月に叢雲と金平糖 プロローグ


嗚呼、なんて最低な男だろう! 三月は、今し方顔を合わせていた男への不満を、帽子と一緒に机へと叩き付けた。
さきに起こったことを思い返すと、怒りと羞恥が綯い交ぜになって顔から火でも出そうなものだった。
三月は、この町で記者をしている。外見が若干実年齢よりも幼いものだから、少年記者なんて揶揄されることもある。しかし、三月は実際には二十一の立派な大人であった。
叩き付けたばかりの帽子を拾い上げ、顔を埋める。ううと唸る声がくぐもって、何とも情けない気持ちになったが、それでもまだ怒りの方は収まりそうにない。
「和泉~、いつまで唸っているんだ。外回りは終わったのかい?」
新聞社の上司が、いつまでも自分の机を目の前に唸っている三月を見て、煙草の煙をぷかーと吐き出し、そう言った。
「終わってますよ!」
三月が突っ慳貪に返すと、上司は呆れたような顔をして、それからしっしと手を払う。
「何があったか知らないが、ここの空気が悪くなる。ちょっと珈琲でも飲んできたらどうだ」
あんたが会えって指示したからこんなことになってるんだぞ! という文句でも浴びせてやりたかったが、下っ端の三月に上司に逆らうことができるわけもなく、空気を悪くしているのはその煙草の方じゃないかと無言で睨みを利かせる。逆らえなくても睨むことくらいはしてしまう。何せ、三月は愛らしい容姿に反して血の気が多い。喧嘩の腕も中々の負け知らずである。
「どうしたどうした。猫みたいな目をして」
しかしだ、睨んだところで、可愛い顔では何の効果もない。
上司がニマニマと笑うので、三月は思わずたはぁと溜息を吐いた。
「……一服してきます」
「そうしなさい」
仕方なく、三月は鞄を背負い直して、美味い珈琲を出してくれる喫茶店へと向かうのだった。

「ミツキ!」
新聞社の近場の喫茶店には、大抵、綺麗な顔をした金髪の男がいる。名を六弥ナギと言った。
ナギは、喫茶店に入ったばかりの三月を見ると、青い瞳をきらきらとさせて抱擁を求めてくる。三月は手の平を向けてそれを遮り、ナギの隣のカウンター席に座った。
「珈琲」
店主は、はいよと景気の良い返事をした。けれど、三月の気は重いままである。
「ミツキはこれからランチですか?」
「休憩」
「ブレイクタイムですね」
不機嫌な三月に怖じ気付くこともなく、ナギは陽気に三月に声を掛けてくる。
「しかし、どうやらご機嫌がナナメのようですね。何かありましたか……?」
「……ちょっと嫌なことあってさ」
カウンターに頬杖を突いて、ぼんやりとする。三月を心配するナギの方に静かに椅子を向けて、三月は「ごめん」と呟いた。
「ナギに当たるみたいな態度取ってたな。ごめんな、ナギ」
「ノープロブレム。ワタシで良ければ話を聞きますよ」
気にしないでとにっこり笑って言ってくれるナギに、三月は改めて溜息を吐いた。すんなり話せる話題ならば、どんなにか楽だっただろう。
話せそうな部分を掻い摘まみ、三月は暫し頭の中で推敲をする。
そうして纏めた内容が、こうである。

この町には、謎の男扱いされている情報屋がいるらしい。
その男の話を振ってきたのは、新聞社の上司であった。
「なんですか、その胡散臭い話は」
「風来坊みたいな男でねぇ。どっかの財閥の跡取りだとか、有名役者の隠し子だとか、そういう噂の絶えない……けれど、どっか品のある男なんだよ、これが」
「なんでそんな男が情報屋なんてしてるんです?」
上司の話を聞きながら、その意図が全く読めない三月は何の気無しに疑問を投げ掛けた。上司は煙草の煙をぷかぷかとさせながら、のらりくらりと応じる。
「まぁ、暇潰しだろうねぇ」
そんな男の情報が当てになるのか、と言いそうになったが、上司が先んじて言った。
「だがしかしね、芸能関係も政治関係も、中々に信憑性のある情報を持ってやがるんだよ、彼は」
「へぇ……それで、その胡散臭い男が何なんです?」
三月がそう問うと、上司はぽつりと呟いた。
「お前、会ってみる気はないかい」
「はぁ、なんですって?」
「だから、和泉。会ってみる気はないかねと言ってるんだ」
「その胡散臭い風来坊に、ですか?」
三月は上司の言っている意図がわからないまま、口を尖らせている。仰け反るような姿勢でデスクの椅子に腰掛けていた上司はニヤニヤと笑って、ようやく三月の顔を見た。
「きっとね、気に入ると思うよ」
「オレに男の趣味はありませんけど……」
あえて言うなら、そんな胡散臭い男よりも、正統派の男前が好ましい。最近で言えば、軍服で闊歩している八乙女楽殿なんて最高だ。顔も端正で精悍。切れ長な目が涼やかな上、人柄も良い。また、お調子者ではあるが、ナギの顔も美しく整っているため、密かに三月は好ましく思っている。急¬¬¬に顔を近付けられると、迂闊にも心臓がどきどきとする。――まぁ、そんな話は置いておいて、だ。
三月に男の趣味はない。これは本当の話である。
「いいや、お前の方でなくって、相手の方がねぇ」
「どういう意味です?」
「何、とんでもないすけこましだそうだから」
なんだそりゃあ、最低だなぁ。三月はそんな風に思った。そして、上司の言う文脈を考えてみると、だ。
「……つまりは、オレが女顔だから、その謎の男とやらのお気に召すだろうってぇことですか……?」
思わず眉間に皺が寄る。顔を顰めて憤怒を露わにする三月を、上司はケラケラと笑い飛ばした。彼の座っている椅子が、ギィギィと音を立てる。
「ご明察だな、和泉記者」
「全っ然嬉しくねぇ……」
「まぁ、お前もお知り合いになっておいた方が良いこともあるだろう? さっきも言ったが、情報の信憑性だけはある。仮令、本人の人間性が歪んでてもなァ」
そんな歪んだお墨付きのある人間に、これから会えと?
三月は上司に渡されたメモを仕方なく受け取る。そこには、長屋の場所と何者かの名前らしき文字が書かれていた。どうでもよいが、字が汚いのだ、この上司め。
「二階堂……大和? ここに住んでるんですか?」
「いいや、それはな、多分仮の住まいだろうなぁ。客と落ち合う場所に使ってやがるのよ」
「客……?」
「ま、和泉記者のご想像にお任せするよ」
「任せないでくださいよ、そんなこと……」
「俺のおつかいをやることは伝えてあるから、顔合わせでもしてくるんだね。ああ、それとこれこれ」
続いて渡された茶封筒の厚みに、三月はむっと顔を顰める。
「二階堂への謝礼だ。ちょろまかすんじゃないぞ」
「しませんよ、そんなこと!」
三月は誠実な男であるから、一文たりともそんなことはしない。
そんなわけで、三月は上司に言われるまま、例の男の元へと向かったのであった。

「スケコマシ?」
「ああ、女たらしってことだよ……」
「Oh……不誠実な男だと言うことはわかりました」
日本語に長けているナギでも、時々知らない言葉にぶつかるらしい。それが、今回は「すけこまし」だったようだ。
そう、相手は何とも言えないすけこましだったのである。
さて、ここからはナギに説明するのが難しい部分もあるがどうしたものか、と三月は考えあぐね、とりあえずは回想に戻るのであった。

