三月がいない間もわざわざ訪れていたらしい大和から、暫く音沙汰がない。遂に飽きたか、それとも体調が悪いのか? 三月は、ふうむと口を尖らせる。
新聞社の窓からの正面口を見下ろしていると、そんな三月の肩を上司が叩いた。
「わぁぁあ!」
「危ないぞ、和泉~」
「あっ、危ないのはどっちですか!」
「ぼーっとしているお前が悪い」
さて、と上司は刷り上がったばかりの夕刊を丸めて肩を叩いている。
「和泉、ちょっと二階堂に会ってくる気はないか。芸能界隈の某売れっ子との仲介を頼みたいんだがね」
某売れっ子だなんて言い方しなくたって、三月には大凡の見当が付いている。近頃噂のリバーレという男二人組だ。往来で大きな広告になっているのを見たばかりである。
「会ってくる気はないかって……? 大和さん、暫く来てないですし、オレと会いたくないんじゃないですか……」
三月は、ガリガリと項を掻きながら言った。
「大和さん、ねぇ」
「……なんですか、名前で呼ぶことくらいありますよ」
大体、あの人、オレのことは勝手な渾名で呼ぶし。そんなことを思いながら目を逸らす。
「確かに、あんだけ熱心に通ってたってのに。野郎、また遊び歩いてやがるのかね。良いご身分で……まぁ、電報打ったら現れるだろうさ。仕事だからね」
そうは言われても、三月は気が進まない。
「……嫌ですよ。それなら、編集長が行けばいいじゃないですか。大体、なんでオレが……」
「お前、なんだかんだ二階堂のお気に入りじゃないか」
不思議そうに言う上司に向かって、三月はふると首を振った。
「……飽きたんじゃないですか? だから来てないんですよ、きっと」
そう言って窓の縁に頬杖を突く。そういえば、大和に借りたままの羽織をまだ返していない。
そんな三月の肩を、上司がぽんと叩いた。
「減るもんでもないし、ちょっと遊ばれておけば良かったろうに。満更でもなさそうじゃないかい」
「何てこと言うんですか……! ったく、他人事だと思って……」
へらへらとした顔でよくも言ってくれる。三月は思わず拳を握って……引っ込めた。
あのような嵌まったらやばそうな相手に遊ばれるなんて、まっぴら御免だ。ありとあらゆる女がふらふらと寄り付くのもわかる――わかってしまう。飄々としているかと思いきや、時折やけに情熱的で、その熱に目を奪われている間に真剣な顔をした大和は何処かへと隠されてしまう。
「そいつ」に会いたいと思う気持ちが止められない。
(止められなくもなる、だろうなって)
かと言って、三月はまだその段階にいない。シャツの上からぎゅうっと胸を押さえる。
いるつもりはない。
(……この間、助けてくれた時、ちょっと寂しそうだった)
そう思っているはずなのに、少しだけ、ほんの少しだけ、大和を慰めてやりたいと思った。
(オレは一体、何を甘ったるいことを……)
新聞連載小説の下読みをしたせいだろうか。無意識の内に流れていた頭の中の独白に、三月はかあっと顔を赤くする。
「俺には他人事も他人事だよ。お前さんがね、他人事に入れ込みすぎるンだよ」
「そうですか……?」
「そうそう。自覚がないなら持った方が良い。二階堂に入れ込んでるのがその証拠だ」
ぽーんと背中をもう一度叩かれた。三月は窓から飛び出しそうになって、慌てて柵にしがみつく。
「ったくもー! 危ねぇなー!」
「悪い悪い。お前、お顔がお花畑になってるからさ」
「お花……って、そんなことないですよ!」
いつ落とされるかわからない窓から離れ、三月はむーっと頬を膨らませた。いつ、誰が、お花畑になってると言うんだか。
「そんなに大和サンが恋しけりゃ、自分で電報打ちなってな」
「ん……?」
背中に何かが貼り付いているのに勘付いて、三月は無理矢理、手を背中に回す。なんとかつまみ取ったメモには住所の記載があった。
「……いや、恋しくねぇし」
もう一度窓からちらりと外を見下ろす。何度見ても、やはり大和の姿はないのである。
「……あーもう!」
三月はがりがりと頭を掻いて、それから「わかりましたよ!」と、上司に体当たりをした。
三月渾身の体当たりで腰をいわせたと嘆く上司のことを思い出しながら、三月は住所の書かれたメモをポケットに突っ込んだ。新聞社の電話から電報の手配はしたが、所詮は呼び出しの伺いを立てる事務的な電報であった。
顔を顰めた上司に「恋煩いの八つ当たりもいい加減にしないか」と叱られたが、とんでもない。人のことを散々からかったのだから、多少は痛い目を見るべき……と思いつつ、一応は三月の上司なので、詫びとして茶菓子くらいは用意してやろうと往来を歩いているところである。
「ったく、恋愛小説の連載中だからって、編集長まで呑気なこと言いやがって……誰が恋煩いだっつーの!」
――恋なんてするかバーカ。どうせ三月が恋をするなら、受付の彼女のように、優しくて柔らかそうな女子が良い。
その一方で、「三月くんは愛らしくて良い人ね」と済まされた学生時代の諸々の経験を思い返し、思わずくしゃっと帽子を丸めた。
(どうせ、オレなんて男として見られないっつーの!)
