「あの金髪、本当は留学生じゃないんだろ」
多少嗅ぎ回れば、埃と同じで様々な話が出てくるものだ。大和にとって、そんな「埃」を掻き集めるなんてことは、何とも容易いものであった。
さらさらと川が流れる景色を眺めながら、大和はひとつ間を置いて座っている三月に問う。三月が、小石をぽーんと川へ放った。
「さあな。オレは知らないよ」
「仲が良いのに?」
「知らなくたって、友達にはなれるだろ」
――そうかな。そういうの、俺は無理。
川のせせらぎを顰めっ面で眺めている三月を見やって、大和は思った。
三月のことは大凡知っている。本人は気付いていないだろうが、住んでいる場所や、実家がちょいと有名な菓子店であることも知っている。
これについては、三月の上司に少しばかり聞き出しただけなのだが、それでも全く素性を知らないなんてわけはない。
「お兄さんには、ちょっとわかんないかな」
そう言えば、三月は静かに溜息を吐いた。
「本人が知られたくないことなんだろ。オレは、あいつが話してくれるのを待つよ」
無論、三月だって、それを全て良しとしているわけではないのだろう。返事の雰囲気からわかる。
大和は、自身のすぐ傍にある一人分の空白を恨めしく見詰める。その空白が、随分と広くて深いもののように思えた。
錯覚でしかない。あるのはただ、ごろごろとした小石の群れだけだ。身を乗り出せばすぐに埋まる距離、それに手を伸ばすのが少しだけ億劫になっていた。
(億劫だなんて、思うことがあるんだな)
ひどく他人事のように思う。
じとりと伝う焦燥の汗さえ、自分のものでないような気がした。大和は、静かに固唾を飲む。
「どうしたの、何睨んでんの?」
その内、三月が大和を見て言った。
「……百足がいたからさ」
「マジかよ!」
さっと立ち上がった三月が、自分の尻に敷いていた石を蹴って崩す。百足などは見ていない。ちょっとした出任せだ。
「逃げたかな……?」
「さあな」
そこから逃げたのは、自分かもしれなかった。
大和の物にはならないと告げられた。それを惜しくは思わないし、これからだって、いくらでも気を迷わせることもできるだろう。そういう驕りはある。
不思議そうな三月の肩からだらんと垂れている手首を掴み、それを支えに立ち上がった。
「んだよ、おっさん一人で立てよな」
「ミツと黄昏れてたら眠くなっちゃってさぁ」
「黄昏れてねぇよ。お喋り付き合ってって駄々こねたのあんただろ……」
最近は、随分と良い関係になったと思っていた。
唇を奪った相手に警戒もないのか、三月はまるで大和とは知人の一人かのように接してくれるようになった。知人であるには違いないが、それにしてもよそよそしさがない。
(……意識されてないのかもな)
それを良い関係と呼んでいいのか、大和にはわからなかった。
――見下ろせば、いつだってその桜色に触れたいと思うのに。
「二階堂さんも、珈琲飲みに行く?」
驚いた。珍しく三月からのお誘いがある。大和がきょとんとしていると、三月はさっさと手を振って「いや、やっぱ無し」と言った。
「ちょっと気安かったよな」
「……なんで? 気安くなんてないよ」
ささと振られた三月の指先を掴んで、指の腹で撫でる。緩く握って手を繋いだ。
「嬉しいよ」
けれど、三月はその繋がれた手を見るなり、ばっと腕を振り払い、一人分どころではない距離分の後退りをした。
「あらら……」
「やっぱりやめた。あんたすぐ調子乗るから!」
「調子乗ってないって。友情よ、友情」
「うるせぇ。胡散臭いんだよ」
そう言って鞄を背負い直し、三月はさっさと河原から走って消えてしまった。大層足が速い。
それを見送ることしかできなかった大和は、はーっと息を吐くと、口角を上げて笑った。
そう、いくらだって気を迷わせることができるのだ。もう暫し、この「良い関係」を続けてやれたらいいのに。そう思う。
――そう、思っていたのにも関わらずだ。大和はいつもの喫茶店に入ると、これまたいつも通り、カウンターに座っているナギに声を掛けた。
「おい、ナギ」
「なんでしょう、スケコマシヤマト」
そのスケコマシヤマトこそが何なのだという話なのだが、そんなことは今、大和にとってどうでも良かった。
