Mellow Gravity - 01
前は、こんなミツの姿をすぐ傍で見ていたな。そんなことを思う。
テレビの中の三月は、真剣な表情をしていた。思い描く姿に容易くは届かない自分の体と能力を恨めしく思っているだろうに、それを微塵にも見せまいとしている。そこにあるいじらしさが、どうにも心を惹き付ける。
以前は、こんな三月の姿を誰よりすぐ傍で見ていた。月の光に照らされながら、何度も何度も同じステップの練習をする三月を、今みたいにビール片手に眺めていたものだった。
大和は、右手で持っていたビールの缶を揺らす。缶の中で、炭酸の液体がちゃぷんと音を立てた。
「あ、今月から三月のチャレンジなんだ」
キッチンでホットミルクを温めていた陸が言った。その声で、大和は我に返る。
「ああ……これ、あれか。出演者が芸事に挑戦するやつ」
「そうそう。三月、レギュラーメンバーだから、いつかは回ってくるかもって言ってたけど、もう放送してたんですね」
「はは……リクは聞いてたんだ……」
ちびりとビールを飲む。陸がマグカップを両手で包んで、そっと大和の正面のソファに座った。
「大和さん、この間まで撮影で忙しかったですもんね。三月もレギュラー番組増えたし……二人共、ゆっくり話す時間なかったよなぁ……今日だって、オフはオレと大和さんだけですもんね」
「メッゾくんたちと、ナギがそろそろ帰ってくるんじゃないか? 飯の準備でもしとくか……」
「あれ、大和さん!」
陸がスマホを持ち上げて、大和を呼んだ。誘導されるままその画面を見ると、どうやら環からの連絡らしい。
「テイクアウト買って帰るけど、今日何人? だって」
「えーっと、俺とリクとナギも、かな。イチはどうするって?」
「一織は今日、ラジオのゲストで……あ、スタッフの方と夕食に行ってきます。そっかー……だから、環と壮五さん合わせて五人ですかね。ご・に・ん・だ・よ・!・と」
そんなこんなで夕食の連絡を取っている間に、三月のチャレンジコーナーの放送は終了していた。別のバラエティ企画に変わっている画面を見て、肩を落とす。
内容が断片的にしかわからなかったが、三月はどうやら日本舞踊にチャレンジするらしい。
(日舞、かぁ……)
――それ、結構難しくないか?
運動神経はあるし、ダンスも本人が気にするほどセンスがない訳ではない。大和は、凜々しい表情で舞う三月を頭の隅で想像しながら、はーっと息を吐いた。
「大和さん?」
「あ、悪い。タマに連絡してくれたか?」
「はい!」
陸のスマホの画面を見れば、王様プリンがぐっと親指を立てているスタンプが写っていた。大和は頷いて、ソファに座り直す。
「じゃあ、もう少しゆっくりしてますか」
そんな大和の正面で、陸が「ホットミルク冷めたかなぁ」と呟いた。
五人揃っているだけ、今日は幾分マシだ。最近は、一人ずつの仕事が多い。MEZZO"の二人は揃いになることが殆どではあるが、大和、三月、ナギの三人は仕事の現場がそれぞれまったく変わってくる。
視線をテレビに戻すと、三月は自分のコーナーが終わっても雛壇の中で上手にトークを回している。三月が望まれている現場だ。それはわかる。仕事があるのは有り難いことだ。わかっている。
「……ミツに会いたい」
わかってはいるが、大和はつい、そうぼやいていた。
「この間、一緒にミューステ出てたじゃねーか」
八乙女楽が、ざっくりと言った。
ドラマ撮影が一段落している間に、軽く飲もうと誘われた。楽と飲むのは嫌いではない。むしろ喜んで飲みに応じたい大和である。しかし、程好く酔った頃、個室のテーブルに突っ伏して漏れた言葉は「ミツに会いたい」、そんな情けない一言だった。
大和の言葉を律儀に拾って返事をしてくれる楽に僅かに感謝しつつ、しかし、僅かに恥ずかしい。陸は笑って流してくれたのに……。そうは思いつつも、気に掛けてもらえば悪い気はしない。
「出てたけどさ……仕事じゃん。話す時間ねーじゃん……」
顔を上げて言う。楽は「はぁ?」とでも言いたげな顔をしていた。
「いや、話せばいいだろ」
「そうじゃなくて、プライベートで!」
「プライベートも何も、お前ら、一緒に住んでるじゃねぇか」
「住んでるけど! 会えないんだよ! 忙しくて!」
「会えよ。時間作るから話そうぜって誘えばいいだろ」
「人類が皆、お前さんみたいに物を言えるわけじゃねぇんだよ」
我ながら、ああ言えばこう言うである。何度か繰り返して、楽がすっと静かになった。
「忙しいのは良いことだろ?」
「……う、悪い……なんていうか、それは有り難いことなんだけどさ……その、言い方が悪かった……」
「らしくないな。気にすんなよ。俺たちもすぐにまたそこまで行ってやる」
切り返しがイケメン……、国宝級……と、大和は再びテーブルにめりこんでいく。
楽のさっぱりとした返しは、自分にはとても真似できない。だからこそ気に入っている部分もある。
「なんていうかさぁ……」
「なんだよ」
「テレビのミツじゃなくて……俺しか知らないミツに会いたいんだよ」
――俺しか知らないミツ。待って、今、変なことを言ったかもしんない。そう思って、大和は慌てて顔を上げる。
「いや、今のナシ。変な言い方した」
「二階堂しか知らない和泉兄って?」
「いや、ナシって言ったじゃん!」
だからぁ、と徳利を傾ける。お猪口になみなみと注がれた日本酒を一口多めに飲み下し、大和は溜息を吐いた。
「あいつ、めちゃくちゃ努力家で、もう、めちゃくちゃ頑張り屋で……めちゃくちゃかわいいんだよ……!」
「それ、いつもの和泉兄じゃないか?」
「そうだけど! そうじゃなくて!」
そう、三月は表も裏もない。いつも本気でいつも一生懸命だ。目の前で不思議そうな顔をしている色男と似ているなぁと思う。ただし、楽はかわいい系ではない。
「ちょっと待って、俺、今すごい恥ずかしいこと言ってない……?」
「言ってるかもな」
「嘘……? タンマ。一旦ナシ。仕切り直すぞ」
「さっきからナシが多いな……男らしくないぞ、二階堂」
三月はこういう時に、男心を汲んでくれる。多少のタンマとナシは聞いてくれる。多少は。ただし、楽は違う。ストレートな楽の「男らしくない」に、大和は短く呻いた。
「でも、確かに、ミツは表裏ないからさ……いつもの姿って言われたらそうなんだけど。だけど、なんていうか……」
俺だけが見ていたい瞬間があって、それを暫く拝んでいないな、なんて、今度は口に出す前に気付いた。ああ、これは言ってしまってはならない、言葉にしてしまってはならないものだ。
「……ミツと、ゆっくり話したいなって思ってさ。今の俺と、お前さんみたいに」
咄嗟に誤魔化してぼかした言葉でも、楽は黙って聞いてくれた。ぼかしただけで、嘘ではない。本心ではある。
「時間、取れると良いな」
楽の返事に頷く。それから、手元の徳利を傾けた。しょうもない話に付き合ってくれた礼に、楽に酒を注いでやりたくなった。
それにしても、あまりにも時間が合わない。大和の方も、また次のドラマ撮影がスケジュールに組み込まれている。主演ではないが、次もなかなか良い役を頂いている。今から直感している。忙しくなる……と。だから、できるならその前に、三月とゆっくり時間を取りたかった。
……いや、なんでミツばっかり時間が合わねーの? 磁石? ロミジュリ? そんな風にもんどりを打っていたところを、リビングに入ってきたナギと環に目撃されてしまった。
酔っ払いの情けない姿程度に思われていると良い。その時は酔っていなかったが。いや、一織に見られるよりはマシだ多分。
「話したいならさ、話したい~って言えばいいじゃん」
スマホでゲームをしながら、環が言った。
「イエス。タマキの言う通りです」
環と同じように、スマホの画面に向かってするすると指を動かしているナギも言う。
「ロミオとジュリエットならば、ロミオにはジュリエットに会いに行く努力も必要ですよ」
「まぁ、みっきー、ちょー忙しそうだけどなぁ」
「日本舞踊のレッスンもしていますからねー。放送が楽しみです! ミツキならば、きっと花の妖精のように可憐でしょうね!」
「どうかなー、みっきー男らしいから、かっけー方じゃね……?」
あ、勝った! と環が声を上げる。環とナギの二人は椅子から立ち上がって「イエーイ!」とハイタッチした。どうやらマルチプレイに勤しんでいたらしい。
「てかさ、ヤマさんがロミオなん?」
「ヤマトは、ジュリエットのように待ってばかりですがね。ミツキがロミオかもしれません」
ナギの言葉に、環が大和の顔を一瞥する。
「……たしかに!」
「こらこら、お前ら……お兄さんのこといじめるなよ」
そうは言いつつも、頭の中でナギの言葉を反芻する。まったく、いつも刺さることを言ってくれるものである。
――ジュリエットに会いに行く努力も必要、か。
大和はポケットからスマホを取り出して、裏に返したり表に戻したりしてみる。環とナギは、既に大和への興味を失っているようだった。
(でもさぁ、ミツだって忙しいのに)
俺のために時間を割いてもらうなんて……って、どの口が言うんだ、今更。夜中に好物作らせたり、飯の合間につまみ作らせたり、今更だ今更! そう思って、ラビチャのアプリを開いた時だった。
『大和さんさぁ、暇な時間ある?』
突然、三月からのメッセージが飛び込んできた。大和は思わず立ち上がる。
「えっ」
ついでに漏れた素っ頓狂な声に、環とナギが振り返った。
「お! みっきー?」
「ミツキですか?」
「いや、その……えっと」
慌てる大和を十分に眺めてから、環とナギはゆっくりと溜息を吐いた。
「やはり、ミツキがロミオでーす……」
「それな……」
呆れたと言わんばかりの二人に、大和は何も言い返すことができなかった。
「大和さん、入るけど良い?」
「おー、どうぞ」
ドアから顔を覗かせた三月は、シャワーを浴びたばかりらしく、濡れた髪のままだった。
「おいおい、ちゃんとドライヤー掛けなさいって……」
大和は、三月が首に掛けていたスポーツタオルを引き抜いて、三月の頭に被せ、柔く拭いてやる。良い匂いがする。タオルの内側で、三月が「わ」と声を上げた。
