
三月は体勢を低くしたまま大男の懐に飛び込むと、そのまま左の足裏に力を込める。地面を蹴り上げ、全体重を乗せたアッパーを顎にお見舞いしてやったそのままに、男の襟刳りを掴む。ぶんと回して、もう一人に向けた盾にさせてもらう。
流石に、味方を盾にされれば多少の動揺も生まれるものだ――それも、三月のような小柄な人間にされれば尚のことだろう。たじろいだ一人が後退る、その動きを、三月は大男越しに見逃さなかった。
大男の襟からさっと手を離す。ゆっくりと崩れていく巨体にタックルをして、吹っ飛ばした。いくら全体重を掛けようとも、体格差を考えれば容易いものではない。が、今の三月は、それを「可能」にしている。
――一時的な身体能力の増強だ。
吹っ飛んだ大男の直撃を食らったもう一人が、その重さに泡を吹いて気を失った。それを確認して、三月は男の手元の自動式拳銃を、計二丁を回収する。
「……弾は使ってないか」
安全装置が掛かったままになっている一丁、それをベルトに挟んで、三月は立ち上がる。もう一丁だけ握って、安全装置を確認した。こちらは、今さっき三月に向けられた物だ。外れている。
上部から、僅かな足音が聞こえる――異変に気付いて戻ってきているのかもしれない。
耳を澄ませば、その足音は段々と早くなる。三月は開けたままだった防火扉にそっと体を滑り込ませ、しゃがんで身を潜める。
ここを上って、逆に階上から狙ってやってもいいが、間に合うかは微妙なところだ。更に仲間を呼ばれては……流石に、三月に許された時間の方がタイムアップしてしまう可能性が高い。
薄目に開けた防火扉から非常階段を見れば、身を潜めながら降りてきたのは一人だけだった。恐らく、もう一人は上の階に残っているのだろう。
三月は、撃たれることなく弾が装填されたままの銃をちらりと見下ろす。
周囲を警戒しながら仲間の身体を探っている男に向けて、標準を合わせた。三月がトリガーを引けば、発砲音が駐車場に響く。続いて、男の体がびくりと震え、崩れた――たかだか、肩に一発くれてやっただけだが、意表を突いた効果はあったらしい。
三月はさっと歩み寄って、倒れ込んでいる男の――先程弾を撃ち込んだ場所を、革靴の底で踏み付けた。
「ぐあああ……っ!」
「静かにしろ。お前らの目的を言え!」
「な、なんだお前っ、う、ぐう」
呻き声を上げながら三月を睨み付ける男の肩を、更に強く踏む。
「早くしろ。こいつらは気絶してるだけだけど、お前はどうだろうな? 今なら医者を呼んでやってもいいぜ」
「〈この、クソ野郎!〉」
「あーあ、まーた英語かよ……」
三月は、仰向けになっている男の鳩尾に踵を落とす。本人からすれば極めて軽くであったが、果たして受けた人間は……どうだったのだろうか?
くたりと気絶した男からも銃を取り上げ、スーツジャケットの中を探る。情報源になりそうなものは入っていない。
「……あと一人に懸けるかぁ」
三月はがりがりと頭を掻いた。手元にある自動式拳銃をすべてベルトの間とポケットに突っ込み、安全装置が外されたままの一丁だけを握り直す。
風のように非常階段を駆け上り……体を慌てて翻す。頭の上から降りてきた銃弾を、壁に隠れて避けた。
「ちっ……」
もう一発撃たれようものなら相手のおおよその位置がわかるが、それだけのために囮になるにはリスクが大きい。見晴らしの悪い階下では、情報が少な過ぎる。
三月は暫し逡巡する。携帯電話を取り出し、大和に電話を掛けた。
「やーまとさん!」
「な~あに?」
「……なぁ、オレちょっと立場悪いんだけど、そっち元気?」
電話のスピーカーを通さずとも、声が反響してくる。非常階段の上からだ。
三月はにやりと口角を上げて、それから階段の上を見上げた。
「まぁ、こっちはそれなりに?」
そこには、両手を挙げて固まっている男と、その男に背後から銃口を向けて立っている大和の姿があった。
三月はそれを見て、飛び上がるようにして階段を駆け上る。
「よっしゃー! 助かったー!」
「時間ギリギリ過ぎだよ。何タラタラやってんだ。だから持っていけって言っただろ」
自分の手元の銃を一瞥する大和に、三月はくるりと回って自身の腰周りに挟んでいる拳銃を見せ付ける。
「だって手に入ったしさ?」
そのまま、手に持っていた拳銃を一発、壁に向けて撃ち放す。手を挙げたまま微動だにせずにいた男が、びくりと体を震わせた。
三月は、弾倉が空になった状態で安全装置を掛けると、それをベルトの腰骨の辺りに挟んだ。
「持って行ってたら、重量オーバーになるところだったって」
大和に近付きながら、ふらりと手を上げる。そのまま――動けずにいる男の脇腹に向かって、拳をねじ込んだ。
一瞬の静寂、ばきりと鳴る音――何の音だったろう。恐らく、肋の骨が折れる音だったと思われる。
吹き飛ばされた男が階段の手すりにぶつかり、そのまま沈み込んだ。
「おいミツ、手すり歪んだし、まだ話も聞けてねぇのに……」
「悪い」
大和が銃を下ろし、そして、ハァハァと僅かに息を乱している三月の頬を掴んだ。ずいと瞳の中を覗き込み、そして眉間に皺を寄せる。
「ミツ、興奮してる……?」
「ちょっと……いや、かなりかも。久し振りに激しく動いたからかな……?」
マンションの廊下で不安そうに二人の様子を見ていたナギと、大和の視線が合った。
「ミツがのしたからには、どいつもこいつも暫く動けないだろ。とりあえず安心しろよ」
「Thanks……ミツキも、無事で何よりです」
「おおー」