「ミツ知らない?」
「ワタシの方が知りたいですよ」
それまでの関係は決して悪くなかったはずだ。「あんたのもんにはならない」とはっきり言われたことは兎も角も、最初のように逃げられることもなくなった。出会せば軽口を叩けるような、そんな存在になれたのだと思っていた矢先、全く三月に遭遇しなくなったのである。
新聞社の前を通り掛かって数日、果ては、受付の娘を口説こうと試みた。詳しく口を割ることはなかったが、どうやら出社もしていないらしいということはわかった。
「以前も二週間ほど姿を見ないことがありましたから、出張かもしれませんね……ミツキ、元気にしているでしょうか……」
くすん、と鼻を鳴らしながら珈琲を嗜んでいるナギの隣に座り、店主に珈琲を注文する。
「何故隣に座るのです!」
「いいだろ別に。ちょっと話聞かせて」
むーっと口を尖らせたナギに、案外子供ぽいところがあるのだなと思いつつ、大和はカウンターに頬杖を突いてにやと笑った。
「遠目で見ても中々だったけど、近くで見ると、お前さん、びっくりするほど美形だねぇ」
そう言えば、ナギは謙遜することもなく、「そうでしょう」と頷いた。
(なんて奴……)
「ヤマトも女性の扱いさえ下品でなければ、整った顔立ちをしていると思いますよ」
「下品とか言うなよ……」
「ヤマトがスケコマシなことは、ミツキから聞いています」
「ったく……なんて聞いてるかは知らないが、ミツに会ってからそういうのはしてないっつーの……」
そう言えば、ナギは不思議そうな顔をした。
「そうなのです?」
「あのじゃじゃ馬追い掛けるので手一杯だよ」
「ミツキはジャジャウマではありません。キュートボーイです」
「ああ、はいはい……」
三月の行方を知らないなら、ナギと話していても埒は明かなそうだ。出された珈琲をちびりと飲んで、大和は溜息を吐いた。
振り返ってみれば、三月に関わり始めてから、女性との逢瀬の暇が無くなってしまった。勿論、町を行けば声を掛けられこそすれども、それほど時間を割かずに然様ならをしている。
(何してんだろ、俺……あんなちっちゃいの相手に……)
ふと、我に返る。口内に広がる珈琲の苦みとコクが、浮かれた頭を目覚めさせるようだった。
「お兄さん、キュート系は趣味じゃないんだけどな」
「では、すぐに手を引いたらどうですか?」
ふふんと笑うナギをじとりと睨む。すると、益々余裕綽々な笑顔を返された。何分、本当に顔の良い男である。
「どうしたのです?」
「……別に」
「引けないところまでいってしまいましたか?」
珈琲の芳醇な香りにうっとりとしているのか、それとも大和のことを嗤っているのか、ナギの横顔に少し腹が立つ。
大和は頭を振って、その苛立ちを散らそうとした。けれど、どうにも上手くいかないまま、珈琲を口に含む。――嗚呼、やはり目が覚めるような味わいだ。
「遊びのつもりで三月を傷付けるなら、容赦はしませんよ」
ひやりと、喉元に刃の切っ先を突き付けられるような空気を感じて、大和は口を結ぶ。
遊びのつもり。遊びのつもりだ。ずっとそうだ。しかし、ナギにとやかくと言われる筋合いはない。だが、そうか、とも思う。
(あいつ、また泣くのかな)
愛らしくて、苛めたくて仕方ない泣き顔を思い出す。
(……ああいう風に、泣かせたくないな)
そう思ってしまった。
このままを続ければ、きっと欲しくなってしまう。どこかで箍が外れてしまうかもしれない。その時、いい加減で怠惰な自分の本質が三月を泣かせやしないだろうかと、そんな気持ちが頭を掠めた。
可笑しな話だ。欲しているのは自分なのに、それに飽いて捨て置くことを怖がるだなんて。
「やだなぁ、お兄さんいつでも本気だけど?」
多少遅れた軽口に、ナギが怪訝そうな顔をした。一番自分の事を訝しんでいるのは、大和自身であった。
手を引けるかどうかなんて、そんなの簡単だ。何かを諦めないでしがみついて、固執したことなど、生まれてこの方一度だってない。自分から手を離した方が傷付かずに済むことも知っている。最初から要らないものだった――そう決めつけることだって簡単にやってのけることができる。刹那の蕩けそうな温度だけで良い。自分に必要なのはそれだけだ。