「話終わったら掛けようと思ってたんだって……」
「ったく……ちょっと待ってな」
ドライヤーを取りに部屋を出ようとすると、三月が大和を呼び止めた。
「大丈夫だよ! そんな長く時間取らせないし……」
すぐ終わらせるつもりで来たんだ……と、少し口が尖る。
(いや、ゆっくりしてる余裕ないよな……今日も、もう遅い時間だし)
唇の端から曖昧な言葉を漏らしながら、大和は自室のドアを閉めて廊下に出た。
「寂しいこと言うなよ……」
時間があるかどうかを聞かれた。すぐに空けると返事すれば、「聞きたいことがあるから、部屋行っていいか」と返信が続く。それに対して、願ったり叶ったり。喜んで! と返しそうなところを、あえて素知らぬ風に「いいよ」とだけ返した。
そんないそいそとした大和を、ナギと環はやはり生暖かく見ていたが、最早大和にはそんなことはどうでも良かった。いや、少し気恥ずかしい。しかし、まぁそれも今更だろう。
多少なりとも浮かれて待っていた結果が、「そんなに時間は取らせない」、それが三月の気遣いなのかもしれないが、今の大和にとっては、ただただ寂しい。
「あーやめやめ! 男らしくねぇわ、確かに!」
つい昨日、楽に言われた言葉を思い出す。
時間が惜しい。一分一秒だって惜しい。大和は洗面所からさっさとドライヤーを持って部屋に戻った。
自分の部屋のドアを開けると、大和のベッドの上に三月が腰掛けている。
「大丈夫だって言ったのに」
「いいから。ほら、頭貸しな」
ドライヤーをコンセントに差して、自分もベッドに座る。
そこまですると、流石に三月も諦めたのか、大和に背中を向けて肩を落とした。ドライヤーの電源を入れて、三月の髪を掻き上げながらやんわりと温風を当てていく。
「人に掛けてもらうと、眠くなるんだよなぁ……」
「わかる」
特に、今は疲れてるだろうからと思いながら、柔らかくて少し猫っ毛な髪を掻き上げては、絡まないように梳いていく。
「大和さんさぁ」
「んー?」
簡単に髪を結んでやることはあったが、こうやってコンディションを整えてやるのも、なかなか気分が良いかもしれない。そんなことを考えながら、一度ドライヤーのスイッチを切った。
「日本舞踊って、やったことある?」
「いや、ない」
「そっかー……もしあったら、話聞きたかったんだけど……」
「ガキの頃に観に行ったくらいかな」
「へー」
大和の方を振り返ろうとした三月に当たらないようにと、ドライヤーを持っている手をぱっと上げる。
「こらこら、動かない」
「もういいじゃん。まだかよ……」
「まだまだ。次、冷風当てるから」
「うわー、フルコースだ」
渋々とまた背中を向けた三月の髪に、ひんやりとした風を当てる。
「何やんの、演目」
「なんだっけ、えーっと……関の小万……? ちっちゃい子供たちとお稽古してる」
へー、と生返事をしながら、大和は三月の髪をさらさらと解いていく。ぼんやり、一生やってたい……と思い始めた辺りでドライヤーのスイッチを切った。流石にやばい思考だと思って首を振る。
「終わり?」
「終わり」
「ありがとう、大和さん。うおー、さらっさらだ!」
照れくさそうに笑う三月が、自分の髪に指を通して遊び始めた。折角さらさらにしてやったのに、既に毛先がほわんと跳ねている。そちらの方が三月らしいと言えばその通りなのだが……。
大和は、ドライヤーのコードを巻き取りながら言う。
「日舞って、たしか女踊りと男踊りとなかったっけ」
「ある。あるけど、最初は女踊りで基礎を学ぶんだってさ」
「関の小万か。玉兎じゃないんだな」
「玉兎?」
演目に関して呟けば、三月が小首を傾げた。きょとんとした顔が可愛い。大和は、ニヤッと笑って見せる。
「おー、調べてみろよ」
「あ、携帯、部屋に置いてきた……後で見てみるわ」
ドライヤーを終えて一段落すると、三月が両腕を伸ばして伸びをした。
「話も終わったし、部屋戻って寝るかー」
「え、もう戻んの……?」
「おう、ありがとな、大和さん。ドライヤーもサンキュー」
ベッドからひょいと立ち上がった三月を見上げて、大和は言葉にならない声を上げる。楽やナギに色々と言われてはいたが、咄嗟には言葉が出てこないものである。
「も、もうちょっといればいいじゃん!」
だから、やっと出てきた言葉はあまりにも稚拙だった。
「もうちょっとって……でも話は終わったし。悪いけど戻るわ。髪も乾かしてもらったしさ」
「他に話したいこととかないのかよ。ほら、俺ら、この間ミューステ出たくらいじゃん? 仕事一緒だったのさ」
「最近、家の中であんまり会わないもんなぁ……」
「そうだよ!」
「じゃあ、大和さんは何かある? オレに話したいこと」
縋るように言葉を掛けていたが、返された三月の問い掛けに、つい「あ」と喉が詰まった。
そう言われると、別段伝えたいことはなくて、ただ隣に座っておしゃべりして欲しいなんて、それこそ幼稚なことしか思い付かなかった。
しかし、それが疲れているらしい三月を引き留める程の理由になるのだろうか? 頭の中に浮かんだ疑問は、思っていた以上に大和を落胆させた。
「……ごめん、これと言ってなかった」
「そっか」
大和が少し俯くと、三月が首を傾げて大和の顔を覗き込む。
「悪い。なんか、気ぃ遣わせた……?」
「いや、お兄さんはしばらく余裕あるけど、ミツは忙しそうだからさ。ごめんな、俺、ワガママ言ったよな」
そう言うと、三月の表情が僅かに曇った。
「……あんたがワガママ言うの、今に始まったことじゃないだろ。今更そういう言い方すんなよ。ごめん、必ず時間作るから」
「いいよ。俺は大丈夫だから。ミツが都合良い時でいい」
――どうしていいかわからないというような顔をしている。
三月が眉を寄せて、その困ったような顔で大和を見た。
「どっかで必ず埋め合わせするから。せめておかず作っといてやろっか? 簡単なやつならなんとか」
大和はベッドに座ったままだから、もっと俯けば三月からは表情が見えないだろう。だけど、隠さないとならないような顔をしているつもりはない。顔を上げる。
「いいよ。いや、そりゃあ嬉しいけどさ。ミツが無理することないっつーか……」
どうにかして突っぱねようとしているのに、どうにかして気にさせまいとしているのに、目の前の三月は困惑していくばかりだった。けれど、大和も困っているのは同じだ。
どうすれば良いんだろう。さっと部屋を出てもらって構わないのに――多分、実際には構うので、そういう態度が出ているんだろうと思う。
そんなことを考えていると、突然三月に両側の頬を掴まれた。
「え、なにっ!」
「言えよ。叶えてやれるかはわかんねぇけど……言うだけ言えよ」
頭を引き寄せられて、顔が近付く。三月は凄んでいるのにかわいい。目が大きい。眠いのか、少し潤んでいる。
「何がいいんだよ? ブリ大根か? それとも、炊き込みごはんか!」
「は? ちが……違うって! いらないっつってんだろ、大丈夫だってば、七五三!」
「七五三言うな! おっさんいい加減にしろよ!」
こんなに近付いてはいけない。今は特に。
こんなに近付いたら、三月の引力に引き込まれて離れられなくなってしまう。目の前に星が飛んで、胸が一杯になる。
「い、いい加減にしてるだろ、俺は!」
大和は、三月の脇の下から腕を差し入れて、細い腰をぎゅっと引き寄せる。頭を三月の胸に当てて、それから溜息を吐いた。
「え? なんだよ、甘えたかったの?」
「違うよ……」
心地よい引力。今じゃなかったら、もう少し我儘を言って、もう少しの間だけ感じていたい引力。
ごしゃごしゃと、三月が大和の髪を掻き混ぜる。自分のは綺麗に整えてもらっておきながら……とも思ったが、勝手に大和がお節介をしただけだ。
腕を緩めて、それからゆっくりと三月から離れた。
「……会いたかったんだよ」
ちゃんと目を見て言わないとならない気がして、三月から手を離して顔を上げる。眼鏡がずり下がっている気がするが、今は直さないことにした。
「会ってるじゃん」
「仕事以外で、ミツの顔、碌に見てないからさ」
声が掠れたような気がした。けれど、言い直す気にはならなかった。
大和の言葉に、三月が不思議そうに首を傾げる。その表情に、大和は曖昧に笑うことしかできなかった。
三月は、自分で思っているよりずっと魅力的で、ずっと引力がある。大和も、大衆も、その引力に惹かれている。
翌日の午前中、昼前の番組でレギュラー席に座っている三月を見ながら、大和はふああと欠伸をした。
環と一織は今日は学校を休んでいて、別々の仕事がある。普段だったら弁当を作る時間を、朝寝する時間に費やした。
三月の番組打ち合わせはきっと朝早くからだったろうに、昨晩は変なことを言って困らせてしまったなと思う。あの後「おやすみ」と言ってそれぞれすんなり就寝したが、それでも駄々をこねた自分に僅かな後悔があった。
冷蔵庫を開けて、牛乳のパックを持ち上げ、気付く。
棚の中に、メモ付きの小皿がある。「おっさん用」と書かれた小皿を覗き込むと、そこには出汁巻き玉子が鎮座していた。
大和は、冷蔵庫を開けたまま、思わず掌で顔を覆う。冷蔵庫の開けっ放しを報じるアラームが、ピーピーと音を立てていた。
Mellow Gravity - 02
なぁ、と呟く。
「はい?」
それを聞いて、楽屋でナギが振り返った。
他のメンバーはそれぞれ挨拶まわりに行っている。一番早く楽屋に戻ってきたのが、三月とナギだった。
今日は、アトラクション番組のゲスト参加だ。ここ最近だと珍しく、バラエティでもメンバー全員が揃っている。
「どうしました、ミツキ?」
「オレ、何か変かな……」
不思議そうに首を傾げるナギに、ミツキは番組用衣装のTシャツの襟を掴んで、軽く扇ぐ。
「強がってるように見える?」
「何故です?」
「大和さんがさ、すごい遠慮してくるんだよ。して欲しいことがあるなら言うだけ言えよって言っても、いいよと大丈夫しか言わないんだ。らしくないよな……?」
三月がそう尋ねると、ナギは合点がいったように目を閉じ、顎に手を当てて呟いた。
