月に叢雲と金平糖 ◆ 六
三月は鎌倉への取材旅行を終えて、久方ぶりに職場に顔を出す。
海水浴場の様子や旅館の記事を纏める目的だったがため、会社の金で多少の贅沢ができた。上司と四六時中共にいる緊張感こそあったが、それにしてもだ。随分と良い思いをさせてもらったものである。
「あ、三月さん!」
「はい?」
新聞社に土産を持って向かうと、受付の娘に声を掛けられた。
「土産のまんじゅういります? 上に置いておきますんで、持って帰ってくださいよ」
「あ、ありがとうございます! ……ではなくて」
彼女は、こそっと三月に耳打ちをする。
「二階堂大和さんがいらっしゃってたんです……」
「えっ」
普段は外で待つばかりで、中の人間に声を掛けたりしないのに。
三月は、一片の焦りを覚えて、「大丈夫でした……?」と尋ねた。
「何か変なことされませんでした? 何せあのおっさん、女癖が悪くて……」
「いいえ、特には……! ただ、三月さんを暫く見てないけど、出社してるのか、と……」
「しつこくされなかった?」
「詳しくは伝えてません。ですが、二回ほどいらっしゃったので、一応お伝えしておこうと思いまして……」
「うわー……ごめんな、オレのせいで……」
三月は土産のまんじゅうを包んだ風呂敷を置くと、帽子を取ってぺこんと頭を下げる。
「そんな! お気になさらないでください! 本当に、三月さんのことを聞かれただけでしたので……!」
それなら良かった……ともう一度頭を下げ、三月は風呂敷を抱えて新聞社の二階へと上がる。
(どうしたんだろ……)
受付の娘に手を出したわけではないようで安心した。それにしても、三月をどうしても捕まえたい理由でもあったのだろうか。
「今日は来てないんだ……」
新聞社に入る時にも見当たらなかった。二週間も上司に付いてふらふらとしていたから、遂に諦めたんだろうか――だって仕事だったんだから、しょうがないだろ。
そんなことを考えていると、ふわりと階段を踏み外しそうになった。
「うわぁっ……!」
三月は持ち前の運動神経で二段ほど下に着地する。なんとか踏み留まったが、それにしても危なかった。
危ねぇ危ねぇと首を捻る。滲んだ汗を拭って、まんじゅうの風呂敷を抱え直した。大和のことに気を取られるなんて、なんて様だろうか。
「オレのことなんて、最初から構わなければよかったんだ。靡く女なんていくらでもいるんだからさ……」
まんじゅうを同僚に配り終えて、三月は出張の荷物を背負い、新聞社を出た。
ナギにも煎餅の土産を買ったので、それを携え、いつもの喫茶店へと向かう。そいつをさっと渡して社員寮に荷物を置き、夜は実家に向かおうと思っていた。
そんな三月の目に、喫茶店の窓際の席に座る大和の姿が映った。
「あ」
声を上げる。ぼんやりとしていたらしい大和が、窓越しに三月を見つけて、目を見開いた。
三月は、やべ、とばかりに口を塞いだが、すぐに外して、それから小さく笑って見せた。大和は妙な顔をして、そうしてゆっくりと瞬いた。変な顔だと思った。
「ハーイ、ミツキ。お久しぶりですね」
「よう、ナギ。これ土産」
三月は店に入ると、まずナギと店主に煎餅の袋を渡す。
「カマ、クラ? 行き先は鎌倉でしたか?」
「そう、海水浴の季節になるから、その取材も兼ねてさ。観光案内出すんだ」
「それは穏やかなお仕事でしたね」
「会社の金で贅沢してきた」
三月がニカッと笑って見せる。ナギもそれに応えるように、にこりと微笑んだ。
「で、あのおっさん、どうしたの? 黄昏れちゃって」
三月は、窓際の大和を指さし、こっそりと尋ねる。
「……ヤマトのことですか?」
「そうそう」
「あれは、ですね」
ナギが三月に耳打ちした言葉に、三月はつい口を尖らせた。
「……諦めたのかと思った」
「しつこい男は嫌われます」
「本当になぁ」
大和はといえば、窓際の席に座ったまま、ぼんやりと外を見ていた。時折三月とナギの方を気にしているようだったが、話し掛けてくる気配はない。
「……マスター、ココアお願いします」
三月はカウンター席に座らないまま、用意してもらったココアを持つと、静かに大和のいるテーブルに歩み寄った。
「おい、おっさん」
ふらりと顔を上げた大和が、眼鏡のレンズ越しに三月を見る。
「どうしたよ、酷い顔して……ちゃんと寝てる?」
ココアをテーブルに置いて、そう声を掛けた。三月を見上げてくる大和の瞳が、爛と揺れた気がした。
「……いや、寝てるよ? あとおっさんじゃないし。お兄さん、な」
「本当? 目の下、隈あるけど?」
カップを置いて空いた手で、そっと大和の頬をつまむふりをしてみる。実際には指先で撫でるだけだった。眼鏡の縁に指が当たって、カチと音がした。
触れてみると、少しひやりとする。すっと閉じられた大和の切れ長の目尻を、そっと撫でてやる。やはり光の加減などではなく、そこには隈があるらしい。目を閉じると綺麗な男であるが、その隈のせいで、どことなくやつれているようにも見えた。
「珈琲よりこっちにしとけよ」
三月は大和の目の前に置いてある珈琲のカップを引いて、代わりに自分が持ってきたココアを置いた。そのまま、大和の正面の椅子に座る。
「……なんだよ、寝てるって。夜も遊び歩いてないし? 昼まで寝てる」
「おいおい、朝は起きろよな。不健全なおっさんだなぁ」
「お兄さんだってば」
受け答えしながらもぼんやりとした様子の大和に、三月は少しだけ不安になり、テーブルに頬杖を突く。上目遣いに大和を見上げ、確認するように尋ねた。
「女の人と遅くまで遊んでんじゃねぇの?」
すると、大和は薄く笑って、「気になる?」と呟いた。
「別に。ただ、二階堂さん、いつか刺されるんじゃねぇのかなって思ってさ」
「何それ。嫉妬かなんかでってこと?」
「そう」
「心配してくれるんだ?」
「知り合いが痴情のもつれで刺されたら、夢見が悪いじゃん」
笑って言うと、大和は少し俯いて、それから首を横に振った。
「体の調子が悪いから、そういうのは今してないよ」
大和のその言葉に三月はどきりとして、それから僅かに身を乗り出す。
「そうなの……? 医者は?」
「特に悪いとこはないってさ」
「そっか……」
なんとなく気まずくなって、大和の飲みかけていた珈琲を口に運ぶ。冷めきった珈琲の渋みを感じて、この人はどれだけの間ここにいたんだろうと思った。
「胸がさ、早鐘を打つんだ」
掛けられた言葉にはてと思い、三月はテーブルに無造作に投げ出された男の手首を見やる。
「早鐘……?」
無防備なそこへ手を伸ばし、そっと指の腹を当てた。脈を取る真似事でもしてやろうと、指の先に伝わるとくとくという音を追う。
とくとくと、そう流れる音が大和の胸に続いているのだと思う。それに触れていると思うと、どこかくすぐったかった。
三月は、十分にその音を追ってから呟いてみる。
「確かに、ちょっと早いかも」
そう言えば、投げ出されていた大和の手が、脈を取る三月の手の輪郭をするりと撫でた。どきっとする。骨張った大和の指先が、まるで蛸の足のようにしなやかに節を動かし、三月の手に甘く絡まってきた。
碌に力も入っていなかろうに、それでも不思議と三月には振り解くことが出来なかった。他人の生ぬるい体温が絡むその違和に、心臓がばくばくと音を立てる。
「……に、二階堂さん……?」
「……あのさ」
「うん」
レンズの向こうの瞳から目を逸らせない。瞬きさえも戸惑わせる。
そのような空気の中、大和が言った。
「大和で良いよ」
「え?」
「大和で良い。呼んでよ。ミツに呼ばれたいんだ」
いやに真っ直ぐ向けてくるその視線に逆らえず、三月は戸惑いながらも口を開く。
「大和、さん……?」
すると、目の前の大和は安心したように笑って、三月の手首に絡めていた手を離した。
謎の緊張に解放され、三月はほっと肩を落とす。
「なんだよ。名前で呼ばれたかっただけ?」
「……そうなのかな」
そうなのかも。繰り返し言った大和が、ふいと窓の外を見た。
「……ミツが嫌なら、二階堂でも構わないけど」
「嫌じゃないけどさ……」
三月はそんな可愛い我儘を笑って、それから自身のズボンのポケットの中を探る。
「そうだ。大和さんにはこれな」
「ん」
テーブルにぽんと小袋を置く。
「何これ」
「金平糖と、守り巾着」
「は?」
「お土産」
椅子から立ち上がり、珈琲のカップを持ってカウンターに向かっていく三月に、大和が「なんで」と言い掛けた。
三月は、大和を振り返って言う。
「だってオレ、あんたのこと全然知らないから、だからそのくらいしか思い付かなかったんだ。痴情のもつれで刺されないように、傘にでも付けとけばいいじゃん」
大和が守り巾着と金平糖の小袋を握って、呆としていた。その姿がやけに可愛らしかった。
月に叢雲と金平糖 ◆ 七
――大和、さん……
夢の中で思った名前を呼ぶ声よりもずっと戸惑いがちだった現実の声を反芻して、うすらと思う。
(好きなんだ)
三月の事が好きなんだと噛み締める。
手の中の守り巾着と金平糖の包み紙が汗で湿ってしまうような気がして、きつく握りしめていた手を開いた。
(……恋煩いだなんて、バカみたい)
眠りが浅くて、日頃ぼうっとして、日だまりの中で見た久方振りの三月につい泣きそうになった。指先に触れた体温がいとおしくて、離したくなかった。
そんな馬鹿みたいな感情を、多分好意と言うんだろう。
三月は大和の珈琲を持っていって、ナギと談笑している。そこに混ざるだけの気力は湧かず、大和は手元のココアを口に含んだ。ひどく甘い。
三月の指先が触れた目尻に触れる。もっと触って欲しいのに、そう懇願するだけの関係を持たない。相手が女だったら、もっとずっと簡単だ。
(触って、って)
そう言えばいいだけなのに、大和にはそれが憚られる。
(触らないで……)
どくどくと、心の臓が音を立てる。襟巻きで口元を隠した。口から心臓が出そうだった。――好きだ。言えてしまったらどんなに楽だろう。
