光彩奪目を去なす -曇天-
鋭い目付きで胡散臭い、いけ好かない男――それが、妖怪からしたってどうしようもない、その男の第一印象だった。
蛟を使役することに失敗した彼の男と言えば、どうやら相当に堪えたらしい。詠に付き合ってだらだらフラフラしているよと、九尾の狐が扇を揺らしながら笑って言っていた。彼が言うからには、重が堪えているというのは本当のことなんだろう。
さて、だけれども、話が変わってくる出来事があったのだ。
「ちゅってして、がぶってされたの?」
「そう……」
鎌鼬は、いつも共に遊んでいる鬼火の前で腕組みをしながら頷いた。
「おかしくねぇ? なんで噛むんだよ……」
「うーん、お腹でも空いてたのかなぁ」
鬼火は呑気にそんなことを言う。お腹が空いてるのは、さては鬼火の方ではないだろうか。
「いや、そもそもなんでちゅってされたんだ?」
「鎌鼬が美味しそうだったのかも」
「お前、適当に言ってんだろ……」
「ごめんね、鎌鼬。そろそろ葛ノ葉に行きたいなぁって思って……」
あははと鬼火が笑った。鬼火は、何かと九尾の狐に会いたがる。
そんなわけでだ、鎌鼬は、「ちゅっ」とされて、「がぶっ」とされたのだ。誰からかって、例の堪えているらしい男からだ。
ちゅっとするのは、人間同士のする親愛行為なのだそうだ。妖怪も口や体を擦り合わせたりはする。触れると温くて愛おしい気持ちが湧くのはわかるから。
(じゃあ、なんで噛んだ?)
噛まれた唇の端をぐにっと摘まんで、鎌鼬は首を傾げる。
いけ好かない男と思っていたわりに、弄ばれた唇も舌も、案外悪くは無く、気分が良かった。多分、相手が「うまい」ってやつだったんだろうと思う。
触れるだけで終わるかと思われたそれは、あっという間に深い物に変わってしまった。口の隙間からテリトリーを侵され、驚いている鎌鼬の舌先には重の舌が気色が悪いほど丁寧に触れて、ねとと絡め取られた。
勝手にぐちゃぐちゃと口の中をかき回される一方で、押さえ付けてくる重の手は何故か優しい。鎌鼬のうなじを、宥めるような仕草で指先が滑っていく。ぞくぞくとした感覚が背筋を走った。電流みたいなそれに、ついうっとりとしていた。その最中だった。
がぶ、と急に口の端を噛まれたのだ。
「いたい」と声を上げようとするのに、その出所である口が押さえられているものだからうまく声にならない。ぎちりと噛まれた口からは血が滲む。甘やかな接吻が、急に鉄の味になった。その内、その鉄の味をずるりと吸われ、舐め取られた。
口を離すと、互いの口の間を唾液の糸が伝う。無色のはずのそれには血が混じり、そうして、やはり自分の口から血が出ていたことを知った。
――なんで? そう思うより先、鎌鼬は重の頭を両手で押さえ付け、重の唇に自分の口をぶつけていた。がつんと歯が衝突する音がした。
いやらしく笑っていた重の目が眼鏡の向こうで苦悶に歪んだのを認め、鎌鼬は重と同じように、彼の口に噛み付いた。
「い……っ!」
重の鈍い声がする。牙のある鎌鼬の歯の方が絶対的に痛かろう。鎌鼬は、そうほくそ笑む。
顔を離すと、重の口元にはまんまと血が滲んでいた。
「しかえし」
そう言えば、重の表情が一変した。
妖怪が危害を加えられて牙を剥かないわけがなかろうに、まるで重は裏切られたみたいな顔をしたものだから、鎌鼬はきょと、と目を見張った。
「……加減を知らへん動物やんなぁ」
「う、うるせぇ! 元はと言えばそっちが……!」
そっちが噛み付いたりしなければ、鎌鼬はただただ快楽を享受していただけで済んだのに。
「あーあ、折角蕩けさせてやったんに、損したわぁ……」
「蕩け……蕩けてねぇし!」
――蕩けてたと思う! けれど、素直にそうですとは言いたくない!
鎌鼬はむっと口を尖らせて重の胸座を掴もうとしたが、いけ好かない男はその手をするりと避けると、外套を翻して大股で歩いて行ってしまった。
残された鎌鼬は「はぁ?」と声を上げて、その場で地団駄を踏んだのだった。
さて、今度は彼奴、何を企んでやがるのか。
光彩奪目を去なす -悪食-
お前、なんだか面白いことしてるらしいな——偉そうな口調で言う妖怪を、ぐるんと振り返る。
偉そうな筈だ。正真正銘の「お山の大将」である烏天狗に、重は思いきり溜め息を吐いて見せた。
「面倒な奴が来はったわ……」
「お前こそ、その面倒な喋り方をどうにかしたらどうだ? それより今度は何を企んでるんだ。面白そうだから、この俺に一つ聞かせてみろ」
踏ん反り返る烏天狗。舌を打つ重。団扇を構える烏天狗——早い。詠の言う通り、やけに気が短いのだ、この天狗。
「まぁ、ええわ……」
「話さないなら吹き飛ばすぞ」
「話す、話すて……ほんまに短気なお人やわ。いや、天狗さんやったか……」
そう言えば、烏天狗は満足そうに笑って団扇を下げた。
何がどうしてこんな相手に興味を持たれるのか、重には理解ができなかったし、しようとも思わないが、それでも吹き飛ばされたくはないので渋々口を開いた。
「蛟に言われた「こちら側」ってやつになってみるのも、悪くないかと思ってさ」
自分でも胡散臭いと思う話し方を解いて、眼鏡越しに烏天狗を睨む。
「こちら側?」
「妖怪側ってやつ? 化け物になるなんて真っ平御免とも思ってたけど、よくよく考えれば……それもまたどうでもいいことかと思った。それで運良く強い妖気でも持てば……誰かを使役する手間も省けるってもんだろ?」
「……それと鎌鼬を誑かしたのに、何の関係があるってんだ?」
この天狗、千里眼という特殊な力を持っている。千里離れていようが物と事を見透かせるという何とも厄介なものだ。
妖怪とは事と次第によっては仙人にも神にもされ、崇められる存在と聞く。この天狗も、凡そその手の生き物なのであろう。