「Oh……ロミジュリ案件、思ったより深刻なようですね……」
「え? 何?」
「いえ、こっちの話です」
ナギは、楽屋のテーブルの上に肘を突いて、両の手を組んだ。ロミジュリだかなんだかは知らないが、一応真剣に話を聞いてくれるつもりらしい。ナギは大抵、三月の話には真剣に取り組んでくれるのだが。
「ミツキはいつも通りですよ。一生懸命、仕事に取り組んでいます」
「それなら良いんだけど……」
「ですが、ヤマトはいつも通りとはいかないようですね」
ナギの言葉に、三月は「そうだよなぁ……」と頷いた。
けれど、どう対応してやったら良いのかわからない。わからないからそれを聞きたいのに、大和は素直に話してくれない。何かよからぬことを考えて、隠したいわけではないのはわかっている。三月を気遣ってくれていることもわかる。
「ヤマトはなんと?」
「オレに会いたかったんだって。でも、変な話だよな。会ってんじゃん。今日だって同じ現場なんだぜ?」
三月があっけらかんとして言えば、目の前のナギは整った眉根を寄せて、笑顔を溢した。あまりにも愛嬌のある表情だったので、誰も彼もが見惚れそうだなと思った。
「……ヤマトの気持ち、わからなくもありませんね」
「ナギ……?」
「ワタシは今ミツキとおしゃべりを楽しめていますが、ヤマトとはどうですか?」
「……ああ、前ほどおしゃべりってのはしてないかもな。それでも不便はないけどさ……」
「……ヤマトとミツキは、話さなくてもどこかで通じるものがあるのでしょうね」
ナギの言葉に、つい笑顔が溢れた。くすぐったい。けれど、付け足さなければならないこともある。
「お前らとだってあるよ」
「そうだと嬉しいのですが」
手を組んでいたナギが、ひらりと指を解いた。
「けれど、通じるものがあるからこそ、言葉を交わさなくて済んでしまう」
確かに、一対一で話をしたのは、この間大和の部屋に行ったのが久し振りのことだったかもしれない。時間は取れていないかもしれない。
だからと言って、どうせ結果的に甘えるんだから、変な遠慮なんてしなければいいのに。
「ふぁぁ……」
ナギと話していると、気分が落ち着いてくる。つい欠伸が溢れた。
「あ、悪い……」
「いいえ。ミツキは今日も、ニホンブヨウがあるのですか?」
そういえば、今日もこの収録の後には日本舞踊のお稽古があるのだった。このままサブマネージャーに送ってもらう予定だから、道具も車に乗せてある。
「そう。収録以外でも稽古は続けてるからさ」
「皆、楽しみにしていますよ。特にリクとイオリが、録画して永久保存版にしようと盛り上がっていました」
「はは、永久保存はちょっと恥ずかしいな……けど、見せられるもんにできるように頑張るよ。ありがとな」
うんうんと頷くナギ。心なしか、嬉しそうな顔をしている。
日本文化が好きなナギのためにも、精一杯取り組みたいし、喜ばせてやりたい。そう思うと、身の引き締まる思いがした。
「よーし! 今日もお稽古頑張るぞ!」
「その意気でーす! オケイコ、頑張りましょう!」
「ただいまー!」
意気込んでいる三月と、それを鼓舞するナギの元に、陸の元気な声が飛び込んでくる。その後から一織が続いた。
「戻りました。……二人で拳を握って、何の話をしていたんですか?」
「ミツキのオケイコの話です!」
楽屋に戻った勢いのままテーブルに上半身をダイブさせていた陸が、ばっと起き上がる。
「あー! あれ! すっごく楽しみにしてるんだよ! ね、一織!」
「七瀬さん、兄さんにプレッシャーを掛けないでください」
「なんだよ、一織だってすっごい楽しみにしてるくせに……」
「そうですね。とても、すごく、楽しみにしていますよ」
「ほらー! 録画して、みんなで見ようね!」
ワーワーと騒ぐ陸とは対照的に落ち着いている一織。ナギもにっこりと笑って、二人の話に相槌を打っている。
暫くして、三月が陸の背中をとんと撫でた。
「陸、結構体を動かす番組だからさ、ちょっとだけ落ち着こうな」
「うん! みんな一緒だから、テンション上がっちゃった! ちょっと白湯飲んどくね」
「そうしてください」
楽屋に備え付けられているポットを覗きに行った陸の背中を眺めつつ、一織が微笑んだ。
「兄さん、日本舞踊はそれなりに体力も使うと聞きます。体に気を付けて、頑張ってください。私も、本当に楽しみにしています」
「おう! ありがとな、一織!」
「いえ……」
照れているのか、少し俯いた一織を見て、三月とナギは顔を見合わせ笑った。
「あ、そうだ! ねー、一織~!」
すると、突然、陸が自分の荷物の中から赤色のタオルを取り出した。
「なんですか? 散らかさないでくださいよ……」
「わかってるよ! それより、見て見て、このタオル!」
陸がぱっと広げたハンドタオルには、一織の部屋でよく見掛けるうさぎさんの刺繍がしてあった。
「なっ……! なんですかそれは……!」
一織が、明らかな動揺を見せる。しかし、陸の「見て見て~!」は止まらない。
「この間、百さんにもらったんだ~! 持ってきたの思い出したから、一織にも見せようと思って! ほら、みみちゃんとロップちゃん!」
「う、かわ……っ! ごほん! わかりました、わかりましたから、もう片付けて……!」
タオルを広げて見せびらかしている陸に、大股で近付いていく一織。二人の遣り取りを見守りつつ、ナギが、ちらりと楽屋の時計を見る。
「……ヤマトとMEZZO"の二人が戻りませんね」
「だな。どっかで捕まっちゃったかな……オレ、探してこようか」
「いけません、ミツキは方向音痴が……」
「大丈夫だって。局の中では迷ったことないし!」
そう言って、三月は楽屋を一人で出る。さて、あいつらは誰の楽屋に向かったんだろう? と思いながら、通路をあてもなく歩き出した。
その傍ら、ナギの言葉を思い出す。通じるものがあるからこそ、言葉を交わさなくて済んでしまう――それを自覚すると、途端に大和の声が恋しくなる。
(ごめんな、大和さん。オレ、話さなくてもいいなんて思ってないよ)
受け流すみたいに扱った気はないが、それでも大和が踏み込めなくなってしまうような気持ちにさせてしまったのかもしれない。少し焦燥する。
誰より甘えたがりなのに、あんな風に躊躇するなんて、大和らしくもない。
「……甘えればいいのに」
――甘えさせてやれたらいいのに。
ただの出汁巻き玉子に『めちゃめちゃ美味かったよ。やっぱりミツのが一番好き』とラビチャを送ってきた大和のことを思う。にやける口元に手を当てて、はたと気付いた。
「ん? ここ、どこだ?」
途端に、自分が口にした言葉を思い出す。
「きょ、局内では迷ったことねぇのに……!」
考え事をしてたら迷った。というか、楽屋のフロアから離れてしまった。
「や、やばい! 戻らないと……!」
慌てて、三月は早足になる。一度回れ右をすると、不思議なことに方向感覚が麻痺する。認めたくはないが、やはり方向音痴の気が激しいのかもしれない……と、後悔してみても遅いが、とにかく今は戻らなければ!
そうはやる気持ちのままに足を進めていくと、丁度ドアから通路に出てきた姿に見覚えがある。三月は、ほっと胸を撫で下ろした。
「あっぶねぇ! 良かった、迷うところだった!」
三月は目の前の大和に駆け寄って、それからはぁーと長い息を吐く。
「何、ミツ迎えに来てくれたの? ていうか、もしかして迷ってた……?」
「そ、そんなんじゃねぇよ! あんたのこと迎えに来たのは本当だけどさ」
迷ってたんだろ……と小言のように言われ、三月はくるりと踵を返す。
「違うって!」
「ったく、危なっかしいな、お前さんはー」
「だーかーら、迷ってないって言ってんだろ!」
「はいはい」
しつこい大和の方など振り返ってやるものかと思いながら、ずんずんと通路を進んでいく。
「あ、ミツ」
突然、大和に腕を引かれた。先に進もうとした反動で、勢い余って大和に背中から寄り掛かる形になり、そのままぎゅっと抱き締められた。
「お!」
「……ミツ、そこ右折」
すれ違ったスタッフが二人を見て、驚いたような顔をした。けれど、すぐに微笑ましげに笑う。それに応えるように、大和はぺこっと会釈をしていた。
「えーっと……」
三月は、と言えば、肩に手を置かれ、体の向きを右向きにされる。そのまま、大和の手がとんとんと三月の背中を叩いた。
「はい、直進ー」
「了解……」
驚いて、心臓が少しどきどきした。Tシャツの上から胸をとんとんと叩く。――落ち着け、落ち着けオレ。
「お前さん、楽屋までの通路わかんなくなってたのに、よく俺の所に来れたな」
「だな……なんでだろう、なんかに引き寄せられたりして」
「……引力?」
「なんだよ、引力って。でも、そうかもな。目に見えないし、普段気にも留めないけど、そういうのって引力っぽいかもな」
隣を歩いていた大和が、柔らかく笑った。暫くお目に掛かっていなかったような気がするそんな表情に、三月ははたはたと瞬きをする。
IDOLiSH7の楽屋の前で足を止めた大和に倣って、三月も足を止めた。
すると、大和が三月の肩を抱いて、かっくりと首を横に倒す。三月の頭に、大和の頬が触れる。
「俺も、引力感じてるよ」
ぴたっとくっついて三秒ほど。そうしてぱっと離れたかと思うと、大和は楽屋のドアを開けた。楽屋の中が、またわぁっと騒がしくなる。いつの間にかMEZZO"も戻っていたらしい。
一方で、
(何、今の……)
三月は僅かなんて言い難い、永遠にも似た三秒の中にただ一人取り残されたのだった。
これはもしかして、寂しくさせすぎたかもしれない。三月は、稽古着の着物を見下ろしながら呟く。
「いや、和服見たからって、大和さんのこと考えなくても……」
似合うもんなぁ。日本舞踊なんて、きっと器用にこなしてしまうんだろうと思う。
もしかして、オレよりも大和さんみたいなタイプがチャレンジした方が良かったんじゃ……? そこまで考えて、頭をぶんぶんと横に振る。いやいや、何言ってんだ! そんな中途半端な気持ちじゃ打ち込めない!