上司に言われた通りの長屋に向かうと、古くさい長屋に住むには似つかわしくない、どことなく品のある眼鏡の男が現れたではないか。
(確かに、八乙女殿やナギ程じゃあないが、端正な顔してんなぁ)
どこかの役者の隠し子と言われれば、それも納得である。
「よう、お前さんが編集長の言ってたお遣いの子……?」
深緑の羽織に袴姿、番傘を携えた姿がやけに様になっている。そんな男が眼鏡を上げ、ゆるりと目を細めた。
成程、綺麗な男だが、お遣いの子、という言葉の響きに三月はついムッとする。――こいつ、こっちを子供だと思っていやがる。
「初めまして、二階堂さん。和泉三月です。弊社の編集長がお世話になっております」
三月にとって、年相応に見られないことはわりと頻繁に起こる事象ではあるが、それにしたって気に食わないものである。
「いつぞやの御礼だそうです。今後とも、よろしくお願い申しあげます」
「そりゃどうも」
三月は上司から渡されていた封筒をさっさと渡し、その場から立ち去ろうとした。本当に顔合わせで済ますつもりだったのである。
だが、そんな三月の頭から、被っていた帽子が落ちた。
「ああ、ミツくん」
「み、ミツぅ……?」
「そうそう、三月だから、ミツくん」
突然の渾名に驚いて振り返ると、三月の帽子を拾っていた男が、ぱしぱしと砂埃を払って、三月に帽子を返してくれた。
「俺も、ミツくんのことを宜しく頼むって言われてるんでね。お前さん、今****って官僚のこと嗅ぎ回ってんだろ?」
三月が帽子を受け取ると、大和は、そのまま三月の腕を引いて、耳元に顔を近付けた。
「なっ……!」
「しっ」
呼吸の音がはっきりと聞こえるような距離で、大和が囁く。
「あれは、正妻がいるってのに若手の男役者を買い漁ってるって話だ。芝居小屋で話を聞いたら、いいようにされた奴らの訴えが聞けるかもな」
内容が内容である上、あまりに突然の囁きに、三月はぱっと大和から離れ、思わず熱くなった耳を押さえる。
「あらら。ミツくん、顔が真っ赤」
「う、うるせぇよ! あんたが急に変なことするから……! 大体、俺はもう二十一だ! 子供みたいに呼びやがって!」
「え、そうなの? 十四やそこらだと思ってた。俺の一個下か……じゃあ、くんはいらないか? なぁ、ミツ?」
まるで友人に話し掛けるように馴れ馴れしい男の態度。三月はキッと男を睨み付ける。しかし、全く怖じ気付いた気配のない男は、あろうことかぺろっと舌まで出したのだ。どうしたって馬鹿にしている。
「その馴れ馴れしい呼び方やめろよ!」
いまだ熱を持っている頬をごしごしと拭う。三月の目の前の男は、くくくと楽しそうに笑っていた。それがまた妙に腹立たしい。
「まぁ、そう言うなって。年の近い男が身の回りにいなくてさ。お前さんとは仲良くやれるんじゃないかと編集長に言われていたんだ。からかうような真似をして悪かったな」
そう言って一応は謝る大和に、三月は少し安堵する。
「そういうことなら……俺だって情報は欲しいし、あんたの情報が確かなことは聞いてるんだ。うまくやっていきたい気持ちはある。それに、さっきの話……ありがとう、当たってみるよ」
誠実に話してくれるのであれば、誠実に返さなければ。
三月は背筋をぴんと伸ばして、改めて頭を下げる。
「それで、報酬は? いくらなんだ?」
「ミツは律儀だなぁ。さっきのはほんのサービスだよ」
「そんなわけにはいかないだろ。これでもちゃんと給金は貰ってるんだ」
「……本当に律儀だねぇ」
何か考えるように顎に手を当てた大和が、そっとまた三月に近付いた。
「そうだな、そんなに言われると」
今度は耳に口を寄せやしなかったが、代わりに、三月の顎を大和の長い指が持ち上げる。
背が高い男なんだなぁと間抜けにも三月が思っていた矢先、互いの唇が触れそうなところではたと我に返った。
「お前さん、お顔が可愛いからな。お代は女のそれと同じでいいよ」
――それって、それって何だろう……?
ぽかん、と油断を見せてしまったばかりに、だ。三月の唇に、ふにとした感触が触れる。それは三月の口をちゅっと吸い上げると、名残惜しそうにゆっくりと離れていった。
「え」
「気が向いたら逢いに来てよ。イイ思いさせてやるからさ」
そんな風に言った男がひらりと手を振り、羽織を翻して歩いていく。三月は男の唇に触れられたばかりの自分の唇を手で押さえ、それから……
「な、何、された、今……」
手に持っていた帽子をぐっちゃぐちゃに握り潰したのだった。
そうして新聞社に戻り、帽子を叩き付けるに至る。
「……駄目だ。いくらナギでも話せない……」
組んだ両手を口元に当てて、三月はぐるぐるぐるると唸っている。まるで小さな獣のような三月に、ナギはワオ……と声を上げた。
「ミツキが、その無礼な男に大層怒っていることはわかりました。不届き者のスケコマシですね……」
ナギはミツキの肩をぽんぽんと叩くと、目の前に出されていた珈琲を飲むように促した。そして、店主に「サンドウィッチをひとつ、プリーズ」とウインクする。
「ぜってー許さねぇ……あのおっさんめ……」
「オッサン? 中年の男なのです?」
「ううん、オレの一個上だけど……」
それより、更にナギには言えないが、どうしてくれようかと怒る理由が他にもある。
嗚呼、悲しいかな。あの胡散臭い男に、三月の初めてが奪われてしまったのだから。
(さよなら、オレのファーストキスぅ……)
唸ろうが暴れようが帽子に当たろうが、これはどうしたって取り戻せない。嗚呼、憎らしい。そして悔しいったらない。
ナギの奢りで食べたサンドウィッチは、少し塩辛い味がした。

