天使ではありません。


「望、行ってくるさー。いい子に待ってろよ」
「ぐうー……」
いい子だと。冗談じゃない。
そんな言葉を挟んで唸っていても、相手はちっとも気付きやしない。
「おい、聞いてる? 行ってくるさー!」
玄関のドアの前で元気に喚いているばかりだ。
「しつこい! はよ行ってこい!」
太公望は、ついにしっしと手を払った。「行ってこい」と返さない限り出て行かない天化にうんざりしながら、口をむっと尖らせる。
「その呼び方をやめいと言うに……」
結局、彼は太公望のことを思い出さないままだ。夜の帳に目を覚ます黄天化は確かに覚えているのに、日中の天化は、太公望の素性を知らないままでいる。
ただ、不覚にも名だけは無理矢理聞き出されてしまった。
最終的に「望」と呼ばれるようになってしまったのは、太公望の失態だった。「なんでスース?」というささやかな天化の疑問に、太公望は上手く応えることができなかった。自分の立場のこと、天化の立場のこと、それを説明するには、今の天化はあまりに相手が悪過ぎたのだ。
「スースって名前なの」
「そ、そう……」
「あ、今のはわかったぞ……あーた、嘘ついてるさ……」
真正面から顔を覗き込まれて、つい動揺してしまったせいもある。
「名前くらい素直に教えろよ」
名前を聞いたら、思い出すだろうか。
そんな都合の良い妄想に突き動かされてしまったのもある。
だって、寂しいではないか。夜の帳には現れる優しい天化の手に触れる。触れたまま目を覚ませば、それとは別の天化に振りほどかれている。どちらも天化で、そうに違いない。ただ、知っているか知らないかの差だ。他人か、友かの差。
(……友同士が寄り添って眠るかどうかはさておき……)
太公望は、こほんと咳払いをして、それから小さな声で答えた。
「……太公望」
「たいこうぼー?」
「正直に言ったぞ。文句があるか」
「いや……」
はて、と天化は首を傾げる。
「何か、覚えがあるか……?」
ほんのわずかな期待を口に出した。喉が渇いているような気がした。こんな些細なことに、緊張をしている。
しかし、対する天化は、ふむと唸ってから「ないな」と綺麗に一言答えてくれた。
ごろんと床に転がる太公望。
(一瞬でも期待したわしがバカだったのだ……)
そんな風に反省をしていた時だった。
「望」
思わず、床にごちんと頭を打ち付けた。
「ん?」
「望って言うのか、あんた」
太公望の顔を見下ろして、天化は太公望の頬を人差し指と親指で挟んでむにむにと抓む。
「んがっ!」
太公望は、咄嗟に我に返った。そして、天化の手を振り払い、カサカサと部屋の隅に逃げた。
「なななな何をしとるか! しっつれーな奴だのう!」
「いや、マヌケな顔してっから、つい」
「おぬしはついで人の顔を触るのか!」
「なんだよ、そんなに嫌だったんさ?」
がりがりと頭を掻く天化が、腑に落ちないような顔で太公望を見る。その様に、太公望は地団太を踏んだ。
「下の部屋に響くからやめてくんない……」
「わぁっとるわ!」
「騒ぐなよー……」
うるさいとでも言いたげな天化に、太公望は何も言えないまま、むうっと口を尖らせる。
「天使って呼ばれるのも嫌、名前で呼ばれるのも嫌。じゃあ、なんて呼べばいいんさ」
「太公望で良いではないか!」
「長い」
べしりと叩き付けられる。
「そんなに嫌なら、もういい」
そう言いながら煙草を銜えて火を点ける天化を睨み付けていると、ひどくうんざりした顔付きをされた。
「あーたの困るとこは、その頑固さだよ」
「おぬしに言われたくはない」
頑固さに至っては、特に。
険悪な空気に、太公望の方までうんざりしてくる。立ち上がって、部屋の窓を開けた。天化の煙草の煙を、換気するためのつもりだった。
そんな太公望に、天化が声を掛ける。
「行くなよ」
「何処に?」
 それ以前に、何を突然……そんな風に思って振り返る。
「……あんた、窓から飛んで行っちゃいそうだから」
銜え煙草でぼんやりと呟いた天化の言葉に、太公望は出来ないことはないなと苦笑いを浮かべた。飛ぶ事くらいなら容易い。
「そうだな。おぬしにその名で呼ばれ続けたら、堪えられなくなって飛び去るかもしれんな」
「その前に慣れろよ」
「慣れんよ」
慣れんよと、もう一度心の中で反芻する。
その顔が元来の名を呼ぶことに、慣れるわけがないのだ。
今晩には、またきっと黄天化が現れて、きっと彼の顔をするだろう。そして慣れた呼び名で太公望を呼ぶのだ。だから、慣れるはずがない。
「……あーたは、俺のことをちっとも見ちゃいない」
吹いた空っ風に肩を抱いていると、寂しそうに呟く声が聞こえた。聞こえないふりをして首を傾げれば、天化の顔をした男は首を横に振って見せた。
「なんでもない」
なんでもないわけがない。そんな顔だった。
始めに言った通りになっている。太公望はそれを痛感する。天化が天化である限り、天化は太公望を置いていくだろうと、そう黄天化に言った通りになっている。
