〝支援を申し出られた当初は、いいようにされるようなつもりはなかった。しかし、何度か資金援助を受けた事実があっては拒否することも出来ず、それを理由に体の奉仕を強いられた。〟――そんな哀れな若手役者たちの名は伏せた上で、新聞社はとある官僚の悪行を暴いていた。
「正義感溢れる記事だこと」
口先で茶化してはみたが、このネタを進呈したのは自分である。大和は新聞を眺めながら、はんと鼻を鳴らした。
「少年記者くん、ちゃんと裏も取りに行ったわけだ」
先日ネタをくれてやった男の顔を思い出しながら、自身の親指で唇を撫でる。男の唇というのも、存外柔らかいものである。
本人にああは言ったが、大和に男色の趣味はない。もっぱら女が好きだが、しかし、あのような初心な反応をされては悪い気はしない。更に、顔立ちがやけに愛らしいときた。
(本当に遊んでやるのも悪くないかもな)
さて、大和は手に持っていた新聞を折り畳むと、そっと懐に差し込んだ。塀に立てていた番傘を持ち上げ、路地を行く。今日は、別のお嬢さんと逢引、否、仕事の礼があるのだから。
「やあ、お待たせしましたね」
大和は、指定した路地裏に潜んでいた女に恭しく頭を下げる。襟巻きで顔を覆って隠していた女に寄り添うと、そっと腰を抱き寄せた。布の合間から覗く顔は、どこか恥ずかしそうに赤らんでいる。
「茶屋に部屋を取ってある。そちらへご案内しますよ」
女は大和の言葉に小さく頷いた。そのまま大和の肩にもたれたが、すぐにはっと飛び退いてしまった。
どうかしたのかと、大和は路地の先を見やる。そこで、何故女が退いたのかを知った。
「おや、ミツくんだ」
思わず名前を呼んだ。路地の先には首を傾げて立っている例の少年記者の三月がいたからだ。嗚呼、少年ではないんだったな、と思わず笑った。
対する三月の表情は、どこか呆れているように見えた。
「……本っ当に、すけこましな野郎だったんだなぁ」
三月の声が僅かに震えている。大和は、はてと白々しく首を傾げた。つい口角が上がってしまう。
三月が、そのまま躊躇なくずかずかと近付いてくるものだから、大和は女の方へ向き直ると「仕事の話です。すみません、また今度」と囁いた。それが触れ合っているように見えたのか、近付いてきた三月が、ほんのり頬を染めたのが見て取れる。笑える。
大和は女をそっと逃すと、三月に向かって「よう」と改めて声を掛けた。
「こんな所でどうしたの、ミツくんや」
「その芝居掛かった態度やめろ。今週で四人目の女だろ。浮気な男め……」
「やだなぁ……仕事の話だってちゃんとあるのに。俺のこと、つけてたんだ? ミツったら助平だねぇ」
大和が懐から出した新聞をひらりと見せて「読んだよ」と言えば、三月は帽子のつばを直して、「それに関しては助かったよ」と礼を言ってきた。
たかがその一言を言うためだけに大和の行動を見ていたわけではあるまい。他に何も言わない、報酬も出さない三月を見かねて、大和はおちょくるように言った。
「それで、今日はどうしたんだい。俺に抱かれる気にでもなりましたか?」
そうであるなら願ったり叶ったり。一度くらいは、その体を愛でる真似事をしてやってもいい。
そうっと近付いて、愛らしい顔の輪郭を指で撫でた。ぎょっと震えた三月の長い睫毛を見下ろして、そのまま、思っていたよりずっと柔らかい唇に触れる。一度目と変わらずふっくらとしたそれに自分の唇を重ねて、それから口の合間に舌を這わせる。女を逃したのだ、このくらいの悪戯は許されよう。
幸い、三月自ら路地裏の人目につかぬ場所に入り込んでくれたものだから、そのまま壁に三月の体を押しやった。手首を掴んで縫い止め、一度口を離す。帽子のつばの下の顔を見れば、驚いたと言わんばかりに目を見開いた三月の表情があった。爛と光る瞳が、まるで飴玉のようだった。
細くて明るい色をした髪は柔らかで、それに透ける瞳は飴玉のようで。自分には、ひどく甘ったるいように思える。
唾液でてらと濡れた三月の唇を、親指の腹で拭ってやる。紅を塗ったでもなかろうに、桜色が滲んでいるそこだけがやけに扇情的だった。
しかし、そこまですると流石に三月もドンと大和を押し退ける。それから、口を手の甲で押さえて睨み付けてきた。
「相変わらず初心なことで」
大和が軽口を叩くと、三月は大和の襟巻きごと、ぐっと胸座を掴む。小柄な容姿に似合わず、存外、力が強い。つい、大和の薄ら笑いが引っ込んでしまった。薄く笑っている自覚はある。それが、できるだけ嫌みに見えたら良いと思ってのことである自覚もまたある。
「そんなおっかない顔しなさんな。折角の可愛いお顔が台無しだぜ」
低い声で言えば、目の前の三月が舌を打った。