この化け物風情がと、重はまた小さく舌を打った。
「あんた、情報屋なんだろ? 人間が妖怪の血肉を食ったらどうなるか、知ってるか?」
重がそう問えば、烏天狗はひくりと片眉を上げた。重は続ける。
「こちらじゃどうかは知らないが、向こうには人魚伝説ってやつがあってさ。人魚の肉を食うと不老不死になるらしい」
「……それは、人魚が人間に取り憑いた、の間違いじゃないのか?」
「取り憑く?」
ああ、と烏天狗は顎に手をやった。
「要は、獣憑きどもと同じで、食われた人魚が逆に人間の体を内から支配した、取り憑いたとは言えないか? その伝説、続きはないのかよ」
烏天狗の話はわかる。この世界には、力を持つ獣に取り憑かれた人間が獣憑きと呼ばれ、妖力を持って自由に生きている。実際の獣憑きも何度か見たことがある。なるほど、外見は人間と然程違いがない。
「雲外鏡のように、元は人間だが、取り憑いた相手のせいで生かされている者もある。まぁ、妖怪の成り方なんざ、何百も何千もあるんだろうが」
「ほんなら、烏天狗はどうやってなったん」
「俺は元より山の神よ。古い記憶は忘れちまった」
「ふーん……」
さて、この化け物の言うことだ。どこまで本当かわかったものではない。
その化け物は、重と話すことに飽いたのか、酒瓶を一つ下げて飛び立ってしまった。
(まぁ、取り憑かれるにしても、何かしらの変化は起こる可能性があるわけだ)
しかしまぁ、誑かしたなどとよく言ってくれる。たかが唇を噛み切ったくらいで——そう思うと、鎌鼬にぶつけられた口の端が痛んだ気がした。
「ガキが……」
仏頂面を下げて詰所に戻る。ドタバタドタバタと走り回る鬼火と鎌鼬、それから蒼の姿にも見慣れてきた頃である。鬱屈としている気分の元には、あまりにも騒がしい景色だったが……。
「おーおー、元気やん」
「そちらは呑気に構え過ぎだろ……」
ようやく鬼火の首根っこを掴んだ蒼が激怒している。
しかし、重には関係ない。肩を竦めて見せると、蒼が苛立ったように口の端をひくつかせた。
「鎌鼬〜! 逃げて〜! 重まで来たよー!」
蒼に捕まってじたじたしている鬼火が、元気に叫ぶ。
名前を呼ばれた鎌鼬が、重の顔を見てあからさまにぎょっとした。
(おーおー、かあいらしいことで)
ついほくそ笑む。
鼬らしくするすると逃げていく鎌鼬を視線で追いながら、重はふと面白いことを思い付き、「英隊長に見つかる前に仕留めてくるわぁ」と呟いた。
蒼は「だから、貴方はもう少し真面目に……」と言いかけ、それから、神妙な顔をする。
「……明日は雨か……?」
「えー! どうしよう! ボクの住処、屋根が雨漏りしてるんだった!」
「本当に降るとは言ってない……」
けどまぁ、その屋根は直した方がいいと思う。しゅぼんと悲しそうに揺れる鬼火の火を見て、蒼は心の中で呟いた。
さて、逃げ惑う鎌鼬を自室に追い込んで、鍵を掛けて閉じ込めた——までは良い。
すばしっこく動き回る鎌鼬を、なんだかんだの体格差で羽交い締めにする。じたじたと動く鎌鼬の耳元に、「英に見つかったらおっとろしいで?」と囁いた。
「おっ、お前……! 今度はなんだよ……!」
小動物のように暴れる鎌鼬を両の腕で抑えて、顔を覗き込む。
「なんや、えらい暴れるやん。オレが怖いん?」
「怖いわけ……!」
「しーぃ。ほんにおっかない人が来てまうわ」
ぐっと押し黙って重に抱き締められている鎌鼬に、重はニィと笑った。
「あはっ、ええ子ええ子」
自分の方はまだ赤くなっている唇の傷。一方で鎌鼬の方はと言えば、皮がぷるんと張って、綺麗に治っている。傷薬のせいかと思うと、僅かに苛立ちが湧いた。
「妖怪は傷の治りが早ぁて羨ましいわぁ」
「え? 傷……? あ、口のこと……?」
至近距離にある鎌鼬の顔が、かぁっと赤くなる。
「お前、あれ、なんのつもりで……!」
「なんのつもりもあらへんよ」
張った鎌鼬の唇に自身の唇を触れさせて、すぐにねっとりと剥がした。
「鎌鼬とこういうんしたかっただけや。嫌やった?」
——はぁ、まぁ、嘘やけど。
ただでさえ赤い顔を更にぼわっと赤くして、鎌鼬はじたじたと暴れる。重はその体を抱き込んで、かっ飛んでくる暴力をいなしながらくくっと笑った。
「こーら、バレてまうで。オレとこういうことしてんのもぉ」
「や、だっ……!」
抗議しようとする口を押さえて、もう一度唇を重ねる。がっと開いた口に舌を捩じ込んで、あっという間に鎌鼬の舌を捕まえた。絡ませて緩めて、漏れた嗚咽と涎を飲み下す。ごくん、と喉を鳴らせば、鎌鼬が重の胸を突っぱねようとした。許すわけもなく腕を捻り上げて、口付けを続ける。
「あ、ふ……うぁ……」
じゅる、と啜り上げてようやく口を離せば、腰でも抜けたのか、鎌鼬がへとへとと床に座り込んだ。
舌のひとつでも噛み切れば、その出血で人間なんて簡単におっ死んでしまうというのに、妖怪の鎌鼬はそんなことまで考え及ばないらしい。
「どないしたん? 気持ちよぉなってもうたん?」
「あ……、や……っ」
冗談のつもりで煽りながら顔を覗けば、はぁはぁと息を荒げる鎌鼬の視線の先に……少し驚いた。
鎌鼬の着物が、少し盛り上がっている。ぺらりと捲ってみると、洋袴の布地を押し上げているものがあるではないか。
「……あはっ」
思わず、笑いが溢れる。鎌鼬はわなわなと体を震わせ、その根源を隠したかったのか背を向けようとしたが、重がそれを許すはずもなく、鎌鼬の細腰を両手で掴んで正面を向かせた。
暴れ出す前に洋袴の紐を寛げて、さっと下ろす。すると、その中から下帯を押し上げて覗いている鎌鼬の性器が現れた。
「人間とおんなしなんやねぇ」
「み、見んなよ!」
「まぁまぁ、見してや。折角やし」
