嗚呼、なんて最低な男だろう! 三月は、今し方顔を合わせていた男への不満を、帽子と一緒に机へと叩き付けた。
さきに起こったことを思い返すと、怒りと羞恥が綯い交ぜになって顔から火でも出そうなものだった。
三月は、この町で記者をしている。外見が若干実年齢よりも幼いものだから、少年記者なんて揶揄されることもある。しかし、三月は実際には二十一の立派な大人であった。
叩き付けたばかりの帽子を拾い上げ、顔を埋める。ううと唸る声がくぐもって、何とも情けない気持ちになったが、それでもまだ怒りの方は収まりそうにない。
「和泉~、いつまで唸っているんだ。外回りは終わったのかい?」
新聞社の上司が、いつまでも自分の机を目の前に唸っている三月を見て、煙草の煙をぷかーと吐き出し、そう言った。
「終わってますよ!」
三月が突っ慳貪に返すと、上司は呆れたような顔をして、それからしっしと手を払う。
「何があったか知らないが、ここの空気が悪くなる。ちょっと珈琲でも飲んできたらどうだ」
あんたが会えって指示したからこんなことになってるんだぞ! という文句でも浴びせてやりたかったが、下っ端の三月に上司に逆らうことができるわけもなく、空気を悪くしているのはその煙草の方じゃないかと無言で睨みを利かせる。逆らえなくても睨むことくらいはしてしまう。何せ、三月は愛らしい容姿に反して血の気が多い。喧嘩の腕も中々の負け知らずである。
「どうしたどうした。猫みたいな目をして」
しかしだ、睨んだところで、可愛い顔では何の効果もない。
上司がニマニマと笑うので、三月は思わずたはぁと溜息を吐いた。
「……一服してきます」
「そうしなさい」
仕方なく、三月は鞄を背負い直して、美味い珈琲を出してくれる喫茶店へと向かうのだった。
「ミツキ!」
新聞社の近場の喫茶店には、大抵、綺麗な顔をした金髪の男がいる。名を六弥ナギと言った。
ナギは、喫茶店に入ったばかりの三月を見ると、青い瞳をきらきらとさせて抱擁を求めてくる。三月は手の平を向けてそれを遮り、ナギの隣のカウンター席に座った。
「珈琲」
店主は、はいよと景気の良い返事をした。けれど、三月の気は重いままである。
「ミツキはこれからランチですか?」
「休憩」
「ブレイクタイムですね」
不機嫌な三月に怖じ気付くこともなく、ナギは陽気に三月に声を掛けてくる。
「しかし、どうやらご機嫌がナナメのようですね。何かありましたか……?」
「……ちょっと嫌なことあってさ」
カウンターに頬杖を突いて、ぼんやりとする。三月を心配するナギの方に静かに椅子を向けて、三月は「ごめん」と呟いた。
「ナギに当たるみたいな態度取ってたな。ごめんな、ナギ」
「ノープロブレム。ワタシで良ければ話を聞きますよ」
気にしないでとにっこり笑って言ってくれるナギに、三月は改めて溜息を吐いた。すんなり話せる話題ならば、どんなにか楽だっただろう。
話せそうな部分を掻い摘まみ、三月は暫し頭の中で推敲をする。
そうして纏めた内容が、こうである。
この町には、謎の男扱いされている情報屋がいるらしい。
その男の話を振ってきたのは、新聞社の上司であった。
「なんですか、その胡散臭い話は」
「風来坊みたいな男でねぇ。どっかの財閥の跡取りだとか、有名役者の隠し子だとか、そういう噂の絶えない……けれど、どっか品のある男なんだよ、これが」
「なんでそんな男が情報屋なんてしてるんです?」
上司の話を聞きながら、その意図が全く読めない三月は何の気無しに疑問を投げ掛けた。上司は煙草の煙をぷかぷかとさせながら、のらりくらりと応じる。
「まぁ、暇潰しだろうねぇ」
そんな男の情報が当てになるのか、と言いそうになったが、上司が先んじて言った。
「だがしかしね、芸能関係も政治関係も、中々に信憑性のある情報を持ってやがるんだよ、彼は」
「へぇ……それで、その胡散臭い男が何なんです?」
三月がそう問うと、上司はぽつりと呟いた。
「お前、会ってみる気はないかい」
「はぁ、なんですって?」
「だから、和泉。会ってみる気はないかねと言ってるんだ」
「その胡散臭い風来坊に、ですか?」
三月は上司の言っている意図がわからないまま、口を尖らせている。仰け反るような姿勢でデスクの椅子に腰掛けていた上司はニヤニヤと笑って、ようやく三月の顔を見た。
