策略の二乗


タオルで頭を拭きながら、ひょいと覗き込む。テーブルの上に置かれた天化の携帯に表示されているメッセージを見て、太公望は首を傾げた。
「女かのう」
すうっと黒くなる画面をぼんやりと見ていると、背後から同じようにタオルで頭を拭いている天化が覗き込んできた。
「どした?」
飛び上がりそうになったところを、きゅっと喉を狭め、堪える。太公望は、ゆっくりと振り返った。
「なんか、鳴っておったぞ」
「あ、うんうん」
濡れたままの手で携帯を逃すように取り上げた姿をじっとりと眺め、太公望は「ほう」と思った。
――UWAKI……? 首を横に振る。浮気などと呼称する程の関係は持ち合わせていない。
しかし、だ。何かこう、うまく言えない言葉が太公望の喉元まで上がってきた。
(どうしたもんか)
というか、今さっきまで一緒に風呂に入っていた仲だ。やましいことは何もしていないが、わざわざ狭いアパートの風呂に二人で入ってしまうような、そんな仲だ。
「だ……」
誰からだ? なんて聞いたら負けだ。案じていることがバレる。
天化は太公望に背中を向けて、携帯を見ているようだった。綺麗に肩甲骨が浮いて、肩回り・腰回りには筋肉がほどよく乗っている。肩口には、少し眺めの襟足が水を束になって散らばっていた。
ああ、いい男……などと、うっとりしている場合ではないし、なんなら蹴り飛ばしてもいい。
が、そんな大人気ないことはできなかった。太公望にも意地がある。特に、普段色恋に興味ありません、みたいな顔をしているが故に尚更だ。
自然と、口を閉じる形になる。ぐしゃぐしゃと頭を拭いて、タオルを放った。
(別に)
別に、別に、別に~と頭の中で呟いている内に腹が立ってくる。ついには口を尖らせて、太公望は寝間着のTシャツを被った。
(……そういえば、最近は夏休みの小学生染みた格好しかしとらんな)
前は、中華風の寝間着を着ていたりもしたのだが、何分Tシャツの方が楽なのだ。昼間も、勿論あまり凝った格好はしない。
(特に、気にする奴でもあるまいし……)
反応が変わらないものだから、夜のこだわりも特に持たなくなった。というか、最初から殆どない。
頭にタオルを結び、そしてカップを出すと、牛乳を注いでレンジに入れた。
(まさか……マンネリ)
はっと頭を過った言葉に、思わず言葉を失う。ぼーっとしている間に、レンジの中でぽかっと音がした。
「おっ、やばいやばい!」
慌ててレンジを止め、それからカップを取り出そうとした。
「あち」
思っていたより熱くなっていたカップから、反射的に手を離す。持ち上げる前だったから、中身は少し波を打っただけだった。そうっと蛇口を捻り、冷水で指を冷やしていると、携帯を片手に持ったままの天化が「はぁ?」と声を上げた。
「何してんさ」
「うっかりしていた」
「あーららら……」
冷凍庫から取り出した保冷剤を、そっと太公望の指に当てて、天化はすうっと肩を落とす。
たかが熱いカップに触れただけだというのに、彼なりに慌てたらしい。太公望は思わず、くすっと笑った。
考えてみると、やはり手放すのは惜しい。同じ布団に入っているのに、今更ではないかとも思いつつ、太公望は口を尖らせた。同じ布団で寝ていても、だ。特にやましいことを頻繁にするわけでもないのだ。
(……最近、夜帰らない日はあっただろうか)
恐らく、多分、ない。ただ、太公望が先に就寝している場合は、どうにもわからない。そして、太公望の方が遅く起きる朝に関しても、それはわからない。
(……わし、自堕落過ぎ?)
ふらふらと寝て、ふらふらと起きる。同居している人間が、いつ出て行ってるのかもわかっていない。ただ、時間に余裕があれば、一緒に飯も食えば、風呂も入る。同衾するからには、たまにそういうこともする。
(最後にしたの、いつだったか……)
――あれ、これって、なかなかやばいのでは。
太公望の中で、チャート式の質問と回答が設置されていく。どう考えても、マンネリどころではない。
隣の天化を見れば、背中を向けて、すやすやと寝息を立てている。
そそそ……と寄ってみる。自分と同じようにTシャツ姿の背中に額を当てて、はぁっと息を吐いた。
このままでは、快適な生活が危うい!
(いや、そういう思考がまず危ういわ!)
