光彩奪目を去なす -告人不知-
――オレが重を、好き?
そう思うと、なんでこんな奴のことだとか、ひどいことされたのにだとか、そんなことを全部差し置いて、顔がかぁっと熱くなった。
鎌鼬は「そんなわけないだろ」と口先だけの嘘を吐こうとしたが、それは重の絶望したような表情と言葉に遮られてしまった。
「気色悪い」
――今、こいつ気色悪いって言った?
そちらから見たら、確かに妖怪なんて化け物に違いなく、けれど、その化け物に先に触れたのは誰でもない重の方であるのに、吐き捨てられた言葉があまりにも残酷で、心が無かった。
「お前……が、お前が触ってきたんだろ、先に!」
鎌鼬は、やっとのことでその言葉を叩き付ける。重はと言えば、少し眉をひそめて、それから呆れたように言った。
「こっちは、お前のこと利用しただけだ。別に情なんてない」
「だって、いやらしいことしたいって言ったのに」
「情なんてなくても、いやらしいことなんて人間いくらでもできるんだぜ? 知ってる? お気楽な妖怪にはわかんないか?」
「わかるよ……わかるけどさ」
「わかってないんだろ? だから、自分が好かれてるなんて勘違いしたんだろ?」
「わかるよ……!」
鎌鼬が、重の外套の襟を掴んだ。
「人間の世界で遊んでた時、子供の姿を借りてたら襲われそうになった。鼬でも襲われそうになるのに、あいつらと同じ人間の子供でもそうなんだって思ってたけど、あれって、あれって……そういうことだったんだろ……」
重は何も言わない。心底不快そうな顔で、ただ鎌鼬を睨んでいるだけだった。
「けど、重なら……お前なら、良いかもって思ってた。ちょっとだけだけど……」
「オレが」
この男が表情を作るのが、いよいよ見て取れるようになった。時折、こういう嫌な顔をする。まるで、嫌な人間になろうとしているかのような顔だ。
「お前のことを本当にかっ捌いて食ってやろうって、そう思ってたって知っても、そんなこと言える?」
鎌鼬は、思わず目を見開いた。外套を掴んでいた手を、重に無理矢理払われる。
「言えないだろ? 殺されて食われるなんて嫌だもんな? バカな奴だよ、本当に。オレのことが好き? 勘弁してくれ、笑っちまう」
まさか、そんなことを本気で考えていたとは思わなかった。何故という疑問よりも、混乱が先立つ。
それにしたって、鎌鼬は重に払われた手を見つめて奥歯を噛み締めた。
「……オレがバカなのは認める。オレだってそう思うよ……思うけど……」
ちらりと見上げる。
(なんで泣きそうな顔に見えるんだろう)
重の表情が、どこか泣き出しそうなもののように思えた。
雲外鏡に見せられた人間界での重は、決して嬉しそうでなかったように思う。母親に、肉親に会えたのに? むしゃくしゃしていそうなその表情を思い出す。今だってそういう顔をしてる。
――オレのことをバカにしてるのは、重の方なのに。
その表情は、ちっとも愉快そうには見えなかった。
「……けどさ、オレの好きは、オレのもんなんだよ」
「は……?」
「オレ、多分、重のこと嫌いじゃない。お前の言う通りだと思う。好き、だと思う。だって、悪い気しないよ、お前がオレに噛み付いたって……そりゃあ、痛がって素直に食べられてなんかやらないだろうけど……でも、変だな。悪い気はしなかった。気色悪いとも思わなかった」
――人間のくせに、とも思わなかった。
「だから、多分オレ、重のこと好きなんだと思う」
そう言えば、ひそめられていた眉の皺がふらっと解けた。きょとんとして、段々と不思議そうに変化していく重の表情を見つめながら、鎌鼬ははっと息を吐いた。
「オレの好きはオレのもんだ。だから、笑われたって良いけど、お前に否定される筋合いはない。お前にくれてやる筋合いもない」
「いや、オレのこと好きなんに、なんでくれへんの……おかしいやん」
「これはオレの気持ちだから、お前のもんじゃない」
くしゃりと自分の着物を握る。首にぶら下げた装飾品が、しゃらりと音を立てた。
――苦しい。
胸がぎしぎしする。息苦しくて、血がちゃんと巡っていない気がして。鎌鼬はぎゅっと口を結ぶ。
(オレ、もしかして、失恋ってやつしてんのかなぁ……)
「お前になんか、やらない……」
自覚すると途端に悲しくなって、目の端から涙が零れそうになった。鎌鼬はぐしゃぐしゃと自分の顔を拭って踵を返す。そうして、一目散に走り出した。
「お前になんかやらねぇよ、バカ!」
そう叫んで逃げ出してしまった。悔しいが、足が止まらない。
背後で重がどんな顔をしていたかなんて、もうどうでも良かった。ただ、引き留めようと手を伸ばしていたのはかすかに見えた気がする。ただの鎌鼬の願望だったかもしれない。
振られたみたいな気持ちを味わえばいいが、実際に振られているのは鎌鼬の方だ。
わーっと泣きながら走っていると、上等な香りのする外套姿にぶつかった。
また刀衆の野郎かよと顔を上げると、そこには肩口に鎌鼬の体当たりを食らって苦悶の表情を浮かべている蒼の姿があった。
「わ、鎌鼬、どうしたの?」
「と、突然、ぶつかってくるな……」
その隣にいた鬼火が、鎌鼬の肩を抱いて心配そうに声を上げる。蒼も鎌鼬が泣いているのに気付いたのか、ぎょっと表情を変えた。
「何があったんだ……?」
「鎌鼬~、泣かないで~! 蒼も一緒に慰めてよー!」
わぁわぁと騒ぐ二人を目の前にして、鎌鼬は爪の先で自分の涙を拭う。けれど後から後から溢れて止まない。
「何、お前ら……なんで街で一緒にいんの……」
「あのねぇ、ボクの住処の雨漏りを蒼が直してくれるって言うから」
「な、直すとは言ってない! 様子を見てやるだけだって」
「えー! 直してくれるんじゃないの?」
そんな二人の遣り取りに、鎌鼬は「あはは」と間の抜けた声を上げる。
「いいなぁ、お前ら。仲が良くて」
ぼろぼろと泣きながら笑う鎌鼬を、鬼火がぎゅうと抱き締めた。
「どうしよう、鎌鼬が泣き止まないよ……! 蒼も! 蒼も背中から抱き締めて!」
「え、なんで私まで」
「いいから!」
鬼火に言われるまま、蒼も渋々と鎌鼬を抱き締める。二人に抱き締められ、鎌鼬は尚更涙が止まらない。
「どうしたんだよ、鎌鼬……」
「問題があったなら、聞くくらいならできるが……」
気を遣っているのか、珍しく優しい言葉を掛けてくれる蒼のせいもあって、鎌鼬は顔を覆ってうううと背中を丸めてしまった。
「……あいつ、気色悪いなんてさ、そこまで言わなくたっていいじゃんか……本当に、本当に好きなだけなのにさぁ……」
堪えきれず小さな声で泣き言を漏らしてしまった鎌鼬の言葉に、鬼火と蒼が鎌鼬越しに視線を合わせた。
光彩奪目を去なす -迷いと惑い-
誰も彼も、自分に大事なものをくれやしない。玩具を目の前にぶら下げて、それで満足しておいでなんてご機嫌を取るだけで、だあれも、一人だって自分の大切なものを重にくれやしない。
英だって、鎌鼬だって——
目を開ける。烏天狗の庵の中で、いつの間にか眠っていたようだった。
重は、掛けたままだった眼鏡を耳から抜いて、それから軽く頭を振る。覚醒には程遠い意識が、脳の中でがらんがらんと鳴った。
「……寝てた、か……」
夕の赤い閃光を、その先にある紺が絆す。交わって鮮やかな色差を生み出している赤と青の境界、それを庵の障子戸から睨んだ。
鎌鼬を酷く詰って距離を置いてから、葛ノ葉に行くのも面倒で気まずくなってしまった。だから、ここ暫くラーメンを食べていない。
資料を読む体で庵を訪れては昼寝をして、夜には詰所に戻る。何かを悟られたくなくて、円とも戯れていなかった。
そういえば、すれ違った蒼に酷い形相で睨まれた。また自分は何かをしたろうか。
「どいつもこいつも……人の気も知らへんで……」
頬杖を突いて、赤い閃光が沈んで消えていくのを眺めている。
(烏天狗かて、オレにはなんにも……)
自分が飽いたこの茶室。そこに詰め込まれた書物だって、所詮はあの妖怪が飽いた後の玩具に過ぎない。棚に収めていたり、平に積まれたままの書物や資料を振り返って、重は静かに落胆した。
(……あいつが、くれるわけあらへんわな)
全てに価値がないように思えてくる。所詮は、誰も彼もいらなくなったものを重に寄越しているだけだ。
「おーい! 重、まだいる?」
どろりとした気配の漂う庵の中に、溌剌とした詠の声が響く。
「賑やかなお人やわ……」
「烏天狗の仕事片付いたからさ! 重、そろそろ葛ノ葉行ってみない? 鎌鼬と何かあったみたいだけど、話してみたら意外とさぁ」
「ほーんま、喧しいお人や……」