稽古をしている内に着物も着られるようになるかと思いきや、なかなか一人で着る機会がなく、たまに着付けて頂いて、それをまた片付けてもらうの繰り返しだった。
元々体幹は鍛えているから、足運びや摺り足は随分と良くなった。……はずである。
とは言え、番組企画の期限に合わせてある程度は仕上げなければならない。ダンスと舞踊では気を付けることがまったく変わってくるが、繊細な所作なんかはダンスにも活かせるかもしれないし……! と、三月は拳を握る。
それにしても、である。和服を見ただけで大和のことを思い出すなんて、よっぽどだ。
仕事の現場では週に何度かは一緒だが、家の中での時間は取れない。大和にドラマの撮影が入ってない今がチャンスだと言うのに……うかうかしていると、次の撮影や、放送に伴う番宣で忙しくなってしまう。
いや、現場でも積極的に話せばいいのに! 三月はそう思うが、この間の迷子の一件以来、大和の様子がおかしい。
厳密に言うと、おかしいのではなく普通に戻っているのだ。謎の「会いたかった」発言の行方はどうなったんだろう。何かが解決してくれたのか、それとも――それとも、諦めてしまったんだろうか?
「結局、出汁巻きしか作ってやれてないし……」
稽古が終わったら、何作ってやろうかなぁ。
三月の通常の仕事に加え、今はお稽古に時間を取られているから、家のことはほとんど大和と壮五がやってくれている。陸は体調管理の兼ね合いでどうしても家にいる時間が多いので、陸なりに出来ることをやってくれているという話も聞く。
「何作ろっかなぁ……」
「三月くん、何作るの? ごはん?」
小学生の稽古仲間が、三月の顔を覗き込んで首を傾げた。
着物を畳めていない三月の代わりに、四つん這いになって稽古着を畳んでくれている。
「わぁ! 大丈夫大丈夫! 自分でやるって!」
「三月くん、おうち帰ってごはんするのー? 大変だから片付けてあげるね」
一人だったと思いきや、二人目の男の子が「ぼくもー」とやってくる。三月が慌てている間に、二人で三月の荷物を片付けてしまった。
「あ、ありがとうなぁ……」
「三月くん、いそがしそーだからいいよー」
「みんなも忙しいだろ? 学校行ってきてからのお稽古だもんなぁ……」
「三月くん、お仕事おつかれさま~」
「おつかれさま~」
二人の男の子に労われ、三月は「たはは」と頭を掻く。
「ありがとう」
今度、実家のお菓子でも持ってこようかな……と思う。
片付けてもらった渋紙色の着物を抱えて、三月は稽古場を後にした。
「今日は、このまま帰れるかぁ……」
流石に、番組企画の稽古をしているとなると、飲みの誘いも受けにくい。なるべく出るようにはしているが、それでヘマをしては元も子もない。
「百さんとかって、すげーよなぁ……よっぽどじゃなければ、飲みの誘い断ったことないらしいし……」
三月と仕事の方向性が似ているから、百も肉体派のチャレンジ企画をこなしてきただろうに……。
三月は、いつの間にか丸まっていた背中をぴんと伸ばし、それから「ダメダメ!」と頬を叩いた。自分を奮い立たせる。
「あ、でも、姿勢はかなり意識するようになったかも……?」
稽古の影響を感じながら、三月はサブマネージャーの迎えの車に乗り込んだ。
「ありがとうございまー……あれ、マネージャー?」
すると、助手席には、ふわふわとウェーブの掛かった髪の女性が座っていた。
「三月さん、お疲れ様です!」
にっこりと笑った紡マネージャーに、三月は思わず顔がほころんだ。一瞬、全ての疲れが吹っ飛んだような気がした。
「少し時間が取れたので、三月さんのお迎えに伺いました」
「小鳥遊さん、ここのところデスクワーク続きだったので、お誘いしたんですよ」
運転席のサブマネージャーも少しだけ振り返り、頷いて見せる。
「びっくりした……!」
「お誘いも頂きましたし、三月さんのことびっくりさせようと思って来てしまいました。お邪魔じゃなかったですか?」
「邪魔なわけないだろー! 嬉しいよ!」
三月はサブマネージャーの後部座席に座って、それからシートベルトを締めた。車が走り出したのを確認してから、紡がゆったりと後部座席の方を振り返る。
「お稽古の調子は如何ですか?」
「順調! ……って言いたいけど、まだまだ全然。小学生の子たちの方が立派に踊ってるよ。日本舞踊って、足腰に結構くるのな」
「そうみたいですね。ラビチャで進捗も教えて頂いて、私も少し調べたり動画を見てみたりはしていたんですが、優雅に踊ってるように見えても、結構汗をかかれるとか……」
「そうそう! オレもそれは驚いた」
荷物の中のスポーツタオルを見て、三月は頷いた。稽古が終わって、着替える時には汗だくになっている。
「あんなに涼しげに見えるのになぁ……」
「大変ではないですか?」
「大変だけど、面白いよ。日頃の姿勢なんかも気遣うようになってきたし」
「三月さんが楽しまれてるようなら良かったです。何か困ったことがあったら、すぐに仰ってくださいね」
「うん、ありがとな、マネージャー」
フロントガラスに向き直る紡の背中を見て、三月はほっと息を吐いた。
紡と話すと落ち着く。久し振りに穏やかな時間を取れているような気がした。車窓の景色の中を流れていく街の明かりに目をやった。疲労感も相俟って、なんだか眠くなってくる。
「あ、そうだ、三月さん」
「ん、何……?」
ごめんなさい、眠ってらっしゃいましたか……? と律儀に聞いてくる紡に、三月は苦笑する。
「大丈夫」
「過密なスケジュールが続いてますので、せめてこのチャレンジの収録が終わった後、三月さんのご希望に沿ったオフを設けたいと思います。ご希望があったら教えて頂きたいです」
「本当? 良いのか?」
「確実とは言い難いのですが、一日二日くらいであれば、なんとか調整しますので……!」
拳を握っている紡を見て、三月はこめかみをこてんと窓ガラスに当てた。
「ありがとう。考えとくよ」
「はい。決まりましたら、いつでもラビチャくださいね」
うん、と返事をしながら、眩しい街灯の連なりを見やる。三月が疲れているのを察してか、紡はそれ以上声を掛けては来なかった。
もう少し話したかったな、だとか、折角だから笑ってもらえるような時間にしたかったな、だとか、考えはしたものの、この小さな車内の空気に甘えて、三月はそっと瞼を閉じる。
目を閉じていても、いくつもの光が瞼の裏側をきらきらと走っていった。それを、ゆっくりと見送った。
「ミツ」
「ん……」
肩を軽く揺すられ、名前を呼ばれた。目を無理矢理こじ開けようとしたが、視界はぼやけるばかりで、つい手で目を擦る。
「やまとさん……?」
「ウチ着いたぞ。起きれるか?」
うつらうつらする視界に、何度目かの瞬きをする。ようやくはっきりとしてきた意識。最後の一押しで、三月はぶんぶんと首を振った。
「……めちゃくちゃ寝てた……」
「マネージャーが連絡くれてさ」
車のすぐ傍に立っていた大和の背後に、少し心配そうな紡の顔が見える。
「起こしてしまってすみません。私が運んでも良かったんですが、大和さんが出てきてくださって……」
「いやいや、マネージャーに運ばれたら、流石に……ミツの男としてのプライドに関わるって」
な? と振られ、「おう」と返す。
「お兄さんがおぶってやっても良かったんだけどね」
「うるせぇよ」
三月は大和の太腿を軽く蹴って、そのまま車から降りた。
「この、暴力七五三め……」
「もう一発蹴られたいのか、おっさん」
そんな二人の遣り取りを、紡は口に手を当てて笑って見ていた。
ちょっとくらいは笑わせられたなと思い、三月もにかりと笑って見せる。
「それでは、我々は事務所に戻りますね。大和さんも、ありがとうございました」
「おう、遅くまでご苦労様」
「サブマネさんも、ありがとうございました」
いえいえと運転席から会釈をするサブマネージャー。紡は改めて大和と三月にぺこりと頭を下げると、早足で助手席に乗り込んだ。
「おやすみ、マネージャー」
「おやすみなー」
大和と三月がひらひらと手を振る。紡も手を振って応じてくれた。
二人は送迎してくれた車を見送りながら、ふーっと息を吐く。
「ミツ、大分寝入ってたけど、飯食える?」
「あんの?」
「あるある。ソウがキンピラ作ってくれたんだよ。だから、お兄さんも味噌汁作りました」
「ちょっと辛いきんぴらごぼう?」
「ちょっと辛いで抑えてもらったきんぴらごぼうな。タマが台所でストップとオッケー繰り返し叫んでたよ」
MEZZO"が二人で台所に立って騒いでいる様子を想像して、思わずふはっと笑う。
「最高」
「ソウが味噌汁温め直してくれてるからさ、早く中入ろうぜ」
寮に向かって歩き出す大和の背中を追いながら、三月は少し俯く。持っている荷物の重みが、なんとなく増した気がした。
「悪いな、オレ、全然飯作る余裕なくて……」
「何言ってんだよ。気になさんな。できる奴がやりゃあいいんだから」
「でも、みんなも忙しいのに」
「今日は俺とソウに余裕があったんだし、ミツが余裕ある時に今日の分返してくれたらいいんだ。いや、返さなくったっていいんだし」
大和が三月を振り返った。
「顔上げろって」
俯いている三月の頭を、大和がくしゃりと撫でる。
「マネージャーがさ。チャレンジ企画終わったら、ちょっとした休み取ってくれるってさ」
「良かったじゃん。温泉とか行ったらいいんじゃないか? あ、でもちょっと離れた場所じゃないと、見つかっちまうかな……」
「大和さん、何食べたい? 手間掛かるやつでもなんでも作ってやるよ」
三月がそう言うと、大和は眼鏡のレンズの向こうで目を丸くした。それからくしゃっと笑って、ついでに三月の髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜた。
「う、わっ」
「ったく! お前さんはもー!」
ぐしゃぐしゃ気が済むまで三月の髪を撫でた後、髪を梳く。
「……茶碗蒸しと、炊き込みごはんと、鯥焼いたのも良いな。あと……」
指折り数えながらポンポン出てきそうなメニューの数々に、三月はにんまりと笑う。そして、大和の言葉に重ねるようにして言った。
「ブリ大根?」
口を真一文字にして、はたはたと瞬きをした大和が、ゆっくり頷いた。
「……食べる」
「よしよし、期待してろよ」
ドアの前の段差を上がって、僅かに近付いた大和との身長差。更に少しだけ背伸びをして、大和の頭を撫でる。いいこいいこ、と口の中で唱えた。気まずそうな、けれどどこか嬉しそうな大和の表情を見て、三月は笑う。茶化すとすぐに元に戻ってしまうので、茶化してしまわないように気を付けながら、名残惜しく手を離す。
「ただいまー」
ドアのロックを開けて、リビングに届くようにただいまを言った。
「おかえりなさい!」
あじさい色のエプロンをしている壮五が、リビングから顔を出す。三月は、後ろで何とも言えない顔をしている大和をそのままに、部屋の中に入った。
「今、ご飯を盛りますね。いつも通り食べられそうですか?」
「おう、体動かしてきたから腹減ってるよ。壮五、ありがとうな」
炊飯器からご飯を盛りながら、壮五は首を横に振った。
「いえ、大したことは……」
「大したことだよ。すげぇ嬉しい」
遅れてリビングに入ってきた大和が、のそのそとソファの方へ向かう。そのまま、ごろんと横になってしまった。
(お、ちょっとヘソ曲げたか……?)
