「よお」
聞き慣れない言葉なのか、不思議そうな顔をしてこちらを見た竜吉公主に、天化は幕を下ろして、ひらりと手を上げて見せた。
「ああ、悪い。えっと、竜吉公主サマ、お加減はどうさ?」
「気遣い痛み入る。用意してもらった浄室のお陰で、幾分かは……」
そう言いながらゴホゴホと咳き込む彼女に、天化は手に持っていた香壺を置いて、肩をすくめた。
「……少しでも楽になりゃあ良いけど……」
純血の仙人である彼女にとって、地上の空気は毒でしかない。そんな言葉を思い出し、天化は慌てて銜えていた煙草を指で挟む。
「あっ、これ、火点いてねーから安心するさ!」
そういえば、公主は一瞬きょとんとした瞳を見せて、それから目を細めて微笑んだ。
「点いていても構わぬよ、黄天化」
「そ、そか。いや、ホラ、念のためっつーか。俺っち、よく病室行ったり来たりさせられんだけどね。火点いてなくても、口にコレがねーと落ち着かないっつーか……」
「そのケガで、か?」
「あ、いやそれもあっけど……なんでか、ケガ人の見張りにされるんさ……」
「……天化は、優しいのじゃな」
「は? なんで?」
「だから、そのような仕事を回されるのじゃろう」
穏やかにそう言ってのける。そんな公主の横顔に、天化は思わず、ぽかんと口を開けた。
不思議なことを言われたせいもあるが、香のもやの中でさえ、彼女の微笑みはあまりに美しい。だから呆けてしまった。
「多分違うさ」
「ん……?」
「あ、いや……そういうことを言ってくれんのは嬉しいんだけど……」
「気に障ったか……?」
「ううん」
そういえば、いつも彼女に付きっきりの碧雲と赤雲はどこにいるのか。浄室を見渡したが、彼女たちの気配はない。
「安心せい」
彼女の言葉にしては粗野なそれに、天化はぴっと背筋を伸ばした。
「今は、私とおまえだけじゃ」
「はぁ、それはそれで不用心な……」
「ふふっ」
微笑みとは違う。溢れたかのような笑みだった。そんな「お上品じゃない姿」もあるのかと思う。
「天化は、私が用心するようなことをはたらきたいというわけじゃな?」
「ち、違う違う! 俺っちじゃなくて! ここには、その、危なっかしい奴らもいるし!」
「冗談じゃ。慌てるでないわ」
「う……」
不覚。どうにも、からかわれているような気がしてくる。見た目や普段の振る舞いからは想像し難い少しの意地悪。
けれど、悪い気はしない。だから天化は困惑している。
「くっそー、チョーシ狂うさ」
「すまぬ。天化の反応が愛らしくてな……」
「公主サマは、思ってたよりおてんばだな」
「おてんばと来たか……」
嫌そうではない。それに安堵し、天化も口角を上げる。
途端に小さく咳を繰り返す公主に、天化は本来の目的を思い出し、そして「そろそろおいとまするさ」と挨拶をする。
「忙しいか」
「いんや、俺っちはそーでもねーけど」
「ならば、もう少し居ればよい」
「でも」
自分の腹部の傷を見下ろす。妖怪仙人から受けた傷。決して清らかではないその傷が、彼女の毒とはならないだろうか。
「俺っち、ケガしてるし」
「つらくはないか?」
「んーん、このくらいへっちゃらさ」
「仲間を心配させまいとしておるのじゃな」
清らかな彼女は、どうにも解釈さえ清らかで、天化はむず痒くなってくる。頭を掻いて、それから振り返った。
「公主サマは、俺っちを買いかぶり過ぎだぜ。俺、そんなに清く正しくねーさ」
「しかし、汚れてもおらんだろう?」
「……人間って、そーゆうもんじゃねーかな。俺っちは一応仙道だけど」
「そうか……」
「公主サマ、つらくなったらすぐ言ってくれる?」
「何故?」
「退屈そうなあーたの話し相手になろうかと思って。つらくなったらすぐ退室するさ」
そう言って、天化は柱に背中を向けて寄りかかった。腕を組んで、立ったまま彼女を見る。
「心得た」
そう言って笑ってくれた竜吉公主の笑顔に、またもうっかり見惚れてしまう。色事に積極的でない天化でさえ、ついどきりとする。そんな相手の美しさに、苦笑いしてしまう。
「ああ、でも碧雲と赤雲が戻ったら追い出されるかもな」
「安心しろ。乱暴にはさせんよ」
口に銜えたままだった煙草を上下させ、天化は「お茶でも持ってくれば良かった」と呟いた。彼女には、地上の食べ物なども毒に当たるのか?