(あのチビがいないなら、好都合じゃないか)
以前、次の逢瀬を有耶無耶にしていた女と予定を合わせ、出会茶屋に部屋を取る。
久方ぶりの女の体温に流石に体は疼くもので、約束の時間には性急に着物を剥いで絡み合った。行為に没頭している間は、他に何も考えなくて済む。
相手の女の顔には、夕方だと言うのに靄が掛かっているように見えていたが、それだってさっさと済ませてしまえば関係ない。今欲しいのは、何かを忘れるだけの熱だ。
頭を浮かしてくれるだけの熱さえあれば――そう思っていた筈なのに。容易く没頭できると、そう思っていた筈なのに。
はだけた女の胸を見ても、いやに頭は冷静だった。求められて口付けを交わした。触れて、角度を変えて、舌を吸い上げてみたところで、頭の芯はやけに冷静になるばかりだった。
(甘くもない、塩辛くもない)
無味と無意味で頭が一杯になる。
目の前の女と同様、自身も着物の前をはだけていたが、思わずそれをすっと戻す。
「すみません。どうやら疲れているらしい」
こんなにも無礼なことがあるだろうか。はらはらとする女性の目の前で、大和は脂汗を拭う。日を改めたところで、決して気軽な興奮は訪れなかった。
むしろ、日に増し頭に冷や水を掛けられるような、気色の悪いほどの冷静さが付き纏うばかりだ。
あまりに反応のない大和に、女の方が奉仕を仕掛けてはくれたものの、それでも体は生理現象を返すに過ぎず、胸は決して昂揚などしなかった。虚しい時間でしかない。
女を帰した後、大和は一人、茶屋の部屋で呆然としていた。
「……なんで」
三月に会わないまま、遂に二週を過ぎた頃だった。
ごろんと畳に転がる。乱れた着物を直す気にもならない。
「ミツ……」
砂糖菓子のような甘やかな接吻をしたい。目を閉じると、思っていたよりずっと柔らかい桜色の唇が瞼の裏に浮かんだ。愛らしさの中に隠れた欲を引き摺り出して、その裏筋を苛めてやりたい。無垢を汚して曝して見せ付けてやりたい。嗚呼、だけど、嫌だとは泣かないで欲しい。
(泣かないで……俺を、受け入れて……)
頭を過ぎった熱っぽい言葉に、大和は唖然とする。目を開けると、瞼の裏の幻はさっと消えてしまった。
体を起こして、それから思わず額に手を当てた。
身なりを整え、それから慌てて部屋を出る。廊下に出ると、空色はいつの間にやら濃紺を称えていた。
「あれえ」
ぼうと三日月を見上げている大和に、声を掛ける者がいる。
そちらをゆっくりと振り返れば、若葉色の着物を着崩した長髪の男と、黒と赤の着物を似た風に着崩した男が大和の方を見ていた。
「大和くんじゃん、どうしたの?」
「また女の子捕まえてたのかにゃ?」
きゃらきゃらと笑う男・百が、絡んでいた千の腕から離れて大和に駆け寄る。並の男の上背はあるというのに、女物の派手な桃色の羽織が実に似合っている。
そんな百が、どうやら大和の違和感に気付いたらしい。急に神妙な顔をして、ちょいちょいと大和の頭を撫でた。
「どうしたの、大和。泣きそうな顔して……」
「え、大和くん泣きそうなの? どうしたの……もしかして、今振られたばっかりとか?」
「振られてません……」
そこまで言って、大和は本当に俯いてしまったのだった。
見目麗しい百と千は、巷では噂の絶えない芸達者な二人であった。しかし、それは決して良い噂ばかりではなく、無論聞き苦しい噂も跡を絶たない。遊び歩いては女を泣かせているだの、男色家であっちこっちに手を出しているだの、気むずかし屋で喧嘩三昧だの……全ての噂はくだらないものだと思いつつも、大和は二人のことをよく知っていたし、また、大和のことも知られてはいた。特に、千の方には。
(……男色家って言われたって仕方ないよな。二人きりで茶屋やら待合やらに出入りしてんだから)
大和は、布団に寛いでいる千をじとりと見る。大和の傍らでは、茶菓子を広げた百がどれがどうだこれは誰に貰っただのとのたまっては、大和の懐や手の中に詰めていった。
「ちょ、百さん……もういいですって。お腹いっぱいですよ、物理的に……」
いつの間にか着物の合わせに詰め込まれている茶菓子の包みを引っ張り出しながら、大和は百を押さえる。