きっとまた、この苦心を抱えた天化は、太公望を振り払う時がくるだろう。それは、覚えていないから尚更だ。
夜に彼が現れたところで、今を生きている天化がこれでは、なんの意味もない。
回想を止め、天化が今朝方出て行った扉を見つめる。
「おぬしには、おぬしの今があろう」
好きだから、縛らないで生きて欲しい。
好きだから、縛られないで生きて欲しい。
(わしが姿を消せば、夜に天化が覚醒することもなくなるだろうに)
そうすれば、天化は何の枷もなく、今を生きられるというのに。
「……子供か、わしは」
窓を開けて飛んで逃げることよりも、彼が、捨ててくれることを待っているだなんて、卑怯にもほどがある。


「おい天化、目の下クマできてんぞ……」
んあー? と欠伸で返事をする。
そんな状態で仕事してて大丈夫か……とでも言いたそうな親父の顔を一瞥して、天化は首を振った。
「最近、寝不足で。いや、寝てるっちゃ寝てるんだけど……」
寝てるっちゃ寝てるどころじゃない。毎晩爆睡してるはずだ。日付が変わる前に布団を被って、翌朝きっちり起きようとしているはずなのに、この寝不足は改善の余地を見せない。
それどころか、悪化している気がする。
よろりとよろける天化に、飛虎が手を伸ばした。
「お前、こんなところでよろけてくれんなよ」
「ああ、悪い」
ここは、組んだばかりの材木の上。一戸建ての建設中だった。少なめに見積もっても、地面からおよそ十メートルの高さに位置しているのではないだろうか。
「いや、待てよ。もう少しくらいは低いかも……」
迂闊に算数をしている時だった。ふらんと天化の足元が崩れた。
(違うね、崩れたんじゃなくて……)
「あ、おい天化!」
「あー……」
俺が足を踏み外したんだわ。
――どしゃ。
踵が、バキッと景気の良い音を立てた。
「あれ、兄ちゃん……上にいなかったっけ?」
天化の弟の天祥が、不思議そうな声を上げた。
いたんだけど、と答えようとした天化の声は、震えて声にならなかった。
「流石、着地するとは……」
「本当にまったく……運動神経は計り知れないものが……」
どよどよとざわめく周囲の音が、段々と遠くなっていく。
天化は、景気の良い音を立てた踵から、じくじくとまずい気配が上がってくるのを感じながら、それと同時に凄まじい吐き気に襲われた。
とどめに、ざっと血の気が下がる。
「あの、悪いんだけど……」
救急車、お願いします。
去ってしまった血の気と共に、天化は戸惑う事無く意識をふらんと手放した。それからどうなったかは、もう彼にはわからなかった。


ぴんぽろりん。
滅多にならないベルの音に、太公望はひょいと顔を上げた。
「天化?」
そうっと覗き窓からアパートの通路を見れば、そこには天化ではなかったが、よく見慣れた青年の顔があった。
「天祥、か」
ふむとひとつ唸った。ここにいることがバレてしまって面倒は起こらないだろうかと簡単に考え、それからそうっとまた様子を窺う。
「そうだ、鍵持ってきたんだった」
「し、しまった!」
太公望が逃げる間もなく、天祥は天化の部屋の鍵を開けると、ばっとドアを開けた。
「おじゃましまー……」
「……よく来たのう」
天祥の肩が、すとんと下がったのが見て取れる。
「て、天化は今、仕事だぞ」
 暫く太公望をぽかんと見ていた天祥が、口元をあわあわと動かし、そして諸手を上げて叫んだ。
「知ってるよ! あんたの方こそ、こんな所で何してんの!」
「い、いや、わしはその、同居人というやつで……」
「なんでこんな所にいるんだよ、たいこーぼー!」
「およ」
太公望。天祥は、確かにそう呼んだ。突然のことに、太公望自身は、目をぱちくりとさせる。
「……おぬしは、覚えておったのか」
「忘れないよう。忘れないけど、まさか兄様が隠してたのが、太公望だとは思わなかったな……」
ばりばりと頭を掻いた天祥の態度に、太公望はむっと首を傾げる。
「隠してた……?」
「どーしよ、お父さんになんて説明すればいいのかなー……」
「おい、天祥」
「いっそ本当に女の人とか、犬猫だったら良かったのに!」
「オイ、何が犬猫だ」
「わーん、兄様ったらどうしてこんな面倒な!」
「おーい!」
一人でわんわんと叫んでいる天祥の肩を叩き、太公望は自分の方を向かせる。
「天化に何かあったのか」
「天化兄ちゃん、落ちて踵折ったんだよ」
「はぁ? 落ちた?」
あの運動神経はバカが付く程良い天化が、落ちたと。どこからかは知らないが、天化や天祥の仕事を考えれば、容易く見当が付く。
「寝不足っぽかったから、みんな心配はしてたんだけどね……天化兄ちゃんでも長ければ一ヶ月くらいはギブス生活になるだろうから、暫く実家に戻ってこいってお父さんが言うのにさ。頑なに、アパート帰る! って言うから、俺が様子を見にきたってわけ。みんなで女でも出来たかとか、ペットでも拾ったのかって言ってたんだけど、まさか中間だったとは思わなかったなぁ……」
