ちょっと触れただけだって。ちょっとだけ。
だから、そんなに怒らなくたっていいじゃん、と言えば、アルコールで上気した頬が更に赤くなった。目まで真っ赤で、うさぎみたいだった。かわいい。かわいいからもう一回触れたくて、立ってるミツのトレーナーの袖を掴む。引っ張ってみると、これが案外ふにゃっと膝を折るものだから、そのままかわいい目元にまた触れた。
ちゅ、と音を立てると、腕の中のミツがわぁわぁ声を上げる。
「何すんだよ……!」
「だから、ちょっと触っただけだって」
「ちょっとじゃないだろ、どう考えても……!」
「騒ぐなって。あいつら来ちゃうだろ」
肩に手を突いてるミツの拳がぎゅうっと握られて、見上げたら大きな瞳にたんまり涙を溜めている。
「来ちゃ、駄目なのかよ」
「見られると困るかもな」
「見られたら困ること、してんだろ」
「まぁ、そういうことになる、かも」
「じゃあ……じゃあさ、ちょっと触っただけじゃないじゃん……」
あー……と思った。気付いちゃったかー。
言い包められるとも思ってない。どっちかって言ったら、自分を言い包めるための言葉だ。
「ミツが嫌ならしないよ」
そう言えば、涙を溜めている目がきょろきょろと左右に揺れた。
「ずるいだろ、そういう言い方……」
「嫌だったらしないって」
乾いた笑いが出そうだった。
でも、笑わないでなるべく真剣に言った。
「じゃあ嫌だよ!」
なのに、そうだよなー、お前さんはそういう奴だった……。
そこは「そんな言い方されたら嫌って言えないだろ」とかじゃないのかよー……と思いながら、ミツの体から手を離した。
いいや、こいつは言うことはきっぱり言う奴だ。情に流されやすいけど、特に俺にはきっぱりはっきり……そういうところが良いんだけど。
「真正面から嫌って言われたら、流石にお兄さんも傷付いちゃうんですけど……」
「自業自得だろ」
その通り過ぎて、ぐぅの音も出ない。両手を上げて、白旗も上げて、完全に降伏状態だった。
ミツとチューした。おふざけでもなくて、ファンサでもなくて、ミツにチューした。かわいかったから。
「ごめんな、ミツ。ふざけただけだから嫌いにならないで」
安心させようとそう言えば、
「……無理。嫌いになるよ」
ばっさりと斬られた。ばっさりの勢いのまま、ばったりと床に倒れる。絨毯はあるけど、背中が冷たい。
しなきゃ良かった、キスなんて。でもしたくなっちゃったスケベ心。
いや、ていうかさ、嫌だったらミツのパワーで押しのければ良かっただろ。本気出したら、俺のことなんてノックアウトできるんだから。
恨めしそうにミツを見てみる。
「嫌いになる」
「悪かったって……もうしないから……」
「ふざけて、とか、冗談だ、とか言ったら、嫌いになるから」
のし、のし、と四つん這いになって近付いてくるミツが、俺を跨いで見下ろした。
「何……」
「本気でキスしたいって言えよ。この意気地なし」
頭の横に手を突かれて、俺にはミツしか見えなくなる。キリッとしてかっこいいのに、顔があまりにもかわいすぎて俺は何も言えなくなった。
「嫌いになんかなってやらないから、今すぐ言えよ」
「え、これって、脅迫じゃん……」
「ズルするおっさんに言われたくない。早く」
「いや、こえーよ! なんだよ急に!」
「十数えてやる、じゅーう、きゅーう、はーち、なな、ろく、ご、よんさん」
「待って待って、早い早い早い!」
「にー」
「チューしたいけどさぁ!」
「いち」
ゼロ。そう言ってから、ミツはにんまり笑った。突いていた手で俺の頬を包んで、満足そうに顔を近付ける。
押し付けられた小さな口が、しっとりとしていた。あれだけ飲んでて、アルコールで乾燥しないのが羨ましい。俺なんてかさかさじゃない? なんて考えてる間に、角度が変わる。ちゅっと音を立てて離れた唇を、ミツがぺろっと舐めた。
「嫌だったらしないとか言うなら、最初っからすんな」
「だ、だって、お前が……」
「ちょっととか、ふざけただけとか、中途半端なんだよ」
照明を遮ってる男前に、ぼうっとする。
そんなこと言われたら、やっぱり自分は意気地なしなんだと思うし、そんな俺がミツとチューしていいわけないじゃんって気持ちにもなるわけで。
「じゃあなんて誤魔化したら良かったんだよ」
「しちゃったもん誤魔化すなっつーの」
「誤魔化すよ」
——お前、何も知らないから。だからそんなことが言えるんだ。
「だって、ミツが男前過ぎるから。俺は、お前さんの言う通り意気地なしだからさ」