月に叢雲と金平糖 ◆ 一


〝支援を申し出られた当初は、いいようにされるようなつもりはなかった。しかし、何度か資金援助を受けた事実があっては拒否することも出来ず、それを理由に体の奉仕を強いられた。〟――そんな哀れな若手役者たちの名は伏せた上で、新聞社はとある官僚の悪行を暴いていた。
「正義感溢れる記事だこと」
 口先で茶化してはみたが、このネタを進呈したのは自分である。大和は新聞を眺めながら、はんと鼻を鳴らした。
「少年記者くん、ちゃんと裏も取りに行ったわけだ」
 先日ネタをくれてやった男の顔を思い出しながら、自身の親指で唇を撫でる。男の唇というのも、存外柔らかいものである。
 本人にああは言ったが、大和に男色の趣味はない。もっぱら女が好きだが、しかし、あのような初心な反応をされては悪い気はしない。更に、顔立ちがやけに愛らしいときた。
(本当に遊んでやるのも悪くないかもな)
 さて、大和は手に持っていた新聞を折り畳むと、そっと懐に差し込んだ。塀に立てていた番傘を持ち上げ、路地を行く。今日は、別のお嬢さんと逢引、否、仕事の礼があるのだから。
「やあ、お待たせしましたね」
 大和は、指定した路地裏に潜んでいた女に恭しく頭を下げる。襟巻きで顔を覆って隠していた女に寄り添うと、そっと腰を抱き寄せた。布の合間から覗く顔は、どこか恥ずかしそうに赤らんでいる。
「茶屋に部屋を取ってある。そちらへご案内しますよ」
 女は大和の言葉に小さく頷いた。そのまま大和の肩にもたれたが、すぐにはっと飛び退いてしまった。
どうかしたのかと、大和は路地の先を見やる。そこで、何故女が退いたのかを知った。
「おや、ミツくんだ」
 思わず名前を呼んだ。路地の先には首を傾げて立っている例の少年記者の三月がいたからだ。嗚呼、少年ではないんだったな、と思わず笑った。
対する三月の表情は、どこか呆れているように見えた。
「……本っ当に、すけこましな野郎だったんだなぁ」
 三月の声が僅かに震えている。大和は、はてと白々しく首を傾げた。つい口角が上がってしまう。
 三月が、そのまま躊躇なくずかずかと近付いてくるものだから、大和は女の方へ向き直ると「仕事の話です。すみません、また今度」と囁いた。それが触れ合っているように見えたのか、近付いてきた三月が、ほんのり頬を染めたのが見て取れる。笑える。
 大和は女をそっと逃すと、三月に向かって「よう」と改めて声を掛けた。
「こんな所でどうしたの、ミツくんや」
「その芝居掛かった態度やめろ。今週で四人目の女だろ。浮気な男め……」
「やだなぁ……仕事の話だってちゃんとあるのに。俺のこと、つけてたんだ? ミツったら助平だねぇ」
大和が懐から出した新聞をひらりと見せて「読んだよ」と言えば、三月は帽子のつばを直して、「それに関しては助かったよ」と礼を言ってきた。
たかがその一言を言うためだけに大和の行動を見ていたわけではあるまい。他に何も言わない、報酬も出さない三月を見かねて、大和はおちょくるように言った。
「それで、今日はどうしたんだい。俺に抱かれる気にでもなりましたか?」
 そうであるなら願ったり叶ったり。一度くらいは、その体を愛でる真似事をしてやってもいい。
そうっと近付いて、愛らしい顔の輪郭を指で撫でた。ぎょっと震えた三月の長い睫毛を見下ろして、そのまま、思っていたよりずっと柔らかい唇に触れる。一度目と変わらずふっくらとしたそれに自分の唇を重ねて、それから口の合間に舌を這わせる。女を逃したのだ、このくらいの悪戯は許されよう。
幸い、三月自ら路地裏の人目につかぬ場所に入り込んでくれたものだから、そのまま壁に三月の体を押しやった。手首を掴んで縫い止め、一度口を離す。帽子のつばの下の顔を見れば、驚いたと言わんばかりに目を見開いた三月の表情があった。爛と光る瞳が、まるで飴玉のようだった。
細くて明るい色をした髪は柔らかで、それに透ける瞳は飴玉のようで。自分には、ひどく甘ったるいように思える。
唾液でてらと濡れた三月の唇を、親指の腹で拭ってやる。紅を塗ったでもなかろうに、桜色が滲んでいるそこだけがやけに扇情的だった。
 しかし、そこまですると流石に三月もドンと大和を押し退ける。それから、口を手の甲で押さえて睨み付けてきた。
「相変わらず初心なことで」
大和が軽口を叩くと、三月は大和の襟巻きごと、ぐっと胸座を掴む。小柄な容姿に似合わず、存外、力が強い。つい、大和の薄ら笑いが引っ込んでしまった。薄く笑っている自覚はある。それが、できるだけ嫌みに見えたら良いと思ってのことである自覚もまたある。
「そんなおっかない顔しなさんな。折角の可愛いお顔が台無しだぜ」
低い声で言えば、目の前の三月が舌を打った。
顔は可愛いのに、些か気性が荒いと見える。色気がないもんだ。そんな生き物を躾けてやるのもまた一興ではあるが、それにしても――うるっと光った三月の瞳が揺らぐ。
「冗談でもふざけたことをしやがって。しかも、誰が誰に抱かれるだ。冗談じゃない……!」
「なんだよ。何も言わないでいるから、期待でもしてたのかと思った」
生憎と、目鼻立ちが良い自覚はある。上背だって高い方だ。女が見惚れることもあるのだから、男とてあるいはと思わなくもない。全く以て大した自信ではあるのだが、それでも客観的評価とそう変わらぬ評価であろうよ、とは思う。
だからこそ、そんな軽口を叩いてやると、三月はふっくらとした頬をカッと赤くして、それから大和の頬を殴り付けた。
眼鏡がずれた上、くわんと頭が揺れる。大和は、すぐに三月を睨んで「何しやがる」と吐き出した。
するとだ、目の前の綺麗な飴玉から、ぼろっと涙が零れたではないか。思わず、呆気に取られる。――このガキ、泣き出しやがった。
ぽろぽろと可憐に泣く目の前の青年に、大和はつい自分の頬の痛みを忘れてしまった。
泣きじゃくりながら、三月が呟く。
「あんたは何でもないことだろうけど、こんな屈辱は初めてだ……こんなに、馬鹿にされるようなことは初めてだよ」
大和の襟刳りから今はもう手を離し、ぐしゃぐしゃと手の甲やら手の平で涙を拭う三月に、大和は思わず肩を落とした。
「そんなに拭ったら、切れちまうよ……?」
「うるさい。オレのことなんてどうだっていいくせに。どうせ玩具か何かと思ってるくせに」
「思っちゃいないから。そんなに強く擦るもんじゃないって」
羽織の袖を長く持ち、そうして三月の目元に当てる。後から後から溢れてくる涙の水分で、袖がしっとりと重くなる。
すんすん、ぐすんと鼻を鳴らす三月は、眉を寄せ、目を閉じていた。嗚呼、可哀想に。どうしてこんなに泣いてしまうのかと思い返せば、自分が泣かしたに違いないのだが――胸の奥を、焦燥が這う。
「悪かったよ。お兄さん、謝るから、そんなに泣くな」
「謝るくらいなら最初からするな……!」
それはご尤もであるのだけれど。
(だってお前さん、自分でその顔見てみたら良い。姿見で、その姿も丸ごと見てみたらいい。上から下まで愛おしくって、苛めたくって仕方がないよ、俺は)
色気がないなどと思ったことを忘れて、大和は三月の頬に唇を寄せる。はらはらと流れていく涙をちゅっと吸い上げてみると、塩辛さが口内に伝わった。甘ったるいだけの青年ではなかったのだなぁと思う。
涙を流して腫れぼったくなった瞼が、春色を宿している。人を惑わすには十分過ぎる。
その隙間にある瞳が大和を見詰めて、それから言った。
「絶対、あんたになんて抱かれるもんか……っ」
悔しそうに苦しそうに呻いた三月に、男はほんのりとした熱を感じる。惑わされているとでも言うのだろうか。その通りやもしれない。――こいつは、劣情というやつではなかろうか。
「……ミツ、そんなつれないこと言わないで」
口から出た言葉は、思っていたよりずっと熱っぽいものだった。
「そんな、切ないことを言わないで。軽薄だったのは謝るから、後生だから」
大和の懇願を涙目のまま睨み付けて、三月はふるふると首を捻る。
うんとは頷いてくれない頭を撫でて、今はせめてその涙を止めて欲しいと思うのに、ずっと見ていたいとも思う。それこそが軽薄極まりないのだが、それでも思うことは自由であろう。
三月の頭を胸に抱いて、そのまま体ごと引き寄せた。火照った体温が心地よい。
「……どうしよう」
ぽつり、呟いた。
「お前さんのこと、手に入れたくなった」
腕の中から「最低な男」と罵声が飛んだ。
殴られないのをいいことに、今だけ、その罵声ごと有耶無耶にして抱き締めた。