何も言わないままぐうたらモードに入った大和を見やって、三月はテーブルに着いた。壮五が三月の前にそっと味噌汁茶碗を置いた気配を察して、そちらに顔を向ける。
「大和さんもありがとうな、味噌汁。あ、カボチャの味噌汁じゃん!」
「そうなんですよ。柔らかくて美味しかったです」
三月は、ぱっと手を合わせる。
「いただきます!」
テーブルの向かい側には壮五が座って、エプロンを外していた。
笑顔で頷いた壮五に促されるまま、三月はきんぴらごぼうを口に入れる。
「うっま……」
ピリッとした刺激が強い気もするが、そこは壮五の愛嬌の範囲だろう。環の「ストップ」が、程好い仕事をしたのかもしれない。
「これ、柚子の風味だよな?」
「あ、そうなんです。環くんが、ただ辛いんじゃなくてこういうのはどうかとロケ先で見つけてくれて……柚子の風味がある七味を使ったんです。お口に合うと良いんですが……」
「すっげぇ良いと思う! これ、めちゃくちゃご飯進んじゃうな!」
「良かった! みんなも褒めてくれたんですよ。環くんにも伝えなきゃ……」
ふふっと笑顔を溢した壮五に、三月もにっかりと笑う。
味噌汁茶碗を手に乗せて、ずっ……と一口、口に含んだ。ほろりと柔らかくなっているカボチャの甘みが味噌汁にしみ出していて、優しい味になっている。
「はー……味噌汁しみるなー……」
そう言えば、頭だけ上げた大和がにんまりと笑った。
「美味い?」
「……オレ、大和さんの味噌汁好きだなぁ」
「なんだよ、味噌汁だけ?」
悪戯っぽく言った大和に、壮五と三月は顔を見合わせ、肩を竦める。
「正直に言ってもいいのか? おっさん、照れても知らねーぞ?」
「あ、それなら僕も便乗させてもらって……」
味噌汁の中のカボチャのように柔い脅迫をすると、大和は慌てて顔を逸らし、元通り寝っ転がってしまった。
「オレ、大和さんのこと好きだな~! 愛してるぞ、リーダー、味噌汁超美味い!」
「僕も大好きですよ、大和さん。今日は手伝ってくださって、ありがとうございました」
二人の言葉を聞くなり、もぞもぞとうつ伏せになった大和を見て、三月と壮五は再び顔を見合わせた。恐らく、照れてしまったので、ダレたふりをしているんだろう。くすくすと笑う。
すると、その笑い声が聞こえたのか、大和ががばりと起き上がった。三月の後ろを通り過ぎつつ、こんと頭を小突く。
「お前さん、疲れてんだろうから早く食べちゃいな」
顔を逸らしていたのでうまく見えなかったが、居心地が悪くなったのだろう。リビングから出て行く大和を見送って、三月は「ありがとなー」と声を上げた。
(……ゆっくり話せるかもって思ったけど、出ていっちまったな……)
白米をかき込みながら、少し反省する。
「三月さん、片付けは僕がやりますから、お風呂に入ってしまってください」
「いや、ご馳走になったんだから、片付けくらいさせてくれよ」
三月がそう言うと、壮五はふるふると首を振った。
「いえ、久し振りにキッチンに立って楽しかったので、片付けまで自分でやってしまいたいんです」
ごちそうさま、と三月が手を合わせる。壮五はすっと立ち上がり、片付けを始めた。
それを眺めているのも悪い時間ではないのだが、夕食で体が温まったせいなのか、忘れていた眠気が急に押し寄せてくる。
「悪い……ありがとな、壮五」
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
三月はのそりと立ち上がり、脱衣所へ向かう。畳んであるパジャマ代わりのTシャツと短パンを取り出し、格段に重くなっていく体を引き摺りながら、一日の終わりを感じて長い長い息を吐いた。
三月が入浴を終えると、今度はナギがリビングに降りて来ていた。
「ミツキ、今日もオケイコでしたか?」
「おう。けど、今日は家で飯食えたし、ゆっくり風呂入れたよ」
「それは良かった。ソウゴとタマキの賑やかな調理を、ミツキにも見てもらいたかったですね。まるでスポーツのようでしたが」
ここなのステッキを持って、えいえいと振っているナギの言葉に、三月は思わずふはっと吹き出した。
「またやってもらうか。オレも気になる」
「今度は動画を撮っておきましょう」
そう言うナギに、三月はかっくりと頷く。意識がうろうろしているのを感じながら、ふわと欠伸をした。
「……ナギとも話してたいけど、一旦寝るかぁ……」
「お疲れでしょうからね。よい夢を、ミツキ」
「ナギもな。おやすみ」
ナギに、深夜アニメを見る余裕があることに安堵する。今一番忙しいのは、もしかしたら三月なのかもしれない。
また欠伸が漏れる。滲んだ涙を拭って、廊下を歩く。
「あ、そうだ……」
しかし、途中ではたと足を止めた。
一番隅の大和の部屋、そこのドアをノックする。
「大和さん? 寝た……?」
「ん? まだ寝てないよ。どうした?」
三月は部屋に入らず、ドアから顔を出していただけだったが、リクライニングチェアの上からちょいちょいと招かれる。ここで良いよ、と口に出しそうになったが、少し考えてから、三月は誘われるままに部屋の中へと入った。
「あの、さ」
「うん」
数日前のことを思い出し、もし今ドライヤーを掛けてもらったら、そのまま寝落ちてしまいそうだな、と思う。
「ほら、オレ、今家のことできてないからさ。何かオレにできることあったら言って」
できる奴がやればいいと言われたばかりだが、それでも気を回してくれるメンバーに何かしたい。何でも良い。返せるものがあれば良いのにと思っての言葉だった。
一方、大和は、三月の言葉にはーっと溜息を吐く。
「な、なんだよ!」
「お前さんはまーたそんなこと言って……良いんだよ。気にすんなって。さっきも言っただろ?」
座っている大和から、ぽんぽんと肩を叩かれる。宥めるような手付きに、三月はむーっとむくれて後退った。
「オレがあんたに何かしたいんだよ! なんでそういう時に限ってそうなんだよ! 言ってよ、大和さん!」
「えー……」
「えーじゃねぇよ。そういう態度する時は何かあんだろ! 素直に言えっつーの!」
三月を宥めた手が、戸惑いがちに引き戻されていく。大和が、気まずそうにポリポリと頬を掻いた。
「……じゃあ、さ」
ほら見ろ、あったんじゃん! とばかりに三月が詰め寄ると、リクライニングチェアの上にいながら逃れようとする大和が顎を引いた。
「……ミツが踊ってるとこ、お兄さんに見せてよ」
「はぁ? 今ぁ?」
「今じゃなくて」
こほん、と咳払いをした大和に、三月は首を傾げる。
「収録落ち着いてからでいいよ。着物は俺が用意するし」
三月は、ぱちくりと瞬きをする。少し瞼が重い。やはり眠い。
「なぁ、そんなんでいいの?」
「いいのいいの。どこなら落ち着けるかな……」
「レッスン場でいいんじゃない?」
「何言ってんだよ。どうせなら和室でしょ……」
あ、と鈍い声を漏らした大和が、眼鏡のブリッジを上げた。
「まぁ、俺が準備しておくから。オフの調整をマネージャーに相談しておくか……」
何やら、勝手に場所が決まったらしい。
「おい、どこ連れ込むつもりだよ」
「ひ、人聞きの悪い言い方すんなよな……」
ふいーっとそっぽを向いた大和。何か気まずいことでもあるのか、それとも……と、三月は大和の首に抱き付く。羽交い締めに近い。纏わり付いている眠気のせいにすれば、多少の乱暴も許されるような気がした。
「な、何すんだよ!」
「こっちのセリフだよ! 何、どこ。言えないとこ?」
抱き付いたまま、なぁなぁ~と言い続けていると、大和が「ああもう!」と呟いた。
「実家だよ、実家!」
「実家? 誰の?」
抱き付いていた腕をべりりと剥がされ、正面を向いて持ち上げられる。三月は、大和の目の前でバンザイをしたような形になった。されるがまま、きょとんとした瞳で大和を見れば、大和の方は眉間に皺を寄せて、言い難そうに呟いた。
「二階堂の家だよ……」
ぱちくりと瞬きをする。
つい先程まで纏わり付いていた三月の眠気は、大和の言葉を聞いた途端に完全に覚めてしまったのだった。
Mellow Gravity - 03
嬉しそうな、驚いたような顔をした三月の顔を見た時、あの場所を選んだことが良かったのか悪かったのか、大和にはわからなくなった。
(まぁ、親父にもおふくろにも会わせるつもりはないけど……)
カーオーディオのラジオからは、若手バンドの新曲が流れている。助手席の三月は、ぼんやりと窓の外を眺めていた。ちらりと盗み見ても、後頭部しか見えない。