舌なめずりをして、その先端を指で弾いてみる。下帯をずらしてやると、押さえ付けられることなくのびのびと立ち上がったそれを指先で擦る。ぷっくりと膨らんだ亀頭が、恥ずかしそうに震えていた。
いや、震えているのは鎌鼬の方なのだが。
「鎌鼬、これ、気持ちいくなりたいやろ?」
「や、やだ……っ! やめろよ……!」
くにくにと鈴口だけを執拗に擦っていると、次第に力が抜けてきたのか、鎌鼬はふらふらと上体を床に下ろしてしまった。
堪らなくなって、重は鎌鼬の性器に口を寄せ——咥えた。
「ひ、ぇ……っ」
驚いた鎌鼬が腰を逃がそうと体を這わせたが、無論許さない。がっちりと太腿を掴んで、口に物を咥えたまま小さく呟いた。
「あかんて。噛み切ってまうで」
途端に、鎌鼬が体を強張らせる。流石に噛み千切られるのは困るらしい。怖がりながらも口淫の温もりに堪えられないようで、重の口の中を鎌鼬の性器がぐっと押し上げてくる。
素直すぎる体の反応を楽しみながら、可愛らしい性器の裏筋を舌で舐め上げ、先ほどから刺激を繰り返し与えていた傘をしゃぶる。鈴口を吸い上げてやると、あっという間に果ててしまった。重の口の中に、青臭い精液が飛び散る。
ずるりと性器を吐き出して、舌の上に残る体液をどうしてくれようかと悩む間もなく、飲み下した。
ごくん、と動いた重の喉仏を見て、鎌鼬がさっと顔を青くする。それが急に赤くなったかと思うと、その大きな目に涙を一杯溜めて「き、きたない……」と呟いた。
「まぁ、生き物の味? ってカンジやね」
「ば、ばかじゃねーの……!」
「オレは馬鹿やけど、とりあえず茶ぁ飲ましてや。口の中どろどろで」
口を拭ってニヤニヤ笑って見せると、鎌鼬の中で何かが崩壊したのか、突然ぶわっと泣き出した。
「あは、泣いてもうた」
そう笑っていられるのも束の間、鎌鼬が重の腹にタックルして来たものだから、次に床に転がされたのは重の方である。
「な、何すんねん! この動物……!」
そう言い掛けた重の上に跨り、鎌鼬が重の袴の帯を……切った。
「切った?!」
「うるせぇ!」
そのまま、重の下着をずるりと引きずり下ろし、何の反応もしてない重の性器を見るなり、口を真一文字に結ぶ。
何の反応もしていない。鎌鼬とキスしたから、鎌鼬にフェラしたから、どうというのだ。重は何も感じていないし、ましてや性欲など昂らない。——ただの、目的のための作業だ。
「なぁに……やめーや、鎌……」
へらりと笑って鎌鼬を見る。
鎌鼬は悔しそうに泣きながら、けれど、さっさと重の性器を鷲掴んで口に含んだ。
「おえ」
「おえ言うなや……傷付いてまうわ」
「うるへ……いかふ……」
妙なスイッチを入れてしまったらしい。重は心の中で「あーあ」と呆れた。
(男にされて、誰が勃つん……あ、目の前のドウブツさんか)
情けなくてかあいらしい。ゆるりと嫌みに緩んだ目で、頭を上下に動かしている鎌鼬を見下ろす。
牙が当たって痛い。というかくすぐったい。ついでに、当然ながら下手。
(されたこともないんやろなぁ)
されたからといって上手くなるもんでもないが、参考にはなる。
そんなことはさておいて、重の気分は上の空のままである。目の前で揺れている鎌鼬の耳をくにくにと撫でてやりながら、彼が音を上げるのを待っていた。
「なーあ、お上手やんなぁ、鎌鼬。いつまでも終わらんくて済みそうやわ」
「いやみ、はふ……、嫌みかよ……」
「……わかる? 口、離せよ」
口調を変えて凄む。鎌鼬が、ぴくりと肩を震わせた。
「下手くそ。もっと舌使ったらどう? お兄さん、勃ってさえいないんだけど」
鎌鼬の髪を強めに掴んで引き剥がす。涙でぐちゃぐちゃに濡れて乱れた睫毛と前髪が、重の目の前で煌めいた。
「くやしい……」
「鎌鼬は、多分こういうの向いてへんて」
「重はできんのに」
「まぁ、それは……経験値? 見様見真似やけど」
それでも止めたくないらしい。鎌鼬は重の性器を掴んで、こすこすと上下に扱いている。
泣きじゃくりながらそんなことをされると、嗜虐欲が疼いてくるものだ。重は、自身の中のひねくれた欲が僅かに頭をもたげたのを感じた。
「喉奥まで使い」
「へ……?」
鎌鼬の頭を掴むと、ほのかに立ち上がった自身の物を改めて咥えさせる。勝手に鎌鼬の頭を押さえ付け、小さな口の奥に先端を押し当てた。びくびくと震える喉奥の収縮を愉しみながら、そのままずるずると上下させる。
「よぉなってきたわ。ほら、鎌鼬がんばって」
ぐずぐずともごもごと呻き声を上げながら溺れそうになっている鎌鼬の頭を押さえたまま、ぼうっと浮かれていた頭が、急に理性を取り戻すのを感じる。
(しまった)
そこで、は、と我に返った。
重の物が鎌鼬の口の中でびくびくと跳ねる。押さえ込もうと鎌鼬が口を窄めたその内に重は性液を吐き出し、鎌鼬の頭を慌てて持ち上げた。
「か、鎌鼬! ぺってしろ、ぺって!」
けれど、鎌鼬は口を閉じたまま首をふるふると横に振る。
「ぺってしたらノーカンや! はよ出し!」
その内覚悟を決めたのか、懸命に飲み込んでいた。が、その結果、鎌鼬は「おえっ」と言って床に突っ伏していた。
「あーあ……あかん。お茶入れたるから、ぶくぶくぺってしぃや……」
「まっず……きもちわるい……」
「だから言うたやろ……」
目の前で先に飲んだのは自分に違いないのだが、それにしたって「出せ」とは言った。言うことを聞けない動物が悪い。
「……なぁ、重ってさ」
まずいまずいと呻いていた鎌鼬が、ふと顔を上げた。
「なんや」
「どっちの喋り方が本当なんだよ……?」
「……秘密」
人差し指を口の前に立てて、囁くように言った。――別に、どっちだって自分に違いはないが、それを明らかにしてやる程、相手に気を許してなどいない。それもまた、どうでもいいことに違いないのだが。
「ふーん……」
どっちも、重ってこと?