月に叢雲と金平糖 ◆ 二


どうやら、例のすけこまし、元い謎の男の心に火を点けてしまったらしい。三月がそのことに気付いたのは、路地裏でめそめそと泣いた二日後のことであった。
二階堂大和が、新聞社の前に立って待ち伏せをしている。そう上司に言われ、思わず血の気が引いた。
初日はただの相手の気の迷いと思っていた。あるいは、殴ってしまったことへのお礼参りだと思っていた。翌日にでもなれば諦めるだろうと思い、新聞社の裏口からこっそりと帰った。
さて、その翌日である。ご丁寧に真昼から番傘を携えて、またも立っているではないか。
新聞社の二階からこっそりとそれを見下ろして、三月は溜息を吐いた。
そういえば、泣きじゃくる三月を目の前に、奴め、よくわからないことを言っていやしなかったか。泣き腫らした故に頭が熱病に浮かされたようになってはっきりとは覚えちゃいないが、それにしても――三月はふと頭を抑える。
(お前さんのこと、手に入れたくなった)
なんとまぁ、熱烈なことだろう。
「和泉、お前、あいつに何かしたんじゃなかろうね」
上司が小声で問うてくる。
「そんなことありませんよ。まぁ、ちょっと小突いた程度です……」
「何してくれてんだか……あんな風に立っていられると邪魔で仕方ないな。何せ、目立つからねェ……」
そう、あの男、目立つのだ。こうして見ていると、客なのか通りすがりなのかは知れないが、後から後から女に声を掛けられる。女学生やら夫人やら、もう後から後から……見ているだけでもうんざりする。なのに、当の大和は一人一人に挨拶をして、笑顔で構ってや見送って、それを繰り返していた。本当に女好きらしい。手慣れているのが遠目でも窺える。
上司と二人でげぇ……と呆れていると、三月の目の前にずいと小さな袋を突き出された。
「和泉、これをやるから追い払ってきなさい」
「何ですかこれ」
小さな巾着の中を見ると、中にはころころとした金平糖が入っていた。
「嫌ですよ……ガキの駄賃じゃないんだから」
「まぁまぁ」
煙草をふかした上司は、三月をしっしと追い払った。
どうしてこんなことになってしまったんだか。三月は金平糖の袋をズボンのポケットに突っ込んで、新聞社の裏口から外に出た。ふと、興味が湧いて、壁に番傘を立てて待機している大和に近付いてみる。ばれないようにこっそりと。
「あら、二階堂さん、こんなところで」
「ああ、どうもご無沙汰しております」
丁度、挨拶しているのは老婆のようだった。
(こんなお婆さんとも知り合いなのか……?)
小綺麗な格好をした老婆は大和に近付き、それから小さな声で言った。
「新しい子が入ってねぇ。どうです、また近い内に」
「へぇ、それはそれは」
「二階堂さんがいらしたら、主人も喜びますのでね」
「そいつはどうも……また寄らせてもらいますよ。ご主人にもよろしくお伝えください」
遣り取りを一通り盗み聞き、三月はははあと落胆した。野郎、花街にも出入りしてるのだ。
何を落胆することがある。ある程度の金があって、それでいて女が好きなら、そんな遊びをしていたっておかしくはない。
三月はぱしぱしと瞬きをして、それからポケットの中の金平糖の巾着を取り出す。食べ物を、それも砂糖菓子を粗末にするのは忍びないが、それでも今、三月が思い付く限りの憂さ晴らしといえばこのくらいのものだった。
三月はこっそりと大和の背中に近付き、少し離れて立てられていた番傘の中に金平糖をぶちまけた。
しゃらしゃらと鳴ったその音に気付き、大和が振り返る。
「あ、ミツ。ようやく……」
ん? と、大和が首を傾げる。
「何してんの、お前さん」
三月はさっさと走り出す。これでも足の速さには自信があり、追いつかれることもないだろうし、そもそも大和は追ってくる気配もない。ただ、何かを流し込まれた番傘を不思議そうに見ている。
三月は振り返って、べっと舌を出した。
「箒とちりとりなら、玄関にあるからな!」
さぞ意味不明に聞こえただろう、そんな言葉を残して、気晴らしに珈琲を飲みに行こう。そう思った。

さて、残された大和はと言えば、暗くて見えない番傘の中を覗いて目を凝らす。一体全体何の悪戯をしてくれたのだろうかと思いながら、恐る恐る番傘を持ち上げた。
「……ごみくずを入れたにしても、開かなけりゃあなんとも……」
意を決して、傘を開こうと逆さにする。ばんと手元ろくろを上げた時だった。
仄かに甘い香りと共に、砂糖菓子の雨が大和の上に降ったのだ。しゃらしゃらしゃらと傘を滑った金平糖たちが大和に当たったり、あるいはそのまま地面に落ちて広がっていく。
「……はぁ?」
思わず上がった間抜けな声。大和は呆然として、その惨状を見下ろす。
(まるで)
ぱしりと瞬きをする。――まるで、星の雨だな。
偶然にも襟巻きの皺に落ちた橙のそれをつまんで、表から裏から眺める。何の変哲もない金平糖だ。口に含むと、舌の上で転がす内に溶け出して、しゃくりと崩れた。呆気の無い星の大群が、大和の上から降ってきたのだ。
「やってくれたな、あいつ……」
子供の悪戯のようなそれを、子供じゃないと主張する三月がしたのが可笑しくて、大和は思わず吹き出す。声を上げて笑いそうなところを、そっと指先で押さえた。甘ったるい匂いがする。
好ましくない相手に、こんな可愛い悪戯するもんじゃないだろうに。
さて、一通り噛み締めてから見下ろせば、新聞社の玄関の前は金平糖だらけである。
大和は三月が叫んでいった言葉を思い出し、改めて額を抑えた。
「あーあ……」
――それってつまり、片付けしろよってことだよな……?
新聞社の玄関をカラカラと開ける。頭を掻いた。黄色と緑の金平糖がぱらりと落ちる。着物を脱いだら、きっとまた出てくるに違いない。そう思いながら、大和は言った。
「すいませーん、箒とちりとりお借りします……」