ふらんと腕を上げた三月は、大和に首根っこを掴まれたまま部屋に戻される。ベッドの上に放り投げられ、そのままきつく目を閉じてしまった。
「クールダウンしろ。今すぐ」
「はぁ……はいよ」
その傍らに大和は腰掛けて、三月の頬を指先で撫でる。
その頬は火照っているのか、真っ赤に上気していた。三月はそんな大和の手首を掴んで、再び目を閉じた。
「……ったく」
大和はと言えば、もう片方の手でさっさと携帯電話を操作する。
「あー、都内×××、×―××、二階堂事務所です。不法侵入が四人、うちの敷地内で倒れてるんで、至急……刑事課の狗丸サンがいいな。回してくれ。よろしく」
それだけ言うと、電話を切った。
ナギはゆっくりとベッドに歩み寄る。苦悶の表情を浮かべている三月の体は震えているし――クールダウンとはどういうことだろう?
「ミツキが改造を受けているかもしれないというのは、カメラを見て納得しました。しかし……これは?」
「言ったろ。ミツの場合は、多分……不完全なんだ。激しく運動した後は、その反動で力加減ができなくなる。ついでに、運が悪けりゃフラッシュバックが起こる。〈多分、相当酷い目に遭わされたんだろうな?〉」
「〈……なるほどね〉」
「〈しこたま妙な薬を打たれたって言ってた。そいつの後遺症のせいで、ミツは刑事を辞めちまった〉」
ナギが表情を曇らせる。三月に握り締められている大和の手首は、鬱血して赤く、否、既に赤紫になっていた。
「力の、加減……」
ナギは抱いていたクマのハルキを強く抱き直し、三月に近付こうとしたが――が、突然、三月の体がびくりと跳ねた。
彼の寝かされているベッドが、ぎしりと音を立てる。
「う、あ……っ、あ、や、だ……ヤっ……」
がくがくと震え出す三月に、ナギは驚き、つい大和を見やる。こんな異常な様子も見慣れているのか、大和は嫌に冷めた表情をしていた。
「〈ヤマト、これは……これがフラッシュバック?〉」
「あーあ……どうすんだよ、もうサツ呼んでんのに……」
大和が、三月の首元のネクタイを指で引いて緩める。
「え……?」
「……ナギ、これから俺たち、とーっても見苦しいことするからさ。部屋から出てな。耳障りだったら、向かいの部屋に閉じこもってたらいい」
「見苦、しい……? 何を、するのです……?」
「見ない方がいいコト」
そう言って、大和は解いたネクタイを三月の手首に結んだ。自分の手首を掴んでいる三月の手を無理矢理剥がして、もう片側の手首と同様にネクタイを巻き、ベッドのヘッドボードに括り付ける。
「〈ヤマト! 何故ミツキにこのような乱暴なことを……!〉」
「こうしないと、抑えきれないからに決まってんだろ」
ガチンガチンとヘッドボードに頭をぶつけながらのたうち回る三月。そんな三月のスラックスのベルトを外しながら、大和はナギをしっしと手で払う。手首は相変わらず鬱血していて、見るからに痛そうだった。
なのに、その手が三月のスラックスを下着ごと下ろした。
「は……?」
ナギは、咄嗟に後退る。
露わになった三月の性器は勃起して、自身の精液で濡れそぼっていた。三月の衣服をベッドの下に放って、大和が肩口に振り返る。三月のポケットに入っていたメリケンサックが床に当たって、ゴトンと鈍い音を立てた。
「だから、見ない方がいいって言ったろ?」
「表に出てろ」と無表情のまま言われ、ナギは逃げるように部屋の外に飛び出した。
壁を挟んだって聞こえる。苦しみ呻いていた三月の声が、次第に嬌声に変わっていく。その最中、ぎしぎしとベッドが、床が軋む音が、肌のぶつかる音がした。
ナギは、その中、呆然と部屋の外で蹲っている――同性がそういうことをする。知ってはいるし、偏見はない。けれど、
「〈天使は、悪魔に食べられちゃってたな……〉」
腰の、ここなという名前のマスコットを取り外して、そんな風に呟く。
ただ漠然とそう思った。まるで、羽を毟られているみたいに乱暴に見えた。
(なんで)
やはり、ぬいぐるみは良いものだ。死期も見えないし、生々しさだってないんだから。
「だから、だぁれが悪魔だよ……」
暫くして静かになった部屋から、ワイシャツを着崩した大和が現れた。
相手を縛ったとは言え随分と手を焼いたのか、汗だくでぐっしょりと髪を濡らしている。
「〈わぁ、不潔な悪魔だ……〉」
「仕方ないだろ。てっとり早く戻す方法、他に思い付かねぇんだからさ……」
大和は口に煙草を銜えて、その先端にライターで火を灯した。吸い込み、ふっと煙を吐く。だらりと垂れ下がった大和の右手首には、三月が先程握っていた痕が紫色に残っている。
ナギは、そっと大和のシャツの中を盗み見た――殴打の痕。凶暴化している三月の体の相手をするのは、一筋縄ではいかなそうだ。
「〈……戻す方法? この行為に愛はないってこと?〉」
「愛だって……?」
「〈だって、セックスだろ。君たちがしていたのは〉」
煙草を中指と薬指の間に挟んだ大和が、ふらりと口の前に人差し指を立てた。そうして、少しだけ微笑んで言う。
「〈秘密。どっちかって言えば、無い〉」
「《……嘘ばっかり》」
今度は、英語で返事をしなかった。本来のナギの母国語、それで大和の嘘を指摘した。
「ん? 何だって? お前、今なんて言った?」
「〈なんでもない。ただれた大人だなぁって思っただけだよ〉」
そんなに体を痛めつける方法を選んでいる時点で、そこに愛情がないわけがないのにと、ナギはクマのハルキに唇を当てる。
(なぁ、ハルキもそう思うだろう?)