「また来てくれるか?」
「もう今度の話? 公主サマがそう言うなら、香壺換えにくるけど」
「……うむ」
なんだろう。外見の年齢に沿わない口調が、やけに引っ掛かる。ふと思い出すのは、小柄で華奢なジジイのことだった。
「公主サマは、なんでそんなバァちゃんみたいな話し方するさ?」
「おまえの言うところの、バァちゃんだからだろう」
「見えないさ」
「皆そうであろう?」
「でも、若げなのにそんな口調なのスースくらい」
「……そうじゃのう」
どうしてかな……小さく呟いて考えている公主の横顔を見ながら、迂闊にも「なんとなく似ている」と思ってしまった。それを、天化は少し恥ずかしく思った。ジジイの方は、決して美しくはないのだが。
「どうした?」
ころんと、公主の大きな瞳が天化を見る。
「あ、いや」
なんでもないと手を振った。やっぱり、バァちゃんには見えない。
「やっぱり、用心はするべきさ……」
変な気が起きたわけではない。断じてないが、しかし、変にドギマギはしてしまいそうだ。
天化はぽりぽりと頬を掻いた。すると、公主はまた少し悪戯っぽく美しく笑って言ったのだ。
「ふむ、天化がそう言うのであれば、そうしよう」
「うん、よろしく頼むわ」
んじゃ、俺はこれで。そう言って、柱から背中を離す。
小さく咳をした公主が「また」と言い掛けたので、天化はニカリと笑って頷いた。
足早に浄室を出て、それから身体の匂いを嗅いだ。浄室の中は香のもやで一杯だったから、自分にその匂いが付いているのでは……と懸念してのことだった。
「うーん、匂いがわからん」
しかし、どうやら鼻についてしまったらしい同じ匂いのせいで、判別ができない。
しばらく唸っていると、背後で、すんすんと鼻を鳴らす音が聞こえた。
「うおっ!」
「珍しい匂いをさせておるではないか」
見た目に伴わないジジイ口調。先程天化が思い出した、太公望その人である。
「公主の元に行ったのか」
「あ、ああ、香壺換えに」
「そうかそうか」
腕に一杯の荷物を抱えている。そんな太公望の荷物の一部を、そそくさ取り上げた。
「……何処まで?」
「……執務室まで」
「手伝うさ」
「すまんな」
そのつもりで声を掛けたんじゃないの? と意地悪を言ってやりたい気持ちになったが、顔色を見るにそうではないのだろう。無闇な悪戯はやめておくことにして、天化は太公望に付いて行く。
「公主の具合はどうだった?」
「幾分か良いってさ。ちょっとお話ししたさ」
「……そうか」
どことなく心配そうな横顔に、天化はついと唇を上げる。
「スースって、公主サマのこと好きなん?」
「な」
ぴしりと振り返る。あ、珍しい反応、と思って、胸が少しちくりとする。
「好きには好きだ。尊敬もしておるし。何故そうなる」
「なんとなく」
好きな人の仕草だとか、癖だとか、そういうものは「感染る」んだそうだ。そんなどうでも良いことを思い出しながら、天化は煙草をまたついーっと下げた。
「ちっと似てっから、なんとなく」
「似ておるわけなかろう。おぬし、どこに目を付けとんだ」
「……だから、なんとなくって言ってんじゃん。二回も」
大きな目をきょとんとさせた時。少し強気な、意地の悪い表情をした時。なんとなくそれが似ていて、言葉の使い方も。だから、本当になんとなく。
「わけわからんこと言うでないわ」
「図星だから慌てるんだ」
執務室の前で振り返った太公望が、ぐっと口を尖らせた。
「肯定しておるではないか。それを、何が図星だ」
子供っぽい顔してら、と口を結ぶ。火の点いてない煙草が、行き場をなくして目の前でふらふらしていた。ふらふらさせているのは自分なのだが。
「荷物下ろしていい?」
だから、話は続けず、手に持っている荷物を置かせろと執務室の方を見た。
太公望は、腑に落ちなさそうに執務室に入っていく。
「おぬしの方こそ」
「んあ?」
机の上に荷物を下ろし、天化は太公望の顔を覗き込む。
「何?」
「彼女は美しかろう? 惚れたのではあるまいな」
「だったら、どーなんさ」
きょとんとした瞳が、天化を見た。瞳が綺麗で、やっぱり似ているなんて思った。
「あんな美人に可愛いとこ見せられたら、グッときちゃうもんだろ」
「おぬしらしくないこと言うのう!」
「あーたは俺っちを何だと思ってんさ……で?」
ずいと詰め寄れば、太公望は顔を引いて、それから逸らす。
「惚れたら、どーすんの」
「……こ、公主はやめておけ。分不相応だ」
「公主サマに気に入ってもらえばワンチャン」
「な、ない!」
がっと押し退けられる。驚いた天化の口から煙草が落ちた。それを太公望がぱしりと掴む。多分、折れた。
「なんで? 分不相応は慣れっこさ」
「それは、相手がわしだからであって……公主はもっと……その」
「あの人、スースと似てっから、気に入ってくれるかもじゃん」
「じゃかーし……! は?」
ニッと笑って太公望の手の平の中の煙草を返して貰おうと開かせる。案の定、折れてしまっているそれを摘まんで、天化は「あーあ」と呟いた。
「我慢して火点けなかったのに……」
「あのなぁ、天化。自惚れも大概に……そもそも、わしと公主は似てはおらぬし……」
「あ、そうそう」
フィルターのところで折れてしまっている煙草を見つめながら、ぼそりと言う。
「公主サマに、また話したいって言われたさ」
別に、だらしない顔をしたわけではなかった。なのに、天化は顔面をべしりと引っぱたかれ、その上、襟ぐりを掴まれ、不服そうな顔に正面から睨まれたのだ。
「あのな、あまり調子に乗るなよ、天化」
「え」
らしくないのはどっちやら。そんな風に思って、たじろいだ。
そんなに彼女が好きなんかい、と。確かにそうだ。だって、彼女を見る時、目つきが優しくて凜々しいもんな。――お、どうしよう、また少しだけ胸がちくっと――。
掴まれた襟ぐりを開かれる。天化の首の付け根に、衝撃が走った。
がぶ。
「いて」
がぶう。
「いててててて!」
噛み付いていた口が離れ、襟ぐりをべしりと戻された。
瞬きを忘れた天化の正面には、真っ赤に上気した頬で口を引き結んでいる太公望の顔がある。
「スース」
「荷物運びご苦労!」
執務室から追い出された天化は、噛み付かれたばかりの首を撫でて「あちゃあ」と呟いた。
――らしくないさ、スース。マーキングなんて。
あんなのもこんなのも、調子に乗らない方がどうかしている。