そう言えば、詠が「ん?」と首を傾げた。その顔に不快そうな色はなく、ただきょとんとしている。紅の閃が差す瞳が、爛と揺れた。
「なぁ、詠。オレと暇潰ししてみる気、あらへん……?」
「なになに? どんな暇潰し?」
座敷に上がって、のしのしと歩いてくる詠に手を伸ばす。何の疑いもなくその手を取ろうとした詠に、重はにんまりと笑った。
「ええこと、しよか」
——これは、烏天狗の大事な玩具や。
どさり、畳に音が沈む。詠のパーカーが畳の上に広がった。
詠の腕を引いて、そのまま庵の畳の上に組み敷く。重が覆い被さって笑ってみると、その下で驚いていたように目を見開いていた詠が、ゆるり目を細めた。ドロップのような瞳が蕩けて光る。
「何? 良いことって……そういうこと?」
「詠も、毎日毎日烏天狗にこき使われて散々やろ? ちょおっと息抜きした方がええんとちゃいます……?」
紅を差した詠の指先が、そうっと重の髪を撫でた。
「あの人、悪趣味だからさぁ、見てるかもよ……?」
「かまへんよ」
「そう? 僕は構うんだけどなぁ。お仕置きされちゃう……」
そんなことは重には関係ない。今欲しいのは、誰かの大事なもの、だから。
「まぁ、でもさ」
詠の外套に手を掛け、そっと襟ぐりを広げようとした時だった。
やわく撫でていた重の髪を、詠がぎゅっと掴む。
「いっ!」
そのまま重の腹に膝を入れると、掴んでいた前髪を引きながら、重の体を蹴り倒した。そうして、畳の上に重の頭を押し付ける。
あっと言う間に形勢逆転され、逆に腰の上に乗り上がられた重は、詠をぎりりと睨み付けた。
「甘い甘い! 重、甘いよ〜! 仮にも僕は、烏天狗を使役しようとした、世にも愚かな人間だよ?」
「愚かで、暴力的も付けといた方がええわ……この馬鹿力……っ」
悪態を吐く重に詠はふんと鼻で笑って、けれど静かに呟いた。
「冗談でも男に手を出す人間じゃないでしょ。ねぇ、何があったの? 僕で良ければ聞くよ」
烏天狗とつるんでいるこの男のことだから、重が鎌鼬に何をしたかは事細かに知っていることだろうし、その後のことだってあるいは——けれど、詠の尻の下で重は溜め息を吐いて、ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜた。
「何言うてんの。どうせ詠も知ってるんやろ? オレが鎌鼬に何したか」
「うーん、まぁねぇ」
「したら、あいつ、オレのこと好きになってもうたんやって。もう笑けて笑けて……笑ったったら泣いてもうて。バカな奴や」
嘲るように鼻で笑ってやると、詠がふーんと間の抜けた声を上げた。
「気色、悪いやん。そんなん」
「……どうかな。重がそう思うならそうなのかもしれないけど」
「どう考えても気色悪いやろ? 化け物やん?」
「……重のそれってさぁ」
重の上から立ち上がった詠が、腰の刀の位置を直す。ちきりと鳴った鯉口の音に、重は僅かに身構えながら上体を起こした。
「どっちのこと言ってるの?」
赤い緋の光はとっくに差し込まなくなり、庵の中は濃紺で包まれている。
「相手のこと笑ってるなら、なんでそんなに悲しそうなのかなって」
静かに呟いた詠が、重を見下ろして微笑んだ。
「……自分の中で自分の存在が悍ましくて気色悪いから、だから本当にそうなってやろうって思うんだろ。悪い子に、化け物になろうとしちゃうんだ。重、そういうとこあるよね」
僕と重は少し似てるね、と溢した詠に、ぎゅっと眉を寄せる。のびのびとしているように見える詠に、一体、重の何がわかると言うのか。
「……あんたに、オレの何がわかる?」
「わからないし、知らない。けど、その口調も、笑い方も、演じてるでしょ。周りの人間が重はそういう子だからって思うように……でも、本当の重はそこにいない。そう思っちゃうんだろ?」
「あんたの言うことようわからんわ。オレはオレや……」
「そこに重はいないのに、鎌鼬はそんな重を好きだって言う」
重の言い分など関係ないかのように、ぴしゃりとそう言われた。
詠を見上げる。驚いた顔が少しでも出ていないと良いと思うのに、恐らく、自分は愕然としているだろう。そんな面を上げた。
濃紺の闇の中で、詠の紅の瞳がゆらりと光る。
「……悔しかったんじゃないかな?」
口から何かしらの罵声が飛び出しそうになる。けれど、それは明確な言葉にならないままで、重はぐしゃりと手で口を覆った。
——イライラする。イライラと、皮膚の下を駆け巡る不快感を、重は全て剥いで削いで切り落としたい衝動に駆られながら、嗚呼、それでも——詠の手が鞘を握っている。重の殺気は、既にこの手練に伝わっているのだ。
「例え妖怪になって力を得てさ、それで何か手に入れたとしても、重がそこにいようとしなくちゃ……自分が自分だって認めなくちゃ、何もかもずっと変わらないよ」
詠は、鞘を握ったまま茶室を出ていく。躙口なんて結局は飾りでしかないのだと思う。
詠がいなくなって収まる所を失った殺気に、重は静かに悪態を吐いた。
オレはオレで、それ以外にないこと。鎌鼬だってそう知っているみたいな口を利いたくせに、疑っている。妖怪風情に理解できないだろうと思う。
ぐしゃりと握った前髪の合間、畳の影を睨んだ。
「最悪や……何もかんも最悪や……」
庵で一晩ぼんやりと過ごした明け方、のらりくらりと霧の白靄の中を歩く。
無意識の内に足が向いていた、その行き先は葛ノ葉であった。暖簾を掛ける丁稚の、色鮮やかな姿に胸が苦しくなる。
鎌鼬が、「あ」という顔をした。
「おお、鎌鼬」
軽く、浅はかな気分で声を掛ける。殆ど眠っていないから、脳のどこかが麻痺していたのかもしれない。自分でも随分と間抜けな声が出たものだと思う。
「……おはよう」
「おはようさん。なぁ、一杯、半ラーメン作ってや。徹夜明けやから」
「……よりによって半ラーメンって……まぁ、いいけどさ」
俯いてはいるが厨房に入っていく鎌鼬を見て、重も椅子に腰掛ける。
頬杖を突いて、スープの鍋を温め出した鎌鼬の後ろ姿をぼんやり見ている内、眠気が溢れ出してきた。
ふあ、と欠伸をする。
「なんで寝てねぇの。遊んでたの?」
「んー……詠に説教されてん。腹立って、考えてたら朝になって……」
うつらうつら、揺れる意識の上を、醤油ベースの芳しい香りが抜けていく。
「説教されて考え込むなんて、殊勝なとこがあんだな。お前も」
「……まぁ」
せやね、と呟きながら、カウンターに額を当てた。スープが飛んでいて油が纏わりついているだろうカウンターは、朝一のせいもあってさらりとしている。冷たくて気持ちが良い。
「重? 茹でるけど、寝る……?」
いや、と言い掛ける。起きるつもりはあるのに、体が、瞼が動かない。
そのまますんと寝息を立て出した重の意識が落ちそうなその時、鎌鼬の手が、ふわりと重の頭を撫でた。
「……おやすみ」
自分が罵った化け物の手は、吃驚するくらい優しかった。
(許されてるんかな……)
掛けていた火を消す音がする。
このまま眠ってもいいのだろうか。寝首をかかれたり、しないのだろうか。自分は、この子にそういうことをしたはずだ。その報いを受けるに違いないのに。
重は数時間の後、すんなりと目を覚ました。椅子に腰掛けていた九尾の狐が、静かに尾を揺らす。
「鎌鼬の奴は鬼火と遊びに出掛けたよ。寝てるだけならとっとと帰りな」
「……オレ、今、五体満足でおるん?」
「今かい? そうだね……まぁ、あの子は寝首をかくような真似はしないから」
のそりと立ち上がった九尾の狐が、厨房から皿を取り出す。
目を擦る重の前にそれを置くと、静かに呟いた。
「あの子からだよ。サービスだって」
目の前に出された半チャーハン。それを見て、重はぱしぱしとただ瞬きをした。
あまりに惚けていたのだろう、九尾の狐が口に手を当ててクスクスと愛らしく笑っていた。
——なんや、もう。
正直拍子抜けしている。鎌鼬には嫌厭されると思ったし、仲間の妖怪からも突き放されると思っていた。なのに、そんなことは少しもなく……ただ、僅かによそよそしさの残る鎌鼬が可愛らしくはあった。
(……あかん)
いじめっ子気質が刺激される。
重は葛ノ葉を出て、あてもなくふらふらと歩いていた。詰所に戻って寝直しても良いのだが、チャーハンの腹ごなしをしたいような気分だった。
それに、今詰所に行くと、なんとなくではあるが鎌鼬と鬼火がいそうな気がする。顔を合わせるのが気まずい。どんな顔をしたものか……と考えあぐねている。
誰も彼もいない場所に吸い寄せられるように歩いてゆくと、結果的に幻界の入り口に辿り着いた。
遠くに金属音が聞こえる——こんな所で……?