飄々とした姿を演じている自分の化けの皮が、途端に随分と重たい物に思えて、大和はそっと席を立った。不思議そうな顔をして見送る三月とナギとは言葉を交わさないまま、ぎくしゃくと会計を済ませて喫茶店を後にする。
真っ直ぐ歩けているのが不思議だった。これは、酒でも飲まなければやっていられない。そう思って大衆酒場に顔を出した大和は、そんな迂闊な自分を呪う羽目になるのだった。
「オイ、何してくれてんだテメェ!」
突如として聞こえてきた罵声に、大和は顔を上げる。自棄に近い状態で酒を飲んでいた為、随分と悪酔いをしたものだ。
長屋の壁に凭れて目を閉じて、目眩が抜けるのを待っていた。そんな時であった。
「テメェらが怪しい真似してるからだろうが!」
罵声に返る声に、いよいよ意識がはっきりする。少年にも聞き間違える高い声は、確かに聞き覚えがあるではないか。
「おいおいおいおい……」
意外と血の気が多いのは知っているが、相手は絶対に堅気ではない。大和は声のする方へふらふらと走る。走れば走っただけ酔いが回るが、気が気ではない。
「テメェこそ、コソコソとつけてやがっただろうが!」
大和がその現場に辿り着けば、なんと三月が単身で野郎二人に掴み上げられているではないか。思わず額を叩く。
暗がりだが、やはり相手は堅気ではなさそうだ。
(……ありゃあ)
物陰に隠れながら、眼鏡を押し上げる。
(某財閥が飼ってるゴロツキじゃねぇか……)
それがなんだってこんな所に……と視線を巡らせる。明かりの点いている食事処の二階、さては、そこで何かきな臭い遣り取りが行われているのか。
(確か、怪しい商売の噂があった気がするが、さて……)
それは兎も角として、外であのように騒いでいては三月が危ないし、彼が追おうとしている案件もその内騒ぎに気付いて有耶無耶になることだろう。そもそも、現状二対一では分が悪い。
大和は長い溜息を吐いてから、ふらふらと物陰から歩き出した。
「喧しいと思ったら、何してんだミツぅ~」
「ああ……? 大和さん……なんでこんな所に」
何事かとぱちくりしてるゴロツキの手を、大和は何気ないふりをしてぽぽんと叩く。
「ありゃー兄さん方、すいやせんねぇー……このちっさいの、どうにも探偵ごっこが好きなもんで……ガキの遊びもほどほどにしろって言い聞かせておくんで、これで見逃してくれりゃあしやせんかねェ」
そうして、三月のシャツを掴む手を解かせ、代わりに懐から取り出した銭を握らせる。ぎゅっぎゅと握って祈るように突き返せば、男らは顔を見合わせ、動揺の色を浮かべた。
ついでに大和は、ぽかんとしている三月の頭を帽子の上から引っ叩いて見せる。
「あだぁっ!」
「ったく! 遊びも大概にしてウチへ帰りやがれってんだ! やぁ、すいやせん、すいやせん……」
そのまま、三月の肩を抱いて食事処の前を通過する。三月が口を尖らせ、ちらりと振り返った。
「折角のスクープどうしてくれんだよ……」
「スクープの前にお前さんの死体が川に浮かぶわ。このバカ野郎」
お互い、こそりこそりと言葉を交わす。
「帰りに偶然、密売疑惑のある商人を見掛けてさ」
「財閥のお偉いさんに悪いもん売ってるって噂の奴だろ。だからって一人で追っかけることないだろうが……あ、すみませーん」
三月の肩を抱いて押さえ付けたまま、憲兵の詰め所に寄る。
「……二階堂大和じゃない。どうしたの?」
すると、そこにはこの遅い時間であるのに、軍服をぴしりと身に纏った青年がいた。まるで猫のような彼の瞳が大和を睨む。
「ああ、九条の旦那がいるなんて珍しい。取り次ぎを頼まなくて済んだ……ちょいと先の食事処でツレが絡まれまして、素行のよろしくないゴロツキが暴れてましたんで告げ口まで、と思ってね」
特に悪いことをしでかしたでもないが、青年・九条天に睨まれては敵わないと、大和はひらり手を上げた。
「ゴロツキ? 君が何かしたんじゃないでしょうね」
「俺が? やだなぁ、滅相もない」
「わざとらしい……」
「意地悪言わずに、念の為に見回ってくれないか? 頼むよ、九条」
上げた手を摺り合わせて「この通り」と強請って見せる。すると、天は溜息交じりに肩を竦め、それから頷いた。
「わかった。丁度、楽と龍が見回っているから、周辺で何か起きないように用心するよ」
「仕事増やしちまって悪いな」
「本当にね」
天と大和の遣り取りを黙って見ていた三月が、大和の隣で途端に小さくなった。そんな三月を抱えて、大和はひらりと天に手を振ると、さっさと詰め所を後にする。
「……楽、って、八乙女殿のことか……? 呼び捨てにするってことは、あの男の子、随分若く見えるけど、お偉いさん……?」
「まぁ、そういうことになるかな」
「大和さん、なんでそんな人と面識あるんだよ……」
「さて、なんででしょう?」
お気軽な調子を装って返事してやると、三月にじとりと睨まれた。
「あんた、本当は犯罪者だったりしない……?」
「うーん、それはない」
そう、それはないのである。が、情報屋なんてものをしていると色々な場所にツテが出来るもので、ついでに、先程の三月のようにゴロツキに絡まれることも多分にある。大和の場合は所謂痴情のもつれと半々ではあるのだが、そういう時に憲兵と知り合いだと何かと楽なのである。
「じゃあ、八乙女殿や十殿とも知り合いなわけ……?」
三月の目が、途端に爛々とする。嫌な予感がして、大和は少しだけムと口を曲げた。
「そうだけど」
「うっわ、いいなぁー! オレ、あの人達のファンなんだよ! 格好良くて男気があって、庶民が声を掛けても嫌な顔一つしないしさ」
突然軽快に語り出す三月に、大和は呆気に取られた。そうして、はーっと肩を落とす。
「精悍な顔立ちも、男だけど惚れ惚れしちまうよなぁ。憧れちゃうよ、本当」
極め付けがこれである。大和は、抱いていた三月の肩から手を離し、それから足を止める。
「大和さん?」
不思議そうに振り返った三月に、自分が着ていた緑の羽織を頭から被せ、それから、ぺちんと三月の額を叩いた。
「……今回は偶然お兄さんが見つけてやったけど、ああいう危ないことはすんなよ。わかったか、七五三」
「し、七五三だぁ?」
「憲兵さん見てカッケーってはしゃいでるガキにはお似合いだろ。これ羽織ってとっとと帰んな。お兄さんは、大人の遊びをして帰るからさ」
助けたのは自分だと言うのに、他の男にきゃんきゃん言われては流石に面白くない。そんな気持ちから、つい言わなくて良いことを言った。
折角、悪酔いに耐えながら送ってきたと言うのに、だ。ここで送り狼にならない自分を、誰か褒めたっていい。
苛立っている大和に向かって、三月がきょとんと瞳を上げた。
「大和さん、なんか怒った……?」
「怒ってない」
先程まで爛々と輝いていた目が揺らいだ。
「嘘だ。怒っただろ。羽織もいらないよ。あんたどうすんだよ……」
「後で返してくれりゃあいい。夜は冷えるし、万が一に追い掛けられても、後ろ姿がこれならわかんねーだろ。たまにはお兄さんの言うこと聞きなさい」
そう言って、三月の頭をわしわしと頭を撫でる。三月はと言えば、擽ったそうに眉を顰めながら、それでも小さく頷いて「わかった」と呟いた。
「……そうだ、まだお礼言ってなかったな。ごめん、助けてくれたのに。ありがとう」
ごめんとありがとうを形作った三月の唇に、人差し指を当てる。少し表情を強張らせた三月の心中を察して、大和はそのまま微笑むに留めた。
「うん……気を付けて帰れよ」
怒っていたわけじゃない。ただの嫉妬だ。その慰めに、少しだけ桜色に触れたくなった。
でも――怖いんだ。俺に触られるのが。
触ってと触らないでの境目を揺蕩う大和とは違う。三月は「触られたくない」のだ。それを察する。否、知っていたのに、見て見ぬふりをしていた。
(だって、ミツは俺のものにはならないから)
大和に見送られ走って帰っていく三月の背中を見て、何故だか無性に涙が出そうになった。離れていくことが切ない。小指の腹で目尻を拭う。
空を見上げる。そこには星が優しく煌めいているというのに、大和の腕の中にあった星は、金平糖と同じでくしゃりと溶けて逃げてしまった。
甘い甘い感触の記憶だけを残して。
さて、このままアパートメントに戻れれば良かったのであるが、気持ちを慰めるために大和はまたも酒場に飛び込んでしまった。本当に愚かであったと自分でも思っている。
しかし、思っているだけでは酔いは醒めない。
「あー……気持ち悪ぃ……」
呻いた大和に肩を貸している百が、快活に笑った。
「オレの着物汚したら承知しないからね、大和。高いよ?」
「す、すいません……絶対吐きません……」
百よりも背の高い千は、何の負担も負わずにただ隣を歩いている。千は腕力が無いから仕方のないことなのだが、大和にはそれがやけに気に障った。そんなことよりも、今真っ直ぐに歩けていない自分が一番気に障るのだが。
大衆酒場に顔を出すと、普段の派手な着物とは違う男物の着物に身を包んだ百と千の姿があった。二人の酒の席と騒ぎに巻き込まれ、大和は自分で思っていたよりも随分な量を飲む羽目になったのであった。
「はい、とーちゃくー! お客さん、終点だよン」
小柄に見えるが案外体格の良い百は、自分も酔っているだろうに、大和に肩を貸したことなど物ともしていないようだった。同じ男として少し悔しくなりつつも、大和はふらふらと階段に座り込む。
「俺……余計なこと言ってませんでした……?」
「うーん、随分と熱烈に自棄になってたのはわかったかも!」
「そうだねぇ。ミツが好き好き大好き俺どうしたらいいですかぁ……って感じだったかな」
「ダーリン、しーっ! 本人忘れてんだから! しーっ!」
へらへらと言う千に向かって、百が口の前に人差し指を立て、必死に黙らせようとしている。しかし、だ。大和も残念ながら殆ど覚えている。むしろ相手方に忘れて欲しかったのだが。
眼鏡をずらして顔を覆った。
「邪魔でしょ。眼鏡、取っちゃえばいいのに」
「嫌です……」