「誰が女とペットの中間だ、誰が!」
天祥の投げ遣りな様子を眺めつつ、太公望は短く溜め息を吐く。
「うーん、でも、太公望のことなんて一言も言ってなかったし……」
「あやつはわしのことなど覚えとらんぞ」
「えー?」
「夜中、少しの時間だけ覚醒するくらいでな。日中など、わしの正体など微塵も知らぬ。ただの家出少年と思っておるようだ」
「少年……太公望が?」
「だから、あやつは覚えておらんからなと言ったであろう」
その深夜の覚醒時間のせいか、確かに天化の眠りは浅いように思えた。そのせいで、落ちたのだとしたら……、太公望の喉元が、きゅっと狭まる。
「天祥」
未だ、どーしようどーしようと呻いている天祥の名前を呼ぶ。
「んあ?」
「あやつに伝えよ。わしは出て行くから、気にするなと」
「えー! 出て行っちゃうの? またどっか行っちゃうのー?」
「……また、会う事もあるだろう」
「そう言って何百年だよー! 兄様も絶対怒るしー!」
太公望の腕を掴んで懸命に揺さぶる天祥に、ふっと微笑んで見せる。
「言ったであろう? あやつは、わしの呼び方も覚えておらんのだぞ。いなくなったところで、飼い猫が飛びだしたようなものだ」
「あんたなぁ!」
必死な顔をすると、飛虎にも天化にも似た目を見せる。そんな天祥の手をやんわりと外し、太公望はドアの外に出た。
「鍵を持っているのだろう? そのまま閉めてくれ。わしは持たされとらんのだ」
「だ、駄目だってば!」
「大丈夫大丈夫」
「ね、太公望! せめて、兄様に会ってから……! ああもう、哪吒兄ちゃん外にいるんでしょ! 手伝って!」
「なたく……だと?」
ぴしりと太公望の身体が固まった。それを見計らって、ロープを持った哪吒が現れる。
「呼んだか、天祥」
「呼んだよー! 兄ちゃん、ちょっと太公望のこと、ふん縛って! 絶対逃がしちゃダメだよ!」
「な、哪吒……おぬしも、覚えておるのか……?」
「誰だお前は。知らん」
そうだよな、知らんくても、おぬしは天祥のためには一生懸命であろう……。
そんなことを考えている間もなく、太公望は言葉の通り、哪吒に縄でふん縛られてしまったのだった。



「流石にここまで縛られたら……動けぬ」
簀巻きにされた太公望が床の上を転がっていると、天祥が手に持った携帯で何か話しているのが聞こえた。
哪吒が見張り番をしているから、目立つ行動は取れないとは言え、太公望はうんせうんせとなんとか座る。やはり、縄は解けそうにない。
「哪吒、ちょっと窓を開けてはくれぬか」
「駄目だ」
「ちっ」
相変わらず、太公望の言う事は素直には聞かない。
どうしてくれようかと頭を巡らせていると、電話を終えた天祥が振り返った。
「天化兄ちゃん、お父さんと来るってさ」
まったく、とでも言いたげな顔だった。
「あんたが騒がなかったら、うちで安静にしてただろうに」
「だから、わしは出ていくと言ったではないか」
「だから、それが駄目なんだってば」
携帯を一瞥して、天祥は言った。
「天化兄ちゃんが、絶対駄目だって言ってたよ」
訳がわかっているのかいないのか、哪吒はきょとりと瞬きをする。恐らく、記憶も興味も欠片もないのは見て取れた。
「黄飛虎にはなんと?」
「さぁ。俺は、すごい剣幕で見張ってろって言われただけだもん。お父さんには素直に話すんじゃないかな。兄ちゃん、嘘吐けないし」
「父親相手では、特にそうだろうな」
暫くして、外に車が止まる音が聞こえた。
太公望と天祥は溜め息を吐く。
「なんでおぬしまで溜め息吐いとるんだ……」
「溜め息のひとつも出るよー、自分の兄貴だもん」
「……そうだな」
にわかに覚えているというのは、不便なものなのかもしれない。そんなことを思いながら、どたどたという足音を聞いていた。
扉が開く。
「おいこら、望!」
「なんだ天化、騒々しい」
飛虎の肩を借りて乗り込んできた天化が、そのまま太公望の正面に立つ。訳も分からないまま天化に肩を貸している飛虎が、「ほお」と声を上げた。
「親父、降ろして」
「あいよ」
縛られたままの太公望の前に、どかっと腰を下ろす天化。降ろすというよりは、そうせざるをえなかったのでそうした、というのが正しい。
天化の足には、真新しいギブスが付いていた。
「天祥、これ解くさ」
太公望の縄を指差して言う天化に、天祥はやれやれと首を振って、それから縄を解き始めた。
後ろでごそごそしている天祥をそのままに、太公望はつんと天化を見る。
「おいこらなどと、不躾に声を掛けられる筋合いはないぞ」
「何言ってんだ。天祥から聞いたさ。勝手に出て行こうとしたくせに」
「家出が終わったのだ。いつここから出て行こうと、わしの勝手ではないか」
「またそうやって嘘つく!」
怒鳴った天化が、ぴしりと固まった。
「……太公望、本当に踵折れてるから、あんまり怒らせないでよ」