顔は可愛いのに、些か気性が荒いと見える。色気がないもんだ。そんな生き物を躾けてやるのもまた一興ではあるが、それにしても――うるっと光った三月の瞳が揺らぐ。
「冗談でもふざけたことをしやがって。しかも、誰が誰に抱かれるだ。冗談じゃない……!」
「なんだよ。何も言わないでいるから、期待でもしてたのかと思った」
生憎と、目鼻立ちが良い自覚はある。上背だって高い方だ。女が見惚れることもあるのだから、男とてあるいはと思わなくもない。全く以て大した自信ではあるのだが、それでも客観的評価とそう変わらぬ評価であろうよ、とは思う。
だからこそ、そんな軽口を叩いてやると、三月はふっくらとした頬をカッと赤くして、それから大和の頬を殴り付けた。
眼鏡がずれた上、くわんと頭が揺れる。大和は、すぐに三月を睨んで「何しやがる」と吐き出した。
するとだ、目の前の綺麗な飴玉から、ぼろっと涙が零れたではないか。思わず、呆気に取られる。――このガキ、泣き出しやがった。
ぽろぽろと可憐に泣く目の前の青年に、大和はつい自分の頬の痛みを忘れてしまった。
泣きじゃくりながら、三月が呟く。
「あんたは何でもないことだろうけど、こんな屈辱は初めてだ……こんなに、馬鹿にされるようなことは初めてだよ」
大和の襟刳りから今はもう手を離し、ぐしゃぐしゃと手の甲やら手の平で涙を拭う三月に、大和は思わず肩を落とした。
「そんなに拭ったら、切れちまうよ……?」
「うるさい。オレのことなんてどうだっていいくせに。どうせ玩具か何かと思ってるくせに」
「思っちゃいないから。そんなに強く擦るもんじゃないって」
羽織の袖を長く持ち、そうして三月の目元に当てる。後から後から溢れてくる涙の水分で、袖がしっとりと重くなる。
すんすん、ぐすんと鼻を鳴らす三月は、眉を寄せ、目を閉じていた。嗚呼、可哀想に。どうしてこんなに泣いてしまうのかと思い返せば、自分が泣かしたに違いないのだが――胸の奥を、焦燥が這う。
「悪かったよ。お兄さん、謝るから、そんなに泣くな」
「謝るくらいなら最初からするな……!」
それはご尤もであるのだけれど。
(だってお前さん、自分でその顔見てみたら良い。姿見で、その姿も丸ごと見てみたらいい。上から下まで愛おしくって、苛めたくって仕方がないよ、俺は)
色気がないなどと思ったことを忘れて、大和は三月の頬に唇を寄せる。はらはらと流れていく涙をちゅっと吸い上げてみると、塩辛さが口内に伝わった。甘ったるいだけの青年ではなかったのだなぁと思う。
涙を流して腫れぼったくなった瞼が、春色を宿している。人を惑わすには十分過ぎる。
その隙間にある瞳が大和を見詰めて、それから言った。
「絶対、あんたになんて抱かれるもんか……っ」
悔しそうに苦しそうに呻いた三月に、男はほんのりとした熱を感じる。惑わされているとでも言うのだろうか。その通りやもしれない。――こいつは、劣情というやつではなかろうか。
「……ミツ、そんなつれないこと言わないで」
口から出た言葉は、思っていたよりずっと熱っぽいものだった。
「そんな、切ないことを言わないで。軽薄だったのは謝るから、後生だから」
大和の懇願を涙目のまま睨み付けて、三月はふるふると首を捻る。
うんとは頷いてくれない頭を撫でて、今はせめてその涙を止めて欲しいと思うのに、ずっと見ていたいとも思う。それこそが軽薄極まりないのだが、それでも思うことは自由であろう。
三月の頭を胸に抱いて、そのまま体ごと引き寄せた。火照った体温が心地よい。
「……どうしよう」
ぽつり、呟いた。
「お前さんのこと、手に入れたくなった」
腕の中から「最低な男」と罵声が飛んだ。
殴られないのをいいことに、今だけ、その罵声ごと有耶無耶にして抱き締めた。
どうやら、例のすけこまし、元い謎の男の心に火を点けてしまったらしい。三月がそのことに気付いたのは、路地裏でめそめそと泣いた二日後のことであった。
二階堂大和が、新聞社の前に立って待ち伏せをしている。そう上司に言われ、思わず血の気が引いた。
初日はただの相手の気の迷いと思っていた。あるいは、殴ってしまったことへのお礼参りだと思っていた。翌日にでもなれば諦めるだろうと思い、新聞社の裏口からこっそりと帰った。
さて、その翌日である。ご丁寧に真昼から番傘を携えて、またも立っているではないか。
新聞社の二階からこっそりとそれを見下ろして、三月は溜息を吐いた。
そういえば、泣きじゃくる三月を目の前に、奴め、よくわからないことを言っていやしなかったか。泣き腫らした故に頭が熱病に浮かされたようになってはっきりとは覚えちゃいないが、それにしても――三月はふと頭を抑える。
(お前さんのこと、手に入れたくなった)
なんとまぁ、熱烈なことだろう。
「和泉、お前、あいつに何かしたんじゃなかろうね」