月に叢雲と金平糖 ◆ 三


よくよく考えれば、なんとも子供染みた所業をしたものである。
三月は、兎角足繁く通ってくる大和を避けている真っ最中だったが、それにしても、番傘の中に金平糖を入れたのは流石にまずかったか。
――もしかして、それを根に持ってるんじゃないか……?
馴染みの喫茶店のカウンターの内側にしゃがみ込みながら、そんな言葉が頭を過ぎる。いくらなんでも巫山戯たことをしでかしてしまったのかもしれない。
(参ったなぁ、一発ぶん殴ってるし……)
さて、何故三月がこんな場所に隠れているかと言えば、店の中には、例の二階堂大和がいるからである。遂にこの喫茶店に通っていることが知れてしまったところを、店主とナギが三月をカウンターの内側へと匿ってくれたのだ。
現在、その大和を迎え撃っているのはナギなのだが、どうやら先程から遣り取りが危うい。三月はそわそわとする胸を撫で付けながら、二人の遣り取りに耳を欹てていた。
「お前、和泉三月と親しいんだろ? ミツがこの店に入っていくところ、ちゃあんと確認してから来たんだけど……」
「貴方が、近頃ミツキを追い回しているスケコマシですね」
「追い回してるわけじゃないって」
ミツキは両手で口を塞いで、心の中で「追い回してるだろうがよ!」と叫んだ。恐らく、ナギもそう思っているような気がする。普段の口調より、少しだけ刺々しいように思う。
「大体、スケコマシってなんだよ。初対面なのに容赦のない奴だなぁ……」
「失礼。女性をずさんに扱う男と聞いていましたので」
「ははは……ミツ、そんなこと言ってたのかよ」
「しつこい男は嫌われますよ、ミスターニカイドウ?」
大和は、今度は返事をせず、ナギの座っているカウンター席に近付くと、そこに手を突いて寄り掛かった。
「で、ミツはどこだよ。悪いようにはしない。少し話がしたいだけなんだ」
「本当にそれだけですか?」
「それだけだよ? 今のところはな」
えー、ヤダ、絶対それだけじゃ済まねぇ……と三月は思う。近付いてこられると、流石に身の危険を感じる。
「なぁ、マスター。このカウンターに隠してたりしない?」
三月は、口を押さえたまま飛び上がった。流石にぎくりとした。
どくどくと脈を打つ心臓を押さえて、とにかく息を殺していた時だった。カウンターの内側からだけ見える店の奥で、何者かが手招きをしている。
三月は、キョロキョロと辺りを見渡し、それから人差し指で自分のことを指さした。
(お、オレ?)
すると、その何者かはにこりと笑って、何度か頷く。柔和な優男だった。
三月は招かれるまま、奥の部屋へ向かう。店主が勘付いて影になってくれたため、ナギからも大和からも気付かれることはなかった。
「どうぞ、ご覧になっても構いませんよ」
三月が別の部屋に逃げ込むと、店主は大和に向かってカウンター下を指して見せる。
大和はずいと身を乗り出してその中を覗いたが、既に三月の姿はない。それを確認すると、肩からずり落ちた襟巻きを手で払って戻した。
「……ああ、本当だ」
「だから、先程から言っているではありませんか」
「じゃあ、一体どこに消えちまったんだかなぁ……あんた、本当に知らない?」
「ワタシはあんたではありませんし、無礼な男に名乗る名前もありません」
二人の間のどこかピリピリとした空気は相変わらずだ。
「知ってるよ。お前さん、かなり目立つからな。留学生の六弥ナギ、だったか。本当に留学生なのかは知らないけどな」
そもそも本名なのかどうかも、と言い掛けた大和に、ナギがにっこりと笑って「無礼な上に、無粋な男ですね」と呟いた。
「ワタシもあなたを知っていますよ、ミスターニカイドウ。母が好んで見ていた芝居の主演役者に大変似ているものですからね……眼鏡を外したら、もっとそっくりかもしれませんが」
「……それがどうしたよ」
いつものらりくらりとした調子で話す大和の声色が、凄む。その瞬間に、三月はつい顔を出しそうになった。
けれど、すぐ隣に立っていた男が、「しぃ」と口の前に人差し指を立てて見せたので、顔を覗かせるのは控えることにした。
「……すみません、助けてもらっちゃって……お店の人ですか?」
「うん、本当は店の持ち主なんだけど、あまり店の方には出られなくてね。でも、ナギの友達が困っていたみたいだから、つい」
お節介じゃなかった? と囁く男に、三月はぶんぶんと首を振る。不可思議な空気を纏った綺麗な男だった。
「どうして追われてるの? 借金取り……ではないか。君がチャーミングだから、かな」
「あー……あの人、悪人面ですけど借金取りじゃなくって……まぁ、なんていうか、色々と深い事情がですね……」
「ケンカ?」
「似たようなもんです……」
小さくなる三月に、男はにっこりと笑った。
この痩身の優男には、どことなく色気がある。しかし、それ以上に顔色の悪さが気になってしまい、三月はきゅっと眉根を寄せた。
「なんとか仲直りできると良いね」
「そう、ですね」
そんな男の雰囲気から、三月は呑気にも取れる返事をしてしまった。――何かの病気だろうか。あまり店には出れないと言っていたし。
「あの……」
三月が言い掛けた時だった。
「ミツキ!」
部屋の中に入ってきたナギが、三月を呼ぶ。
「一緒にいたのですね……」
隣の男を一瞥し、ナギが小さく「寝ていなくて大丈夫なのですか」と尋ねた。
「大丈夫。今日は天気が良いからね。少しくらい起き上がらないと」
「……無理はしないで……それより、ミツキ、スケコマシヤマトは諦めて帰っていきましたよ」
「お、おう、ごめんな、ナギ……」
やはり、寝ていないとならない体調なのだと、三月は優男を見上げる。申し訳なさそうな三月に、男はふっと笑って首を横に振った。
「俺は部屋に戻ってるよ。何事もなくて、良かったね」
「は、はい。ありがとうございました」
去って行く男に、三月はぺこりと頭を下げる。
ふとナギを見ると、とても複雑そうな、寂しそうな顔をしていた。「あの人、体の調子悪いのか?」とは迂闊に聞けない空気だった。
そんな空気を先に破ったのは、誰でも無いナギの方であった。
「ミツキにお届け物です」
「え?」
大和は諦めて帰ったと言っていたから、完全に安心しきっていた。
何だろう、と三月が首を傾げると、ナギは小さな紙袋を寄越してきた。桜色の紙袋に丸々とした兎の印が押されたそれを開くと、中には――金平糖が入っている。
「……金平糖……?」
大和の番傘に金平糖を仕込んだのは間違いなく三月だとわかっているのに、そんな三月に金平糖を置いていく男の神経が知れなかった。
(……怒って、ないのかよ)
しつこい男は嫌われる。しかし――三月は桜色の紙袋も持ち上げ、ほっと息を吐いた。安堵する。真意が見えないもどかしさと、気まぐれにしては愛らしい金平糖が、つい三月を笑わせた。
「ミツキ?」
「ん、ああ……ごめん。ありがとな、ナギ。直接会ったら動揺しそうだったから、助かった」
そう伝えると、ナギは静かに笑って頷いた。
「……友人に、なれそうですか?」
「どうだろう……」
どうだろう。からんころんと袋の中で揺れる金平糖。似付かわしくないなと思う。まるで、女子供にくれてやるみたいな桜色の袋を、何故三月の為に。そう息を吐く。悩ましい。
袋を開ける。手の平に転がした白と桜色の金平糖を口に放り投げて、くしゃりと噛んだ。呆気無く星屑になった砂糖菓子を飲み下す。
「どうだろうなぁ……」
折れてやることはできない。できないが、折れてやることはできないよ、と伝えてやることくらいはできるだろうか。

翌日は、ざらざらと雨が降っていた。芳しくはない天気の下で羽織を濡らしながらそれでも通ってくる大和に、三月は馬鹿馬鹿しいと思いながら、それでいて、胸の何処かでは安堵を覚えていた。
「……なぁ、いつまで続けんの」
ざらざらと、大和の番傘を雨が打つ。
新聞社の玄関口から三月が顔を覗かせると、大和は僅かに目を見開いたが、すぐに涼しげに笑った。
「そりゃあ、ミツがお兄さんに振り向いてくれるまで」
「諦めがさ、悪いんだ」と、そう言った大和に、三月は溜息を吐く。本当に、足繁くご苦労なことだ。
「あんた、引く手数多なんだろ。オレは振り向く気ないよ」
鳴っていた雨が、さらさらと僅かに弱まった。
「ああ、雨音で聞こえなかった」
「聞こえてたくせに」
「本当だって。聞こえなかったんだよ」
大和の羽織の袖が濡れて濃くなっているのを見下ろしながら、三月はもう一度言う。
「あんたがどんなにあの手この手を使ったって、オレは二階堂さんのもんにはならないよ」
黙って聞いている大和が、そこを退く気配はない。ただ、静かに三月の方を見ている。それも手練手管の内の一つなのかもしれない。
だけど、と、そう言って三月は顔を上げる。
「金平糖は、ありがとな」
すると、僅かに大和の眉が上がった。ほんのりと色の付いた笑顔が溢れ、切れ長の目が細くなる。
何でもないような顔以外もできるんじゃないか。そう思うと、大和の整った目鼻立ちから視線を逸らせなくなった。
「どういたしまして」
雨がさらさらと音を立てている。静かに通る声が、しかと三月の耳に届いた。