「スケジュール合わせたら、遅くなっちまったな」
大和と三月のスケジュールをなんとか合わせてもらえたのは、一ヶ月半後のある日だった。そのお陰で、着物の用意もできたのだが。
「ミツ、もっと早めが良かっただろ?」
「大和さんこそ、悪いな。もう次のドラマの撮影始まっちまっただろ」
「ああ、うん。でも、時間取れて良かったよ。ごめんな、お兄さんがワガママ言ったから」
ゆっくりと振り返った三月が、何とも言えない表情で振り返った。
「なんで謝るんだよ……」
――なんとなく。
無事に放送された三月の日本舞踊チャレンジは、なかなかに見応えのあるものだった。
三月が溢していた通り、小学生の男女に囲まれて稽古に励んでいる三月は、常に真剣そのものだった。女の子に囲まれている場面だと、流石に際立って男らしい。
足運びやすり足での移動、所作を学んだ後は、初心者向けの演目に向けての稽古が始まる。番組企画である短期間チャレンジのつらいところであるが、本来なら何ヶ月も稽古に励むところを、みっちりと連日詰め込まれるのだ。疲れないわけがない。
三月が最終的に踊る演目である関の小万は、父の敵討ちを胸に誓っている小万という女性が、花笠を携えて踊る演目となっている。渋紙色の着物を纏った三月が、手に持った扇を花笠に見立て、ゆったりと華やかに舞う。時折、ほわりと溢れる笑顔が愛らしい。
ほう、と見とれている間に企画の枠は終わり、大和は暫く自分の部屋で放心した。
唄にあるように、こいつは月まで笑顔になってしまいそうなものだった。
「そういえば、玉兎調べたよ」
「あ、ああ」
三月の番組内チャレンジのことを思い出しながらハンドルを握っていたので、掛けられた三月の声に反応が遅れた。
「オレに、かちかち山のうさぎになれってか?」
「そうそう、なかなかひょうきんだよな、あの演目。ミツなら似合うんじゃない?」
「おーおー、火点けるついでに、一蹴り食らわせてやるよ」
三月の呆れたような返しに、大和は思わず笑った。
「月夜の晩に餅つくのもさ、合ってんじゃん」
「そうかもなぁ……」
月夜の晩に、よく三月の練習を眺めていた。そんなに時間が経っているわけでもないのに、ひどく昔にそうしていたように感じる。
「あんたは、そんなオレを見ながら好き勝手に酒飲んでんだ?」
「いいねぇ。月見酒」
「顔面に団子餅食らわせてやる……」
かわいげがなくてかわいい。
「……大和さんさ」
「うん?」
「……なんか、オレに遠慮してる?」
キッとブレーキを踏む。三月の言葉のせいで踏んだわけではない。ただ、目の前の信号が黄色になっただけだ。
十分に間を置いて、大和は「そんなことないよ」と言った。
「なんでそんな風に思うの」
「だってさ、なんか、大人っつーか……おとなしかったじゃん」
「まぁ、見ての通り、大人のお兄さんですから」
「言ってろよ」
三月が、じっと大和の横顔を見ているのがわかる。わかるが、視線は合わせない。運転中なのもあるが、三月の目を正面から見てしまうと、抑えている何かが溢れてしまいそうだった。
「なぁ、オレ、あんた一人分くらいの話、聞けるよ。心配しなくても大丈夫だよ……」
三月の言葉で、三月の気持ちを伝えてくれる。
眩しい。隠してしまいたくなる。大和はつい眼鏡を上げて、それから笑った。
「心配はしてない……って言ったら嘘になるけどさ」
信号が青に変わる。踏んでいたブレーキを緩めて、穏やかにアクセルを踏んだ。三月が、自然とフロントガラスの方を向いた。
「俺の中の問題なんだ」
「……格好つけてる?」
「めちゃめちゃ格好つけてる。好きな子の前だから尚更だよ」
「好きな子も何も……」
三月は口を尖らせながらシートに沈み込んだ。しかし、慌てて、後部座席を振り返る。
「誰もいないだろ?」
「いるだろ」
「い……」
助手席を見なくても気配でわかる。ぎこちなく首を回した三月が、ゆっくりと大和の方を見た。それを、横目でちらりと見てやる。すぐに視線を戻した。
「お、おっさん、そういう言い方やめろよなー……いつまでやるんだよ……」
「マジか冗談かもわからなくなっちゃったのかー、三月クンは……」
「あんたのは特にわかんない」
「心外だなぁ」
真剣か冗談か、どっちに取られても、今この場でどうこうできるでもない。目的を果たすまで有耶無耶でも良いかとも思うし、正直、照れくさくて、三月を正面からなんて見られなかった。
「あのさぁ」
「何」
僅かに気まずくなった車内で、三月が呟いた。
「着物は任せろって言ったけど、着付けどうすんの? 企画の中では衣装さんが見てくれたし、オレ、自分でうまくできないんだけど……まさか、大和さんがしてくれたりする……?」
「俺がやっても良かったんだけど、そこはプロにお願いすることにしたよ。着付けが安定してないと、踊り難いだろ?」
「それもそうなんだけど……って、やっぱりあんたも着付けできんのかよ!」
ばっとシートから体を起こした三月に、大和は少しびくりとする。
「まぁ、一応……」
「はー、器用だよなぁ」
「覚えちゃえば、あとはコツと力加減だよ。八乙女もできるし」
「へぇ? そんな話したんだ?」
シートに体を落ち着け直した三月が、そりゃまたなんで? と尋ねる。
「マネージャーに着せたくて、勉強したらしいぜ」
ぶはっと三月が吹き出す。
「なんだよそれ!」
「酔っ払って口滑らせてた」
「あんなイケメンなのに、なんつーか……可愛いところあるよな……仕方ねぇ。内緒にしといてやるか……。まさかとは思うけど、おっさんも下心があってできるわけじゃねぇよなぁ?」
「まぁ、役に立たないこともなくはないけど、俺の場合は家のせいっていうか……」
「……いや、役に立たないこともなくはないけど、ってことは、役に立つタイミングがあったってことじゃねーか……。したことあるんだ? 女の子の着物直したりとか……」
「ミツのエッチー、何想像したのー」
「うるせぇよ。誤魔化したな、今」
「まぁ、いいじゃんそんなことは」
「良くねぇっつーの」
なんで良くないんだろうと思いながらニマニマ笑っていると、左の太腿を三月にバシンと叩かれた。大和は思わず声を上げた。
「いって……! っつーか危ねぇだろ!」
「大和さん、安全運転でがんばってー」
「うっわ……棒読みじゃん。やる気失せる……」
隣でへらへら笑っている三月を見て、大和は咎めることを忘れて、ふっと肩の力を抜いた。
連れ出しただけでも収穫があった。ようやく、取り留めのない時間を過ごせているような気がする。
さっきの言葉が真剣か冗談かなんて、もうお互いの中でどうでもよくなっているような気がした。……今になってみると、そうあって欲しい気持ちもあるし、それで終わってしまわないで欲しい気持ちもある。その絶妙な距離を、三月とは常に保っていたい。
(いつか、この気持ちが決壊することがあんのかな)
三月とどうにかなりたい、だとか、我慢ならなくなることがあるんだろうか――そんな曖昧な境界線を、ずっと眺めている。
時々その線を踏んで爪先だけ覗かせてみたり、またある時は、勝手に境界線を増やしてみたりしているが、けれど、何をしても、三月はあまり咎めるようなことはしない。
(いつも、スルーされるか、受け止めてもらえんのに)
そういう言い方をやめろと言われた。――嫌、だったかな。
「着いたよ、ミツ」
「お、おう」
二階堂家の門を見て、三月の表情が緊張を帯びる。
「ははっ、なんて顔してんの」
「いや、流石に緊張するしさぁ……」
「誰もいないよ」
「え?」
「頼むから出掛けてくれ、部屋貸してくれって言っといた。まぁ、これから呉服屋さんが来るけど、親父もおふくろもいないから、気、楽にして」
大和がそう言うと、三月ははたはたと瞬きをして、それから妙な顔をした。何かを言い難そうにする複雑な表情だった。
「とりあえず俺、車庫に車置いてくるからさ」
「お、おう」
車庫に車を入れて、三月の元に戻る。表情の複雑さは解けていたが、それでもどこかよそよそしい。
「着付けのプロって、呉服屋さん?」
「うん」
門をくぐって、玄関から家の中に入る。やはり事前に人払いをしておいて良かった。三月を連れて大和が帰ったとあれば、父親がいそいそと何度も様子を見に来たに違いない。
折角三月と二人になりたかったというのに、それでは――それでは? と、振り返る。玄関で靴を揃えている三月と目が合った。
(……お兄さん、下心とか、無いからね?)