そう呟いた鎌鼬の言葉には返事をしないままで立ち上がる。そこで、そういえば袴の帯を切られていたんだったと思い出した。
仕方なく、重は安物のお茶を淹れるよう式神に指示を出したのだった。
光彩奪目を去なす -秘密-
がらんがらん、ばらんばらん、風が吹く度に鳴る鬱陶しい音に、重は苛立つ。ぎゃあぎゃあと鳴いては翼の音を立てて飛び去っていくその烏にさえも、神経が逆立って止まらない。
「ああ、最悪や」
眼鏡を外して目を閉じて、その瞼の裏でぐちゃぐちゃに歪む苛立ちを掻き混ぜる。まるで、臓腑を掻き混ぜているような心象風景に、諦めのような溜息が漏れた。
灯影街の幻みたいな夜の光、提灯の色彩を恋しく思うことがあるのだな。そう思うと、馬鹿らしくて笑えた。
「鎌鼬のもん食うてばっかいるからやろか、なぁ」
所用で灯影街を抜け出したのは三日ほど前、その時は、まさか灯影街を恋しく思うだなんて露ほどにも思っていなかった。
「やっほー、重! ラーメン食べに行かない?」
庵の戸をからりと開けて顔を覗かせた詠に、重は広げていた書物に視線を向けたまま応じる。
「……そっちの方、調べ物は終わったん?」
「まぁね……サボったらとサボったで、三倍くらいになって戻ってくるし……」
「詠は働き者やんなぁ……」
「強制労働だよ! 僕だってゆっくり涼みたい!」
庵の窓に頬杖を突いてゆったりと書物の頁を捲る重に、詠はきょとんと首を傾げる。
「ねぇねぇ、やけに絵になってるとこ悪いんだけどさ、何読んでんの?」
「御伽草子の御本や。大したもんとちゃいます」
ブーツを脱いで庵に上がってきた詠が、畳の上に膝を擦りつつ、重に近寄ってくる。
この庵は、元は烏天狗が暇潰しに作った茶室だったらしい。けれど、さっさと茶を嗜むことに飽きた烏天狗が放置していたものを詠に寄越したと聞いた。
「暇潰しで作ったもんだから、要らない物の物置にしてるんだよね、あのひねくれ者」なんてぼやいていた詠の言う通り、今はもう使わないらしい祭具やら人間界の書物が置いてある。
重は、その中に子供向けの御伽草子を見つけ、読み耽っていた。どうやら、この世界で言うところの獣憑きのことが描かれたものらしい。
「そういえば、烏天狗から重に伝言預かってたんだった」
思い出したように言った詠が、きょろりと瞳を動かした重に向かって呟く。
「研究に進展はあったか、だって」
普段一緒に引き回されているだけあって、どことなく表情が似てくるもので、まるで烏天狗が人を小馬鹿にしたかのように目を細める表情と詠のその表情がよく似ていた。
重は詠に向けていた流し目をさらりと戻し、そうしてそっと口を開く。
「お得意の千里眼でも使えばええんとちゃいますかー……」
そう嫌みを言えば、この嫌みさえもあの烏天狗の耳に入っていそうなものである。隣の詠が「それもそうだよねぇ」と、じとり目を伏せて呟いた。
あの悪趣味な烏天狗のことだから、きっと言わなくたって見ているし、見ているのにそういうことを言伝させる。繰り返し、悪趣味なことだと思う。
手元の本を、ぱたんと閉める。御伽草子の本を読んだところで、獣憑きがそうなるまでの過程がフィクションとして描かれているだけに過ぎない。烏天狗に言わせたところの、重の「研究」には役に立たない本であった。
「よーし、息抜きにラーメン食べに行こー!」
「詠は元気やなぁ……尊敬しますわ」
「ありがとう!」
褒めてへんわと言い掛けて、これ以上騒がしくなるのが嫌でやめた。
そうして葛ノ葉に行けば行ったで、鬱陶しい喧噪に巻き込まれることになるのだが。
はーあ、と溜息を吐いた重の目の前には、うっすいスープの素ラーメン丼が置かれている。
隣の詠の丼にはまともな色のスープが満ちているというのにだ。重のそれは、まるでお湯で薄めたかのような……
「このラーメン屋は、客にこないなうっすいスープ提供してはるん? はー、塩分控えめにってことかいな。客思いの店やんねぇ」
声を張ってそう言えば、隣の詠が「あはは」と笑っていた。笑い事ではない。
「トッピングはセルフサービスだよ」
九尾の狐が、自分はラーメンも作らずに尻尾を揺らしている。
「いや、せやからスープが薄いって言うてるやん?」
「うるさい男だねぇ。鎌鼬、スープ足してやったらどうだい」
鍋の前に立っていた鎌鼬が肩口に振り返り、そうして「けっ」と悪態を吐く。重も流石にカチンと来て、口角を釣り上げた。
「泥水じゃないだけ感謝しろ」
「この店は水増しスープだけじゃ飽き足らんと、泥水スープまで出しとるんかい。ええお仕事やわ」
「うっさいなぁ! そんなにスープが飲みたいなら、頭からぶっかけてやろうか?」
「おーおー、ちっさい鼬ちゃんにその寸胴重くないん? 力持ちでえらいわなぁ!」
「誰がちっさい鼬だ! あんまり文句言うと、またどつくぞ!」
段々と大きくなる言い合いの真ん中で、九尾の狐が両の手を叩いて鳴らした。
「喧しいよ、おまえたち。喧嘩するなら店の外でやんな」
ラーメンそっちのけで言い合いをしていた鎌鼬と重がカウンターに視線を落とすと、素ラーメンはすっかりスープを吸って伸びていた。大変な哀愁のある光景に、二人は思わず黙り込んだのだった。
「重のせいで、オレまで九尾の狐に怒られたじゃん……」
「元はと言えば、自分がうっすいスープ出してきたのが悪いんやろ? 詠のと比べたら、一目瞭然にオレの丼が酷かったわ」
「出してやっただけ有り難く思え」
「いや、いらんわ。あんな不味そうなスープ……」
それも、結果的に伸びてぶよぶよなラーメンまでついてきてしまった。粗末にしたら許されそうになかったので無理矢理口に突っ込んできたが、それにしても後味が悪い。
葛ノ葉を追い出された鎌鼬と歩きながら、重は心なしか重たい胃を撫でた。
「はぁ、ひどいわぁ……心外や……」
「被害者面してもダメだからな……オレ、まだお前のこと許してないし」
「許す? 何を?」
「何をって……お、お前なぁ!」
あっけらかんと聞き返した重に、鎌鼬が鎌を持ち上げ食って掛かる。
けれど、それをそうっといなして、重はにっこりと笑った。
「ああ、鎌鼬のおくち汚したことかぁ。堪忍なぁ? おいたしてもうて」
「よご……、汚したけどっ! うう……」
思い出して気まずくなったのか、鎌鼬はさっさと鎌を下ろしてしまった。
鼬の耳が垂れて、しょんぼりとした姿が愛らしい。身長差のせいで見下ろす形になるから尚更である。
重は鎌鼬の耳を指先でくにくにと弄り、そうして「反省してんで」と呟いた。
「鎌鼬も気持ち良かったやろ? それで許したって?」
「きもちよくない……きもちわるかった……」