「だって大和、なんだか元気ないんだもん。お茶も飲む? それとも、オレここで舞の一つでも踊ろうか?」
「こらこら、タダで踊ってやるなんてダメだよ、モモ」
千がたんたんと畳を叩いて笑った。百がくるりと踵を返し、寝転んでいる千に被さるように抱き付く。
「でも、大和とオレたちの仲じゃん」
「まぁ、大和くんが元気ないのは面白いけど、心配ではあるよね」
「ね、ね! そうでしょ!」
べたべたとしている二人を見やって、大和は眉間に皺を寄せた。
「面白くはないでしょ……性格悪いな、もう……」
はっきりと申し上げて「余所でやってくれ」という気持ちであった。
否、今は二人が取っている部屋に大和が邪魔をしているに過ぎないのだが、先に呼び込んだのはこいつらである。しかし、目の前でねんごろを見せられては、流石に苛立つ。大和は不愉快だと言わんばかりの表情で、ずるずるべたべたと絡む二人を見ていた。
その内、百がそれに気付いて、「やっぱりお茶でも淹れようか?」と呟いた。
「いいよ。僕が上等なのを一つ貰ってくる」
すると、それまでのんべんだらりとしていた千が立ち上がり、部屋を出て行った。百は「ダーリン、超優しい~」とうっとりしている。
「……百さんって、本当に千さんとねんごろなんですか」
日頃から気になっていることをぼんやりと口にすると、百は両の頬を手で覆って、きゃっと笑った。
「モモちゃんの旦那様、かっこいいでしょ! ……って、大和はずっと前から知ってるか」
「知ってはいますけど、百さんみたいに心酔はしてませんよ……できませんし」
「あはは、大和は相変わらず、ユキに素直じゃないなぁ」
素直も何も、そもそも性格が合わないのだろうと思う。気むずかし屋なのは本当のことだ。それは自分も例外ではない自覚があれど、千の難しさは一級品だと思う。百がいなければすぐに何かと言い合いをしてしまう大和と千との関係は、歳の離れた幼なじみのようなものだった。
大和の父親の元で雑用をして小遣いを稼いでいた千が、時折幼い大和にちょっかいを出す。ちょっかいを出されれば反発もする。そんなことの繰り返しだった。
「男同士って」
そう言い掛けて、大和はそっと口を覆う。
百の綺麗な目がゆるっと形を変えて、愛らしく微笑んだ。
「なあに?」
爪に紅を施した百の指先が、そっと大和の手に触れた。「言ってご覧」と言わんばかりの百に、大和はつい固唾を飲んだ。
「……男同士って、どうやるんですか」
「意外。興味あるの? 大和は女の子が好きなんだと思ってた」
「そう、なんですけど……最近、気になる奴がいて……」
「こらこら。気になる子がいるのに、お遊び止まりのお嬢さんをこんなところに連れ込んじゃダメでしょ」
百の指先が、窘めるように大和の額をつんと弾く。
「知ってたんですか……?」
「すれ違いに良家のお嬢さんが頬被りして出ていったからね。もしかしてと思って」
百に弾かれた部分を撫でて、大和は静かに息を吐いた。百には何かとお見通しのようだ。
「……俺、変なんです」
「何が?」
「百さんの言う通り、今日もお遊び止まりのつもりで茶屋入って、でも、全然反応しなくて」
だから、俺変なんですよ、とそう言えば、目の前の百がきょとんと目を丸くした。愛らしい瞬きをすぐ間近で見ると、どきりとする。すらっとした睫毛が、瞬きの音を立てそうだった。
「……大和、もしかして気になってるその子に本気になっちゃったんじゃないの?」
はたと瞬きを忘れた。百は鈴を転がしたように笑って、それから大和の頭を撫でた。
「だから、他の子じゃ満足できないんだ」
つつつ、と頬を撫でられ、気恥ずかしくなる。指先で弄ばれているのに、あまりに愛らしい仕草で怒る気にもならない。
「恋煩いってやつ……かな?」
百の言葉に、大和は思わず固まった。――恋煩い? 誰に、と言い掛けて脳裏を過ぎったのは、日だまりの中で振り返る小さな笑顔だった。
「……男同士はね。擦り合いっことか、あとね」
百が、するりと自身の腹を撫でる。胸を張って腰を引くと、爪先で自分の尻を撫で、そうして小さく呟いた。
「お尻を使うんだけど……ぬめり薬なんかでゆっくり解して、それから……」