四不象がいたら、叱られているところである。
この危機を脱するため、太公望なりに考えた。
まず、第一に、直接問い質すのはどうか。
「女が出来たか?」
そう問えば、それが真実であればバカ正直に答えるであろうし、真実でなければ、それもまたバカ正直に答えるだろう。
(……わかっていても、ダメージがでかい)
「うん」と答えられた時のことを想定すると、とても、大変、物凄く不本意ではあるが、胸がずきっと痛む。もしそうでない時、天化はどんな顔をするだろうか。これもまた、想像すればするほど胸が痛む。
彼は、疑われることに対しての防壁が異常に高い。それも、太公望から、となると、尚更だ。言葉では表せない不安が過る。
――やめだ、やめ。
次に、特になんでもないふりをしてふんぞり返り、この生活を続けるのはどうか。
(いや、それが不安だからこうして……)
策を講じているのだ。
愛想尽かしまっしぐら。いや、尽かす愛想もないかもしれない。太公望の背中がヒヤッとする。
(逃げたい……)
そうだ、逃げてしまうのはどうか。そう思って顔を上げる。もぞもぞと動いた背中が、ゆっくりと身体を返した。
「……寝れない……?」
「あ、すまぬ。起こしたか……?」
「いんや……」
もそりと動いた天化が、目を擦ってぼそぼそと何か言っている。うまく聞き取れなかったので、太公望が顔を寄せると、ふんわりと頭を抱かれた。
「動いてんのは、わあってた……から……」
「そ、そうか……?」
「んー……」
――熱い。
別に、これを人にくれてやるのは、どうとも思わない。自分が独占していいものはないと思っているし、なんなら――なんならば。
そう思っているのに、Tシャツの端をきゅっと握り締めている自分がいる。辟易する。口ではいらない、必要ない、誰のものでもないと言っているのに、それを心の末端が肯定しない。ちぐはぐだ。まるで、自分の気持ちではないみたいだ。
(逃げたい……)
口では、飛び立って消えてしまえばと言えるのに。
一番やりたくない手段を考え、そして、むすっと口を尖らせた。



さて、しかしいきなり早起きというのもできず、結局太公望が起きるよりも天化が仕事に出る方が早かった朝である。太公望は、天化が炊いて出た米を口に入れながら、策を詰めていた。
とりあえず、Tシャツ以外の寝間着を引っ張り出した。白地に青い縁装飾をしてある薄手の中華服。新しく用意する程の気合いは見せたくない。あからさま過ぎると逆に引かれる。何せ、相手は天化だ。あれで、追うと意外と逃げる。
さりげなく、さりげなく外掘りを埋めて、追い詰めるのが妥当だ。
内容を盛り過ぎるのもいけない。遠回し過ぎると伝わらない。
「もういっそ、ほら抱かぬかと押し切った方が良い気もするが……」
そこは本来の目的からずれる。太公望が満足しても、天化を満足させなければならないのだから。
「でないと、マンネリ解消にもならぬし……」
どうしても意識しなければならない見た事もない女の存在に、太公望は頭を抱える。
「なーんで、わしがこんなことで頭を使わねばならんのだ!」
別に、そう、別にだ! 別に二股掛けられようが、体だけだろうが、別にそんなことは構わないのだ。唯一構うとすれば、天化が生きていてくれればと、そこだけなのだが。
手でぐしゃぐしゃに丸めた寝間着を顔に当てて、太公望は唸った。
「……むううー……」
生きていてくれれば、その隣にいるのが、わしでも良いのではないか。
「むう……」
その隣が、嬉しい。
丸めた寝間着をそっと伸ばして、太公望は溜め息を吐いた。
「一人相撲は、バカを見るな……」
それも、乞いならば仕方ない。



飯食ってから帰るという連絡を受けて、口を尖らせながらも準備を進める。気分の良いものではないが、これで準備は進められるのだから、皮肉なものだ。
浴室で、夜伽に備えて体をほぐす。ほのかに香を焚いたりもしてみる。用意しておいた寝間着に着換えて、それから、布団を敷いた。布団も干したのだ。シーツの替えもあるし、と自分でベッドメイクした布団の上に正座して、ティッシュの箱を膝に乗せた。
「……我ながら、完璧ではないか?」
これで三つ指突いてお迎えでもしてやろうかとさえ思ったが、流石にそれは避ける予定だった。あくまで、自分のキャラを立てねばと額に手を当てる。
「ふむ、十時……か」
飯にしては、少し遅いような。飲み、だろうか。それとも、本当に浮気……と頭の中でぐるぐると考えながら、布団に横になる。口も磨いたし、と指折り数えながら布団でコロコロしていると、十一時近くなってからようやく鍵の開く音がした。
太公望は体を起こす。
「たでーま……」
太公望が寝ているとでも思っているのだろうか、やけに静かに部屋に入ってきた天化が、そそくさとシャワーを浴びている水音を聞きながら、太公望はうつらうつらする意識を取りとめていた。
「なんか、部屋良い匂いするさ……?」
タオルを頭に乗せたまま、歯ブラシを銜えて寝室に入ってきた天化と目が合う。
「あ、起きてた?」
「うむ」
予想していなかったとはいえ、なんと情緒も風情もない格好で入ってきたものかと思い、太公望はついぐっと口が歪む。
(いや、普段のわしならば、ここは涎垂らして寝顔でお迎えのところであろうからな……この天化の態度も仕方のない……仕方のないもんだが、おぬし、せめて歯ブラシはやめぬか、歯ブラシは!)