仮令、相手が大和の父親が何者であるかを知っていたとしても、眼鏡を取るのは憚られる。――怖い。
そんな大和に、百が声を掛ける。
「大和さ、その子のどこが好き?」
「なんですか、急に……」
百はひょいとしゃがんで、大和の顔を覗き込んだ。
「一度、吐き出しちゃった方が楽かもしれないよ。大和、最近よく眠れてないだろ? 普段はこんな酔い方しないじゃん。本当に参っちゃってんだよ、きっと」
夜分のアパートメント、百のよく通る声が静かに響く。
大和はぐしゃぐしゃと前髪を掻き混ぜて、それから眼鏡の位置を戻した。
黙っている方が吐きそうになる。そんな時だから、ぼんやり口にしてみるのも悪くはないのかもしれない。
視線を上げると、百がこてんと首を傾げて、穏やかに笑った。
「ね、どこが好き?」
「全然、好みじゃないんですけど……」
「うん」
「……子供みたいな顔、してて。でもって、泣くと可愛いんです。いや、元から可愛いんですけど……」
ぼそぼそと溢し始めた大和に、百は千を振り返り、にかりと笑う。そうして、大和の方へと向き直った。
「うんうん、それでそれで?」
「それで……俺やナギが素性隠してても、気にしないで接してくれて……気にしてるんです、きっと……でも」
「気にしないふりしてくれるんだ?」
「……多分、そう」
階段の壁に凭れ、ふらりと思う。本当は、気にしている。そんな気がする。
「言っちゃえばいいのに、素性」
そんな大和に声を掛けたのは、千の方だった。
「大和くんが靡くくらい良い子なんだったら、君の素性聞いたって色めいたり騒いだりしないだろ」
「……新聞社に勤めてんですよ」
百と千が「あー」と声を上げる。
「ていうか、そもそも言いたくないし……あの人の……千葉志津雄の妾の子供だなんて」
有名俳優の妾の子。珍しくもない話であるのは承知で、それでも大和は言いたがらない。家を出てのらりくらりと一人で生きているのも、家族と関係が良くないせいだった。
「でも、そんなことじゃなくて、俺が……」
「うん」
「俺みたいな最低な奴が好きになったら、ミツのこと、困らせるかもしれないから……」
百が、そんな大和の頭を撫でた。
「大和さ、好きになったらっていうか、もう好きじゃん。その気持ちは止めらんないよ」
他人から突き付けられた自分の好きという感情の異質さに、大和はつい百から視線を逸らす。見たくないものを鏡で見せられた気分だった。
「認めないでいるの、苦しかったでしょ」
「……苦しいです。すごく」
「本気だからだよ。本気だから苦しいんだよ。……だからさ、本気なら本気なりに、それ見せなくちゃ」
立ち上がった百が、自分より一歩後ろにいる千の袖を引いて、それから呟く。
「オレだって、ユキさんに本気見せたからここにいられるんだよ。それで何か変わるかもしれないし……変わらないかもしれない」
通じ合っているように見える二人が今の大和にはひどく眩しくて、羨ましかった。そんな風に曝け出すようなこと、自分にはきっとできない。
「……できないですよ、そんなこと……」
そう弱音を吐くと、百は腰に手を当てて言った。
「だってさぁ、考えてみなよ。大和の言うミツが、誰か別の人に取られたら堪えられる? オレは無理。想像だけで無理!」
百は千に向かって「無理だからね」ともう一度言った。
「大丈夫だよ」
「信じてるからね、ダーリン……浮気やめてよね」
「してないって」
……案外通じ合ってない部分もあるかもしれない……と思いつつ、大和はゆっくりと瞬きをする。
百が咳払いして、それから改めて続けた。
「とにかく! 折角の貴重な本気、一世一代分頑張ったってバチ当たらないって!」
「そうだよ。もし振られても僕たちが慰めてあげるからさ。頑張ってみればいいじゃない」
「そうそう! オレとユキで大和のこと、いーっぱい甘やかして慰めてあげちゃう!」
「嫌ですよ……甘やかさないでください。俺、そういう性質じゃないんで……」
そう言えば、百と千は顔を見合わせ、ぷっと吹き出した。
「気付いてないなら良いけどさ」
「大和くん、案外甘えたがりだよね」
――そんなことねぇよ。
そう、多分、そんなことねぇって。
ぐらんぐらんと揺れる視界の中で、なんとか体を支えながら自分の部屋に戻る。
大和は、ばたんと床に倒れて、懐を探った。そこから、くしゃりとした金平糖の袋と、守り巾着が転がり出てくる。丸くて小さい守り巾着を両の手で包んで、はぁと息を吐いた。
「……すき……?」
この巾着には、何のご利益があるのだろう。三月に聞いておけばよかった。
痴情のもつれから守ってくれるようなものであれば、今の大和には必要がなく、できれば……できれば、恋愛成就なんてしてくれたらなぁと目を閉じる。そんなことを考える夢心地が馬鹿らしくて、つい頬が緩んだ。
守り巾着からは、仄かに白檀の香りがした。
月に叢雲と金平糖 ◆ 八
三月がいない間もわざわざ訪れていたらしい大和から、暫く音沙汰がない。遂に飽きたか、それとも体調が悪いのか? 三月は、ふうむと口を尖らせる。
新聞社の窓からの正面口を見下ろしていると、そんな三月の肩を上司が叩いた。
「わぁぁあ!」
「危ないぞ、和泉~」
「あっ、危ないのはどっちですか!」
「ぼーっとしているお前が悪い」
さて、と上司は刷り上がったばかりの夕刊を丸めて肩を叩いている。
「和泉、ちょっと二階堂に会ってくる気はないか。芸能界隈の某売れっ子との仲介を頼みたいんだがね」
某売れっ子だなんて言い方しなくたって、三月には大凡の見当が付いている。近頃噂のリバーレという男二人組だ。往来で大きな広告になっているのを見たばかりである。
「会ってくる気はないかって……? 大和さん、暫く来てないですし、オレと会いたくないんじゃないですか……」
三月は、ガリガリと項を掻きながら言った。
「大和さん、ねぇ」
「……なんですか、名前で呼ぶことくらいありますよ」
大体、あの人、オレのことは勝手な渾名で呼ぶし。そんなことを思いながら目を逸らす。
「確かに、あんだけ熱心に通ってたってのに。野郎、また遊び歩いてやがるのかね。良いご身分で……まぁ、電報打ったら現れるだろうさ。仕事だからね」
そうは言われても、三月は気が進まない。
「……嫌ですよ。それなら、編集長が行けばいいじゃないですか。大体、なんでオレが……」
「お前、なんだかんだ二階堂のお気に入りじゃないか」
不思議そうに言う上司に向かって、三月はふると首を振った。
「……飽きたんじゃないですか? だから来てないんですよ、きっと」
そう言って窓の縁に頬杖を突く。そういえば、大和に借りたままの羽織をまだ返していない。
そんな三月の肩を、上司がぽんと叩いた。
「減るもんでもないし、ちょっと遊ばれておけば良かったろうに。満更でもなさそうじゃないかい」
「何てこと言うんですか……! ったく、他人事だと思って……」
へらへらとした顔でよくも言ってくれる。三月は思わず拳を握って……引っ込めた。
あのような嵌まったらやばそうな相手に遊ばれるなんて、まっぴら御免だ。ありとあらゆる女がふらふらと寄り付くのもわかる――わかってしまう。飄々としているかと思いきや、時折やけに情熱的で、その熱に目を奪われている間に真剣な顔をした大和は何処かへと隠されてしまう。
「そいつ」に会いたいと思う気持ちが止められない。
(止められなくもなる、だろうなって)
かと言って、三月はまだその段階にいない。シャツの上からぎゅうっと胸を押さえる。
いるつもりはない。
(……この間、助けてくれた時、ちょっと寂しそうだった)
そう思っているはずなのに、少しだけ、ほんの少しだけ、大和を慰めてやりたいと思った。
(オレは一体、何を甘ったるいことを……)
新聞連載小説の下読みをしたせいだろうか。無意識の内に流れていた頭の中の独白に、三月はかあっと顔を赤くする。
「俺には他人事も他人事だよ。お前さんがね、他人事に入れ込みすぎるンだよ」
「そうですか……?」
「そうそう。自覚がないなら持った方が良い。二階堂に入れ込んでるのがその証拠だ」
ぽーんと背中をもう一度叩かれた。三月は窓から飛び出しそうになって、慌てて柵にしがみつく。
「ったくもー! 危ねぇなー!」
「悪い悪い。お前、お顔がお花畑になってるからさ」
「お花……って、そんなことないですよ!」
いつ落とされるかわからない窓から離れ、三月はむーっと頬を膨らませた。いつ、誰が、お花畑になってると言うんだか。
「そんなに大和サンが恋しけりゃ、自分で電報打ちなってな」
「ん……?」
背中に何かが貼り付いているのに勘付いて、三月は無理矢理、手を背中に回す。なんとかつまみ取ったメモには住所の記載があった。
「……いや、恋しくねぇし」
もう一度窓からちらりと外を見下ろす。何度見ても、やはり大和の姿はないのである。
「……あーもう!」
三月はがりがりと頭を掻いて、それから「わかりましたよ!」と、上司に体当たりをした。
三月渾身の体当たりで腰をいわせたと嘆く上司のことを思い出しながら、三月は住所の書かれたメモをポケットに突っ込んだ。新聞社の電話から電報の手配はしたが、所詮は呼び出しの伺いを立てる事務的な電報であった。
顔を顰めた上司に「恋煩いの八つ当たりもいい加減にしないか」と叱られたが、とんでもない。人のことを散々からかったのだから、多少は痛い目を見るべき……と思いつつ、一応は三月の上司なので、詫びとして茶菓子くらいは用意してやろうと往来を歩いているところである。
「ったく、恋愛小説の連載中だからって、編集長まで呑気なこと言いやがって……誰が恋煩いだっつーの!」
――恋なんてするかバーカ。どうせ三月が恋をするなら、受付の彼女のように、優しくて柔らかそうな女子が良い。
その一方で、「三月くんは愛らしくて良い人ね」と済まされた学生時代の諸々の経験を思い返し、思わずくしゃっと帽子を丸めた。
(どうせ、オレなんて男として見られないっつーの!)