「誤魔化されたら、オレが情けなくなるだろ……」
え、と思って瞬きを忘れる。
初めて聞いた。
「気の迷いだったみたいにされたら、自分が情けないよ……」
言ってることは男前なのに、瞳がうるうるしてるミツがあまりにもかわいくて、慌てて体を起こした。
「き、気の迷いとは言ってないじゃん!」
「似たようなもんだろ!」
「似てない似てない!」
今だってもう、泣きそうなその顔見て堪らないんだぞバカ! かわいいなぁ。絶対そんな顔を他の誰かに見せないで欲しい。危ないから。
「気の迷いなんかじゃないから。き、嫌いにならない……?」
「なるならとっくに嫌いだよ」
だよな。それはもう言い訳の余地もない。ごめんなさい。
「めちゃくちゃかわいい。チューしたい。酒飲んでなくてもしたい……」
「オレもしたくなったからした」
初めてされた。
「事後報告かよ……」
「えへへ」
あー、屈託なくにんまり笑っちゃって。こんな遣り取りしたこと、ミツの方が忘れるのに。忘れて、平然としてかわいい顔を見せてくるんだ。
情けないのは俺の方だよ。
「かわいい。気の迷いなんかじゃなくていつも思ってるよ。好きだし。チューしたいし、触りたいし、抱き締めたい。ミツが泣いてたら、いっぱいいっぱい慰めたい。でも、泣いてる顔もかわいいから好き。これでいいか? お兄さん、思ってること大体言ったからな」
忘れられちゃうなら、全部言っておこう。洗いざらい。それが、もう何度目かなんて気にせずに。
目の前のミツは俺に跨ったままきょとんとして、それから、がばっと抱き着いてきた。
首がごきって鳴った。痛い。
「嫌いにならない……?」
「うん」
「チューしていい?」
「うん」
うんしか言わない。泥酔マンの出来上がりだ。そうなったらもうキスなんてしない。だって、翌日には覚えてないのだから。
そんなの、繰り返し俺が情けなくなる。
「なぁ、ミツ、忘れないでくれる?」
「忘れないよぉ」
間延びした語尾に、少しがっかりする。
実は何度か同じことを繰り返して、ミツとのファーストキスなんてもうかなり前のことだったりして。それでもミツは覚えてない。
だから俺は何度も誤魔化して、何度も嫌いにならないでって懇願する。そういう遊びみたいな、儀式みたいなもんだった。
きょとんとしたミツの唇と、自分の唇を合わせて、どうせ忘れられるならと、やんわり口を開けさせる。舌と舌を合わせて、絡めて逃さない。
「は……ふ」
漏れる吐息も、とろんと微睡んだ瞳も無視して、また深く口付けた。
ミツの腕が縋り付くように首に回る。
「……ミツ」
「や、まとさ……」
口を拭って、最後に触れるだけのキスをして、今日の遊びは終わり。
今日の遊びは興奮したなぁ。まさかミツからしてもらえると思わなかった。
初めて聞いた。初めてされた。まだ期待できんのかな。でもな、それってやっぱり俺が苦しくなるんだよ。
「やまとさん……もっと……」
「しないよ。おしまい。俺が」
——情けなくなるからね。そう言ったら、また意気地なしになるのかな。
「離せなくなりそうだから」
次の日には忘れてるなら、次の日になんてさせないよなんてドロドロしたものをぶつけるには、まだ俺は意気地なしなのかもしれない。
自分のベッドに閉じ込めて、ミツの明日に嫌ってほどわからせてやることだってできるのに、俺は千鳥足で部屋に戻って行くミツを引き止めないし、何度だってなかったことにする。その方が、俺とミツにとっては都合が良いから。
だから、何度だって情けなくて意気地なしな俺になれるんだ。
「……やまとさん、なんか変な顔してる」
「ん……? してないよ」
してる、してる、とミツが俺の頬を拭う。
「離したくないなら、離さないでよ」
酔っ払いの戯れ言なのは百も承知で、心臓だけはいつだって正直だ。ときめく時も傷付く時も、どんなに演技したって偽れやしない。特にミツに対しては。
膝に跨ったまま、ぎゅっと抱き締めて額にキスしてくるミツを、俺は気持ち程度に抱き締め返した。
「……忘れて欲しい」
何度も何度も、進まない今日を誤魔化したい。その方が都合がいいはずだから。
「バカだなぁ、踏み出した方がたぶん、楽なのに」
じゃあ忘れるよって言うミツに、俺は思う。
ミツは俺が頼まなくたって忘れるし、わかっているのに俺はそれで傷付くんだ。忘れて欲しいって思ってるのもまた、俺のはずなのに。
「バカだなぁ……大和さん……」
ぎゅっとされて、とんとんと背中を叩かれた。あやすみたいなその手が、今日の中で一番愛しくて残酷だった。