口の中で不本意な点を連ね、そして予め畳んでおいた掛け布団はそのままに改めて敷布団に寝そべる。じっと、歯ブラシを銜えてしゃこしゃこしている天化を見上げてみる。
しゃこしゃこ……。
天化が、不思議そうな顔をして手を止めた。
洗面に戻って行った天化を見送りながら、太公望は眉間を押さえた。
(……既に失敗した気がする……)
蛇口から水が流れる音が止まったので、なんとか気を取り直した。
歯ブラシを口から出してきた天化をまたも見つめ、そして彼の句を待った。
「スース、布団くらい自分で掛けなきゃダメさ」
「ぬっ」
どかん、と頭を何かで殴られたような気になる。
「ほら、ティッシュ箱どけて。あーもう、片付けな……」
「あー」
ぺいっとティッシュ箱を払われた。その下に隠していた……というほどでもないが、置いていた個包装の物を見て、天化が固まった。
「……あれ」
「うーむ……」
本当は、もう少し雰囲気に飲まれてから出す予定だったのだが……と太公望がその個包装、コンドームを手に取る。
なんとなく気まずい雰囲気が流れているのを知りながら、太公望は天化の顔を上目遣いに見上げた。
「天化、その……」
「うん」
物欲しそうな顔を演出したつもりだったが、天化の顔を見上げて思わず表情が崩れた。
天化の顔は、なんとも言えない困惑顔だった。困っているが笑っている。半笑いとも言えた。
「……仕方ない、シフトチェンジだ」
「は?」
その表情のまま固まった天化の頬を指先で拭い、くいっと顎を掬う。
「遠回しに誘ってみたが、どうにも釣れんかったようだ。どうだ天化、触れてくれぬか。暫くであろう?」
「……えーっと」
予定とは変わったが、こう言われて拒絶する天化ではないことを太公望は知っていたし、言ってはなんだが、始まってしまえばこちらのものだと思っていた。
天化は、太公望の手をそっと抓んで、布団の上に戻すと、頭を掻いて首を横に振った。
「今晩は、お断りします」
思わず、唖然とした。
「疲れておるのか……?」
「や、そういうわけじゃないけど」
「た……勃たぬか……?」
「いやー……そういうわけでもねーんだけどね」
頭の中で、ガーンガーンと金音が鳴る。
天化に、夜伽を拒絶された。今まで、太公望が嫌だと言う事はあったが、天化からノーを貰うことはなかった。
「あ、ショックだったりするさ?」
「そんなわけあっかい!」
つよがり、である。
「そういうわけだからさ、寝ようよ。スース」
ね、と首を傾げて掛け布団の中に潜る天化を見下ろして、太公望は呆然とした。
身綺麗にして、部屋の雰囲気まで作って、最後こそ誘ってしまったが、天化には見せないような殊勝な態度まで作ったというのに、この男見事に全てをかわしてみせた。
「……負けた」
「んあ?」
はて、何故同居しているのだったか。確か、「一緒に生きて欲しい」とプロポーズまがいの言葉を掛けられ、半ば無理矢理この場所に括りつけられたような気がするのだが、どうだったろうか。
太公望は、このアパートに住みだした記憶を辿り、それからポンと手を叩いた。
「……負けたな、これは」
「んー、スース、いいからおいで」
ひらひらと宙を泳いだ天化の手が、太公望の手首を掴む。そして、無理矢理布団の中へと引き寄せられ、抵抗すれば、背後からぎゅうっと抱き締められた。
「お、おい!」
「いいからいいから」
「良くないわ! なにを今更……っ!」
「いいじゃん、触ってるさー」
「言葉遊びではないのだぞ……!」
確かに、触れてくれぬかとは言ったが、こういうことではない。
「よしよし」
ぽんぽんと肩を叩かれた。
「普段もう寝てる時間さ。待っててくれたんかい?」
「……ちがう」
「このパジャマ、久しぶりに見たさ」
「涼しくなってきたからのう……」
「良い匂い、スースからだったんだ」
耳元で、すんすんと鼻を鳴らされる。くすぐったさに身を捩る。
「ン……」
寝かしつけの手は止まらない。一定のリズムで肩を叩かれ、段々と思考が停滞していく。太公望は、きゅっと目を擦った。
「どうしたん? 今日、そんなにしたかった?」
「……別に」
「でも、ごめんな。今日は」
「聞きたくない」