Lollipop DeadEND - 02


 -two columns-

間もなく、事務所のマンションには警察用車両のバンを連れた覆面パトカーが現れた。
大和がのろのろと駐車場まで降りて行くと、そこにはジャケットを羽織った狗丸トウマが――既に疲弊の色を浮かべて――いる。大和を見つけるなり、その疲弊の色を一層強くした。
「あー、どうも……二階堂……いや、二階堂サン」
「ああ、もう来てたんですか? ご苦労様です、狗丸刑事サン」
大和が、ひらりと人懐っこく手を振る。
三月が片っ端から気絶させた男たちは既に運ばれたらしく、駐車場には血痕が残っているだけだった。
「……何、なんか、二階堂さん、しっとりしてないっすか……?」
「野暮なこと聞くねぇ。前みたいにうちの事務所ガサ入れしてみる? 狗のおまわりさん」
「お上から命令があればやりますけど、正直御免っすよ……急に裸の女に出てこられた時はどうしようかと思ったし……」
トウマが、あーあ……と額を押さえた。心底嫌そうなその態度に、大和は「ははは」と声を上げて笑う。
「狗丸は真面目だねぇ」
「いや、普通びっくりしますって!」
「あはは、尚更見せらんないもんが転がってんなぁ、今」
「え……?」
以前、三月がまだ警察に所属していた頃、二階堂事務所は頻繁にガサ入れを受けていた。表向きは探偵のような仕事としているが、実のところ、業務の一部には、とてもではないが表沙汰にはできない部分もある。
「ミツが居候でもしてなければ、日常茶飯事のままだったろうけど」
「三月さん……元気っすか」
「今は休んでるよ。見ての通り、一暴れしたからな」
ついでに、大和がめちゃくちゃに抱き潰したせいもある。それはあえて言わなかった。
トウマは三月の後輩だ。それに――汚れ一つないコートを翻し、つかつかと歩み寄ってくるお偉いさん。和泉一織刑事一課長。彼に、大和はぺこりと会釈をした。
「よう、イチ」
「馴れ馴れしいですよ、二階堂さん。この度は通報ありがとうございます。これは一体どういう状況ですか? 不法侵入者の一人は出血多量で、些か危険な状態です」
「あーあ、そう言うなよ。やったのミツだぜ?」
「わかっていますよ……」
一織は、悲しそうにきゅっと眉を寄せた。そういう顔をする時、和泉兄弟はやはり兄弟なのだと思わされる。ミツに似てる。大和は、咄嗟にそう思った。
「兄さんは……?」
「今はお昼寝中」
「……兄さんに話したいことがあります。目を覚ましたら、私に連絡をするように伝えてください」
「ミツがどう言うかねぇ」
「……新しい抑制剤の話です。今の我々は、例の組織に関する協力者を得ています。ですから、抑制剤の効果も以前よりずっと上がっているはず……兄さんにだって、効果があるはずなんです……」
――だから、警察管理の病院に戻ってくれれば……そう言った一織の言葉に、大和は僅かに俯いた。
大和だって、そうした方が良いと思ってはいる。不定期で起こるフラッシュバック、そして、僅かな興奮から誘発される過度の凶暴化。それは、確実に三月の体に負担を掛けている。ナギが三月の死期を危ぶんでいるのは、恐らくそのせいだ。
ここにいるより、きっと病院に戻った方が三月のためになる。けれど、それを三月が望まない。例え自分が過去に取り調べていた男の世話になるとしても、三月は警察に戻りたがらない。
――だって、迷惑掛かるだろ? 三月が悲しそうに笑って、そう言っていたことを思い出す。
(俺には、迷惑掛けてもいいのかよ)
そう思うと、つい大和の口角が上がった。
口に銜えたままだった煙草を持ち上げて、そっと駐車場の地面に落とした。ついでに眼鏡を上げる。
「現場を荒らさないでくださいよ。二階堂さん」
「悪い悪い、うちの敷地だしさ。つい」
煙草のフィルターをぐしゃりと靴底で踏み潰す。セックスした後って、どうして煙草吸いたくなるんだろうな。
「二階堂さんって、煙草吸ってましたっけ?」
トウマに聞かれ、大和は首を傾げた。
「なんか、最近口寂しくって」
――キスしたいな、ミツに。
現場検証も終盤に差し掛かり、片付けを始めている。
――でも、できないんだよな。
ぼうっと、三月の弟である一織の横顔を眺める。所謂、お預かりをしている身だ。割り切った関係ではいたいし、三月もそれを望んでいると思う。
だから、ナギに言われた言葉にだって、「そんなもんは無い」と答えれば良かったのに。
愛情なんて、そんな物はこれっぽっちもない。ただ、三月を匿って早い段階で、セックスして消耗したら「戻ってきた」。だから多用しているだけで、決してそこに、感情なんて――大体、俺は女が好き……なはず。だよな?
「……口寂しいなぁ」
そう呟けば、一織が鬱陶しそうに振り返った。
「うるさい人だな……」
「あのさ、イチ」
「馴れ馴れしいですよ、二階堂さん。兄さんがお世話になってるとは言え、調子に乗らないでください」
「……えーっと、和泉一織刑事課長殿。ついでになんですけどー」
ノリで、挙手までする。大和は湿っているワイシャツの袖を捲って、じとりと一織を見た。
「はい、どうぞ」
「当事務所で、こいつらが追ってる金髪の青年を匿っておりましてー」
一織が、心の底から信じられないというような顔をした。
「……どうして、そういうことを早く言わないんですか……?」
何故って、事務所では、大和が先程抱き潰した三月が素っ裸で寝てるからです。

Lollipop DeadEND - 03


-three sense-

「……ミツーキ?」
目を覚ますと、三月の周りには、ありとあらゆるぬいぐるみが並んでいた。イヌ、ネコ、うさぎ、ひよこ、それに……
「ここな、ちゃん……」
三月が掠れた声で呼ぶと、そのマスコットの群れをひょいと持ち上げたナギの、その端正な顔が心配そうに三月を見ていた。
「ここなのことを、覚えていてくれたのですか?」
「職業柄、固有名詞は一回で覚えるようにしてるんだ……まぁ、もう辞めちまったけど……」
かはっと咳をして、上体を起こす。肌の上から落ちたタオルケットを見下ろして、三月はぼんやりと頭を振った。
「……大和さんは?」
「ポリスが到着したと言って、駐車場に降りて行きました」
三月は自身の頭を押さえて、ごうごうと回っている換気扇を睨む。音が響く。それを察したのか、ナギが換気扇を止めようと立ち上がった。が、三月はそれを制止した。
「回しといて……におい、籠もってるだろ?」
三月が、ナギを見上げて呟く。
「嫌なもん見せちまったな……」
「……あ」
 ナギが、困惑の色を浮かべた。
大和の計らいだろう。気絶した三月は下着だけは身に付けていたが、大和に抱かれたそのままベッドに放置されていたようだ。
三月はベッドから起き上がり、自分のスラックスを拾うと、のそりとそれに脚を通す。
「普段は、三十分暴れたくらいじゃこうはならないんだ。だけど、流石に……やり過ぎたな。銃を持ってる人間相手にするのも、本当久し振りだから……」
「大和と三月は、恋人同士なのですか……?」
「え……?」
ナギに問われ、三月はへらりと笑って手を横に振った。
「ないない! あの人、女が好きだから」
一通り笑って、それから目を細める。
「オレ、あの人のこと捜査する側だったんだ。実はさ、ここって武器の売り買いもしてて、当時は密輸の嫌疑も掛かっててさ? だから、一織……ああ、一織って、オレの弟。そいつも刑事やってるんだけど、一織と一緒によくガサ入れに来てた。その時はこんなことになると思ってなかったけど。でもさぁ、そうやって立ち入り捜査で来ると、時々女がいて……多分、そういう商売してる人なんだけど……恋人、ではねぇよな。取っ替えひっかえだったもんなぁ……」
「ミツキ……?」
ぼんやりした口調のまま懐かしそうに話す三月に、ナギがそっと声を掛ける。キッチンにあったカップにミネラルウォーターを入れて、三月に手渡した。
「ああ、ごめん」
「……続けてください」
「そう、だからさ、あの人は女が好きなんだよ。オレが目の前でおかしくなるから、それで貧乏くじ引いてるだけで……本当は、男なんて抱きたくないと思う。キスもしたことない。本当に、その、下半身だけの関係っつーか……あれ……? ナギに何話してんだろ、オレ……」
「Oh……」
ナギは、今現在駐車場にいるであろう大和を床越しに見下ろす。
「日頃の行い、というやつでしょうか……」
「日頃の行い? 何が?」
「……いえ、不誠実なヤマトが悪いというお話です」
ナギは、額に手を当てて首を横に振っていた。なんだかコミカルな動きで面白い。三月は、ぷっと吹き出した。
「なぁ、ナギ、ぬいぐるみたち、ありがとうな」
「みなでミツキのことを見守っていました」
「ははっ、一体どこから出したんだか……」
「ワタシの不思議なポッケでしょうか?」
ナギはマスコットたちを腰に下げ直し、最後にクマのハルキを抱える。
「……ハルキは特別なんだ?」
「みな大切な存在ではありますが、中でもハルキは特別ですね」
首に大きなリボンを付けたクマのぬいぐるみ。そのリボンの中心には、花の形をしたビーズが付いている。ナギはハルキの胴を掴んで、そっと三月に近付けた。
「なんの変哲もないクマのぬいぐるみですが、大切な宝物ですよ」
「うん、そうなんだろうな。わかるよ」
じっとハルキを見つめていた三月だったが、なんとなく、ハルキの違和感に気付き眉をひそめた。
「……なぁ、ナギ? ハルキ、目の色が左右で違うんだな……?」
「え?」
ナギが首を傾げる。
「なんだろう。中に何か……入ってる?」
三月に言われ、ナギもクマのハルキの瞳を覗き込む。
ハルキの目は、確かに左右で色が異なっていた。明るい部屋の中で見ているからだろうか。クマの目のパーツの向こうに、小さなカートリッジのような物が……見える。
「〈何故、気付かなかったのだろう……?〉」
ずっと抱えていたのに。
ナギは、ハルキの瞳を指先で撫でた。一見するとプラスチックの半球。その隅を、カリカリと爪でつついてみる。
「難しいですね……でも傷付けたくはないし……」
「破るわけにもいかないし、どうしよう……」
「あっ……」
そうこうしている内に、ハルキの左目の半球がぽろんと落ちてしまった。呆然としているナギに代わって、三月がそれを慌てて拾う。
「わっと! お、おいナギ、接着剤、後で接着剤でくっつけよう!」
な……? と、三月が首を傾げる。ナギは、どうやらそれどころではなかった。
指先で引き抜いた小さなチップ、それを見つめて絶句している。
「〈……奴らが追っていたのは、私ではなく……まさか、これだったのだろうか……?〉」