そう思って深みに足を進めて行けば、大きな紅葉の樹が視界に入った。
その足元でひらりと舞う白い影と、力強く踏み込む黒い影。剣撃が金属の音を響かせ合い、森の中の澄んだ空気を震わせる。
鍔迫りの後、さっと二手に分かれた白と黒が、お互いに呼吸を整える。次の一撃で勝負が一段落することだろう。
重は、思わず目を見張った。
地面を蹴ったのは、僅かに黒い影が早い。その勢いのまま、下段から振り上げた切先が白い影を討たんとする、それを剣の腹で巻き込みいなされた。巻き込まれた刀ごと、黒い影、楓の体が地を滑る。
「っはぁ、はぁ……」
「今日、力入り過ぎ」
白い影、雲外鏡が刀身をすっと鞘に納め、それから楓に手を伸ばした。
「イラついてる? どした……? なんか、あった?」
「イラついてはいない……」
息を整えながら雲外鏡の手を借りて立ち上がった楓が、静かに重の方を振り返った。
「あー、誰かいる……なに、良いとこ見せたかった、とか?」
「そういうわけじゃない……が、全くないと言えば嘘になる……かも、しれない」
雲外鏡を見上げて、楓が頬を掻いた。そんな楓を見て、雲外鏡がふっと目を細めた。
それから重の方を見やって、暫しの間……「あー!」と、雲外鏡が声を上げた。
「あんた! あれ、あの……鎌鼬がっ、あんたのせいで……ううう……俺、余計なもん見せられたんだぞ!」
「は?」
先程まで刀を握っていた落ち着きとは全く乖離した雲外鏡の姿に、重も、そして楓までもがぐんにゃりと首を傾げた。
「す、助平なビデオ! 見せられたの! なんか人間同士のそれが気になるとか、あいつが余計なこと言うから……!」
雲外鏡の鏡がふらりと立ち上がる。その様に雲外鏡は慌て、鏡を抱えて幻界の奥に走って行ってしまった。
結果的に稽古の邪魔になった重を、自身の汗を拭った楓がじぃっと大層鋭く睨んでいた。
光彩奪目を去なす -「膳」-
「それって、オレが悪いんかなぁ……」
ぼやいた重に、その隣に座っていた円がぐるんと首を傾げた。
「……何、急に。今の、独り言ってことでいい?」
こっそりを装い、鎌鼬に話し掛ける円。鎌鼬の方はと言えば、チャーシューを切りながら首を振る。
「円に言ってんじゃねぇの?」
「えー……それなら、せめて俺の方を向いて言ってよ。こっちは別に食べたくもないラーメンに付き合わされてんだから」
「お前……言い方ってもんがあるだろうが」
鎌鼬が、かしゃんと中華包丁を置く。口を尖らせている円は、特に悪びれる様子もなく、ぶーぶーと続けた。
「大体さぁ! 自分がここに来にくいからって俺のこと巻き込んで……重って、本当に俺のことなんだと思ってるわけ?」
「なぁ、オレが悪いん……?」
「聞いてよ……」
カウンターに頬杖を突いてぼんやりと首を巡らせた重は、鎌鼬と円の方を見つめながらもう一度尋ねる。鎌鼬と円は顔を見合わせ、それからお互いに首を傾げてしまった。
(鎌鼬が、エロビデオ見たがったなん、オレのせいと違うやん……なんで雲外鏡に邪険にされなあかんかなぁ……)
ついでに、楓にまで冷めた目で見られる始末である。
重は、もう一度溜息を吐いて、それから頭を掻いた。
(人間同士のセックスが気になるねぇ……)
へぇ、かわええとこあるやん? くらいには思う。思うが、あんなに泣いていた鎌鼬は、今やそんなことなかったかのように重に接してくる。
今だってそうだ。円を連れてきたからと言っても、以前となんら変わらない態度でラーメンを振る舞って――ひどぉく振られたんやで、自分……。
重は、円とじゃれ合いながらスープを掻き混ぜている鎌鼬を見やる。ふらんふらんと、ふさふさの尻尾が揺れていた。楽しそうだ。
楽しそうだ。円と話しているのが。重には何の声も掛けないのに?
「なぁ、鎌鼬」
だから、爪を立てたくなって名前を呼ぶ。
鎌鼬がふらりと重を見た。
「なんだよ?」
「……チャーシュー、多めで」
「はいよ」
ほら、話せば話したで普通の態度なものだから、拍子抜けする。あんなに、あんなに泣かせたのに。あんなに嫌な自分を演じて、手ひどく罵って振ったのに。
詠に言われたことが頭を過ぎる。
――自分の中で自分の存在が悍ましくて気色悪いから、だから本当にそうなってやろうって思うんだろ。
まったくあの調子の良いのは、気楽にわかったような口を利いてくれるものだ。
「鎌鼬ぃ」
「今度はなんだよ……」
誰の大事なものをもらったとて、重が重であることを認めなければ何も変わらない、だなんて、本当に余計なお世話だった。けれど、悔しいことに省みる部分はある。
「自分、オレのどこが好きなん?」
そう言えば、隣の円は真顔になるわ、店の隅にいた九尾の狐は吹き出すわ、鎌鼬は真っ赤になるわ、それはそれは大変だった。
「オレ、お前に好かれるとこ、ないやん……?」
けれど、そう呟かずにはいられなかった。
だって本当に、一個だってそんな部分はないのだ。なのに、真っ赤になった鎌鼬は――何、こいつ、ほんまにオレのこと好きなんや――呆れるくらい困惑したような顔をしていて、重にはとても理解ができなかった。
(円と話してた方が楽しそうで、どこがオレのこと好きなん……それに、お前に好かれるようなとこ、あらへんのに)
もしそんなものがあるとしたら、本当の重など見えていないのだろう。
「何、寝惚けたこと言ってんだよ……」
鎌鼬が、持っていたおたまを鍋に掛ける。
「……バカ!」
そう言ってスープに蓋をして、カウンターからさっと飛び出した鎌鼬に、円は「ラーメンは……?」と呟いた。
「なんや、結局食うつもりやったん?」
「来たからにはね……余計なことしてくれるよなぁ。本当に、重って何考えてんの?」
元上司に向かってなんて言葉を掛けるのかと思う。けれど、それは重自身にも今はわからない。
「あいつ、あの鼬はん。オレのこと好きなんやて。笑えるやん?」
ぼんやりとそう言えば、円は口を尖らせて、それから目一杯呆れたような溜息を吐いた。
「妖怪なんて、簡単に心変わりするもんなんじゃないの? ……大した自信だね」
「それならそれで、はよう変わった方がええわ」
間髪入れずにそう返す。今度こそ、円は隠すことなく言った。
「そんな顔して言う? 冗談でしょ。呆れた……」
そんな二人の様子を眺めていた九尾の狐が、重そうな腰をゆったりと上げて、そうして先程まで尻尾を揺らしていた鎌鼬の代わりにカウンターに立つ。
おっ、珍しい……と、いつぞやの詠のようなことを思えるようになった自分に、重は思わず目を伏せた。ついでに、溜息を吐いてやる。
「なんだい、重。しけた溜息だね……」
「……そこそこ通い詰めてるもんなぁ……店長がそこに立つ時、同情されてる時やてわかってきたわ……」
「おや、同情なんてしないよ」
九尾の狐は、指先でそっと自身の着物の袖を摘まむ。色気のある仕草でそれを括ると、丼を並べて妖しげに笑った。
「わたしは妖怪だからね。おまえたち人間の気持ちになんて、同情できやしないさ」
それはご尤も。円と重はおもむろに置かれたラーメン丼を目の前に、ぱきっと割り箸を割ったのだった。
腹ごしらえを済ませて葛ノ葉を出る。
「ていうか、重、聞いてる? 英隊長が、重と公開稽古するって」
「はぁ? 知らんわー……ばっくれよ……」
「なんか、人事査定の一環とかなんとかって……」
これは、勝手に大門を抜けたのが上の癇に障ったのかもしれない。これまでなら然程お叱りを受けなかったものだが、蛟の一件以来、そうはいかないようだ。
あまりこちらから出ない詠のことを頭の隅で考えながら、重はうんざりと顔を顰めた。もしかしたら、詠も同じように睨まれているのかもしれない。
「……重」
そんなことを考えている最中だった。少し行った所で、円が何かに気付いたように足を止める。
そして、高い上背を少しだけ丸めて、そっと重に耳打ちをした。
「俺、遠回りして詰所戻るから」
「何?」
重は、そんな円の顔を眼鏡のフレームの上から睨んだ。
「お膳立てだよ、お膳立て!」
見やれば、煉瓦造りの塀の向こう、しゃがんでいるらしい生き物の尻尾が見えた。
「お膳立ても何もないやろ……」
「うるさいなぁ、タラタラしてると気付かれちゃうよ? 早く捕まえて」
円がつんと口を尖らせる。丸めていた背中をすっと伸ばし、僅かに高い身長のままに重を見下ろした。
「なぁ、円」
「何……」
お膳立てなどではなく、最早、重に付き合っているのが面倒になってきているのだろう。重は柄にもなく動じている自分を誤魔化し、偽りながら、前髪の隙間から円を見た。
「遊んでた女に本気になったら、自分、どないする?」
「何、不潔な話……? 俺、そういうのパス。面倒になる前にやめる」
「……せやろなぁ。オレもそう。そのはずなんやけど……今、自分が面倒くっさい人間やと気付きつつあるわ……」
円曰く、「お膳立て」、それをされるまま、重は一人、ふらふらと揺れる尻尾に近付いて行く。無意識の内に足を引き摺っていたのか、足下でざりりと音がした。
「……あ」
その音を聞き付け、尻尾が振り返る。ふさふさの尻尾の持ち主は鎌鼬だ。
「重だけ? 円は……?」
「逃げた丁稚はんこそ、こないなとこで奇遇ですやん」
茶化すようにそう言えば、鎌鼬はむすっと口を尖らせてしまった。気に留めず流せばいいだけなのに、重にはやけに引っ掛かる表情で、だからはぁと息を吐く。
「……円と話すの、そんなに楽しいかよ?」
「はぁ? なんだよ突然……」
体ごと振り返った鎌鼬が、正面から重を見上げる。
往来から少し離れた場所だ。人気はなし、妖気も感じない。それならええか、と重は静かに目を閉じた。
「別に」
「別にって顔じゃねぇだろ……」
「お前に、オレの顔の何がわかるんだよ」
「わかるよ。あと言葉遣い……何、ムカついてんの……? ラーメン出さなかったから?」
そんなことで腹は立てない。空腹時ならともかくだ。そんな幼稚なことで……そう言い掛けて、重はへらと笑った。
「鎌鼬が、なんでオレのこと好きなんか教えてくれへんからやろ」
「性格悪……」
吐き捨てるように言われ、更に口角が上がる。そんなの、今にわかったことじゃないだろうに。
「あはっ、知らんかったん? せやから聞いてやってるやん?」
そう言えば、鎌鼬がおずと俯いた。
重の外套の合わせを、鎌鼬の小柄な手が掴む。なに、と言い掛けて口を閉じた。
「……言ったって、オレ、失恋じゃん」
――しつれん……失恋?