月に叢雲と金平糖 ◆ 四


「あの金髪、本当は留学生じゃないんだろ」
多少嗅ぎ回れば、埃と同じで様々な話が出てくるものだ。大和にとって、そんな「埃」を掻き集めるなんてことは、何とも容易いものであった。
さらさらと川が流れる景色を眺めながら、大和はひとつ間を置いて座っている三月に問う。三月が、小石をぽーんと川へ放った。
「さあな。オレは知らないよ」
「仲が良いのに?」
「知らなくたって、友達にはなれるだろ」
――そうかな。そういうの、俺は無理。
川のせせらぎを顰めっ面で眺めている三月を見やって、大和は思った。
三月のことは大凡知っている。本人は気付いていないだろうが、住んでいる場所や、実家がちょいと有名な菓子店であることも知っている。
これについては、三月の上司に少しばかり聞き出しただけなのだが、それでも全く素性を知らないなんてわけはない。
「お兄さんには、ちょっとわかんないかな」
そう言えば、三月は静かに溜息を吐いた。
「本人が知られたくないことなんだろ。オレは、あいつが話してくれるのを待つよ」
無論、三月だって、それを全て良しとしているわけではないのだろう。返事の雰囲気からわかる。
大和は、自身のすぐ傍にある一人分の空白を恨めしく見詰める。その空白が、随分と広くて深いもののように思えた。
錯覚でしかない。あるのはただ、ごろごろとした小石の群れだけだ。身を乗り出せばすぐに埋まる距離、それに手を伸ばすのが少しだけ億劫になっていた。
(億劫だなんて、思うことがあるんだな)
ひどく他人事のように思う。
じとりと伝う焦燥の汗さえ、自分のものでないような気がした。大和は、静かに固唾を飲む。
「どうしたの、何睨んでんの?」
その内、三月が大和を見て言った。
「……百足がいたからさ」
「マジかよ!」
さっと立ち上がった三月が、自分の尻に敷いていた石を蹴って崩す。百足などは見ていない。ちょっとした出任せだ。
「逃げたかな……?」
「さあな」
そこから逃げたのは、自分かもしれなかった。
大和の物にはならないと告げられた。それを惜しくは思わないし、これからだって、いくらでも気を迷わせることもできるだろう。そういう驕りはある。
不思議そうな三月の肩からだらんと垂れている手首を掴み、それを支えに立ち上がった。
「んだよ、おっさん一人で立てよな」
「ミツと黄昏れてたら眠くなっちゃってさぁ」
「黄昏れてねぇよ。お喋り付き合ってって駄々こねたのあんただろ……」
最近は、随分と良い関係になったと思っていた。
唇を奪った相手に警戒もないのか、三月はまるで大和とは知人の一人かのように接してくれるようになった。知人であるには違いないが、それにしてもよそよそしさがない。
(……意識されてないのかもな)
それを良い関係と呼んでいいのか、大和にはわからなかった。
――見下ろせば、いつだってその桜色に触れたいと思うのに。
「二階堂さんも、珈琲飲みに行く?」
驚いた。珍しく三月からのお誘いがある。大和がきょとんとしていると、三月はさっさと手を振って「いや、やっぱ無し」と言った。
「ちょっと気安かったよな」
「……なんで? 気安くなんてないよ」
ささと振られた三月の指先を掴んで、指の腹で撫でる。緩く握って手を繋いだ。
「嬉しいよ」
けれど、三月はその繋がれた手を見るなり、ばっと腕を振り払い、一人分どころではない距離分の後退りをした。
「あらら……」
「やっぱりやめた。あんたすぐ調子乗るから!」
「調子乗ってないって。友情よ、友情」
「うるせぇ。胡散臭いんだよ」
そう言って鞄を背負い直し、三月はさっさと河原から走って消えてしまった。大層足が速い。
それを見送ることしかできなかった大和は、はーっと息を吐くと、口角を上げて笑った。
そう、いくらだって気を迷わせることができるのだ。もう暫し、この「良い関係」を続けてやれたらいいのに。そう思う。