それから程なくして、事務所に一織とトウマを連れた大和が戻ってきた。
ソファに座ってクマのぬいぐるみと一緒に頭を抱えているナギ、そしてそんなナギの背中を撫でている三月を見て、三人はすぐに異変を察知したようだった。
「おお、一織、狗丸……」
「おい、ナギの奴どうしたんだよ、ミツ……」
大和もナギの落ち込みように気付いたのか、そっとソファに歩み寄った。
ついでに、くしゃりと三月の髪を撫でる。小声で「シャワー浴びてないのか?」と囁かれ、三月は頷いた。
「ハルキの中からチップが出てきてさ。それ見てから、ずっとこの調子なんだ……オレ、心配で……」
ナギが、くしゃくしゃと自分の髪を掻き回している。見かねて大和が声を掛けた。
「〈どうした、ナギ……〉」
「〈私一人の問題ではない……これに気付かれている? 追われているということは、ハルキの身に何か……? ハルキに、裏切りの嫌疑が掛かっている可能性が……?〉」
ぶつぶつと何かを呟いているナギの目が、床の木目を見てキョロキョロと動き回っている。大和の言葉も、今は届いていないかもしれない。
「おい、ナギ。ハルキさん、危ないのか……?」
そう溢した大和に、一織が眉を上げた。
「……ハルキというのは……桜春樹……?」
途端に、ナギが顔を上げる。一織の方を見て、すくりと立ち上がった。
「〈ハルキを知ってるのか? 何者だ? ただの警察ではないのか?〉」
ナギに詰め寄られ、一織はこほんと咳払いをした。
ある種の威圧を一織に容赦なく向けるナギを、三月が背後から抑える。
「ナギ! 落ち着け、これはオレの弟だから!」
「イオリ・イズミ……? 教えてください。何故ハルキを知っているのですか?」
三月の言葉を聞いて改めて一織に向き直ったナギが、僅かに興奮した様子で言った。けれど、一織は眉ひとつ動かさない。
「……素性が知れない相手に話すわけにはいきません」
ナギに見下ろされても厳格な態度を崩さない一織に対して、三月が咄嗟に声を上げる。
「一織、頼むよ。ナギは、その……変な研究の被害者でさ……」
 体を起こしたばかりで三月もまだ混乱している。視線を迷わせながら言うと、一織はどこか悲しそうに三月を見た。
「兄さん、それが確かだとわからない内は、こちらも情報を漏らすわけにはいかないんです……わかって頂けるはずでしょう」
「そんなこと、わかってるよ」
「ならば」
ナギがもう一度、一織にきつい視線を向ける。
「ならば、ワタシが今すぐにそれを証明しましょう。どこへでも連れて行ってください。ワタシの体を隅々まで調べれば良いだけです。さぁ、早くしてください」
騒然とする場を見かねて、大和がナギの肩を叩いた。
「ナーギ、落ち着け」
「ワタシは落ち着いています!」
「はいはい、お前さんは落ち着いてるのな。じゃあ、段階追って話していこう。イチも、俺のさっきの話を加味して、ちゃんとナギの話を聞いてやってくれないか? 少なくとも、ナギはお前さんたちに積極的に協力してくれると思うけど?」
大和に一瞥され、一織は忌々しそうに顔を顰めた。
「なんでお兄さんばっかり睨まれるかな……」
「それは、貴方が兄さんをこんな汚いところに住ませているから……!」
「オレぇ? オレのせいで一織が大和さんに怒ってんの……?」
自分の顔を指さして、「なぁなぁ」「本当に?」ときょろきょろする三月に、トウマが首を横に振った。
「あー……和泉一課長、今のは完全に……私怨っていうか……まぁ、気持ちはわかりますけど」
暫しの沈黙に耐えかねて、大和と三月が同じタイミングで首を逸らした。最中、大和が「いてて……」と背中を擦る。ついでに、三月は自分の指先の爪を見て、「あー」と声を上げた。
「爪切るの忘れてた」
「……つめ?」
不思議そうな顔をする一織を見て、トウマが大きく咳払いをした。
「んんん! 気持ちはわかりますが! すげぇわかります! ですが、職務中でありますので!」
「そ、そうですね。それよりも、そのチップ、証拠品として押収させて頂けますか。そして……ナギさんと言いましたね」
「ロクヤ、六弥ナギです」
「六弥さんの身柄も、一度お預かりしたい。悪いようにはしません。まずは、貴方の身の潔白を証明する必要があるんです。わかって頂けますか?」
そう言われて、ナギは三月を、そして大和を振り返る。
「一織、任せていいんだよな?」
「当然です。信じてください、兄さん。絶対に非人道的なことはしません。身の安全も保証します」
そうは言われても、僅かに不安そうな顔で三月を見るナギに、三月は深く頷いて見せた。
「だってよ。安心しろよ、ナギ。ナギは? なんか希望あるか?」
「ワタシは……ハルキに関して教えて頂けるのであれば、いくらでも協力は惜しみません。ですが、ひとつだけお訊ねしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「ワタシは、ここに戻って来ることができますか?」
ナギの問い掛けに、一織が些か難しい顔をした。けれど、トウマと顔を見合わせ、「すぐにとはお約束できませんが、努力はします」と宣言した。
「ありがとうな、一織」
ほっとしたような顔をする三月に、一織はもう一度頷いて見せる。
クマのハルキから出てきたチップとナギ自身は、結局警察に連行されることとなった。
ソファに置いていたハルキをナギに渡そうと三月が持ち上げたが、大和が咄嗟に首を振る。小声で言った。
「あいつ、今までそれ手放したことないだろ……」
三月は、はっと顔を上げる。
「わざと置いていくんだ」
続いた大和の言葉に、小さく頷いた。
例のチップが出てきたぬいぐるみだ。それが一織の耳に入れば、チップと共に押収されて戻ってこない可能性がある。
これは特別なぬいぐるみだと言っていたナギの言葉を思い出して、三月はクマのぬいぐるみをぎゅっと抱き締めた。