上司が小声で問うてくる。
「そんなことありませんよ。まぁ、ちょっと小突いた程度です……」
「何してくれてんだか……あんな風に立っていられると邪魔で仕方ないな。何せ、目立つからねェ……」
そう、あの男、目立つのだ。こうして見ていると、客なのか通りすがりなのかは知れないが、後から後から女に声を掛けられる。女学生やら夫人やら、もう後から後から……見ているだけでもうんざりする。なのに、当の大和は一人一人に挨拶をして、笑顔で構ってや見送って、それを繰り返していた。本当に女好きらしい。手慣れているのが遠目でも窺える。
上司と二人でげぇ……と呆れていると、三月の目の前にずいと小さな袋を突き出された。
「和泉、これをやるから追い払ってきなさい」
「何ですかこれ」
小さな巾着の中を見ると、中にはころころとした金平糖が入っていた。
「嫌ですよ……ガキの駄賃じゃないんだから」
「まぁまぁ」
煙草をふかした上司は、三月をしっしと追い払った。
どうしてこんなことになってしまったんだか。三月は金平糖の袋をズボンのポケットに突っ込んで、新聞社の裏口から外に出た。ふと、興味が湧いて、壁に番傘を立てて待機している大和に近付いてみる。ばれないようにこっそりと。
「あら、二階堂さん、こんなところで」
「ああ、どうもご無沙汰しております」
丁度、挨拶しているのは老婆のようだった。
(こんなお婆さんとも知り合いなのか……?)
小綺麗な格好をした老婆は大和に近付き、それから小さな声で言った。
「新しい子が入ってねぇ。どうです、また近い内に」
「へぇ、それはそれは」
「二階堂さんがいらしたら、主人も喜びますのでね」
「そいつはどうも……また寄らせてもらいますよ。ご主人にもよろしくお伝えください」
遣り取りを一通り盗み聞き、三月はははあと落胆した。野郎、花街にも出入りしてるのだ。
何を落胆することがある。ある程度の金があって、それでいて女が好きなら、そんな遊びをしていたっておかしくはない。
三月はぱしぱしと瞬きをして、それからポケットの中の金平糖の巾着を取り出す。食べ物を、それも砂糖菓子を粗末にするのは忍びないが、それでも今、三月が思い付く限りの憂さ晴らしといえばこのくらいのものだった。
三月はこっそりと大和の背中に近付き、少し離れて立てられていた番傘の中に金平糖をぶちまけた。
しゃらしゃらと鳴ったその音に気付き、大和が振り返る。
「あ、ミツ。ようやく……」
ん? と、大和が首を傾げる。
「何してんの、お前さん」
三月はさっさと走り出す。これでも足の速さには自信があり、追いつかれることもないだろうし、そもそも大和は追ってくる気配もない。ただ、何かを流し込まれた番傘を不思議そうに見ている。
三月は振り返って、べっと舌を出した。
「箒とちりとりなら、玄関にあるからな!」
さぞ意味不明に聞こえただろう、そんな言葉を残して、気晴らしに珈琲を飲みに行こう。そう思った。
さて、残された大和はと言えば、暗くて見えない番傘の中を覗いて目を凝らす。一体全体何の悪戯をしてくれたのだろうかと思いながら、恐る恐る番傘を持ち上げた。
「……ごみくずを入れたにしても、開かなけりゃあなんとも……」
意を決して、傘を開こうと逆さにする。ばんと手元ろくろを上げた時だった。
仄かに甘い香りと共に、砂糖菓子の雨が大和の上に降ったのだ。しゃらしゃらしゃらと傘を滑った金平糖たちが大和に当たったり、あるいはそのまま地面に落ちて広がっていく。
「……はぁ?」
思わず上がった間抜けな声。大和は呆然として、その惨状を見下ろす。
(まるで)
ぱしりと瞬きをする。――まるで、星の雨だな。
偶然にも襟巻きの皺に落ちた橙のそれをつまんで、表から裏から眺める。何の変哲もない金平糖だ。口に含むと、舌の上で転がす内に溶け出して、しゃくりと崩れた。呆気の無い星の大群が、大和の上から降ってきたのだ。
「やってくれたな、あいつ……」
子供の悪戯のようなそれを、子供じゃないと主張する三月がしたのが可笑しくて、大和は思わず吹き出す。声を上げて笑いそうなところを、そっと指先で押さえた。甘ったるい匂いがする。
好ましくない相手に、こんな可愛い悪戯するもんじゃないだろうに。
さて、一通り噛み締めてから見下ろせば、新聞社の玄関の前は金平糖だらけである。
大和は三月が叫んでいった言葉を思い出し、改めて額を抑えた。
「あーあ……」
――それってつまり、片付けしろよってことだよな……?
新聞社の玄関をカラカラと開ける。頭を掻いた。黄色と緑の金平糖がぱらりと落ちる。着物を脱いだら、きっとまた出てくるに違いない。そう思いながら、大和は言った。
「すいませーん、箒とちりとりお借りします……」