妖怪から聞くには些か違和感のある言葉に、重は思わず首を傾げた。そのまま、俯いている鎌鼬の顔を覗き込む。
「は? なんて?」
そう問えば、鎌鼬はつついと重の合わせを握る手を揺らした。
「わかんねぇもん……わかんねぇけど、好きって言ったって、お前、オレのことさ」
鎌鼬の団栗目が、ぐずぐずと潤み始めた。橙の瞳がふらりと揺れたかと思うと、ぽろんと目の縁から雫が零れる。
――あ、泣いた。
鎌鼬の空いている方の手が、ぐしぐしと頬を拭った。少し赤くなって、けれど雫はすぐに散ってしまった。
「オレのこと、バカだって……」
だから、それは利用されてるのに気付かないで、まんまと――まんまとではないが、重のことを好きだなんて認めるから。
重の外套を握ったままの鎌鼬が、ぐすと鼻を鳴らす。
「……鎌鼬、キスしよか」
九尾の狐は言った。妖怪だから人間の同情はしない。
はて、では重はどうだろうか。人間だから妖怪の同情は、しない?
(よっぽど、妖怪の方がわかる気がすんねんけど)
鎌鼬のこと、だからかもしれない――だから、それは衝動だった。
「きす……?」
ほとんど衝動で現れた言葉を重が引っ込める間もなく、鎌鼬が顔を上げる。
「……ちゅーってするやつ。この前、したやん?」
「お前、あの時噛んだじゃん……がぶじゃん……」
「今度は噛まへんから」
な、と答えを聞く前に、鎌鼬の唇に自分の口を押し付ける。ん、と漏れた高い声に、唇がつい弧を描いた。そのまま、お互いの凹凸を埋めるために角度を変える。体を強張らせた鎌鼬が口をうすらと開いたので、重はほんの僅か顔を離した。
眼鏡のレンズ越しに鎌鼬の瞼を見る。するりと、ゆっくりとその瞼が開いた。戸惑っている琥珀の瞳が、潤んで重を見上げていた。困惑、動揺、そういうものが揺れて煌めいていた。
だから、もう一度同じ場所に口を付ける。すぼめられた唇の上にリップ音を落とし、そうして、指先で鎌鼬の小さな顎を掴んだ。少し力を込めれば、容易く口を開けてくれた。
ちろりと舌を差し込んでみると、それをすんなりと受け入れてくれる。鎌鼬が、重の舌を甘ったるく噛む。
「……牙、痛いて」
「じゃあ入れなきゃいいじゃん……」
憎まれ口を叩く口の中にもう一度舌を滑り込ませて、口の中から鎌鼬の上顎を舌先で擽った。
「あ……ふ」
「入れた方が、エエやん……?」
そう言えば、潤んだ瞳が重を睨み上げる。可愛らしいあまり、ちっとも怖くなかった。
は、と呼吸を乱す鎌鼬の腰に腕を回す。手に力を込めて引き寄せた。
小柄な体は素直に重に身を寄せたが、気持ちばかり、とんと胸を押される。けれど、重の外套の合わせを掴んだままの鎌鼬の手元では、押し返すなんて到底——その気もないに違いない。
鼻筋を擦り合わせた時、眼鏡の縁が当たって、お互い僅かに顔を引いた。
「……気色、悪くねぇの……」
ぞくりとする。決して畏れているわけではない。畏れることなど微塵もない。
可哀想で愛らしい。
「なんや、気にしてはるん?」
「気にするだろ……!」
そんな素振りも見せない普通の態度だったのに。
「あれなぁ……」
重は、不安気に窄められた鎌鼬の口に、再びちゅっと触れた。
「誤魔化されてる……」
「誤魔化してへんよ。汚して穢してんのに、なんで好かれてんねやろって、それがわからへんから……わからへんことって、気色悪いやん?」
「……何、どういうこと?」
そのまま、鎌鼬の細い首筋に唇を寄せた。すんすんと嗅いでいると、擽ったいのか肩を押された。
「……お前じゃなくて、オレが気色悪い生き物かもしれない、ってこと」
「え……?」
鎌鼬から、とても良い匂いがした。九尾の狐に似た匂い。雅だが鼻につかない香りだ。これが妖気の欠片なのか、それとも灯影街の香りなのか、どちらとも知れないが、もう一度息を吸う。
重が鎌鼬の首に顔を埋めていると、そろりと鎌鼬の指が重の髪を梳いて、戸惑いがちに頭を撫でた。
「……食べていいよ」
「ああ……?」
「オレ、今……気分良い。だから、気分良いから」
鎌鼬が、自身の襟のホックを外した。和装ごと襟ぐりを開いて、鎖骨を露わにする。首から下げている装飾品が、しゃらしゃらと音を立てた。
まるで、何かの儀式みたいだ。清らかで、けれど――
「オレのこと、食べていいよ」
鎌鼬の瞳の中で揺れた焔を見た時、それがひどく背徳的だと、そう思った。
光彩奪目を去なす -手を離れる話-
そろそろ、この生温い空気に飽きてきた読者諸君もいることだろう。何故そんなことが言えるのかって? これを一から十まで眺めている俺自身が飽きてきているからだ。
そこまで筆を走らせていたところ、烏天狗の手元を覗いた詠が、うんざりとした様子で溜息を吐いた。
「あんた、何でもすぐ飽きちゃうんだもんな」
「そうでもないぞ。興味が続くもんもある。これはわりと長い方だ」
筆を置いて、烏天狗が笑う。
詠はそんな烏天狗の文机に湯飲みを置いて、そっと腰を下ろした。
「重のこと覗いてるの、悪趣味過ぎるよ。烏天狗さんさ、妖怪使役しようとして失敗した人間に追い打ち掛けすぎ……です」
「どうした? 愚か者同士で乳繰り合おうとしたお前が、よくそんなこと言えるな」
烏天狗がはんと鼻を鳴らした。詠の顎を指先でぐいと掴み上げ、そうしてドロップのような瞳を覗き込む。
「げぇ……やっぱり見てやがった……」
「暇だったからな」
「……乳繰り合おうとなんてしてないし……可愛い後輩だもん。しっかりお灸据えてあげたってば」
「たまに喧嘩した方が良いぞ。腕が鈍る。そうだ。俺が一本、勝負の相手でもしてやろうか?」
「嫌だよ! あんたからしたら、僕の背骨折るのなんて赤子の手を捻るようなもんだろ!」
烏天狗の手を払い落とし、詠は畳の上に胡座をかく。気持ち、烏天狗と距離を取りながら、彼の手元の筆を見つめた。
詠の悔しそうな声に、烏天狗は涼しい顔をして「まぁ、そうだ」と頷いて見せる。山の大妖怪にとっては、たった一人の人間がどんなに腕が立とうとも、然程驚異にはならない。
「研究経過って言ったって、重がこれ見たら流石に卒倒しちゃうと思うなぁ、僕……」
「なかなか頑張るもんだと思って記録を始めたら、これが途中までは面白くてな」
「今、どうなってるんです?」
さて、どうなったかと思い千里眼を使ったところ、ここで面白くも何ともない人間らしさを見てしまった。故に、烏天狗は形だけ目頭を揉むような仕草をする。
「野郎、逃げやがったよ」
「え?」
「鎌鼬が食ってもいいと言ったのに、重の野郎、怖じ気付いて逃げやがったと言ったんだ……いや、怖じ気付いたのか? ……本当のところはどうなんだろうな。一つ飛んで行って確認してこようか」
思い付いたとばかりに手を叩き、烏天狗が腰を上げようとした。詠が慌てて文机を叩く。
「ちょ、ちょっと、烏天狗……! さん! もう勘弁してやりなよ!」
「なら、同じ人間のお前が問答の相手をしろ。俺の思うところはいくつかあるが、それにしても、あいつは何故逃げた?」
そう聞けば、詠は少し面倒そうに口を尖らせ、けれど溜息にも似た深呼吸をして座り直した。
「怖じ気付いたのは、そうだろうと思うけど……なんていうか」
刀衆の装束から覗く自分の手を見て、詠が呟く。
「本当に手に入れていいのかって、思ったんじゃないかな……」
「俺や蛟をものにしようとした人間どもがか?」
「ぼ、僕の話は関係ないでしょ!」
詠が反論すると、烏天狗は愉快だとばかりに目を細める。
「いい。続けて聞かせろ」
「えらっそうに……えっと、狙っているものならともかく、どう頑張っても手に入らないってわかってるものってあるじゃないですか」
詠がおずおずとそう言えば、烏天狗は心底不思議な気分になった。思わず、「そうか?」と返す。
「あんたに手に入らないもんはないだろうな! ……だから、それが手に入った時、なんていうか……僕でいいのかなって、手を引きたくなるというか……」
「それが怖じ気付くってことだろ……?」
「ちょっと違うかな……怖くなるんじゃなくって、自分の中の欲の形に困惑する気持ちが出てきて、それで手を引いちゃう」
自分の胸に手を当てて、詠が視線を落とした。こういう仕草をする時、人間は何かを思い出している最中なのだろう。
烏天狗には、詠のこれまでが手に取るようにわかる。それこそ、千里眼を用いれば容赦など掛けることなく本当に全てわかってしまう。
「……お前、俺のことは狙えば手に入ると思ってやがったわけだ?」
けれど、その「箱」を開けるのは、いつもどこか面白くないような気がして、烏天狗はまたしてもその「箱」からそっと手を離した。
だから、茶化すように――代わりに、詠の失敗の話を取り出す。
「ま、まぁ……そういう、油断かな……」
「人間ってぇのは、愚かだねぇ」
だからこそ面白いのだが。
団扇をはためかせてそんな風に笑えば、詠はむっと顰めっ面になった。詠のあまりに子供っぽい表情に、烏天狗はにこりと微笑む。
大変に愚かな人間だが、けれど、愛らしい顔付きをしているとは思う。
「もう、また僕の話してぇ……さては、飽きてきたんでしょ……」
「いや、別の物を書きたくなった。この才能が怖いな。文豪でも目指してみようか」
話を終えたくなったのは本当だ。そのついでにでかいことを言う烏天狗に、詠は彼のこれまで飽きに飽きてきた書物の山を睨んだ。