体を捩る。抱き締められている形から逃れることはできなかったし、天化の腕は少しも緩まなかった。
拒絶される理由、それくらい聞けば良かった。嫌われることには慣れているし、特に、天化からは。どんな気持ちであれ、一度は耳に入れるべきだ。そう思っていたはずなのに。
我ながら、意固地になっている自分を止められない。太公望はきゅっと体を縮めた。
離して欲しい。逃げ出したい。力を使って逃げ出してもいい。今だけここから逃げ出したい。出て行きたい。
「スース……?」
ようやく不安そうな声色に変わった天化が、太公望の頭に鼻を擦り寄せる。
「なんか変さ。どした……? なんかあった?」
「うるさい。寝るのであろう。早く寝ろ」
「……おーい」
気配を消して腕をすり抜けるなんて、容易いことだ。
「スース……」
不穏な気配を感じたのか、天化の腕に力が入る。
「……わぁったよ。スースの言う通りにする……」
「別に、そんな気持ちで抱かれたいなどと思わぬ」
「じゃあ、なんでヘソ曲げてんだよ。わかんねーよ、俺っちには」
体の位置が変わり、天化と敷き布団の間にうつ伏せに挟まれる形になる。太公望は、その圧迫感に思わず眉をしかめた。
「もうよい! 退け!」
「だー、もう! どうしろっつーの! ヤっちゃったら、あーた絶対朝起きないさ!」
「……なん、と?」
「……あーもう……」
天化をゆっくりと見上げると、やってしまったとばかりに口を手で押さえていた。
「明日、朝一で行かないとならないとこがあって……」
「朝一……?」
「スースも、一緒に連れて行かないとならなくて……」
「わしも?」
天化が体を起こし、ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜた。暫く天井を見上げ、そして「はぁ」と大きな溜め息を吐いた。
「……ここに天使が来て、一年さ」
「てん、し……?」
そういえば、ここへ来た時、まだ黄天化としての記憶の戻ってない天化が、太公望のことを天使呼ばわりしていた。それを思い出し、かぁっと耳が熱くなる。
「だから、事務の女の子に、その……人気のスイーツの店を予約取ってもらって……それが、明日で……朝で……」
もごもごと口を動かす天化が、恥ずかしそうに困ったように、太公望を睨んだ。
「だから……一緒に行きたかったんだよ!」
ぱちくりと瞬きを繰り返す。ガリガリと頭を掻いている天化が、ぷいっと顔を逸らしてしまったのを、太公望はぼんやりと見ていた。
「じゃあ、あの連絡は」
「その事務の子!」
ふらっと、頭に上った血が沸騰してしまったような感覚に陥り、布団に倒れ込む。天化は天化で、「あーあ」とか「だー」とか、何か唸っていたが、太公望はそれどころではなかった。
「……先に言われておれば、別に、一発や二発……起きれるわ。いくつだと思っておるのだ……」
「先に言ってたら、びっくりさせらんねーだろ! 俺っちがあーた驚かすことなんて、滅多にねーんだから! あーもう! 計画台無しさ!」
「……台無しはこちらのセリフだっちゅーの……」
くわんくわんと頭の中が回る。早とちりをした。正面から問いつめなくて良かったのか、悪かったのか。それにしても、今こうして自分の失態に気づいた方が余程恥ずかしい。
「なんで突然ヘソ曲げっかなー……しかもこんなタイミングで! あーたは本当に、とことん俺っちの……ん、この、タイミング……?」
ぎくぅと身体が跳ねる。
「事務の子……」
どきぃっと、もう一度跳ねる。
「スースにそんな気持ちがあるとは思えねーけど……もしかして……」
布団の隅に転がり、掛け布団をばふっと被る。
顔は見ていないが、天化の口角がつり上がっただろうことはわかった。
布団の上から、つんつんと頭をつつかれる。
「おーい」
「おらぬ」
「何居留守してんさ……」
「消えた」
「冗談」
布団ごと抱き締められ、苦しくなって顔を上げれば、そこには例の個包装を抓んでいる天化が、とても嬉しそうに笑っていた。
「……先に言っておけば、起きてくれるんだっけ」
「……まぁ、な」
掬うように奪われた唇をされるがままに、太公望は天化の首に腕を回して抱き締めた。
本当に起き上がれるだろうか。そんなことを、頭の隅でほんの少しだけ考えた。