駐車場まで見送りに行くと、そこには新たなパトカーが駐まっていた。運転席に乗ったトウマとその助手席に腰を落ち着けた一織に、三月が歩み寄る。
「すみません、兄さん……先程は、その……冷たい言い方をしてしまいました。六弥さんのことは、どうか私に任せてください」
「いや、こっちこそ、感情的だった……お前の立場がわからないわけじゃないんだ……それに、色々面倒起こしてごめん」
「そんなことは……いや、兄さんにケガが無いなら何よりです。しかし、本音を言えば、早く警察の病院に戻って頂きたいのですが……」
目を伏せて言う一織に、三月は何か言おうとして、けれど口を閉ざし首を振る。
「もう、身内の誰にも迷惑掛けたくないんだ……」
「そう、ですか……」
 切なそうに眉をひそめた一織が、改めて顔を上げる。
「六弥さんの前ではまだ話せませんでしたが、我々は六弥さんの他にも被害者を保護しています。彼らのお陰もあって、兄さんに適切と思しき抑制剤の開発も進んでいるんです」
「……だから、オレの経過も警察の監視下に置きたいって? 協力しろってことか?」
「そ、そういうつもりでは……!」
わかってるよと、三月は小さな声でそう言った。そして、一織に微笑んで見せる。
「わかってるよ。一織は、オレの体のこと心配してくれてるんだよな。ありがとう。ごめんな。けど、もう暫くは大和さんの所に……いや、なんていうかさ、自分でうまくやれないか考えてみたいんだ。我儘な兄ちゃんでごめんな」
それを伝えて、そっとパトカーから離れる。三月がひらりと手を振ると、トウマが車内で敬礼をした。一織はまだ何か言いたいような顔をしていたが、それでもきゅっと結んだ口は開かれることはなかった。
ゆっくりと走り出すパトカーを見つめながら、三月が重く溜息を吐く。
「ミーツ」
背後でその遣り取りを見ていただけの大和が、三月の名前を呼んだ。振り返る。笑おうとしたが、難しかった。
「大和さん、ナギ、早く戻ってくるといいよな」
「……居候の二人目を迎えるとは言ってないんだけど?」
「今更何言ってんだよ。悪ぶんなよな、お人好しのくせして」
「それ、ミツにだけは言われたくないなぁ……」
泣きそうな顔をしている三月の頬を拭って、大和はそのまま三月の頭をくしゃくしゃと撫でた。

Lollipop DeadEND - 04


-seven comets-

――……リク?
古い友人が彼の名前を呼んだ。金髪の前髪の中、青い瞳がゆっくりと緩む。ひどく懐かしそうだ。だから、陸は嬉しくなって、隣にいる双子の兄の袖を引く。
「ナギだ。ナギが来たよ、天にぃ!」
夢と現の最中、上げた声は現実だった。
ぼんやりと目を開く。隣のベッドには、夢で見ていた通りの輪郭を持った美しい兄がいる。
「……天にぃ」
陸はぱちぱちと瞬きをして、それから体を起こした。
「おはよう、陸。何か、寝言を言っていたね、良い夢でも見ていたの?」
陸の兄・天は、ぼんやりとした様子の弟を見て、くすりと笑った。
「うん……そうだな、これ、きっと「流れ星」だ……流れ星が見えたんだと思う」
「……そう」
陸は部屋の天井を見上げて、長い指先で虚空を掴むような素振りをした。目に見えないその何かを掴んだらしい手の平を見つめて、開いたり閉じたりを繰り返す。
「多分、だけど」
そう言った陸が、再び天の方を向いて頷いた。
「オレたち、ナギに会えると思うんだ」
彼らの会話は、全て警察に監視されていた。だから、当然この遣り取りだって映像と共に保存される。
天は陸に向かって微笑むと、天井にあるカメラを睨んだ。
「……協力はするけど、いけ好かない監視はやめて欲しいな。それで、陸、六弥ナギが捕まったってことなの?」
「それはわかんない。けど、ナギが来た。っていうか、来る、かも。今、そういう夢を見たから……」
陸が肩を竦めてそう言う。まだ確実とは言い難いのか、しゅんと項垂れる陸の肩を天がそっと撫でた。
「そう。それより、負荷はない? 喉が狭まったり、目眩がしたりはしていない?」
「うん、今は大丈夫だよ」
 「心配してくれてありがとう」と言った陸に、天は目を細めて頷いた。
と、そんな二人の部屋の外から、低い声がした。
「……流石ですね、七瀬さん」
「ん? 褒められてる?」
「褒めてます。確かに掴めていますよ、その流れ星」
スライドドアから、一織が入ってくる。ジャケットを脱いでラフな格好をした一織を見て、陸は「わぁ」と声を上げた。
「珍しいー! 普通に褒められた!」
 「流れ星」の肯定を受けて、陸がわっと腕を上げる。けれど、嬉しそうな陸とは異なり、天の方は極めて不愉快そうだった。
「……和泉一織、君に言ってるんだよ。陸の監視はやめて」
「申し訳ありませんが、お断りします。七瀬さんも九条さんも、完全体である可能性が高いとは言え、いつどこで副作用に見舞われるかわかりません。以前私が提案した通り、お二人が私の養子縁組を受け入れてくださるのであれば話は変わりますが」
「は? 絶対に嫌に決まってるでしょう」
「え~、オレはそれでも良いよ? 戸籍上は一織の息子になるってことだよね。なんか面白そうだし、天にぃと一緒にいられるなら嬉しい!」
「……陸、もっとよく考えて。絶対にダメだよ」
天に窘められ、陸がしゅんと肩を落とす。
けれど、一織に言われたことを思い出し、ぴっと背筋を伸ばした。
「そういえば、一織。オレが流れ星を掴めてるって言ったよね。どういうこと?」
「そのままの意味です。七瀬さんの未来観測は当たっています」
「……てことは?」
ぱあと表情を明るくする陸と、神妙な顔付きをしたままの天の対比に、一織は思わず「かわ……」と言い掛け、けれど咳払いをして誤魔化す。
「つまり……六弥ナギが保護された。そういうことなの? 和泉一織」
「はい。その通りです、九条さん……お二人が言っている六弥ナギは、この青年で間違いありませんか?」
一織が取り出した写真を二人で覗き込む。そこには金髪の青年が正面から写っていた。天と陸は顔を見合わせ、それから深く頷いた。
「良かった! ナギも逃げられたんだ……!」
「彼にケガはない? 怖い思いをしてないと良いんだけど……」
 二人の反応を見て、一織はほっと息を吐いた。一織の肩がほんの僅かに下がる。
「彼が言っていることは真実ということですね。組織のスパイである可能性を考慮して、まだお二人のことは六弥ナギに話していませんが……面識があるということで間違いありませんか?」
「あるよ!」
「……九条さんは?」
「ボクは、そんなには。だけど、陸と六弥ナギは育成方針が同じはずだからね。施設のプレイルームで一緒だった期間が長いのかもしれない」
天の話に、うんうんうんうん! と頷く陸。その様子はとても嬉しそうだった。
「育成方針が七瀬さんと同じ……ということは、脳の活性化が試みられていた、ということでしょうか……」
「多分そうなると思う。詳しくは知らないけど」
被検体が、別の被検体一人一人の方針を把握しているわけがない。ナギに関して、天から得られる情報は少ないだろう。
一織はナギの証言を纏めたメモを眺め、それから静かに頷いた。
「お二人を逃がしたのは九条鷹匡氏でしたが、六弥さんは九条氏の古い友人と言われていた桜春樹と関係がある様子です」
一織の言葉に、天が僅かに眉を下げた。
「和泉一織、九条さんの様子は?」
「かなり落ち着いてきましたが、まだ時折精神に混乱が見られます。療養を続けて頂く他ありません」
「そう……」
 天と陸は、九条鷹匡という男の手によって施設からの逃走を果たした。しかし、一織の言葉の通り、鷹匡の心身の状態には幾分かの不安定要素がある。その為、進路の最中、陸を切り捨てることを選んだらしい。――それを、天が承諾しなかった。
 その場でまごついたことで、天と陸は今警察の保護監視下にあるわけだが……
「ご協力感謝します」
一織が、手に持っていた白い箱を陸に渡す。
「ところで、これは捜査とは関係ないのですが……」
「なに? お土産?」
がさごそと箱を開ける陸を手伝いながら、天がいち早くその中身に気付いた。一織を見上げて、悪戯っぽく微笑む。
「賄賂のつもり?」
「……違いますよ。人聞きの悪いことを言わないでください」
天と一織がそんな遣り取りをしている間に、包みを開いた陸が嬉しそうに声を上げた。
「あ! ドーナツ! これ、食べてもいいの?」
「お口に合うと良いんですが」
「ありがとう、和泉一織」
「ありがとな、一織!」