読み漁っては飽きていくのは真実であるから、およそ人間が読み切れぬだけの書物を識ってはいるであろうが……さて、それもいつまで保つか。烏天狗自身もそうは思っている。
そんな時だった。詠が苦し紛れに呟いた。
「もうさ、歌でも作ったらどう……? それっぽっち書くのに飽きてるんだから、文豪は向いてないって……」
「歌……?」
詠の言葉に、烏天狗は豆鉄砲を食らったような気分になった。
「あ、ああ、そうだよ。音楽? 詳しくは知らないけど、工程が多いだろうから、あんたでも続くんじゃない……?」
烏天狗は、文机に出していた紙をそっと横に避け、そうして前のめりになる。座っている詠の顔を覗き込んで、長い髪を垂らし、言った。
「面白い。俺が音楽を作ったら、詠、お前が歌え」
「え……?」
目をぱちくりと瞬かせた詠が、烏天狗の顔をじぃっと見つめる。
「お前の鼻歌は悪くない。だから、お前が歌え。俺の曲を」
「そ、そんなの、無理……! 一人で? 何考えてんだよ!」
「なら、俺もお前と一緒に歌う。それで良いな」
慌てて体を引いて、立ち上がって逃げようとした詠の手を、烏天狗の一回り大きな手が捕まえた。この場所において、詠が逃げきることなど到底できはしないのだが。
「そ、そんなこと言ったって……僕に嫌ですって言う権利ないんだろ……!」
「よくわかってるじゃないか」
逃げることを諦めた詠の手を、烏天狗はそっと離す。そうして彼の肩を叩いて、誰もが見惚れそうな上品な笑顔で微笑んだ。
「俺は、お前にはなかなか飽きない」
「あーあ……貧乏くじ引いてるなぁ……」
詠は、烏天狗に押しやられてくしゃくしゃになった紙の束を一瞥する。
まぁ、こんなにくしゃくしゃにするつもりはないが、はたらいた無礼の分はきっちり愉しませてもらわねばならないだろう。
早速、次の興味に取りかからねばならない。こういうことをするから、飽き性だのなんだのと咎められるのだろう。
いまだ不服そうな詠とその紙の束を代わる代わる眺めて、烏天狗はそっと手を叩いた。
光彩奪目を去なす -光彩奪目-
逃げ出した。
妖怪の皮膚は日に焼けることを知らないのか、けれど、血管は確かに通っている。魚の腹のような滑らかな皮膚の中、青い管と血潮の色が透ける首筋を見て、重は今まで感じたことのないような欲を覚えた。
臓腑から喉から、まるで、目に見えない手がぞろりと登り、這い出てくる感覚。
戸惑いがちに見上げて、けれど、首を、肩口を差し出してくる鎌鼬の姿に、血が逆流するような焦燥を感じた。
気付けば、彼を置いて逃げ出していた。口の中に溜まる唾液を懸命に飲み下し、鞘を掴んで走っていた。
詰所に駆け込み、汲んで飲み干した水は一切の味がしなかった。
吐き気がする。胃が「欲する物はこれではない」と訴え掛けてくる。吐き気がする。水を押し上げ、そうして「望む物を」と。
重は、ぐるぐると巡る意識を押し退けて、食堂の机を叩いた。
イライラとは違う、今感じているのは、じりつく欲とそれに対する動揺だ。蛟の力を欲しがった時は、もっとわくわくとした。けれど、今はそれと違う。皮膚の下を、骨の節を、虫が這うような感覚だった。
(なんだ、これは)
鎌鼬の体液を口に入れてから、本当に何かが狂ったのかもしれない。
ぞっとした。自分は、本当に彼の肉が欲しいのだ。
そんな重の耳に、衣擦れの音が届いた。
「重」
低く落ち着いた声に、重は思わず舌を打ちそうになる。何故なら、こんな時には聞きたくない声だったからだ。
「……なんや、英はんかいな……」
「顔色が悪いな。薬を持ってこさせようか」
「いらんわ。それより何の用や……自分の施しなんいらんとこやけど、見ての通り、気分はめっちゃエエところですわ」
「それは邪魔をしたな」
脂汗を拭った重を見て、英はすらりとした目を細めて笑う。癇に障る。
「単刀直入に伝えよう。明日の朝に、私と貴様で公開稽古を行う。真剣一本勝負だ」
「はぁー、それホンマやったんかいな……しかも明日ぁ? 急すぎるやろ。かったる……」
「前々から伝えておくと、貴様、逃げ出すだろう? 重」
「なんですのん……」
「今回ばかりは向き合ってもらうぞ。私とて、不要な人斬りはしたくない」
英の神妙な表情に、重はつい眉を上げる。
「……どういう意味や?」
「そのままの意味だ。今回の稽古、貴様が逃走、もしくは不戦敗でもしようものなら、即刻処刑するようにと……もしくは、私自らその場で処分するように言われている」
体の内を駆け巡っていた興奮が、急に冷めてしまった。重は呆れたとばかりに溜息を吐く。そうして、口元をあえて歪めて言った。
「それ、自分言うてええやつなん?」
「特に口止めされてはいない。私個人としては、お前に伝えておかなければならないと思った。だから言ったまでだ。……ただの稽古で終わらせたい。必ず参加するように」
英の瞳が、幾許かの必死さを持って重を見た。
――処刑も何も、こんな場所に配属された上に降格を受けた時点で、ある種処刑されたようなものではないか。
眼鏡のブリッジを上げる。もう一度静かに息を吐いた。
「ハイハイ、りょーかい」
「違えるなよ」
「しつこいなぁ。まぁ、こんなオレでも命は惜しいし?」
重がひらっと上げた手を見て、英はほのかに安堵したようだった。背中を翻し、振り返らないまま食堂を出て行く。
――命が惜しいのは本当だ。しかし。
(……やり合いたくねぇな……)
蛟と英を交戦させた理由が、今、はっきりとわかったような気がした。
(避けてるのか、オレは)
英と一対一で刀を合わせることを。
ふらり、懐から式神を取り出した。手の中の人形を見つめて、重は肩を落とす。
「一歩間違って死ぬ前に、食うてもうてもええのかも……」
式神の頭部にちゅっと口を付けて、そのまま手を離した。
浮き上がった式神が、主の指示を空中で待つ。
「鎌鼬の顔面に突撃して戻って来てや」
飛び立った式神にひらりと手を振って見送る。
顔を見たら、また得体の知れない焦燥が込み上げてきそうなものだが、しかし、今無性にあの童顔に触れたくて仕方が無かった。
淡い色の恋心なんて、自分にはとてもではないが似付かわしくないけれど、夕の陽を受けた式神の色は、もしかしたらその手の色に似ていたのかもしれない。
さて、戻ってきた式神はと言えば、重が意図していなかった物を引き摺って戻ってきた。いや、意図していなかったわけではないが、なんというか……ぐしゃりと前髪を掴む。
「……なんでやー」
「こっちの台詞だっつーの!」
式神にしがみついて引き摺られてきた鎌鼬が、部屋の窓に詰まっているのを見て、重ははぁと溜息を吐いた。
「何、オレに会いたかったん? さっき会ったばっかやん」
「そうだな! お前は逃げ出したけどよ!」
いーっと牙を見せる鎌鼬の言葉に、不意に自分の情けなさが頭を掠める。すまなかったなどとは言わないが。
「いや、なんや、急にな……鼬の肉なん、生臭そうやなぁって思うて」
「失礼だな、テメェは本当に……」
呆れたような顔をした鎌鼬が、窓に詰まったまま尻尾を立てている。
重は、式神の効力をそっと切って、窓に詰まっている鎌鼬のために仕切りを広げてやった。
ずれてしまった帽子を押さえながら、鎌鼬がふるふると頭を振る。光の加減で橙にも桜色にも映る髪が、ちかりと揺れた。
「……結局、からかってたのかよ」
「何……?」
鎌鼬が、着物の上からそっと自分の鎖骨を撫でた。
「食いたいってやつ、さ」
顔を背けて、目を伏せて、僅かに頬を染めながらそんなことを溢す鎌鼬に、重はふと口を開き、けれど何も言わないまま閉じる。暫しの思案の後、何故かはわからないが唇を尖らせたくなった。
「最後の晩餐に鼬肉は、あんまりやわ……」
「さいごのばんさん?」
「オレ、明日英はんにたたっ斬られるかもしれへん」
「な、なんで!」
万が一にも、重がここに来て逃走するか、もしくは事故が起きようものならば、の話である。その可能性を持ち出したところ、鎌鼬が、ぎゅうっと重の外套を握った。
「なんで? お前、また悪いことしたのかよ!」
「人間には人間の面倒があるんやわ。鼬さんにはわかれへんかもせぇへんけど」
あまりに必死に縋り付いてくるものだから、顔を逸らしながらつい面白おかしくなってしまう。
子供みたいな縋り方をしてくる鎌鼬の髪を撫でた。覗いた人の耳が赤い。その上でぴこんと動いた鼬の耳にそっと口を寄せる。
(耳くらい、囓ってみてもええのかも)
はむ、と唇で挟むと、重の外套を握っていた鎌鼬の手が、途端に重の体にぎゅうっとしがみついた。
「ひゃうっ」
上がった嬌声と、自分の胸元でふるりと震えた鎌鼬を見下ろして、重は思わずごくんと唾を飲み下す。耳からはつい口を離してしまった。
なのに、まただ。喉奥から這い上がる欲がある。腹の底から湧き上がってくる気色の悪いものが、今にも口から溢れそうだった。思わず、手の平で自分の口を覆う。
「……重、どうした?」
鎌鼬が、心配そうに顔を上げる。そして、僅かに潤んだ瞳で重の顔を恐る恐る覗き込んできた。
「やっぱり、オレ、不味いかなぁ……」
冗談ではない。今すぐ啜りたくて仕方がない、その欲が自分を蝕んでいるというのに。
皮膚を裂いて、あらゆる血管から垂れ流れる血液を啜り吸い上げ、覗く肉に牙を立てて引き裂きたい。露わになった骨だって、数多の臓腑だってしゃぶりつくしてやりたいというのに!