その結果が、今のこの状況なのかもしれない。
不意に、大和と出会った時に言われた「お顔が可愛いから」という言葉を思い出す。顔が女顔だから、だから気に入っているんだろう。ずっとそう思っていた。馬鹿にしやがってと憤っていたはずなのにだ。
「……オレもちょろいのかもしれないけどさぁ……」
あんな男前から、唇に、頬に、熱っぽく触れられたら、意識するなという方が難しい。手の中で開いた帽子を深く被り直し、溜息を吐く。
「大和さんが元気になったら、これまでの鬱憤全部纏めてぶっ飛ばそう……」
そう呟いて、はたと足を止めた。
どら焼きでも買いに行こうか、それとも実家の菓子屋でカステラかワッフルかを買っても良いかもしれないと思っていた最中、ふと、三月はぐにゃりと首を傾げた。
「大和さん、病気がどうとか言ってたのって」
――恋の病、なんてことはあるまいか。
三月は「まさかなぁ」と笑って足を進める。
脈がどうとか言って絡まってきた掌の温度を思い出す。自分の手首を見詰めて、三月は「は」と笑った。
「手練れ、だろ……?」
そんな奴が、他人の事で思い悩むもんか――そうして苦笑していた時のことであった。
突然、背後からぐいと鞄の紐を引かれる。三月は驚いて即座に振り返った。そこに立っていたのは、今し方三月の頭を悩ませていた男、二階堂大和本人だった。
「大和さん……?」
数日ぶりに見た顔に、三月は思わず頬を上げて笑う。
――あれ、なんでだ。そんなわけないだろ、なんでオレ、嬉しいんだろう。
「どうしたんだよ。久し振り。新しい女でも見つけ……っ」
三月が自分の気持ちを誤魔化そうと、わざと明るい調子で声を掛けた。すると、大和はそんな三月のことはお構いなしに、鞄の紐を強く引いた。
「え、わ、わわっ!」
そのまま、鞄の紐を引っ張られ、路地裏に引き摺り込まれる。
三月は大和に引かれるまま、せめて転ばぬようにしゃかりきに足を動かして大和の後を追うが、それでもだ。「何すんだ」と声を上げた。
「なっ……! あ、危ねぇだろおっさん! なぁ、ちょっと聞いてる?」
ずんずんと進んでいく大和が、不意に足を止めた。三月は「わ」と声を上げて、大和にぶつかった。
「ったー……もう、何……」
大和から離れようと身を引いた三月を、大和がぎゅうっと抱き締める。意図せず引き戻され、目の前に星が飛んだ。大和との身長差が幾分もあるものだから、相手の羽織姿にすっぽりと包まれてしまった三月は、ただ訳もわからず体をくねらせた。
「ちょ、ちょっと……! オイ、何すんだよ……!」
誰もいない深い路地裏、焦りからつい声を凄ませる。
けれど、大和に怯む様子はない。すりりと三月の髪に頭を擦り付けてくる。その仕草がまるで大きな犬のようで、三月は唖然としてしまった。
呆けている内に、被っていた帽子がぱたりと地面に落ちる。その帽子を振り返ろうとすると、大和の吐息が耳元を掠めた。ぞくりとした。
「な、なぁ……」
この大きな犬は、昼間から銭湯にでも行っていたのだろうか。少し湿っている大和の髪や体温に、三月の意識がくらりと揺れた。襟巻きで隠れている肌から、上等な石鹸の香りが上る――ぬくい。そのぬくさで、胸が圧迫されるようだった。
「大和さん……ってば」
こんな目に遭ったら、意識するなと言う方が難しい。だから、三月には苦しくて、押し返すこともできないでいる。どうしていいかわからない。心臓が、ばくばくと脈を打つ。そのあまりの苦しさに、三月はきつく目を閉じた。
このままで良いわけがない。
「……どうしたんだよ」
だから言葉を発する。
「誰かに振られた? ああ、早速痴情のもつれってやつか?」
わざとらしい軽口を叩いてみる。ぴくりと大和が体を震わせた。
「それにしたって、オレに泣き付いてこなくたっていいじゃん。ほら、あんただったら何処のお嬢さんだって……花街に馴染みの姐さんだっているんだろ……」
――そうだよ、だってこの色男だぜ? そんな言葉が、頭の中に浮かんできた。三月は強かに唇を噛んで、それから続ける。
「ああ、そうそう! 上司から頼まれて、あんたに仕事を依頼したいってさ、さっき電報打ったんだけど……まさか会えるなんて思ってなかったからさ。ちょっと予定を合わせたいんだけど、いいかな? なん、て」
抱き締められていることを考えなくて済むように、ただ思い付く限りくるくると口を回す。目眩がしそうだというのに、よくもここまではきはきと言葉が出てくるもんだと自分でも感心した。けれど、噛んだ唇だけはじんと痛む。
その内、大和が三月を抱く手をすっと緩めてきた。
「……ミツはさ」
「……何?」
だから、三月も軽快に回る口を止める。
正面に迎えた大和の表情が、やけに切なかった。その切ない表情が言う。
「俺のこと、何とも思ってないの?」
は? と漏れた言葉ごと、大和が三月の唇を啄むようにして塞いだ。
離されて、そのすぐ間近で眉を切なそうに寄せた大和が「こんなことされても……?」と呟いた。
かっと、三月の中に怒りにも似た感情が立ち上る。それが、首元から頭から熱を持たせた。
「そ、れは……あんたの方だろ……!」
掴み掛かろうとした手を絡め取られ、そのまま引っ張り上げられた。怒鳴りつけようとした口にまた口をぶつけられる。
――卑怯だ。文句を吐き出そうとした舌はすぐに捉えられて、唾液ごと吸い上げられた。
小癪な舌を噛んでやろうかと思いはしたものの、舌を噛んで人が死んだ事例が頭を過ぎり、三月はきゅっと眉を顰める。
「ん、ふ……うう……」
大和のしつこい愛撫に、三月は段々と頭がぼうっとしてくる。酸欠だ。ただでさえ、ただでさえ心の臓が早鐘を打って、体のどこかでは血が溢れてるんじゃないかと思うのに、酸素まで奪われては三月に為す術などなく、そのまま大和の好きにされているのがもどかしい。
離してほしくて、大和の頬に手を当てた。まるで縋り付くような様になってしまった三月のそれを受けて、大和がようやく三月を解放する。
息を吸い込もうとするのに、胸がばくばくとしてうまくいかない。
はっはと呼吸を乱す三月を見やって、大和が三月のつむじにもうひとつ接吻を落とした。
「ふ、ざけんな……バッカ、じゃ、ねーの……!」
息を懸命に吸いながら言う三月の髪を、大和の指先が撫でる。
「……バカになったのかも」
そのまま緩く抱き締められ、宥めるように体を揺すられる。それがあまりに情けなくて、三月の目尻からぽろんと涙が零れた。
「オレは、女じゃ、ない……こういうの、もう、いやだ……」
「知ってる。お前さんが嫌がってるのも、わかってる……」
「じゃあ、やめろよもう……! やめてよ、大和さん……!」
こんな色男、放っておかれるわけがないのに。
弄ばれてる内に、勘違いをしてしまう。この男は、そういう力を持っている。
根が優しいのは知ってる。きっと、男でも女でも勘違いをする。この人にとって、自分は価値あるものなのだとそう思わせる気質がある。
何とも思っていないわけがない――この人に、自分を好きでいて欲しいと望んでしまう。
涙が止まらない。
そんな三月の泣き顔を覗き込んで、大和が小さく呟いた。
「だって、ミツに男として意識して欲しくて」
え、と思う。三月は涙を無理矢理拭って、大和の顔を見た。
「やめられなくなっちゃった」
ごめんね、と、静かにそう言った大和に、三月は目を丸くした。
――意識など、最初からしている。意識するなという方が難しい。
路地裏の影と涙のせいで、はっきりとは見えない。けれど、大和はいやに切なそうに眉を潜めて笑っていた。どきりとする。
「し、してるよ……だからやめろって……」
「本当に?」
「でも、あんたのものにはならないって、言ったじゃん……」
「聞いたけどさ」
でも、それでも触りたいんだもんと小さく呟いた大和が、三月の耳の縁を噛んだ。びくと体を震わせる。喉の奥でくっと笑って「可愛い」と囁く大和を押しやろうとするのに、まるで金縛りみたいに体が動かなかった。
「俺、ミツに触りたいんだ」
「オレは、やだよ……」
言葉がうまく出てこない。それでも言う。
「だって、だってさ、あんた、絶対女の方がいいって思うよ」
「俺はミツがいい」
痛いくらい喧しく鳴っていた心臓の音が、急に遠くなった。
三月の目の前に跪いた大和が、三月の両の手を握る。そうして、ひどく真剣な表情で言った。
「三月さんを、お慕いしています」
月に叢雲と金平糖 ◆ 九
百と千に唆されはしたが、けれど彼らの言う通りに間違いはなく、大和は確かに三月惹かれている。本気を見せたいとも思う。それにしたって、今三月の顔を見たらどんな反応をしてしまうか、自分でもわかったものではなかった。
何かを考え耽っていると、つい足下を眺めがちになるものだ。下がってくる眼鏡を中指で押し上げ、大和は溜息を吐いた。
「グッドモーニング、ヤマト。朝食ですか?」
朝の比較的早い内に喫茶店を訪れた。そこには、いつもと変わらずナギがいた。普段通り優雅に違いはないが、少しだけ眠そうではある。
「お前さん、本当にいつもここにいるのな……」
「ここはワタシの第二の家のようなものです。ヤマトの方こそ、この時間に来てもミツキはいませんよ」
「知ってるよ」
だからこそ来たのだ。そこまで言わずに、カウンター席に座った。ナギが不思議そうに首を傾げる。
「ミツキに会いにきたのではないのです?」