――どういたしまして。
こんな狭い箱に二人を閉じ込めている立場の自分に、そんな謝礼の言葉は必要ないのにと、一織は眉を寄せて笑った。
本当は、いくらでも外に出してやりたい。しかし、天と陸の場合は、外に出たとて保護する責任者がいない。だからこそ自身が名乗りを上げたが、今のところ天が承諾をしないのである。
一織は、はぁと息を吐いた。
七瀬陸と九条天、彼らは姓こそ違うが確かに双子であった。例の研究施設から九条鷹匡に連れられ、逃げ出してきたところを警察が保護したのだ。
(九条さんも、私のことを認めてくれれば……)
天には、三月同様、身体能力を極端に向上させる能力がある。今のところ把握している範囲では、天の場合は身体への反動がなく、いつ何時も遺憾なく力を発揮できる。
対して、陸の力は「未来観測」、簡単な予知能力だ。眠っている最中、脳が活性化することによって予知夢を発生させる仕組みらしい。脳の活性化による現状予測だけには収まらず、陸の力には依然として不明な部分がある。それは、人智を超えた力、超能力に近い物とも言えた。
けれど、今の警察にそれを解明するような手段はなかった。いつまでも陸が拘束される理由も、この得体の知れない未知の力のせい他ならなかった。
一方で、一織にとっては天の力も惜しい。彼の能力が解明できれば――三月の体のために出来ることが判明するかもしれない。あるいは、効果の高い抑制剤が作ることができるかもしれないのだ。
実際、天の協力を得て抑制剤の性能は格段に上がってきている。しかし、当の三月が服用を拒んでいる。
警察管理下にある病院で診察を受けてくれれば、効率化が上がるに違いないのに、それでも三月は警察に絡む場所に自ら近付こうとはしなかった。
(六弥ナギの能力は、七瀬さんのそれに近いということか……では、具体的には一体どんな力なのか)
一織は、ナギの取り調べに戻る。脱いでいたジャケットに再び袖を通し、取調室に入った。
そこでは、ナギが静かにパイプ椅子に腰掛けている。
「お待たせしました、六弥さん。十分な睡眠は取れましたか?」
「ええ、お陰様で」
「では、六弥さん、今日は改めて、貴方の能力についてお話を聞かせてください」
 はい、なんなりと、と手の平を天井に向けて言ったナギに、一織は一度咳払いをする。
「貴方の能力は、前頭葉活性化による予測を強化したものだと伺いましたが、間違いありませんか」
「間違いありません」
 ナギは、そっと自分の額に指先を当てた。
「具体的には、何を予測することに特化しているのか、貴方自身は把握していますか? そして、コントロールは可能な状態なのでしょうか」
 一織が率直に問う。すると、ナギは額に当てていた指をそっと離し、そうして目を伏せて呟いた。
「ワタシにできるのは、目の前の個体がどのような身体的特徴に長け、どのような習性があるのかを瞬時に分析し、そして、その結果割り出される行動予測、そして稼働時間の限界を算出することです」
「稼働時間の限界、ですか?」
「つまり、他人の死期の感知」
極めて簡潔に答えたナギの瞳には、一切の光が無かった。
――何故、そんな悲しそうな顔をするのか……一織には、それがわからなかった。
そんな一織の疑問を察知したのか、ナギがすっと口角を上げる。ナギの表情の中で、瞳だけは悲しそうに揺れていた。
「イオリ。貴方は、ミツキの弟君だと聞きました」
「……ええ、その通りですが、それが何か」
言い掛けた一織に向かって、ナギが首を横に振る。それは決して一織を否定するものではなかっただろう。
「ミツキの死期の予感、ワタシはそれが心配でなりません」
ナギの言葉に、一織は全身の血の気が引くのを感じた。ナギの悲しそうな表情の理由が、ただその一言でわかったような気がした。

