羊を数えて眠るような、穏やかな眠りが懐かしい。
一匹、二匹、そう数え出して気付く。積み上げたのは空っぽの自分の虚像。持ち上げて見て驚いた。そこで目が覚める。
「……悪酔い、したかも」
ガラガラのギスギスになった声を慣らすために首を押さえる。何度か唸って息を吐いた。
喉から出てきたのが自分の声かどうかさえ忘れてしまった。
横たわった身体の周囲に転がるひつじの皮を一枚一枚眺めてみたって、悲鳴さえ上げられない。これはもう使い終えて、使い古した皮だから、新しい皮をまたしつらえなきゃ——そんなことを考えていると、携帯のバックライトがチカリと眩しく光った。
「ユキ」
届いたチャットの内容はこうだ。
「眠れないから、モモを数えてた」
奇遇だね、オレもだよ。自然と瞼から力が抜ける。ふっと笑って「オレも! ユキのこと考えてた!」なんて平然と嘘を吐く。
オレが数えてたのはオレの皮で、考えていたのはどうしようもない自分自身のことで、ユキが数えていたものとは雲泥の差に違いないのに、運命を謳ってユキに擦り寄って、オレが安心したいがために、そんな嘘を吐く。
「でも本物のモモがいいよ」
ドキッとする。同じくらいに、ギクッとした。
「モモの顔が見たい」
「眠れない」
「迎えに行っていい?」
連投されるラビチャに、オレは胸を押さえる。パジャマ代わりのTシャツを指先でぎゅうっと握って、握ってそのまま。
——オレも眠れないんだ、ユキ。
行っていいの、と打ちかけて、それから消した。こんなに広げて散らかした皮を置いて引き摺ったまま、ユキの顔なんて見られない。
「明日朝から一緒じゃん! ちゃんと起こしに行くからさ。寂しがり屋なダーリンのために、モモちゃんのとっておきの自撮り送っちゃう!」
昼間のロケで撮っておいた写真を送って、重い重い息を吐いた。今の顔なんて見せられやしない。
写真は既読になって、それからはユキの返事もなかった。
「……おやすみ、ダーリン」
本当は、ユキの綺麗な顔を見て、ユキの綺麗な声を聞いて、ゆっくり眠りたかったけど、目の前に散らかったひつじの皮は決してそれを許してはくれなかった。携帯を額に当てて、祈るような気持ちになる。
(変な顔してたらユキが心配する。ユキは優しいから。眠らなきゃ)
眠って、朝を迎えなきゃ。
脅迫的な言葉は、ようやくオレを眠りに引き摺り込んでくれる。ああでも本当は、本当は——
「おやすみって、それだけでも聞きたかったなぁ」
けど、電話だけでも、こんな日は泣き出してしまいそうになるから。
ソファに放ったタオルにぐしゃりと顔を擦り付けて、そのまま目を閉じた。
「モモ」
ばちん、と火花が散った。
「ユキ! おはよう! 珍しいじゃん、ちゃんと起きてるなんて!」
ユキの部屋の鍵を開けて、寝室に飛び込もうとしたその時、キッチンでコーヒーを淹れてるユキを見つけた。
「起きてるよ」
ふふ、と笑ったユキの髪が、少しぐしゃりとしている。
「……あれ」
憂げな目尻に緩みを見付けて、オレは少し口を尖らせた。
「もしかして、寝てない方……?」
「今日、午前の収録終わったら寝れるんじゃないかな……」
「それ寝るって言うより、気絶するって感じじゃない……?」
「そうかも」
乾いた笑いが出る。なら、もう少しやり取りしたってよかったのに。そんな言葉まで出てきそうになった。
「モモは? 今日」
「オレは昼にそのまま生放送あるけど」
「その後は」
「すんなり解散できれば何もないかな……一応、事務所にスケジュールと共演者の細かい確認だけ行っとこうかなって」
顎に長い指先を当てて何かを考えるように天井を見たユキが、ゆっくり頷いた。
「じゃあ、事務所で寝て待ってる」
「え! 家で寝てなよ!」
「嫌だ。モモのいる所がいい」