重は、自分の手が赤く染まっている幻覚を見た。瞬きをする。幻覚は消えない。その手で鎌鼬の不安そうな目を覆い、そうして頬を撫ぜた。白い頬に、血は付かなかった。
「……食うてもうたら、鎌鼬やなくなってまうやん」
「……え?」
「食うてもうたら、減ってまうやん。オレを好きな子が、いななってまうから……」
重を抱き締めていた鎌鼬の手に、きゅっと力がこもった。
「だから、オレ、食べられへんわ。お前のこと」
こんなに欲しいのに、なくなってしまうことの方が嫌だ。
そう口にすれば、重の胸に貼り付いていた鎌鼬が、ふにゃりと笑った。
「……なんだよ、その理由」
視界の端に見える鎌鼬の尻尾が、嬉しそうにふらふらと揺れている。
この妖怪は、本当に自分のことを好きなのだと思う。そう感じる。だから食べてしまいたい。自分に欲しい。
「食べられへんけど……欲しゅうて欲しゅうて……」
喉から手が出そうだ。そう言えば、鎌鼬が重に改めて貼り付いた。
「んー……? 人間って、そういう時どうすんだろう」
「……さぁ。考えたことないなぁ……」
まともに人間を好きになったことがない――好き……? 好き、だって? まさかな。
「じゃあさ」
外套を、鎌鼬にまたぎゅっと握られた。そのまま強く引かれ、ぼんやりしていた重は思わずバランスを崩す。すんなりと鎌鼬に引き寄せられ、そのまま、唇にむちゅと口を当てられた。舌を入れる真似事でもしたかったのか、それとも動物の本能なのか、重の口を鎌鼬がぺろっと舐める。
「じゃあ、番になろうよ」
重が呆けたまま鎌鼬を見つめていると、暫くして、鎌鼬の方がこてんと首を傾げてしまった。
「……オレ、また笑われる……?」
笑われても、諦めないけどさ。そう言ってまたぎゅっと抱き締められた。
鎌鼬の言っている意味がひとつもわからないまま、重はただ熱くなっていく顔を覆うこともできず、わなわなと口を震わせた。
「そ、それはー……人間で言うところの、プロポーズだろ……」
「ぷろぽぉず?」
「あー、そういうのは普通、その……もっと、好きになってからっつーか……大体……」
ギクシャクと眼鏡を上げる。もう一度落ちてくるので上げる。もしかして手が震えているかもしれない。
何を言い出すんだ、この鼬は。
「重、驚いてんの?」
「驚いてるっつーか……あんまりにもお前さんが、その、突拍子もなくオレのこと好きだから……吃驚してるっつーか……」
「マジで? やっとお前のこと化かせたってこと?」
「な、なんだよ、化かすって! 嘘ってことかよ!」
「ち、違うよ! 番になりたいのは本当! えっと、お前が、オレのこと好きなら、だけど……!」
重は思わず、ぎゅうっと目を閉じた。
「……なんで、お前さん、オレのことそんなに好きなの……?」
わからない、わからないと首を振りたいのに、体がうまく動かない。
「それ! 考えたんだよ、オレなりに。なんつーかさぁ」
鎌鼬が、すりすりと重の肩に頭を擦り付ける。大きな帽子が床に落ちて、けれどそのままだ。鎌鼬の耳が、安心したようにぺたんと折れた。
「放っておけないんだよな、お前のこと」
「あんなに罵ったのに……?」
「あんなに罵られたのに」
くすくすと肩を震わせて笑った鎌鼬に「何」と問えば、下から小さな声で返事が返ってきた。
「重、すげぇドキドキしてる……」
重の心音に会わせて、鎌鼬の耳がぴくぴくと動いていた。
「来て」
その内、鎌鼬が重の部屋の寝台に手を引いて呼び付ける。自分はそこにひょいと座って、重の手を握り直した。
「……人間ってさ、番になったら交わるんだろ? ここ、擦り付けんの?」
ぴらりと着物の裾を持ち上げて、鎌鼬が洋袴の上から自分の股間を撫でた。
「擦り付けるっつーか……」
説明したくないなと思いながら、先程「化かされた」ことが途端に気恥ずかしくなり、また、悔しくなってきた。
重はずり落ちたままだった眼鏡のブリッジを上げて、そのまま鎌鼬の股間にある彼の手を握る。
「……相手が女なら、中に挿れんの。鼬だって交尾するだろ? あれと同じ」
「……じゃあ、男だったら……?」
「そうだなぁ……ケツの穴でも使うんじゃないの?」
自室とは言え、あくまでここは詰所の一室。なんとなく声を潜め、なんとなく鎌鼬の耳に口を近付けた。本当に、ただなんとなくの連鎖だった。
鎌鼬が、ころんと寝台に寝転がる。そのまま体を横に倒して、腰を覆っている着物を前側に払った。するりと洋袴を下ろす。一瞬露わになった尻を、鎌鼬の尻尾がふらりと隠した。
「……使ってみてよ」
「は?」
「どう使うのか、使ってみて」
ゆっくりと瞬きをする。急に言われても、重にも男同士での経験はない。しかし、目の前には曝け出されている可憐な尻。あくまで男のそれでしかないのだが……ごくんと生唾を飲む。
食欲は、相変わらずじりじりと喉元を締め付けていた。苦しい。食べたい。
「あのなぁ……使えって言われたって、ぬめらせるような薬もないのに」
「え? 薬ならあるけど」
……ああ、余計なことを言ったと重は思った。相手は鎌鼬という名の妖怪だ。傷薬を持ち歩いているに決まっている。
懐から容器を取り出した鎌鼬が、中に入っている白い軟膏を指に纏わせて、くちゃくちゃと音を鳴らした。
「あっためれば、使えるかな……?」
ここまで来ては、重に「ハイ」も「イイエ」もなかった。
やってみるかとやけくそ気味に応じてから暫く、寝台に両手両足と突かせてうつ伏せにしている鎌鼬の尻の穴を、彼の傷薬で解している。
外套を脱ぎ去ってはいたが、正直のところ気乗りはしていない。なので、着物を乱して締まりのない格好をしているのは、鎌鼬の方ばかりである。
確かに、体温で温めた傷薬は尻の穴にぬるぬると入っていくし、指の滑りも悪くはない。けれど、頭の中は「ここに本当に入るんか……」という疑問符ばかりである。
「鎌鼬はん……あきまへん。全然オレのブツ入りそうにないわぁ……」
「あ、喋り方戻ってる……くっそぉ、余裕ぶりやがって……」
鎌鼬が、ふらりと尻を振った。それに伴って尻尾も揺れる。尻の穴に指を出し入れしていると、尻尾の方がふらふらと揺れて、悦いんだか悪いんだかはともかく、何かしら感じているらしいという反応は窺えた。
「別に、余裕があるわけやないし……」
重の人差し指と中指を咥え込んでいる鎌鼬の尻穴を見ながら、きゅっと唇を噛む。寝台に腰を下ろして両脚を広げているその中心で、袴の布地がテントを張っていた。決して余裕があるわけではない。
「嘘やん……嫌やもう……」
気乗りはしてないつもりだった。
「なに、嫌って言った……?」
「いや、嫌やけど、違うて……嫌やないです……」
食べたい、だと思っていた。いや、今も思ってはいる。だから、決してこれは性愛ではないのだと思っていた。それが、どうしたことか。
(食べるって、そっちでもええんかい……)
自分の欲望の行方がわからず、頭の中がぐらんぐらんと揺れている。
あやとりを失敗した時のようだ。紐が解けない。解けないまま、すっきりしないまま、鎌鼬の尻を弄っている。正直に「滑稽だ」と思った。
「はぁ……」
目の前で、ふらんふらんと鎌鼬の尻尾が揺れている。重は鎌鼬の尻穴を押し広げながら、思わずの尻尾に顔を寄せた。かぷ、と根元を噛むと、それまで大人しく伏せていた鎌鼬が、「ふひゃあ」と鳴いて、体を起こす。
「なっ、何すんだよ……!」
「んー、尻尾が暇そうやと思うてぇ」
「暇じゃないし!」
重の指を、鎌鼬の尻穴がきゅうっと締め付ける。
尾の付け根というのは、あらゆる動物において性感帯らしいという話は聞いていたが、どうやら真実のようだ。空いている方の手で、尻尾の先をこりこりと捏ねる。こちらよりも、やはり根元らしい。反応が薄い。