上目遣いに見詰められ、大和はついドギマギとする。顎を引くと、百がその動揺を感じ取ったのか、笑い声を上げた。
「やだなぁ、大和、どきどきした? 必要になったら言ってよ。おすすめの油薬、教えてあげる」
眼鏡の向こうで視線をきょろきょろさせる。今、千が戻ってきたらどうしようか、まるで、旦那の居ぬ間に奥方と通じる間男のような気分だった。
「あれー……モモ、浮気?」
丁度そこへ千が戻ってきて襖を開けたので、大和はそのまま部屋の隅まで後退る。
「えへへ、モモちゃんは旦那様一筋ですぞ」
「へぇ? じゃあなんで大和くんは顔を真っ赤にしてるの? モモに誘惑された? ダメだよ。モモは僕のだから」
「わ、わ、わかってますよ!」
千の言う通り、顔だけが熱い。恐らく血が上って真っ赤になっているだろうそれを手で覆って、大和はなんとかその言葉を捻り出した。
「お茶、淹れてきたよ。一服しようか」
「うん!」
千が戻ってくれば、すぐにまた千に絡み付く百に、大和はやれやれと汗を拭った。本命が千なことはよくわかっているが、それでも迫られれば胸は早鐘を打つ。愛くるしい外見の中に妖艶さが垣間見えるのだから、百の周りに様々な噂が立つのも頷ける。
男から見ても魅力が絶えないのだ。女からすれば尚のことであろう。それは、千の方とて同じだ。神々しいまでに美しい銀髪と整った目鼻立ちは、まるで天の遣いのようである。
(性格は合わないけど……)
大和は、この千の外見にどうにも弱い。
「ん、何、大和くん」
「なんでもありません……」
百は大層利口な男であるから、きっと二人きりでした話を千にはしないだろう。というか、しないで欲しい。絶対に千にはバレたくない。
淹れてもらった茶の湯飲みを見下ろしながら、大和はきゅっと口を結んだ。そんな大和を見て、百は穏やかに微笑んでいた。
恋煩い――百に言われた言葉を反芻する。二人の部屋を早々においとまして、大和は手持ち無沙汰のまま夜の帰路についた。女を帰したのであれば、茶屋で過ごすのも虚しいことこの上ない。
誰も上げたことのない殺風景な自宅に戻る。実家から飛び出して、ただ寝て過ごすだけの部屋を借りている。それは、まだ巷では珍しいアパートメントの一室であった。
襟巻きを外し、多少乱れの残る着物を脱ぎ捨てて、大和は寝間着に袖を通した。特に何をしたでもないが、体が怠くて仕方ない。
(……出し損ねたな)
女体を見たとていきり立つ物もない。欲が枯れるには早すぎると下腹部を見下ろしてみたが、漏れてくるのは溜息ばかりだった。
ごろんと転がった寝床から天井を見上げる。月明かりに照らされた天井は、ただただ虚しさを増長させるだけだ。さっさと寝ちまおうと、大和は目を閉じた。
三月に会いたい気持ちを誤魔化すつもりの逢瀬が、結局何の役にも立たなかった。きゅっと眉を寄せる。
いつもの新聞社の前で捕まえた少し小柄な背中。振り返った団栗目が、日の光できらりと橙に光った。嗚呼、なんて眩しいんだろう。微笑んでくれるその表情が愛しくて、思わずぎゅっと抱き寄せた。すっぽりと腕に収まってしまう三月の体温がひどくぬくい。ぬくくてぬくくて、離したくないと思う。
愛らしい唇を自分の唇で塞いで、漏れる吐息すら飲み込みたくて角度を変えて何度も口付ける。逃れようとたじろぐ舌に舌を絡めて弄ぶ。溢れそうな唾液まで吸い上げた。離したくない。全部欲しい。だのに、三月には、とんと胸を押される。
仕方なく思って顔を覗けば、三月の頬がほんのりと上気していた。
「どうしたの、嫌だった……?」
そう問えば、三月は大きな目を見開いて、それから、大和の下腹部を見る。
「大和さん……」
そう三月の唇が形作っていた。けれど、声は聞こえなかった。
夢の中で声を聞く前に、大和は、はっと意識を取り戻してしまったからだ。
寝間着の上から股間に手をやって、愕然とした。触らなくたって当然わかる。自分の体なのだから。
「……嘘だろ」
あんなに音沙汰の無かった一物が、芯を持って勃ち上がっていた。夢精までいかなかったことに安堵しながら、けれど何一つ無事ではなく、自分の浅はかさに、大和は思わず頭を抱えて丸まったのだった。