「そう。今日はお前さんに会いにきたんだよ、ナギ」
「ワタシに?」
ナギがぱちぱちと瞬きをする。長い金糸の睫毛が、尚更目に付く。その向こうの美しい青い瞳は真っ直ぐに大和を見ていた。思わず、大和は目を細める。
不思議そうな顔をするナギの態度は尤もである。けれど、筋を通すためには、何故かナギに伝えておかなければならない、そんな気がしたのだ。
大和は店主に珈琲を頼むと、はっと息を吐いた。
「……引けないところまでいっちまった」
「何を……?」
大和の言葉にきょとんとしていたナギが、はっと口を結ぶ。やけに神妙な顔をした後、ゆっくりと目を閉じて、それからいつもの通り人好きのする顔で笑った。
大和はカウンターに頬杖を突いて、それを振り返る。
「泣かせるつもりはないよ。けど、泣かしちまうかもしれない。だから、先に言っておこうと思ってさ」
「……今度は本気なのですか?」
声色を変えずに尋ねてくるナギに、大和は目を伏せ、頷いて見せる。
「本気も本気。マジってやつ。笑っちゃうよな」
「当たって砕けようと言う武士道精神を笑うようなことは致しませんよ」
「……ちょっと待って。お兄さん、砕けちゃうのかよ……」
店主から珈琲を出されていることに気付いたナギが、大和に向かってそっと手で示す。幾分か遅れてから、大和もカップを持ち上げた。
「たとえヤマトが砕け散っても、ミツキとヤマトがワタシの友人であることに変わりはありません」
ナギの言葉に、思わず笑みが漏れた。珈琲を口に運ぶ。今度は、この渋みに触れても自棄を起こすことなどなさそうだ。――嗚呼、美味い。
「いつの間に友人になったんだか」
「珈琲を嗜みながらこんな風に話せるのですから、ワタシとヤマトの間に他に特別な資格が必要ですか?」
首を振る。
「ありがとう、ナギ」
「骨は拾って差し上げますよ」
それにはありがとうとは言わなかった。
ただ、手土産の金平糖の袋をカウンターに置く。それを見て、ナギがくしゃりと笑った。その表情は、まるで子供のような、天使のような愛らしいものだった。
(背中を押してくれんのは有り難いけど、なんでどいつもこいつも俺が振られる前提……?)
確かに、幾許かの武士道精神を見せなければならないような相手である気もしてくる。可愛い顔をして男前な一人の男に、大和はどれだけの誠意を見せなければならないんだろうか。
「問題はそこなんだよなぁ……」
些か心許ない自分の誠意について考えていると、どうしてか頭が痛くなるような気がした。
それ故、気分転換にでもと銭湯に寄って、昼過ぎに家路についていた時のことである。普段通りの鞄を提げた愛らしい背中を見掛けたのは。
一度見つけてしまうと、まるで歯止めが利かなかった。
歯止めのない勢いのそのままに三月の体を捕まえ、口吸いまでなら許されるものと弄くり回した結果、結局また泣かせてしまったらしい。
それでも回り始めた気持ちはもう止まらない。
――その結果が、この演劇のような台詞である。
「三月さんを、お慕いしています」
自分でも驚くくらいの真摯な言葉に、途端に気恥ずかしくなる。
大和は慌てて立ち上がり、袴の膝を手で払った。
「……って、いう感じ、なんだけど……」
目の前の三月の顔が見られなくて、そっぽを向く。殴られる覚悟はできていたが、それでも表情を見るのが怖くて、大和は目を伏せた。何と滑稽な姿だろうかと自分で思う。
その内、三月が溜息を吐いたのが聞こえた。随分と長いそれに、大和は「やってしまった」と頭を抱えたくなった。
「……あのさ」
「なに」
「舞台の上の、役者みたいだった」
「……何が」
「今のあんたが」
ぎくりとする。大和は恐る恐る三月の顔を見る。
複雑な表情をしているが、どうやら怒ってはいないようだった。
「でも、正直さ、すげぇどきどきしたよ。すごいな、大和さんって。きっと、あんたの周りの女の子って、みんなこういう気持ちになるんだろうな」
「ミツ……」
暫くの間、女とそういう遣り取りはしていない。けれど、きっと三月はまだ、大勢の相手の内の一人が自分であるとそう認識しているのだろう。大和の自業自得とは言え、拭いきれない焦燥に駆られる。
「違うよ、ミツ……俺、本気でお前さんのこと……」
どうにか、伝えなければならない。真剣に想って慕っていることを。けれど、喉が渇くばかりでうまく言葉にならなかった。
そんな中、三月の方が「なあ」と声を上げる。
「本当に、女と会ってないの?」
「……信じてくれんの?」
「ナギにもそう言ってたんだろ? 俺が鎌倉行ってた間に、そういう話したって聞いたよ」
確かに、ナギには三月と知り合ってからそういうことはしていないと伝えた。その後、本当に「できなくなってしまった」ことまでは言っていないが……。
滲む罪悪感に、思わず眉間を押さえながら返事をする。
「……そうだけど」
「じゃあ、さ」
三月が思案するように目を伏せた。暫くして顔を上げた三月の瞳が、爛と光る。
「ウチは社員寮だから、変な噂が立つと後で面倒なんだ。大和さんなら、都合の良い場所あるだろ。そこで会おうよ」
「え……?」
突然の三月の申し出に、大和の口から間の抜けた声が漏れた。
路地裏にぽつんと落ちたその間抜けな声を、三月が笑って拾い上げる。
「……あんたに一回くらい遊ばれてみるのも、悪くないかもしれないかなって」
呆然とした。まるで、魂が口から抜けてしまったような気がした。一瞬で浮かれ上がった自分にはっとする。
浮かれるには早い。冷静になれよ、と、大和は眼鏡を多少強めに上げる。
「遊びなんて思ってない。本気だよ!」
「……なら尚更、どうすんの。会うの? 会わないの?」
動揺も照れの色もない。ただ真っ直ぐな三月の目に、大和は怖じ気付きそうになりながらも、それでも逃げないように踏み止まる。
遊びにするつもりなどはなく、だからこそ、大和は三月に自身のアパートメントの部屋を教える決意をしたのだった。
部屋に戻ってみると、お早いことに新聞社からの電報が届けられていた。三月が言っていたのはこれのことか、と思う。
早速翌日、三月の上司の呼び出しに応じるために新聞社へと出向いた。そこで、窓から自分を見下ろしてくる三月と目が合った。
胸が鳴る。けれど、大和は何でもない顔をして、ぺこりと軽く会釈をした。窓から覗いている小さな顔は、ふふんと笑っている――なんだその勝ち気な顔、可愛いな。
「いつの間にそんなに仲が良くなったんだい」
三月の上司に言われ、大和はつい「いつの間にですかね」と返事をした。
「和泉が窓際でニヤニヤしてたもんだからよ。あいつ、二階堂がいてもいなくてもね、見てんだよ。そこから」
「……なんだかなぁ、あのちびっ子は」
リバーレと親しい大和から相手方に取材を持ち掛けてはくれないかという依頼に簡単にサインを済ませ、仲介の前金を頂戴する。
それを元手に百と千に承諾を取る手順の大凡を考え、それから大和は今日訪れた本題も本題に取り掛かった。
「編集長サン、次のミツの休みっていつです?」
そう尋ねると、三月の上司はぽかと口を開けた。煙草がふらりと揺れる。
「なんだい急に。あいつは……次の日曜が休みだったかな」
「どうも。何、ちょっとそろそろ本腰入れて口説こうかと思ってね」
それを冗談と受け取ったか本気と受け取ったかどうかは知れないが、上司は笑って煙草を銜え直した。
「ははあ、まぁほどほどにしてやってくれよ。あれが二階堂坊ちゃんみたいな遊びを覚えたら敵わんからね……」
うちの大事な若手なんだから……と煙草をぷかりとやりつつ言う男に、大和は「ははは」と笑い声を上げる。
「心配頂かなくても、ミツには女遊びなんざ覚えさせませんよ。覚えさせてたまるかっつーの」
「おやおや」
何処まで知っているんだか、何処までわかっているんだか、呆れたような顔をした三月の上司に、大和はへらと笑って頭を下げる。
「まぁまぁ、リバーレの兄さん方と接触取れ次第、またご連絡しますよ。近頃忙しいようだから、すぐにとはお約束できないですけどね」
「ええ、よろしく」
話合いも程々に、大和は新聞社の受付で油を売っていた三月の襟首を背後から捕まえた。もしかしたら、仕事中の大和から逃げていたんじゃないかなんて不安が頭を掠めたが、それでも三月は素直に振り返ってくれた。
「急に何すんだよ! オレは猫かなんかか?」
「似たようなもんでしょうが」
「んなことねーだろ!」
そんな二人の遣り取りを、受付の娘が笑って見ている。ひらひらと手を振って、三月を受付から引き剥がした。他の誰にも聞こえないように、耳打ちをする。
「土曜の夕方、迎えに来る」
「ああ、早速? つーか、オレの休みに合わせてくれてる?」
「お前さんの上司殿に聞いたら、あっさり教えてくれたからさ」
「あっそ」
慌てる様子もなく、照れる様子もない。ずっと何処か淡々としている三月の態度に大和は違和感を覚え、けれど、口には出せないでいた。
「で? オレは何を準備しておけばいいの?」
「ここで待っててくれればそれで良いよ。ミツの寮で待ち合わせても良いけどさ」
つい漏らした言葉に、三月がむっと訝かしむ。
「ウチの寮まで知ってんのかよ……」
「まぁね……」
「情報屋って、おっかないなぁ」
――なぁ、本当にいいのかよ。そんな言葉が、大和の胸を過ぎる。けれど、言ってしまったらこの約束が有耶無耶になってしまうような、なくなってしまうような不安が勝った。