「お、すまぬ」
天祥の言葉に謝りつつ、太公望は澄ました態度を崩さない。
痛みに歯を食いしばっていた天化が、ずいと顔を上げる。
「……とにかく、俺は許さないからな」
「許すも許さないも、今のおぬしは自分のこともままならないのであろう? どうやってわしを逃さないつもりだ?」
太公望にはいくらでも逃げる方法などあるのだと、それがわからない天化ではない。だからこそ、ぐっと黙ってしまう天化に、太公望が嫌みっぽく鼻を鳴らした。
「もー……大人げないなぁ……」
縄をほどこうと奮闘している天祥が、背後で文句を垂れたのが聞こえたが、今の太公望には痛くも痒くもなかった。悪役になるのは慣れたものだ。
「ふむ……」
しかし、それまで事の成り行きを見守っていた飛虎が、だんまりの天化の肩を叩いて言った。少しだけ、天化の纏う空気が変わる。
「どうも、はじめましてか。俺は、天化と天祥の親父の飛虎だ。オメェは?」
はじめましても何も、良く知っているよとは言わなかった。ただ、太公望は口角をそっと上げて「太公望」と答える。
「太公望、オメェが家出して天化と住んでるって所までは聞いた。何があったか事細かに聞くこともねぇだろう。こいつももうガキじゃねぇんだ」
 そう言って天化を見やる。
「そんで、だ。オメェが天化の身体を心配して出て行くって言ってくれてんのも、なんとなくわかる」
「はぁ?」
素っ頓狂な声を上げる天化の頭をわしわしと撫で付け、飛虎は続けた。
「だがな、お前が気に掛かって、逆にこいつ、安静にしやがらねぇんだ。頼むから大人しくこいつの言う事聞いてやってくれないか。まぁ、面倒見てるのがこんなんじゃ、不安もあるとは思うがよ」
「こんなのすぐ治るさ!」
「いいから、オメェも頼み込め」
「なんで俺っちが頼まなきゃなんねーんだよ!」
ぐいっと頭を押し込まれ、天化が動きを止める。
一方で、飛虎はにやりと笑って、太公望を見た。
「何に焦ってんのかは知らねぇけどよ。とりあえずお前にいなくなられると困るらしいから、なんとか待ってやってくれよ」
太公望は、悪役に徹しようとしていた表情を崩し、はぁと溜め息を吐いた。
背後の天祥を見やれば、ニィっと笑っている。お父さんには敵わないだろうとでも言いたげなものだ。
正直、この天祥にも敵わない。そう言えば、この少年はどれほど喜ぶことだろう。
「……わかった。ただし、わしは天化の面倒など見ぬ。ここには留まるが、飛虎に迷惑を掛ける気もない。自分のことは、自分でなんとかする」
がばっと顔を上げた天化が口を開く。
「あーた、家事のひとつもやらないくせに!」
「鍵を寄越せ、天化。流石にわしも買い物には出る」
「こっちは、あーたを一人にする気はサラサラね……!」
ぽすんと、天化の頭を飛虎が叩いた。
「オメェの同居人を信用しろよ。ある程度信頼してっから、一緒に住んでたんだろうが」
「ぐっ……」
「スペアの鍵ならここにあるよー」
天祥が、ひらひらと鍵をひけらかした。それは天祥が使って入ってきたものである。
「そうは言ってもだ、貴重品の類はウチに持って帰らせる。あんた、金は?」
「心配無用だ」
「だそうだ。天化、オメェは一旦実家療養。何、踵が折れたくらいだったら、うちの家系は全治二週間ってとこだろ。気合いで治せ」
「三日で戻ってくるさ!」
「そーしてくれ」
来た時と同じように父親に肩を借りて立ち上がった天化が、何か言いたそうに太公望を睨む。その表情に何も返せないままでいると、天祥がぽっと背中を叩いてきた。
「……安静にせいよ」
「あーたも、逃げ出したら絶対許さねぇさ」
「逃げぬよ。ここまで言って逃げたら、後世で何をされるかわかったものではない」
ぷはっと吹き出して笑った天祥を、天化が睨む。
「えへへ……縄解けたら、俺も帰るから」
「……いっそのこと、ふん縛ったまま放置しといて欲しいくらいさ」
「殺す気かい……」
「死なねぇよ」
ぷいと背中を向けた天化を、飛虎が支えながら玄関へと向かう。
「やれやれ……」
呆れたと言わんばかりに肩を落とした太公望を、天祥の顔がちらりと覗き込んできた。
「どうしても逃がしたくないんだね」
「迷惑な話だ」
「まぁ、俺もわからんでもないけどさ。あーたの場合」
しゅるりと解いた縄を持ち上げて、「解けたー」と喜んでいる天祥に、哪吒がうんうんと頷いて見せる。その賑やかさを、ちろりと天化が振り返った。
ああは言っても、どうしても疑り深い瞳を向けるそんな天化に、太公望は固唾を飲んだ。
少し考える。どう言葉にすればよいものかと。「信じて欲しい」なんてお寒い言葉は、きっと効きやしない。わかっている。自分がどれほど、人を翻弄する言葉に長けているかを。だから疑われる、その理由だって、わかっている。
だからこそ思い付くのだ。信頼させる言葉を。
「……行ってらっしゃい、かのう」
「……いい子に待ってろよ」
欺くつもりもなく、ただ、かっくりと頷いた。続く言葉を思い付かなかった。