Lollipop DeadEND - 05


-two kindness-

「おかえり、ナギ!」
不思議なことを言うもんだと思った。誰が事務所でナギを匿うことを承諾したのか……所長本人は溜息を吐く。唯一の従業員がそう言うのなら仕方ない。
自分と同様に驚いているナギの声を聞きながら、大和はぼうっと天井を見ている。
「ここは……以前のビルではないのですか? もしや、ワタシのせいで場所を変えることに……?」
「ああ、違う違う」
ぱっぱと手を振る三月に代わって、ソファに横になっている大和が声を上げた。
「念の為、事務所に使える場所をいくつか押さえてあるんだよ。まぁ、恨まれることも少なくないしさ」
「そういうこと。だからナギのせいじゃないんだ」
少し頭を上げて、ソファの背もたれ越しにナギと三月の遣り取りを眺める。
ナギは元々着ていたフリルのブラウスから、恐らく警察から支給されたワイシャツに着替えていた。
「……ありがとうございます、ミツキ……それからヤマト。イオリは約束通り、ワタシを丁重に扱ってくださいました。それに、ワタシ同様に逃げ出した仲間にも会えましたよ。ガラス越しではありましたが……」
「良かった……てことは、ナギに掛かってた疑いは晴れたんだな」
「突然飛び込んできたのですから、疑われても仕方ありませんね。恐らく、以前にも似たようなことがあったのでしょう……組織が彼らを取り戻そうと動いていてもおかしくはありません。何せ、我々は貴重なサンプルですから」
表情を翳らせ呟くナギに、三月が眉を寄せた。
「なぁ、ハルキに逃がしてもらったって言ってただろ? ナギはさ、どうやってここまで来たんだ?」
「イオリにも施設の場所を詳細に聞かれました。施設には生態感知ゲートがありますが、そこは眠っている間に突破していましたね。見知らぬ外の土地をハルキと共に進む最中……恐らく、ハルキは追っ手に気付いていたのでしょう。ワタシをロープウェイに乗せて、それから……」
ナギは、それだけを言うと黙り込んでしまった。
生態感知ということは、恐らく薬か施術で仮死状態にされてそのまま運ばれたのだろう。その状態では、ナギや彼の同類の証言から施設の詳細な場所を特定するのは難しいかもしれない。
それまで様子を見ていた大和が、体を起こしてそっとナギに歩み寄る。
「ほらよ」
その手に、クマのハルキを携えて。
大和の手に掴まれているハルキを見て、ナギの表情が僅かに明るくなった。
「ハルキ! 目が戻っている……? 直してくれたのですか……?」
「お前の大事な物なんだろ?」
「そうそう。大和さん、意外と器用なんだよな。ブラシも掛けてたぜ?」
「こら、余計なこと言わないの……」
へへへと笑う三月と仏頂面をしている大和を交互に見て、ナギがクマのハルキをぎゅっと抱き締めた。
「良かった……Thanks、ヤマト……」
「どういたしまして」
 嬉しそうなナギの腰周りをあっちからこっちから眺めて、三月が尋ねる。
「それより、他のマスコットはどうした? ここなちゃんもいないみたいだけど……」
すると、ナギはまた悲しそうに笑って、「みな、押収されてしまいました」と言った。
「チップの出処を別のマスコットにすり替えたところ、他のマスコットも念の為に分解して確認する……と。彼らを身代わりにしてしまったのは大変に後悔していますが、ハルキを連れていかなくて本当に良かった……」
そうは言っても、やはりナギが落ち込んでいることに変わりはなさそうだった。大和は、つい三月と顔を見合わせる。
「……あの、ナギ。こんなので良ければ……」
三月がそうっと、テーブルに置いてあった紙袋を持ち上げた。そこから、くったりとしたうさぎのぬいぐるみを取り出す。そして、大和もスラックスのポケットから猫のキーホルダーマスコットを引っ張り出した。
「えーっと、ゲーセンで見つけたんだけど」
「……出先でもらったもんだけど、お兄さん、こんな可愛いキーホルダー使わないし……」
目の前に出されたぬいぐるみとマスコットに、ナギはキョトンと目を丸くする。暫くして、ナギの綺麗な青い瞳に、じわりと膜が張った。
ついに溢れだした涙をそのままに、ナギは容赦なく大和と三月に飛び付いたのだった。

Lollipop DeadEND - 06


-six locations-

大和が承諾しようがしなかろうが、ナギは二階堂事務所に世話になることになった。ナギが早々に解放されたのも、一織が融通を利かせ、「ナギには既に身元引受人がいる」ことを理由にしたからであった。
「ったく、余計な金が掛かっちまったなぁ……イチもイチだよ。誰が保護者で身元引受人だっつーの……」
 ぼやく大和を余所に、ナギはぼんやりと地下の壁を眺める。事務所の倉庫らしいこの部屋には、数々の輸入品が片付けられていた。
「〈ねぇ、これ正規で仕入れた物? 密輸って悪いことじゃないの?〉」
そんな風に背後で呟くナギに、大和は倉庫の品を一つ一つ眺めつつ、くるくると指を回して円を描いた。
「〈気になさんな。ま、お陰様で警察には睨まれてるけどさ〉」
呑気な男である。そんな呑気な男にナギはふっと息を吐き、そして、改めて大和の背中を見つめた。
「〈……ヤマト、私はここにいてもいいのだろうか?〉」
「〈はぁ? お前さんが仕事を手伝うって言ったんだろ?〉」
「〈……そうではなくて〉」
「え?」
ナギは、振り返った大和の隣にちょこんとしゃがむ。肩には、三月のくったりうさぎが乗っかっていた。
「〈この事務所に居座っていてもいいのか、ということだよ〉」
そう問えば、大和は大袈裟でわざとらしい溜息を吐いた。
「……そんなの、今更だろ?」
「〈私は、貴方から許可を受けていない。ここの責任者は、ヤマト、貴方だろう?〉」
真剣な表情で言うナギに、大和はそれこそ今更だと笑った。
「お前さん、しっかりした喋り方するよな。元は金持ち? 貴族だったりする?」
「ヤマト、話を逸らさないで」
「だから、今更だって言ってるだろ? ミツがお前さんのことを気に入ってるんだ。俺が今更何言おうが関係ないよ。まぁ、仕事はきっちりこなしてもらうけどさ」
ナギの肩にあるくったりうさぎの鼻を指先でつついて、大和が再び品物に視線を落とした。骨董品だろうか、ナギも、大和の手元に視線を落とす。
大和はチェストの上にあるリストをじとりと眺め、その内一枚を抜き出すとナギに見せた。
「こいつに載ってる数の確認と、セーフティの確認頼むわ」
 渡されたリストをちろりと一瞥する。どうやら――銃器らしい。ナギはむすっと顔を顰めた。
「ミツキだけですか? ヤマトは、ワタシを気に入っていないのです?」
「……気に入ってなかったら、お前の腰にぶら下がってる猫さんはとっくにゴミ箱行きだよ、ナギ」
「……素直じゃない人ですね」
ナギは大和に差し出されたリストを片手に、渋々とその場を離れようとした。けれど、ふと思い立ち、はたと足を止めた。
「ヤマト」
「今度はなんだよ」
大和はナギを振り返らないままで聞き返してくる。なるほど、都合が良い。ナギは笑った。
「〈好きなら、キスくらいしてあげたらどう? 喜ぶんじゃない?〉」
「は、はぁぁ?」
「ああ、勿論、ワタシにではありませんよ。ヤマトの本命……」
「お、お前なぁ……!」
ばっと振り返った大和の不満そうな顔に、ナギはここぞとばかりににっこり可愛らしく笑って見せた。
「好意を伝えるなら、早ければ早い程良いですからね」