「あはっ、傷付いてまうわぁ……」
羞恥と後悔で表情を歪めた鎌鼬が、唇を噛んでいる。ぽかぽかと赤くなっていく頬をつつきながら、重はやはり、にやと笑うことしかできなかった。
「絶対傷付いてない! 絶対オレで遊んでる!」
「遊んでへん、遊んでへん。ホンマに鎌鼬とスケベなことしたくなっただけやから」
そう言えば、鎌鼬は眉尻を下げて、上目遣いに重を見上げる。僅かに涙目になっている瞳がとろんと緩んでいた。
「あれってスケベなことなの……?」
「まぁ、そこそこスケベやろなぁ。せやから人に言うたらアカンで。オレと鎌鼬の秘密や」
「そんな秘密欲しくねぇし……」
ぶつくさと文句を言う鎌鼬の頬を軽く摘まんで、重は「ふーん」と声を上げる。
「なら、どないな秘密が欲しいん? スケベな秘密の代わりに、鎌鼬に一個、オレの秘密くれたるよ?」
「秘密……? 急には思いつかねぇよ……」
困惑したような様子の鎌鼬。
秘密をくれてやるなんて、いくらでも嘘が吐ける。甘言に弱そうな化け物を誑かすのも、いくらかは悪くない。
「思い付いたら言うて? 善処するし」
「じゃあさ」
「うん」
鎌鼬が、重を見上げる表情を変えないまま、ぽつりと言った。
「本当は、オレをどうしたいの?」
えらく核心を突く。もっと遊びのあることを聞いてくれれば良いものを。重は薄ら笑いを浮かべたまま、なんでもないことのように返事をした。
「自分、かわいらしから、頭から食うてしまいたいかもな」
譫言のような調子で言った。鎌鼬は、案外不思議そうな顔をしていた。
それが、血肉としてと言ったら、この動物はどういう反応を見せるんだろう? 想像すると、ほんの少しだけ心が躍った。
「研究」は、といえば、灯影街にある資料や伝承では何をも掴めずにいた。重はいつの間にか、暇潰しで始めた「研究」に僅かに熱心になっていたのである。
(大門抜けて、あっちにでも戻ってみよか……)
そんな軽い気持ちでの帰省であった。
別に家族の顔を見たいわけではないが、それでもだ、この男を甘やかして育てた「母親」は重の顔を見たがる。
灯影街で感じる妖気に慣れた体には、人間の世界の空気はあまりに薄い。薄い、というと語弊があるやもしれないが、人間界においても未だ神気や妖気の漂う霊山や聖地の類は、空気からして人間の侵入を拒絶している。神気や妖気が人間の臓腑に触れれば、体が「これ以上進んではならない」と警告を鳴らす。これは神話の時代より人間が持つ本能によるものである。
灯影街には、その淀みが僅かに存在している。当然だ。あそこは本来、妖怪の住処なのだから。
妖怪を追放した人間界は、平時、その淀みが限りなく薄くなっている。
本来人間である重からすれば、それが普通で、それが故郷である。
しかしだ。
(ざわざわする……)
首の裏が泡立つ。
蛟の本物の妖気で体がすくんだ時、これに近いものを味わった。その時は流石に恐怖が勝り、冷静に分析することなどできなかったが、それでもこの感覚は――ある種の防衛本能だ。
こそこそと中央を抜けて資料を漁り、伝承に纏わる神社の存在を知る。
(少し離れた場所になるか……さくっと行って戻るのは難しそうだ)
一応は、職務を放棄して抜け出して来ている。これがまた上の人間に知れたら面倒である。先日降格の処罰を食らったばかりであるから、重にとってそれはうまくない。
うまくない――そう、だから重は渋々と母に会うのだった。
「〈重〉さん、こちらへ」
「母さん、ご無沙汰をしております。先日の失態、家にも知らせが届いていることでしょう……出来心とは言え、家の評判に障ることを致しました。申し訳ありません」
高官が密会に使うような料亭に招かれる。
通された座敷で、重はさっと膝を折って座ると、すぐに頭を下げた。
心にもない言葉が、よくも口からするすると出てくるものであると我ながら思う。
「そんなことは良いのです。貴方のことだから、名を上げようとしてのことでしょう? それより、その件がきっかけで、向こうで酷い目に遭ってはいませんか? 体は大丈夫?」
「はい、お陰様で」
頭を上げて、「母親」を見る。視線の動かし方、喋り方から全ての所作、何から何まで演技でできている自分を面白おかしく感じ、また呆れてしまう。
(……妖怪の奴らは、こんな気持ちなったことあらへんのやろな)
そもそも親はいるのか、どうやって生まれるのか、それもこれもバラバラの輩なのだから、悩み苦しむこともあるまい。
(鎌鼬は、どないして妖怪になったんやろか……)
そういえば聞いてみたことがなかった。あのように、それほど強くない妖怪に興味を持ったことがない。
羊羹と兎の形を模した和菓子を「おあがりなさい」と出された。つい、ぴこんと動く鎌鼬の耳を思い出す。
(兎さんやのうて、あれは鼬さんや……)
くすりと笑うと、「母親」は不思議そうに目を瞬かせた。
「いや、少女に出してやるような菓子だと思いまして」
「薦められたのでね。気に障ったらごめんなさい」
「いえ」
それより、と切り出す「母親」に、重は視線を上げる。
「〈英〉殿とはうまくやっているでしょうね」
「……英はん……いや、〈英〉さんは、そうですね……良くしてくださいます」
振られるとは思っていた。けれど、実際に話題が出れば気も塞ぐ。否、癇に障る。
「古い学友として助けてくださっているのです。〈英〉殿には失礼のないように……今回のことも、〈英〉殿の報告があって降格で済んでいるのでしょうから、感謝なさいね」
「はい。それはもう」
重は黒文字を和菓子の兎の脳天に突き刺し、そうしてぱかり切って割った。それを口に運び奥歯で咀嚼する。
英の家には、世話になっている。
――お前と私の間に家柄は関係ない――士官学校時代に、よく英に言われた言葉である。
(それは、あんたの家からすればだろう。いや、あんた個人からしたら……か)
重の方はと言えば、そうはいかない。学生時代より、英の機嫌を損ねるな、それは直接家の損失に繋がるからと散々言われてきたのだ。
なのに、英は重に本気で接しろ、本気で勝負をしろとあまりにも快活で愚かなことを言う。その鬱憤が……英の目を潰した試合に繋がるのだが。
(秘密、か)
こんなのは秘密でもなんでもない。元を正せば子供の癇癪だった。しかし、それを誰もが咎めようとしなかった――英が、試合中の不運な事故、己の力不足だと貫き通したからだ。
(オレは、そんなこと望んじゃいなかった……)
卑怯者と罵れば良かったのに、そうして、重の家を存分に詰れば良かったのに。
(滅んじまえ、こんな家は)
兎の頭を飲み込んだ喉元が、もやもやと気分を害する。この料亭に入ってから、いや、帝都に入ってからあまり気分が優れない。灯影街の空気に慣れてしまったとでも言うのだろうか。