なんて脆い関係だろう。それを取り消したくないその一心で、大和は黙っている。
(卑怯者)
ミツには何も知らせない卑怯者。俺は勝手にこいつのことを知った気になっているというのに。
「……どうしたの?」
ずい、と顔を覗き込んでくる三月に、大和は驚いて体を引いた。まんまるの団栗目があまりにも純粋に見えて、まるで、いい加減で卑怯な自分を責めているように思えた。
「なぁ、あんた、今更怖じ気付いてないよな?」
逆に三月からそんな風に言われてしまい、大和は思わず眉を顰める。
「ミツ相手に怖じ気付くかよ」
そう返すと、へへへと子供っぽく笑われた。可愛い。可愛いが、その可愛い表情に対して、罪悪感も躙り寄ってくる。
「だよな。安心した。いくじなしなんて言わせんなよ。こっちは真剣なんだからさ」
――俺だって真剣だよ。真剣のはず、だよ。
三月の言葉に、これまでの自分の所業を振り返る。そういう風に揶揄されても仕方のないことをしてきている。結局のところ、一人に固執する感覚を大和本人でさえ測りかねていた。
「それじゃ、土曜日に」
「ああ」
特に何でもない挨拶を交わして、それから新聞社を出る。
いくじなしなんて、本当のことだ。胸が騒ぐ。――どうしよう、マジかよ。本気で、ミツが自分の部屋に来てしまう。
(本当に、本当に良いのかよ……)
頭に浮かんだあまりにも情けない言葉に、大和は長く重い溜息を吐いた。
「まさか、大和さんと待ち合わせすることになるなんてな」
土曜の夕方、そう言って笑った三月が大和を迎えた。
昼から待ち構えていてやっても良かったのだが、幾ら何でも気が早い。大和はそんな自身の落ち着きのなさに嫌気がさして、銭湯に行ってきたところだった。
三月が、大和の目の前ですんと鼻を鳴らす。
「もしかして銭湯行ってた? オレも昨晩は寮の風呂浴びたけど……寸前に体洗った方が良い?」
「……いいよ、そのままで」
大和は三月の耳元に顔を近付けて、触れそうな距離で鼻を鳴らす。日の匂いと、新聞独特の印刷物の匂いが仄かに香る。
「臭くねぇ?」
「……おひさまの匂いがするけど」
「何それ、なんかガキっぽくないか……?」
「心配しなくても、お前さんガキだからね」
そう返事すると、ブーツの足先を踏み付けられた。
「いって……!」
「そのガキ口説こうとしたの、どこのどいつだよ!」
そう言われては大和に言い返せる言葉などなく、口を真一文字に結んで黙るしか無かった。やれやれと手元の番傘を揺らす。柄に結んでいた守り巾着もふらんと揺れた。
「あ、本当に付けてくれてたんだ」
「……ミツから貰ったから」
守り巾着を指先で遊ぶ三月から視線を僅かに逸らし、頬を掻く。素直に聞き入れたのが、ほんの少し照れくさかった。
「あんたって、意外と素直だよな」
「意外とは余計だよ……」
不貞腐れたみたいに呟く大和に、三月がにかっと笑って見せる。
「いじけんなって」
「いじけてない……」
いじけてはいないが気まずくなって、さっと背中を翻す。
日が暮れる前に、部屋が暗くなりきる前に、さっさとアパートメントに戻りたかった。どうせなら、三月の上から下までをじっくりと眺めてやりたい助平心もある。
(ちゃんと男なんだろうな)
夢の中で触れたときの昂りを忘れはしないが、現実ではどうか知れない。大和とて、男とするのは初めてなのだから。実際のところ、自分がどう反応するものか、全く予想が付かなかった。
(……勃つのかな、俺……)
大和の後から黙ってついてくる三月を振り返る。きょとんと首を傾げた仕草があまりにも愛らしい。静かに息を吐いた。
勃ちませんでした。それで済ませるわけにはいかない。多分、三月だって生半可な気持ちではないだろう。
(真面目な奴だもんな……)
裏切るようなことはしたくない。杞憂であってくれと願わずにはいられなかった。
赤い日が差し込むアパートメントの一室。敷きっぱなしだった布団の上に、三月の小柄な体を放る。
「へ……?」
たった今放られた三月が、ぽかんと大和を見上げてきた。
多少乱暴で性急過ぎるかとは思ったが、それでも気が削がれる前にと思わずにはいられない。布団に転がした三月に乗り上がりながら、さっさと襟巻きを緩める。
「ちょ、待った! 話っ、話があ、る……うっ」
布団に縫い止めるために、そのまま荒く口で口を塞ぐ。制止を訴える三月の声がお互いの口の中でくぐもった。
「ま、って、や、まとさ……っ」
何度も角度を変えて触れている内に、三月が段々と静かになっていく。触れ合わせては離す唇の音と、短く漏れる三月の高い声が大和の鼓膜を擽った。
気の済むまで柔らかい桜色を吸って、そのまま首筋に舌を這わせる。ほんのりと汗をかいているのか、塩辛い味がする。
「な、あ……や、まとさん……?」
変わらず短く喘ぎながら、三月が小さく名前を呼んだ。顔を上げて、手の甲で口元を拭う。
「何」
見下ろせば、夕日の朱のせいもあるのか、顔を真っ赤に染めた三月が、ぼんやりとした様子で大和を見上げていた。潤んでいる瞳が愛らしくて堪らない。吸い上げた首筋には、小さな花が滲んで咲いていた。
「……眼鏡、ぶつかる……邪魔だろ」
言われて、大和は思わず眼鏡の弦を握った。
「……外したくない?」
「や、外す、けど……」
三月が下からそっと手を伸ばし、大和の眼鏡を抜き取る。ぼやける三月の表情を惜しく思いながら、眼鏡を持っているその手を見下ろした。
「……男前だなぁ」
「あんまり、見られたくない」
大和は、ふいと顔を逸らす。
三月が体を起こして眼鏡をひとしきり眺めた後、丁寧に畳んでそっと卓の上に置いた。
「大丈夫だから、顔、よく見せて」
三月の手が大和の頭を撫でて、そのまま頬の上を滑る。引き寄せられるままに三月の方を向くと、三月がゆるりと目を細めた。
「心配しなくても、今更あんたが何者かとか、誰に似てるとか、気にしないよ」
とくんと、大和の中で心臓が音を立てる。
「それに、あんたが途中で手を止めても気にしないつもり。ほら、オレってさ、顔は女顔だけど、体は結構がっしりしてんだぜ? だから、大和さんが幻滅したって仕方ないし……あんたも、思ってたのと違うーって怒るなよ?」
「お、怒らねぇよ……! 怒るわけないだろ!」
慌ててそう返すと、三月がにこりと笑った。そのまま大和の首に腕を回して抱き寄せて、お互いの隙間を埋める。
「あのさ……暫くは、他の女のこと抱かないで欲しい」
とんとんと宥められるように背中を叩かれる。何を言い出すのかと思いながら、大和は眉を寄せて目を閉じた。返事をする。
「……だから、そういうことしてないよ……」
「他に一番がいても、オレにはわからないようにして」
「わからないようにして……って……」
またそんなことを言う。
まるで、頭に釘が突き刺さったようだった。釘から痺れ薬が回って体から力が抜けるような、そんな錯覚に襲われる。金縛りにでも遭っている最中かのように思えた。
――わからなければ、それでもいいのかよ。そういう気持ちでお前さんは俺に抱かれに来たのかよ。そんな言葉が、喉元まで迫り上がってくる。
「なーんて、な!」
ムシャクシャとする気持ちを抱えたまま大和が黙っていると、三月が突然、大和の背中をぱんっと叩いた。
「は……?」
「そういう面倒なこと、言うつもりないよ、オレ」
密着していた体を離して、大和は三月の顔をじっと見る。三月の本心がどこにあるのかわからなくなり、そうすることしかできなかった。
「大和さん、面倒なの好きじゃないだろ?」
「……そう思う?」
「オレも正直、女々しいこと言いたくない。自分が情けなくなる」
そんなことを言う三月に、大和は思わず、たはぁと顔を覆った。
もっと、もっと強請ってくれてもいいのに。縛り付けてくれたっていいのに。特に、今この瞬間くらいさぁ……そう思う頭を横に振って、それから三月のことを改めて見据える。
大和の胸の内など知らないだろう三月が、ニッと笑った。
「……女々しいことは言いたくないんだけど、一つだけ本気のお願いがあってさ」
「何」
これ以上、何を言われるんだろう。何を望まれないのだろう。
不意に逸らしてしまった視線を戻す。すると、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ三月が切なそうに眉を寄せた。
「オレに飽きたら、すぐ振ってよ」
目を見張る。三月の柔らかい前髪が揺れた。その向こうの視線が大和から離れ、布団の皺の方へと落ちていく。
「じゃないとオレ、あんたにとって良いもんだって、良い存在なんだって、勘違いしたままになっちまうから」
そう呟いた三月に、頭痛がする。三月の方を向いていられず、大和は思わず頭を抱えて敷き布団に倒れ込んだ。
「何、どうしたの大和さん」
「どうしたの、じゃ、ねぇよ……マジで……」
大和は顔を伏せたまま三月の腰を抱いて縋り付く。言葉にならない呻き声と、堪えきれない溜息が漏れた。
「お前さんは、俺がどんだけミツのことで悩んだか、全っ然わかってない……」
「は? おっさん、悩んだの? なんで?」
「ほら、そういうこと言うし……」
三月のズボンに顔を擦り付けた。駄々を捏ねたくて仕方ない気分だった。
「えー……だってよー、最初っからあんた……その、口、してくるし……」
「それは、意識してなかったから。全然、まったく……ただ、顔が可愛いと思ってたから……」
