お兄ちゃんって呼ばないで


「兄ちゃん」
ん、と思って振り返る。聞き慣れない言葉だったから気付くのが遅れた。振り返ればミツがいる。
「兄ちゃん……って感じじゃないよなぁ……、兄さん?」
「……何」
なになになに……と動揺する。なんだか冷や汗まで出てくる始末だ。ぞわぞわとした悪寒が頭のてっぺんから脹脛くらいまでを走っていく。
「いや、ほら……今度さぁ、オレたちが異父兄弟っていう設定のドラマ撮るじゃん? だから、大和さんのこと、兄って思うイメージをしとこうと思って」
ミツとナギと俺が異父兄弟を演じるドラマの台本を片手に、ミツはあっけらかんと言った。
「えー……ミツにそんな風に呼ばれるの、変」
嫌々。すごく嫌!
「あんたは切り替えできるから良いだろうけど、オレ、いまいちイメージが付かなくてさぁ。ちょっと我慢してよ、大和さん。大体、あんたいつも自分のことお兄さんって言うじゃん?」
「それはさぁ、そういう意味のお兄さんじゃないっていうか」
「うるせーよ、兄さん。……んー、なんか違うな。兄貴?」
「俺は兄貴じゃない……」
弟や妹ができたばかりの子供の子供返りって、こういう感じなんじゃなかろうか。
そんなことを思いながら、ツンと突っぱねて見せると、流石にミツが困ったような顔をした。
「そんなに拒否られると、演技もできなくなりそう……」
それはわかる。ミツは日常の中で練りに練って本番に行くタイプ。俺は違う。俺はわりと、すっと引き出せる。
だから俺がここで弟のミツを拒絶したら、ミツはそのせいで弟になれない可能性がある。いや、実際には異父兄弟だから、それって弟? って感じなんだけど。
「それでも、嫌なもんは嫌」
そう言って、俺は自分の部屋へと逃げ出した。


「そういえば、オレ、大和さんのこと兄貴だと思ったことないかもな」
追いかけてきて、ご丁寧にもあやしに来たミツが言う。
ぐずったつもりはないけど、いつの間にか収まったミツの膝でポンポンと頭を撫でられながら、弟にこんなことされたら倒錯的だなぁとうっすら思う。ああ、やっぱりミツの血縁上の兄なんて嫌だ。
「俺だって、ミツのこと弟なんて思ってないし、むしろ……」
さて、ミツのことをメンバーという認識以外で何と思っていたんだろう。
「ミツはミツ」
「大和兄ちゃん、面倒なとこあるよな……」
「うるせーよ……」
兄ちゃん、という響きにむず痒くなる。
「なぁ、大和兄ちゃん。大和兄ちゃんってわりとしっくりこねぇ?」
「来ない。やだ」
「やだじゃねぇんだよな……」
やだなぁ、大和さんって呼んで欲しい。いつも通りがいい。ミツと演技し合うのは、いつまで経ってもこそばゆい。
「いつまでもごねてると、兄ちゃん悲しくなっちゃうぞ? 大和くん」
からかう時に呼ばれるそれに、ぽかんと頭を叩かれた。
「え」
「大和くんにやだって言われたら、兄ちゃん悲しいなー……」
あれ、いつの間にか立場が逆転している。
頭を撫でられながら「悲しい悲しい〜」って言われてる内に、自分が悪いことをしている気になって、俺は思わず「ごめんなさい」と言っていた。
「変なの。弟はすんなり受け入れるんだ」
元に戻ったミツが不思議そうな顔をする。
慌てて体を起こして、それからミツの前に正座した。
「な、なんだよいきなり!」
「大和さんが取り合ってくれないから、逆に引いてみた。なんで弟の方がしっくりきてんだよ」
「しっくりきてるわけじゃねぇけど」
大和くん、なんて呼ばれると、少し……少し座りが悪い。
「あ、わかった。やっぱり歳上好き?」
「うるせぇな。関係ねぇだろ」
特にミツには関係のないことで、ミツはそもそも歳下だし。
「はーい、大和兄ちゃん」
「調子狂うなぁ……」
今度は殊勝な態度を取るミツに、俺は思わず眼鏡のブリッジを上げて、うーんと天井を見た。
「なんでそんなに嫌がんの?」
寮の中を逃げ回るくらい嫌な理由を聞かれる。半分はふざけてるし、半分は本気で嫌。俺はまたミツの膝に頭を乗せて、それから「うーん」と呻いた。
「なんか、しっかりしなきゃなって思うじゃん……」
「兄貴だと?」
「そう。ミツはそういうのないの?」
「そうだなぁ、一織に対してはある……かも」
「まぁ、しっかりしなきゃなって思う時もあるんだけどさ? でも、ミツに対しては……」
うりうりと頭を擦り付けると、変な気分になるからやめろと頭を叩かれた。
なればいいよ、変な気分に。そうしたら俺の気持ちだってわかんだろ。
「ミツに対してはさ……?」
ぼやっと見上げる。部屋の照明を逆光にしたミツが目を爛々とさせて見下ろしてくる。
可愛くて眩しいなと思う。目を擦る。ゆっくり目を閉じる。なんだよ、って笑われる。
「ミツの方がしっかりしてるから、ちょっと気、抜けんじゃん? だから、兄貴なの、嫌」
そう言うと、ミツは静かに微笑んで「なんだよそれ」って溢した。
「お兄さんなのに?」
「お兄さんなのに」
「オレ、しっかりしてないよ」
ふわふわと前髪を払われた。目を閉じたまま受け入れる。
「しっかりしてるよ」
ミツは優しくて強くてしっかりしてる。
俺は、優しくなりたくて、でも弱くてだらしない。
「俺も、何かを任せられるようなお兄さんになりたかったのかも」
「任せてるじゃん」
任せてる任せてる。あいつらみんなそうだよと、ミツが頭を撫でながら降らせてくれる言葉を噛み締めて、ごろんと体の向きを変えた。
ああ、だからこういうところがさ、どうしたってミツには兄貴じゃ嫌なんだよな。
「だから、ミツはお兄さんを甘やかして」
なんてしょうのない奴。だけど、ミツは苦笑しながら頭を撫でてくれる。どう考えたって情けない。歳下の膝枕でご機嫌整えて、兄貴扱いしないでーだなんて。
「……兄さんって呼ばないでーってごねてるお兄さんを?」
「そう」
ミツくらいは甘やかして絆して欲しい。
怖いことに、こいつは黙っててもそうしてくれるけど。
一生頭が上がらない。なので、俺はミツの膝に平伏して、服従した動物みたいに頭を差し出すんだ。
(兄貴でもなく弟でもなく、これってペットかも)
悪くないな。ミツのペット。
喉を鳴らして撫でられる快楽を享受して、そんな風に過ごしたい。
「家で慣らすのは諦めっかー……」
「諦めてよ、三月クン」
さてさて、これにて一件落着……かに思えたけど、この後、別の仕事から戻ってきたナギが、ミツに膝枕してもらってる俺を見つけて「兄さんたちばかりズルいでーす!」と飛び乗ってきたので、三月お兄ちゃんを取り合ったのはまた別の話。