――そう、思っていたのにも関わらずだ。大和はいつもの喫茶店に入ると、これまたいつも通り、カウンターに座っているナギに声を掛けた。
「おい、ナギ」
「なんでしょう、スケコマシヤマト」
そのスケコマシヤマトこそが何なのだという話なのだが、そんなことは今、大和にとってどうでも良かった。
「ミツ知らない?」
「ワタシの方が知りたいですよ」
それまでの関係は決して悪くなかったはずだ。「あんたのもんにはならない」とはっきり言われたことは兎も角も、最初のように逃げられることもなくなった。出会せば軽口を叩けるような、そんな存在になれたのだと思っていた矢先、全く三月に遭遇しなくなったのである。
新聞社の前を通り掛かって数日、果ては、受付の娘を口説こうと試みた。詳しく口を割ることはなかったが、どうやら出社もしていないらしいということはわかった。
「以前も二週間ほど姿を見ないことがありましたから、出張かもしれませんね……ミツキ、元気にしているでしょうか……」
くすん、と鼻を鳴らしながら珈琲を嗜んでいるナギの隣に座り、店主に珈琲を注文する。
「何故隣に座るのです!」
「いいだろ別に。ちょっと話聞かせて」
むーっと口を尖らせたナギに、案外子供ぽいところがあるのだなと思いつつ、大和はカウンターに頬杖を突いてにやと笑った。
「遠目で見ても中々だったけど、近くで見ると、お前さん、びっくりするほど美形だねぇ」
そう言えば、ナギは謙遜することもなく、「そうでしょう」と頷いた。
(なんて奴……)
「ヤマトも女性の扱いさえ下品でなければ、整った顔立ちをしていると思いますよ」
「下品とか言うなよ……」
「ヤマトがスケコマシなことは、ミツキから聞いています」
「ったく……なんて聞いてるかは知らないが、ミツに会ってからそういうのはしてないっつーの……」
そう言えば、ナギは不思議そうな顔をした。
「そうなのです?」
「あのじゃじゃ馬追い掛けるので手一杯だよ」
「ミツキはジャジャウマではありません。キュートボーイです」
「ああ、はいはい……」
三月の行方を知らないなら、ナギと話していても埒は明かなそうだ。出された珈琲をちびりと飲んで、大和は溜息を吐いた。
振り返ってみれば、三月に関わり始めてから、女性との逢瀬の暇が無くなってしまった。勿論、町を行けば声を掛けられこそすれども、それほど時間を割かずに然様ならをしている。
(何してんだろ、俺……あんなちっちゃいの相手に……)
ふと、我に返る。口内に広がる珈琲の苦みとコクが、浮かれた頭を目覚めさせるようだった。
「お兄さん、キュート系は趣味じゃないんだけどな」
「では、すぐに手を引いたらどうですか?」
ふふんと笑うナギをじとりと睨む。すると、益々余裕綽々な笑顔を返された。何分、本当に顔の良い男である。
「どうしたのです?」
「……別に」
「引けないところまでいってしまいましたか?」
珈琲の芳醇な香りにうっとりとしているのか、それとも大和のことを嗤っているのか、ナギの横顔に少し腹が立つ。
大和は頭を振って、その苛立ちを散らそうとした。けれど、どうにも上手くいかないまま、珈琲を口に含む。――嗚呼、やはり目が覚めるような味わいだ。
「遊びのつもりで三月を傷付けるなら、容赦はしませんよ」
ひやりと、喉元に刃の切っ先を突き付けられるような空気を感じて、大和は口を結ぶ。
遊びのつもり。遊びのつもりだ。ずっとそうだ。しかし、ナギにとやかくと言われる筋合いはない。だが、そうか、とも思う。
(あいつ、また泣くのかな)
愛らしくて、苛めたくて仕方ない泣き顔を思い出す。
(……ああいう風に、泣かせたくないな)
そう思ってしまった。
このままを続ければ、きっと欲しくなってしまう。どこかで箍が外れてしまうかもしれない。その時、いい加減で怠惰な自分の本質が三月を泣かせやしないだろうかと、そんな気持ちが頭を掠めた。
可笑しな話だ。欲しているのは自分なのに、それに飽いて捨て置くことを怖がるだなんて。
「やだなぁ、お兄さんいつでも本気だけど?」
多少遅れた軽口に、ナギが怪訝そうな顔をした。一番自分の事を訝しんでいるのは、大和自身であった。
手を引けるかどうかなんて、そんなの簡単だ。何かを諦めないでしがみついて、固執したことなど、生まれてこの方一度だってない。自分から手を離した方が傷付かずに済むことも知っている。最初から要らないものだった――そう決めつけることだって簡単にやってのけることができる。刹那の蕩けそうな温度だけで良い。自分に必要なのはそれだけだ。
(あのチビがいないなら、好都合じゃないか)
以前、次の逢瀬を有耶無耶にしていた女と予定を合わせ、出会茶屋に部屋を取る。
久方ぶりの女の体温に流石に体は疼くもので、約束の時間には性急に着物を剥いで絡み合った。行為に没頭している間は、他に何も考えなくて済む。
相手の女の顔には、夕方だと言うのに靄が掛かっているように見えていたが、それだってさっさと済ませてしまえば関係ない。今欲しいのは、何かを忘れるだけの熱だ。
頭を浮かしてくれるだけの熱さえあれば――そう思っていた筈なのに。容易く没頭できると、そう思っていた筈なのに。
はだけた女の胸を見ても、いやに頭は冷静だった。求められて口付けを交わした。触れて、角度を変えて、舌を吸い上げてみたところで、頭の芯はやけに冷静になるばかりだった。
(甘くもない、塩辛くもない)
無味と無意味で頭が一杯になる。
目の前の女と同様、自身も着物の前をはだけていたが、思わずそれをすっと戻す。
「すみません。どうやら疲れているらしい」
こんなにも無礼なことがあるだろうか。はらはらとする女性の目の前で、大和は脂汗を拭う。日を改めたところで、決して気軽な興奮は訪れなかった。
むしろ、日に増し頭に冷や水を掛けられるような、気色の悪いほどの冷静さが付き纏うばかりだ。
あまりに反応のない大和に、女の方が奉仕を仕掛けてはくれたものの、それでも体は生理現象を返すに過ぎず、胸は決して昂揚などしなかった。虚しい時間でしかない。
女を帰した後、大和は一人、茶屋の部屋で呆然としていた。
「……なんで」
三月に会わないまま、遂に二週を過ぎた頃だった。
ごろんと畳に転がる。乱れた着物を直す気にもならない。
「ミツ……」
砂糖菓子のような甘やかな接吻をしたい。目を閉じると、思っていたよりずっと柔らかい桜色の唇が瞼の裏に浮かんだ。愛らしさの中に隠れた欲を引き摺り出して、その裏筋を苛めてやりたい。無垢を汚して曝して見せ付けてやりたい。嗚呼、だけど、嫌だとは泣かないで欲しい。
(泣かないで……俺を、受け入れて……)
頭を過ぎった熱っぽい言葉に、大和は唖然とする。目を開けると、瞼の裏の幻はさっと消えてしまった。
体を起こして、それから思わず額に手を当てた。
身なりを整え、それから慌てて部屋を出る。廊下に出ると、空色はいつの間にやら濃紺を称えていた。
「あれえ」
ぼうと三日月を見上げている大和に、声を掛ける者がいる。
そちらをゆっくりと振り返れば、若葉色の着物を着崩した長髪の男と、黒と赤の着物を似た風に着崩した男が大和の方を見ていた。
「大和くんじゃん、どうしたの?」
「また女の子捕まえてたのかにゃ?」
きゃらきゃらと笑う男・百が、絡んでいた千の腕から離れて大和に駆け寄る。並の男の上背はあるというのに、女物の派手な桃色の羽織が実に似合っている。
そんな百が、どうやら大和の違和感に気付いたらしい。急に神妙な顔をして、ちょいちょいと大和の頭を撫でた。
「どうしたの、大和。泣きそうな顔して……」
「え、大和くん泣きそうなの? どうしたの……もしかして、今振られたばっかりとか?」
「振られてません……」
そこまで言って、大和は本当に俯いてしまったのだった。