それでも、天化は僅かながら安心したに違いない。厳しい表情が、ほんの少し砕けた気がした。
天化と飛虎の出て行ったドアを見て、天祥が言う。
「いい子、かぁ。本当に覚えてないんだねー」
「……あやつは少しも覚えておらぬよ。暫く共に過ごしているが、思い起こす気配もない」
「でも、そんなことないのかも」
「……何?」
「だって、兄様は興味ない人には怒りもしないから」
踵が折れているのを忘れて、怒鳴りつけたりしないからさと言ってのけた天祥に、太公望は、はぁと息を吐いた。
「それでも、それは今の天化であって、過去の天化の記憶ではないのだ、天祥」
「いいじゃん。過去の兄様じゃなくったって、今の兄様だってかっこいいよ」
「……そうだな」
過去の黄天化を縛って良い権利が太公望にあったとして、それが今の彼に対してもあるとは思わない。だから、縋っているのかもしれない。天化が太公望を思い出すという可能性に。
そうしなければ、自分が再びあの子を傷付けることはないのだと、そう縋っていたかったのかもしれない。
(……どうしよう、か)
それでも。
(もう、傷付けてしまった)
たかが骨折、されど骨折。命に別条がなくてよかった。そう思うと胸が痛む。
太公望は、そっと服を握った。
(わしは、もう失いたくなどないのだ)
いくらなんでも人を信じ過ぎではないかと、粥をかきまぜながら思う。
そして、粥にも飽きてきたとも思う。
「……天化の家事能力の高さが羨ましい……」
だからと言って、自分がどうこうしたいわけではない。できれば、人様にやってもらいたい。根本的に怠惰なのだ。沁みついた怠惰さは、どうしたって抜けるものではない。
おたまを強く握って、太公望は流れる涙を拭った。
「武吉はおらぬかのう……」
近くにいれば感じるだろう。しかし、太公望のサーチに引っ掛かる気配はない。この際、自分の言う事を聞いてくれれば誰でも良い。
しかし、無慈悲にも腹は鳴る。
「……仕方ない、今日も粥だけだ……」
真っ当な人間なら、そろそろ栄養失調で倒れるのではないか。そんなことを考えながら、茶碗に粥を盛る。
すると、玄関がぴんぽろりんと鳴った。どうでもいいが、この部屋のインターホンは変な音がしないか? そんな呟きはともかく、太公望はドアを開けた。
「なんだ、普賢か」
「呼ばれたかなと思って」
「……まぁ」
太公望は片手に握ったおたまを見て、ニヤリと笑った。
「呼んだと言えば呼んだか」
普賢はその手にあるタッパーとビニール袋を持ち上げて見せると、きらきらと笑って応えた。
「佃煮と桃缶あるけど、食べる?」
太公望は部屋に飛び戻り、諸手を叩いて喜んだ。
「助かったぞ、普賢! そろそろ飽きで死ぬかと思った」
「やればできるのに、望ちゃんがやらないからでしょう……」
流しに出しっぱなしになっている洗い物を片付けながら、普賢が言う。太公望はと言えば、ベッドに転がりテレビを眺めていた。
「人の家に上がり込んでるくせに、更に他人に家事やらせるんだもんなぁ」
「わははは、呼ばれて飛び出たおぬしが悪い!」
「もう、望ちゃんったら……」
一通りの洗い物を終えた普賢が、湯呑みを二つ持ってきて、そっとテーブルに置いた。
何も言われずとも片方の湯呑みに手を伸ばした太公望が、ずずっと茶を啜った。
「今更だけど、天化くんの家に僕が上がり込んで良かったのかな?」
「相手がおぬしならば、文句はあるまい」
「そうかなぁ……」
きょろきょろと部屋の中を見回していた普賢が、湯呑みを手に乗せて呟いた。
「この部屋、ベッド一つしかないんだね。二人で寝てるの?」
「ぶっ」
「望ちゃん、汚い……」
静かに茶を口に運んだ普賢が、ちらりと太公望を見やる。
「普段は、布団を敷いて寝ておるわ!」
「そっかー、僕はてっきり」
「みなまで言うな」
「えへへ……」
不穏な空気を蹴散らすべく、二人揃ってずずずと茶を啜る。
次に話題を切り出したのは、やはり普賢であった。
「寂しい?」
「まだ一週間と少しだぞ。何が寂しいものか」
「寂しさっていうのはさ、期間や日数によって起こるものじゃないんだよ」
湯呑みの中、揺れる茶の水面を見下ろしながら、呟くように言う普賢に、太公望は、ついと天井を見上げて視線を逸らした。
「僕は、望ちゃんと離れたそばから寂しくなる」
普賢は、口を尖らせた太公望に、にこりと微笑みかける。
「要は、対象のその人が別れる寸前まで、どれだけ自分の心を占めてるか、なんだ」
「遠回しに、おぬしとんでもないことを言っていないか?」
「とんでもないことだとは思ってないよ? だっていつも言ってるじゃない。僕は、望ちゃんが大好きなんだって」
「……恥ずかしげもなく言ってくれるわ」
呆れているのか、照れているのか、自分でもわからない。素っ気ない態度の太公望に、普賢は変わらず笑っている。
「恥ずかしくなんてないよ。純粋な気持ちだもの」
「ほーう?」