そう口を突いて出そうになったが、そんなの墓穴を掘るようなものだ。大和は無理矢理むっと口を結んで、三月の反応を待つ。
「呉服屋さんにまで知り合いがいんのかよ」
「親父の知り合いだよ」
「ああ、なるほどな」
考えてみたら、だ。好きな子呼ばわりしておいて、両親のいない自宅に上げるなんて、中高生だったらもう確実に「そう」ではないか? お互い成人済みのいい大人ではあるが、シチュエーション的に、確実に「そう」なのではないか?
先程の三月の複雑な表情を思い出す。
「あ、ミツ……マジであの、気使わないで、気軽に上がってくれていいから……」
「いや、こんな立派な家で気軽にって方が無理じゃねぇの……?」
「や、それは、あの……ごめん」
無駄にでっかい家でごめん……と肩を小さくしながら言うと、三月にぽんぽんと背中を叩かれた。
「いや、やっと来れて、嬉しい……よ?」
そのおずおずとした三月の言葉に、大和は思わずその場で蹲りそうになった。が、壁に手を突いてなんとか耐えた。
「いや、マジで、今まで色々ごめん……」
以前の誤魔化しややらかしが、いくつか頭の中を過ぎる。
「おーい、変なスイッチ入ってんぞ、おっさん……おーい、起きろ起きろ」
虚無を見ている大和の肩を、三月がぽんぽんと何度も叩く。そんな中、今大和と三月がくぐったばかりの戸が開いた。二人は、慌てて姿勢を正す。
「御免下さいませ」
そこには、中年の女性が、荷物を携えて立っていた。
「お着物お持ちしましたが、坊ちゃん、よろしかったかしら?」
坊ちゃん……と呟いて、三月がゆっくりと大和の顔を見上げた。あまりにも照れくさい呼び方に、大和は無言で眼鏡を上げることしかできなかった。
客間で三月の着替えを任せている間に、大和は台所でお茶を淹れている。おもむろに開けた冷蔵庫の中には、切り分けられたメロンがあった。そっと閉めておいた。
(折角だから食うけどさ……)
呉服屋の女将さんに出すお茶を盆に乗せて、客間に戻る。
「失礼します」
襖を開けると、ほとんど着付けを終えて、手直しを受けている三月と目が合った。
「お、可愛い~」
淡い橙の地に小花の柄をあしらった着物を纏った三月が、困ったような顔をしながら大和を見た。帯は渋柿色を締めてもらうことにした。鶯色でも良かったなぁとふと思う。
「なぁ大和さん、これって……その……」
「悪いけど女物だよ。男物だと、どうにも華がなくてさ。ミツはぱっとした色の方が似合うんだもん」
そう言うと、呉服屋の女将の手前、嫌な顔はできないが、それでも複雑そうな顔をする三月に、大和はせめて先に伝えてやれば良かったな……と少し後悔する。
けれど、女将がにこやかに笑って三月の背中をぽんと撫でた。
「近頃は、華やかな柄を求めて女物を着用なさる男性も多いんですよ」
「そうアドバイスもらってさ……一から仕立ててもらっても良かったんだけど、ちょっと時間が足りなくて」
大和が、そっと女将にお茶を出す。
「七人分、お仕立てのお話頂くのを楽しみにしてましてね」
「あはは……社長次第ですけど、頼むこともあるかもです」
慣れない家と着付けてもらった着物に、三月はそわそわとして落ち着けないでいる。
そんな三月にスマホを向けて、大和は「撮ってやろっか」と笑った。
「お、おう。どんなか見たい」
「よっしゃ」
女将が道具を片付けながら、その様子を微笑ましげに見ている。
「坊ちゃんに着流しでもあればねぇ、一緒に撮って差し上げるのに」
「そ、それはちょっと恥ずかしいんで……」
「いや、今オレの前でそれ言うか?」
「まぁまぁ」
そんなこと言ったって、やってくれると言ったのは三月なのだ。大和は、精一杯舞台を整えているに過ぎない。いや、自身の趣味が多分に漏れてしまっているが。
スマホで撮った写真を三月に見せると、「確かに、見慣れた色かも」と笑った。
「だから、お前さんに合う色が、男物だとあんまりだったからさぁ」
「それにしたって、せめて事前に言っとけっての……」
「それは思った……悪い」
驚いたのに違いはないだろうが、何だかんだ気に入ったようで、大和がついでに淹れた三月の分のお茶を口に含んで落ち着き出している。
「緊張したら喉渇いたわ……」
「緊張しなくていいのに」
「するだろ、キンチョー……なんだったら、本番より緊張するわ……」
そんな三月の言葉に、女将は口に手を当てて微笑んだ。
「皆さん頑張っていらっしゃるのを、いつも拝見してますわ」
「ありがとうございます!」
大和と三月の感謝の声が重なる。顔を見合わせ笑った。
女将はお茶を一服すると、「お暇します」と二階堂の家を出て行った。着物は後々、大和が呉服屋にお返しする約束にしてある。
女将を玄関で見送った後、三月がぽそりと大和を呼んだ。
「なぁ、大和さん」
借りている着物の袖を摘まみながら、静かに尋ねる。
「仕立ててもらうつもりだったって、マジ?」
「ん? そうそう。だって、男物の着物に気に入る柄がなかったんだもん」
「大和さんが気に入る柄?」
「そう。ミツに似合いそうな可愛いやつ」
シンプルな男物の着物の色合いや柄でも良かったのだが、折角三月を好きに着せ替えできるのであれば……と、女将に生地の柄について相談して正解だった。やっぱり華やかな方が可愛い。
「かっこいいやつの発想はなかったのかよ……」
「あるけど、どうせなら可愛くなると嬉しいなぁって思って」
「おっさんよー……」
「今日は、俺のお願い聞いてくれる日だろ。レンタル代も俺が出してるんだから、いいじゃん。柄、好きに選ぶくらい」
そう言えば、三月は口を尖らせながらもそれ以上の反発はしなかった。
玄関から客間に戻る廊下の途中で、大和はぐいっと三月の腰を抱き寄せる。
「うおっ……」
よろめいた三月が、大和に寄り掛かった。一息吐いてから、肘で大和の腹をつつく。
「……ったく、このエロジジイ……」
「エロいことしてないじゃん」
「手付きがエロいし、着物が乱れるだろうが」
ぺしんと手を叩き落とされた。思わず、ちっと舌を鳴らす。
「そりゃあ、お前が暴れん坊だからだろうが……」
「んなことねぇよ、失礼だな……」
客間に戻って、自分の荷物の中から扇子を取り出した三月が、「やるならさっさとやっちまうぞ」と腕を回す。
「三月さん、それ、日本舞踊の動きじゃないんですけど……」
「うるせぇな。やってやろうっていうオレの意気込みだよ。意気込み!」
何故か柔軟体操の動きをしている三月に、大和はつい吹き出す。
「折角綺麗な着物着せてんのに。これじゃあ、本当に七五三じゃん」
少しずれた合わせをそっと指先で直してやって、とんと三月の胸を叩く。
「暴れん坊め」
「悪いかよ……いや、着物乱れたのは悪いか……」
「まぁ、いいんじゃない? ミツらしくて」
胸に当てていた指先で、三月の額の前髪をそっと払ってやる。
目を閉じた三月の顔が、とても愛らしかった。瞬いたら音のしそうな長い睫に、幼さの残る顔立ち。けれど、すっと通った鼻筋が、彼が大人であることをどことなく感じさせる。
胸が騒ぐ。
庭先で、チチッと小鳥が鳴き声を上げた。その声で、はっと我に返る。目を開けた三月に笑って言った。
「始めるか」
「おう」
スマホに演目曲を入れていた三月が、大和に操作を頼んで渡す。そして、客間の真ん中に立った。
大和は部屋の隅に座る。「正面で見れば良いのに」と笑われたが、とてもではないが正面で迎えられる気はしなかった。
「大和さん一人しかお客さんいないんだから、来てよ」
「大丈夫かよ。足とか飛んできそうじゃん」
「飛ばさないように努力するわ」
そんなことしねぇよと言わないところに茶目っ気を感じて、大和は思わず苦笑した。
仕方なく、三月に呼ばれるまま、正面に座り直す。
お互いに一息つくと、三月がうんと頷いた。「始めよう」の意だろう。
三月は、その場に膝をついて正座すると、深々とお辞儀をする。扇子を開いて目の前に置いた後、立ち上がった三月の呼吸が整った頃合いを見計らって、大和は曲の再生ボタンを押した。
ゆったりとした調子の三味線の音と、女性の唄声が流れ出す。長唄・関の小万。
腰を低くしたまま掌をひらりひらりと返し、曲に合わせて足を捌く三月。一度、液晶の画面越しに見たものが、今は目の前で振る舞われている。
曲の中頃から、足下に置いていた扇子を持ち上げ、それを花笠に見立てて舞う。花笠に視線を向けさせつつも、真剣な表情が見る者の視線を絡め取っていく。
(女踊りとは言え、男が踊っても様になるもんだな……)
父の仇討ちを胸に秘めた小万の華やかさと、鬼気迫る何かを感じさせる舞に、大和は忘れていた呼吸を思い出し、息を吸った。吸った息を薄く吐く。漏れたのは、間違いなく感嘆であった。
客は一人しかいない。三月の視線は、必ず大和に向く。当然ながら、胸にくるものがある。
あっという間の数分感だった。曲の終わりに、大和は思わず拍手をする。
三月はと言えば、そっとまた膝を折り、正座をすると、深々と頭を下げた。
「……はー緊張した!」
顔を上げた三月は、いつもの三月に戻っていた。
「良かったぞ、ミツ! テレビでも見たけど、良い物見せてもらったわ」
「へへ……面と向かって言われると、流石に照れるな」
うっすら汗をかいているのか、手の甲で額を拭う。
「タオル持ってこようか?」
「荷物に入ってるから大丈夫」
三月はよっこいせと立ち上がると、自分のバッグの中からスポーツタオルを引っ張り出す。
「脱がすの勿体ないなー、思ってた以上に似合ってるし」