月に叢雲と金平糖 ◆ 五


見目麗しい百と千は、巷では噂の絶えない芸達者な二人であった。しかし、それは決して良い噂ばかりではなく、無論聞き苦しい噂も跡を絶たない。遊び歩いては女を泣かせているだの、男色家であっちこっちに手を出しているだの、気むずかし屋で喧嘩三昧だの……全ての噂はくだらないものだと思いつつも、大和は二人のことをよく知っていたし、また、大和のことも知られてはいた。特に、千の方には。
(……男色家って言われたって仕方ないよな。二人きりで茶屋やら待合やらに出入りしてんだから)
大和は、布団に寛いでいる千をじとりと見る。大和の傍らでは、茶菓子を広げた百がどれがどうだこれは誰に貰っただのとのたまっては、大和の懐や手の中に詰めていった。
「ちょ、百さん……もういいですって。お腹いっぱいですよ、物理的に……」
いつの間にか着物の合わせに詰め込まれている茶菓子の包みを引っ張り出しながら、大和は百を押さえる。
「だって大和、なんだか元気ないんだもん。お茶も飲む? それとも、オレここで舞の一つでも踊ろうか?」
「こらこら、タダで踊ってやるなんてダメだよ、モモ」
千がたんたんと畳を叩いて笑った。百がくるりと踵を返し、寝転んでいる千に被さるように抱き付く。
「でも、大和とオレたちの仲じゃん」
「まぁ、大和くんが元気ないのは面白いけど、心配ではあるよね」
「ね、ね! そうでしょ!」
べたべたとしている二人を見やって、大和は眉間に皺を寄せた。
「面白くはないでしょ……性格悪いな、もう……」
はっきりと申し上げて「余所でやってくれ」という気持ちであった。
否、今は二人が取っている部屋に大和が邪魔をしているに過ぎないのだが、先に呼び込んだのはこいつらである。しかし、目の前でねんごろを見せられては、流石に苛立つ。大和は不愉快だと言わんばかりの表情で、ずるずるべたべたと絡む二人を見ていた。
その内、百がそれに気付いて、「やっぱりお茶でも淹れようか?」と呟いた。
「いいよ。僕が上等なのを一つ貰ってくる」
すると、それまでのんべんだらりとしていた千が立ち上がり、部屋を出て行った。百は「ダーリン、超優しい~」とうっとりしている。
「……百さんって、本当に千さんとねんごろなんですか」
日頃から気になっていることをぼんやりと口にすると、百は両の頬を手で覆って、きゃっと笑った。
「モモちゃんの旦那様、かっこいいでしょ! ……って、大和はずっと前から知ってるか」
「知ってはいますけど、百さんみたいに心酔はしてませんよ……できませんし」
「あはは、大和は相変わらず、ユキに素直じゃないなぁ」
素直も何も、そもそも性格が合わないのだろうと思う。気むずかし屋なのは本当のことだ。それは自分も例外ではない自覚があれど、千の難しさは一級品だと思う。百がいなければすぐに何かと言い合いをしてしまう大和と千との関係は、歳の離れた幼なじみのようなものだった。
大和の父親の元で雑用をして小遣いを稼いでいた千が、時折幼い大和にちょっかいを出す。ちょっかいを出されれば反発もする。そんなことの繰り返しだった。
「男同士って」
そう言い掛けて、大和はそっと口を覆う。
百の綺麗な目がゆるっと形を変えて、愛らしく微笑んだ。
「なあに?」
爪に紅を施した百の指先が、そっと大和の手に触れた。「言ってご覧」と言わんばかりの百に、大和はつい固唾を飲んだ。
「……男同士って、どうやるんですか」
「意外。興味あるの? 大和は女の子が好きなんだと思ってた」
「そう、なんですけど……最近、気になる奴がいて……」
「こらこら。気になる子がいるのに、お遊び止まりのお嬢さんをこんなところに連れ込んじゃダメでしょ」
百の指先が、窘めるように大和の額をつんと弾く。
「知ってたんですか……?」
「すれ違いに良家のお嬢さんが頬被りして出ていったからね。もしかしてと思って」
百に弾かれた部分を撫でて、大和は静かに息を吐いた。百には何かとお見通しのようだ。
「……俺、変なんです」
「何が?」
「百さんの言う通り、今日もお遊び止まりのつもりで茶屋入って、でも、全然反応しなくて」
だから、俺変なんですよ、とそう言えば、目の前の百がきょとんと目を丸くした。愛らしい瞬きをすぐ間近で見ると、どきりとする。すらっとした睫毛が、瞬きの音を立てそうだった。
「……大和、もしかして気になってるその子に本気になっちゃったんじゃないの?」
はたと瞬きを忘れた。百は鈴を転がしたように笑って、それから大和の頭を撫でた。
「だから、他の子じゃ満足できないんだ」
つつつ、と頬を撫でられ、気恥ずかしくなる。指先で弄ばれているのに、あまりに愛らしい仕草で怒る気にもならない。
「恋煩いってやつ……かな?」
百の言葉に、大和は思わず固まった。――恋煩い? 誰に、と言い掛けて脳裏を過ぎったのは、日だまりの中で振り返る小さな笑顔だった。
「……男同士はね。擦り合いっことか、あとね」
百が、するりと自身の腹を撫でる。胸を張って腰を引くと、爪先で自分の尻を撫で、そうして小さく呟いた。
「お尻を使うんだけど……ぬめり薬なんかでゆっくり解して、それから……」
上目遣いに見詰められ、大和はついドギマギとする。顎を引くと、百がその動揺を感じ取ったのか、笑い声を上げた。
「やだなぁ、大和、どきどきした? 必要になったら言ってよ。おすすめの油薬、教えてあげる」
眼鏡の向こうで視線をきょろきょろさせる。今、千が戻ってきたらどうしようか、まるで、旦那の居ぬ間に奥方と通じる間男のような気分だった。
「あれー……モモ、浮気?」
丁度そこへ千が戻ってきて襖を開けたので、大和はそのまま部屋の隅まで後退る。
「えへへ、モモちゃんは旦那様一筋ですぞ」
「へぇ? じゃあなんで大和くんは顔を真っ赤にしてるの? モモに誘惑された? ダメだよ。モモは僕のだから」
「わ、わ、わかってますよ!」
千の言う通り、顔だけが熱い。恐らく血が上って真っ赤になっているだろうそれを手で覆って、大和はなんとかその言葉を捻り出した。
「お茶、淹れてきたよ。一服しようか」
「うん!」
千が戻ってくれば、すぐにまた千に絡み付く百に、大和はやれやれと汗を拭った。本命が千なことはよくわかっているが、それでも迫られれば胸は早鐘を打つ。愛くるしい外見の中に妖艶さが垣間見えるのだから、百の周りに様々な噂が立つのも頷ける。
男から見ても魅力が絶えないのだ。女からすれば尚のことであろう。それは、千の方とて同じだ。神々しいまでに美しい銀髪と整った目鼻立ちは、まるで天の遣いのようである。
(性格は合わないけど……)
大和は、この千の外見にどうにも弱い。
「ん、何、大和くん」
「なんでもありません……」
百は大層利口な男であるから、きっと二人きりでした話を千にはしないだろう。というか、しないで欲しい。絶対に千にはバレたくない。
淹れてもらった茶の湯飲みを見下ろしながら、大和はきゅっと口を結んだ。そんな大和を見て、百は穏やかに微笑んでいた。
恋煩い――百に言われた言葉を反芻する。二人の部屋を早々においとまして、大和は手持ち無沙汰のまま夜の帰路についた。女を帰したのであれば、茶屋で過ごすのも虚しいことこの上ない。
誰も上げたことのない殺風景な自宅に戻る。実家から飛び出して、ただ寝て過ごすだけの部屋を借りている。それは、まだ巷では珍しいアパートメントの一室であった。
襟巻きを外し、多少乱れの残る着物を脱ぎ捨てて、大和は寝間着に袖を通した。特に何をしたでもないが、体が怠くて仕方ない。
(……出し損ねたな)
女体を見たとていきり立つ物もない。欲が枯れるには早すぎると下腹部を見下ろしてみたが、漏れてくるのは溜息ばかりだった。
ごろんと転がった寝床から天井を見上げる。月明かりに照らされた天井は、ただただ虚しさを増長させるだけだ。さっさと寝ちまおうと、大和は目を閉じた。
三月に会いたい気持ちを誤魔化すつもりの逢瀬が、結局何の役にも立たなかった。きゅっと眉を寄せる。
いつもの新聞社の前で捕まえた少し小柄な背中。振り返った団栗目が、日の光できらりと橙に光った。嗚呼、なんて眩しいんだろう。微笑んでくれるその表情が愛しくて、思わずぎゅっと抱き寄せた。すっぽりと腕に収まってしまう三月の体温がひどくぬくい。ぬくくてぬくくて、離したくないと思う。
愛らしい唇を自分の唇で塞いで、漏れる吐息すら飲み込みたくて角度を変えて何度も口付ける。逃れようとたじろぐ舌に舌を絡めて弄ぶ。溢れそうな唾液まで吸い上げた。離したくない。全部欲しい。だのに、三月には、とんと胸を押される。
仕方なく思って顔を覗けば、三月の頬がほんのりと上気していた。
「どうしたの、嫌だった……?」
そう問えば、三月は大きな目を見開いて、それから、大和の下腹部を見る。
「大和さん……」
そう三月の唇が形作っていた。けれど、声は聞こえなかった。
夢の中で声を聞く前に、大和は、はっと意識を取り戻してしまったからだ。
寝間着の上から股間に手をやって、愕然とした。触らなくたって当然わかる。自分の体なのだから。
「……嘘だろ」
あんなに音沙汰の無かった一物が、芯を持って勃ち上がっていた。夢精までいかなかったことに安堵しながら、けれど何一つ無事ではなく、自分の浅はかさに、大和は思わず頭を抱えて丸まったのだった。