普賢が、ことんと湯呑みをテーブルに置いた。
「だから、望ちゃんが天化くんのベッドに転がってても、むやみやたらに嫉妬もしないし、組敷いたりもしないわけ」
「笑顔で言うな。怖いわ!」
「ふふっ」
可愛らしく笑う普賢に、少しぎょっとしたなどと口には出さず、太公望は身体を起こす。
「君ならわかるでしょう。期間や日数が寂しさを起こすなんてのは、悠久であればあるほど戯言に過ぎないんだってことを」
「……そうだのう。或る寂しさなどは、当に忘れてしまったわ」
「それでも、君は寂しがり屋だから」
何をと普賢を睨めば、首を横に振られた。
ああ、言わんとしていることはわかる。けれど、それを肯定するには、太公望は未だ子供心を忘れていないと言えた。
「寂しがり屋だから、僕を呼んだんでしょう?」
「おぬしが、勝手に佃煮持ってやって来ただけであろう」
つんとした返事を返す。
そうしても、普賢は腹を立てない。それをよく知っているからだ。
こいつには敵わないなと、つい頬をほころばせた。
「素直じゃないんだから」
普賢も釣られて笑う。
普賢だから許せる。普賢だから許される。そういうものが、確かにある。
「天化も、忘れないでいてくれれば良いのに」
「やっぱり寂しがり」
「そうではない。いっそ全て忘れたままでいて欲しい気持ちも確かにあるのだ。もう思い出さず、夜に現れる天化も消えてしまえばいいのにと、そう思うよ、わしは」
「……そうすれば、悠久の時が望ちゃんの寂しさを消してくれるから?」
「……そうかもしれない。皆がそうなれば、わしもようやく太公望から解放されるのかもしれない」
「させないよ」
普賢には珍しい強い口調。そして、強い瞳。
「……僕が覚えている限り、君に君自身を捨てさせない」
強い決意の言葉。
本当に、こやつが忘れることはないのかもしれない。少なくとも、数で数えられる年月の間は。
「そうだな」
冷めてしまった茶を手に取る。その中を覗けば、映っているのは少年の姿。太公望の姿であるのに、その内に宿る血潮は、既に違う存在であることを、誰よりも知っている。
「……実を言うと、おぬしが何の迷いもなく望と呼ぶ事に安心しているのだ」
「だって、望ちゃんは望ちゃんじゃない」
「その確信と断定が、今のわしには重くて……優しい」
自分の存在の意義を考えないとは言わない。しかし、考えたところで答えは出ない。最早、観測者でしかない。
その姿形に意義を宿すとすれば、是を知る者しかない。
「それが、未だ絶えないことに、感謝しなければならないのだろうな」
狭い部屋の中、壁一面一面をゆっくりと眺める太公望に、普賢は言った。
「寂しくなったらまた呼んで。僕でも、誤魔化してあげることくらいはできるから」
「バカ者。謙遜すんな」
「……うん」
空になった冷めた湯呑みを持ち上げ、普賢は「お茶淹れるね」と笑う。
彼がどれだけ救いになるか、彼は認めない。それは、太公望の存在が普賢にとってどれだけ大きいか、わかっているのに認めない太公望と同じようにも取れた。だから、これ以上言及はしない。
「普賢」
「うん?」
「今度は、白桃が良い」
そんな太公望の言葉に、普賢はぷはっと吹き出し、それから彼特有の可愛らしい顔で笑って頷いた。
布団を広げるのが面倒だと、天化がいない晩からずっとベッドに転がって睡眠を取っている。
煙草の灰が残ったままの枕もとの灰皿を見ながら、むっと口を尖らせた。
難点と言えば、煙草臭いことだろう。
寂しがっているのだろうか。寂しがっているから、この匂いを感じる度、天化の姿や仕草を思うのだろうか。
「……今まで、懐かしむことはあっても、こんな気持ちになることはなかったかもしれぬ」
別れたそばから寂しくなるけど、と言っていた普賢を思い出す。今、普賢は彼の言うところの寂しい気持ちで、自身の帰路についているのだろうか。
「見送っていってやれば良かったな」
仰向けになって、薄ぼんやりとした部屋を見上げる。
灯りを点けるまでもない。このまま眠ってしまう気でいたのだから。
枕元に投げ出したこの部屋の鍵が、ちりりと鳴った。
「ちゃんと話そう……」
飛虎に頼み込まれた時から決めていた。
黙って逃げ出ていくのはやめよう。それでも、もう出て行かねばならないだろうと。
約束は守る。天化が戻るまではいる。しかし、彼が戻ったら伝えねばならない。もうここにはいられないと。
(天化は、寂しくなるだろうか)
寂しくさせたら、儲けもんだ。
太公望に対する気の何もないはずの天化を、寂しくさせるのだ。相手が黄天化でなくとも、短期間でそれだけの存在になれたと思えば後悔などない。
「悪くなかったぞ、おぬしのプロポーズ」
今はいない、この寝台の上で現れる黄天化に呟く。
けれど、それでも太公望はさよならを望むのだ。
そのまま、どれくらい眠っていただろう。カーテンから差している光に薄目を開ける。
(……しまった、開けたまま寝て……いたか?)