重の手に纏わり付きながらも逃げようとする気まぐれな尻尾を左手で遊びながら、右手の指を、くっと鎌鼬の奥まで挿れ込む。すかさず、尻尾の根元を少し強めに擦った。
「はふっ、ふ、あぁっ」
左腕に尻尾が絡まり止めさせようとするのに、鎌鼬の尻は重の手に擦り寄ってくる。どちらも本能に違いない正直な様を見せ付けられ、思わず口角が上がった。
「あはっ……」
自分の中で、何かに火が点いたのがわかる。重は張り詰めている袴の紐を解いて急いで脱ぎ去ると、普段からだらしなく合わせている作務衣に袖を通したまま、襟を肩から下ろした。
下着をずり下ろし、昂ぶっている自分自身を取り出す。鎌鼬の傷薬でぬめった手で扱いてやると、先端から汁が滲んだ。
(ご無沙汰だもんなぁ……)
鎌鼬の口に出して以来だ。あれだって、まるで気分じゃなかった。けれど、今は違う。
(挿れたい)
生殖行為でもないんでもないことを目の前の動物が望んだから、滅茶苦茶にわからせてやりたい。食って食らわせてやりたい。蕩かして、ぐちゃぐちゃにして、人間というものを刻んでやりたい。
(……オレは、結局人間風情でしかないんだな……)
九尾の狐に言われたことが、ふと頭を過ぎった。
「鎌鼬」
「んー、何……?」
「オレ人間やけど、ええの?」
「……今、それ関係ある?」
二本の指で、鎌鼬の尻穴をくぱと広げる。うつ伏せている鎌鼬は眉を顰めているが、けれど、構わずに立ち上がった性器の先を当てた。傷薬でどろどろになったそこに、じっくり埋めていく。
「あー……っ」
ずるずると飲み込まれていく感触に、背骨がびりびりとした。思わず呻く。体が歓喜で震えそうになるのを耐えながら、鳴き声を上げないように口を押さえている鎌鼬の横顔を見下ろした。
「鎌……痛ない……?」
「いたくはっ、ない……けど、くるし……」
ずっぽりと重の性器を咥えている鎌鼬の尻が、ぴくんと跳ねる。
腰を両側から押さえ込んでいた手を緩め、宥めるように尻尾の付け根を撫でてやった。すると、鎌鼬はかっと目を見開いて、重の方を悔しそうに睨んだ。
「や、それぇ……っ、だめだってばぁ……っ」
「なんでぇ……尻尾、アカンの?」
尻の奥まで自分自身の性器を押し込みながら、鎌鼬の尻尾の付け根もトントンと叩いてやる。すると、鎌鼬は呻き声を上げながら呆気なく射精してしまった。鎌鼬の精液が、重の寝台を汚す。
「あーあ、自分、イッてもうてるやん……」
「だ、ダメだ、って言った、も……んっ」
鎌鼬の太腿から、溢れてきた傷薬が垂れていく。それがまた寝台のシーツを濡らすものだから、重は鎌鼬の体を背後から抱き締めて、そのまま体を横に倒した。倒れた振動が内側から伝わったのか、重の体の上で鎌鼬の体がびくんびくんと波を打つ。
「い、やっ、くるし、おく、奥、やだっ」
重に乗り上がった形になり、鎌鼬の内側はびっちりと重の性器で埋められている。それが嫌だ嫌だと体を捩る度に内側が擦れて、次第に重の性器が膨張していることに気付いたのだろう、鎌鼬は、ぴしりと動くのをやめてしまった。
「なんや、サービスタイム終了なん?」
「さ、サービスじゃねぇ、し!」
「ほんなら、今度はオレのサービスタイムな」
男同士で激しく動いて大丈夫なものだろうかと一瞬思案して、けれど、次の瞬間には腰が動いていた。
「ひゃあっ」
寝台がギシギシと音を立てて揺れる。尻穴に激しく出し入れをされて、鎌鼬は重の上から逃げようとするのに、重力には逆らえず、そのまま重の体の上で跳ね上げられていた。
自分に背中を見せている鎌鼬の腰を押さえ付けながら、しなる肢体を眺めている。
「い、やっ、ちょ、てめ……ッ」
「あはっ……ほーんま、かあいらし鼬さんや」
腹の奥を何度も突き上げられて、尻尾の臨戦態勢を解除できないのだろう。先程から立ち上がりっぱなしである。そのため、重からは繋がっている部分がよく見えた。傷薬が濁ってぐちゃぐちゃに漏れ出している。
ついでに、先程射精した鎌鼬の精液が二人の隙間にまとわりついて、ぱちゅぱちゅと卑猥な音を立てていた。
「や、だっ、ばかっ、んう、腹、くるし」
短く途切れ途切れに鳴く鎌鼬を跳ね上げるのをやめて、重は、よっと体を起こした。自分の上に座るような形になっていた鎌鼬を背後から抱き締めて、そうしてべろりとうなじを舐め上げる。汗が滲んでしょっぱい。
「ひぃっ」
十分に消毒をしてから、ささやかに口を開いた。唾液でてらてらとした鎌鼬のうなじを眺めて、そこにかぷりと噛み付いた。
「ん、う……ッ」
きゅうっと吸い上げ、痕を付ける。歯形と鬱血の痕を両方付けて、何故だか、ただそれだけのことにやけに安堵した。血は出なかった。血が啜れなくても良いと思った。
鎌鼬の肩に後頭部を乗せてほうっと息を吐くと、鎌鼬が不思議そうに振り返った。
「かさ、ね……?」
「うん……」
止めていた律動を再開させる。寝台は、キシキシというささやかな音から、すぐに嘆かわしい悲鳴へと変わってしまった。
その音に掻き消されるくらいに抑えられた鎌鼬の鳴き声をすぐそばで聞きながら、重は、ぎゅうっと目を閉じた。
「きっつい……」
鎌鼬は、重の寝台の上で丸まった状態で目を覚ました。
体を起こしてみたが、腰が痛くてすぐに倒れ込む。その上、尻尾はがびがびだった。シーツに包まっていたが、どうやら――何も身に付けていない……脱がされた服が寝台の下に散らばっているのをシーツの中から睨み付け、鎌鼬はくぅんと鳴いた。
「人間の交尾、きっつい……」
しかもしつっこい……小動物の交尾は至って素早いものだが、重にあちこち擦られ舐められ、挙げ句の果てには噛み付かれた。その後遺症の数々を撫でて、鎌鼬は「使ってみてなんて言うんじゃなかった……」と呻く。
自分の傷薬を使っているから、きっと治りは早いだろうが、それにしてもだ。ねちっこいし、しつこいし、何度も体勢を変えさせられた。あっちへこっちへやられて、人形みたい扱われた気分だった。
しかし、それだけじゃないのがまた嫌だった。
「……重、笑ってた」
いつもの嫌みな笑い方じゃなくて、蕩けたみたいにふにゃっと笑っていた。それが見られて良かった、だなんて……鎌鼬は、かぁっと熱くなる頬を両手で押さえる。
(あの顔が見れたからいっか……なんて、バカじゃねぇのオレ……!)
吹っ掛けたのは鎌鼬からだ。それに文句はない。
が、しかし、気乗りしないような顔をしながら、自分の気持ちは言わずに好き勝手してくれた重に物申してやりたい気持ちが、鎌鼬の中にふつふつと湧いてきた。
鎌鼬は、衣服の一枚一枚をやっとの思いで拾い上げ、そうして重の部屋を出た。
「くっそ、文句くらい言ってやる……」
ふらふらと詰所を歩いていると、稽古場に刀衆が集まっていた。その中に檸檬色の頭を見つけ、鎌鼬はえっちらおっちら駆け寄った。
「あ、円! みんなも……なぁ、重どこにいる?」
急に声を掛けられ、振り返った円が驚いたように目をぱちくりさせた。そのまま、鎌鼬に向かって、「しー……」と口の前に人差し指を立てて見せる。鎌鼬は、思わず首を傾げた。
「なに……?」
「静かに。今日は中央の監督が入ってる公開試合だから、君がいるのまずいって……」
そう言って円は自分の襟巻きを外すと、そっと鎌鼬の頭に乗せた。
「え、どういうこと……?」
「監督と言っても通信だから、中央の人間が実際にいるわけじゃないんだけど……ほら、今この状況、見られてるんだよ」
円は、稽古場の中心を指さした。そこには――重と英が互いに刀を向けて構えている。
円に誘導されるまま稽古場を一瞥した鎌鼬が、慌てて言った。
「試合って……? あれ真剣じゃんか!」
「そうだよ。そういう指定らしい」
重が言っていた「英に斬られるかもしれない」というのは、この事だったのか……?