「きっとね、気に入ると思うよ」
「オレに男の趣味はありませんけど……」
あえて言うなら、そんな胡散臭い男よりも、正統派の男前が好ましい。最近で言えば、軍服で闊歩している八乙女楽殿なんて最高だ。顔も端正で精悍。切れ長な目が涼やかな上、人柄も良い。また、お調子者ではあるが、ナギの顔も美しく整っているため、密かに三月は好ましく思っている。急¬¬¬に顔を近付けられると、迂闊にも心臓がどきどきとする。――まぁ、そんな話は置いておいて、だ。
三月に男の趣味はない。これは本当の話である。
「いいや、お前の方でなくって、相手の方がねぇ」
「どういう意味です?」
「何、とんでもないすけこましだそうだから」
なんだそりゃあ、最低だなぁ。三月はそんな風に思った。そして、上司の言う文脈を考えてみると、だ。
「……つまりは、オレが女顔だから、その謎の男とやらのお気に召すだろうってぇことですか……?」
思わず眉間に皺が寄る。顔を顰めて憤怒を露わにする三月を、上司はケラケラと笑い飛ばした。彼の座っている椅子が、ギィギィと音を立てる。
「ご明察だな、和泉記者」
「全っ然嬉しくねぇ……」
「まぁ、お前もお知り合いになっておいた方が良いこともあるだろう? さっきも言ったが、情報の信憑性だけはある。仮令、本人の人間性が歪んでてもなァ」
そんな歪んだお墨付きのある人間に、これから会えと?
三月は上司に渡されたメモを仕方なく受け取る。そこには、長屋の場所と何者かの名前らしき文字が書かれていた。どうでもよいが、字が汚いのだ、この上司め。
「二階堂……大和? ここに住んでるんですか?」
「いいや、それはな、多分仮の住まいだろうなぁ。客と落ち合う場所に使ってやがるのよ」
「客……?」
「ま、和泉記者のご想像にお任せするよ」
「任せないでくださいよ、そんなこと……」
「俺のおつかいをやることは伝えてあるから、顔合わせでもしてくるんだね。ああ、それとこれこれ」
続いて渡された茶封筒の厚みに、三月はむっと顔を顰める。
「二階堂への謝礼だ。ちょろまかすんじゃないぞ」
「しませんよ、そんなこと!」
三月は誠実な男であるから、一文たりともそんなことはしない。
そんなわけで、三月は上司に言われるまま、例の男の元へと向かったのであった。
「スケコマシ?」
「ああ、女たらしってことだよ……」
「Oh……不誠実な男だと言うことはわかりました」
日本語に長けているナギでも、時々知らない言葉にぶつかるらしい。それが、今回は「すけこまし」だったようだ。
そう、相手は何とも言えないすけこましだったのである。
さて、ここからはナギに説明するのが難しい部分もあるがどうしたものか、と三月は考えあぐね、とりあえずは回想に戻るのであった。
上司に言われた通りの長屋に向かうと、古くさい長屋に住むには似つかわしくない、どことなく品のある眼鏡の男が現れたではないか。
(確かに、八乙女殿やナギ程じゃあないが、端正な顔してんなぁ)
どこかの役者の隠し子と言われれば、それも納得である。
「よう、お前さんが編集長の言ってたお遣いの子……?」
深緑の羽織に袴姿、番傘を携えた姿がやけに様になっている。そんな男が眼鏡を上げ、ゆるりと目を細めた。
成程、綺麗な男だが、お遣いの子、という言葉の響きに三月はついムッとする。――こいつ、こっちを子供だと思っていやがる。
「初めまして、二階堂さん。和泉三月です。弊社の編集長がお世話になっております」
三月にとって、年相応に見られないことはわりと頻繁に起こる事象ではあるが、それにしたって気に食わないものである。
「いつぞやの御礼だそうです。今後とも、よろしくお願い申しあげます」
「そりゃどうも」
三月は上司から渡されていた封筒をさっさと渡し、その場から立ち去ろうとした。本当に顔合わせで済ますつもりだったのである。
だが、そんな三月の頭から、被っていた帽子が落ちた。
「ああ、ミツくん」
「み、ミツぅ……?」
「そうそう、三月だから、ミツくん」
突然の渾名に驚いて振り返ると、三月の帽子を拾っていた男が、ぱしぱしと砂埃を払って、三月に帽子を返してくれた。