「終わったら来ればいいんでしょ? 落ち着いて寝れる所にしなって」
「事務所だって落ち着いて寝れる……」
「お客さん来ちゃうかもよ?」
「大丈夫、寝顔もイケメンだろ」
「それはそうだけど……」
それはそうだけどさぁ……と口籠もっていると、ユキの部屋の玄関から、おかりんに呼ばれた。
「二人とも、そろそろ出ますよ! 千くんは起きてますか?」
「今行くよ」
寝てないままのユキが、とんとオレの肩を叩いた。
「なんだか、モモといたい気分なんだ」
ユキが玄関に向かう。長い髪がふらっと流れて、オレはその姿を視線で追う。あ、と口が開いて、でも何の音も発しないまま閉じてしまう。
(ちゃんと話さなきゃ)
わかっているのに言葉が詰まる。こんなことだから、そのまま歌声が出なくなってしまったんじゃないか。まるで目に見えない栓をされたみたいに。
(ちゃんと……)
脚に絡まったままのひつじの皮を見下ろして、溜め息を吐く。顔を覆って目隠しをしたって、こういう時には無意味だってわかってる。わかってるけど、今すぐ顔を覆ってしゃがみ込みたくなった。
——そんなことは、Re:valeの百はしないんだ。
「嬉しい! そんなこと言われたら、めちゃくちゃハッピーだよ!」
朝から良いことあったなぁって、ニコニコしながらユキを追う。
嬉しいのは本当。天にも昇っちゃうくらい嬉しい。でも、嬉しさを演じてるのも本当。
——本当ってなんだろう。別に、今はファンの子もいないんだから、オレがしたいように喜べばいいのに。
そんな滅茶苦茶なオレの言葉だって、ユキは振り返って優しく笑ってくれるんだ。
(ちゃんと、話したいよ。ユキ)
ユキは自分で言い出した通り、オレの仕事の間は事務所のソファで寝ていたみたいだった。
「ねぇ、おかりん」
「はい? 千くんなら、良い子にそこで寝ていましたよ」
「ユキ、あまりにもスリーピングビューティーじゃない? 眠りの森の美人じゃない? 写真撮っておこう……」
パシャパシャ。ソファで横になってるスリーピングビューティーを激写して、それからソファの背もたれに腕を乗せて頭を伏せた。
「……おかりんさぁ」
「どうかしましたか?」
おかりんは、オレの様子が本調子じゃないことに気付いていそうだった。そういう顔してる。ちょっと困ったみたいな、優しい顔。
どうしてオレの周りは、優しく笑ってくれる人ばっかりなんだろう。
「オレ、ちゃんとできてるかなぁ」
「何言ってるんですか。誰よりちゃんとやってくれてますよ。ちゃんとし過ぎていて、心配になります。……隠れて危ないことはしてないですか?」
「大丈夫……今は、ホント大丈夫だよ」
「それなら良かった」
ぴく、とユキの眉間が震えた。話、聞いてんのかな、と思った。
「隠さなきゃならないようなことをやらないのは難しいけど、なるべく増やしたくはないんだ」
どれだけ腐りかけの皮を抱えていたって、それごと慈しんでしまいそうなユキの危うさが好きで、それでいて怖い。
「こんな悪い子のオレなんて嫌えばいいのに」
「百くん……」
「……おかりんありがとう。ごめんね? 話聞いてくれたのに……オレ、ちょっと飲み物買ってくる!」
「飲み物なら自分が……!」
「いいよ、おかりんは休んでて!」
事務所の自販機で炭酸水を買って、溜息を吐いてから缶を開けた。口に含めば甘い稲妻みたいなピリピリが喉の奥に触れて、それから胸の合間を降りていく。
はぁ、とまた息が漏れた。
その時だった。
「おわっ!」
後ろからぎゅうっと抱き締められて、思わず炭酸水の缶を落としそうになる。振り返らなくてもわかる。頬に触れる柔らかい髪と、背中に触れてる温かさ。
ユキだ。
「ユキ……? 起きたの?」
「おかりんが……起きろって……」