「母親」との挨拶を済ませ、さっさと大門を潜ろうとはやる重の耳に、風を受けてばらばらと音を鳴らす木札の群れの音が届く。それが、酷く耳障りだった。
ぎゃあぎゃあと鳴いては翼の音を立てて飛び去っていく烏たちが、まるで烏天狗のあざ笑っているかのように聞こえて、重は静かに舌を打つ。
「ああ、最悪や」
今まで一度も思ったことがないかもしれない。さっさと、あのおままごとみたいな世界に戻りたいだなんて。
「鎌鼬のもん食うてばっかいるからやろか、なぁ」
飲み下した兎の頭を思い出す。ほんの僅かに漏れ出した罪悪感に、たかが和菓子だと思うのに、それでも喉元がもやついて仕方が無い。
食ってしまえばなくなるものを、どうしても今は口に入れたいと思った。
光彩奪目を去なす -覗き見-
その古い鏡は、ありとあらゆる鏡と繋がっているという――雲外鏡という妖怪だ。雲外鏡に取り憑かれたが故に人外の寿命に振り回されている男が一人、その男もまた他の妖怪から雲外鏡と呼ばれている。
「雲外鏡!」
そんなわけで、その雲外鏡なる男は今日も大紅葉の樹の上でカップラーメンを啜っているのであるが。
「雲外鏡ってば!」
「なんだよー!」
ずるずると麺を啜り終えて、ようやく雲外鏡は顔を覗かせた。羽衣のような頬被りを纏っている雲外鏡に、鎌鼬はほっと息を吐く。
「楓がもう帰ったから、ゆっくりカップラーメン食えるのと思ったのに……」
樹の上でぼやいている雲外鏡を見やって、鎌鼬はするりと樹に登る。相手に降りてくる気がないなら行くまでだった。
「わっ!」
「わ、じゃねぇよ。なぁ、雲外鏡に聞きたいことがあって」
「なら、雲外鏡に聞けよ……」
「お前も雲外鏡だろー」
違うけど、違くない……と小さく呟いた雲外鏡が、カップラーメンの容器を傾けながら中のスープを飲んでいる。
その背後で樹の枝に座り込むと、鎌鼬は咳払いをしてから尋ねた。
「雲外鏡って、人間界にいたんだろ?」
「まぁ、そう……でも、もうずっと前のことだけど……」
「人間界をよく覗いてるって聞いた。ていうか、そのカップラーメンも持ってきてるもんだよな?」
「……そうだけど、やんねーぞ!」
「いらねぇよ……」
ラーメン食いたかったら葛ノ葉で作ればいいし……と呟いた鎌鼬に向かって、雲外鏡は「これにはこれの良さがあんだよ!」と声を張った。まぁ、確かにその気持ちもわからんでもないが。
鎌鼬は話を戻すために、もう一度うんうんと咳払いをする。
「で、聞きたいことがあんだけどさ」
「何……」
「人間って、誰にでも……その、ちゅーってしたりとか、体触ったりすんの?」
そう尋ねると、雲外鏡がこの世の終わりを目の前にしたかのような顔をしたので、鎌鼬も流石に「答えは違うらしい」と気付いた。
「なんだその、ふ、不埒な話! そんなわけねーだろ!」
「ふらち……」
「そういうのは、大事な奴にだけすんの! ちゃんと約束してからするもんなの! ……女狙った賊か何かの話? だったら別だけど……」
賊かと言えば、賊かもしれない。重の悪い表情を思い浮かべながら、鎌鼬はぼんやりと頷いた。
「誰、その人間っ!」
「誰って……」
そんな風に喚いている雲外鏡の背後で、大きな鏡がひらりと光った。
雲外鏡の本体であるその鏡には、重と見知らぬ女の姿が映っている。それに気付いた雲外鏡は、ぱちくりと瞬きをして、深と澄んだ瞳で鎌鼬の方を見た。
「……こいつ、刀衆の奴じゃん。なんで?」
「なんでも何も、そいつがその「賊」だからだよ」
いや、賊ではねぇんだけど……と言い掛けたが、雲外鏡はもう一度鏡の方を見て「ふうん」と声を上げた。
「それより、ここ何処……?」
鎌鼬が鏡に映っている場所について尋ねる。雲外鏡はポリポリと首の裏を掻いて、首を傾げた。
「さぁ? 人間の女がいるから向こうなんじゃねぇの? こいつって、こっちから出ていいんだっけ?」
「知らない。オレたちが通り抜けられるくらいだから、あいつらも大門から行けるんじゃねぇの……?」
それよりも、女と個室に一緒にいる。その事実に鎌鼬は僅かに口を尖らせる。
「誰なんだろう……」
「うーん、遠目だとよく見えないけど、高そうな着物……母親かなんかじゃねぇの」
「母親……?」
顎に手を当てて首を傾げた雲外鏡につられて、鎌鼬も首を傾げる。
「刀衆って、お家柄が良い奴らばっかりじゃん。楓もそうだし……?」
「家柄……生まれが贅沢ってこと?」
「贅沢かどうかはその家によるけど……なんて言えばいいんだろうな。由緒が正しいとか、古くから血縁が続いてるだとか……古くから続いてるってことは、それだけ戦いにも勝ち続けてるってことだし」
「強いってこと?」
「まぁ、妖怪で言ったらそういうことかも……」
ふらりと重を映すことをやめた鏡を抱え、雲外鏡が首を傾げる。
「こいつ、嫡男なのかな? そうしたら許嫁とかいてもおかしくないのか……」
許嫁? と首を傾げた鎌鼬に、雲外鏡は「家に決められた結婚相手」と付け加えた。案外なんでも説明をしてくれる雲外鏡に、鎌鼬はふんふんと頷きながら、けれど、首を横に振る。
「いや、それくらいは知ってるよ」
「知ってんのかよ……そういえば、楓も嫡男かぁ」
暫しの沈黙の後、鎌鼬と雲外鏡は、ばっと顔を見合わせた。
「いや、重にいるわけねぇって! いたとしても、あんなやらしい奴ダメだろ!」
「楓にもいないよな! あんなおっかない奴の許嫁なんて、並の女じゃ務まんないだろーしっ!」
そうして、お互い俯いた。
――暫しの沈黙。
「人間界に、恋仲の奴がいたりすんのかな……」
「どーだろ……聞いたことねぇし、見たこともねぇけど……」
カップラーメンの容器をぱきぱきと潰して、雲外鏡は鏡の中に放り投げる。それから鏡をじぃっと見つめて、首を振った。
「見たことないってことはさ、雲外鏡は離れてても見えるんだ? 相手のこと」
「ああ? うーん、まぁ……」
曖昧な返事をする雲外鏡に、鎌鼬はずいと身を乗り出す。
最早、うまく隠すことは諦めている。尻尾を振りながら、雲外鏡越しに彼の鏡を覗き込んだ。
「人間の男と女って、どうやって番になんの?」
きょろりと大きな瞳で鏡に問い掛ける。次第に、鏡の中にぼんやりと何かが映り出した。鎌鼬の横でそれを見ていた雲外鏡が、さっと顔を青くする。
「ま、まさか……! おい、悪趣味ジジイ、ふっざけんな!」
がなる雲外鏡の手からふらりと逃れた鏡が変わらず何かを映そうとしてるが、雲外鏡が必死にそれを隠そうとしていた。鎌鼬には、何故雲外鏡が慌てるのかわからないまま、ぼうっとその遣り取りを見ている。