その結果が、今のこの状況なのかもしれない。
不意に、大和と出会った時に言われた「お顔が可愛いから」という言葉を思い出す。顔が女顔だから、だから気に入っているんだろう。ずっとそう思っていた。馬鹿にしやがってと憤っていたはずなのにだ。
「……オレもちょろいのかもしれないけどさぁ……」
あんな男前から、唇に、頬に、熱っぽく触れられたら、意識するなという方が難しい。手の中で開いた帽子を深く被り直し、溜息を吐く。
「大和さんが元気になったら、これまでの鬱憤全部纏めてぶっ飛ばそう……」
そう呟いて、はたと足を止めた。
どら焼きでも買いに行こうか、それとも実家の菓子屋でカステラかワッフルかを買っても良いかもしれないと思っていた最中、ふと、三月はぐにゃりと首を傾げた。
「大和さん、病気がどうとか言ってたのって」
――恋の病、なんてことはあるまいか。
三月は「まさかなぁ」と笑って足を進める。
脈がどうとか言って絡まってきた掌の温度を思い出す。自分の手首を見詰めて、三月は「は」と笑った。
「手練れ、だろ……?」
そんな奴が、他人の事で思い悩むもんか――そうして苦笑していた時のことであった。
突然、背後からぐいと鞄の紐を引かれる。三月は驚いて即座に振り返った。そこに立っていたのは、今し方三月の頭を悩ませていた男、二階堂大和本人だった。
「大和さん……?」
数日ぶりに見た顔に、三月は思わず頬を上げて笑う。
――あれ、なんでだ。そんなわけないだろ、なんでオレ、嬉しいんだろう。
「どうしたんだよ。久し振り。新しい女でも見つけ……っ」
三月が自分の気持ちを誤魔化そうと、わざと明るい調子で声を掛けた。すると、大和はそんな三月のことはお構いなしに、鞄の紐を強く引いた。
「え、わ、わわっ!」
そのまま、鞄の紐を引っ張られ、路地裏に引き摺り込まれる。
三月は大和に引かれるまま、せめて転ばぬようにしゃかりきに足を動かして大和の後を追うが、それでもだ。「何すんだ」と声を上げた。
「なっ……! あ、危ねぇだろおっさん! なぁ、ちょっと聞いてる?」
ずんずんと進んでいく大和が、不意に足を止めた。三月は「わ」と声を上げて、大和にぶつかった。
「ったー……もう、何……」
大和から離れようと身を引いた三月を、大和がぎゅうっと抱き締める。意図せず引き戻され、目の前に星が飛んだ。大和との身長差が幾分もあるものだから、相手の羽織姿にすっぽりと包まれてしまった三月は、ただ訳もわからず体をくねらせた。
「ちょ、ちょっと……! オイ、何すんだよ……!」
誰もいない深い路地裏、焦りからつい声を凄ませる。
けれど、大和に怯む様子はない。すりりと三月の髪に頭を擦り付けてくる。その仕草がまるで大きな犬のようで、三月は唖然としてしまった。
呆けている内に、被っていた帽子がぱたりと地面に落ちる。その帽子を振り返ろうとすると、大和の吐息が耳元を掠めた。ぞくりとした。
「な、なぁ……」
この大きな犬は、昼間から銭湯にでも行っていたのだろうか。少し湿っている大和の髪や体温に、三月の意識がくらりと揺れた。襟巻きで隠れている肌から、上等な石鹸の香りが上る――ぬくい。そのぬくさで、胸が圧迫されるようだった。
「大和さん……ってば」
こんな目に遭ったら、意識するなと言う方が難しい。だから、三月には苦しくて、押し返すこともできないでいる。どうしていいかわからない。心臓が、ばくばくと脈を打つ。そのあまりの苦しさに、三月はきつく目を閉じた。
このままで良いわけがない。
「……どうしたんだよ」
だから言葉を発する。
「誰かに振られた? ああ、早速痴情のもつれってやつか?」
わざとらしい軽口を叩いてみる。ぴくりと大和が体を震わせた。
「それにしたって、オレに泣き付いてこなくたっていいじゃん。ほら、あんただったら何処のお嬢さんだって……花街に馴染みの姐さんだっているんだろ……」
――そうだよ、だってこの色男だぜ? そんな言葉が、頭の中に浮かんできた。三月は強かに唇を噛んで、それから続ける。
「ああ、そうそう! 上司から頼まれて、あんたに仕事を依頼したいってさ、さっき電報打ったんだけど……まさか会えるなんて思ってなかったからさ。ちょっと予定を合わせたいんだけど、いいかな? なん、て」