少し枯れてる声が耳のすぐ近くでして、くすぐったくて笑ってしまう。
ユキは、んんっと咳払いをして、それから顎をオレの肩に乗せた。重力に負けそうなんだろうな。こめかみがオレの頭に当たってる。
「やっぱり、家で寝直したい……モモも、来てくれるでしょ……?」
「送って行くけど、オレは帰るよ。いない方がゆっくり寝れるでしょ」
「いやだ」
咳払いしてもまだ少し掠れてる。寝不足で風邪なんてひいてないよね……少し心配になる。
「モモがいないと眠れない……」
「そんなこと……」
ぎゅう、と、お腹に回ってるユキの腕に力が入る。
(だってさ、ユキ……今のオレの足元見てよ。腐りかけのオレの皮がたくさんだ……)
これを片付けなきゃ、ユキに合わせる顔がない。今こうして抱き締めてくれているユキの顔を覗くことさえ億劫なのに。
(ううん、やっぱり見ないで……)
見ないで。こんな醜悪な——
「昨日、モモがいれば安心するかと思って、モモの数を数えていたんだけど」
「……あれ本当だったの? にゃはは、モモちゃんは羊じゃありませんぞ〜?」
「笑ってるモモも、怒ってるモモも、照れてるモモも、悲しそうなモモも、悪い子なモモも……数えてみたら、なんだかみんな可愛くて」
「……ユキ」
もぞりと動いたユキが、寝ぼけたみたいな口調で続ける。
「みんな可愛くて、好きで、本物が恋しくなっちゃった」
可愛いのはユキなんですけど——今ここで可愛いのは、ユキなんですけど!
「ねぇ、僕は、おまえがどんな顔してても大切だよ」
やっぱり、おかりんと話していたこと聞いてたのかな……なんて思う。それから、ユキさんは本当に優しい人だって思う。
オレは、ユキの手の甲にそっと触れて、撫でてあげた。
「でもさ、ユキ……」
「モモが怖がってることも、大丈夫だ。二人でなんとかしよう。僕がいる」
ぎゅっと抱き締められて、もう一度「僕がいるよ」って囁かれた。まるでドラマのワンシーンみたい! 流石ユキだ! ユキにそんなこと言ってもらえたら、どんな子だって舞い上がっちゃう! 舞い上がっちゃうのに——。
オレは、舞い上がってあげることも、賞賛の声を上げてあげることもできず、ただ、右目から涙を一粒、ぽろと溢した。見てよ、オレもまるでドラマのワンシーンでしょ?
「……モモ?」
「……ユキ、眠れない時はさ、羊を数えるんだよ。オレじゃなくてさ」
「羊、かわいいよね。モモみたい」
「オレが被ってるのはさ、ひつじの皮じゃん。ユキは知ってるでしょ」
「知ってるけど」
「あんまり、かわいくないだろ」
「かわいいよ」
どこがだよ。手も足も出るし、口も悪い。ユキが知ってるより、ずっと粗野な自覚がある。
「言ったろ。どんな顔してても、おまえが大切だよ。モモ」
手に持ってる炭酸水を、思わず一気に飲み干した。そのくらいの刺激がないと、堪えられそうになかった。
そんなオレに、ユキはびっくりしたみたいで、少し腕が緩む。
「びっくりした……どうしたの、モモ……」
やっぱりびっくりしたんだ。
炭酸水が喉の奥を圧迫しながら進んでいって、ちょっとげふってなりそうだったけど、頑張って飲み下す。ほら、オレってアイドルだから。
「なんでもないよ、戻ろっか!」
振り返ったオレは涙目だったけど、これは全部炭酸水のせいだから。だからユキは気にしなくていいんだ。オレが勝手に炭酸水の一気飲みなんてしたせいだから。
「おまえ……」
「なに?」
新しいひつじの皮を被って、ユキの前でニコッて笑って見せる。
「……えい」
ほっぺたを、ぶにって抓られた。
「あにふんほ……」
「モモがかわいくない顔するから」
「は? はっひ、かあいいっていっは……!」
「うるさい、かわいいかかわいくないかは僕が決める」