その内、鏡の方から鎌鼬の手元に飛び込んできた。
「あーもう! 他人のそんなの見たくねー!」
雲外鏡はそう言って樹の下に飛び降りると、頬被りの上から耳を塞ぎ、そうして小さく丸くなっている。
「どうしたんだ、あいつ……」
鎌鼬と言えば、飛び込んできた鏡が映した人間同士の絡み合う様を見て最初の内はぽかんとしていたが、次第にそれから艶めかしさを感じ取り、最後には雲外鏡と共に樹の下で丸まって黙り込む羽目になるのであった。
「重って、オレと番になりたいのかなぁ……」
そんなわけねぇだろ! と雲外鏡に一蹴りにされ、鎌鼬は自分の帽子を撫でながら住処へと戻っていく。
客観的に見たわけではないが、鎌鼬が重の部屋でされたこと、それは、雲外鏡の鏡が見せてきたものに近い……と思う。
鎌鼬の性器に口を寄せて咥えた重が、長い前髪を払って鎌鼬を見た、その表情も少し艶めかしかったことが思い出された。
(オレもあんな顔してたのかな……必死だったから覚えてないけど……)
睦み合っている男も女も蕩けたような顔をして、だらしない声を上げて鳴いていた。動物みたいだった。人間でも、あんな動物みたいなことをするんだと思った。
鎌鼬は、自分の前髪を払って、ぱんと頬を叩く。
「重が戻ってきたら、話聞いてみよ!」
――いや、オレと番になりたい? って聞くの? 絶対絶対バカにされるんじゃ……。
そう、バカにされている可能性だって十分にある。鎌鼬は帽子を外して、くしゃくしゃと髪を掻き混ぜた。
「もう、なんだよ……! こんなになってるのオレばっかりかよ!」
鎌鼬の苛立ちと焦燥は一向に収まらないまま、重には数日出会すことがなかった。葛ノ葉に来る詠も、どうやら重の行方は知らないらしい。ついでに、烏天狗に連れ去られたので詳しいことは聞けなかった。
悶々とスープの鍋を掻き混ぜている鎌鼬を見て、鬼火がむーっと口を尖らせる。
痺れを切らし、葛ノ葉のカウンターで鬼火がちょいと九尾の狐の袖を引いた。
「……鎌鼬さぁ、ここのところ変じゃない?」
困ったような顔をしている鬼火に、九尾の狐はそっと耳を寄せる。
「鬼火も理由を聞いてないのかい?」
「うん……何かあった? って聞いても、ちっとも教えてくれないし、大丈夫だーって言うんだけど……ボク、心配なんだ……」
「そうかい」
ふらりと尾を揺らした九尾の狐が、鬼火の言う通りに様子のおかしな鎌鼬を見つめる。
「これは……あいつに話を聞くとするか」
「あいつ?」
「ああ、心配はいらないよ。おまえたちも知ってる情報通に、ほんの少しばかり話を聞くだけだから」
九尾の狐の言葉に、鬼火はぱぁっと顔を輝かせ「うん!」と頷いた。
「やっぱり九尾の狐は頼りになるなぁ!」
鬼火の穏やかな声に、九尾の狐は妖しくも美しく微笑む。
そんな二人の遣り取りにようやく気付いた鎌鼬は、不思議そうに首を傾げるのだった。
光彩奪目を去なす -牽制-
――棒に絡んだ飴細工を右から左から、上から下から、眺めて愛でる夢を見た。
(食うてしもうたら、それで終わりやん)
ふあ、と欠伸をしながら暖簾をくぐる。数日振りの灯影街の気は、やはり少しばかり気怠いもので、重は外套を肩に引っ掛けたまま葛ノ葉のカウンター席に座った。
「鎌鼬ぃ……ラーメン一杯……」
「鎌鼬ならいないよ」
圧を感じて視線を上げれば、そこには優雅に腕組みをした九尾の狐が立っていた。ふらりと揺らぐ尾がどことなく威嚇しているように思えて、重は薄ら笑う。
「あれ? 今日は店長しかおらへんの?」
「そうだね。何故って、わたしはおまえに話があるんだ、重」
「あは……おっかない顔して、なんですのん?」
――堪える。
人間の世界から戻ったばかりで急にこの「本物」の妖気をぶつけられるのは、かなり芯に堪えるものがある。それでも、重はカウンターの椅子に腰を落ち着けたまま、小馬鹿にしたような表情で九尾の狐を見上げていた。
「ここのところ、鎌鼬の様子がおかしくてね。鬼火の奴まで心配し出す始末だ。わたしは面倒は御免だからね……烏天狗の奴に聞いてみたら、どうやらおまえ、また出しゃばったことを考えているらしいじゃないか」
「出しゃばったつもりはあらへん」
両手を挙げて、降参のようなおどけるポーズを取ったが、九尾の狐はぴしゃりと言う。
「人間風情が妖怪を食おうだなんて、出しゃばり以外の何だってんだい?」
殺気だ。一瞬、正面からとんでもない殺気をぶつけられた。思わずたじろぐ。
「なぁ、重。妖怪の肉を食ってみようとする人間なんざ、昔からいくらだっていたものだ。けれど、どいつもこいつもその本当の末路を知らないのは何故だと思う?」
猫撫で声のような甘い声色を駆使する九尾の狐に、重は表情筋が強張るのを感じた。急に、九尾の狐から目を逸らせなくなる。
この高齢の狐の妖怪は殊更魅力的ではあるが、それにしても体が言うことを聞かない。まるで金縛りに掛かったかのようだ。
「……さぁ?」
重のことをじぃと見つめる九尾の瞳の中で、瞳孔がきゅっと狭まる。
この瞬間、捕食する者とされる者の間にある境界を途方もなく突き付けられたような気がした。
――身の凍る思いがして、つい逃げ出しそうになったその時、ばさりと大きな鳥の着地を伝える羽の音がした。
重に掛けられていた金縛りは急に解け、そうして目の前の九尾の狐は、鬱陶しそうに流し目を送る。
「よう、九尾の狐。この様子だと、どうやら重に引導は渡せたらしいな」
その先に立っていたのは、烏天狗であった。その小脇には詠がしっかりと抱えられている。
「お、降ろせよ! なんで僕まで……!」
「お前が、烏天狗さん助けてくださ~い! 店長がカンカンでぇ~このままじゃ重が殺されちゃうよ~って縋ってきたんだろうが」
「そ、そんなことないだろ! 大体、あんたがもう少し言い方考えればこんなことには……!」
「どういうことだい、詠。わたしは、うちの可愛い丁稚が弄ばれて嬲られて、このままじゃ食われちまう筈って聞いたんだけれど」
九尾の狐の言いように、重は「うわぁ」と表情を歪めた。
烏天狗の野郎、かなり面白おかしく煽りやがったようだ。
「食べちゃうかもっていうのは僕も聞いたけど……でも、まさか重、本気じゃないよね?」
「本気だろ? だってお前」
烏天狗の口を、詠が手で塞ぐ。
「あんたが口出しすると、厄介なことになるんだってば!」
詠の手を押し退けて、烏天狗がふうんと団扇を構えた。
「脅迫して体液啜って、次は何をしやがるか……わかったもんじゃないだろう? 人間ってのは強欲だからな」
「強欲の化身みたいなくせして、あんたが言うな!」