いや、夜は確かにカーテンを閉めたはず、と両目を開ける。
「……む?」
やはり開いている。やけに明るいと思った。
身体を起こす。くあっと伸びをして、それから、ぽかぽかとした部屋の中に瞬きを何度か。
「……今日は、天気が良いのう……」
「シーツ洗って干すから、とっとと起きるさ」
「んー……」
声のするベランダを見る。カーテンのはためくその向こう、日差しの中で煙草を吸っている姿に、太公望は、はぁっと息を飲んだ。
「……天化?」
「はいよ」
目覚めの余韻か、はたまた日差しのせいか、まるで幻みたいに見える天化の姿に、ぽかんと口を開けていると、天化がかりかりと頭を掻いた。
「朝一の診察でギブス取ったから、帰ってきた」
「まだ二週……? いや、一週間だぞ……」
「だから、取ったんだって」
常人なら一ヶ月はギブスを外せないというのに、半分どころかおよそ四分の一で、それを片付けてきたと言う。アホか。そう口を突いて出そうになった。
「でも、まだ医者には通わないとなんだよな……痛いには痛いし」
日差しの似合う男だと思う。眩しい。ぽっかりと空いた思考の隙間でそんなことを考えていると、うっかり涙でも滲みそうなものだったから、こしこしと目を擦って誤魔化した。
「治ったんなら仕事行け、ボケ」
「完治じゃないさ。それに、安静にしている間、事務所でずーっと書類整理させられてたんだぞ……今日くらい休みにしてもらったさ……」
「休み」
「うん」
すぱーと煙を吐き出して頷いた天化が、部屋に戻ってくる。ベッドの枕元に腕を突き、そこにある灰皿に煙草を捻じ込んだ。
「休みさ」
そのままどかっと太公望の隣に腰掛けると、未だぽけっとしている太公望の顔を覗き込んだ。
「いい子にしてたさ?」
そう笑われて、はたと我に返る。太公望はぶんぶんと首を横に振り、「愚問だな」と返す。
「まぁ、言い付けを守って、ちゃんと家にいたみたいだし」
「約束は約束だからのう」
じぃっと見つめてくる天化に、太公望はつい、身体を逸した。
他に、何かあっただろうか。何も叱られるようなことはしていないし、逆に叱らなければならないこともされていない。
「で、なんでここで寝てんの?」
ぎくりと飛び上がった。
忘れていた。
「ふ、布団を敷くのが、面倒だったから……」
「ずっと?」
「ず……ずっと」
太公望がいたたまれなくなりベッドから飛び退くと、天化はマットレスからシーツを剥いだ。
片手に握ったそれを顔に近付け、スンと鼻を鳴らす。
「……へー」
それ以上何も言われることはなかったが、引き上げたシーツを持ち上げたその表情があまりにも悪戯染みていて、太公望は途端に気恥ずかしくなる。
「なっ、何が言いたい!」
「別に」
「別にという顔ではなかったぞ!」
洗濯機までシーツを引き摺っていく、その天化の背中を追う。
ぼすんと投げ込まれたシーツを見下ろして、天化の背中が言った。
「ちょっと勿体ない」
「はぁ?」
洗濯機をぴっぴと操作して突然振り返った天化が、太公望を抱き締めた。鼻孔をくすぐる煙草の匂いに、くらんと眩暈がして、思考が止まる。
天化の向こうでは、洗濯機からじゃーっと水の音がしていた。
「へ」
ぐしゃりと抱き込まれ、行き場をなくした手が迷子のまま、おずおずと天化の身体を辿る。逞しい背中を捕まえ、不安なままそっと力を込めた。
「てん、か……?」
「ただいま」
「お、おかえり……」
動揺のままに決まり文句を返すと、髪をわしゃわしゃと撫で付けられた。なんのつもりかと思っていたが、動物にするような仕草のあまり、思わず笑ってしまう。
そうして、太公望の心も平常へと戻っていった。
「……天化、話がある」
回転の音を伴い動き始めた洗濯機を背に、天化がそうっと手を緩めた。
その隙に、太公望はとんと天化の胸を押す。
「おぬしが戻ったら、ちゃんと話をしようと思っておったのだ」
「……それ、今しないとならない話さ?」
「うむ」
深く頷いた太公望に、天化はむっと口を尖らせる。
「洗濯終わるまで待って」
ぷいと身体を逸らす天化を追い掛け、太公望は首を振る。
「すぐに終わるから」
「尚更聞く気しねーな……」
「わしは出て行こうと思う」
「だからそれは……!」
 予想はしていたのだろう。わずかに言葉尻を強めた天化に、太公望は落ち着いた口調のまま、諭すように言う。
「約束の分は待っておった。それ以上に引きとめようと言うなら、おぬしの理由も聞かねばならん」
そう言えば、天化ははたっと口を止めた。そして、苦虫を噛み潰したような顔をして押し黙った。
「……おぬしには、理由がないだろうよ。わしには、そうしなければならない理由がある」
「……あんたの理由?」
「おぬしの睡眠不足の原因は、恐らくわしだ」
きゅっと天化の瞳が縮まった。