鎌鼬はことんと息を飲み、そうして稽古場の中心をじっと見つめた。
英は剣を正眼に構えている。剣術を知らない鎌鼬からしても、穏やかながら隙のない構えのように見える。一方、重はと言えば、顔の横で柄を握り、刀身を寝かせた状態で構えていた。
「なんだよあれ、脇ががら空きじゃん……」
「あれは八双だな……あの人、あんな構えもできるんだ」
呟いた楓に、鎌鼬が顔を上げる。
「八双……?」
「あまり振り被らないで斬り込みに行ける構えだよ。鎌鼬の言う通り、重の場合だと右に寄せてるから、体の左側ががら空きになるデメリットはあるけどね」
あの人あんまり稽古出ないから、何ができるのかよくわからないんだよな……と溢した円に、鎌鼬は「へぇ」と生返事を返した。立っていると腰がずしりと重いが、それでもこの歪な緊張感の中では、痛みも大分鈍っていた。
じり、と重が左足で躙り寄る。けれど、英は一切姿勢を崩さず、微動だにしない。沈黙の中で、次第に空気が尖っていくのを感じる。審判をしている蒼も、ひどく緊張しているようだった。
先に動いたのは、やはり重の方だった。重が肩口から剣を振り下ろすや否や、英は刀身を僅かに正眼からずらし、後方に下がった。下ろされた重の剣を擦り上げ、返そうとしたが、すぐに重に間合いを詰められる。
そのまま、両者鍔迫りになった。遅れて聞こえた金属のぶつかる音に、鎌鼬はつい耳を塞ぐ。随分と鈍い音がした。重の打撃が強いことを、それが物語っている。
しかし、鍔迫りの最中も落ち着いている英が、食い気味の重を早々に押し退け、改めて間合いを取った。
今度は中段に構えようと手元を下ろした重の手首を英の剣先が狙う。半身を引いて避けた重を、二の手、英の突きが襲った。
小手に打ち込んだ体勢を戻すことなく、低い姿勢から飛び上がるように重の喉元を狙った英のその切っ先が、後退した重の髪を削ぐ。
「あっぶな……!」
一瞬の出来事に、流石に円も声を上げた。
「な、なぁ、これ、ケガとかしないよなぁ……!」
鎌鼬が慌てて円の袖を引いた。
「真剣だからな。ケガするとしたら大ケガだよ……」
そう返され、鎌鼬はばっと稽古場を振り返る。
「こっちのこと散々振り回しておいて……! あの野郎!」
突きの連撃から続いて袈裟に振り下ろされた剣を、重が刀を寝かせ、刀の腹で受ける。
「ぐっ……!」
膝まで突いてしまっているこの姿勢は、非常にまずい。
円も蒼もそっと眉をひそめた。ここから持ち直したとて、生まれるであろう隙は誤魔化せないだろう。
「おー! やってるやってる……って、重、ピンチじゃん!」
遅れて稽古場にやってきた詠が、わーっ! と声を上げた。
英の圧に堪えながら、それを押し返すことまではできない。受けるので精一杯のように見える。
重の剣撃にも力強さはあったが、当然ながら英も強い打撃力を持っている。姿勢を崩してしまっている重には、あまりに分が悪い。
「重ー! 負けるなー!」
詠が呑気とも取れるような声を上げる。それを見て、円が肩を竦めて笑った。
「あらら、急に賑やかになっちゃったね」
ぐぎぎ、と歯を食いしばっている重が、ちらりと詠の方を見た。
「うっさいわ! こっちかて、負けてケガなんしたないっつー……」
重が一瞬、きょとんとしたのがわかった――バカじゃないのか、試合の最中だぞ? 円と詠の隙間にいる鎌鼬は思った。
けれど確かに、それはもう間違いようがなく、この瞬間、重と視線が合ったのだと思う。
「貴様、よそ見してる場合か!」
英の怒号が飛んだ。続いて、重が英の剣を押し返す。
それに英が怯んだ隙に、後方に跳んだ重が英と十分な間合いを置いて一呼吸する。左手に握った刀の背で、とんとんと自分の肩を叩いた。
「はーあ、堪忍な、英はん。お稽古事はここで終わりや」
「……ハッ、笑わせるな。端から剣術稽古などしていないクセに」
「あはっ、オレ、稽古嫌いやもん」
「知っている!」
上段に振り被り真正面から斬り込んできた英と、下段から斬り上げた重の剣がぶつかり、再び激しく斬り結ぶ。重としては、そのまま剣先を跳ね上げたかったところだろうが、英の腕力で押し戻された。
「ちっ、お利口さんな剣だな……ッ」
「お前と違って毎日稽古は欠かさないからな。覚悟しろ!」
ひらりと返された英の剣が、重の胴体を狙った。それを、重は手首を返して受け止める。しかし、これでは――
「逆ががら空きだ!」
もう一閃、柔軟に真逆から打ち込まれ、今度こそ重は剣撃を受けた……――かに思われた。
英が剣を振り下ろすその瞬間、剣先がぶれたのだ。何故か――英の懐に飛び込んだ重が、そのまま英の足首を払った。それはまさに柔術の足払いの要領だった。
「えっ」
「えーーー!」
「なるほど、稽古事は終わりとは、そういうことだったのか……」
一人だけ冷静に呟いた楓の言葉の後、重は肩を突き出し、そのまま英の体に体当たりした。英の体が、場外近くまで飛んだ。
「おのれ、貴様ぁ! 子供騙しのようなことを……!」
英のブーツが稽古場の床を擦った。すぐに体勢を立て直そうとした英の眼前に、すらり、重の刀の切っ先が突き付けられる。
暫しの沈黙、後に、長く長く吐き出される呼吸の音。そうして、にっこりと笑った重が呟いた。
「はい、終わり」
こんな喧嘩のような試合を認めたくないのだろう。蒼が酷く不満そうに「勝負あり」と言ったので、円と鎌鼬はつい吹き出してしまった。
「はー、終わったわぁ~」
コキンと首を鳴らした重が刀を鞘に納め、それから鎌鼬の方を見る。
やはり、先程目が合ったのは気のせいではなかったのだ。
「……珍しく本気だったな、重。やり方は最悪だが」
そんな重に、同じく刀身を鞘に納めた英が声を掛けた。
「男たるもの、負けたない時もあるやん?」
重が軽い口調でそう言うと、英はそっと自身の右目を撫でた。
「……この傷を付けたのも、お前にとってそういう時だったのか?」
重から、小さく溜息が漏れる。
「……それは別。それは、多分オレの八つ当たり、だったと思う。罪だろ? 突き付けるか?」
「……それでも、私は実力で負けたんだ」
今日のような油断だったのかもしれない、そう言った英に、重はふらりと手で払って見せる。
「うるさ……またそれかいな。言ったやん? オレかて気にしてへんし?」
「どうだかな」
そう言って笑った英に、重は口を尖らせた。
ぷいと子供っぽい態度を見せて、いそいそと鎌鼬の方に近寄ってくる。すれ違った蒼が重を睨んでいた。気付いているのかいないのか、重はやけにへらへらとしている。
「はー、終わったわぁ。鎌鼬、体、痛ない?」
「……痛いけど、緊張感怖くて忘れてた」
円に寄り掛かって立っていた鎌鼬が、借りていた襟巻きをそっと外す。「ありがと」と返された襟巻きを円が受け取り、再び自分の首元に緩く巻いた。
それを見て、重は眉を寄せて笑う。
「あはっ、……なんや、かあいらしく円に寄っ掛かって。オレが抱っこしましょか?」
「いらねぇよ……」
そんな二人の遣り取りを見て、円が不思議そうな顔をした。その内、「もしかして」と呟いた。
「俺、お膳立てした甲斐あった?」
ついでに、横から詠がにゅっと顔を出す。
「え、なになに? 重、ついに? ついに?」
幸い、楓だけは僅かに首を傾げ、ゆっくりと瞬きをしていた。何がなんだかわかっていないようだった。今の重には大層助かる。
「うわー、こっちもうるっさ……」
面白半分できゃーきゃー騒ぐ二人を後目に、重がのそのそと部屋に戻っていく。「寝直そー」などと聞こえた気がして、鎌鼬は慌ててその後を追った。
「な、なぁ!」
「何や。言っとくけど、昨晩の謝らへんよ? やりたがったのお前やん?」
囃し立てられたせいでどこかうんざりした顔をしている重が、そのままの表情で鎌鼬を振り返る。
けれど、今の鎌鼬にそんなことは関係なかった。
「……かっこよかった」
「……は?」
階段を上りかけていた重の袖を、鎌鼬がきゅっと握る。そのまま引き留められ、重は間抜けな声を上げた。
「重、かっこよかった」
鎌鼬が橙の瞳で見上げれば、それまで飄々としていた重が途端にむっと唇を噛む。それは、怒っているのではなく、また悔しがっているのでもない。
そんな重が、言い難そうに口を開いた。
「ほんっとに……食っちゃいたくなるから、やめろよな。そういうこと言うの……」
「……それが、重の好きってこと?」
「……そういうことなん違いますか……食われへんけど……」
鎌鼬は思わず、ニカッと笑う。
「重、照れてるー」
「照れてない……!」
つくつくと重の背中をつつきながら、重について鎌鼬も階段を上がっていく。
ぼんやりと思った。体はまた痛むが、飽きるまでは一緒にいたい。飽きるまでは。
「お前、嫌なとこもあるけどさぁ」
「あはっ、正直に言うてくるわぁー、この動物……」
「お前といると、飽きないよ」
そうか、それも重の好きなところかも!
鎌鼬がそう言えば、重はまた口を尖らせて「なんやそれぇ」と照れ隠しの声を上げた。それはそれは大層眩しそうに目を細めながら。