うりうりうりと両側のほっぺを捻られた。流石に痛くて、ユキの手を振り払う。ユキは力がないから当然払えるんだけど……だけど。
「な、なんだよ、もー!」
「モモ」
「だから何!」
「かわいくないなんて嘘だよ」
「ダーリンひどい! モモちゃんを弄んで!」
「弄んでないよ。モモにはいつも本気」
「モモにはってなんだよ! 他所では弄んでんの⁈ それはそれでジェラシーだよ!」
「ふふ」
はははって声を上げて、おかしそうに笑うユキを見て、握っていた拳を緩める。ちょっと安心する。
「ジェラシーなんてしなくていいよ」
「うー……そう言っても、オレの知らないとこで連絡先受け取ったりしてる……」
「受け取ってるだけ。何もないよ」
「何かあったら困るよ!」
ジェラシー、嫉妬はぶつけていい。ぶつけていいってわかってるから、わがままなくらいぶつける。
でもそれ以外の感情は駄目。
「大丈夫だよ、モモ以外に特別なことしてないもん」
「本当?」
「本当」
むーっとむくれた顔を見せる。さっきまで摘んでいた頬をよしよしと撫でられた。むにむに遊ばれてる気もするけど、悪くはないしむしろ好き。ユキのことが好きだから、ユキに撫でられたらそりゃあ嬉しくて、光栄で、勿体無くて——ユキが好き。
「ひつじの皮ごと、中のモモも全部、僕の特別」
きゅんとする。思わず唇を噛む。それを、ユキが「噛まないの」って指先で撫でた。
こんなことも他の人にしない? 本当に?
(でも本当は、いいんだ。ユキがしたいなら、他の人にだって特別したって……)
——そうだよ、ユキがしたいなら。
ユキが面倒だって言うなら嫉妬だって表に出さない。オレの内側に仕舞い込んでおくのに。そう思うと、撫でられたばっかりの唇にまた犬歯を立てちゃう。
「こら、モーモ」
炭酸水の缶をゴミ箱に投げ入れて、それから窘めてくるユキを振り返る。
だめだめ、とユキの指先が頬を撫でた。ギターを弾く、ちょっと皮の厚い指が通り過ぎたかと思ったら、唇をぎゅっと塞がれた。
指で? 違うの? 今度は——なんだこれ?
ぱち、と瞬きをして、ぱち、と離れていくユキの顔を見る。
あ、れ?
「噛んだら駄目だって言ってるだろ」
「ユキ?」
「ひつじのモモ、早くうち行こうよ」
「ねぇ?」
今何したの?
「僕、羊毛も好きだよ。だからうち行こう」
「ユキってば」
「何?」
ユキが、無表情になって、それから視線を泳がせる。あ、ちょっと照れてる。
「オレ、今ユキんち行って大丈夫……?」
あ、ぼあって熱くなってきた。どうしよう。隠し切れない。ユキも段々赤くなっていく。かわいいダーリン。照れてる時はすぐ真っ赤になる。
「……わかんない。僕、羊毛好きだし」
「だから、モモちゃんはひつじじゃないんですけど。毛を刈られちゃったら、どうなんの?」
暫くして、ユキが真っ赤な顔をようやく抑え込んで、にやーって笑った。にやーってしてるけど超イケメン。やばい、かわいい。
「秘密」
そっかぁ、秘密かぁ。
オレも大概ユキに秘密があるけど、ユキの秘密はドキドキしちゃうな。本当にドキドキしちゃう。どうしよう。
「……だからオレ、ひつじじゃないんだってば……」
顔を覆ってそう言えば、ユキがワンテンポ置いてから笑い出した。
一旦リセットさせて。ねぇ、他の感情は、他の感情は秘密なんだから。
「なんでそういうことするんだよ……」
他の——好きなんてのは、秘密なのに。
先にオレにちゅーしてきたイケメンさんは、はにかみながらオレの頭を撫でている。
できてるかわからないけど、かよわくてふわふわなふりなんてするもんじゃないのかもしれない。だから、ユキも急にあんなこと。
「ひつじの皮ごと、中のモモも全部、僕の特別」
そんなユキの言葉が頭の中に蘇る。顔が熱いのは収まらない。
こんなことになるなら、皮を被るなんてもうこりごりだ。