そう、好意は伝えられる内に伝えた方が良い。ナギは少なくともそう思っている。特に、三月や大和のような立場なら、尚更のことだろう。
しかし……
「誰と間違ったんだろうなぁ」
ふぁ……と欠伸をする三月に、トーストを囓っていたナギが唖然とした。その隣では、青筋を立てて顔を覆っている大和がいる。
――間違ってないと言えばそういうことになるし、間違ったと言うには……ああ、ダメだこれは。
ナギは、タマゴサンドを握り潰しそうな大和の手を見て、やれやれと首を横に振る。
覚醒後の三月は、ぼーっとした顔で呟いていた。
どうやら、先の一件で一暴れも二暴れもした三月は、組織の目を付けられてしまっているらしい。昨日、夕方まで猫探し(これは本当の猫探しである)に奔走していた三月が、暴走したまま戻ってきたのはそのせいであった。
猫は見つからないし、途中で組織の人間らしき男たちに追われ、そいつら叩きのめしてきてヘトヘトだと、それだけを言ってマンションの玄関口で崩れ落ちた三月。
大和は、そんな三月をベッドに放っていたが、暫くしてまた三月は暴れ出してしまった。
さっさと別室に隔離されたナギだったが、同じ階に居たので、若干部屋が揺れていたのを思い出す。今度は別の階に逃げよう。そう思った。
その翌日であった。
「大和さん、誰と間違ってキスしたんだろう……」
ナギも既に感じていたことであったが、フラッシュバック後の三月は、非常にぼんやりしている。それはもうぼんやりしてるため、赤裸々な内容も――この通りである。
「〈おめでとう、ヤマト。ミツキにキスできて良かったね〉」
そのぼんやりした三月が焼いたトーストを口に運びながら、ナギは大和に嫌みにも聞こえる言葉を掛けた。
「〈うるせぇ……〉」
ナギの助言を真に受けて、恥ずかしいやら、立場がないやら、複雑なんだろうなとナギは思った。
「なぁ、その流暢な英語やめろよー……オレ、なんか仲間外れみたいじゃん……」
口を尖らせて言った三月に、大和が顔を覆ったまま吐き捨てるように言った。
「〈うるせぇ、ちびっこ。滅茶苦茶に犯してやる……〉」
「あ、オレになんか言ったのはわかる……チビって言った? チビって言ったろ今……?」
ふらーっと瞳を上げる三月を、ようやく顔を覆う手をのけた大和がじとりと睨んだ。そんな大和のしょうもない言葉を聞いていたナギが呟く。「サイアクですね」と。まぁ、本当に最悪だ。
それよりも、だ。ナギは、三月の暴走が悪化しているような気配を感じていた。先程も、三月がふと握った瓶にヒビを入れてしまったところであった。
(力の調整がうまくできていないのか……)
三月は捜査の最中、組織に捕まり、無理矢理投薬をされて改造を受けたと聞いている。
(拒絶反応が起きているのかもしれない……)
暴走しかけている三月を見る度に、急速に終わりへと近付いていく「数値」に気付く。頭の中に浮かんでくる死へのカウントダウン、ナギはそいつについ歯噛みした。
「……ヤマト、ミツキに無茶をしないでください。ただでさえ状態が悪化していると言うのに」
「そうは言っても、見てらんねぇんだよ。フラバしてる時のこいつ……そこら中に体打ち付けるわ、反吐と鼻水でぐしゃぐしゃ、興奮しておっ勃ててさ……ああ、そりゃヤってても同じか……ぐっちゃぐちゃだもんな」
それだったら、気持ち良い方が良くないか?
テーブルに頬杖を突いて言う大和に向かって、ナギは心底不快だという表情を返した。
「……大和さん、ナギになんて話してんだよ……」
そんな遣り取りを見ている間にようやく意識がはっきりしてきたのか、次に顔を覆ってしまったのは三月の方だった。
「やっと目覚めたか? まぁ、話の発端はお前さんだけどな」
「はぁ? なんでオレのせいなんだよ!」
「ミツがお兄さんの純情弄んだから」
「何言ってんだよ、あんたに純情なんてねぇだろうが!」
ワンテンポ置いて、大和がぐすんと泣き真似をした。それを、ナギが横目に見る。瞳だけを動かして、今度は三月をじっと見た。
「……自業自得ではありますが、流石にヤマトが哀れですね」
「え? 何が?」
そんな二人を見ても、三月は不思議そうな顔をするばかりであった。

ナギの予測上、三月が消耗しているのは本当のことだ。それは一織にも伝えてある。
動揺を隠しきれていなかった一織は、苦い表情で至急抑制剤の開発を進めたいと言っていた。それに関しては、似たような力を持っている天も協力的だと話していたが、それでもだ。
地下の射撃場で射撃訓練を行う三月を見て、ナギは目を伏せた。
(刑事には、戻れないんだろうな……)
周囲を巻き込むかどうかはともかく、三月の体そのものが刑事の仕事に耐えられないのだろうことは容易く想像ができた。
頭の中が、ぎゅうっと引き絞られるような感覚になる。
三月が刑事の仕事を続けていたとしたら、ナギが三月に会うことはなかっただろう。浮かび上がったゼロの数字に、ナギはふらりと首を振った。
(ヤマトが雇っていることで生き長らえているミツキの命が、私のせいで……)
「ナギ?」
防音用のヘッドホンを外した三月が、ナギの方を振り返った。
「どうした……? 具合、悪い?」
「いえ、ミツキは熱心だと思いまして……」
「ああ、うん。最近、体動かすこと多いからさ。いつでも、ある程度は撃てるようにしておかないとと思って」
 僅かに紅潮している三月の頬を見て、ナギは呟いた。
「……銃を発砲する際、多少なりとも血圧は上昇します。それが三月の能力の誘発に繋がってしまう……ほどほどにした方が」
「……だよな。自分でもわかってるつもり」
「抑制剤は受け取らないのですか? 使っているところを見たことがありません」
「……貰ってはいるよ。ほら」
三月が、スラックスのポケットからトローチを取り出す。
「一人でどうしようもない時とか、たまに口に入れてる。でも、興奮抑制剤だからかな……その後の倦怠感っつーの? それに耐えられなくてさ。これより良い薬を必ず作るって一織は言ってくれてるんだけど……」
なかなかうまくいかないみたいだなぁ……諦めているみたいな調子で言う三月に、ナギは小さく溜息を吐いた。
「ハルキの中から出てきたチップに、三月に役立つ内容があれば良いのですが……」
「そうだな……まぁ、オレが自分でコントロールできれば、それが一番良いんだけど」
きゅる、と三月の瞳孔が広がった。射撃室が僅かに暗いからかもしれない。けれど、その動物的な視線に、ナギは本能的な戦きを感じ、そして――天の瞳のことを彷彿とした――動物における狩りの衝動、それは本能にも近いものだ。コントロールする・しないの話ではない。
「……ミツキ」
ナギは自分の肩に乗せていたうさぎの手で、三月の頭を撫でた。撫でられた三月の方はと言えば、目を細めて「なんだよ~」とにこやかに笑った。
動物的な瞳は、瞼の中に隠れてしまった。