「俺も、ミツくんのことを宜しく頼むって言われてるんでね。お前さん、今****って官僚のこと嗅ぎ回ってんだろ?」
三月が帽子を受け取ると、大和は、そのまま三月の腕を引いて、耳元に顔を近付けた。
「なっ……!」
「しっ」
呼吸の音がはっきりと聞こえるような距離で、大和が囁く。
「あれは、正妻がいるってのに若手の男役者を買い漁ってるって話だ。芝居小屋で話を聞いたら、いいようにされた奴らの訴えが聞けるかもな」
内容が内容である上、あまりに突然の囁きに、三月はぱっと大和から離れ、思わず熱くなった耳を押さえる。
「あらら。ミツくん、顔が真っ赤」
「う、うるせぇよ! あんたが急に変なことするから……! 大体、俺はもう二十一だ! 子供みたいに呼びやがって!」
「え、そうなの? 十四やそこらだと思ってた。俺の一個下か……じゃあ、くんはいらないか? なぁ、ミツ?」
まるで友人に話し掛けるように馴れ馴れしい男の態度。三月はキッと男を睨み付ける。しかし、全く怖じ気付いた気配のない男は、あろうことかぺろっと舌まで出したのだ。どうしたって馬鹿にしている。
「その馴れ馴れしい呼び方やめろよ!」
いまだ熱を持っている頬をごしごしと拭う。三月の目の前の男は、くくくと楽しそうに笑っていた。それがまた妙に腹立たしい。
「まぁ、そう言うなって。年の近い男が身の回りにいなくてさ。お前さんとは仲良くやれるんじゃないかと編集長に言われていたんだ。からかうような真似をして悪かったな」
そう言って一応は謝る大和に、三月は少し安堵する。
「そういうことなら……俺だって情報は欲しいし、あんたの情報が確かなことは聞いてるんだ。うまくやっていきたい気持ちはある。それに、さっきの話……ありがとう、当たってみるよ」
誠実に話してくれるのであれば、誠実に返さなければ。
三月は背筋をぴんと伸ばして、改めて頭を下げる。
「それで、報酬は? いくらなんだ?」
「ミツは律儀だなぁ。さっきのはほんのサービスだよ」
「そんなわけにはいかないだろ。これでもちゃんと給金は貰ってるんだ」
「……本当に律儀だねぇ」
何か考えるように顎に手を当てた大和が、そっとまた三月に近付いた。
「そうだな、そんなに言われると」
今度は耳に口を寄せやしなかったが、代わりに、三月の顎を大和の長い指が持ち上げる。
背が高い男なんだなぁと間抜けにも三月が思っていた矢先、互いの唇が触れそうなところではたと我に返った。
「お前さん、お顔が可愛いからな。お代は女のそれと同じでいいよ」
――それって、それって何だろう……?
ぽかん、と油断を見せてしまったばかりに、だ。三月の唇に、ふにとした感触が触れる。それは三月の口をちゅっと吸い上げると、名残惜しそうにゆっくりと離れていった。
「え」
「気が向いたら逢いに来てよ。イイ思いさせてやるからさ」
そんな風に言った男がひらりと手を振り、羽織を翻して歩いていく。三月は男の唇に触れられたばかりの自分の唇を手で押さえ、それから……
「な、何、された、今……」
手に持っていた帽子をぐっちゃぐちゃに握り潰したのだった。
そうして新聞社に戻り、帽子を叩き付けるに至る。
「……駄目だ。いくらナギでも話せない……」
組んだ両手を口元に当てて、三月はぐるぐるぐるると唸っている。まるで小さな獣のような三月に、ナギはワオ……と声を上げた。
「ミツキが、その無礼な男に大層怒っていることはわかりました。不届き者のスケコマシですね……」
ナギはミツキの肩をぽんぽんと叩くと、目の前に出されていた珈琲を飲むように促した。そして、店主に「サンドウィッチをひとつ、プリーズ」とウインクする。
「ぜってー許さねぇ……あのおっさんめ……」
「オッサン? 中年の男なのです?」
「ううん、オレの一個上だけど……」
それより、更にナギには言えないが、どうしてくれようかと怒る理由が他にもある。
嗚呼、悲しいかな。あの胡散臭い男に、三月の初めてが奪われてしまったのだから。
(さよなら、オレのファーストキスぅ……)
唸ろうが暴れようが帽子に当たろうが、これはどうしたって取り戻せない。嗚呼、憎らしい。そして悔しいったらない。
ナギの奢りで食べたサンドウィッチは、少し塩辛い味がした。