「最悪だな、あんた……可愛いけりゃなんでも良いのかよ……」
素っ気なく言われ、余計なことを言ったと口を結ぶ。いや、それにしたって、今不愉快なのは大和の方だ。
「俺が女たらしで、ミツと恋人になっても浮気するかもって、そう思ってたの? そういう奴だと思ってんのに……なんでミツはのこのこ来たの……」
聞きたくも無いが、それでも聞かずにはいられなかった。大和は三月の方を見ないままで問う。三月の方こそ、本当に遊びのつもりだったのだろうか。
そんな不安に苛まれていると、三月がわしわしと大和の頭を撫でた。
「なんでって、なんでかな……胸も無いし、硬いし、外見だって綺麗でもないし。そんなオレに大和さんを引き留められるなんてさ、端から思わないのは本当だけど……」
そう続けながら、三月もゆっくりと布団に横になる。
顔を伏せたままでいると、三月に耳を引っ張られた。仕方なく、三月の方へと顔を向ける。
思っていたよりすぐ近く、目の前で三月が笑っていた。
「それでもいいから、この人になら一回くらい抱かれてもいいかもって思った……って言ったら、どうする?」
触れそうな距離で、瞬きを忘れた。
日はいつの間にか沈み込み、入り込んでいた夕日の欠片もなくなって、けれど、三月の穏やかな表情がきらりと輝いたように見えた。
「……うそ」
「ここで嘘ついてどうすんだよ。あんたと寝て、あんたの秘密でも売り飛ばす? 売れるようなネタなの? 実際のところ、数ある噂話の中のどれがあんたの隠したいことかは知らないけどさ」
穏やかな表情のまま視線を巡らせる三月の、その瞬きを見詰めている。三月が敷き布団に頭を擦り寄せて、「大和さんの匂いがする」と呟いた。
夢か現か判別が付かない。空気中に舞う埃が白く光る。
「俺でいいの……? 嫌いじゃ、ないの……?」
「何言ってんだよ。今更嫌いなわけないだろ。まぁ、最低な男だとは思うけど……思うけどさ。ずるいよ、大和さん。あんたのこと、オレも好きになっちゃったんだもん」
頭に体中の血が集まった気がした。かあっと熱くなっている顔を隠すために、大和は寝返りを打って三月に背中を向ける。
「おい、逃げんなよおっさん」
そんな大和の背中を、三月の膝が蹴った。
「いったぁ……」
「夢じゃないだろ。良かったなぁ、痛みがあって」
他人事のように言われた。
大和は起き上がって、そうして改めて三月に覆い被さると、星月夜の中に浮かび上がるその輪郭を見下ろした。
「……夢じゃないんだ」
大和は自身の袴の紐を解く。触れないことに堪えきれず、袴を腰に下げたままで三月のシャツの釦に手を掛けた。兎に角急く気持ちを抑えながらひとつずつ釦を解いてやると、シャツの開けた合間から、程好く筋肉の乗った胸板が現れた。
自身の着物の合わせを緩めながら、今度は三月のズボンを剥がしていく。最中、自分の袴と下着を雑に畳の上へと放った。
いよいよ三月も大和が本気なことがわかったらしい。ふわりと笑みを浮かべていた三月の表情に、僅かな緊張が走った。
「……緊張する?」
「そりゃあ……初めてだから」
「俺も男は慣れてない」
そう言って三月の頬に唇を寄せた大和の胸を、三月が気持ち程度にとんと押す。
「……違う」
「何が?」
「違うの。オレ、初めてなの」
ぱしぱし、ぱし、瞬きを繰り返し、大和が首を傾げた。
「だから、初めてなんだって……口、合わすのも……その、体合わせるのもさ……」
恥ずかしそうに顔を背けながら言う三月に、大和の頭の中でチーンとお鈴の音が鳴る。動揺のあまり、既に外しているはずの眼鏡を上げる仕草をしてしまった。
「……う、ウソぉ?」
「ここで嘘ついてどうすんだよ! だっから、あんたのこと最低だって言ってんだろ! オレの初めてどうしてくれんだよ!」
悪ふざけで三月の初めてを奪ってしまった事実に、急な罪悪感が押し寄せてくる。しかし、逆に堪らない気持ちもある。
せめぎ合う罪悪感と興奮の合間で、大和はつい口元を手で覆った。笑ってしまいそうな泣いてしまいそうな、歪な心境である。しかし、泣きたいのは多分、目の前で顔を覆って呻いている三月の方だとも思う。
「……悪い」
せめぎ合い、悩んだ結果、大和はようやく算出された謝罪の言葉を口にした。けれど、その瞬間にすぱんと三月に引っ叩かれた。
「謝るくらいならすんな!」
それはご尤もである。では、謹んで何の言葉を返そうかと思案した後、口を突いて出たのは「ご馳走様でした」というひどく品の無い言葉であった。
勿論、もう一度叩かれた。
「ミツ、お兄さんの頭がバカになっちゃうだろ……」
「もう十分馬鹿だろ!」
「……それもそうかも」
そう頷いて、はだけている三月の胸に頭を委ね、頬ずりをした。鎖骨のくぼみに潤んだ舌を這わせて、そのまま胸の谷間をなぞる。
触れられることに慣れていないらしい三月が、ぴくりと震えて反応を返す。それを楽しみながら、空いている手の指先でシャツを捲り、そのまま手の平で胸を覆った。女の弾力とは違う。程好い筋肉を指先でやんわり揉んでやると、これがなかなか反応が良い。胸の中心を摘まんで潰すように捏ねてやる。むずがるように体をくねらせる三月に、つい笑った。
頭の上では、三月が自分の口を手で覆っている。
「……苦しいでしょ。声、出せば?」
そう言って、手で捏ねている方と逆の胸の乳首に吸い付いた。
「あっ……」
乳首の先を舌で押し、舐め上げてから顔を離すと、信じられないというような表情をした三月が大和の方を見ていた。大きな瞳が零れ落ちそうなほどに目を見開いている。
「あはは、かわいい……」
小さな胸を撫でて弄るだけでびくびくと震える体をいなしてやりながら、もう一方の手で三月の下着を脱がす。その中でささやかな主張を始めていた三月の物を柔く握ると、三月が慌てて体を起こした。
「ちょ、ま、待って、そんなとこ……!」
「大丈夫だから、触らせて」
余裕などまるでない。それは大和も同じで、自分の張り詰めている欲を見やって奥歯を噛み締める。
(もうちょっと待ってろっての……)
初めてと聞いて昂ぶらないわけがないが、それにしてもだ。尚更段階を踏まねばならない。それだけの理性はある。
「大和さん、勃ってんの……?」
「ミツのもな」
月明かりだけが差し込む暗がりでもわかる。目の前の三月の顔が真っ赤だ。頬を合わせてみると、成程熱い。喉から笑いが溢れた。
「ミツのほっぺた、あっつい。かわいい」
「わ、笑うなよ……だって、こんな……」
頬をくっつけたまま、三月の物をゆっくりと扱いてやる。そのまま体重を掛けると、三月が再び布団に倒れ込んだ。手の動きは止めない。
「……ミーツ」
はくはくと呼吸を乱しながら、三月がうつろな目を大和の方へと向けてくる。扱いている手を止めてやると、三月の口からほうっと息が漏れた。
「あのな」
「う、ん」
「男同士って、ミツのここ、使うんだけど」
ぐっと三月の太腿を押し上げて、尻が見える状態に返す。すると、あまりの体勢に、三月がかっと目を見開いた。
大和はそのまま三月の尻の谷間に指を這わせて、くぼみを指の腹で撫でる。途端に、三月が体を硬くしたのがわかった。
「……ま、まじで?」
「マジで」
目の前にある表情が、ざっと音を立てて青ざめる、その様を見てしまった。
そりゃあそうだ。自分が突然尻の穴を使うと言われたって、青ざめてしまうと思う。
「……驚くよな。だからさ、ミツ」
「……い、いいよ! オレ、多分大丈夫! 体だって丈夫だし……!」
大和の苦笑も見て見ぬふりをして、三月が身を乗り出す。脚を上げているために、随分と間の抜けた体勢になった。その反動で、上体がすぐにぱたんと布団に倒れる。
「こーら、人の話を聞けって……」
「だ、だって!」
暴れている三月の足首を捕まえて、靴下を脱がす。脹ら脛を指先で撫でてやり、踵をゆっくりと布団の上に下ろしてやった。
「だってさ、オレがしても良いって言い出したんだぞ! それで出来ないなんて今更……っ、言えないし!」
「言っていいんだよ、ミツ」
そう言って、不安そうな顔をしている三月の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。
「言えよ。怖いんだろ?」
焦りからか脂汗を滲ませている三月の額に、ちゅっと接吻を落とす。大和の体の下で、三月が「うう……」と呻いた。
「それに、お兄さんさ、一回で済ませてやる気、ないから」
宥めるように慰めるように、三月の頭を胸に抱く。髪を梳いて、撫でてやる。
「一個ずつ、ゆっくりミツが欲しい。一気に手に入れるなんて勿体ないじゃん」
撫でている手に頭を擦り付けながら、三月がはぁと息を吐いた。仕草とは裏腹に、不貞腐れたみたいな声で言う。
「……全部、全部手に入っちゃったら、その先どうすんだよ……」
大和は笑いながら、そんな三月の頬をうりうりとつついた。
「どうしよっか? 愛想尽かされないように目一杯かわいがってやりたいから、すげぇ時間掛かりそう」
ようやく落ち着いたのか、三月がのそりと体を起こした。黙ったまま、ただ視線を向けてくる。その内、目を閉じて、唇をきゅっと突き出した。
多分、強請られてる。大和は、吸い寄せられるように唇を合わせてやる。わざと、ちゅ、と音を立てて離れた。
「なぁ、ミツも触ってよ」
「え?」
「俺の。俺も触るから、ミツも触って」