睡眠不足だったことは本人も認めざるを得ないだろう。そのせいで足を踏み外したのだから。
「わしには、おぬしとそっくりの知り合いがいた。夢物語のようだが、そやつは夜な夜なおぬしの身体を借りて、わしとやり取りをしていたのだよ、天化」
「……それで?」
「足を踏み外したのは、睡眠不足のせいであろう?」
「だから」
「わしといると、おぬしはまたそんな目に遭う」
眉根をしかめた天化が、太公望を睨んだ。そんなの信じられるわけないとでも言いたげな表情だった。
「わしは、そやつも、今のおぬしも、どちらも諦められないのだ。だから、わしはここにいない方が良い。そう思った」
 それが、太公望のここにいられない理由。ここまで言えば、天化も諦めてくれるものと思っていた。だから、何の躊躇もなく全てを話した。
 しかし、太公望の目の前の天化は、事もなげに答えた。
「それなら、問題ねーさ」
「問題があるから、出て行きたいと言っておるのだぞ」
「だって、俺っちが問題にしてねーから」
「おぬしが何と言おうと、わしは」
ぽすんと、天化に頭を叩かれた。
突然のことに、太公望は目をぱちくりとさせ、それから天化を睨み付ける。
「あんまり頑固だと引っ叩くぞ、じーさん」
「もう引っ叩いてるではない、か……?」
太公望の頭に手を添えて、そのまま淡々と天化は続ける。
「あーた、今俺にも理由を言えって言ったよな。言ったら、残ってくれんの?」
「ちょ、っと待て。そんな約束はしとらん」
「約束はしてない。でも、必要なんだったらもう一回言うけど、二度も言わせる覚悟、そっちはできてんだろうな?」
頭を押さえ付けられ、ついきつく目を閉じる。
「天……っ」
即座に噛み付かれた唇が、じくりと痛んだ。鋭い犬歯に歯を立てられたと気付くには、目を閉じていても十分だった。ごつごつとした指先に引っ張られ、後ろ髪が痛む。
「んん……っ、つ……」
危害を加えた口許が離れていく。
何が起きたのか、鈍ってしまった頭の回転を再開させようとした時だった。
ぎろりと至近距離で睨まれ、太公望ははっと息を飲んだ。
「隣で、生きて欲しいんさ」
だから、二度目の懇願を許してしまった。
身体から力が抜ける。不安定なまま支えられ、抱き締められ、訳がわからないまま縋り付く。
「お、ぬし……今は、昼間だぞ……」
「昼間さ」
「なっ、い、いつから……」
「実家にいたら、突然。突然、糸が繋がったみたいに、全員の顔を思い出して……思い出して、っておかしいか……知ってるけど、何の繋がりかわかったんだ。なぁ、これって、駄目なことだった? 嫌なことだったさ? あーたは……」
床に足が付いているのに、浮遊感が抜けない。まるで、自分がここにいないみたいだ。
天化は、天化はどんな顔をしているだろうか。
「あんたは、俺に思い出して欲しくなかった……?」
太公望は、だんっと天化の足を踏んだ。
「いったぁー!」
「そんなわけあるか、このたわけが!」
踵を骨折していたのをすっかり忘れた応酬に、天化がぎくしゃくと動きを止める。そんな天化の首根っこを抱き、太公望は、はぁと息を吐いた。
「……わしの理由が無効になってしまったではないか……また、新たな理由を探さねば」
「……そんなの、いらねーさ」
 痛みからだろうか、目に涙が溜まっている。そんな天化の顔を見ながら、しょうのないことだと唇を噛む。噛み付かれたそこが痛い。痛み分けだ。天化の方が、ダメージは大きいかもしれないが。
「おぬしにはいらんくても、わしにはいるのだ」
不機嫌な太公望の顔を覗き込んで、問い掛けてくる天化。
「俺っちから離れる理由……?」
太公望は、更に口を尖らせ、癪に障る言葉を仕方なく吐き出す。仕方なく、そう、仕方なく。
「……おぬしから離れない理由が、だ」
それを聞くなり、天化は痛みに悶えていた表情などなんのその、にかりと笑みを零した。
「んーなの、尚更いらねーさ!」
ぎゅうっと抱き締められると、本当にどうでもよくなってくる。そんな気持ちに、一応は釘を刺しておきたい。
「やめろ、眩しい……」
「ははは、わけわかんねー」
「わけわからんのは、おぬしの方であろうが……」
 二度目の懇願まで聞いてしまった。聞かされてしまった。そういうものは、一度で十分なくらいだと言うのに。
「しつこく何度も何度も……」
「だって、そうじゃないと伝わんねぇから、さ」
だから、これからも何度だって言ってやる。そんな苦行の予告に、太公望はむぅと頬を膨らませた。膨らませただけで、嫌みのひとつもその口から出てきてはくれなかった。
「スース、ただいま」
「……おかえり、天化」
やはり、こやつに名を呼ばれ慣れることなどなかったのだ。
しんと落ちてきたその呼び名が、すっと太公望の心に溶け込んだ。