抱き締められていることを考えなくて済むように、ただ思い付く限りくるくると口を回す。目眩がしそうだというのに、よくもここまではきはきと言葉が出てくるもんだと自分でも感心した。けれど、噛んだ唇だけはじんと痛む。
その内、大和が三月を抱く手をすっと緩めてきた。
「……ミツはさ」
「……何?」
だから、三月も軽快に回る口を止める。
正面に迎えた大和の表情が、やけに切なかった。その切ない表情が言う。
「俺のこと、何とも思ってないの?」
は? と漏れた言葉ごと、大和が三月の唇を啄むようにして塞いだ。
離されて、そのすぐ間近で眉を切なそうに寄せた大和が「こんなことされても……?」と呟いた。
かっと、三月の中に怒りにも似た感情が立ち上る。それが、首元から頭から熱を持たせた。
「そ、れは……あんたの方だろ……!」
掴み掛かろうとした手を絡め取られ、そのまま引っ張り上げられた。怒鳴りつけようとした口にまた口をぶつけられる。
――卑怯だ。文句を吐き出そうとした舌はすぐに捉えられて、唾液ごと吸い上げられた。
小癪な舌を噛んでやろうかと思いはしたものの、舌を噛んで人が死んだ事例が頭を過ぎり、三月はきゅっと眉を顰める。
「ん、ふ……うう……」
大和のしつこい愛撫に、三月は段々と頭がぼうっとしてくる。酸欠だ。ただでさえ、ただでさえ心の臓が早鐘を打って、体のどこかでは血が溢れてるんじゃないかと思うのに、酸素まで奪われては三月に為す術などなく、そのまま大和の好きにされているのがもどかしい。
離してほしくて、大和の頬に手を当てた。まるで縋り付くような様になってしまった三月のそれを受けて、大和がようやく三月を解放する。
息を吸い込もうとするのに、胸がばくばくとしてうまくいかない。
はっはと呼吸を乱す三月を見やって、大和が三月のつむじにもうひとつ接吻を落とした。
「ふ、ざけんな……バッカ、じゃ、ねーの……!」
息を懸命に吸いながら言う三月の髪を、大和の指先が撫でる。
「……バカになったのかも」
そのまま緩く抱き締められ、宥めるように体を揺すられる。それがあまりに情けなくて、三月の目尻からぽろんと涙が零れた。
「オレは、女じゃ、ない……こういうの、もう、いやだ……」
「知ってる。お前さんが嫌がってるのも、わかってる……」
「じゃあ、やめろよもう……! やめてよ、大和さん……!」
こんな色男、放っておかれるわけがないのに。
弄ばれてる内に、勘違いをしてしまう。この男は、そういう力を持っている。
根が優しいのは知ってる。きっと、男でも女でも勘違いをする。この人にとって、自分は価値あるものなのだとそう思わせる気質がある。
何とも思っていないわけがない――この人に、自分を好きでいて欲しいと望んでしまう。
涙が止まらない。
そんな三月の泣き顔を覗き込んで、大和が小さく呟いた。
「だって、ミツに男として意識して欲しくて」
え、と思う。三月は涙を無理矢理拭って、大和の顔を見た。
「やめられなくなっちゃった」
ごめんね、と、静かにそう言った大和に、三月は目を丸くした。
――意識など、最初からしている。意識するなという方が難しい。
路地裏の影と涙のせいで、はっきりとは見えない。けれど、大和はいやに切なそうに眉を潜めて笑っていた。どきりとする。
「し、してるよ……だからやめろって……」
「本当に?」
「でも、あんたのものにはならないって、言ったじゃん……」
「聞いたけどさ」
でも、それでも触りたいんだもんと小さく呟いた大和が、三月の耳の縁を噛んだ。びくと体を震わせる。喉の奥でくっと笑って「可愛い」と囁く大和を押しやろうとするのに、まるで金縛りみたいに体が動かなかった。
「俺、ミツに触りたいんだ」
「オレは、やだよ……」
言葉がうまく出てこない。それでも言う。
「だって、だってさ、あんた、絶対女の方がいいって思うよ」
「俺はミツがいい」
痛いくらい喧しく鳴っていた心臓の音が、急に遠くなった。
三月の目の前に跪いた大和が、三月の両の手を握る。そうして、ひどく真剣な表情で言った。
「三月さんを、お慕いしています」