戸惑っている三月の手を絡め取って、自身の物を握らせる。大和も、少し力を失っていた三月の物をまた扱き始めた。
「え、わ、わかんねぇよ、オレ……っ」
「自分のするみたいにやればいいよ」
「そんなこと、言ったって……これさぁ……」
随分と我慢をしていた大和のそれが、三月の手に包まれて緩く握られている。あまりにぎこちない三月の手の動きに、つい笑ってしまいそうになった。
お互いの先走りでぬめる手を誘って、物同士を擦り付ける。
目の前にある三月の頬にそっと口付けた。すると、仄かに緊張が緩み、口元からふやけた声が漏れる。ぺろと舐めて宥めてやると、次第に三月が大和に寄り掛かってきた。かく、かく、と揺れている三月の腰を視界の端に捉えながら、大和はお互いの物を扱く手を速めていく。
「やまとさんの、おっきい……」
は、は、と呼吸を乱しながら、三月がそんな事を溢した。
蕩けている表情が愛らしくて、つい意地悪を言ってやりたくなる。大和はただでさえ近い顔を更に近付けて、声を潜めて囁いた。
「これが、ミツのナカ入っちゃうかも、な……?」
ぐちゃぐちゃと鳴る水音と、激しくなる衣擦れの音に紛れるお互いの呼吸を聞きながら、ただ擦り合いをしているだけなのにやけに興奮する。こんなことを夢にまで見て、本当に馬鹿みたいだと思うのに、それでも昂りを押さえられない。
「ミツ、気持ちいい?」
「ん、きもち……いい……大和さんは……?」
「きもちいいよ」
裏筋を軽く引っ掻いてやると、それまで蕩けていた三月の表情が色を変えた。
「そ、それ……やだ……っ」
三月の鈴口をぐりぐりと刺激しつつ、逃げようとする腰を引き寄せる。自分の物の裏筋と摺り合わせて、擦り上げる。その手を速めながら、大和は三月の耳たぶを噛んだ。
「やっ……あっ、あっ……!」
三月の物がびくびくと震えて吐精する。シャツの合間から反った胸が露わになった。
大和はたまらなくなって、びくびくと痙攣する三月の体を布団に倒す。そのまま馬乗りになると、三月の両の太腿を持ち上げた。
「え……?」
一瞬、三月が表情を引き攣らせた。怖いのだろうと思うが、それでも止められない。余裕がない。
大和は、三月の太腿の付け根に自身の物を挟んで、そのまま腰を前後に揺すり始める。男の筋肉が程好い弾力を持っていて、扱くには丁度良い。体液に塗れたお互いの肌が当たって、ぱちゅぱちゅと卑猥な音が鳴る。まるで、挿れているみたいだった。
「や、やまとさん……?」
脚の付け根から出入りする大和の物が、射精したばかりの三月の物と擦れていることに気付くと、三月は引っ切りなしに続く快感から逃れようと、布団を掻く。
「ま、って、待てって……! な、なにこれ……っ」
ぐいぐいと擦られ、再び三月の物が硬くなっていく。逃げられないように脚を抱えてひたすら腰を打ち付ける。――大和の方も限界が近い。
はだけている三月の胸が目の前に曝け出されて上下している。腰の動きが止められない。腕に絡んでいる自分の着物が邪魔で仕方ないが、脱ぎ捨てる余裕も今はなかった。
(ヤバい……止めらんねぇ……っ)
――このまま達したい。
やがて、擦り上げられていた三月の物がまたびくりと震えて、精を吐き出す。布団を掴んで射精感を逃そうと身を丸める三月が、がくがくと体を震わせている。
「ひっ……、う……くっ……ん」
口を手で押さえた三月が声を殺す。漏れた吐息さえ愛おしい。
「……かっわいい……」
つい、そんな言葉が漏れた。
三月の精液が自分の脚を汚して、更に大和の物をぬめらせる。大和も激しい射精感の高まりを覚え、ようやくそこで動きを止めた。
「っ……!」
精を吐き出した物が、三月の脚の間でびくびくと脈を打つ。
三月は、度重なった快感の波に呑まれたのか、覚束ない様子で天井を見ていた。
「ミツ、悪い……トんでない……?」
大和は、そんな三月の頬をぺちと叩いた。
暫くして「は……」と息を吸った三月が、首を横に振る。
「う……お、起きてる……」
三月がぱちぱちと瞬きしたのを見て、大和はほっと胸を撫で下ろした。
脚を開かせて自身を解放すると、三月の首元まで飛んだ精液を指先で拭った。思っていたより、ずっと汚してしまった。僅かに申し訳なさがある。
三月はと言えば、大和の布団の上でくったりと伸びたままでいた。続けて達したせいだろうか、気怠そうに体を伸ばす様がいやらしい。
「……ごめん。怖かったろ」
「驚いたけど、大丈夫……」
だらんと脚を投げ出して仰向けになっている三月を見下ろして、大和はその辺から手拭いを手繰り寄せる。それで自分の物を拭って、のっそりと立ち上がった。
「今、お湯沸かしてくるわ。体拭いてやるから待ってて」
「自分でできるよ……?」
よっこいせと体を起こそうとした三月の肩を、大和がとんと押して倒した。ぽかんとした三月の表情が、大和を見上げる。少し間が抜けていた。笑ってしまう。
大和は卓の上の眼鏡を掛け直して、そっと三月の額に唇を寄せた。
「ちょっとくらい、面倒見させてよ」
湯に浸けた手拭いで、三月の体に付着した精液を拭って落としてやる。
シャツも脱がせてからするべきだった。汚れている三月のワイシャツを眺めて、とりあえずは湯を張ったたらいに放った。
「汚しちまったから、俺のシャツ着て帰りな」
「着流しもまだ返してないのに……?」
「今度返してくれればいいから」
そう言えば、三月が「またそれかよ」とぼやいた。そんな三月の顔に、自分の寝間着の浴衣をぶつける。
「それ着ろ」
「……ありがと」
三月が着替えている間に、布団の敷き布を変えてしまう。てきぱきと一人でやってのける大和を見詰めながら、三月が何故かにやにやと笑った。
「なんだよ……」
「いや、慣れてるなぁと思って」
「別に、普通だろ」
自分自身も寝間着に着替えて、さっぱりとした布団に座る。
そうして三月を手招きする大和に、三月は少し大きい浴衣の袖を捲って四つん這いで近付いた。大和の浴衣では、三月にはどうしたって大きい。
十分に近付いたところで、三月がぱたんと倒れる。そのまま大和の膝を枕に寝転がった。
「硬くない?」
「硬いけど、くっつきたいじゃん?」
そう言って見上げてくる三月の髪を指で払って、大和はほっと息を吐く。
「ミツは終わった後にくっつきたい派かー」
「大和さんは違うの?」
「ミツだったらくっつくのも良いかも、派」
「なんだそりゃ……嫌なんじゃん。じゃあ離れよっか?」
頭を上げようとする三月の肩を押さえて、そのまま膝枕を続けてやる。三月が、するすると頭を擦り付けた。
「大和さん、今日は寝れそう?」
「え?」
「隈、まだあるからさ」
大和を見上げる三月が、自分の目の下をとんとんと指で叩く。大和は思わず、自分の頬を撫でた。
「今日は、寝れると思う……多分」
恋煩い、その言葉が頭を掠めた。もしかしたら、興奮で逆に寝れないかもしれない。そうは言わなかった。
三月が「良かった」と呟くと、ごろりと体勢を変える。
「なぁ、そういえばこの布団さ、敷きっぱなしだったけど……他の女と寝たまんまとか言わないよな?」
程好い昂揚と穏やかさの合間、充足感を噛み締めていた時だった。三月がそんなことを言うので、大和は思わず噎せた。
「あ、あのなぁ! まだそういうこと言う? 大体、ここになんて誰も上げねぇよ! 住んでる場所が割れると面倒だし……」
「冗談だよ、冗談……一応言われたこと信じてっから」
「ったく……」
大和は手近なところにあった団扇で自分を扇ぎ、動揺を飛ばす。十分に落ち着いてから、三月の方へと団扇の風を向けた。ふわふわと揺れる前髪が可愛い。
団扇の風に心地よさそうに瞼を閉じている三月の顔を見下ろしながら、ふと思い立った言葉を呟く。
「……ミツが最初。初めて。俺の布団で寝るのはね」
そう言えば、三月がぱっと目を見開いた。綺麗な瞳がころんと零れ落ちそうだった。
零れ落ちたら口に入れてしまいたい。琥珀みたいな綺麗な瞳は、金平糖みたいにさっと溶けてしまうんだろうか、それとも、びいどろのように冷たいのか?
「おっさんさぁ……ずるいよ」
「何がだよ。ていうか、お兄さんでしょ……」
しつこいようだが、一応訂正をする。
「大和さんさ」
すると、今度は名前を呼ばれた。
「何」
返事をすると、びいどろのような砂糖菓子のような、綺麗な瞳に三日月の光が灯った。その光に、つい視線を奪われる。
「……もう一回、ちゃんと言ってよ」
「何を?」
「本当に、オレでいいの?」
魔力を帯びたかのような三月の瞳を見下ろして、大和は静かに息を飲んだ。団扇を扇ぐ手を止めて、そうして、三月の目を手で覆う。この星を誰にもくれてやりたくないと、そう思った。
「おい、隠すなよ」
「隠したいよ……」
これは決して、直接伝えるのが気恥ずかしいからではない。だから、大和の手を押しのけた三月の、期待するような表情を甘んじて受け入れる。
意を決して、小さく咳払いをした。
「俺は」
見下ろせば、三月は柔らかい笑顔を浮かべていた。
「……和泉三月さんを、お慕いしています」
そう言えば、三月は満足そうに微笑んで、大和の膝から体を起こす。
十分に視線を交わして、それから――三月が大和に飛び付いた。抵抗する間もなく、二人して布団の上に倒れ込む。目の前には金平糖みたいな星が散った。
それは、子供のようにはしゃいだ何とも甘やかな夜だった。