その言い分を聞くに、烏天狗の奴め、随分と手の平を返してくれたものだと重は青筋を立てた。けれど、眼鏡のブリッジを上げて表情を誤魔化す。
「嫌やわぁ、烏天狗はん。それなら、肉を食うことは諦めかけてたとこですわ」
「ほう?」
烏天狗が片眉を上げる。心なしか、歌がほっと息を吐いたように見えた。
「向こう行って色々調べたんや。それに、自分の言うてはったことも気になるし? 内側から妖怪に乗っ取られたらかなわんわー思い始めてたとこや」
「なら」
ちゃらけた風に言う重に向かって、九尾の狐が呟いた。
「あの子に特別な感情はないってことかい?」
「……なんや、特別な感情って。そんなもんあるわけないやん?」
重がそう言えば、九尾の狐はふらりと視線を逸らし、そうして口元に手を当てる。
「そう。それを聞いて安心した。じゃあ、あの子にもそう伝えておくれ。そして、妙なことはもうしないように……前科が多いのも困りものだよ、重」
――なんで、そんなこと言われなきゃなんねぇんだよ。
咄嗟に頭に浮かんだ言葉を飲み込み、重はへらりと笑った。
「はいはい、承知しました。ここのかあいらしい従業員には、もう手は出しまへん」
「うちの従業員以外も同じさ。食おうなんて考えないように」
――誰が何を食おうが、何を想おうが、それに許可がいるんだろうか。
重が返事をしないでいると、九尾の狐は「まぁ」と呟いた。
「おまえが妖怪を食おうとするように、わたしだって勝手気ままに人間を貪り食うことだってあるのだけれど」
くすくすと笑う九尾の狐に、重は背筋がぞっとするのを感じながら、それでも喉奥から込み上げる笑いを抑えず声を上げた。
「ははは。流石、人間が恐れる大妖怪。言うことが物騒やわ」
「おまえも、こちらのことを言えたもんでもないけどね」
「そらおおきに」
「褒めてないよ」
暴虐で酔狂な存在かと思いきや決してそんなことはなく、けれど清くも正しくもない。人里に降りて好きに暴れたなんて話も聞く。掴み所のない狐である。
重は、そんな狐から受けた脅迫をさらりと手で払い落とし、そうしてラーメンを頂戴しないまま座席から立ち上がった。
烏天狗に降ろしてもらった詠が、重に駆け寄る。
「もう、店長ってば! あんまり人を脅迫しないでよね! 僕ら、そんなに悪いことばっかり考えてないってば!」
「詠はともかく、そっちの男はどうだろうね」
カウンターに頬杖を突いて探るように言う九尾の狐を肩口に振り返り、重はあからさまな溜息を吐いた。
今度は、否定も肯定もしなかった。
大事に大事に舐めてとろかしている間に、飴細工は横からすっかり没収されてしまった。
(もっと早い内に、指の一本や二本や、耳でもええ。囓っておけば良かったわな)
どんな顔をされただろうと考えると少しばかり愉快な気持ちになって、けれど今はもうそれを拝むことも叶わない。重は湧き上がってきた苛立ちを奥歯で噛み締め、舌打ちをした。
(イライラする……)
ただでさえ、「母親」に会う羽目になり苛立っていたのに、灯影街に戻ってきても別の件で苛立つ羽目になるとは。
「どこにいたかて、イラつきっぱなしか……」
灯影街に来た頃のことを思い出す。刀衆になってからも英の姿が目に入る度に苛立っていた頃、「重隊長って、英隊長のこと嫌いなんですか」と将棋を指しながら安穏と聞いてきた円にまで腹を立てたことを思い出す。
「好きか嫌いかで言うたら、苦手やんな。円かてそうやろ?」
「まぁね。俺にとっては、ここの人間なんてどうでも良いんですけど。空気悪くしないでもらえればそれでいいかな」
はい、王手、とあっけらかん言った円に腹が立って、それから夜な夜な円を遊戯に誘うようになった。嫌がらせのような、慰みのようなものだった。
(空気悪くしたないなら、初めからあないなこと言うなや)
円の、時々人を探るような目が、どうにも苦手だった。
「ええなぁ、なんも考えてなさそうな団栗目はと思ってたんに……残念やわぁ」
――どっちもオレで、どっちもオレやない。それでええやん?
どっちも重ってこと? と、何の気もなしに言ってきた団栗目のかわいらしいこと、かわいらしいこと。その様を思い出して、重は溜息を漏らした。
「胡散臭いのもオレ、柄が悪いのもオレや」
ふと足を止める。背後から駆け寄ってくる者がある。
このイライラしている時に、と重はつい腰の刀の鯉口を切った。しゃんと刀身を鞘から抜いて振り向き際に振り被った。
キンと音がして、そこで刃を止められたのだと知る。
はと我に返れば、鎌を構えた鎌鼬が、重が袈裟に振り下ろした刀を頭のすぐ横で止めていた。
「び、びっくりしたぁ……」
「……堪忍」
重は現状を暫し見つめてから刀を降ろす。静かに鞘に刀身を納め、そうして鎌鼬から視線を逸らした。
「丁度、詠が葛ノ葉いたからさ。重がもう帰ったって聞いて」
嬉しそうに息を弾ませる鎌鼬が、帽子の位置を直している。どことなくもじもじしてるように見えるのは気のせいだろうか。
重は、九尾の狐に言われたことを思い出していた。
「特別な感情」がないのかと言われた。そんなものあるわけがない。人間と妖怪だぞと思う。けれど、そう言われる由縁があるとすれば――
「重ってさ、オレのこと好きなの?」
耳鳴りがした。
九尾の狐がああして凄んだ由縁、それを察して、重は浮き足立ち、そうして、すぐに地面に叩き付けられた。そんな錯覚を覚えた。
「口くっつけたり、その……体触ったりするの、人間は約束してからするもんだって聞いたんだ。つまり、するのって、大事ってことだろ? 前に、オレとしたくなったからって言ってたじゃん? だから、もしかして重って……」
言い掛けた鎌鼬の言葉を遮る。
「何言うてんの?」
イライラする。すごくイライラと。脳天気に言う鎌鼬にも苛立つ。
「大事? そんなことあるわけないやろ? 自分、何かわかってるん?化け物やで?」
「だ、だってお前……っ」
「化け物が人間に見初められたって? そっちこそ、オレに夢見て、オレのこと好きなんとちゃうん? まるで御伽噺やんか。笑えるわぁ」
顔を歪めて笑う。歪めようと思わなくても、そういう笑い方しかできない。
何を言われているかわからない。わからないから巫山戯て誤魔化す。
誤魔化そうとしたのに、鎌鼬はぽかんと口を開けて、みるみる内に顔を赤く染めてしまった。重を見上げている瞳が、ふらふらと揺れる。
(なぁ、そんなわけないやん)
自分、何されたかわかっとるん? あんなん強姦やで? そう頭の中を過ぎる。捕食される者が捕食する者を好きなるなんて、そんな倒錯があってたまるものか。
重の表情から笑みが消えた。残った無表情の中、僅かに眉を寄せて呟いた。
「気色悪い」