大和が何の気なしにそう呟くと、三月の肩が僅かに強張った。
どうしたんだろうと思いながら、戸惑いがちに振り返る三月を見ている。少し、耳が赤い。
「オレ、脱がされるんだ……?」
「そうそう、脱がしたら、そのまま帰りに呉服屋寄って返すからって言ってあ……」
肩口に振り返っている、そのうなじが色っぽいなぁ、なんて思っていた時だった。するすると自分の口から出ている言葉の、その違和感に気付いたのは。
「……いや、その」
いつもみたいに軽口で誤魔化せばいいのに、そう思うのに、ついどもっていた。
気が付けば、耳の奥でドクドクと心臓の音が響いている。早鐘を打つその音に、ふらりと視線を逸らす。
「……それじゃ、脱がしてもらおっかな!」
妙な緊張感が一気に霧散する。
袖を摘まんで、三月がぱっと両手を横に広げたのだ。大和は、ずるりと下がった眼鏡を持ち上げた。
「下心、ねぇんだもんな?」
ニヤリ、三月が笑う。挑戦的なその表情に、大和は思わず、口元をひくりとさせた。
「色気ねぇなぁ!」
「うるせぇよ。ぼーっと見とれてたくせに」
「ぜっ、全然見とれてねーし……冷蔵庫にあったメロンのこと考えてただけだし?」
「うっわ、なんだ、メロン用意してもらってたんだ? 良かったねー、大和くん。メロン大好きだもんな~」
「く、クッソ……! テメェ、後で覚えてろよ!」
背中の帯を見せながら、三月が「早く」と爪先立ちをした。ぴょこんとした仕草が可愛らしい。背後から見ても、やはり大和の見立て通り、とてもよく似合っていた。
「……あっと言う間に見納めかぁ。勿体ないなー……やっぱり仕立ててもらおうかなぁ……」
「いや、着物って高いじゃん……オレ、そんなの貰えないって……」
帯を解きながら、つい笑みが溢れた。なるほど、脱がすのもやはり乙なものではある。さっきからかってくれた仕返し、もといお返しに、大和は三月の耳元で囁いた。
「重い?」
三月が、ぎょっと肩を震わせる。
「そ、そりゃあ……流石に気が引けるよ」
帯を緩めて下ろしてやって、その下の腰帯を外す。背後から着物の合わせに手を掛けた。必然的に、後ろから抱き締める形になる。
「だからさ、俺から離れられなくなるだろ?」
三月が、はっと息を吸ったのがわかった。身動きの取れない状態でいる三月を抱き締めたまま、少し屈んで頬を擦り寄せる。
腕の中の三月の体温が熱い。長唄を一つ踊ったばかりだ。体温が上がっていてもおかしくはない。
三月が返事も反抗もしないのを良いことに、大和は黙ってそのままでいる。
――ちょっとくらい、わかればいいんだ。俺が、わりかし本気だってことを。単なる軽口や、冗談じゃないってことを。少しくらい、ミツもわかればいいんだ。
「……あのなぁ」
暫く黙っていた三月が、ようやく口を開いた。離せと言われるかもしれない。押し退けられるかもしれない。大和の手が僅かに緊張する。
「そんなもん貰わなくたって、離れたりしねぇよ」
「へ……」
三月の肩に乗るくらい近付けていた頭を、わしわしと撫でられた。
「今日さ、たくさん大和さんと話せて楽しかった。ごめんな、寮のこともしてもらって、構ってもやれなくて。寂しかったんだろ?」
わしわしと、やわい手付きで撫でられる。
大和は思わずぱちぱちと瞬きをした。
「気付くのが遅れて、ごめんな」
そう呟く三月に、大和は何故だか泣きそうになった。
茶化されているわけでもなく、ストレートにただ甘えていると取られているのだろうか。撫でてくる三月の手は、どうしようもなく優しい。
「……寂しかった」
「うん。帰ったら、大和さんの好物作ってやるからさ。買い物して帰ろうな」
「うん……」
ここまでしても伝わらないのかなという気持ちと、でも、これが和泉三月だもんな、という気持ちで心の中が綯い交ぜになる。
「あ、でもその前に、用意してもらったメロン食べないと」
綯い交ぜになった濁流のような感情に、押し流されそうだった。大和には、「うん」という単純な返事しか出来なかった。
抱き締めていた腕を緩めて、着物の袖から三月の腕を抜かせる。襦袢は自分で脱いだ三月が、さっさと着てきた洋服に着替え出した。大和は、三月に背中を向けて、着物一式を畳んでいる。
「……あのさぁ、大和さん」
シャツに袖を通した三月が、畳んでいる着物に視線を落としている大和の隣にしゃがみ込んだ。
「ん……?」
大和は、精一杯平静を装って三月の方を向く。表情には出ていない。きっと大丈夫だろう。
「もし、オレの勘違いだったら、その、なんて言うか、申し訳ないんだけど、さ……」
じっと、三月を見つめる。申し訳なさそうに笑う三月が何を言おうとしているのかわからないまま、大和は首を傾げた。
「嫌だったら、メロンで口直ししてもらうってことで……」
「口直し?」
何をだろう。三月の料理をということなら、何が出てきたって口直しなんて必要ないのに。
「何を」と言い掛けた大和の肩に、三月がそっと手を置いた。なんだろうと思っている内に、唇の端に柔らかい感触が落ちてくる。
ゆっくりと離れていくその感触と、瞼を伏せていた三月の表情に、大和の頭は、じわりじわりと状況を理解していく。持ち上がっていく三月の瞼の奥には、ふらりと揺れる大きな瞳があった。目が、合う。
「……ミツ?」
「えーっと! ごめん! トイレ! トイレどこ?」
明らかな動揺。跳ねるように立ち上がった三月が、そのままの勢いで廊下に飛び出す。大和は反射的に、「廊下突き当たったとこ!」と返したが、呂律がうまく回らなかった。
さーっと走っていく三月に、人の家の中走るなとか、逃げんなとか、今の何、だとか、言ってやりたいことは沢山あったが、今の大和にはどれもこれも言えないまま、ただ、一人になった客間ですとんと肩を落とした。
思わず、唇を押さえる。急に汗が噴き出して、頭全体がぼっと発熱したようだった。
「人んちで迷子になるか普通……」
「だって、広いんだもん……」
結局、あのまま二階堂の家の中を走っていった三月は、あろうことか家の中で迷子になった。それを回収し、二人共無言のまま、切り分けられていたメロンを食べて車に乗り込んだ。
ようやく発した言葉が、先程の一言だった。
「広いったって、お前さんさぁ……」
「うるせぇな。仕方ねぇだろ!」
――仕方ない。仕方ない、ね。
思い出すと、ついニヤけそうになる。しかし、ここでニヤけようものなら、即刻鉄拳が飛んで来そうだった。
「メロンで口直しできたんだから、文句ねぇだろ……」
「お兄さん的には、口直ししちゃうの勿体なかったんだけど」
「よく言うよ。黙々とメロン食べてたくせに……」
「そりゃあ、メロンだし……?」
三月の言う通り、好物なので仕方ない。そう、仕方ないのだ。
「だから、もう一回して欲しいな、なんて」
「調子に乗るなよ、おっさん……」
「なんで! なんで拳準備してんの? ミツがしてきたんだろ!」
それはそうなんだけどさぁ……と小さくなる三月を心底可愛く思いながら、大和はついにニヤニヤするのを抑えられなくなってしまった。
「ニヤけんなよ! キモい!」
「ひっでぇ……」
「あんたにはわかんないだろうけど、あんな風に抱き締められたら、心臓ドキドキして、やばくて……これで、あんたから冗談だったのにとか言われたらどうしようかと思った……」
口元を手で覆って窓の外を見ている三月に、大和ははぁっと溜息を吐いた。
「あのなぁ、言っとくけど、俺だってめちゃくちゃドキドキしてたからな……」
「自分の心臓の音しかわかんねーよ! なんでも涼しげにこなしやがって!」
「お前……俺の気も知らないで……」
大和の方を見てくれない三月の後頭部をちらちらと確認しながら、ハンドルを切る。
呉服屋には着物を返したので、事務所の駐車場に車を返して、次はスーパーで買い物だ。地元の小さいスーパーなら顔なじみだから、多少目立っても騒ぎにならない。
「……なぁ」
「ん?」
助手席で蹲っていた三月が、ようやく大和の方を見る。ほんのり目元が赤い。とても可愛い顔をしている気がするが、運転中のために注視できないのが歯痒かった。
「満足、した? 今日……」
「ああ、すっごい満足。良いもん見れた」
「……でもさ」
「うん」
「オレ、やっぱりさ、大和さんと……あいつらと一緒に踊るのが好きだよ」
そんな三月の言葉に、つい笑みが溢れる。
「ライブ、やりたいよな」
「おう」
大和は事務所の駐車場に車を停めて、シートベルトを外す。そのまま、隣の三月の肩に頭を乗せた。
すりりと頭を擦り付けると、三月が慌てて車の外をきょろきょろと見渡す。
「誰か、見てるかも」
「事務所の人なら、じゃれてるだけだと思うって」
「そうかもしれないけどさぁ……どうしたんだよ、急に……」
そわそわしている三月に、ふはっと笑う。
「引力」
「またそれ……?」
「お前さん、自分の引力に無自覚すぎ。ミツの引力、めちゃめちゃすごいから」
そう言えば、何かに観念したのか、三月は戸惑いがちに大和の頭に自分の頬を擦り寄せた。
「大和さん専用の引力なんじゃねぇの……」
「そんなことないよ。皆、ミツのこと大好きだし、惹かれてるよ」
「でもさぁ……」
ぴったり、夕日が差し込んでいる車内でくっついている。時間の流れを、やけにゆっくりと感じていた。
「でも、今くっついてるのは大和さんだけだから、今のオレはさ、大和さん専用の引力を発してるんだと思うよ」
ちらりと視線を上げる。その先で、夕日に染まった三月が穏やかに微笑んでいた。
その橙があまりにも眩しくて、大和は目を閉じて頷いた。
【 終 】